イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

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    しおり
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    しおり
    蠟燭の幽霊と海のざわめき 異端の天才、と呼ばれる暮らしは一体どんなものなのだろう。
    「やあやあアズール氏これを見てくだされ」
     部室に踏み入れるなり、アズールは喜色満面に興奮をまぶした男の笑顔に出迎えられた。不器用に制御された結果抑揚が失われ、代わりにいつもより荒い呼吸音が耳につく。異端の天才とは、鼻息荒く後輩に迫るような人間を意味するのだろうか。まさか。数歩後じさりながら、アズールは顔を引きつらせる。一番最初に彼にその名をつけた誰かは、きっと彼のことを半分も知らない人間であったに違いない。
     犬みたいだな、とアズールは地上人の友たる哺乳類を思い出した。先日触れ合うことがあったのだ。クルーウェルの遣い魔だ。訓練中だという若犬は、信頼する主人の許しを得て全身から喜びをほとばしらせ大はしゃぎしていた。そういえば、おおいぬ座というのがあるんだっけ。その日の占星学の授業を思い出す。地上の犬と言うやつは、馴れた相手の前では全身全霊ではしゃぐというじゃないか。アーシェングロット、おおいぬ座の中心は? イエス、サー。プトレマイオス四十八星座の一つであるおおいぬ座のα星はシリウス、青白光の一等星です。上出来だ、アーシェングロット。なお、青白光は燃焼温度が高く、それが若い星であることを示す。空に召し上げられたおおいぬも、目の前の男のようにはしゃいで青い光を燃え上がらせたりするのだろうか。きっとそうに違いない。
     まあ、あんなに愛らしくはないんですけど。イデアがこの話し方をしている時といえば、それは物凄く面倒くさいかあるいは物凄く面白いことか、二つに一つきりなのである。さて新手の“運ゲー”かと彼の背後を伺ってみるも、果たして部室の机は整然と片付いている。とすれば、と目の前の男に焦点を移したところで、アズールは彼が高らかと五指を掲げていることに気付いた。その手指越しに、イデアの口の両端が引っ張り上げられてむずむず動いているのが見える。
    「……ゲームの?」
    「おお! さすがアズール氏よくお気付きになられた! そうこれ! 作っちゃったのでござる!」
     平素の数倍の声量でイデアが一気に言い立てる。彼が誇らしげに見せつける手には指輪がずらりと並んで、差し込む西日を反射して鈍く輝いていた。ほう、と漏らし、アズールは一歩距離を詰めてその手を取った。大振りの石は魔法石の類か。土台は無骨な作りをしていて、製作者の彼が何かしら埋め込んでいることは想像に難くない。引き寄せた彼の手を目の前に固定し、施された彫刻を人差し指をでなぞる。力を込めて彼の手首を捕まえ、必要以上にじっくりと指輪を検分したのにはちょっとした意趣返しも込めた。次第にぴくつき始める指を大いに楽しみ、そしてイデアが目を逸らすに至って、ようやく満足したアズールはぽいとその手を解放した。
    「さすがはイデアさん、装飾もよく作りこまれていますし、巧みに現実に溶け込むデザインに落とし込んでいらっしゃる。それで」
     イデアの鼻息が荒くなる。眼鏡のブリッジを押さえた指の間から覗く彼の頬が微かに紅潮していた。ふむ、とアズールは考える。気持ち悪いですよ、と冷や水でもって戯れてもいいところだが、正直な心情を述べるならば、アズールもまたイデアに負けないほどの興奮を覚えていたのだ。
    「あなたがそんな顔をするのなら、勿論見た目だけじゃあないんでしょう?」
    「そう!」
     途端に、陽光を捉えた手鏡さながらにイデアの表情が輝く。引き結ばれていた口がバネでも付いているかのように開いて、奥に至るまで綺麗に並んだ鋭い歯が晒された。ずいと一歩、彼の顔が近付く。楽しげにきらめく目が人懐こく細められた。
    「そうなのですよよくぞ聞いてくれましたな当然搭載済みでござる。情報はチップサイズにできるんだから魔法陣が未だに実物大で都度手描きとかマジ意味不でそ時代はポータブルですぞ。そんで作ろ~って思ったんだけどタブレットに乗せるのも、いやタブレットにも入っちゃいるんだけどやっぱロマンがないじゃん。そしたらもう魔導具作るしかなくない? 指輪にするしかなくない? ぶっちゃけ一個で十分だけどやっぱ召喚! シュインシュインシュインってやりたいじゃないですか」
    「できるんですか!?」
    「ッたりめーナリよ拙者を誰だと思っておられる」
    「最先端の天才発明家。童心の賢者。すごい。やばい。頭にオリュンポス詰まってんのかい」
    「ンッフフ、もう一声」
    「ええと……アズール・アーシェングロットのスイートハニー?」
    「やっべ神より偉くなっちゃった」
     んでわとくとご覧くだされ。イデアが掛け声とともに片手を掲げる。魔力を流し込まれた指輪が輝きを発し、周囲に光球がいくつも生まれた。それはアズールの目の前で円形に整列し、垂直に高度を上げて行くとともに光柱へと変化する。やがて光は淡く収束し、その中心に何らかの形が現れた。
    「よ、っと」
     差し出されたイデアの手によって無事受け止められたのは、彼がよく口にしているコーラの缶だった。軽快な音を立ててプルタブが上げられ、喉を鳴らしてイデアがそれをあおる。
    「ぷは、へへ、どっすか」
    「……悔しいけど」
     仏頂面を取り繕いながらも、アズールは自分の頬が痙攣していることをしぶしぶ認めた。イデアの鼻の穴が忙しなく開閉している。一応、と言わんばかりに手の中の缶を差し出されたが、ジェスチャーだけで断る。軽く握り込んだ手を口元に当てて窓の外に視線を走らせ、眩しさに目を眇めてから、ちらりと微かな流し目をくれてイデアを窺った。
    「すっごく、かっこいいです」
    「よねええええええええええ。やっぱさベタも突き詰めれば王道っつうの? 厨二乙すぎでわでわ? って何回も思ったけど駆け抜けてよかったー。やっぱりアツいもんはアツいんだよなよかったー拙者だけじゃなかったー」
    「真夏の出先でも冷たい水を飲めるのはありがたいですね」
     アズールが頬を抑えながら頷くと、イデアが歯をむき出しにして顔を突き出してくる。
    「いやいやアズール氏まさかコーラだけとか思ってらっしゃる? 倫理的に臨床実験できないけど理論上は人間も行けますぞこれ。しかも予め登録しとけば思い浮かべるだけで誰でもどこでも何人でも」
     アズールの目の色が変わる。鼻先が触れそうになるのにも構わず、血相を変えて机に身を乗り出した。
    「ハア!? 思い浮……待ってください。素人質問で恐縮なのですが」
    「ヒェ……ドウゾ、アーシェングロット氏」
    「通常召喚陣には座標と対象の定義を書き込むことから、召喚の都度固有のものとならざるを得ないと認識しております。これは正しいでしょうか」
     挙手したのを降ろして両手を組み、アズールは椅子に深く座り直した。そわそわと膝が揺れる。
    「おっしゃる通りです。本研究では対象を予め登録することで、定義を変数として代入し召喚陣を自動生成することに成功いたしました。座標についても登録を前提に、陣の生成に先駆けて位置探査をかけることにより解決しております」
    「ワアオ……ではい思い浮かべるだけで、というのは? 実際あなたさっき何も入力していませんでしたが」
    「思念は大抵魔力に反映されますからな。その波形を読み取っとります」
     とうとうアズールが頭を抱えた。海の魔女よ、と呻き声が漏れる。波形、思念を反映した魔力の波形だって?
     まさしくイデアは天才であった。彼がその指と声でもって生み出したものは夜ごとに世界を震撼させる。しかし、果たして異端とは如何なることか。アズールは腕の隙間から顔を覗かせ、その若き天才を見上げた。彼は随分嬉しそうな顔をしていた。人々が異端と呼ぶその男は、今僕の目の前で叡智の結晶を玩具に込めて犬のようにはしゃいでいるというのに。
    「それじゃあつまり、その登録の仕組みと、魔力を読み取る部分が新しいんですね。ああなんてことだ、波形だなんてよく考え付きますね。説明してくれないってことはつまり、かなり複雑な仕組みであると?」
     戦慄する全身の筋肉に必死で命じて、アズールはイデアに向き直る。人々をしてイデアを異端と呼ばしめるものが彼の放つ理論の難解さにあるというのなら、アズールはその人々を鼻で笑ってやるところだ。彼の研究内容の見かけ上のとりとめのなさが彼を異端に見せているというのなら、アズールは人々を軽蔑するだろう。イデアは一貫して彼のためだけにその頭脳を働かせているのだ。そして彼が世に問う成果それ自体を忌むというのなら、ああ、それこそ嘆かわしい! いずれの場合であろうと、己の思い通りに動かずまた理解もできないものの前に異端の天才なる名の戸を立てて閉め出すのがイデアを取り巻く世界のやり方なのであれば、アズールはそれを唾棄すべきと捉えてはばからない。天才の考えることは分からない、などと言って笑う人間がいるとすれば、それは謙虚さなどではなく有害な怠惰であると、アズールはきっぱりそう考えていた。
    「お見込みの通り。さっすがアズール氏っすわさすアズ。今度論文出すつもり」
     開けっぴろげに破顔してイデアはそう言い放つので、アズールは数秒間何も返せない。おおいぬ座って、もしかして図体ばかり大きな仔犬なんじゃないか? 口を何度か開閉させて、どうにか絞り出した声はいつもの取引より随分早口で制御を欠いていた。
    「書けたら教えるって約束してください。あと今のうちに参考文献や先行研究教えてほしいですね。対価は特許取得のお手伝いでいかがです?」
    「余裕。リスト作って送っときますわ」
    「あなたやっぱり最高です、マイ・ラッキー・スター」
     今すぐキスしたいくらい、と言い添えると、イデアはそれを本気に捉えたのか周りをしきりに見回し始めた。裏切るのも可哀そうでさっさと唇を押し付けると、情けない声を上げるイデアに背を向けてアズールは早速図書館へと駆け出した。



