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    My Funny Valentine イデアがモストロ・ラウンジの扉をそっと開けた時、アズールは店の中央に据えられたグランドピアノの前に座ってフロアの客と何事か談笑しながら飲み物を手渡されているところだった。ジャケットは脱いでしまっていて、カマーバンドとサスペンダーが真っ白いシャツを引き立てている。あどけない丸みを残す肩が薄い布一枚の下で躍動していた。その肩から伸びる片手は弾くともなしに鍵盤の上を彷徨い、とりとめのない音色の粒をフロアにこぼしている。ステージ上の青年は、彼を照らすスポットライトの強すぎる光とのアンバランスまでひっくるめて、宵の深海に相応しい完璧なムードを纏っていた。
    「今のアップライトピアノも勿論こじんまりして風情があるのですが」過日例によってイデアをラウンジに引きずり出すべく話し始めたアズールは、随分と浮かれた空気を発していた。「やっぱりグランドピアノともなると音の伸びが違います。それに表情も豊かで……どうか、ね、一度聞きにいらしてくださいよ」
     最近どこかの債務者から巻き上げたという大型の楽器について嬉しそうに話す姿の愛らしく見えることと言ったら、常より彼のこととなると目のくらみがちなイデアから分別を奪うには十分であった。半ば無理矢理取り付けられた約束であったけれど、それを反故にして彼から向けられるひたむきな信頼を手放すことはイデアには耐え難い。ゆえに自室での非生産的な逡巡の末、ラウンジの開店から一時間を経過したところで、ようやくイデアはそこへと辿り着いたのだった。
     ゆうに十年を超す厭世家生活により獲得した勘でもって目立たない席の目星をつけ、クルーの案内を断ってそこに収まる。テーブルの上の一輪挿しには赤い薔薇が飾られていた。あの年下の短気な女王様を思い出しそうになって、冗談じゃないと慌ててかぶりを振る。そういえば。タブレットを取り出して日付を確認する。縁遠い人生を歩んできたのですっかり忘れていたけれど、今日は愛の記念日であるらしかった。
    「似合わないんだよなあ」
     自嘲だ。目の前の花はイデアの青い髪を前にしても、なおその色を少しも損なっていない。お前みたいに陰気な青いのがなんだってここにいるんだと、赤い薔薇に問い質されているような気分だった。視線をステージに移す。アズールは粗野な男子学生たちを卒なくいなし、歌とピアノと料理で上手に機嫌を取っては対価を巻き上げて見せる。常よりイデアは、己と共にいる時のアズールこそ本来の彼の姿であればいいと夢想してきた。そういう時間の彼は少しだけ口数が減り、外では得意げに吊り上がっている眉毛は優しく下がり、くすくすと吐息だけで笑うことが多くなる。頑張り屋さんの君も素敵だけどあんまり無理しないでねと訳知り顔をして、慮っているつもりにさえなっていた。けれど壇上でエレガントに微笑む彼にこの店がよく似合っていることは、今や一片の疑問を差し挟む余地もなかった。
     コントラバスを抱えた目ざといウツボがクラゲ型ランプに紛れた青い炎に気付いたようで、客席にリクエストを募る支配人に耳打ちする。ジェイドの指先の示す方に首を巡らせたアズールは、約束に違わず駆け付けたイデアを認めたらしかった。壇上の青年がおもむろに相好を崩し、手に持った飲み物を一気に呷る。
     アズールの手が空のグラスを譜面台に置き、学生ばかりが集まる店には聊か度の過ぎた熱がこもる手つきでピアノを撫でた。それでは次は、今夜にふさわしい一曲を。思い浮かぶ方がいらっしゃるのであれば、是非本日限定の特別なガトーを贈り物にお求めください。恋の手助けをお求めの方は、VIPルームでお待ち申し上げております。
     アズールの指が滑り、鍵盤を押し込んで重くセクシーな一音を響かせた。ジェイドがコントラバスを抱き込み、その首に長い指を這わせながら弦をつま弾く。アズールの指先に連動する槌がピアノ線をうち震わせ、次々に生み出される音が旋律の姿を現す。やがてピアノ奏者の柔らかな唇が割り開かれ、そこから低く豊かな声が溢れ出す。イデアに向けて、一瞬の流し目が送られる。
