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    回転木馬 クダリが長らく吸わない地上の空気に興味を示したのは、一枚の連絡ビラがきっかけなのでした。
     それは社内回覧板としてギアステーション中を巡った末、ある朝わたくしどものもとにやって来ました。通達の二文字から始まる短い書面は、数日後に予想される利用者の増加を伝えます。チラシが資料として添えられており、きらびやかなライモンゆうえんちの様子を謳っていました。その中央、一番大きく開けた場所には、鮮やかな観覧車が印刷されています。きっとこれがあの、若い挑戦者様がたがたびたび話題にのぼせられる、有名なものなのでしょう。夜空を背景にそびえたつ観覧車は下からのカメラアングルでいよいよ大きく恐ろしく見え、赤に黄色に緑にとおびただしいネオンライトで不躾に光っていました。
     わたくしは小さく、それはもう一人を除いて誰も気付かないくらいに小さくため息をつき、部署に詰めていたてつどういんたちに回覧板を掲げて見せました。

    「先日企画部の方からあったように、ライモン遊園地とここライモン地下鉄とのコラボレート・イベントが催されます。それに関して、予想増加利用者数の概算通知が届きました。皆様、詳細を確認の上、気を引き締めて業務に取り組んでくださいまし。」

     広く取られた部屋の至る所から返ってきた頼もしい返事にわたくしは少々安堵いたしました。地下鉄がにぎわうのは素晴らしいことであるというのに、わたくしはどうも臓腑の奥に疲れを感じていたのです。地下に閉じ込められた空気はわたくしの気道を通り、肺の奥底で澱みます。そうはいっても、いつだって真面目な仏頂面、鉄仮面のノボリさんなどと言われる(わたくしが何も知らないと思っているのでしょうか)わたくしの表情の変化に気が付く者はいません。それなのに、わたくしの背後にふいに近づいてきた同じ顔の双子だけは、そんな些細な無意識の揺れも敏感に察知してしまうらしいのです。

    「ノボリ、浮かない顔。それにさっき、ため息ついてた。どうして?」

     もちろん、片割れの気配に気づかないわたくしではありませんから、背中を跳ねさせることもありません。回覧板をクダリに押し付けて、椅子に腰を下ろします。体を斜めにねじって、瞳孔のやや開いた笑顔を見上げました。

    「いえ、トラブルも増えるな、と、思いまして。」
    「ノボリ嘘言ってる。」

     クダリの声は、言い終わることも許さずにわたくしの言葉尻を鋭く遮りました。笑顔だけは少しも崩さないまま、じっと顔を見つめてきます。平静を装って見返しても、クダリの表情筋は微動だにしません。数秒の後、わたくしは彼のまっすぐな視線に耐えきれなくなり、目を逸らしてしまいました。

    「すみません、かないませんね、やはり。わたくしはどうも、こういったものがあまり好きになれないようで。もちろんこのようなものは私情ですから、サブウェイの円滑運行には全力を尽くします。」

     わたくしの言い訳に返事もよこさず、クダリは先ほどわたくしの押し付けた回覧板を開きます。はじめの、白黒のページを飛ばすのは案の定であって、すぐに興味を失ってどこかに放り投げるだろうと思っていました。けれどクダリは意外にも、件のチラシにじっと見入りました。少しだけそのまぶたが引き上げられます。

    「興味があるのですか。」
    「うん。観覧車、すっごく光ってる。いろんな色いっぱい。ぼく見たことない。」

     目をチラシに釘付けにしたまま、いつもより少しだけ大きな声量でクダリは言いました。確かにこの子の言う通り、わたくしたちのいる場所にこれだけの光はありません。地下を照らす蛍光灯は駅の埃っぽい奥まりまでは届かず、地上では太陽や青空や月や星が見られると言う車窓は暗いコンクリートの壁と小さな点検灯、そして反射したわたくしたち自身の姿を映すばかりです。強すぎるネオンも大きすぎる変化もここにはありません。ですがクダリは、無邪気な心でもって明るさに心惹かれているようです。

    「ノボリ、ゆうえんち行ったことある?」
    「何を言っているのです。わたくしとお前はいつも一緒だったでしょう、お前が行ったことがないのなら、わたくしも行ったことはありません。」
    「うん、だよね。ぼくとノボリいつも一緒! ねえノボリ、ぼくゆうえんち行ってみたい!」

