Open the Door, Open Your Eyes.(取り込め、そして飛び込め) 熱気を忘れた九月の風は、季節から忘れ去られたイグニハイド寮の奥にもまた、水のにおいと共に思いもよらないものを運んでくる。運ばれてくるのは時に鼻風邪であったり厄介な困り事であったり、またあるいは、誰も寄り付かない部室にふと現れた新入生であったりした。それらは窓から吹き込み、イデアの足元を掬うのだ。
タブレット端末からセキュリティアラートが送信されたのは、新学期に入ってひと月も経とうかというある日の、日差しの傾く時刻のことだった。PCの端に赤く縁取られたポップアップが出現し、イデアは片眉を吊り上げる。端末はボードゲーム部室に置いたままにしていたはずだ。接触検知、誰かがタブレットに触っている。
「ピ? なになにやめろください~お触り禁止~」
カメラを起動させれば、映し出されたのは銀髪の少年だった。未だ微かにあどけない丸みを残す頬が、彼が新入生であることを示唆している。夏の終わりの黄色く間延びした日差しが、その頬を金色に輝かせていた。タブレットは少年の手に持ち上げられているらしい。眼鏡越しの瞳に好奇心と利欲の光をひらめかせ、彼はこちらを、正確には目の前の電子機器を矯めつ眇めつしているようだった。
「忘れ物……? 届ければ、恩に」
“忘れ物じゃないんで お気遣いなく”
手の中の電子機器の画面がいきなり点灯したのであるから、少年が驚くのも無理ないことだろう。わ、と短い悲鳴が上がり、イデアの覗く映像が乱れる。少年の手から取り落とされたらしいタブレットはしかし、床に激突する寸前で浮遊モードへの切り替えを果たした。再び浮上したカメラレンズ越しの視界には、口を開けたままうろたえる少年の姿があった。
「……これは、大変失礼しました。遠隔操作を?」
“Exactly(そのとおりでございます) であるからして放置よろ”
「ここの部員の方ですか? 僕、入部希望なのですが、もしかして活動日を間違えていたでしょうか」
え怖、全無視じゃん。イデアは思いきり顔を顰め、手元の缶飲料を思いきりあおった。抜けてしまった炭酸の下から強烈な甘みが押し寄せ、咥内を蹂躙してねばつきばかりを残して行く。
「オーエ。勘弁してクレメンス……」
独り言は無論、ディスプレイの向こうには届かない。行儀の良い笑顔を浮かべてこちらを見つめる少年の眉根が訝し気に寄せられる。その眉が微かに痙攣していることに気付いて、イデアは鼻水をすすり上げながらにたりと口角を引き上げた。おやおや、メガネクンは少々こらえ性が足りないご様子で?
“新入部員とか募集してないんで。きみみたいなキラキラ系はさっさとヤリサーにでも行ってどうぞ”
彼が自分から引き返すよう穏便に仕向けることの利をイデアが嗅ぎ分けられなかったのは、タブレットと相対して苛立つ少年に抱いた優越感に酔っていたからかもしれないし、優秀であるはずの頭脳に鼻風邪が靄をかけていたから、あるいはひどい味になった缶の中身の処理方法に脳のメモリを割いてしまっていたからかもしれない。いずれにせよ、イデアの打ち込んだメッセージは部室に現れた少年の舌鋒を鋭くさせるのに十分であった。
「……この学校の先生方は、教育者としての理想と情熱を抱いていらっしゃいます
ので」
“は? なに”
「ボードゲーム部所属の、魔導工学の申し子のイデア・シュラウドさん、という生徒の出席日数に思う所のある先生は、少なくないようですねえ」
“いやいや何、なんで拙者の名前”
「中には部活動のもたらす教育的効果にも高い関心を抱いている先生もおいでですので、部活動推奨期間に、少々生活態度に難のある生徒が、活動をボイコットした挙句新入生を追い返しただなんて知れたら……ああ! お可哀そうに、リモート受講のお目こぼしは取り下げられてしまうかもしれませんねえ!」
“あああああああ わかったわかったよ好きにして”
クソ、と吐き捨てて、イデアはQRコードをタブレット画面に表示させる。入部届ここに送って、とメッセージを流せば、少年はその顔に満足げな笑みを浮かべた。QRコードのアクセス先を対戦ゲームアプリに書き換えたのは、その笑顔が無性に腹立たしかったからだ。素直にログインしてきた彼を打ち負かし、ゲーム内チャットで散々に煽り倒した後、イデアはいつの間にか少しばかりの爽快感を味わうに至っていた。