     それから数日後のことである。放課後の実験棟に怒号が響いた。
    「シュラウド、貴様! その減らず口を今すぐ閉じるがいい!」
     揉め事のありふれたこの学園にあって、アズールがわざわざ声のする方へ足を向けたのはその名前が聞こえたからに他ならない。丁度イデアを訪ねてきたところだったのだ。数日前の約束通り送られてきた文献で気になる箇所に当たってしまった。夕刻までかかる特別授業に出ると聞いていたので、魔法薬の反応待ちの暇にでも教えを請おうという心算だった。
    「一体何事ですか!」
     早足で駆け付けた第三実験室の中は騒然としていた。不運にも教員は席を外しているらしい。大声で慌てふためく者、ひそひそ隣同士で話す者、呆れた顔で大釡の面倒を見る者。そしてその中心には人垣に囲まれて尻餅をつくイデアと、顔を真っ赤にした生徒が立っていた。
    「貴様、先程から何のつもりだ! 人を見下すのはそんなにも気持ちがいいか!? ふざけるな! 意味の分からないことを並べ立てて勝手に進めやがって、クソ!」
     近くにいた同寮の肩を叩くと、急に現れた寮長の姿に少し驚きながら経緯を語る。
    「や、なんか、あの人、シュラウドさんなんすけど。なんか新しい調合でやろうとしたらしくて。そんであっちの、怒ってる方の人」
     彼の指す先の男をアズールは見つめる。腕章を見るにポムフィオーレ寮生だ。話を聞きながら、頭の中の顧客名簿を捲った。彼の名は何だったか。
    「あのポム寮生とシュラウドさんがおんなじ班だったんすけど、調合の説明が全然分からんかったとかで。そんで結局シュラウドさんが全部殆ど全部やっちゃったんすけど、シュラウドさんってあの人だいぶ、ほら、嫌味言うことあるじゃないっすか、たまに」
     ははあ、とアズールは溜息と共に納得した。確かにイデアはお世辞にも付き合いやすいタイプとは言えない。怯えて黙りこくっていたかと思えば、妙なタイミングで聞えよがしの皮肉を紡ぎ始めたりする。その手のことをしでかして班員の逆鱗に触れたのだろう。
    「イ……シュラウドさんは何と?」
    「僕もよくは聞こえませんでしたけど、もう良いよとか、これだからキラキラ寮はとか……マジカメ映え研究してる暇があったらプライマリの教科書でも読んどけ、とか……」
    「それは確かに最悪ですね。弁護の余地も無い」
     人ごみを見渡すと、見知った金髪が紛れているのを見つけた。ポムフィオーレの副寮長だ。彼はサイエンス部だと聞いているので、さしづめ近くの教室で部活動に勤しんでいたのだろう。そこで騒ぎを聞きつけて様子を覗きに来たと見える。しかし男は自寮の生徒を止めるどころか、気味の悪い笑顔を浮かべて事の成り行きをじっと観察している。
     アズールが何も言わないのを促されたと取ったのだろう。事件について語って聞かせた男が、語気に熱を込めて更に言い募った。
    「あのポム寮生、なんか魔法使ったっぽいけど大丈夫なんすかね」
    「へえ、魔法を」
    「あ、はい。何やったかまでは分かんないんすけど。まああのイデア・シュラウドなら大丈夫なんじゃないっすか? いっつもタブレット浮かせて授業出てお前余裕アピかよって感じっすもん。まあほ賢いのはわかっけど何言ってっか八割わかん……」
     男の言葉を遮って、アズールはステッキの石突を床に打ち付けた。カン、カンと二度、高い音が教室に鳴り響く。
    「何の騒ぎだか知りませんが、皆さんいつまでそうしているつもりですか」
     周囲の注目に肌がぴりつくまで待ってから、肩に羽織ったトレンチコートが空気を十分に捕まえるよう大股で部屋の中央に歩みを進める。当事者二人を背に庇うように群衆に向き直ると、戸惑いの視線二組をうなじに感じた。
    「オクタヴィネル寮長として、教師に代わって命じます。各自実験に戻りなさい。特にオクタヴィネル寮生。今日のまかないにありつきたければ、ラウンジの開店までに課題を終わらせるように」
     鶴の一声に、次第に教室が平穏を取り戻し始める。本当は、今みすぼらしく尻餅をついて呆然としている男をステージに押し上げたかった。ご覧なさい、貴方がたが異端の天才と呼んでその狭小な宇宙から追放した若い星は、つい先日仔犬のようにはしゃいで笑っていたことを知っていますか。けれどアズールはそれをしない。確かに彼は商人ではあったが、そこがオークションではないことを承知していた。幕は上がらない。彼自身を切り売りする資格も、あるいはその意思もアズールには無いのだった。
     息をつこうとした瞬間、ふいに隣に立つ者がいることに気付いた。一筋の乱れも見えない真っ直ぐな金髪が重力のみに従って静止している。ルーク・ハントだ。
    「ロア・ディ・フォートはいささかご機嫌斜めのようだね」
     悲鳴を上げそうになるのをこらえて、アズールは男を一瞥する。常と変わらぬ薄い笑みを湛えた顔は何事も読み取らせない。
    「……よくお分かりで」
    「何故かな? たった今見事に場を収めて見せたというのに」
     アズールは短く鼻を鳴らして目だけで教室を見回した。
    「怠惰な不理解に由来する不当評価は、僕が最も嫌う所の物の一つです」
    「アハァ、なるほど。そういえば君はロア・ディ・テションブのことを買っていたね」
     ルーク・ハントは一つ頷くと、満足したようにひらひらと手を振って去っていった。揺れる白衣の裾が扉の向こうに消えるのを見届けて、アズールはようやく背中の強張りを緩める。あんなものを傍に置いて、ポムフィオーレの寮長は一体どれほど強靭な神経をしているのだろう。己が付き従える双子を棚に上げて肩をすくめると、アズールは改めて背後の二人に向き直った。ポムフィオーレ寮生の方は未だ腹の虫が収まらない様子でイデアをねめつけており、イデアの方も眉間に深く皺を寄せたままだ。
    「とりあえず、立っては? 僕、あなたに用があったのですが、その様子ではまともにお話もできそうにありませんねえ」
     薄笑いで見下ろすアズールに視線を返したイデアが何事かを言いかける。そして、無言のまま目を見開いた。アズールが首を傾げる。イデアは大きな手で首を抑え、口を開けたり閉じたりし始めた。
    「あなた、まさか、声が?」
     忌々し気に細めた目で、イデアはアズールを見上げ頷いた。



