命日万歳/他3編2020/06/28ワンライ(#イデアズ版深夜の60分一本勝負)に寄せたもの
お題:海
卒業後一年、イデアとアズールが別れてた時期のイデアの独り言
過去作(https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=13165488)に繋がらんこともない
海のあちらのグレープシャーベット
炎天に焼かれ、太陽を遮るものの無い長い坂道をイデアは上っていた。
カレッジを卒業してもうすぐ一年が経つ。家に引きこもってばかりの息子が朝から出かける、しかも行先は異国の海だというので、両親は驚いた顔をしていた。仕方ないじゃないか、とイデアは思う。見てしまったんだもの、あんな写真を。
昨日の深夜のことだった。ぼんやりとスマートフォンを眺めていたら、一通の通知がポップアップしたのだ。二年前の今日の思い出を振り返ってみましょう。時刻を見れば丁度日付が変わったところだった。お節介なフォトストレージの定型文にむっとしながらも興味を惹かれてしまったのは、数少ない思い出に縋りたい気持ちがあったのだろうか。だって自分のアカウントに保存されている写真なんて、今はもう別れて傍にいない人魚とのものしかないのだから。
タップして開いた写真は、案の定彼のものだった。青い海を背に、テトラポットの上で笑って手を振っている。彼の屈託のない笑顔を知っている人は増えたのだろうか。こみ上げる苦い思いを振り切り、震える手で写真をスワイプする。まるで紙芝居のように、彼がテトラポットを降りていく様子が展開される。水飛沫が近くなると、服を脱ぎ始める。カメラを構える自分を咎めるような視線がレンズに刺さる。すっかり裸になってしまった彼が足先を水に浸す。そして次の写真では、彼は人魚の姿になって水の中で気持ちよさそうに笑っていた。
それきり耐えられなくなって、イデアはホームボタンを連打してブランケットに潜り込んだのだった。今、イデアの世界にアズールはいない。どこで何をしているのかも知らない。まぶたの裏に、波間を泳ぐ彼の姿が焼き付いて離れなかった。
◆
二年前と同じ場所に来るだなんて、こんな感傷誰かに知られたらきっと笑われるんだろうな。真っ白な街の急な坂を歩きながら自嘲の笑みを浮かべようとして、イデアは失敗した。なにしろ暑い。そして坂は苦しい。ろくに部屋からも出ない身に、久しぶりの外の世界は容赦なかった。額を汗がだくだく流れ、顎を伝って落ちる。脚が痙攣し始める。ベージュのパンツは今頃汗で変色しているのだろうけど、下を見たらそれきり一歩も歩けなくなりそうで頑なに坂の上を睨み続けた。太陽に刺された目がひりひりする。涙も出ているかもしれないけれど、汗にまぎれて自分でも分からない。耐えがたくなって、誰もいないのをいいことにシャツを剥ぎ取ると丸めて汗をぬぐう。自分の体臭がむっと臭った。真っ白いシャツだ。シャツもパンツも、アズールに見繕ってもらった服だった。いかにも悲劇的で馬鹿馬鹿しいけれど、それを着ることを今日だけは自分に許したかった。
陽炎の先を目指して無心に足を動かしていると、ふと覚えのある香りが鼻をかすめた。思わず足を止めてあたりを見回す。どこもかしこも白い漆喰の街に紛れるように、道沿いの家の壁を覆うように花が咲いていた。思わず引き寄せられて、胸いっぱいに息を吸う。生ぬるい空気とともに入ってきたのは、確かに知っている香りだった。アズールの襟足からたびたび香っていたにおい。ああ、とイデアは呟く。途端に、もう誤魔化しようもないほど両目から涙が溢れた。喉が震えて、うあ、と声が漏れる。鼻をすするとつんと痛んだ。それでも、花の匂いはまるで消えない。彼のコロンの香りは海辺に咲く花だと知った。
