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    ロマンス 今週の予定を滔々と読み上げる秘書の声にふと引っかかりを覚えて、おろしたての紺のスーツを着込んだ彼の眼前に、僕は立てた人差し指をかざした。
    「ストップ、今のところをもう一度」
    「……はい。木曜十五時三十分、着替えてトルニ&タラン社の新製品ローンチパーティーへ」
    「おかしい。欠席と伝えたはずでは?」
     口ごもる秘書の肩越しに、ジェイドがにんまりと目を細めていた。そういえば欠席を言い渡した時、この男も同席していたはずだ。フロイドはと言えば我関せずを決め込むことにしたらしく、手元のタブレットを気怠げにいじり回している。業務の瑕疵を叱責されると思ってか、秘書が肩をすくめて背後を一瞥する。
    「どういうことか、説明を」
     糾弾の視線は秘書を飛び越え、意味有りげに笑むジェイドに向けたものだ。週末からの不機嫌を持ち直しきれなくて、声は我ながら刺々しい色を帯びている。それでもこの定例のブリーフィング――通称、三頭会議――を終えたなら、スマートでにこやかなプレジデントの顔を取り戻す気でいたのだ。つい三分前までは。
    「そう苛つかないでください、土曜日の約束を反故にされたからといって。招待者リストにとても珍しいお名前があったものですから、僕の独断で参加と」
    「勿体ぶるのはお前の悪癖ですよ、ジェイド」
    「これは失礼。イデア・シュラウドさんが来られるそうです」
    「……そういうことですか」
     責めるべき人間がこの部屋に存在しないことを理解して、僕は眼鏡を外すと疲れてもいない目頭をもみほぐす。月曜の朝から眉間に皺をこしらえたボスの怒りを免れたことで、秘書がこっそり息をついていた。
     ジェイドからタブレットを受け取り、表示されているドキュメントを上から下まで三往復する。確かにそれは木曜のパーティーの招待客の一覧であり、上から二十四番目には間違いなくイデア・シュラウドの名前が記されていた。当代一の工学者であり、プレジデント・アーシェングロットの言わずと知れたゲーム仲間でもあると同時に先週土曜日十一時三十二分以降同氏の会いたくない奴リスト第一位に居座る人物の名前である。
    「僕に公私混同をしろと?」
    「あくまで社に来た招待状ですよ。あなたの心中なんて僕は存じません」
    「どうせ例によって欠席と」
    「確認したところ、ご出席とのことですよ。所属先の強い意向で」
    「……まったく、どういう風の吹き回しだっていうんだ!」
     ともかく、これについては後程改めて指示をします。金曜から先は? 思わず早口になったのを聞きとがめたらしく、ジェイドが更に笑みを深める。慌てて続きを読み上げる秘書の声に耳を傾けながら、頭の片隅で僕はイデア・シュラウドに意識を回した。どうせ直前になってキャンセルか、せいぜいタブレット参加で会場中の失笑を買うに違いない。よしんば姿を現したところで、五分と耐えきれず逃げ出すのが関の山だろう。それに、公の顔は分野違いの僕たちだ。会場で顔を合わせたとして一体何を話すというのか。不参加の理由はいくらでも考えつく。けれども結局、ブリーフィングが終わるまでとうとう僕はそれを言い渡すことができなかった。それどころかマルチタスクに優れた僕の脳は、その日着るべきスーツを探して勝手に記憶の中のクロゼットをかき回し始めているのだった。


    ***


