誕生日の祝い方汐見湯を出て、菅波と手をつないでほてほてと最寄りのバス停を目指していた百音が、ぽつりとつぶやく。
「追い出されちゃいましたね」
ぽつりと事実を述べるその口調がかわいらしく、そうですね、と菅波が口元を緩めて相槌を打つ。確かに、普段、一か月に一回会えるかどうか、という二人である。百音の誕生日という特別な日に、約束していたデートにいそいそと出かけるでなくシェアハウスのリビングに座り込んで仕事の話に熱中していた、というのは改めて客観視すれば明日美の言い分が正しいようでもあり。とはいえ、二人にとっては、仕事の相談も、二人をふたりたらしめる要素であり、それはそれでもう、デート、なのだけれども。
ほどほどにしないといけませんね、と笑いあいながら、バスと山手線を乗り継いで、二人がたどり着いたのは品川駅だった。駅を出てすぐの複合施設が目的地である。施設の一角にある、今日泊まるホテルのチェックイン手続きだけ済ませ、キャリーケースとボストンバッグをベルクラークに預けた二人は、そのまま隣接する水族館へ向かった。
都市型の水族館で、建物の中へなかへと入っていく雰囲気に、百音が魚のマンションみたいですね、と感想を漏らし、その発想はなかったです、と菅波がナルホドという顔をする。ビルの中ならではのプロジェクションマッピングなどの趣向も楽しみながら、クラゲ水槽や熱帯魚水槽のエリアを抜けると、イルカのショーが行われる大きな円形プールに出た。チェックイン後にすぐここに来たのも、イルカショーの時間を狙ったもので、予定通りにイルカのパフォーマンスが見れることに菅波は安堵し、百音の目は輝いている。
この後の予定もあるし、服が濡れては、と上の方の席に並んで座ると、百音がくすくすと笑う。どうしました?と首をかしげる菅波に、百音は、前の方だったら、絶対先生は濡れるんだろうなぁ、って思って、と、無邪気に言う。その場合、僕の隣に座っているであろう永浦さんも一緒に濡れるはずなのですが、なぜ僕だけが濡れる想定なんですが、と菅波がチベスナ顔になり、さらに百音がそれに笑うので、もう、まったく、と菅波はつないだままの右手を膝の上でぽんぽんとするのだった。
イルカとトレーナーの息の合ったパフォーマンスを見た後は、先ほどよりも大きな水槽が並ぶエリアへ。サメがたくさん展示されていて、ある水槽ではツマグロとメジロザメが水槽の端から端へ泳いでいるかと思えば、別の水槽では数匹のトラフザメがエポレットシャークと共に水槽の底のかどっこで折り重なるようにしてまったりと丸い吻を並べている。クラゲ水槽よりもゆっくり過ごしながら、やっと水槽のトンネルに出れば、世界でここでしか飼育されていないというドワーフソーフィッシュや、ナンヨウマンタ、グリーンソーフィッシュにシノノメサカタザメなど、各種エイが視界いっぱいに広がる。
サメの仲間、ですもんね、と百音が以前菅波から聞いたことを言って見せると、菅波は、そうです、板鰓類と言います、と更なる補足を忘れず。それにしても、やっぱり鼻の孔が目に見えますよねぇ、とトンネルの上のナンヨウマンタを百音が見上げ、分かってても目と口で顔だと思ってしまいますね、と菅波も同意する。
なんでしたっけ、パレイドリア効果?と百音が首をひねり、いや、それは意味のないものに意味を見出す現象全般だから、顔限定なのは別にあって、確か、シミュ…、と菅波がスマホを取り出し、二人でしばし画面をのぞき込む。点が三つあったら顔に見えてしまうのはやっぱりシミュラクラ現象の方だ、と結論にたどり着いてすっきりした百音と菅波は、便利なものですねぇ、とスマホの効能を改めて知った、というように笑うのだった。