     今度は、わたくしは驚きました。クダリは地下の生活にしか心動かされないとばかり思っていたのです。クダリの開いて見せているチラシに、もう一度目を遣りました。紙の上で、色付きの強い光が誘うように飛び散っています。ゆうえんちというところには、どんなものがあるのでしょう。いつだったか幼い頃に読んだ物語を思い出します。お話の中で、こどもたちがそれは楽しそうに遊んでいました。溢れる電飾、小銭で買える甘いお菓子、キャラクタのきぐるみ、射的、それにメリーゴーランド。

    「そうですね、夜に、イベントの確認としてなら、見に行っても構わないかもしれません。」

     クダリの口の端がほんの少し吊り上がりました。これは嬉しいときの表情です。

    「うん、お昼は人いっぱい、明るすぎる! 行こう、ノボリ、運行終了後、ぼくたち二人でゆうえんち。」

     クダリに笑顔を向けられて、わたくしもいつしか心を浮き立たせておりました。この子はわたくしの鏡です。わたくしも心の底で、開けた地上の世界に憧れていたのでしょうか。その感覚は長く尾を引き、最後の挑戦者様を見送ると同時にクダリに袖を引かれた時には、ひそかに喉から溢れんばかり満ち満ちておりました。

     真夜中のゆうえんちは暗く静まっておりました。ざりざりと、わたくしたちの靴底が地面をこする音だけが大きく聞こえます。地上を知る方々より聞きかじったお話から想像するばかりですが、数時間前まではさぞかし賑やかだったのでしょう。そこかしこに感じる気配は、きっと昼の人々の感情たちの幽霊です。クダリは見知らぬそれらに怯えてコートをかきあわせています。わたくしたちの生きる場所にはおよそ存在しない種類の気配なのです。

    「暗いですね。」
    「うん、暗い。」
    「きらきらしていなくて、物足りないでしょうか。」
    「ううん、ぼくこれでいい。でも、ちょっと怖い。なんにもいないのに、何かいるみたい。」

     太陽の下の人たちの気配はわたくしたちをちらちら横目で見ては、秘密の夜の遊びに興じているようです。ひたすら異質なわたくしたちは縦長な体を縮め、けれど少しわくわくしながら、足早に歩を進めます。世界の外側はとても不思議で、少し居心地が悪い場所でした。
     ゆうえんちはわたくしたちの想像と似ていました。あの大きな観覧車は入口から見えていて、地下鉄駅の隅の暗がりと似た色の空にそびえたっていました。他にもシェードを下ろした屋台に大きなポケモンの形のモニュメント。水の止まったヒヤッキー型の噴水の周りにはプラスチックの椅子とテーブルが並んでいます。サザンドラの姿を模したジェットコースターはとても高くてうねっており、少し背筋がぞおっとしました。

    「楽しそうだね。」
    「ええ、さぞかし昼間は楽しいのでしょう。」
    「でも、ぼくたち太陽だめ。」

     クダリがくすくす笑います。わたくしもつられて笑い出してしまいます。そうです、なぜだかわたくしたちは白い太陽や青い空とは袂を分かっているのです。考えてみれば喧嘩をした覚えもないのに不思議なのですが、なにはともあれそういうふうになっているのです。わたくしたちは地下の住人なのです。

    「いつかお日様と仲直りできるかな。大人になったら。」
    「わたくしたちはもう大人ですよ。立派に働いているではないですか。」
    「うん、でも、ぼくら地下にしかいない。いつかね、挑戦者さんみたいに色んなこと知りたいな。」

     わたくしがそれきり言葉を返さなかったのは、クダリがどうしてそんなことを言うのか分からなかったからです。こんなふうに夜のゆうえんちに迷い込んで、わたくしたちはこれからどこかに行けるというのでしょうか。クダリだけが楽しそうに何かをハミングしながら二人は歩きます。ドレディアのティーカップ、バッフロンのミニカーレース、デスカーンの看板のハウンッテドハウス、ポカブの置物がディナープレートを頭に乗せたレストランにチラーミイがかわいらしいおみやげやさんを通り過ぎて、わたくしたちはずんずん歩きました。至る所で耳には聞こえないひそひそ声を聴きながら、忍びやかに笑い声を交わして奥へ奥へと進みます。帰り道がわからなくなることなど気にも留めませんでした。想像していたものはほとんど全部見つかって、わたくしもクダリも上機嫌でした。