     僕とイデアさんは、実に十年にも渡って延々と微妙な関係性を維持し続けてきた。微妙な関係、そう呼ぶのでなければ他に何と言えようか。最も気を許すところの他者が僕であることを彼は折につけ言葉にして伝えてくれていたし、僕の方も多忙の合間を縫って友誼を深めるための誘いを繰り返す労を厭わない程度には、親しい人間としての誠意を示してきたつもりでいる。けれども功利と厭世のはざまに発生したエアポケットのようなあの部室、長じてのちは互いの自宅あるいは人気の少ない喫茶店で、ジャンクフードの油の臭いやスマートフォンから流れるゲーム音楽に包まれ育まれた僕らの親密さを恋と呼ぶには、あとひと匙ロマンスの文脈が足りないのだった。
     僕らの連綿たる歴史は十五の歳のボードゲーム部室での邂逅に始まり、興味と憧れと呆れと少々の失望とその後の受容に彩られ、僕たちの両方にとって驚くべきことに、今日この日まで続いている。いや、続いていたというべきか。二日前の土曜日十一時三十二分に彼から送られてきたメッセージに僕が激昂して以来、この関係は一時の断絶に見舞われていた。深刻ないさかいというわけでもなく、更にはたった二日と一時間十八分のことだ。けれどもこれが永遠とならない保障を、僕はどこにも見出すことができないでいる。
     僕らの間に漂うムードについて、双子はその多くの場合において重宝するが時に厄介な嗅覚をもって、なんと最初の半年でおおまかなところを嗅ぎつけてしまった。彼らに言わせれば「さっさと好きって言っちゃえばいーじゃん」あるいは「若い時代は有限ですよ」であるのだが、その度に僕の返す言葉は決まっている。
    「生身の人間とのコミュニケーションの良さをあの人に理解させるのが先ですよ」
     傘下レストランのテラス席で視察がてらのランチを摂りながら、何度目になるか分からないその台詞を今日も僕は吐き捨てる。とうに聞き飽きたらしい双子は肩をすくめて互いを見遣り、それきり二の矢を飛ばしてくることはない。同席する秘書もこの手の話題にはすっかり慣れてしまっていて、素知らぬ顔でポテトをフォークに突き刺している。いいから目の前の料理に集中しなさい、お前たちの意見も聞きたい。二人が大人しくカトラリーを手にするのを見届け、僕もやや焼きすぎのきらいのあるシェパーズパイを口に運ぶ。いささか水分を欠くことに目を瞑れば、フィリングの質はこの国の平均をゆうに五歩は上回っていた。殊に肉の質が良い。仕入れの技術は評価に値するものの、とはいえ人員配置については見直しの余地があると見受けられる。部門長に国内店舗の総点検を指示するべきだろうか。伝えるとすれば木曜の幹部会議だ。そしてその後は。
     一度彼から遠ざかった思考は、再び同じところに立ち戻る。飲みやすい温度にまで冷めた紅茶を呷って、僕は一つ溜息をついた。通りを眺めればプラタナスの葉が揺れている。どこかの生垣から野兎でも飛び出してきそうな、絵に描いたがごとき麗らかな春だ。正直に認めてしまおう。僕は穴に籠るウサギよりもずっと臆病者なのだった。イデアさんが生身の人間に興味を抱くところが想像できないまま、十回目の春の空をこうして眺めている。だというのに、オフィシャルな場に現れる彼の姿を視界に収めることを心待ちにし、そしてできることなら最高にめかしこんだ僕の姿を彼の目に焼き付けたくて、生まれたての子ウサギさながら気分を高揚させている。
     食事を済ませると、双子とは別行動だ。めいめいの目的地に向けて発つ彼らが十分に遠ざかったのを見届けてから、車を取りに行こうとする秘書を呼び止める。木曜の、と言えばすぐに心得た様子でにやつき始める辺り、ジェイドに似てきたものだと嘆息せずにいられない。
    「出席で構いません。服を預けたいので、これから僕の自宅に寄ってください。会場は?」
    「アタラーシホテルの第一バンケットルームです」