明日美に汐見湯を追い出された時点で夕方だったこともあり、百音と菅波のペースで水族館を一周したころにはちょうど良い時分時である。さすがに菅波も、どこに食事に行くかは検討・手配済みのこと。ゆるゆると水族館を後にした二人は、チェックインしたホテルの39階に向かった。
菅波に連れられたレストランで案内された席に座った百音は、眼下に広がる夜景にわぁ、と小さな歓声を漏らした。窓際の半個室の席からは、品川駅ターミナルが見える。ひっきりなしに電車の光が行き来する様子は、東京に住んでいてもなかなか見る機会がないものである。楽しそうな百音の様子に、菅波は目を細めつつ、場所のチョイスが間違っていなかったことにひそかに安堵するのだった。
菅波がこの和食のレストランを予約することにしたのは、宿泊先との利便性や夜景もさることながら、ちょうど当月に宮城県の名産品を使ったコース料理が提供されていることが一番の理由だった。月変わりで日本各地の名産にちなむコース仕立にしている企画がちょうど宮城県となれば、百音の誕生日のお祝いに最もふさわしく感じられる。乾杯に供せられたスパークリングワインで喉を潤した二人は、お料理どんなでしょうね、と、手元の品書きを楽しく覗き込むのだった。
前菜は祝い肴三種盛りで、仙台麩の田楽に、いか人参、鳴門金時の松葉串。それに、油麩とキノコの炊き合わせが続く。早速宮城尽くしですね、とうれしそうな百音に、宮城出身の永浦さんのお眼鏡にかなってよかったです、と菅波が笑う。もう、すっかり先生の方が宮城の口じゃないですか?椎の実でおいしいものたくさん食べてるんですから、と百音が言い、いやいや、まだまだ僕なんか新参者ですよ、と菅波は肩をすくめて見せる。
干し柿と生ハムのサラダは、甘みと塩気のバランスが絶妙である。干し柿が宮城の名産ですか?と聞く菅波に、百音は、県南の白石の方で昔から作られてたみたいです、と小学校の頃の社会の授業を思い出しつつ答える。干し柿は滋養効果が高いから、特に山間部では重宝されていたでしょうね、と、ふむふむ頷く菅波に、百音も、きっとそうですね、と笑う。おぼろ豆腐を浮き身にした吸い物から、金華サバの柚庵焼き、仙台牛の炙り焼きと続いて、食事は登米のひとめぼれを使ったはらこ飯と椀物で、香の物は長茄子漬。
宮城尽くしを堪能しました、と、百音が食後に、にこにこと緑茶を飲んでいると、最後に運ばれてきたのは、Happy Birthdayのメッセージが添えられたデザートプレートである。おめでとうございます、と菅波がぺこりと頭を下げてみせるので、百音も、ありがとうございます、とぺこりと頭を下げて、顔を見合わせて微笑みあうのだった。
デザートプレートには、月に見立てた黄色い柚子マカロンと白いうさぎのチョコレートも添えられていて、秋の趣向である。今年は中秋の名月が10月4日ですから、もうしばらくお月見モチーフが楽しめますね、と百音がうれしそうにめでる。百音のデザートプレートより一回りシンプルに誂えられた菅波のデザートにも、月とウサギの意匠が反映されていて、被害をもたらすような台風が来ないことを祈るばかりです、と、菅波もうなずきながら、二人はのんびりと食後のひと時を楽しんだ。
水族館に行く前のチェックインでカードキーは受け取っていたので、レストランを辞した二人はそのまま部屋に向かう。部屋には預けた荷物もきちんと届いていて、ソファに百音を座らせた菅波は、自分のキャリーケースをごそごそと開けた。キャリーケースから小ぶりの箱をそっと取り出し、百音の隣に腰を下ろした菅波が、それを百音に差し出した。
「あらためて、お誕生日おめでとうございます」