    「魔法を使ったと聞きましたが、シュラウドさんの声はそのせいですね? 一体何をかけたんです? ……はあ、言いたくはないと。私としましては、この人に尋ねたいことがあるのでお話ができないとなると少々不便なのですが。ああ、そうだ! これはとんだ失礼を。思い出しましたよ、先輩。確かあなたは先日、ラウンジにお越しいただいていましたね。その時に小耳に挟んだのですが……いえ本当に、偶然耳に入ってしまったもので、間違っていたとしたら大変申し訳ないのですが、バビロン・アルケミーからオファーがあったとか。えぇ、えぇ、素晴らしいことです。新規開発に意欲的で、飛ぶ鳥も落とす勢いの優良企業ですよねえ。私も是非、あの会社の連絡先を知りたいと思っていたんですよ。ああ、でも残念です。学園内での私闘は禁止……その上、原因が同級生の知識についていけなくて逆ギレ……ああ! 偉大なる海の魔女の慈悲の心で黙っていて差し上げたいところですが、僕はこれでも寮長……各所への報告の責任が……ふむ、その魔法なら口をきけないのは二、三日といったところですか。おや、しかもバビロン社の名刺まで! ああ、僕の胸に慈悲の心が溢れてきましたよ!」

     立て板に水とはまさにあの午後のアズールのことだった。イデアにかけられた魔法の詳細に加えて自分の欲しい情報まで巻き上げると、抜かりなく教室にいた全員に魔力入りの緘口令を布き、足音高らかに去って行った。残されたイデアは気まずい空気の中でどうにか課題を完成させ、逃げるように自室に戻ってきたのだった。そして早々にオルトをスリープさせ、今は部屋の隅の床に座り込んでいる。
     散々だ、と口の中の飴を噛み砕く。必死の思いで部屋から出たら班員は無能。もっと合理的な調合があるというのに、頑なに黴臭い教本の手順に拘泥する。思わず嫌味の一つ二つをこぼしたら、あっさり逆上したあの男に厄介な魔法をぶつけられた挙句、アズールの眼前で醜態を……これについては今に始まったことではないかもしれないが、いずれにせよ醜態を重ねてしまった。その上彼の取引のダシにされ、おまけに呆れた目まで向けられてしまった。あれは本当に呆れて、うんざりした顔だろう。膝を抱えて顔をうずめたら、深いため息が出てガスのように床に沈殿した。
     ヘッドフォンを引っ張り上げる。ミュージックライブラリをからからとスクロールしたのち適当なところで再生を開始した。技術の国のテクノ・ミュージックが流れ出す。海の中で空き瓶とフォークを振り回しているような不思議な肌触りの音は、疲れ果てたイデアの後ろ頭を慰撫し眠りへといざなった。

     いつの間にか、イデアは食卓に着いていた。
     暗い部屋に、生家を思わせる長いテーブルが一台置かれている。明かりはどこにもないのに、テーブルだけがやけにくっきりと闇の中に浮かび上がって見えた。清潔でぴんと張った真っ白なテーブルクロスがかけられ、火の灯っていない銀の燭台が等間隔に並べられている。テーブルはどこまでも続き、消失点の先で見えなくなっていた。
     立ち上がろうとテーブルに手をかけると、指先が何かに触れたらしくかちゃりと音が鳴る。いつの間にか、そこには皿が置かれていた。白磁のプレートの中心にステーキが一切れ乗っている。傍らにはシルバーのカトラリーが添えらえていた。いくつもの曲線的な装飾がうねうねと絡みつくそれを手に取ると、ずっしりとして重い。どこからともなく投げかけられる光を反射して、シルバーがどぎつく光った。
     ふいに、イデアは自分が強烈に腹を空かしていることに気付いた。口の中で唾液が洪水のように水位を増す。イデアはナイフとフォークを持ち直し、目の前の肉に差し入れた。右手を不器用に前後させるごとに、肉汁が皿へと流れ出した。白い大陸は見る間に赤黒い海に浸される。切り取った一口大の断面は薔薇色に濡れ光っていた。
     大きな口を開けて、フォークに突き刺した肉を舌に乗せ噛みしめる。それは冷え切って硬く、何の味もしなかった。尖った歯で繊維を引き裂いてもすり潰しても肉汁の一滴だって滲まない。なめし革を噛むようだった。
     途端に、胸一杯に小石を詰め込まれたような心地がした。もう一口だって食べたくない。けれど腹は減っている。腹が減っているなら食わねばならない。口の中で唾液と混じり合いねばつく塊をどうにか飲み下し、また一切れフォークを突き立てる。甘美に輝く肉はしかし、やはり一切味がない。噛み潰し、飲み込む。ふいに一つの考えがイデアの頭を過ぎった。そうか、僕はルール違反をしたから味が無いんだ。その思いつきは深く彼の腑に落ちた。いつの間にか、食卓に並ぶ燭台に青い炎が灯っていた。陰惨な食事は続く。どんなに食っても腹は満ちなかった。それでもイデアは食い続けねばならなかった。