    「そういえば、メリーゴーランドがありません。」

     クダリが二、三度目を瞬かせて、ほんとだ、と弾んだ声を出しました。

    「メリーゴーランドはどんな姿をしているのでしょうね。」
    「きっと楽しい。どこにあるのかな。」

     思いつくままにメリーゴーランドのイメージを言葉にして交換しながら、深夜のゆうえんちをそぞろ歩きます。クダリは大層楽しそうに、歌うように話します。右を見ても左を見ても暗い遊び場ばかりが現れる場所で、次第に前後不覚に陥る気がしました。ゆうえんちの奥へ奥へと迷い込んで、もはや足のつま先をどちらに向けているのかも定かではありません。不思議とクダリとわたくしがかすかにその方向を転換する角度は一緒で、手を繋いでもいないのにずっと同じ距離でぴったりと並んでいます。ですがその距離感すらも、靴底がなめらかな地面を擦るかすかな音のうちに曖昧に溶けてゆくのが分かりました。今や視界の端でひらめく白いコートの裾も、景色の上部を覆う黒い帽子のツバも、わたくしにとって意味を失った単純視覚なのです。わたくしとクダリに存在する間身体性はゆるやかに最高潮に達し、暗がりの不明瞭な視界の中で一体自分がノボリの目を通して世界を見ているのか、クダリの目から世界を覗いているのかわからなくなりました。そしてそれはわたくしたちにとってどうでもいいことでもあるのです。メリーゴーランドのイメージは完全に共有され、ノボリはクダリの思考に、クダリはノボリの思考に自らを浸します。わたくしたちの身体感覚と思考は二人の体の分だけ拡張され、すっかり重なり合い溶け合っているのです。あるいは、わたくしたちはまだ二人が一つだった時代へと回帰しているのかもしれません。
     あ、と声を上げたのはどちらだったでしょうか。その音はわたくしとクダリとの間で鉄道信号の発光のごとくはじけ、わたくしの自我と呼ぶべきものは再び分離されて黒い服を着た皮膚の器に収まりました。共有の名残は、わたくしの視線の先にその声の理由を映します。真っ直ぐ正面、闇夜にぼんやりと、メリーゴーランドが浮かんでいました。

     そこはゆうえんちの片隅でした。辺りに不思議な音が寄せては返します。それはイシズマイの殻に耳を押し付けた時の音に似ていて、けれどもずっと寂しく、リズミカルにすすり泣いているのです。音の正体を求めて視線を走らすと、ゆうえんちの柵の向こう側に、黒く重たげな水が沈んでいました。目が痛くなるほど遥か遠くまで水は続き、その先でぼやけて空と混ざり合っておりました。

    「ぼく、知ってる。これ海。」

     クダリが呟きました。わたくしも海は知っています。液晶画面に映るサザナミタウンのプロモーション映像を思い出して、ようやく耳に浸み込むこの響きが波の音なのだと気づきました。長方形の枠に切り取られることも液晶の壁に押しとどめられることもなく眼前に迫る黒い水は、圧倒的な存在感でもってわたくしたちの耳目を侵犯します。