    「ふむ、歩きたい距離ではないですね」
    「もちろんお車はご用意いたしますが……お召し物の皺が気になるのでしたら、お部屋もご用意しますか?」
    「察しが良くて助かります」
     そこで秘書が片手を口元に持ってゆき、こらえきれない様子で忍び笑いを漏らす。何か言いたいことでも? 咎めたところでさして反省した様子も見せず、それどころかタブレットに落とす視線を滑らせてこちらへ流し目をくれる。
    「いえ、まあ……気乗りのしないご様子でしたのに、わざわざお召し物の仔細までご指示いただくとは思っておらず」
    「白々しいのは誰に似たんでしょうね」
    「私がお傍で学ばせていただいているのは社長ですね」
     言い返せない自覚はあったため、今度は本当に溜息をついて折良くやってきた社用車に乗り込む。すかさず秘書から手渡されたタブレットを一瞥すると、表示されていたのは予定会場の写真だった。底意地の悪さも気の利き方も、全くうちで採用されただけのことはある。写真の伝える白い壁と豪奢なシャンデリアに合うファッションを頭の中で組み立てながら、僕は採用人事の成功を複雑な思いと共に確信した。


    ***


     豪奢なシャンデリアから注ぐ光を余さず纏うことができるよう、スーツは艶やかなシルバーのスリーピース。ネクタイは華やかな幅広を選び、シャツは主張しすぎないダークカラー。靴はグロッシーに磨き上げたダブルモンクストラップで、足の甲をすっかり覆ってしまうベルトは採寸に一切の遊びを許さない。綿密に調整されたそれに足元をがっちり包まれると、おのずと気持ちは昂揚する。肌はパールで仕立て、いっそ厭らしいほどに若さを強調する。一緒に引っ付いてきたジェイドとフロイドはそれぞれストライプとペイズリー柄の織模様のスーツで、持ち前の長身をこれでもかと引き立たせていた。
     小バンケットで小型の露光装置とそれを搭載したいくつかの新製品について説明を聞き、部屋を移してアフターパーティーへ。装置は他社による開発で、技術提携と言っていたが要するにただの買い付けだ。よそから仕入れたもので少し工作を頑張ったところで、革新が無ければエレメンタリースクールの工作キットと何ら変わらない。と、そんな風に思っていることを悟られないよう顔に微笑を貼り付けて、アフターパーティーの会場を人から人へと渡り歩く。誰にでもにこやかに、しかし過剰に入れ込まれないよう細心の注意を払いつつだ。そして合間に、よく目立つ青い炎を視界の端で確かめる。
     彼は上司と思しき人に伴われ、華やかな会場で所在なげに佇んでいた。連れが某社の幹部を呼び止めて何事かを話し、イデアさんを振り返る。促された彼が一言二言口を動かす。連れが合図をするとイデアさんはぎこちなく会釈をし、時折誰かにぶつかりそうになりながら、危なっかしい足取りで人ごみをかき分けてゆく。遠目に見る横顔はいつも以上に青白い。シックな黒い上下は長身を美しく引き締めているものの、僕に言わせれば退屈な装いだ。いかにも吊るしのものらしく、肩のあたりを注視するとわずかな突っ張りが見て取れる。僕ならきっと、持ちうる全知識全情熱をかけて完璧にあの男を飾り立てて見せるのに。彼を引き連れる小柄な上司の、鼻高々な笑顔をこっそり睨みつける。
    「なあにアズール、なんかすっげえイラついてね?」
     フロイドが周囲に聞こえないよう耳打ちをしてくる。声音はいかにも楽しそうだ。ジェイドも両目を三日月のようにしてこちらに流し目をくれている。
    「あれを見て喜べるわけがないでしょう。あの天才をまるでアクセサリーか何かのように見せびらかして。しかもろくに磨けてすらいない」