     おもむろに意識が浮上する。音楽はとうに止まっているのに、イデアの後頭部には白い手が回されてゆっくりと上下していた。すぐ傍から歌が聞こえる。低い声でどこか懐かしい旋律が紡がれて、イデアの鼓膜をゆっくり揺らしていた。身体の半分がひどく痛む。イデアは床に寝転がっていた。肘の骨が脇腹に刺さり、その左腕に至っては痺れて感覚が無い。痛いと思ったのはこのせいかと意識の泥濘の底で理解する。腫れぼったい目をこじ開け希薄な五感をかき集める。そしてイデアは深く息を吐いた。セイレーンの細い腕に代わってイデアを抱いていたのは、目を閉じどこか狂おしい角度に眉をひそめた恋人の体であった。普段の彼からは考えられないことに、イデアに寄り添って床に横たわっている。
    「起きましたか」
     歌が鳴りやんだ。アズールの睫毛が薄く持ち上がって、低い囁き声が耳に届く。咄嗟に名前を呼ぼうとして、声が出ないことを思い出し唇を噛んだ。アズールはそんなイデアを少しの間見つめていたが、額にキスをひとつして体を起こした。いつもぴんと張っている彼の寮服の右袖に皺が寄っている。その腕がぐいと伸びて、モストロ・ラウンジのロゴの入った紙袋を差し出した。
    「ご飯を持ってきました。どうせ碌なものを食べていないんでしょう」
     気圧されるまま受け取って中を覗き込む。サンドイッチ、それから紙カップに入ったポタージュシープだ。
    「お部屋で召し上がるには少し臭いがきついかもしれませんが、こういうものの方が食欲がわくかと思いまして」
     鼻を近付けると、ほんの微かにガーリックバターのにおいがした。言うほど臭くないよ、と引っ張り出したディスプレイに打ち込んでみせると、アズールは「僕はにおいだけでお腹が鳴りそうですよ」と変な顔をした。サンドイッチから、色とりどりの瑞々しい野菜がはみ出している。
     イデアは紙袋の口を丁寧に折りたたんで、首を横に振った。しかしアズールは腕を組んでしまって、イデアの差し出した紙袋を受け取ろうとしない。
    「いいから食べなさい。作ったものを拒まれるのは我慢がなりません。あなた声を失くして、次は泡になって消えでもするつもりですか?」
     アズールが少しだけ眉根を寄せる。声は低く抑制されていた。けれど、電源を入れたままの機器が発する光を受け止める彼の目は、まるで月夜の海のように揺れる光を湛えていた。
    「多分、あなたにはそれが必要です」
     食べきるまで出て行ってくれそうになかったので、イデアはのろのろと袋の中の物を取り出した。サンドイッチのパンをめくってみれば、分厚いサーモンのソテーが大量の野菜と一緒に挟まっている。スープはクラムチャウダーだろうか。栄養満点ですよ、とアズールの声が降ってきた。
     床に尻を付けたまま、背を丸めて紙袋の上でサンドイッチに歯を立てた。案の定溢れた具がぼたぼたと袋の底に落ちたが、アズールは何も言わなかった。味はよく分からない。声がふさがれているせいだろうか、喉が細くなったような感じがして、飲み込むのにいつにも増して苦心した。焼いたサーモンとスープがほのかに温かいのだけが、少しだけ胸のあたりに沁みた。
    「どうです?」
    “おいしいよ”
     どうにか食べ終えたところに、アズールから声がかかった。空中に浮かべたディスプレイで応答する。アズールは眉を下げ、手を伸ばしてきた。それはイデアに触れるより前にぴくりと震えて止まる。そして数秒の逡巡の後、その手は再び動き出してイデアの肩に添えられた。
    「あなた、怒っているでしょう。さもなければ、結構こたえてる」
    “別に。元々誰とも喋らんゆえ大差なきなき”
    「ごまかさないで。あなた本当はお話するの好きじゃないですか」
    “は?拙者エアプ勢がなんか言ってる。それどこ情報?ソース出せよ”
    “つか仮にそうだとしてもさ。アズール氏は僕のオタ語りとか付き合う必要ないんだよ。先輩だからって気つかってさ”
     ディスプレイに現れた文を目で追って、アズールはこれ見よがしに溜息をついた。イデアが肩を震わせる。細く深呼吸する音が何度か聞こえる。
    「もしかしたら、あなたの声が奪われていて、良かったかもしれません」
     瞠目したイデアが勢い良く顔を上げると、眉間に深く皺を刻んだアズールがいた。強張った表情を緩めることなくイデアを一瞥し、彼が小さく口を開く。
    「本気で言っているんじゃないって、分かっていますけどね。それでも、あなたの声でそれを言われたら、僕はどうしたって傷付いていました」
     アズールの右手がゆっくり持ち上がり、その人差し指がディスプレイに突きつけられる。
    「あなたはすぐ、言葉で心を隠す」
     喉の奥から紡ぎ出した糸のような、悲痛な声だった。
     アズールが立ち上がった。座り込むイデアの眼の前に二本の真っ直ぐな脚が現れる。肩に置かれたままだった彼の手がするりと離れて、イデアへと差し出された。目の前に白い手が浮かんでいる。イデアはその手を取ることができなくて、代わりにキーボードに両手を走らせた。
    “君の慈悲の手はさあ 僕なんかじゃなくて 皆を救うためのものでしょ”
     イデアの頭の上でアズールが息を呑む気配がした。差し出されていた手が握り締められたかと思うと、それが視界から消える。次の瞬間、二の腕を痛いくらいに捕まれ、無理矢理引っ張り上げられた。
     食事の後は睡眠です。そういうとアズールはイデアをベッドまで連れて行き、シーツの間に押し込んでしまう。
    「おやすみなさい、イデアさん」
     最後にイデアの頭を乱暴に一撫でし、部屋中の機器をスリープさせると、アズールは滑るように部屋を出て行った。
     結構恩、貰ってる気がするんだけどな。イデアは音にならない声で呟く。後ろ頭を撫でた彼の手の感触を忘れたくなくて、暫く身動きができなかった。



     イデアの部屋を辞して自寮に戻る途中、さて物のついでに購買部にでも寄って行こうかと歩きながら、アズールはあの存外に繊細な男の様子を思い返した。彼の、周囲の神経を逆撫でするのに長けた饒舌さは要するに防衛だ。不安と怒りを魔法を使わずして何倍にも増幅させ、言葉でもって自分の周りに茨の壁を張り巡らせている。その言葉を奪われた彼は案の定完全にしょげ返っていた。馬鹿な男だ。気鬱を慰めるのに、殊更に暗い部屋で蹲ることを選ぶのだ。しかしその行動は、アズールにも大いに身に覚えがあった。
     お節介かとも思ったのだ。時遡る宵の口のモストロ・ラウンジで相談者が悩み事を縷々連ねるのを話半分に聞きながら、アズールは考えていた。お節介かとは思ったが、今より未熟だった己が蛸壺に引き籠もっていたのをウツボの双子が覗き込んだ時のことを覚えている。反発しながらも、結果として彼らのお節介に(例えそれが興味本位であったとしても)アズールは救われたのだ。イデアは自分に似たところがある。であれば、あれから数年の時を経て慈悲の心を得た自分はお節介を焼くべきであろうと、アズールは考えたのだった。食事を差し入れた先でぶつけられた不貞腐れた反応は癇に障ったが、想定の範囲内だ。むしろ素直なものではなかったか。味なんか分からないという顔をしながらも差入れを大人しく平らげて、ベッドに突っ込まれるのに甘んじた。それに、最後のあの言葉、あれは想像以上の収穫だったじゃないか。
     そんなことを考えながら中庭に差し掛かったところで、アズールはうなじの毛の逆立つ感覚に見舞われた。
    「やあ、ロア・ディ・フォート! 足を滑らせた月が地上に落ちてきてしまったのかと思ったら、君だったとは」
     ルーク・ハントだ。またも気配無く、彼は隣に立っていた。己の生存能力に自信を失いそうになる。一体僕はどうやってあの海の底で生き延びて来たんだろう。口の端がひくつくのをどうにか抑えて、アズールはゆっくり体の向きを変える。にっこりと笑ったルーク・ハントの目は瞼の奥に隠され、こちらにその色を読み取らせない。
    「こんばんは、ルークさん。夕方ぶりですね」
    「ああ、素晴らしい夜だね。そぞろ歩きにはもってこいだ。静かで、獲物の心臓の音だって聞こえてきそうだよ」
     煌々と照る青白い月の光が校舎の外壁に反射し、辺りは昼のように明るかった。ルーク・ハントがにんまり三日月形に目を細めるのがよく見える。
    「あなたは陸の獣が専門だと思っていましたが」
    「ウィ、ウィ、そうとも。しかし私は最近知るに至ったのさ、海の生き物というのも実に優雅で美しい。大変に心惹かれるよ」
    「それは何より。どうか海の静寂を甘く見ないことですね。肺呼吸の人の立てる音なんて、5キロ先までだって聞こえます。それで、僕に何か?」
    「いや何、この夜に誘われて出てきてみたら、美しい月が見えたものでね。思わず声をかけてしまったというわけさ。君は……」
     両腕を組んだまま上半身をこちらに突き出して鼻をひくつかせると、ルーク・ハントはその大きな口をかぱっと開いた。唾液をまとった白すぎる歯が月光を受けてぬらりと光る。
    「おや、鉄と油のにおい。ロア・ディ・テションブのところへ? あの事件は大変に痛ましかったね」
     口元に手を当てて、ルーク・ハントは愉快そうに首を傾げた。帽子の房飾りが少し揺れ、金髪が彼の頬に落ちかかる。しかし、と彼が続ける。
    「月の慈悲をもってしても、かの星は未だ雲の陰にあるようだ」
     心臓が鷲掴みにされたように収縮し、アズールは息を詰める。ルーク・ハントは立てた指をくるくる回しながら歩き始めた。アズールが動かないとみると、ツイと首を回して人差し指だけで招いて見せる。癪ではあったが逆らう気に慣れず、アズールはしぶしぶ右足を踏み出す。
    「僕なら彼を引きずり出せると?」
    「そうとも! 君が彼の翻訳機であることを差し引いても、彼は随分と年下に甘いからねえ」
    「彼が、年下に?」
     思わず声に困惑を滲ませてしまった。先を歩くルーク・ハントが首だけをこちらに向け、片一方の眉を面白そうに吊り上げる。
    「おや。海の賢者も陸の機微にはいささか鈍いと見える。その通り。彼は若い者に大層甘い」
     ルーク・ハントは片足を浮かせると、かかとを軸にぐるんと振り向く。そしてその大きな両手をエレガントな角度に掲げてみせた。
    「殊に、彼の翼の下にあるか弱き者にはね」
     アズールの顔に血が集まる。何か言い返そうとして二、三度口を開閉した。ルーク・ハントはこちらの言葉を待つかのように腰に手を当てて微笑んでいる。深呼吸をして、アズールはもう一度口を開いた。
    「僕は」
     思ったよりも鮮烈な声が出て、アズールは勢いづいた。ゆっくり息を吸いなおして、慎重に言葉を選ぶ。
    「僕は、称賛と庇護とを取引して彼の傍にいるわけではありません」
     ルークが口をすぼめ、眉を上げる。その拍子に彼の帽子を飾る羽が楽し気に弾んだ。
    「へえ、では何によって?」
     細められた上下のまぶたの間から射抜かんばかりの視線が投げかけられる。その双眸を真っ直ぐ見据え、少し考えてから、アズールは答えた。
    「救いと、導きによって」
     ふと体が軽くなる。先ほどまでの、アズールを地面に縫い留めるような視線が霧散していた。ハッハハ、とルーク・ハントが笑い、両手を打ち鳴らす。そしてルーク・ハントはアズールとの間にある距離を一足に詰めてその眼前に迫り、合わせた親指と人差し指にキスをしてみせた。乾いたリップ音と共に大きく開いた口の中が海溝のように暗い。そして彼は鼻先の触れそうな距離のまま一言、大声で謳い上げた。
    「マニフィーク!」
     途端に、ルーク・ハントは踵を返して風のように駆け去ってゆく。嵐のような一時だった。後に残されたのは、寮服のストールが地面を引きずるのも構わずしゃがみこんで頭を抱えるアズールただ一人であった。