その爽やかな満足感が、しかし落胆に変わるにはさしたる時間を要さなかった。アズール・アーシェングロットと名乗った少年がいやに入部に拘泥したのが気になってしまったのだ。学園のセキュリティ・システムに侵入したイデアの無数の瞳が捉えたのは、あらゆる場所に出没するアズールの姿だった。画面を拡大すれば機械制御の視神経が焦点距離を自動判別し、少年の甘い面差しをつぶさに映し出す。絡みつくような粘性の声を唇に乗せ、見覚えのある精緻な表情を顔に貼りつけて、彼は無数の生徒に微笑みかけていた。
数日にわたる観察の間に溜めこんだイデアの鬱憤は、翌週の部活動日を迎えてアズール本人へと向けられた。
“営業活動乙でーす 何が目的? 過去問とか? 課題の答え合わせ? 悪いけど僕君に分かるように説明してやるつもりないから”
目の前を浮遊するタブレットに思いもよらない言葉をぶつけられた彼は数秒の硬直ののち、侮辱されたことを理解したのだろう、日に焼けていない肌を見る間に紅潮させる。
「随分不躾なおっしゃりようですが、何かご不快なことでも?」
“いやいやさっすが白々しいことですなあ 上級生にすり寄るならもうちょっと上手にやんなよ、あと怒るの早すぎ。煽り耐性赤ちゃんでいらっしゃる?”
「だから何の話だって言っているでしょう。出会い頭になじられたら誰だって気分が悪い。タブレット生活の引きこもり先輩はそんなこともご存じないんです?」
“気分悪いのはこっちだっつってんの。ヒラヒラニコニコ誰にでも擦り寄ってさあ、僕のこともどうせ適当に利用しようとか考えてんだろ。見てれば分かるよ”
「何をご覧になったのかは知りませんが、そのタブレットレンズ、画素数足りてないんじゃありません?」
舌打ちの音が聞こえる。ヒ、と小さく漏らしてしまってから、マイクオフを確認してイデアは胸をなでおろした。十分に高解像度のカメラは、苛立ちを露にするアズールの表情をディスプレイ上に正確に再現する。吊り上がった眉、眉間のしわ、引き結ばれた口元。そしてその目の中心の形状に気付いて、おや、とイデアは少しだけ目を見張った。
「獣人……? いや、人魚?」
怒気に引き絞られた彼の瞳は横長に細められていた。思わずマイクに音を通し、ねえそれ、と問いかける。
『それ、目さ、そういうものなの? 前見た時は違ったと思うんだけど』
「は、あなた声……いえ、何のことですか。目?」
『瞳孔さ、近類種仕様になってますぞ。そういうお洒落?』
話しながら画面を切り替える。タブレットには今、レンズの捉えた彼の姿が表示されているだろう。それを覗き込んだアズールは、うろたえたように小さく呻いた。
「ああ、薬を変えたから……すみません、イデアさん。変身薬の効果が不安定なようなので、今日の部活は欠席します。教えていただいた対価としてお伝えしますが、僕は人魚です。それでは」
くるりと背を向けたアズールを見送って、イデアは毒気の抜かれた溜息をついた。彼の網膜の暗がりに続く、マイナス形の開口部が奇妙な強烈さでもって脳裏に焼き付いている。あの不思議な構造の目はどんな風に世界を取り込むのだろうかと、興味の芽がそろりと頭をもたげる。
「……いや、人魚なんて別に珍しくありませんしおすし」
一瞬揺れたあの瞳は確かに動揺を示していた。住む世界を変えることは一体どんな心地なのだろう。人差し指と中指を足に見立て、とことことデスクを歩かせてみる。慣れていようはずもない二本足で地上を縫う少年の姿がどうにも痛ましいものに思えてしまい、慌ててイデアはかぶりを振った。華やかな手合への関心など、イデアに扱いの心得があろうはずもなかった。
ほとんど喧嘩別れのようにして部室を去ったというのに、アズール・アーシェングロット少年は翌週もその翌週も、更にそのまた翌週も時間ぴったりに部活動へと現れた。
『君さ、執念深いって言われない?』
「根気強いと言ってください。あなたもあなたでしぶといですよね。……はい、そちらの番。もう投了なさっては?」
『何をおっしゃいますやら? 拙者の目にはまだまだ百通りも勝ち筋見えてますわ』
「それもありますが、そろそろ直接出て来たらどうだって言ってんですよ。あと、あなたの勝ち筋せいぜい六十四通り程度では?」
『ほんとどうでもいいマウント取るよね君……』
タブレット越しのゲーム盤を薄目で眺めながら、イデアは思案した。鼻風邪がすっかり治っても未だ自身を悩ます厄介事について、今打ち明けるのは得策だろうか。縁といえば週に一度、一方的に顔を眺めながら駒を交互に動かしているというだけの、画面越しのこの少年に? それは馬鹿らしい考えのようにも、また十分に妥当な選択肢であるようにも思えた。治ったはずの鼻風邪の名残を疑いながら、眉根を寄せて考え込む。青の盾兵か、紫の工作兵か、アズール氏の思考回路ならどちらの勝ち筋がより手堅い?