今すぐにでもうずくまってしまいそうな足を叱咤して、坂の頂上をもう一度見据える。震える左足を一歩前に出した。体重をそこに乗せる。渾身の力で右足のかかとを蹴る。そうしてイデアは、再び坂の上を目指した。
とうとう坂を上り切ると、眼下には海が広がっていた。あの日とは何もかもがまるで違うのに、相変わらず景色は美しい。青い海は陽光を受けてきらきら輝いていたし、白い街並みのそこここで屋台の極彩色の布がひらめいていた。
坂の頂上からは石段が伸びている。煉瓦造りの壁に手を添わせて、イデアはおそるおそるそれを下った。30段ほどの階段を下りればあとは平坦だ。石畳に交じる粒子が太陽を反射して煌めいている。
サーフショップの前で売られていたグレープ味のシャーベットが目に留まって、思わずひとつだけ買う。添えられた簡素なスプーンを咥えると、いかにも偽物らしい味がした。それすらも、照り付ける太陽の下でみるみるうちに溶けて行ってしまう。食べ歩きなんて慣れていないからぽたぽた紫色の染みがタンクトップにつく。けれど道端に投げ捨てることができなくて、イデアはその単純な味の氷菓をひたすら口に運び続けた。
海辺につく頃にはもうすっかりシャーベットは液体になってしまっていた。鼻をすすると、カップの底に残ったそれを一気に口に流し込む。空にしたカップを片手で潰したら、右手がべたついた。その感触の不愉快さを知ったのも二年前の今日のことだった。
堤防の際まで来て、テトラポットをよじ登る。写真に収めたのと同じ場所だった。おさまりの良い場所を見つけて、シャーベットのごみと脱いだシャツを傍らに置いて座り込む。たった二年しか経っていない海は全く変わらないのに、何もかもが違って見えた。汗が目に入って、ぼやけた視界であの日アズールが楽しそうに手を振っていた景色が滲む。ワアワアとけたたましい声が遠くに聞こえ、目をやればカモメの群れが飛んでいた。あの鳥たちはどこか向かう先があるのだろうかと思う。もう一度、あの日アズールの消えた海に目をやる。水平線まで何にも邪魔されずに見渡せるのに、イデアはどうしたってその先には行けない。せめて、とイデアは祈った。
「君は幸せでいてよね」
閉じたまぶたを白い太陽が焼いて、薄明るい世界がイデアを包み込んだ。
2020/07/08
ゴースト・マリッジイベントストーリーの前編を受け、後編を待たずに書いたもの。「学園を挙げて結婚詐欺に勤しんでいる中で、『理想の王子様』とゴースト・プリンセスに評されたイデアだけがずっと本当のことしか言ってない」「イデアって名前は『実在』『真実』『理想』という意味」という自分の感想を解凍したもの。ゴマリ前編にイデアの生きづらさを感じてしまって情緒が駄目になりました……
嘘つきの炎
「僕とオルトって似てるのかなあ」
ふと思い出して、イデアは部屋を訪れていたアズールに尋ねてみた。ゴースト・マリッジ騒動から数日経ったある夜のことである。魔導装置の青い光を背に椅子に腰掛け、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたアズールの手からサイコロがころんと転がり落ちた。
「お、アズール氏無念でござるなあ結婚詐欺に引っかかる、300万マドル失う〜」
「あ、ちょっと! 今の無しです無し、振ったわけじゃない!」
「二十面ダイスで何悪足掻きしてんのかなこの子は。はいサイコロの言うことは〜?」
「くっ……絶……対……」
メモパッドに所持金を書き付けながら、アズールは口元に手を当てて真剣な顔をする。株の買い方でも思案しているのかねとイデアはほくそ笑んだ。
「何かあったんですか?」
「え?」
「だから、あなたとオルトさんが似ているって話」
「あ、その話ね」
