春はまだすこし先菅波が、今日は節分か、と気づいたのは少し遅い昼食に椎の実に足を踏み入れた時だった。数名の客が、同じ方向に向かってもくもくと巻き寿司を食べている。談笑を楽しんでいる高齢の常連客の卓上にはきれいに切られた巻き寿司が。客の希望によって恵方巻を出し分けしているようだ。関西の行事と聞くが、東北にまでその波が及ぶとは、と年中行事の商業化に心中でため息を漏らした。
姿を現した菅波に気づいた百音と里乃が、先生こんにちは、と声をかける。百音が手にしたトレイには恵方巻が丸ごと一本のっていて、これから食べるところのようだった。
「先生、今日のランチは恵方巻ですよ!」
楽しそうな百音に、はぁ、という覇気のない返事をしていると、里乃が声をかけてくる。
「先生はどうやって召し上がります?まるかぶりが難しい方や希望される方には切ってお出ししてるので、お好みで」
東京育ちで実家にその風習がなく、全国区の商業化の後もこの手の季節行事に無頓着な菅波は、「あ、じゃあ適当に切ってもらえますか」と即答し、それに間髪を入れず百音が「えーっ!」と声をあげた。
「先生、しないんですか、まるかぶり」
「切った方が食べやすいでしょう」
「縁起物ですよ」
「縁起はかつがないほうなので」
百音の言葉に菅波はにべもなく、その様子を里乃がまたいつものだ、と小さく笑う。
さて、風向きどうなるかな、と里乃が見ていると、あぁ!と百音が何やら納得した顔をしてみせる。
「まるかぶりできないんですね、先生」
「はい?」
「海苔とかカンピョウが噛みきれないとか」
「そんなわけないじゃないですか」
「じゃあ、まるかぶりできますよね?」
全く悪気も他意もなく自分を見上げてくる百音を、菅波はじっと見下ろす。しばらく顔を合わせていたかと思うと、菅波はひとつ息をついて里乃に向き直った。
「そのままでいただきます」
笑いが顔から漏れないよう細心の注意を払いながら、里乃が「はい」と返事をして、日替わりランチの支度を整える。恵方巻に青菜の汁物、ミニデザートに角を模した三角のチョコが刺さった抹茶のプリン。それらが乗ったトレイを受け取った菅波が掃き出し窓の近くの、定位置と言っていい席に座ると、百音がその斜め向かいに座った。
「いいですか?」
「聞く前に座ってますね。どうぞ」
おしぼりで手を拭きながら菅波はチベスナ顔。
「えへへ」
と百音の意に介さぬ様子が窓辺のコントラストである。
いただきます、と手を合わせて、まずは汁物を一口。立春直前とはいえまだまだ肌寒い登米で、温かい汁物はホッとする。菅波はしばし手中の椀の温もりを慈しんだ後、ではこれを平らげねばならぬ、と恵方巻きを取り上げて食べようとすると、同じく恵方巻きを手にした百音に静止された。
「先生、恵方向かなきゃ!」
「えぇえ。なんか行儀悪くないですか、それ」
「向いてなきゃ縁起悪いですよ」
「だから縁起は担がないんですって」
言い張る菅波に、百音が中庭越しの準備室の戸を指差す。
「今年はあのドアの方向が恵方だそうですよ」
なぜ職場のドアを見ながら寿司をまるかじりせねばならぬのだ、と思いながらも、こうなったら百音を説得するのは難しいということも勉強会を通して学習済みの菅波は、諦めて椅子を引いて掃き出し窓に向かって座りなおす。百音も楽しそうに自分の寿司を持って同じ方向に向いた。
「で、あと何かやるべきことはあるんですか」
あれこれ指摘を受けても面倒だ、と菅波が百音に問うと、百音はこっくりとうなずいた。
あるんかい、と心の中の関西人にツッコミをまかせつつ、菅波は百音の解説を待つ。
「食べきるまでしゃべっちゃダメなんですって。せっかく食べた福が逃げるから」
「そんな福の詰まったものをまるかじりしていいですかね」
「詰まってるから切らないで食べるんじゃないですか」
「あぁ、なるほど…」
恵方巻を手にもったまま、噛み合わないようで噛み合った会話を続ける二人の背中を、里乃は口許を隠したおぼん越しにひそやかに見守る。
「じゃあもう食べていいですか」
と菅波が食べ始め、百音もはーい、と手元の寿司にかぶりつく。
塩梅がちょうどいい酢飯に、少し濃いめに炊かれたかんぴょうや穴子、シイタケと甘めの卵に、キュウリの水気のバランスもよく、患者が立て込んだ後の体に浸みる。しかし食いにくいな、と思いながらも、菅波が用心しいしいかじりながら食べすすめ、ちらりと隣を見ると、百音は元気よくかぶりついていて、にこにこと楽しそうである。何なら自分の倍ぐらいのスピードで食べている百音の食べっぷりがむしろすがすがしい。
すごいな、と感心しながら菅波も食べすすめつつ、持つ時の力加減を誤ったか、じわりと手元の海苔が緩み始める。まずい、と思いながら食べるスピードを上げると、食べ終えた百音が見つめている気配がする。後5センチほど、というところで、海苔が崩れたので、左手に残りをのせて、指でつまんで口に入れる。最後のひと口をつめこんで、もぐもぐとテーブルに向き直れば、楽しそうな百音と目が合った。
「ギリギリでしたね」
そう言われても、口中に寿司が残っていて反論もできない。手をおしぼりで拭きながら菅波は不満顔である。汁椀を取り上げて、すまし汁で口中の物を飲み下して口を開こうとしたところで、あ、と百音が菅波の顔に手を伸ばした。
「先生、お米粒ついてます、こご」
口許についた米粒を取ろうとする百音の手を制して、自分で米粒をつまんで口に放りこんだ菅波は、飯食べた気がしないです、とこぼし、百音が、先生、やっぱりまるかぶり下手だったじゃないですか、と笑う。いや、これは単なる不可抗力ですよ、と言い募る菅波に、そういうことにしてあげます、と笑う百音。デザートはゆっくり食べてください、と勧められて、菅波はそうします、と器を手に取る。
全く、あれで何ともないんだから、と里乃はサヤカといつもの目くばせを交わすのだった。