    「僕のおかしなあなた、可愛い愉快な恋人……いつもニヤニヤゆるいお口で、何を言っても引きこもってばかりで……でもそのままで、僕のあなた、どうかそのままで……いつも僕を心から笑わせてくれる、僕の可愛いおかしなあなた……」
     あのグラスの中身はもしかしてアルコールだったのだろうか。人魚の声は情事の気配を纏って甘くしわがれていた。彼が誰に向かって歌っているかなんてまるで一目瞭然だった。流し目の先へとあからさまに送られる秋波をからかうように、ジェイドのコントラバスが気紛れなテンポでメロディに寄り添う。見た目はとびきり良いのだけれど。改変された歌詞で惚気るたびにコントラバスの音が茶化すようにリズムを崩し、抗議するピアノが無理矢理ムードを引き戻す。
     さて、事情を知る者がこの場に十人もいれば、野次と口笛と胸焼け吐き戻しとにより店内は演奏どころではなくなっていたに違いない。しかし幸いにも、イデアの念入りで周到で執拗な隠遁生活は、彼とモストロ・ラウンジ支配人との間に結ばれた関係を水面下の噂話程度に押し留めていた。ピアノとコントラバスの掛け合い、そしてよく抑制された中に情愛を滲ませたアズールの歌声は、少なくとも彼らがステージ上にとどまっている間ばかりは聴衆に下世話な好奇心を忘れさせているようだった。
     やがてピアノが最後の一小節を引き取り、奏者は椅子から立ち上がる。フロアより少し高くなったステージの上で、アズールは優雅に礼をした。スポットライトが強烈な光を彼に投げかけている。その只中に立って、アズールはまるで光の粒を身中に取り込まんとするかのように大きく胸を膨らませた。視線がどこか遠く高い場所に投げかけられる。僅かにあおのいたその顎のラインまでもが、イデアの目には完璧なものとして映った。うっすらと汗ばんだ額が輝いている。一瞬の絵画だった。飛び立つ寸前の白鳥が翼を広げて空気を取り込む瞬間を目撃したのだと思った。
     音楽の喜びを知る者たちから礼儀正しい拍手が送られる。その音でもって、イデアは長い一瞬から現実へと引き戻された。そこでようやく己の頬が壇上の彼以上に火照っていることに気付く。いかにイデアといえども、あのあからさまな情熱に気付かないわけにはいかなかった。ステージの上から送られた特別で個人的なもてなしにイデアは赤面し、当惑し、けれど大いに歓喜し昂揚していた。存在しない炎上記事がまなかいを駆け巡る。ワイドショーのゴシップコーナー、カメラマンに追い回されるアズール、妄想と脱線で字数ばかり稼いだいかがでしたかブログに乱立する愚痴垢、それらを手の一振りで追いやって僕にキスをくれる美しい人……
    「あー、ホタルイカ先輩じゃぁん」
    「ヒィァアオ」
     イデアの妄想は、鼻先をかすめた恐ろしく長い脚によってあえなく中断させられる。フロイド・リーチ、ステージにいないと思ったら。巨躯がイデアの隣に沈み、ソファのスプリングが悲鳴を上げる。投げ出された片足はイデアの両膝を悠々とまたぎ、その向こうで肘掛けに着地していた。裏返りそうな心臓を押さえながら、おそるおそる眼球を水平回転させる。想像以上の近距離、具体的には鼻先の触れんばかりの位置にフロイド・リーチの無表情があって、イデアは再び悲鳴を上げた。
    「フロイド、僕のお客様をおどかすんじゃない」
    「ア? こいつが勝手にビビってるだけだし。だよなァ、ホタルイカせんぱぁい」
    「おやおや、僕の兄弟はご機嫌斜めですね」
     助け舟が現れたかと思えばその後ろにはぴったりジェイドが貼りついていて、イデアは緩めかけた表情筋を再度強張らせた。アズールは両手にバーツールとボトルを抱えている。流れるように始まったじゃれ合いを前に、言葉を差し挟む隙は無い。
    「だあってぇ、アズールキモいじゃん」
    「おやおや、ンッフ、フ、おやおやおやおや」
    「ちょっともうお前たち行って何か適当に演奏してこい」