    「広いですね、とても。」

     クダリが短く肯定する声が波音に混じって届きました。耳慣れたこの子の声はわたくしの耳をなだめます。それと同時に視野が、白いコートのぶるりと身震いする様をとらえました。
     空と海の広さに耐えられなくなって、体ごとメリーゴーランドに向き直ります。土産物を売る店の裏で、その小さなメリーゴーランドはひっそりと打ち捨てられておりました。傍らには恐らく花壇に使うらしい、園芸用と書いた土の袋が積み上げられています。ところどころは錆び、いくつかの電球は不規則に明暗しています。風雨に打たれた屋根は補修もされず、赤茶色に変色しております。それでも居並ぶゼブライカにシママは皆豪華に着飾っていて、はがれかけた塗装を恥じる様子もなく胸を張っております。赤色の鞍には色とりどりの飾り布の造形がなされ、手綱は金色の組紐を模しています。小さな宮殿を守る兵士のように、美しい馬たちは行儀よく佇んでおりました。
     ぼんやりと馬たちの背中から伸びるつかまり棒の数を数えておりました。ポケモンたちが腰から離れるのに気付かなかったのはそのせいでしょう。シャンデラが周囲を巡って、上品な色合いの炎の球をいくつも浮かべます。ギギギアルは空中を伝って天井裏にのぼり、細かな歯車をどこやら隙間に滑り込ませました。クダリのシビルドンは、青緑色に赤錆の浮いた箱に近づいて黄色い光を発しました。それに馬たちは応じ、小屋中から色とりどりの光が溢れだします。最後にオノノクスが丸い土台を掴むと、その小さなサーカステントを模した装置は喜びの悲鳴を高く低く上げ、ゆっくりと動き始めました。
     いななきが聞こえました。代わりにいつのまにか、あの寂しい波音は掻き消えています。白黒の馬たちが楽しそうに上下に歩きはじめました。どこからか音楽が聞こえます。いつかどこかで聞いた気のする旋律はわたくしたちの感官を浸し、視覚をぼんやりと薄めます。はじめに歩き出したのはわたくしとクダリのどちらだったでしょう。今やわたくしたちは当然メリーゴーランドに乗るべきであって、そこに疑問を差しはさむ余地も理由もありませんでした。おごそかな音楽がわたくしたちを飲み込みます。クダリが白いコートをひらめかせてピンクとオレンジを着たゼブライカの背にまたがり、わたくしはその少しだけ後ろ、黄色と緑の飾りの子に足をかけました。とろけそうな金色の光の中でおおよその事物は輪郭を溶かし、斜め前で上下に揺られるクダリの背中だけをわたくしの脳は曖昧に認識しました。ふと足元を見て、この不思議な旋律の出所がそこであると分かりました。そこは細かな溝のたくさんある黒い床でした。いえ、床ではありません。ギアステーションの倉庫の片隅に紐で縛って押し込められていた、レコード盤を思い出します。わたくしたちの足元は大きなレコード盤で、馬たちはその溝にそってひたすら歩んでいます。きっとどこかにレコード針というものがあって、それがこのレコードの溝を引っ掻いて音楽を生み出しているのでしょう。納得して顔を上げると、涙でぼやけた万華鏡のように、金色の世界の中でたくさんの色が揺らめいては後ろへと通り過ぎてゆきます。

    「ノボリ、すごい! ね、いつかノボリと読んだお話覚えてる? ぼくたちもこのままどこかに行くのかな。このままぐるぐる回って、どこか遠いところに!」

     クダリが半ば叫ぶようにわたしに呼びかけます。気づけば馬たちはみな速足で駆けていて、ますます視界はぼやけます。そんな中でクダリの笑う顔だけがはっきり浮かび上がっていました。わたくしの斜め前、先を行くクダリ。あの子が振り返ってくれていなければ、わたくしは叫びだしていたことでしょう。メリーゴーランドはぐるぐる回ります。とりどりの光をあとに引いていつまでも回ります。けれどクダリの言うことは起こりません。この小さな装置が地面から離れて、わたくしたちをどこかへ連れて行ってくれることはきっとありません。ひたすら前に前に進んでいるかに見える馬たちはけれども、同じところをぐるぐる回っているだけなのです。だってここは円いメリーゴーランドなのですから。ものすごいスピードで、馬たちは円い密室を疾走します。わたくしは口を開けて、クダリに叫び返しました。

    「覚えていますとも。でも大丈夫、何も考えなくていいのですよ! 今ばかりは仕事のことは忘れて構いません。楽しいでしょう?」
    「うん、うん楽しいね! ね、もうぼく帰りたくないや! ぼくすっごく楽しい!」
    「ええ、でしたらずっとこうして遊んでいたら、ずっと今日は終わりません!帰ってベッドに入りさえしなければ、今日が終わることも明日が来ることもありませんよ! ずっとこのままです!」

     馬たちの走る速度はもう凄まじいものになっていて、とっくにメリーゴーランドの外、暗いゆうえんちは見えません。けれどずっと同じ距離にあるクダリの顔だけは、わたくしにははっきり見えます。クダリはしばらく眉ひとつ、口角ひとつ動かさずにいて、そしてふいにその目を三日月の形にゆがめました。

    「うん、そうだね。僕らサブウェイマスター、ぼくらずっと一緒。何にも変わる必要なんてない。ずうっとこのままぐるぐる遊んでる。」

     足元のレコードが奏でる音に、聞き覚えのある規則的な音が混じり始めました。金色の明かりの向こうに、暗い四角形が垣間見えます。目を凝らすと、それは窓でした。窓の向こうは暗闇で、わたくしはその暗闇の正体を知っています。それはコンクリートで塗り固められたトンネル壁で、つまりわたくしは地下鉄の窓を見つけたのです。音はがたんごとんとわたくしの鼓膜を規則的に叩き、馬たちはそれに合わせて並足をはじめました。きらきら輝く電飾が地下鉄に乱反射します。わたくしとクダリは座席に向かい合って座っておりました。目の前を無数の光が飛び回り、その向こうにクダリの笑顔が透けて見えます。