ふわりと笑って差し出されたそれを、百音が頬を染めながら受け取る。開けていい?という顔をする百音に、もちろん、と菅波がうなずくと、百音はそっと包み紙のシールに爪をかけた。中の紙箱を開けると、手触りのいい木の台に、しずく型の液体に詰まったガラス容器が載ったものが出てきた。ガラス容器の中には、ふわふわと結晶が浮いている。
「あ、これ、えっと、ストームグラス?」
「そうです。米麻ではないんですが、登米の木工アーティストの人が作っていて。台はヒバの木です」
「すてき」
百音が目の高さにストームグラスを掲げて中を覗き込む。木とガラスの手触りを慈しむ様子に、菅波がよかった、とまた安堵を漏らす。
「これって、お天気で中の結晶が変わるって言われてたんですよね」
「ええ。発明された19世紀の頃には。今は、結晶は温度にのみ依存することが判明しています。それでも、結晶が日々予測できない変化を見せることは確かなので、それを楽しみながら、気象の変化を感じるのも、よいかな、と思って」
どうかな?と菅波が上目遣いで百音を見ると、百音が嬉しそうにうなずく。
「部屋の机に置きますね」
「はい。あ、でも、直射日光が当たらないところが良いそうです。ここに注意書きが書いてあるので、参考にして置く場所を決めてください。結晶が落ち着くのに1~2週間はかかるとか。気長に様子を見てください」
この紙に、ほら、と菅波が箱の中から説明書を取り出して百音にみせ、百音がふむふむとのぞきこむ。ふと、顔が近くになっていることに気づいた百音が、わたわたと身を起こす。
「じゃ、じゃあ、結晶が落ち着いて変化するようになったら、観察日記、送りますね」
百音が張り切って見せるので、菅波は、楽しみにしてます、と笑うのだった。
「さて、だいぶ遅くなってますし、フロ、お先にどうぞ」
菅波がソファから立ち上がり、半端に開けたキャリーケースをバゲージラックに載せながら百音に声をかける。こくり、とうなずいた百音は、ストームグラスを丁寧に紙箱に仕舞ってデスクの上に置いて、ボストンバッグから泊りの支度を取り出した。じゃあ、お先にお風呂使います、とバスルームに向かう百音の様子に、常にない微かな緊張感が漂っている。
菅波が登米専従になった4月以降、登米の菅波の家か、東京や仙台のホテルで二人で泊まることは折々にあった。それに百音もずいぶん慣れてきたように見えていたが、さっきの様子は、初めて菅波の家に泊まりに来た時を彷彿とさせる。これは、おそらく野村さんあたりに、何ぞ吹き込まれたか、と、菅波はつるりと自分の顔を撫で、さて、どうしたものか、とまたソファにどかっと座り込んで、首筋あたりをがしがしとなぞってしばし。とりあえず、論文でも読むか、と、前後の脈絡なくリュックから論文の束をとりだして没頭を決め込むことにするのだった。
バスルームから髪を乾かした百音がそっと顔を出すと、ソファに座り、膝の上の紙の束に眉根を寄せた菅波が見えた。先生はいつも通りだ、と思いながら、おフロお先でしたー、と声をかける。菅波はその声にパッと顔をあげ、ふろ上がりの百音の様子にくしゃりと笑う。もう、ほんとその笑顔反則、と心の中で唇を尖らせた百音は、先生もごゆっくり、と言って、菅波の横をそそくさとすれ違って、ボストンバッグに向かう。着替えを仕舞ったり、スキンケア用品を取り出したりするその背中に、フロ使ってきます、と菅波は足早にバスルームに向かった。
百音がデスクでスキンケアをしていたら、それが終わるか終わらないかの内に、ふろ上がりの菅波が姿を見せる。相変わらずの烏の行水に、仕方ないなぁ、と百音が笑い、それで緊張がほぐれた様子に菅波もはにかむ。おおよそ乾いてはいる癖毛をかきあげる菅波の仕草に、ドキッとしながらスキンケア道具をポーチに仕舞った百音は、さて、今日はこれからどうしたらよいのだろう、と、そこで硬直してしまう。そんな様子の百音に、菅波は口元を緩め、さっき二人で並んで座ったソファに腰を下ろして、柔らかい声色で百音を呼んだ。