    「おや、僕らはあなたにシャツ一枚選んでいただいた覚えもありませんが」
    「お前たちのことをアクセサリーだなんて思ったことはありませんよ、知っているでしょう」
     彼らの辿り着いた先で、またもイデアさんが挨拶を促される。今度の相手はこちらに背を向けているけれど、青いドレスを着た細身の女性だ。上司が自慢げにイデアさんを紹介する。イデアさんが身を屈め、女性に顔を近付ける。
     次の瞬間、体中の骨が鉛に入れ替わってしまったかのような感覚を僕は得た。イデアさんの眼球がずるりと動き、僕を見たのだ。いつにも増して青白いおもては頭上のシャンデリアの光を受け止め、陰影を失ってのっぺりとしている。その顔に浮かんだ無表情が、真っ直ぐ僕へと向けられていた。
    「アズール。アズールどうしました」
     腹心の呼びかけではたと我に返る。慌てて周囲を見回すも、既にあの人の影は掻き消えていた。すみません、少し疲れたようです。低い声で呟けば、おやおやといつもの口癖が頭上から降ってくる。イデアさんが気になるにしても、さすがに今のはあなたらしくない。
     どうやら本気で心配しているらしい声音に苦笑いを返す。実際、にわかに僕は疲労を感じ始めていた。辺り一面に立ちこめ混ざり合う香水の残滓が鼻腔に滞留し、神経をちくちく突き刺すようだ。頭の中のリストにチェックマークを書き込み、挨拶すべき人間がもうこの会場にいないことを確認する。少し外の空気を吸って来ます。そう言うと僕はウエイターを呼び止め、手に持ったまますっかりぬるくなったグラスを新しいものに交換すると、壁伝いに会場を回りこんで庭園に続く扉を開ける。途端に春先の湿った空気が体を包み、夜露に濡れた草木のなまめかしい気配が脳を目覚めさせた。会場から一歩距離を取るごとに、表情筋の緊張が解けてゆく。
     夜陰のさなかで振り返ると、ガラス戸を隔てた喧騒は海の泡の中の夢幻のように思われた。屋内に背を向け、暗闇へと目を凝らす。先週の金曜も丁度こんな具合の、水気をたっぷりと含んだ夜だった。
    「飲みすぎてしまいました。アーシェングロットさん、よろしければ少し散歩にでもお付き合い願えませんか」
     記憶の中で、あの日のディナーの相手が控えめに腕に触れる指先を感じる。請われて、僕は己の失敗を噛みしめながら夜の公園をそぞろ歩いていた。濡れた草木の香りに混じって、嗅ぎ慣れない香水の匂いが傍らから漂ってくる。ライフスタイルマガジンの編集長であり何度か一緒に仕事をしたその人は、僕にとって有能で興味深い仕事相手であったものの、相手がそれ以上の関係を期待していることは最早明白だった。過剰に入れ込ませてしまったのだ。
     それでもこの時はまだ、僕はさして焦ることもなく、適当な相槌を打ちながらタクシーのいる大通りへさりげなく歩みを誘導しようとしていた。しかし楢の大木に差し掛かった時、僕は己の不運を強烈に呪うことになる。その木陰から、見覚えのある青い炎が現れたのだ。
     急に出現した発光する人影に、恐怖を感じたらしい連れがこちらへ身を寄せて来る。僕らはさぞ仲睦まじいカップルに見えたことだろう。人影――イデアさんは数秒に渡ってこちらを凝視したのち、くるりと体を反転させて薄暗い方へと足早に歩み去ってしまった。僕はと言えば、さして飲んだわけでもない夕食のワインが急に全身を回り始めたのを感じ、それでもう何もかも面倒になってしまって連れをやや強引にタクシーに押し込むと、自分もさっさと家路についたのだった。
     明くる土曜日はイデアさんと出かける約束をしていたのだが、当日の珍しくも午前中に彼から送られてきたメッセージは、僕の機嫌を損ねるには十分だった。
    “ねえ、今日ほんとに行くの?”