ゲームの進め方じゃなかったのか。そう思いながら、イデアは昼間にあったクラスメイトとの会話の記憶を手繰り寄せる。あの陽キャパリピ代表、ケイト・ダイヤモンド。あの男が急に話しかけてきたのだ。珍しく生身でうろついていた自分を目ざとく見つけて、まるで十年来の友人ででもあるかのような奇妙な気安さでもって。
「オルトくんってさー、ピュアボーイかと思ってたら、意外なとこあるんだね的な? けーくんびっくりしちゃった。イデアくんのことになるとけっこー手段選ばない感じ? 愛されてるよねー」
「え、ぼ、僕に、オルトが?」
さっさと逃げようと思っていたのに、弟の名前に反応してしまったのだ。フードを引き上げる手が一瞬止まった。ケイトが笑顔で二、三度頷く。逐一ボディランゲージの激しい男だった。
「兄弟仲良いの羨ましいわー。そいやアズールくんも言ってたよ。似たもの同士なんだって」
一部始終を話し終えると、アズールはああ、と頷いた。その話ですか。
「まあ確かに言いましたね。オルトさんが意外と陰湿なこと言ってたので、あの兄にしてこの手の弟ありかと」
「陰湿て」
「そうでしょう、だって」
ハッキングとか、顔を晒すだとか、えげつないテロップとか。アズールがつらつらと挙げるオルトの発言に、イデアはどんな顔をすべきか迷った。全く嬉しくないと言えば嘘になる。しかし、少しは彼の情操に配慮をすべきだろうか。そっくりだと思いましたよ、と、アズールがイデアの思考にとどめを刺した。
「オルトに何でもかんでも話すのやめなきゃなあ」
「今更では?」
人の弱った顔から生気を得るタイプの人魚が当人の眼前で片眉を吊り上げてにやついている。生き生きしやがって。舌打ちしそうになるのをこらえて、秀麗なその顔を半眼でねめつける。アッ駄目だこうかはないようだ。
「おまいう案件ですぞアズール氏」
「わざわざ多面ダイス持ち出しておいて何を」
「拙者が死者の国に連れてかれたらそのゲームの相手もいなくなるくせに」
「そのうちに這い上がって来てその辺彷徨ってそうですけどね。未練だらけでしょう、あなた」
「まあ確かに金カムの完結までは死ねん」
「……そこは嘘でも僕とボードゲームでいいじゃありませんか」
ちらりとアズールが部屋の隅、オルトのスリープスタンドの設置してある辺りに視線を走らせる。ほんの一瞬のことだった上彼が気まずげに口ごもったので、イデアはそれに気付かなかったことにした。まあでも、とアズールが続ける。その手は二人の間の机の隅に置かれたメモパッドの端をぱらぱらと捲っていた。
「あなたは本当に正直者ですよね」
覚えのある言葉に眉をひそめて少し考え、ああそれ、とイデアは答えた。それ、ケイト氏にも同じこと言われた。
昼間の一幕でのことだ。オルトの話をひとしきりまくし立てたあと、例によってあのきらびやかな男は彼の言うところの「記念ツーショ」をしようと迫ってきたのだ。当然徹底抗戦の構えを示したイデアに、彼は苦笑いと共に告げた。
「イデアくんってさー、なんてーか、うーん、正直。正直だよね〜」
思いもよらぬ言葉に驚いてフードの陰から様子を窺うと、ケイトは戸惑ったように眉を下げて笑っていた。
「ししょ、正直? 僕が?」
「えぇ〜、だってさあ、なんかノリ悪めっていうか? けーくん傷ついちゃうよ〜! ね、ちょっとだけさ、空気ってやつ? 合わせてみない?」
ウッッザ。ハイハイ出たよ陽キャの仲良しごっこ。薄っぺらいやつね。付き合ってらんねーっすわ。なんてその時は言えず、イデアはただ唇を固く引き結んで逃げ去った。ケイトは追ってこなかった。当然だ。自分にそんな価値はないし、興味を持たれたのだって気まぐれに違いない。交流深めたいとか何とか言って、結局のところあいつらは自分の嘘にさえ無自覚な馬鹿なんだ。
その顛末を話して聞かせると、アズールは長い溜息を吐いた。