     イデアが声を奪われて二日が過ぎた。今、彼の自室にはパチパチとアナログキーボードを叩く音が充満している。たまにはこの感触も良いもんですわ。フヒ、と出ない声で笑って、勢いよくエンターキーを打つ。ッターン! ってな。
     イデアはすっかり普段通り、少なくともそのつもりでいた。オルトは少々寂しがっていたけれど、ならばこの機会にと大規模なメンテナンスに手を付けたので殆どの時間をスリープモードで過ごしている。考えてみれば授業だって元からリモート出席ばかりだったし、むしろ無言を通す良い口実が出来た。お陰でコード書きも論文執筆も面白いほど捗る。定期的に同級モブを煽るのも良いかもしれませんな、とイデアは歯を剥き出しにした。
     いやあ公認引きこもり最高ですなあ! 思わず声が出ないことを忘れて独り言をつぶやこうとしてしまい、イデアは一人で気まずくなる。誤魔化すように缶入りの炭酸飲料をがぶ飲みすると目の前のスクリーンに向き直った。今回のアップデートを実装する時は人手の面で少々困るかもしれないが、ともあれ今は基礎設計だ。やることはいくらでもある。だからさあ、意味分からん外界のパリピに構ってる暇ないんですわ。そう考えたのを最後に、イデアは電脳の世界にダイブした。
     ブラックスクリーンの原野は広大だ。その無限の闇は偉大なる虚無空間の神の領域だという。原初の神に手を伸ばすがごとくそこに身を投げ出し、光の道筋を描いてイデアは仮想上の生命を組み立ててゆく。虚無の子は夜の闇を統べるニュクス、そしてその子は復讐の女神ネメシスだ。無意識の底に、数日前のアズールの姿が蘇る。あなた、怒っているでしょう。あの時彼はそう言い当てて見せた。アズールの言わんとした所は恐らく、あのイデアを理解しない同級生か、あるいはなすすべもなく声を奪われた己への怒りであったろう。なるほど、声を奪われ無様を晒したことへの憤りはあった。確かにイデアは怒っているのかもしれなかった。但し、今イデアの抱くそれは運命へのか弱き怒りであり、あるいは己の愚かしさへの怒りでもあった。それでもイデアはやめるわけには行かなかった。これは運命への復讐なのだろうか。あるいは僕が運命に罰を下されている? イデアはキーボードを叩く指を無心に動かす。白いコードの大河が広がるに従って、イデアの目はその向こうに弟の姿が浮かび上がるのを見た。幻の弟がこちらを見て口を開く。
    「兄さん。命って何なのかな」
     ばちんと弾かれたように手が止まった。強張った指先が痺れている。オルトはずっとスリープさせたままだから、今のは間違いなく幻聴だろう。急激に全身の感覚が戻ってくる。目の前にあるのは青く光るキーボードと、黒い画面に並んだ白いアルファベットだ。心臓の音と自分の呼吸音が聞こえた。妙に浅く、荒い呼吸だ。胸がせわしなく上下している。息が苦しい。肩がひどく重かった。眼前の文字がぼやけて、イデアは目を閉じた。
     ああ、うん、そう。ハードいじろ。もうプログラミングには没入できそうになくて、脚の感覚を探る。下半身がそこにあることを確認してイデアは立ち上がり、そして世界が回転した。
     あれ、と思う間もなくどうという音と共に全身に衝撃が来て、次の瞬間ぼやける視界に黒い棒状の塊があった。暫く待ってみて、椅子のキャスターであることが分かる。それでようやく、イデアはなるほど倒れたかと理解した。そう言えば最後に固形物を口に入れたのはいつだったか。ずるずる這って、デスク下段の引き出しからカロリーバーを取り出した。床に倒れこんだままそれを頬張る。途端に口の中の水分が奪われてイデアは少しせき込み、数日前の悪夢のことを思い出した。吐き出された食べかすが床に散らばる。忌々しい気分だった。精神の働きなど意にも介さず、この体は新陳代謝を繰り返して肉体の生を維持しようとする。何故自分たちは精神だけの存在になれないのだろう。水を取りに行くのも面倒で、イデアはそのまま四肢を放り出した。
     投げ出した右手にでこぼこしたものが触れる。気になって拾い上げて見ると、オルトから取り外したジャンクパーツだった。細かく掘った溝を撫でれば、心地よい感触が指先を伝って脳に届く。イデアは自嘲の笑みを浮かべた。コンピューターの中だけに存在させておくのでは飽き足らず、彼に話す声や歩く足、触れられる体を与えたのはイデア自身だった。
     カロリーバーをもう一口かじる。奥歯で租借し飲み下すと、喉仏が上下するのを感じた。さすがに口内がぱさぱさになったので、冷蔵庫まで匍匐前進する。取り出した炭酸飲料の四分の三ほどを一息に飲み干し、冷蔵庫のドアを閉めると、イデアは大きく息をついてそこに背を預けた。急激に食道が拡張されたせいで鈍く痛む胸をさする。目線の先でカーテンが細く開いていた。イグニハイド寮のある場所では一年の殆どが曇り空なので、今も窓の外の夜空は暗い。時刻を見ていないので、雲の向こうに月が昇っているのかは分からなかった。