     アズールがフロイドの手からフルートグラスを奪い取り、長身の双子をフロアの中央へと追い立てる。ようやく息をついたイデアの隣に、今度はアズールが腰を下ろした。取り上げたグラスの中身を一息に呷る。そしてこちらに顔を向けた彼の顔は、すっかり甘くとろけてしまっていた。
    「本当に来てくださるなんて」
     興奮の尾を未だ手放さないアズールの両眼が、潤んで光を放っている。頬は鮮やかに紅潮し、唇は先ほどのグラスのせいで水気を帯びていた。少し考えて、イデアは短く尋ねる。
    「アズール氏、今空にしたそれさ、君の歳の子が飲んでもいいやつ?」
     アズールは首を傾げ、目を瞬かせ、そしてじっと空のフルートグラスを見つめた。
    「……当店では、アルコール類時の風味と酩酊作用を持つ独自開発の魔法薬を導入しており、触法行為は間違っても行っておりません」
    「世界はそれを脱法と呼ぶんだぜ」
    「あなたいつから合法性なんて気にするお利口さんになったんです」
    「いやだって、そんな便利な薬出たって聞いたことないよ!? 大っぴらにしてないってことはつまり認可降りる確証無いんでしょ!? 安全性は!?」
    「っさいな、ヴィルさんもこれ飲んで何も言って来なかったんですからつまりそういうことですよ! あと発表は卒業して販路確保してからやります!」
    「なるほどね!?」
    「がめついって思ってます!?」
    「それはいつも思ってるけどそこも好き!」
    「そうですか!」
     そうですか、と、もう一度アズールが、今度は幾分か小さな声で繰り返す。膝にアズールの掌がそっと置かれて、イデアは胸を撫で下ろした。どうにか彼の不興を買うことなく切り抜けおおせたらしかった。
    「ご、ごめんね。本気で突っかかるつもりなかったのに、変な言い方しちゃって、あ、てか、あの、大声も」
    「いえ、僕こそむきになりました。痛いところをつかれたんですね。あと、声なら大丈夫です。良い感じの音量にする魔法、全席にかけてるので」
     飲み物を。そう言って、アズールが持ってきたボトルを取り上げる。あいつらならちょっとしたフレアパフォーマンスもお見せできるのですが。そう言って視線を送ったステージでは、リーチの双子が即興演奏は始めたようだった。軽快で健全なビートとフロアの歓声が店内を満たしている。愛人を呼んだ支配人のためロマンチックなナンバーを選ぶ親切心は、彼らには無いようだった。まあ、気ィ遣われても気まずいがな。てかあの二人モテ属性付与されすぎてて怖いんだけどちゃんと人間性のバランス取れてんの? 取れてたわ。物騒と論外だったわ。アズールがシェイカーにいくつかの液体を計り入れる。
    「うーん、付き合っちゃいけない3Bにリーチ」
    「は? ウツボがどうしたんです」
    「そのリーチじゃないんだけどそのリーチにも当てはまるんだけどまあ気にしないで、こっちの話」
    「ジェイドなら、ヘアセットはそれなりに習熟していますよ」
    「伝わってんじゃん」
    「別れませんからね。というか、ピアノもこれも本業じゃありませんし」
    「なげ島版の3Bはバーニングヘアとボーントゥシュラウドと美容師だから。おソロだから」
    「おや、僕らお似合いじゃないですか」
     氷も加え、アズールがシェイカーを振る。スマートな姿だ。上蓋を外して逆円錐形のグラスの縁ぴったりまで注ぎ、スパイスを振りかける。促されて口に運べば、柔らかな口当たりと共にチョコレートの香りがした。
    「アレキサンダーです。甘いのお嫌いじゃないでしょう、僕の格好悪くて面白くて、完全無欠の可愛い人」
     滑らかに整えられた指先が伸びてきて、上唇についたカクテルを拭われた。熱っぽい珊瑚色に色づいた唇が開く。沢山練習したんですよ、僕。細められた瞼の縁から、鮮やかな虹彩がシロップのように滴って来そうだった。見ていられなくなって、視線を手の中のグラスに落とす。飲まないんですかと訊かれて、曖昧に笑う。へへ、と下手くそな声が出て、そしてすぐにまた口角はいつもの場所に戻って行ってしまった。未だなみなみと残る甘いカクテルを、どうにも飲み下す気になれなかった。