『ま、実を言うとさ、出ようにも出られんのですわ拙者現在』
結局、イデアが選んだのは紫の工作兵の方だった。突出気味のアズールの騎兵を誘い込み、自陣深くで仕留めるのが一番ましだろう。アズールの指摘の通り、口先でふかしたほどには手は残っていなかった。
「出られない、というと?」
『ユニ魔、暴走、被害、ナニナニしないと出られない部屋、把握?』
「なるほど、完全に理解しました」
『理解したとは言っ……てる顔だなあこれ。何企んでんの』
「滅相もない、あなたがご心配なさることなんてひとっつもありませんよ。解呪条件は?」
『時間経過、もしくは、あー、曇りなき眼で見定めること?』
くもりなきまなこ、とアズールが復唱する。どういう意味です、と問われ、向こうから見えないことも忘れてイデアは肩をすくめた。金ローの次の日だったからかなあ。
『クルーウェルの翻訳曰く、偏見を取り払って人と向き合おうとしてみろだってさ。やかましーわボケっつってそっから拙者大手を振って引きこもり中の次第。生活物資は取り寄せできるし控えめに言って最高』
「大手を振るのは外を歩いているときかと思いますが」
『クソリプか?』
「しかしクルーウェル先生も強制解呪ができないとは、なかなか……」
『いやあれニヤニヤしてたし、わざと放置されたことは確定的に明らか』
「それはそれは……いつからなんです?」
『君の目が蛸さん仕様になってたのと同時期くらいからだから……』
「三週間!? あなた三週間も部屋から出てないんですか!?」
あからさまな驚愕と憐憫を表情に乗せ、アズールがゆっくりとかぶりを振る。陽キャには少々刺激が強すぎましたかな。お前ここは初めてか? 力抜けよ。
「……そんなに長引いていらっしゃるとは、さすがにお困りのこともあるでしょう。僕ならお力になれるかと思いますよ」
『……まあそりゃ、そろそろでかい設備使いたいとは思うけどもさ』
「そうでしょう、そうでしょう! お安くしておきますよ、それはもう特別に。今日は随分工作兵に手数を割いているご様子ですが、僕ならあなたのそのひねくれた要塞に風穴を開けて差し上げますとも」
駒を進めたアズールの手元が光り、サインを、と言いかける。そこで眼の前にあるのがペンを持つ手の無いタブレットであることを思い出したのだろう。何物かを形作らんとしていた金色の光は霧散し、小さなため息がヘッドホンから聞こえた。
「……まあ、今回は本当に特別です。初回トライアル無料で構いませんよ」
『君さあ、ほんと』
執念深いよね、と再度零した呟きに、液晶の上を彷徨っていたアズールの手が止まる。眉を上げて睨みつける目は、今日は小さな黒点を抱く冬の海だ。イデアの知らない景色を連れてきた彼の目が、画面を貫いて焦点を合わせようとするかのように虹彩を収縮させる。
『き、君みたいな陽キャってもっと空気読んでさ、ちょっと拒否ったら手引くんじゃないの? それともアレ? 罰ゲーム? ヒ、ヒヒッ、御愁傷様ですなあ』
ガチン、と歯を打ち合わせる。捲し立てた声はあからさまに震えていた。ゲーム画面がイデアのターンを通知し、殆ど反射のようにして駒を動かした。搦手を狙った陣は思うように調わず、アズールの駒は見る間に懐深くへ突き刺さる。
「僕が蛸だと調べることだってできるのに、それでも貴方には、僕がそう見えますか」
結局、その日のゲームはイデアの大敗に終わった。アズールの発した平坦な声は部室を後にする彼の靴音と重なり、暫くの間イデアの耳の奥に反響していた。