    “アズール氏は魂ってあると思う?”
     モストロ・ラウンジの閉店直前、鳴動したスマートフォンをアズールが手に取れば、相手は二日ぶりのイデアだった。
     喧騒の中慌てて周囲を見回すと、フロアの奥から察し良くジェイドが寄ってくる。スマートフォンを胸の前に握り締めて早口にクローズ作業を頼み込むアズールを一頻り眺めると、フェイドはその釣り目を細めた。かしこまりました、と端的に了承し、さっさと出口付近に陣取ってしまう。三十分前に呑んだコーヒーの味が口の中にせり上がってくるのを感じながら、アズールは身を翻して厨房に突進した。
     残っていた料理を手当たり次第に紙袋へ詰め込み、足をもつれさせながらアズールは鏡舎へ向かう。
    “そんなこと、あなたの方がよくご存じなのでは?”
    “と思うじゃん?ぶっちゃけよく分からん”
     歩きながらメッセージを返せば、間を置かずにスマートフォンがまた震える。画面をちらりと覗き込んで舌打ちする。すれ違った見知らぬ生徒が壁に貼りつかんばかりに道を開けるのが視界の端を通り過ぎた。人気の少ない廊下に革靴のヒールの音が反響する。
    “ゴーストは?あれ魂じゃないんです?”
    “それを訊いてんジャーン”
     二日ぶりに――教室にはタブレットが浮いていると聞いていたので、生存確認だけはできていたが――寄越した連絡が哲学問答とは実にあの男らしい。アズールは口を歪めて無理矢理笑みを作った。こっちはあんたがちゃんと食べてるかが心配だっていうのに! 左手の紙袋を持ち直すと、アズールはイデアのアイコンからメニューを呼び出し、通話ボタンをタップした。
     今しがたメッセージを交わしていたというのに、コール音は往生際悪く数秒に渡った。ようやくそれが止んで、スピーカー越しに無言が聞こえる。
    「今から出かけますよ。拒否権はありません。部屋着で構いませんから準備しておくこと。違えたらウツボをけしかけます」
     鏡舎の扉を開ける。電話の向こうで、静寂の息を呑む気配がした。



     イグニハイド寮へのゲートを大股でくぐった先、その最奥の寮長部屋の扉を開けたところの足元に、イデアが打ち捨てられていた。彼越しに見渡す部屋の床には駄菓子の袋や飲みさしのペットボトルが散乱している。
    「またこんな栄養のないものばかり食べて。体壊しますよ」
     こちらを見もしないまま、床の男は手だけを伸ばしてカロリーバーの空袋を拾い上げ振って見せる。思わず舌打ちが出るのを止めもせず、アズールはイデアをまたいで冷蔵庫を開けた。案の定数個のゼリーパウチと飲み物しか入っていない。十分にある隙間に手に持った紙袋の中身をどんどん移し替えて行く。自室を我が物顔で荒らされているというのに、イデアは何も言わずに虚ろな面持ちで明後日の方向を見つめていた。彼に聞こえるように靴音を立てて近付き、目の前に仁王立ちをして青い塊を見下ろす。暫く待って、ようやくイデアの目がアズールを映した。
    「海へ行きます」
     イデアが訝し気に眉をしかめる。それに構わず、アズールは彼の右手を拾い上げた。ウツボを出して釘を刺したのが効いたのだろう、いかにも気の進まない様子だったが、少なくともイデアは抵抗しなかった。長い腕を老犬の引き綱のようにして、アズールは自分よりも大きな彼を引っ張り上げる。
    「あなたの知性は好ましく思っていますが、考えすぎは体に毒です。海です。そういう時は海に限る。海の中では何もかも混ぜこぜです。人魚の歌も鯨の嘆きもばらばらになった誰かの体も、全て海流のうねりに飲み込まれて僕たちへ押し寄せます。整然としていることに疲れたら、海に帰るようにしています、僕は」