    「こんな……僕なんかのために、こんなことしなくていいのに。ど、どうせ似合うわけないし、君に言われてやっとしょうがなく来るような奴なんだし」
     小さく息を呑む音がした。アズールの目が見開かれる。液化寸前だった双眸は、一瞬にして凍てつき七色にプラズマ発光する冷気を纏っていた。イデアの体が冷たい自己嫌悪に浸され、指先ひとつ動かせなくなる。氷の槍でソファに打ち付けられてしまったようだった。謝罪の言葉を探さなくてはならないのに、頭の中で卑屈の小人が黒く冷たいコールタールをまき散らしながら騒いでいるせいで何も考えることができない。
    「ねえほら、ぬるくなってしまいますよ。……飲んでください。飲んで。……飲めって言ってるだろ!」
     アズールが声を荒げる。ひび割れた氷のように悲愴な顔をして、アズールはイデアの膝に爪を突き立てる。彼の目で透明な水が盛り上がり溢れ出した。それは睫毛の堰を越えたそばから凍り付き、アズールの頬に貼りついて肌を赤くする。その様があまりに痛々しくて、それでイデアはようやく体を動かすことができた。アズールの作ってくれたカクテルをそっとテーブルに置き、慌てて両手の指先を彼の頬に当てる。アズール、落ち着いて、凍傷になっちゃう。氷点下の涙は溶かした端からまた流れてくるので、イデアの指先はあっという間に彼の頬と同じ色に染まってしまう。すぐに指先の感覚がなくなるものだから、イデアは手の角度を何度も変えなければならなかった。
    「僕は!」
     殆どそれは絶叫だった。歌の疲労を残す喉からなりふり構わず発せられた声は、鉤爪で引き裂かれたかのような無惨な響きを持っていた。
    「僕はただ、あなたに! あなたに綺麗だって、上手だって、嬉しいって言ってほしくて準備をしたのに! なのにあなた、あなたは受け取りもしない! なんなんだよ、なんなんだよくそったれ!全部僕が独り善がりなのが悪いってんですか! 一番上等の僕を見せたかっただけなんだ! あんたはただ作り笑いしておいしいって言ってれば僕はちゃんと満足したのに! どうして拒んだりなんかするんだよ!」
     悲しむすべをしらない青年が、両目から氷のつぶてを落として烈火のように怒っていた。
     イデアは動けない。上手く宥める方法も後腐れなくその彼の前を去る方法も分からないまま徒に指先を冷やしている。勘弁してよと声には出さず呟いた。勘弁してよ、拙者陰キャぞ?
     つまりイデアの言い分はこうだった。弟を除くあらゆる人間を遠ざけて生きてきた彼は、その十八年の人生において、自分に向かって癇癪を起す人を見たことがなかった。小さい頃はオルトと喧嘩くらいしたかもしれないけれどそんなの覚えていないし、今の彼はイデアが約束をすっぽかしても少し寂しそうにするだけで、絶対に兄を許してくれるのだった。だからイデアにとって、目の前の人が自身の一挙一動ごときで頬に涙の氷河を作っていることは、全く理解不能なのだった。
    「何とか言ったらどうなんです」
     アズールの絞り出した声は震えていて、イデアにはそれが地響きのように聞こえた。呼吸は未だに荒く、胸が激しく上下している。眼差しは白く引きつり、今やしゅうしゅう音を立てて煙が上がりそうな気さえした。フロアの熱狂が聞こえる。頼みの双子はそれぞれの楽器に夢中になっているようだった。
    「あ、あの、ごめんね。僕はどうしたらいい?」
     それがイデアの考え付くうちで最も最良と思われる言葉だった。アズールが一際大きく息を吸う。かすれた呼吸音は長く尾を引いた。顰められた眉の下で、青色を濃くした目がテーブルを示す。
    「それ。……その花を僕に渡して、綺麗だよって言え。それだけであなたは僕を喜ばせられるんだ」