風穴を開けると言い放った彼の言葉が例え話に留まらなかったことをイデアが知ったのは、それから四日が経った火曜日の早朝のことだった。
取り寄せた駄菓子を朝食代わりに咀嚼していたイデアが、その最後の一口を奥歯で噛み砕く音は唐突な轟音に儚くもかき消された
「ァアアアアアアッイッヒオオナーァニーィイイ!?」
もんどり打って倒れ込み、半身を強かに床へと打ち付ける。うめき声を上げながら薄汚れたカーペットに這いつくばり、首だけを音の方に向けた。世界が真っ白に眩む。暗闇をのみ友としてきたイデアの瞳は、膨大な光量に収縮を間に合わせられない。九十度回転した視界を、細長い獰猛な光が横切っていた。
「はじめまして、イデアさん。アズール・アーシェングロットです!」
壁のあったはずの場所から白い光が溢れ出していた。穴は大きく、丁度人間が一人通り抜けられるほどだ。流れ込む光はスキャンライトのようにイデアを舐める。床に降り積もった埃が、何十日ぶりかの光に喜ぶかのように長方形に切り取られたステージで踊った。光の中心、逆光を負って人の形のシルエットが聳えている。その影から発せられた声は、ヘッドホン越しにイデアが何度も聞いたものだった。影の人が一歩こちらへ踏み出す。光の中から生み出されたその人が、薄暗がりの領域に一歩足を踏み入れる。ようやく明らかになった表情は、丁度先週のゲームの結末を確信した時のような、勝利の甘露に酔い慈悲の喜びを滴らせた面持ちだった。
「へ、アズール、氏……? 嘘でしょ、壁、えっ」
「件の呪いのアルゴリズムを解析しました。リザルトの正確な定義ですが、部屋から出られなくするわけではなく、ドアや窓を開かなくすることだったようです」
「だからって予告なく爆破する奴おりゅ……?」
破壊された壁の破片の散乱するベッドにゆったりと腰掛けたアズールは、さしずめ巨悪の首魁だ。組んだ脚に頬杖をつき、イデアを見下ろして楽しげに目を細める。
「お約束通り対価は請求しませんが、壁の修理代は必要経費になりますから、イデアさんの方でご負担をお願いします。ああ、一応サインも頂いておきましょうか、一切の請求を行わないこと、ということで」
「は、はちゃめちゃに事後じゃん……」
「契約日付遡っておきますね」
契約ってまあ大体そんなもんですよ、と言い放ってアズールは悪辣に頬を吊り上げる。猿の手じゃんと零したイデアの声は彼の足元に転がったまま黙殺された。
「まあ、これでも」
アナクロ趣味なつけペンと、金色の契約書が鼻先に突きつけられる。有無を言わさぬ勢いにおされてミミズののたくるような字を書きつければ、満足げに頷いた彼は目にも止まらぬ速さで契約書を丸め懐に詰め込んだ。
「結構楽しいんですよね、あなたと遊ぶの。僕としても、いい加減にアプリ化されていないゲームも色々、してみた……く、て……」
密やかに語られた彼の内心は、不自然に窄まって乱れた。イデアさん、後ろ。呆然とした声がそれに取って代わる。見開かれた目はイデアの頭越し、その向こうに釘付けになっていた。
アズールの開けた穴から差し込む光に、細い光が手を伸ばして一つになる。新たな光は青白く、イデアの背後、丁度ドアのあるあたりから差し込んでいた。
なんで、今。落とした言葉は反響せず、振り向いたイデアの視線の先、生まれた隙間へと吸い込まれて行った。目を見開く。瞳が光を認識する。
扉は開かれていた。