     海の底は、イデアの知る画面の中の暗闇に少し似ていた。人魚姿に戻ったアズールは身を守るためのいくつかの魔法薬を服したイデアの手を引いて鏡をくぐると、彼の故郷に程近いという冷たい海にやってきたのだ。一見してそこは、海氷越しに頭上から降る僅かな光を除けばどこまでも均質な闇の広がる世界であるようだった。しんと静まり返って、生命の呼吸をどこかに忘れてきたような場所だ。あるいは、これから生命を生み出す原初の揺籃であるのかもしれない。ここからなら、本当の命が生み出されるのだろうか。ふとイデアは、深海生物の青色発光について思い出した。ここがこの世の胎であるのなら、どこかに青く光る生命の胚があるのではないか。イデアは強い義務感に駆られた。それは怒りにも似ており、あるいは殆ど衝動であった。何かにあくがれるように、イデアは水を蹴る。けれど、闇の中へと漂って行こうとするイデアの手を、ふいに痛いほど強く握るものがあった。水の温度に同化してしまって、その存在をイデアはひととき忘れていた。アズールの手だ。人間の姿をしている時以上にすべすべと柔らかいそれが、今イデアの手を必死に掴んでいる。
    「僕から離れて、どこに行こうって言うんですか」
     人魚の声が水を揺らした。
    「何もありませんよ、そっちには、あなたの探しているものなんて」
     鼓膜を震わせたその言葉の意味をイデアが認識した瞬間、唐突に周囲を蠢動する気配が怒涛のように押し寄せてきた。静寂など、とんでもなかった。どこからか轟轟と海流のうねる音が響いてくる。海底を這う流れは細かな粘土質を巻き上げ、それがわずかに乱れる場所に、僅かな凸凹や小さな生物のあることを仄めかしていた。頭上を魚か何かが通り過ぎたようで、差し込む薄明を揺らめかせる。間違いなくそこは論理と知性の世界の埒外であった。
     イデアの口から大ぶりの気泡が吐き出され、低く唸る海流の響きに分け入って、一際高い音を立てて海面へと昇って行く。またも自分の声の出ないことを思い出して、イデアは顔を歪めた。見守るアズールが少しだけ目を見開き、もどかしげにくねらせた足の何本かをイデアにそっと巻き付ける。
    「僕はどちらかと言えば都会育ちで、恐らくかなり弁の立つ方です。でも」
     突然、アズールはイデアに巻き付けた足に力を込めた。水中で受け身など取れるわけもなく、波に遊ばれる海藻さながらにイデアは体を傾がせる。二人の下方に口を開けていた細い海溝へ、アズールは有無を言わさずイデアを引きずり込んだ。
     急激に視界が不自由になる。陽光が届かないのだ。海溝の崖壁は入り組んで、少し入り込んでしまえば人の目は何物も捉えられない。呼吸を荒げた静けさがそこにはあった。意識の拡散してしまいそうな深海の暗闇の中に、無数の気配がさざめいている。身体に巻き付く足の感触だけがイデアの輪郭を教えてくれていた。恐怖に襲われ、そこにあるであろうアズールの体に必死でしがみつく。無い空気を吸い込もうとして激しく上下する胸が、密着したアズールの肌を押し返している。
    「こういう暗い世界では、もう言葉なんて」
     アズールの肩越しに、視界の端で何かが攻撃的に光る。アズールがそれを魔法で打ち払った。飛びかかってきたものが何かも分からぬ一瞬のことだった。
    「何の意味も無い」
     あるのはただ、命だけです。そう言って、アズールはイデアを抱きしめる手足を緩めた。暗い海の底に投げ出される錯覚に陥る。けれども、イデアの体は弛緩していた。防寒魔法を通してもなお沁みる冷たさに肌の感覚を奪われて、剥き出しの命が晒されていた。
     ふいに、イデアの鼓膜を優しく揺するものがあった。アズールが歌い出したのだ。彼の声が海溝で複雑に反響し、幾重にもイデアの体を震わせる。イデアは体が海中を揺蕩うに任せる。水を通して届く振動が肌をざわめかせ、心拍を導き、骨を通じて瞼を熱くわななかせる。イデアの知らない、美しい歌だった。
     数フレーズののち、アズールがようやく明りのある方へ水をかき始める。その脚に絡めとられたままだらんとぶら下がるようにして、イデアは彼を仰ぎ見る。歌いながら上昇する人魚は白白とした薄明かりを受けてその肌を淡く輝かせている。イデアを抱くのに使っていない足を彼がふわりと膨らませ、抱え込んだ水を一気に押し出す。するとその反作用が二人を海面に向かって押し上げる。その度に彼の銀髪が気持ちよさそうにそよいだ。脇腹でゆっくりと開閉する鰓が、生命そのもののようだった。
     その美しさに、イデアは思わず手を差し伸べていた。抱え込んだ人間の筋肉の僅かな動きを察して、アズールがこちらを見やる。そしてささやかに笑うと、イデアを力強く引き上げて目線を合わせた。イデアの背にアズールの腕が回される。ゆっくりと、アズールの歌が止んだ。そして彼はイデアの頬を指先で軽く撫でると、そのまま唇にキスをした。
     アズールの柔らかな唇の感触を味わった後、暫くの麻痺を経過して、突然イデアの踵に冷たい恐怖が噛みついた。それは瞬く間に全身を貫き、心臓をその黒い手で鷲掴みにする。アズールの目の前でイデアはその目を大きく見開いた。あの海溝の光を思い出す。一体アレは何だった? 理不尽に、理由もなく、ただ僕らがそこにいるというだけで襲い掛かってきた。僕は死ぬところだった! アズールの体に必死でしがみつく。無い空気を吸い込もうとして激しく上下する胸が、密着するアズールの肌を押し返している。永遠の命に拘泥する人間を、イデアはずっと冷めた目で見下してきた。そのつもりであった。けれど今イデアは正真正銘、死の恐怖に硬直していた。
    「ひっ、あう、あ、アズ、あ、こ、怖かっ、た」
     気付けば、イデアは喉を震わせていた。そしてそれは今度こそ音になり、己を抱く人魚に届いていた。数日ぶりの声は無様に震え、途切れ途切れに心の底からの恐怖を伝えた。人魚が瞠目し、次いでゆっくりと眦を緩ませる。
    「キスで声が戻るなんて、あなたまるでプリンセスですよ」
     怖かったんですね、大丈夫、今は何もいません。あやすように語られる言葉がイデアの恐れを少しずつ取り除く。陸の生き物の習い性で、意味もなくイデアは肺を動かす。その度に膨らんではへこむ背を、アズールがゆったりと撫でる。直に恐慌は収まって、イデアは無言で目の前の肩に顔をうずめた。決まりの悪さを誤魔化すのを許すようにその背を撫で続けながら、アズールは徐に口を開く。
    「僕らは……というか、僕らの先祖の一部は、歌をよく歌ったそうです」
     彼の首筋に押し付けていた頭を僅かに引く。その小さな関心の表明を正確に受け取って、アズールは言葉を続けた。
    「伝えるために、表現するために。混ざり合った心をそのまま声に乗せました。それはリズムと旋律と水の振動でもって、同族に共鳴したのだと思います」
     水の果てを見つめながら歌うように話しきると、アズールはほの光るイデアの頭に手をかけて優しく促した。なすがまま顔を上げると、青く照らされた彼の目に己の不安げな顔が映っているのが見えた。
    「正体が分からないのは、怖くないの」
    「さっきの怪物ですか? それとも心?」
    「どっちも」
     アズールは少し考え、再び遠くに目を向けた。はずみで乱された海水がイデアの髪を揺らす。そしてイデアに、というよりは自分たちを取り囲む海に向かって放り投げるように、アズールは言った。
    「怖いといえば怖いですけど……そういうものでしょう、世界って、おおよそ、どうしようもなく」
     アズールの世界への認識は、イデアにとって少しだけ意外だった。不撓不屈で精力的な彼の、体の奥底に横たわる冷たいものに触れたように感じた。また少し恐ろしさが襲ってきて、イデアは目の前の人魚に縋る腕へ力を込める。
    「ねえ、アズール。人魚に魂が無いって本当?」
    「さあね、古い言い伝えですよ、陸の。魂なんて僕には見えたことありませんから、真偽の程は知りません」
     僅かに震える声が問いかけに答える。冷たい水に暴かれて、己の拍動が誤魔化しようもなく聞こえていた。
    「……機械に、オルトに魂はあると思う?」
     アズールの透明なまなざしがイデアを貫いた。暗い海の中、それだけが冷たい光を宿している。
    「あなたは、どう思うんです」
     イデアは答えない。
    「言い方を変えましょう。その答えは、あなたの中の海にしかありませんよ」
     アズールに掴まるイデアの指が力を入れすぎて真白になっていた。アズールは苦し気に眉をしかめたが、何も言わない。身じろぎ一つせず待っていた。突き放した物言いに反して、アズールの表情は歪み始めていた。眉間に皺を寄せ、まぶたは盛り上がり、白い歯の覗く口元は震えている。
    「オルトは、オルトは君みたいな顔しない、僕はまだそこまで筋線維増やしてない。声だってマイクじゃどっかのっぺりしてるし、でも僕は触れたかったんだよ、オルトにもう一度触れたかった!」
     イデアの声はもう殆ど泣き叫んでいた。喉を激しく震わせ、悲鳴のように裏返るのも構わずまくしたてる。それでもアズールは何も言わずに耳を傾けていた。
    「……それだけ、なんだよ。今は……それしか、分からない。教えてよ、アズール、オルトはちゃんとオルトなのかな……」
     イデアのしゃくりあげる声だけが海底に響いていた。アズールがその震える肩に触れる。イデアの指の食いこむ腕はもうすっかり感覚を失っていたけれど、アズールは構わなかった。二人の体がそこだけ融けて一つになったようですらあった。
    「それなら。それなら今はそれでいいじゃないですか。僕にもあなたの全ては理解できない」
     アズールの声が低く響き、イデアの頭蓋骨を通して聴覚神経を直接震わせる。俯いて固く目を閉じるイデアの頭に、アズールの頬が強く押し付けられていた。
    「だから、生きなさい、イデア・シュラウド。あなたには答えを探す責任があります。あなたは食べて、眠って、その頭に詰まった脳を動かすんです。その脳があなたを生かす。弟さんを生かす」
     海面から光が射していた。海氷の割れ目から真っ直ぐアズールの上に降りそそいでいる。朝焼けの空に夜の名残を一滴垂らしたような色の肌が、その光を受けてつやめいている。そしてその中心には二つの目があった。朝の海のように冴え渡った目だ。輝くその目で、アズールは一心にイデアを見つめていた。
     アズールの唇が小さく震える。そこから細かな泡がこぼれて、金色の輪郭をまとって二人の間を立ち昇って行った。何かを紡ぐようにその唇は動くけれど、何を言っているのかイデアには読み取れない。ふとアズールの鰓が大きく開閉した。
    「お願い、生きて、イデアさん」
     その言葉は細く絹糸のように引き絞られて、イデアの心臓に巻き付くように届いた。