     それを見た瞬間不安を感じて通話に切り替えた僕は全く正しかったけれども、果たしてその直感は奏功するに至らなかった。
    「行きますよ。すごいトリオが陽光の国からくるって、席も予約したって言ったじゃないですか」
    「や、そうなんだけどさあ。やっぱ人多いし。配信とかないの」
    「またそれですか。生身の体験でなければ削ぎ落とされてしまうものがあるって、あなたも同意してくれたはずでは?」
    「あー、じゃあほら、昨日なんか、君、歩いてたじゃん? いい感じで? あの人と行けば」
    「……昨日のは、あなたに関係のないことです。第一これはゲームの勝者権限で」
    「……たかがゲームじゃん?」
    「約束したのに!」
    「ごめんて。とにかくやっぱ無理っていうか、君とは生活が違うっていうか、そういうわけだからさ。昨日もあんま寝てないし」
    「……あなたを信じた僕が馬鹿だったんですかね」
     電話の向こうで彼の息を呑む気配がしたけれど、僕はそれに構わなかった。終話ボタンを押し、少し考えてから代わりにフロイドを誘う。折角の予約をこんなことのためにふいにするのは、僕の意地が許さなかった。
     けれどもその夜はずっとイデアさんの姿が脳裏にひらめいていて、期待していた演奏はまともに楽しむこともできなかった。苛立ちが大きければ大きいほど、自分がどれだけ彼との夜に心躍らせていたかを思い知る。本当なら僕はあの日、カジュアルにドレスアップして春のモヒートでも味わいながら、揺らめく彼の髪と上等の音楽を楽しんでいたはずなのだ。自動演奏でいいだなんて嘯く彼の体が、目の前で繰り広げられる肉感的なスウィングに揺れるのを見てみたかった。店を出てからも彼の上機嫌が続くのならば、金曜の失敗の夜と同じように、けれども今度は心から望んで一緒に公園を歩きたかった。ぴかぴかに磨いた靴が泥だらけになったとしても構わない。妄想の中の僕らは、一番クールだったナンバーをハミングしながら人気のない夜の広場でステップを踏むのだ。ね、スウィングしなけりゃ意味がないでしょう? そういって僕は彼の腰に手を回す。セッションするみたいに、お互いの心臓の音をベースラインに、息遣いのグルーヴを感じて、体をこすり合わせて踊りたかった。
     彼のことを考えていると、意識はおのずと先ほどのパーティー会場での眼差しへと辿り着く。女に覆いかぶさりながら、その頭越しに僕を捉えた目だ。ぺろりと唇を舐める。自惚れでなければあの男、僕が他の人間とデートしていたのを根に持って、無関係の女性を使ってまで、当てつけを仕掛けてきている!
    「僕にその手は通じないんですよ、イデアさん」
     口に出してみると、自分は確かに全く動じてなどいないのだと思えてくる。気圧されこそしたものの、考えてみれば全く子供じみた仕返しだ。いっそあの男を捕まえて、からかってやりたい気さえ起きる。
     当面の目的を決めた僕は、改めて意識を庭園に向ける。広さこそこぢんまりとしてはいるものの、いたるところに配された木々やトピアリーにより一目ですべてを見渡すことは叶わない。しかし適当に目星をつけ分け入ってみれば案の定、小さな噴水の傍のベンチに探し求める青い炎が小さく燃えていた。
    「イデアさん」
     僕が声をかけると炎はわずかに震え、しかし逃げ出すでもなくさりとてこちらを見るでもなく、そのままじっと固まっている。構わず僕は距離をつめる。月光が彼の上に差しかかり、眼窩に芸術的な陰影を作り出していた。
    「……アズール氏。つ、月の妖精かと思ったよ」
    「おや、あなたからそんな言葉を聞く日が来るとは」
    「さっきあの後、気になる相手がいるならこう言えって、室長が」
     言葉の意味を正確に計りかね、僕はひとしきり口ごもる。代わりに彼の様子を観察することにしてみると、あの窮屈そうな上着はイデアさんの体を離れてベンチの背もたれへと追いやられ、濃紺のドレスシャツの艶のある布地が噴水のライトアップを受けきらめいていた。
     そのシャツに、僕は間違いなく見覚えがあった。去年の十二月十八日、彼の誕生日に、オルトさんから身体データを預かって僕が仕立てさせたシャツだ。
    「僕の用意するテーブルに、いつもの部屋着で現れたりしたら承知しませんよ」
     そう言って贈り物を渡し、自宅での少しかしこまったディナーに招待したことを覚えている。イデアさんは苦笑いしながらもシャツを受け取り、当日は約束通りそれに身を包んで現れてくれた。ケータリングと僕の料理とを駆使したディナーは和やかに進み、彼の誕生日であるというのに僕は、柔らかな布地の下でゆったりと躍動する彼の骨肉を目の前で堪能する権利をまんまと享受したのだった。
     瞠目する僕の視線の行き先に気付いたのだろう、イデアさんが口をとがらせる。
    「君が来るかもって思って。……何、意外そうな顔。僕だってこのくらいの情緒は分かりますし」
     僕はいよいよ混乱していた。僕のイメージの中のイデアさんは生身のコミュニケーションを軽視していて、ロマンスの文脈へ体を投げ出すことに及び腰で、身に着ける物に駆け引きのトリガーを仕込むなんて発想は持ち合わせない人物だった。それなのに。頭の中でもう一人の自分が叫んでいる。こんなの、まるでロマンスのやり口じゃないか!