「え、その反応もしかして拙者が悪いとかおっしゃる?」
「当然でしょう」
フン、とアズールが鼻を鳴らした。
「突如として陽キャに襲われた被害者ぞ我」
「あんたほんとどんだけ認知歪んでんですか。……あのね、いいですか、イデアさん」
アズールが腕を組んで椅子にふんぞり返る。彼がよく来るようになって、作業用のデスクとは別に買った小さなテーブルセットだ。そこに彼は体を預けて、先輩であるはずのイデアに哀れむような――恐らく彼に言わせれば慈悲に満ち溢れた――目を向けている。
「ダイヤモンド先輩からすればね、気まぐれだろうとなんだろうと、わざわざ友好的に話しかけた相手がまともな会話ひとつせず逃げて行ったわけですよ。あなたそれ、オルトさん……や僕、に同じことされたらどう思います?」
まあ僕もやられてますけどね仲良くなる前。わざわざ釘まで刺して、これみよがしに足を組んだアズールが答えを待つ。気圧されながらイデアは、その優秀な頭脳を働かせてアズールの言う通りに想像してみた。自分がオルトやアズールに話しかけて、目も合わせてもらえず、すぐに逃げられ……。
「もぉマヂムリ……マリカしょ……ってなって引き籠もる」
「健康そうで何より。今とあんまり変わりませんね」
「ウボァ」
しかもね、とアズールがサイコロを転がす。今日の彼は妙に調子が良くて、既に随分イデアをリードしている。パチン、と音を立てて彼の駒が着地した。骨董屋で買った絵が本物の名画だった。アズール氏に5,000万マドル。
「しかもあなた、あのとんでもない言い草の後ですよ。ゴースト・プリンセスに見初められて、僕たちが助けに行った時の。あれはさすがに酷いです。僕も頭に来た。それをダイヤモンド先輩はなかったことにして話しかけてくれたわけですよ」
「ウィッス……」
「まあその辺は、僕ら全員人のこと言えたもんじゃありませんけど」
「確かにアズール氏第一陣のこと捨て駒としか見てませんでしたな」
「お黙りなさいな」
アズールが親指と人差し指につまんだサイコロを突きつける。そしてそれをイデアの眼前でぱっと離してみせた。サイコロが自由落下に身を任せ、ゲーム盤の上にころころと転がる。
「とはいえね、腹は立ちましたが、実際のところ正直は美徳ですよ」
サイコロの示した数だけ駒を進めながら、アズールは言葉を紡いだ。沈黙するサイコロを今度はイデアが拾い上げ、テーブルに投げる。樹脂素材同士のぶつかる軽い音がした。
「そういうもん?」
「そういうものです。息をするように嘘をつくよりはずっといい。付き合いやすいのも断然正直者です」
ははあ、とイデアは息をつく。ビジネス界は二枚舌でしょうからなあ、知らんけど。じろりとアズールに睨みつけられて、すぐに減らず口をつぐんだ。
「あなたの……まあなんですか、孤高。孤高は尊いものです」
「はあ。そうなの?」
「そうてす。己を誇りなさいな。少なくとも僕はあなたを誇らしく思う。さ、上がりです。あなた所持金は? はは、僕の圧勝ですね。お疲れ様でした」
呆気ないほどに淡白な動作でアズールが席を立つ。そしててきぱきとゲーム盤を片付けるのを、イデアは呆然と眺めていた。目の前で繰り広げられる一挙手一投足が映画の場面のように現実感を欠いていた。彼の背後で青い光が回転する。それはゲームの間中ずっとそこにあって、イデアの目に突き刺さっていた。暇を告げたアズールがさっさと荷物をまとめて去ってゆく。素っ気ないが、足音は機嫌が良さそうだ。イデアは目を閉じた。
「僕だって嘘つきだよ」
ひとりごちる。青く燃える光球が、しつこく瞼の裏に浮かんで見えた。
2020/07/19ワンライ(#イデアズ版深夜の60分一本勝負)に寄せたもの
お題:ファーストキス
「キモい寄りのモブになってあ~ちゃんにジルのリップ贈って嘲笑われたい」旨の欲望ツイートを解凍したもの