     学園に戻ってみれば、まだ深夜を回るか回らないか、イグニハイド寮では殆ど宵の口の頃だった。深海での出来事がほんの数時間にも満たないことを知り、イデアは唖然とする。空からは珍しく雲が消え、明るい月が高いところにあった。
     賑やかな音楽が談話室から聞こえるので何事かと覗き込むと、アイドルの映像の上映会が行われている。その対角では机をいくつか並べた上に大きな設計図を広げて、数人の寮生が何事か話し合っていた。それはイグニハイド寮が始まって以来何度も繰り返されてきた光景に違いなかった。
     長い廊下を抜けて、二人はイデアの部屋に戻る。イデアがロックを開錠し、アズールはいつも通りお邪魔しますと律義に呟いて後に続いた。そして二人はこれまで何度もそうしてきたように折りたたみ式のテーブルを広げて向かい合い、そしてこれまで数えるほどもしてこなかったことを――つまり、食事を共にすることにした。
     本当なら盛り付けにもこだわるのですが、と言い訳しながら、冷蔵庫から取り出した保存容器をアズールが遠慮なくテーブルに出していく。乗り切らない分は作業用のデスクにも並べられ、整然としたそこは瞬く間に混沌の占領下となった。二人分には多いそれらに、イデアとアズールは黙々と取り組んだ。海藻入りのコブサラダを匙で掬い、脂身の甘い鴨肉のロースにフォークを突き立てる。芽キャベツのピクルスを咀嚼し、よく煮込まれた牛タンのシチューを味わった。ヒラメのカルパッチョはアズールが苦笑いで全て引き受け、代わりにアーリオオーリオパスタをさり気なくイデアの方に押しやった。行儀悪く目に入ったものを口に運ぶので、プラムケーキを齧った後でツナサンドに顔をしかめたりもする。普段ならそれを咎めるであろうアズールも同じようなことをしていたので、イデアはほっとして笑った。節制と鬱屈を取り払った二人は本来の健啖ぶりを遺憾なく発揮し、多すぎるかに思われた料理は見る間に胃に収まって行った。
     全然満腹になりませんな、とイデアがこぼす。イチジクとブルーチーズの和え物の上で口を開けていたアズールはぴたりと手を止め、しげしげと目の前に座る男の顔を観察する。そしてふと破顔すると、食べかけの和え物を胃に送り込んだ後、心底おかしそうに言った。
    「だってそりゃ、お腹が空いていたんでしょう」
    「お腹が」
    「そう、お腹が。当たり前のことじゃないです?」
     汚れた指をぺろりと舐め、事もなげにアズールが言い放つ。イデアは腹を手でさすり、そして椅子の背もたれに思いきり体を預けて言葉にならない咆哮を叫んだ。アズールが仰天して肩を跳ねさせる。イデアは笑いだしそうな気分だった。腹の底から突き上げるそれは、恐らく根源的な歓喜であった。勢いよく体を戻し、フォークを手に取る。薔薇色のローストビーフをアズールの目の前から掠め取り、大きな口を開けてそれを食べた。顎を動かすたびに柔らかい肉から肉汁が溢れ、濃厚な風味が舌を踊る。飲み込むのが惜しくて、イデアはいつまでもそれを咀嚼していた。いつの間にか頬を涙が伝っていた。
    「ど、うしたんですか、イデアさん。大丈夫ですか」
     おずおずとアズールが尋ねる。喉を鳴らして口の中の物を飲み込むと、涙をぬぐいもしないでイデアは答えた。
    「おいしくて」
    「おいしいですか」
    「うん、おいしい」
    「そうですか。それは……それは、良かった」
     手にしていたカトラリーを置くと、アズールは眉を下げて安心したように笑った。良かった、ともう一度呟いた言葉が食卓の上を走ってイデアにも届く。空になった食器を重ねて端に寄せながら、イデアはふと口を開いた。
    「この前さ、持って来てくれたでしょう、食べ物」
    「ええ。あの時あなた随分うなされてました」
    「うん。そうなんだよね。キツい夢見てたみたいで」
     アズールが視線だけでこちらを伺う。それに気付かないふりをして、イデアはフォークにパスタを巻き付ける。
    「でもさ、もうあんな夢は見ないよ、きっと」
     そうですか、と声がして、アズールの笑う気配がした。落とした視線の先で、彼の手元からローストビーフがもう一切れ、イデアの皿に渡された。それをゆっくりと飲み下して、ついに長い食事が終わった。
     食器とテーブルセットを片付けて、二人はベッドの端に場所を移した。二人並んで腰かけ、アズールはイデアの手を握ってそういえば、と切り出した。先ほど、あの海でのことなんですけど。
    「オルトさんは今もオルトさんであるのかって、あなたそう聞きましたよね」
     ああ、うん、と曖昧に言葉を噛みながら、イデアは自分たちの手を眺めた。火傷や切り傷の痕だらけで、爪の間にグリスや塗料の染みついた自分の手。それより一回り小さくて、丸っこい爪が神経質にやや深く切り揃えられたアズールの手。その手に力が込められ、詳しい事情は存じ上げないので参考になるか分かりませんが、と強張った声が降ってきた。慎重に言葉を選ぶように、ゆっくりと彼の声が流れ出す。
    「僕は陸に上がる時に体の形を変えて、それで多少パーソナリティも変化した自覚があります。この足ときたら随分忙しなく動かさないと前に進みませんし、肺呼吸と言うのも、話すのと同時並行できないだなんて奇妙です。お陰で以前より少しせっかちな癖がつきましたし、新たな思考パターンも習得しました。ですが、僕は決してこの体を仮初の器とは思っていません。人魚の僕と今の僕とは一続きの自我です」
     今あなたに触れてるこの手の感触だって、肌が白かろうとペンだこの位置が変わっていようと、間違いなく僕のものです。そう締めくくるとアズールは身を乗り出して、俯くイデアの頭を空いた方の腕で抱き込んだ。その首筋に、イデアは甘えるように顔をこすりつける。
    「オルトに触れたかったんだ、もう一度」
     指先の震えを抑え込むように、アズールがもう一度強くイデアの手を握り直す。当たり前ですよ、と言葉が耳に流し込まれる。
    「……その、しますか?」
     イデアの頭を抱いていた手を外してシャツのボタンにかけられた指に、イデアは自身の手を重ねて制止した。うずめた頭をふるふる振ると、アズールがくすぐったそうに身をよじる。
    「しない。……でも後でする」
     彼の制服に吸収されて、声は情けなくくぐもっていた。アズールが小さく笑うのが聞こえる。それでイデアは急に冷静になって、勢いよく体を離した。
    「あ、ごめんね! 気遣わないで、慰めックスとかいいから! きみも自分のこと大事にしてほしいっていうか僕もきみをそん、んぶっ」
     言い募る言葉を無理矢理遮ったのは、アズールの唇だった。前触れもなくキスをされ、驚いたイデアはうめき声を最後に黙り込む。
    「声を奪うのは海の魔女って相場が決まってるんですよ」
     アズールが立ち上がり、イデアに向けて手を差し出す。それを取ると、顔に似合わぬ力強さで引き上げられた。たたらを踏みながら彼の前に立ったイデアを、久しぶりの少し低い目線から見上げ、アズールはゆっくりとうなずいた。
    「ああ、やっとせいせいした」
     アズールが目元をとろけさせて、もう一度イデアの頭に手を伸ばす。白い指が髪に差し込まれ、優しい手つきで撫でられた。その度に火の粉がふわふわ舞い散る。
    「馬鹿ですね。したいんでいいんですよ。あなたも僕も生きてるんですから」
    鶏肉 Link Message Mute
    2022/07/09 19:10:39

    蠟燭の幽霊と海のざわめき

    初出:2020年8月7日(Pixiv)
    イデアくんにとっての身体とは、ということを考えていた時期のものです。
    #二次創作 #BL #ツイステッドワンダーランド

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