     座ったら? イデアさんの声がして、言われるがまま僕は彼の隣に腰を降ろす。危うく押し潰しかけてしまったジャケットをイデアさんが取り上げ、体をずらして空けたスペースに丸めた。そのために、折角僕の下から救出されたジャケットはあえなくしわになり、僕と彼の体は呼吸のリズムが分かるほどに近づいてしまう。
    「どうかな。……変じゃないといいんだけど」
     そう言って彼が、大きな掌を自身の肩に滑らせる。うっとりするほどセクシーですよ、なんて言ってしまえたならば、この場の主導権を奪い返すことができのかもしれない。しかしいつもと様子の違う彼にすっかり面食らってしまった僕は、歯切れ悪くもごもごと通り一遍の賛辞を絞り出すことしかできなかった。プレジデント・アーシェングロットの意外な一面ですねと、この場にジェイドがいたなら嬉々としてからかわれていたことだろう。イデアさんが身じろいで、膝同士がこつんとぶつかる。途端に飛び跳ねようとする足を落ち着かせるのに、僕は前頭葉のシナプスを総動員しなければならなかった。
    「ねえ、ごめん」
     いつの間にか、イデアさんの顔が目の前にあった。上体を屈め、上目遣いにこちらを覗き込んできている。双眸は暗闇にありながら、どうしてか潤み輝いて見えた。何がですか。ほとんど囁くような声で僕が尋ねる。
    「さっき、睨んじゃってごめん」
    「それだけ?」
    「……ドタキャンも。あと、勝手に嫉妬して、怒ってたのも」
    「嫉妬を」
     次第に正気を取り戻しつつある頭で、僕は静かに勝利を確信していた。濃密な夜の向こうからパーティーのざわめきが微かに聞こえる。草木の青臭さに混じって、どこからか花の香りがした。
     膝を、今度は意図して触れ合わせる。彼の視線がそこへ向いたのを確かめると、僕は添えていた手でゆっくりと体をなぞり上げた。盗み見たイデアさんの両眼は釘付けになるがまま、銀色のスーツ越しに僕の体をじりじりと焦がす。ベストの釦に手をかけると、噴水の水音に紛れて彼が息を呑む気配がした。
    「……暑いの?」
    「ええ、少し」
     今や指先は喉元に及んでいた。少し迷って、タイはそのまま緩めないことにする。彼は想像しているだろうか、僕の首元を乱す彼自身を。僕は必死だった。このまま僕らの間に流れる空気を日常に戻してしまったなら、彼の欲望を暴く機会が再び訪れるとは思えなかった。
     イデアさんの手が伸びてきて、逡巡するように空中を揺れる。彼の目を見つめて、僕はどこにも行かないのだと彼が理解する瞬間を辛抱強く待った。誘惑の作法なんて知らない。けれど、彼との駆け引きなら何度もしていた。僕らの間にあるゲームボードが取り払われたからと言って、逃げ出す理由は既に無かった。
     とうとう彼の指先が僕の頬に触れた時、その場所で小さな爆発が起こるのを僕は錯覚した。目に見えない光が弾け、一瞬視界が白く覆われる。それは衝撃が去ったのちも電撃に似た刺激となって全身に伝播し、僕は思わず吐息を漏らしてしまう。口腔を抜けた息は驚くほどに湿り気を帯びていた。覚束ない手を、頬に添えられた彼の手に重ねる。空いた手で、イデアさんの首筋をなぞった。薄く柔らかい皮膚に触れられながら、彼はかすかに目を細めて見せる。許し許される触れ合いの歓びに体がうち震えるのも、きっと彼にすっかり伝わってしまっているだろう。