サムシングブルー
贈られたのだという。
本日の夕刻、モストロ・ラウンジでいつものように支配人として手腕を振るっていたアズールは、一人の生徒に呼び止められた。「最近よくご来店くださる、ご贔屓様」であるところの彼は、「なかなか見もの」なほど顔を真っ赤にしてアズールを呼び止め、その紙袋を彼の眼前に突き付けたのだ。
「あ、ああの! これ、アズールさんに似合うと思って! よ、よければ使ってください!」
おい何だ今の大声。しかも見ろって相手オクタ寮長じゃん。衆目を集める理由が十分にあったことは想像に難くない。かくして店内の視線の中心に立つことになったアズールは、とりあえず彼の思う所の最もエレガントな動作でもって、それを受け取ることにした。
紙袋がアズールの手に渡るや否や、ご贔屓君は脱兎のごとくその場を去ってしまったという。なぁにそれェ、と彼の腹心の片一方が背中にのしかかってくる。二メートル近い巨体を引きずってバックヤードに戻れば、当然もう片方もわくわくと待ち構えていた。二人の前で著名な化粧品ブランドの紙袋から出てきたのは、細長いパッケージだった。
「リップスティックですか。初心な方の思いつきそうなことですねえ」
ジェイド・リーチがにやにや笑う。アズールが手袋を外さないままの手で慎重に外装を開けると、ドレッシーなデザインのケースが出てきた。銀色の地に、青い石が一粒飾られている。外したキャップの下からは、アズールの目の色に近い水色の口紅が現れた。
「やっべキラキラじゃん。おもしれ。つか水色ォ? アズールそーゆーのつけんくね?」
「おや、違いますよフロイド。これは唇の水分に反応して薄ピッ……ンフ、薄ピンクに発色するものです」
笑いをこらえる気も無いジェイド・リーチをアズールが一睨みする。
「よくご存じですこと。お前も同じものを?」
「マ? やっべ俺双子不信」
「まさか! 何に使えるか分かりませんからね、こういった情報は。ちなみに、先週数量限定で発売されたばかりです。テーマはサムシングブルーだそうですよ」
キッモ! と響いた声は綺麗にユニゾンしていた。アズールとフロイド・リーチの二人分だ。ジェイド・リーチはさぞ面白い光景を見たことだろう。フロイド・リーチはいつの間にかアズールの背に貼りつくのをやめて、双子の片割れにぴったり肩を寄せていた。アズールは一日分の疲れが急に肩に圧し掛かってくるのを感じながら、無言で口紅をパッケージに戻した。
そういう経緯でもって、今イグニハイド寮の僕の部屋まで来たアズールには普段の彼には無いオプション、すなわち手に持った紙袋、がついているのだった。
そりゃあ確かに似合うだろうけどさあ。双子の慇懃な方は笑ってたっていうけど、普通に似合うと思うよ、うっすらピンクのリップのアズール。なおこれはキモオタの夢と色眼鏡を通しているものとする。モブ野郎と同じ感性の己が少し悲しい。でも多分絶対可愛い。デザインだって、アズールの髪と同じ銀色に海の水色とかぴったりだけどさあうるせえオタクは推しカラーに弱いんだ。でもさ。でもだからって、受け取っちゃう? あまりにも露骨じゃない? しかも受け取った挙句、それを一応は彼氏であるところの僕に見せたりする? キモオタでも分かるよそれはさすがに無神経。ギャルゲだったら裏ルート行くためにわざとメインヒロインで選ぶレベルのクソ選択肢。
「……で、どうすんの……それ、使うの?」