「永浦さん」
その声色の柔らかさに励まされるように百音が菅波の方を見ると、菅波はぽんぽん、とソファの隣を掌で撫でて百音を誘っている。いつも通りのその様子に、百音も妙な緊張感に引きずられずに、素直にその誘いに乗って、菅波の隣に座るのだった。自分の隣に百音が座ったところで、菅波が百音の両手を取り、額にキスを落とす。さらりとしたその仕草に、百音の頬は真っ赤に染まる。
「さて、寝ますか」
菅波の言葉に、えっ?と小さく百音の声が漏れる。えっと…と何やら言わねばと戸惑っている様子の百音に、菅波はふっとまた口角を上げる。そして、百音が何かを言う前に、百音の唇を自分の唇でふさいでしばし。百音の歯列をそっと舌先でなぞって離れたままに、菅波の唇は百音の耳朶をあまがみして、鼻先を百音のうなじに沈める。その一連の菅波の行動に、百音は硬直が解けない。
顔を上げた菅波が、左手はつないだまま右手を百音の頬に当て、百音の顔を覗き込む。
「ごめん、びっくりさせた?」
菅波のその言葉に、百音が言葉を発しないまま、こくこくとうなずく。親指でそっと目元をなぞられ、その気持ちよさに百音の表情が緩んだところで、菅波がほほ笑む。
「誕生日だから、っていうのは、たぶん、僕らには理由にならないです」
驚かせてしまったけど、ね、さっきのこと、まだだ、って思わなかった?と菅波が首をかしげてみせ、百音がうなずく。明日美には、お誕生日でのお泊りなんて、絶好のチャンスじゃん!と焚きつけられてはいて、どうしても意識してしまっていたが、やっぱりなんだか、今だ、という感じはない。でも、誕生日、っていうのは、なんだか節目にはいい気がする、というのもなんとなく思ってしまうことで。そんな逡巡を、すっかり菅波に気づかれていたのだ、と気づいた百音の頬がまた赤くなる。
「でも…、その、せんせいは、いいんですか?私がずっと、その、待たせていて…」
百音の言葉に、いいんです、と菅波が即座にきっぱりと言う。
「永浦さんが、なにかしら無理をするぐらいだったら、僕は待ちたいんです」
掌のぬくもりがもたらす安心感に頬を預けながら、百音がその言葉にうなずく。桜の終わりの頃にこの話をしてから、ここ最近はあえて話題にも出なかったことに、改めて向き合う怖さが氷解していくことを感じる。あの、きっと、あんまりお待たせしないようにしたいな、って思います、と百音が言うと、菅波は、待ってます、とまた笑うのだった。
さて、寝ましょう、と二人でベッドに入ると、もぞもぞと百音が菅波の胸元に潜り込んでくる。腕を述べると、コテンと預けられる頭の重みが菅波にはうれしく。おやすみなさい、と軽いキスを交わして少しすると、すうすうと気持ちの良い寝息が懐中から聞こえてきて、菅波はホッと息を吐く。
『やせがまん』を辞書で引いたら、語釈の1行目に『菅波光太朗』と書いてあるかのような状況だが、かけがえのない人が生まれてきたことを祝う特別な日を、二人だけで祝う特別を享受できる幸せをかみしめつつ、今ではない、というのもまた心の底からの本心でもあり。百音の髪をなでようとして、いや、起こしてはいかん、と空中で撫でるように手を動かし、過保護が過ぎる自分に何をしているのだか、と笑いが漏れる。
「お誕生日おめでとうございます」
改めて百音の耳元にささやいた菅波が、自分も寝よう、とベッドボードに手を伸ばすと、その気配を感じたのか、百音がもぞり、と菅波の胸元に額を寄せる。すべての照明を落とした菅波は、改めて懐中の百音を抱き寄せながら、そのぬくもりを慈しんで眠りにつくのだった。