子供の里のお茶の話(続)菅波の家での練習を百音が気が済むまでやったところで、少し日が陰り始めている。そろそろ向かいますか、と言って、二人が荷物をまとめて向かったのはサヤカ邸である。着物の準備やらあるし、よければ二人で前日泊まりに来ないか、と誘われていて。こんな機会でもないと二人でサヤカ邸の世話になることもない、ということでそれを受けた次第。
借りた茶道具一式を、礼を言って返そうとすると、それはあげるから、二人でたまにお茶を楽しみなさい、とサヤカが鷹揚に言う。百音がニコニコと、そしたら先生にお点前教えてもらいますなどと言うので、菅波はそのかわいさにサヤカの前ながらすっかり頬を緩めて、うん、と頷いている。
夕食には寿司の出前に、サヤカと百音が作った茶碗蒸しで、気の置けない食卓が心地よい。並んで座る百音と菅波の仲睦まじい様子に、サヤカは手酌で登米の地酒を飲みながら、ホントあんたたちもすっかりしっくりと馴染んだわねぇ、と目を細める。その節は色々と…と菅波が箸をおいて頭を下げると、百音はその節?と疑問顔で、その様子がサヤカと菅波にはおもしろい。
「ねぇ、先生。『大切にしたいと思っています』って本人より私に先に言っちゃうから」
サヤカがからかうように言い、菅波が、もう、それは…と体躯を縮め、百音の頬が染まる。
風呂上がりにスウェット姿の菅波を見て、百音が何だか懐かしい気がします!と言う。
「サヤカさんちで先生がお風呂上がりなのって、前の接待のお茶会の時以来ですよね」
「そうですね」
「あの時は千代子さんもお泊りで、なんだか楽しかったです」
「僕はあの時は落ち着かなかったけど…」
苦笑する菅波に、サヤカが笑う。
「あん時は、ウチの中でモネと二人きりは先生絶対避けるだろうから、って千代子さんにずっといてもらってたからね。朝の時間のこともあったけど」
「やっぱりそうでしたか」
「そりゃそうよぉ。あそこで先生に帰られてなるものか、ってこっちも必死よ」
「お引き受けした以上はやりますけどね」
「そこは疑ってませんけども」
サヤカと菅波の言葉に、百音はコテンと首を傾げたままだが、あなたはそのままでいいです、と菅波は笑って百音の頭をなでるのだった。
客間に布団を二組並べて敷いて。それにも一瞬菅波がひるむが、島に言うでなし、話したい事もあるだろから、二人で寝な、とサヤカに言われればそれを固辞する理由もなく。明日は6時起きね、と言いおいてサヤカは自室に引っ込み、二人もスマホのアラームをセットして、早々に行儀よく就寝したのだった。
そう、行儀よく就寝したはずなのである。が、アラームが鳴る5分前に菅波が目を覚ますと、自分の布団の中に百音がもぐりこんでいて、胸元に額をあずけて静かな寝息をたてている。とても気持ちよさそうな寝顔だが、ぎょっとして身をよじり、つい互いの着衣を確認してしまう。記憶にない不埒なことはなかった、と改めて確認して、ほっと息をつき、苦笑いでとんとんと百音の肩を叩く。
「ももねさーん、起きてください」
「んー」
もぞもぞと百音は両手を伸ばして菅波の首元に抱き着いてくる。思わず菅波の口許も緩むが、サヤカ邸での客間ではことがややこしい。もう一度とんとんと肩を叩いて、サヤカさんちですよ、起きて、とささやくと、百音ががばっと跳ね起きた。
「おはよう」
なんだかまだ訳がわからずに周囲を寝ぼけて見渡した百音が、自分を見上げる菅波を見て、おはようございます、とぺこりとしてから、ふと自分がいる場所に気づいた。
「あれ、おふとん…」
「潜り込んできたみたいですよ」
菅波が隣の百音の布団を指さすと、百音の頬が真っ赤である。自分の頬に両手をあてる百音に、菅波は口許を緩めて自分も上体を起こすのだった。
そのタイミングでアラームが鳴り、百音が手を伸ばしてそれを止める。その体勢から菅波を見上げた百音は、くすりと笑って、自分の荷物からヘアブラシを取り出した。
「寝癖なおしましょ」
楽しそうに自分の後ろに回る百音に、菅波はされるがままである。あぐらのまま気持ちよくグルーミングされ、百音の納得いくまで自分の髪を委ねる。
「はい、これで大丈夫」
ふわりと頭を両手で撫でられて、菅波は振り返ってありがとうございます、と笑う。別に後で支度の時に直したのに、と菅波が言うと、ヘアブラシを荷物に仕舞おうとした百音がきゅっとそれを握って何かをつぶやく。
「ん?」
聞き取れなかった菅波が聞くと、百音が意を決したように言う。
「先生のかわいい寝癖を見れるのは私だけなので」
思わぬ独占欲をこぼした百音は、自分に割り当たっていた掛け布団をばさりとたたみにかかるが、耳は真っ赤である。菅波はふと漏らされた百音の気持ちに、右手で顔を覆って頬のゆるみを隠すのだった。