訊きながら、僕は後悔していた。だってこれじゃあいかにもへそを曲げていますと言わんばっかりじゃないか。目の前のアズールが呆れた顔で溜息をつくので、僕のHPはいよいよ赤ゲージになる。誰かポーション投げて死にそう。どうしよう、物に罪はありませんなんてアズールが言い出したら。この子、がめついし。彼が今手に持っている口紅を塗るところを想像して、僕はいよいよ消沈した。口がへの字を描くのを止められない。だって悔しいじゃないか。僕はまだ彼の唇に触れたこともないのに、よりにもよって知らない人間の贈った物に先を越されるだなんて。折角来てくれたのに勿体ないけど、もうアズールの顔を見ているのも辛くなってきた。メンタルクソザコミジンコ引きこもりなんだ、こっちは。
「使うわけがないじゃないですか」
アズールが言って、僕の鼻を思いきり摘まんだ。しっかり痛くてギャアと声を上げる。アズールが口の端を吊り上げて、メルカリ一択でしょう、と言い放った。
「まあ不安にさせてしまったことは謝ります。自室に戻る間も惜しかったものですから。……あなたに早く会いたくて」
彼のわざとらしい流し目に、僕は残念ながらなすすべもない。
「えぇ……あざとい百点……。きみががめつくて本当によかった」
「もしかして僕喧嘩売られてます?」
安心するあまり、ふらふら後じさりしてベッドに座り込んでしまう。彼を立たせたままなのが紳士的じゃないのは承知しているけれど、ちょっと今はテーブルとか出す気力もない。そんな僕の有様に鼻を鳴らして、アズールは勝手にデスクチェアを陣取って口を開いた。
「大体、似合わないでしょう」
「うーん、まあ確かにそういうキラキラ~姫~みたいなイメージじゃないかも? 拙者は嫌いではござらんが」
「そうではなくて……その、色が」
「え? アズール氏ピンクいの普通に似合うのでは。かわいいし」
アズールが一瞬口ごもる。膝に置いた紙袋を一瞥すると、それを視界の外に追いやるようにデスクに移し、脚を組んだ。納まりが悪かったようで、何度か左右を組み替える。
「ありがとうございます。……あなたから僕がどう見えているのかはともかくとして……僕が似合うのはもっと鮮やかで、しっかりした……青とか、だと、思うのですが」
首を傾げる。でもきみそんな色つけたことないじゃない、と言いかけて、寸でのところで僕は言葉を飲み込んだ。アズールが眉根を寄せて、強い目をして僕を真っ直ぐ射抜いたからだ。彼の焦点が少しずれた。丁度そう、多分、そのあたりに僕の唇がある場所に。真っ青な口紅を塗った口が網の上で焼かれているみたいにじりじり熱を持つ。そういうことか。どういうことだよ。いやそういうことなんだよ多分つまり。
「あ、アズール氏、あの」
「はい」
アズールは視線をずらさない。殆ど睨みつけるみたいにして僕を見据え続けている。目がすごく乾燥した気がして、何度も瞬きをする。それなのに何度視界に暗幕を降ろしても、目を開ける度彼の多分リップクリームくらいしか塗っていない、色の薄い唇に吸い寄せられた。
「あの、つ、つける、すか。あ、青いの……」
アズールの口角がみるみる上がるのがスローモーションみたいだったのは、多分僕がずっとそこを見続けていたからだ。それに合わせて、勝手に尻が浮く。鷹揚に頷いた彼が頭を再び上げた時には、僕はもう彼との間にあった一メートルかそこらの距離をすっかり詰めてしまっていた。目が合う。残された数センチは、多分人生で一番遠い数センチだった。夢みたいに柔らかい場所に触れて、押し付けて、温かくて、すこしこすりつけたらつるつるしていて、たまらなくなって体を離した僕が目を開けると、そこにはご所望の色に唇を染めて嬉しそうに笑うアズールの姿があった。
2020/07/27
アメリカ映画のノリのイデアズについて妄想していたら楽しくなっちゃったもの。元々ツイッターのツリーで書いていた。狂気。結婚オチ。
卒業後ニューヨークっぽい街に住んでいます。アズールは起業している。