     それきりアズールは目を伏せてしまって、イデアには彼の心がますますわからなくなる。けれどイデアは優秀なエンジニアであったので、要件定義がなされたのならそれに従うのが習い性なのだった。慌ててテーブルの上の一輪挿しを鷲掴みにし、花弁を潰さないよう慎重に引き抜く。茎に滴る水を自身の袖に吸わせることに躊躇いは無かった。花を携えた左手を差し伸べる。アズールが微かに顔を上げる。けれどそこで、イデアは少しだけ考えを変えた。アズールの髪が美しかったのだ。待って、と告げると口を大きく開き、そして鋭利な歯を手の中の茎に突き立てた。
     青臭い苦みに眉をしかめる。草ってこんな味がするんだ、思ってたよりずっとエグい。それに繊維は硬くて、イデアの歯をもってしてさえも噛み千切ることは困難だった。結局最後は口から取り出し、汚らしくなってしまった場所を魔法で焼き切る。アズールはイデアの奇行を何も言わずに見守っていた。おそるおそる手を伸ばしても、なお彼は動かない。イデアの指先がアズールの耳に触れ、そっと髪をかき分けた。うっすら湿り気を帯びた頭皮をなぞり、位置を確かめると、そこに薔薇の花を差し入れる。
    「ええと、何ていうのかな、これ。その」
     口ごもるイデアにも、アズールは辛抱強かった。五分前までの癇癪で使い果たした静けさを取り返そうとするかのように凪いでいて、呼吸の音だけが嗚咽の名残からか大きかった。
    「ジャケットにでも付け替えてくれて構わない、けど、できれば暫く、そのまま……その、君はすごく綺麗だよ」
     アズールの目が一際大きく見開かれた。無言のまま、薔薇を挿した方へと僅かに首を傾げ、確かめるようにそっと触れる。
    「似合いますか」
    「いやもうそりゃあ拙者まさか美術の才能もあったとはって、ああいや、うん、似合うよ。モストロにいる時の君は、いつでもベストドレッサー賞だってね、ひひ」
    「ここにいる時の僕、数えるほども見たことないくせに」
     既にアズールは泣いてはいなくて、それどころか小さな微笑みさえ浮かべていた。両手でイデアの手を掬い上げ、遠慮がちに引き寄せるとキスを落とす。第一関節のあたりに、随分長い間柔らかく熱い唇が押し付けられた。ようやく彼が離れて行った時には、イデアの左手には珊瑚色の口紅がついていたし、アズールの表情は再び熱したチョコレートのように溶け始めていた。
    「花、暫くつけていますね。今夜はずっとこのままです。あなたに飾ってもらった僕が、ラウンジに立つんです。こういうのって何て言うんでしたっけ?」
     応えを待たず、アズールがイデアの膝に乗り上げてくる。彼の腕が首の後ろに回され、悪戯な指がうなじの髪を梳いた。お酒、ちゃんと飲んでくださいね、あなたの為に作ったんですから。唇が耳元に寄せられる。
    「髪、あなた以外の手で外されたくない。だから、ね」
     イデアのポケットに、ほんのわずかな重みが滑り込んできた。アズールはイデアの手を取り、そのポケットへと誘う。イデアの器用な指先は、少し探るだけでその正体を容易に察した。
    「鍵?」
    「ええ、僕の部屋の。約束してください、この後、部屋に来てくれるって」
     返事より先に唇が奪われる。慈愛ばかりを込めた静謐なキスではなく、欲情のたっぷり含まれた濃厚なキスだった。熱い舌が入ってきて、イデアの咥内を好き勝手に舐め回す。驚きが去り興が追い付いて、イデアが腰に腕を回そうとしたところで、しかしアズールは軟体動物そのものの身のこなしでもって男の膝から逃げてしまった。にやりと笑い、歪んだタイを直す。
    「仕事に戻ります。約束、守ってくださいね」
     彼は少しずつ支配人の顔を取り戻しつつあった。持ち込んだバーツールを再び抱えて身を翻したアズールを呆然と見送り、イデアは仕方なしに、空の一輪挿しと同席してグラスを舐めながら、ステージ上の輝きを眺めることにした。カクテルは確かに非の打ちどころのない味わいで、後で作ってくれた彼に伝えなければと頭の肩隅に書き加える。そういえば、特別練習したと言っていた。そしてそれはきっと真実なのだろう。このカクテルも、支配人直々の特別なもてなしも最初に披露されたあの曲も、今再びステージへと戻った彼が本当に髪飾りをつけたままにしていることも、アズールがイデアを愛するための彼なりのやり方なのだと、ようやくイデアは理解し始めていた。