二人でリビングに行くと、サヤカはもう起きていて、千代子も到着していた。挨拶を交わして、簡単に朝食を済ませたら、早速に身支度が始まる。すでに桑色の色無地を纏った千代子は、客間に鏡台を据え付け、百音の髪を取り上げ始める。今回は訪問着を着るサヤカは、千代子の手を必要とせず、自分の着付けを終えたら、菅波の着付けを進める段取りである。一転、客間にも入れてもらえず手持無沙汰な菅波は、ダイニングテーブルでサヤカから借りた茶道教則本を眺めて過ごす。しばらくして、象牙色に宝尽くしの訪問着のサヤカが自室から現れ、菅波に声をかけた。
リビングの隅で菅波はサヤカにされるがまま、前と同じ藍色の白鷹御召と仙台平の袴を着つけられる。やっぱり先生は背が高いから色が映えるわ、と仕上がった十文字結びをポンとたたいたサヤカは出来上がりに満足気で、菅波は首元をかいてノーコメントである。サヤカが訪問着を着て、菅波に着つけても、まだ百音の着付けは終わらず、菅波とサヤカはダイニングテーブルで細かい今日の打ち合わせをする。茶会の場所は八畳間で、客は年長の園児たちが中心で児童と園長や教諭・関係者合わせて合計47人が、二席に分かれる。点前は二席とも菅波で、運びはサヤカと百音、茶の心得がある幼稚園教諭2名、水屋は文子と千代子がみて数名の保護者が手伝いに来るという。
あれこれと話をしていると、カラリと客間の襖が開いた。その音に振り返った菅波は、がたっと椅子から音をたてて立ち上がった。梔子色の色無地の振袖は成人の日に同じだが、帯は紺地に色とりどりの七宝と花。浅葱色の帯揚げで華やかな花結びに、上品に編み込みを混ぜたシンプルなまとめ髪で、22歳の百音のよさが際立つ。薄化粧の百音がはにかむ様に、菅波は呼吸を忘れている。
百音が「せんせい?」と駆け寄ると、我に返った菅波が息を吸う。ふっと吸った息を吐いた菅波が、ある意味呆然と晴れ着の百音をみる。まっすぐに見つめられて、百音の頬も染まる。お互い無言の若者二人を、サヤカと千代子は黙って見守る。
「あ、あの。とても素敵です」
言葉をひねり出した菅波に、百音が恥じらう。
「先生のお着物も素敵です」
百音のその言葉に、菅波の耳も赤い。
二人のもじもじは、はいはい!とサヤカが手を打って遮るまで続いた。
サヤカが百音の支度を見て、きれいにしてもらったねぇ、と笑う。
千代子も嬉しそうに頷いて、やっぱり娘さんぶりがあがってるから支度してて楽しかったわ、と華やいだ声をあげる。花結びをちょいちょいと整えながら、千代子が思い出し笑いをする様に、百音がどうしたんですか?という顔で振り返る。
「前にモネちゃんがこれを着た時の写真、菅波先生に見せたら何て言ったと思う?」
千代子のその発言に、菅波がおたおたとするが、百音は興味津々の顔である。
「『黄色いですね』って言ったのよ!」
ケラケラという千代子に、菅波は両手で顔を覆って耳が赤い。
「あん時はみんなで、こりゃだめだ、って言いあったもんだ」
とサヤカも笑い、それに百音が疑問顔である。
「まぁ、でも、黄色い、ですよ、このお着物。あ、梔子色、ですっけ」
百音の言葉に、サヤカと千代子が違うちがう、と顔の前で手を振る。
「誰であれ、晴れ着の写真見たら、『きれいですね』ぐらい言うもんよ」
「ましてやねぇ、モネちゃんの晴れ着姿みて『黄色いですね』はないわよ」
その言葉に、百音の頬も染まる。でも、あの頃のせんせいは先生だったから…と、いう言葉に、サヤカと千代子は顔を見合わせて、二人の相性に小さく笑いを漏らすのだった。
まだ菅波がダメージを受けているところに、インターフォンが鳴る。サヤカが玄関に出ると、千代子の孫娘が顔を出した。現在は、登米や一関を中心にプロのポートフォリオフォトグラファーとして活動していて、百音が振袖を着ると千代子から聞いて、ぜひ、と駆け付けたのである。
リビングに入った孫娘は百音の姿を見て、素敵!と声をあげる。百音と久しぶりの再会を手を取り合って喜び合う様を菅波が離れて見守っていると、孫娘がくるりと菅波に顔を向けた。
「先生、モネちゃん、きれいですよね?」
「へ?」
「この期に及んで『黄色いですね』はないですよね?」
「う…。は、はい…。あの、きれいです。…とても」
菅波の言葉に、百音は唇をむぐむぐと寄せ、耳まで赤い。
言わせておいて、ねー、とその言葉を受け流して、さっ、写真撮りましょ!と孫娘は百音を誘う。
サヤカ邸のリビングや庭が撮影場所となり、百音が言われた通りにポーズをとる。今回は菅波もあれこれと指示を受けて百音と一緒に立ったり座ったり。柔らかい朝の光の中、百音と菅波はそれぞれを眩しく見つめあい、その様子をサヤカと千代子がやさしく見守るのだった。
写真撮影を終えた千代子の孫娘に見送られて、会場の幼稚園に向かう。着物で平然と車を運転するサヤカに、百音は憧憬のまなざしである。慣れりゃ大したことないよ、というサヤカに菅波も感心顔。幼稚園に着くと、文子はすでに到着していた。新築の木の香りも気持ちよい園舎に足を進めると、和室の隣には本格的な水屋と集会室があり、大寄せの準備が整えられている。水屋手伝いの保護者数名も交えて全員でよろしくお願いしますと挨拶し、準備が始まった。