深夜のダイナーにまずいコーヒーとドーナツ、という舞台が例に漏れず大好きです。計略のためなら自分もイデア氏も駒として割と粗末に扱うアズ、「あなたそんなに僕に甘くてどうするんですか」という台詞は隙あらばやりたいと思っていたもの。タイムズスクエアの側溝の臭いは筆者が旅行した際にパック入りのハムの大外れを引いて吠えた台詞。
命日万歳
どうしても、と呼び出されたのである。今何時か分かってる? どうせ起きてるでしょ。絶対に家から出たくないでござる。ウツボけしかけますよ。そんなようなやり取りを経てドアを押し開けた午前〇時過ぎのダイナーは閑散として、明るすぎる蛍光灯に照らされた店内のそこかしこに汚れが目立っている。その薄汚れたフロアの隅、座面の擦り切れた丸椅子の上に、場違いにきらびやかな男が一人座っていた。
「何、突然」
大きな音を立てて男の目の前にセルフサービスのトレイを置く。目だけを上げてイデアを認めた彼は鷹揚な動作で胸を反らし、片手を広げてにっこりと笑ってみせた。
「たまにはあなたとデートしたくなってしまって」
安っぽい蛍光灯よりも白々しい恋人の顔を睨みつけながら、イデアはこれ見よがしに皿の上のドーナツを取り上げてかぶりつく。深夜に至るまでレジ横のショーケースに売れ残っていた油菓子はツイステッドスクエア駅の側溝のような臭いがしたが、眼の前の男の眉が神経質にピクつくのを見れば溜飲を下げてなおお釣りが来る。
「まあ、実際のところは」
アズールがマグカップからコーヒーを啜り、盛大に顔をしかめた。上等の紅茶ばかり飲み慣れた彼にはさぞ堪えることだろう。ポーズを取るのをやめたらしい彼がテーブルに肘をついて真っ黒な水面を見下ろす。
「クソですね」
「キヒ、お可哀そうなアズール氏」
「あんたも同じの買ってんじゃないですか」
「拙者はこっち側の人間ゆえモウマンタイ。で、実際のところは?」
今一度未練がましくコーヒーの臭いをかいで溜息をついたアズールが、イデアに向き直り声を潜めた。
「盗聴、盗撮、またはハッキングされてるかもしれなくて、あなたの部屋」
イデアは唖然とする。ハッキング? 拙者の城が? 魔法とテクノロジーの要塞が? まさか、とこぼした言葉を拾い上げるように、アズールが手の平をひらりと差し出した。最近身の回りに違和感は? イデアがふるふるとかぶりを振ると、アズールはさして驚いた様子も無く鼻を鳴らした。
「だからいつももう少し外界に興味を持てと……。あのね、最近あなたのプロダクトの類似品が異様に出回っているんです。しかも僕のライバル社から。それで、これは謝罪になるのですが」
アズールが少し目を泳がせ、実を言うと、と切り出す。実を言うと、元々嗅ぎ回られていたのは僕でして。僕はまあご存知の通り黒い噂には事欠かないんですが、ちょっと真に迫りすぎているものが最近多くてですね。調べてみたら、まあ案の定、紛れ込んでいたんですよね、目か耳か指か、またはその全部が。ヘッドハントしたつもりの社員だったり、買い付けたサンプルマシンだったり、失くしたと思ったらいつの間にか戻ってきていたタイピンだったり、貰い物のカフスだったり。
「で、そのうちのいくつかを、恐らくあなたのお部屋に持ち込んでしまっていたのではないかな、と」
話しながら徐々に肩をすぼませて行ったアズールが、怒られるのを待つ子供のように上目遣いでイデアを窺う。それをぼんやりと見つめ、イデアは眼の前の男の語ったことを頭の中で繰り返した。三巡目にしてようやく九割ほど理解したところで、イデアは無言のまま泥水のようなコーヒーをがぶ飲みする。口の中が苦酸っぱいもので満たされ、その味覚の暴行に叩き起こされた頭が残りの一割にとどめを刺した。なるほどね、完全に理解した。そして、舌にこびりつく不快な味に我慢ならなくなったところで、イデアは体の衝動に理性を明け渡し、思い切り口を開いた。
「ヒューマン・エラー‼」