    「ぼくらサブウェイマスター、地下鉄に乗ってる。たくさん走る。」

     おどろくほど近く、ほとんど耳元で、クダリの声が聞こえました。あわい声が両の鼓膜を控え目に震わせます。

    「ええ、地下鉄でたくさん走りますね。」
    「でも、ほんの少しだって進まない。だって環状線だもの。」
    「そうです、わたくしたちは環状線に乗っています。」
    「メリーゴーランドと一緒。」
    「ええ、メリーゴーランドと一緒です。」

     てつどういんの、誰だったか、ノーマルトレイン挑戦者の老夫婦の話をしてくれたことを思い出しました。わたくしたちに勝って地下鉄の扉を出た瞬間、子どものようだった目に陰りが射したと彼は言っておりました。そして二人で、年老いたものの悲しみを声音ににじませ、こう話していたといいます。ここが終着駅か、と。なんだか帰りたくない、と。
     わたくしたちの悲しみは彼らとは違います。正確を期すならば、わたくしにとってそれは悲しみではありませんが。わたくしたちはもう眠らないこどもたちと一緒なのです。何も変わらず、ただずっと、どこに帰るわけでもなく行くわけでもなく閉じた環状線を巡っているのです。わたくしたちは太陽に置いて行かれたのです。誰にも気づかれず、二人きりで。
     クダリが満足げに笑っています。そしてふいに立ち上がって、一歩進んだところの床にひざまずきました。再び背筋を伸ばしたクダリの手の平には、羽の焼け焦げた蝶が乗っていました。青色の羽は縁が黒い炭になってしまっています。そしてそれは電車の揺れと共にかすかに震える手の上で次第に砕け、クダリの白い手袋を汚します。かれの祈りは本当のことを知って焼け落ちてしまったのです。

    「クダリ、悲しいですか。」

     クダリが一瞬目を伏せ、手のひらの上の蝶を見つめました。

    「ううん、悲しくない。ここはすっごく楽しい。」
    「どこか、素晴らしいどこかに行きたいと思っていたけれど?」

     クダリが視線を上げました。帽子のつばの陰から、深い色の双眸がわたくしを見つめます。そうしてまた、睫毛がゆっくりと瞳を覆い隠しました。座席に戻ったクダリは手のひらの蝶を窓枠に横たえ、こちらに向き直り、頷きました。

    「ノボリもそうなの?」
    「昔は。」

     わたくしも昔、さあいつだったかは分かりません、何と言ってもギアステーションでは時間の概念はあまり意味がないのです。大きすぎる変化もなく、毎日が訪れては去って行くのですから。ですが確かにわたくしも、昔、いつかどこか素晴らしい場所に行く日が来るものと思っていました。だけれど地下鉄での日々はあまりにも楽しくて、他のどこかに行く理由をわたくしはいつしか失っておりました。そこはあまりにも楽しかったのです。ぐるぐると終わりのない環状線を回り続ければそれでいいのです。そうしてまた同時に、おそらくわたくしはもう、どこにも行けなくなっていることでしょう。

    「そっか、やっぱりぼくら双子。ぼくらはずっと一緒。ここでずっと一緒!」
    「ええ、そうですとも。違うことを思うわけがないのです! わたくしたちは双子なのですから!」

     クダリがにんまりと目を細めます。わたくしはクダリのこの、いやらしいほどに満足げな笑顔をとても好ましく思うのです。ブラボー、と小さくつぶやきました。わたくしたちは二人きり、地下鉄で回り続けるほかありません。おそらくそれが正しいことなのでしょう。もう随分と昔のことのように感じられる地上の空気はあまりに新しく、あまりにたくさんのものを溶かし込んでいました。そしてどこまでも続く海と空は、わたくしたちには恐ろしいものでした。あれが青空であったらと思うと背中が強ばります。
     やがて睡魔が訪れました。視界に水が流されたように、すべてがゆるやかにぼやけて行きます。眠りつつある脳が、クダリの表情もまたやわらかく溶けてゆくのをとらえました。対の双子の様子に安心したわたくしは毛布のように体を包み込む眠気に逆らうこともせず、きっとそこも地下鉄であろう夢の中へと出発したのです。
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    2022/07/09 16:54:22

    回転木馬

    初出:2012年4月25日(Pixiv投稿)
    #サブマス #pkmn #二次創作

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