     今まで目の前に彼がいながら、どうして触れずにいられたのか思い出せない。一度彼の肌の感触を知ってしまえば、もう僕はそれを知らなかった頃には戻れなかった。興奮におののくがまま、禁欲的なモンクストラップシューズのかかとを芝生にこすりつける。今すぐに脱ぎ捨ててしまいたかった。
    「ねえ」ほとんど喘ぐような声音でイデアさんが囁く「僕たち、これまでどうやってたっけ。つまりその、普通に喋ったり、遊んだりさ」
     僕は思わず笑ってしまった。自分と同じようなことを、目の前の男もまた考えていたらしいからだ。拗ねたように眉をしかめる彼の首をさすり、軽くかぶりを振って僕は微笑む。そんなの、意味のない問ですよ、イデアさん。
    「どういう意味?」
    「分かりませんか? つまりね、これからはこれが、僕たちの普通ってことですよ」
     人差し指の背でイデアさんの下唇をそっと撫でる。素直に目を伏せた彼に十分満足して、僕は彼へと口づけた。背骨を熱いものが駆け上がって、頭では何も考えられなくなる。キスは想像していたよりずっと呆気なくて、それでも想像していた何倍も嬉しいものだった。煩わしい布の上から互いの体をまさぐり、角度を変えて口づけを繰り返す。すっかり頭が茹だってしまう寸前で、彼の手が喉元にかかるのを僕は感じた。内心ほくそ笑みながら、僕は彼をそっと制する。本当は余裕たっぷりの笑みを形づくりたかったけれど、今の僕にそれは少し困難すぎる仕事だった。
     あ、ごめん。そうこぼしたイデアさんの表情がまるで怒っているようだったので、僕は彼の耳の後ろに鼻先を埋め、頭をすりつけてしまう。んふ、ふ、ふ。こらえきれず漏れた不器用なクスクス笑いが彼の頭皮を湿らせる。欲望に振り回されるこの人が今自分の腕の中にいることで、今にも叫び出してしまいそうだった。そういう僕だってきっと、情欲に駆られた酷い顔をしているに違いない。
     着替えのために用意させた部屋は、確か明日の朝まで使えるはずだ。靴の中で、拘束された足指がぴくぴくと跳ねる。人差し指で僕の贈ったシャツのボタンをぴんと弾き、イデアさん。全力疾走の後のような呼吸で、僕は彼の耳元に囁く。あと十分だけ我慢して。エレベーターに乗って、部屋に着くまでの間だけ。
     体を離し、真っ赤になったイデアさんの顔を正面から見る。そして彼が大きく頷くのを確かめると、僕らは揃って立ち上がり、もつれる足を叱咤して中庭を回り込みフロントを目指した。外れたままのベストの釦も置き去りにしてしまった彼のジャケットも、見るからにただごとではない僕らの表情も明日の噂の種となることは明白だろう。それでも、ここまで来るのに既に十年を費やしてしまった僕たちに、そんなことを構っている時間などもう残されてはいないのだった。
    鶏肉 Link Message Mute
    2022/07/11 23:48:20

    ロマンス

    #二次創作 #BL #イデアズ #ツイステッドワンダーランド
    卒業後イデアズで、パーティーの夜顔を合わせて両片思いに終止符を打つ話です。六章の諸々は丸く収まったものとして深く考えずよろしくお願いします。
    エスコート+α程度の接触のある当て馬モブがちょっといます

    初出:2022年4月24日(Pixiv)

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