咆哮が轟いた。アズールがこめかみを押さえている。深夜シフトの草臥れた店員がこちらを一瞥し、がしゃんとレジの蓋を鳴らした。
「そうです……すみません、僕のミスです……」
「や……拙者も気が緩んでた……きみの持ってきた物は確かに全スルーだったわ……分かる、分かるよ。いつだって綻びは人間なんだよな……知ってた、知ってたんだけど……」
「いやほんと……いつもみたいに煽っていただいた方が助かるので……一緒に落ち込まれると……ほんと……。ですが、ですがねイデアさん」
アズールががばりと顔を上げる。その目には既に見慣れた悪辣な炎がうねっていた。炎がなめらかに形を変え、イデアの愛してやまない三日月形の愉悦にとろける。
「逆探知も特定も済んでいますし、ネタも抑えてあります。これで迷惑料ふんだくるなり何なり何とでも。三ヶ月! ここまで三ヶ月かかりました! なかなか尻尾を出さな……」
アズールがふいに口籠る。イデアが左手を挙げたからだ。え、と二人の間に落ちた一音を、今度は拾う者はいない。
「三ヶ月」
「……仕方ないでしょ」
「拙者のプライベート全開を、三ヶ月、三ヶ月放置、相談、なぜ」
「……あなた時々僕のコントロール外に走るから……」
「で、三ヶ月」
「……ごめんなさい」
内臓ごと吐き出すような、長く重い溜息が薄汚れた床を這った。マァジかあ……。イデアは頭を抱え、指の隙間から恨みがましくアズールを覗く。さすがに悪いと思っているのか、腹の前で指を忙しなく組み替えてはこちらをちらちら伺っている。
「なんかさあ……じゃあもうさあ……アズール氏」
「はい」
「結婚しましょうか」
「……はい?」
彼の指がぴたりと止まる。頭から手を除けてのろのろ顔をあげると、口を半開きにしたアズールがこちらを凝視していた。まあそうなるよね。内心呟き、イデアは顔の横で人差し指を立てる。一つ。
「結婚は人生の墓場と申しますゆえ」
「何が言いたいんです」
人差し指の隣に、今度は中指を立てた。二つ。
「アズール氏に捧げた愛ゆえに拙者は本日死にましたので」
次いで薬指。三つ。
「拙者はアズール氏に結婚を申し込み、またここを拙者の墓場といたす。Q.E.D.そしてR.I.P.」
三本指を立てた手をぱっと開き、アズールの前に差し出す。できるだけふてぶてしく見えるようにふんぞり返り、厭味ったらしく片頬を上げた。唖然としていたアズールが次第にくすくすと笑いだし、しまいには肩を揺らして高笑いを始めた。ひとしきりの後に涙の浮かんだ目尻を指先で拭うとその手を伸ばし、イデアの指に重ね、そして握り込んだ。鼻と鼻がくっつきそうになるまでテーブルの上に身を乗り出す。胸焼けしそうに甘く緩んだ顔がイデアの眼前に迫る。
「いいでしょう、全く、あなたそんなに僕に甘くてどうすんですか。イエス、勿論イエスですよ。今日を僕らの命日、兼結婚記念日としましょう。そうと決まれば届け出に行きますよ。ああもう! 最高の日じゃないか!」
アズールはけたたましい音を上げて立ち上がると、イデアの皿から食べさしのドーナツを掠め取り思い切り良く一口かじった。
「まっず!!!!!!」
イデアが手を叩いて喜ぶ。カウンターからとうとう店員の舌打ちが聞こえたが、アズールもイデアも気に留めない。
「死ぬほどまずいっしょ」
「え、ほんとにまずい。なんですこれ。死んじゃった」
「命日おめでとう」
「ほんとですよ。命日万歳」
二口かじったきりのドーナツをごみ箱に突っ込み、二人は腕を組み肩を組み腰を抱きもつれ合いながらダイナーを後にする。ねえ届け出用紙って深夜でも貰えるんです? 陰キャがそんなん知るわけなくない? じゃあもう仕方ないから、先に結婚初夜しちゃいましょうか。え、天才。大通りに躍り出た二人をオレンジ色のタクシーが拾い、夜の都会にエンジン音を響かせて走り去っていった。