     その後、アズールは二曲ほどを披露した。アドリブは双子ほど得意ではないらしく、二人に食らいつくのに見たことも無い形相を浮かべていたのがおかしかった。聞いたことのあるスタンダード・ナンバーの導入をジェイドが奏でて、悪趣味と叫ぶアズールがコード進行を阻止する。フロイドはジェイドに加担することに決めたようで、にやつきながらワインアンドローゼズと口ずさんでいた。
     アズールとジェイドがステージを降りたところで、イデアも席を立つ。フロイドのグルーブは最高潮に達していて、もはやジャンル不明のビートが客席を沸かせていた。
    「おや、もうお帰りですか。アズールの独り善がりに嫌気が?」
     レジ前には案の定彼らがいた。聞いていたんですかとアズールが舌打ちをする。客席のソファの上での喧嘩のことに違いない。あの時無惨に崩れてしまっていた化粧は直されて、アズールはすっかり支配人の顔をしていた。そこに、髪の薔薇だけが色を添えている。
    「困ってしまいましたよ、僕らの音楽より面白いショーをしているのですから、もう気になって気になって、手元が狂いそうで……」
    「適当なことを言うな、興味なんかないくせに」
     アズールは小さくため息をつくと、改まった声音でイデアの名を呼んだ。存在を思い出してもらえたことに安心し、財布を出そうとするのを手の動きだけで制止される。
    「お会計は結構です、ご迷惑をおかけしましたので。ジェイドの言う通り、僕は独り善がりでした。あなたはあなたの流儀で、ちゃんと僕を気にかけてくれているのに……。これからはアルコ、ッではなく、独自開発の魔法薬も控えることにします」
     慌てて首を振ったイデアが絞り出そうとした声は、一際高く響いたシンバルの音にかき消されてしまった。アズールが身を寄せてくる。心臓が肺を押し上げて、少し呼吸が浅くなる。
    「せ、拙者もその、アズール氏の気持ちも考えず、自分勝手だったと思うので……ア、アズール氏はほんと、こっちが気後れするくらい、き、綺麗だった、よ、これはほんとにほんと……」
     ジェイドがこれ見よがしに眉を上げ、くるりとターンして店の奥へと消えて行った。アズールは固まったまま顔を薄っすら赤らめている。ふいにその顔が近寄ってきて、おやと思う間もなく掠めるように頬へキスをされた。部屋で待っていて。耳に熱く湿った吐息がかかる。
    「あなたはあなたのままで素敵だったんです。薔薇だって、贈ってくれたし」
     高速で頷くイデアに、アズールが赤い顔のまま少しだけ笑みを深くする。店の奥ではジェイドが勝手に、いかにも値の張りそうなボトルを客に振舞っているようだった。
    「……アズール氏、さあ、もしかしてまだ酔ってる?」
     アズールは熱を確かめるように自分の首に手の甲を当て、その手でイデアの耳たぶを軽く捏ねてから、肩をなぞってイデアの手を取った。彼の柔らかい親指が、イデアの指の節を慕わし気に撫でる。先ほど、彼にキスをされた手だ。席で何度も眺めていたから、そこに彼の口紅が残っていることを知っている。少し考える素振りをしてから、アズールは目を上げて花のように笑んだ。
    「ええ、それはもう。あなたにとびっきり」
    鶏肉 Link Message Mute
    2022/07/11 22:37:49

    My Funny Valentine

    #二次創作 #BL #イデアズ #ツイステッドワンダーランド
    バレンタイン小話です。ピアノと歌の行けるタイプのアズによるもてなしと喧嘩と仲直りです。作中の歌はMy Funny Valentineのつもりです。
    初出:2021年2月14日(Pixiv)

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