焼け木杭が爆発炎上(下) 半期レポートを出力し、シュラウド・マキネティックの社長としての僕は溜息をついた。組織で働くのがあまりにも嫌で会社を起こしたものの、自分に商才が無いことは十分に理解している。今日明日に経営が傾くというのではないが、大した規模の会社でもないくせ事業が早々に守りに入っている自覚がある。技術を生んでも商業ベースに乗せられないのだ。結局、今は出入りしている研究室のつてを頼るような形で細々とプロダクトを取って貰っている。
こんなザマを見たら目を吊り上げて怒りだすか、あるいは満面の笑みですり寄ってくるのだろうなあ、と、カレッジの卒業以来疎遠になっている後輩を思い出す。卒業したら是非一緒にお仕事しましょう、と言われたことがあった。深夜のベッドでのことだった。ピロートークがビジネスの話題だなんて、いかにもあの子らしいよね。でも僕も、そういうところが嫌いじゃなかった。彼の肌と湿ったブランケットにくるまれてずっとここにいたいなあ、なんて思っていた僕と違って、彼はしょっちゅう未来の話をしていた。
あの時の会話は結局どうなったんだっけ。確か僕が眠たい声で「そういうのもいいかもね」とか何とか返して、アズールが「約束ですよ」と囁いてそれで終わったんだった。それなのに蓋を開けてみれば、彼は今ニュース記事の向こうにしかいない。
「予め与えられたもので戦ったってじきに手詰まりがくる。持っているものは最大限に利用しますが、自分の努力で得られるものって想像以上に多いんですよ」
いつかの彼の言葉だ。雪の降る日だった。冷え込んだ外気にテンションの上がった彼に付き合って、僕らは二人で校舎外を歩いていた。プールに水が入っていないことを残念がる彼を笑ったり、コートを持っていないインドア派に呆れた彼が制服のジャケットを貸してくれたりした。ふとどこかの教室から音楽が聞こえてきて、彼がふんふんと鼻歌を乗せる。すぐに興が乗ったらしく、僕ら以外誰もいない冬の校庭で彼は朗々と歌い出した。
「アズール氏ってさあ、歌上手いよね。やっぱ人魚って歌上手いもんなの?」
「いえ、必ずしもですね。僕は結構、上手いと自負していますが」
「ほおん。才能ですなあ」
何気なく言った僕の言葉に、アズールは歩みを止めた。そして少し目線を下げて、僕というより自分に言い聞かせるようにあの言葉を語ったのだ。その時僕は何と返していいかわからなくて、ふうんとかへえとか曖昧に相槌を打ってお茶を濁した。弱冠17歳だった彼の人生訓は僕の耳に少しざらついた感触を残した。それは今でも確かに残っていて、あの日の彼の歌声と共に繰り返し僕の脳裏に蘇る。
卒業後初めての冬、ある朝僕はこの言葉を思い出した。雪が降っていたからかもしれない。その頃僕は家に引きこもってひどく腐りきっていた。この島ではすべてが予め決められている。会う人も、話す言葉も、僕の将来も。僕は学生時代に輪をかけてすっかり絶望して、毎日のルーティンをこなすだけの抜け殻になっていた。窓から吹き込んだ冷気が僕の頬を冷やして、ずっとぼんやりしていた頭が急に明瞭になった。
「あーーーーーーーーー。キレそうキレた」
それから僕はちょっとした革命を起こして(内気な長男が急にとんでもないことを言い出したので両親は随分狼狽していた)、まあ色々あったし今も色々あるけど概ねうすら円満に島を出てきたのだ。自分に魔導工学の才能があることは知っていたので、その分野を迷わず選択した。家名がそれなりの力を持っていることも心得ていたので、その後立ち上げた会社では堂々と掲げた。持っているものは最大限に利用するのだ。
◆
ヌウヌウうなりながら社内をうろついていると、ミーティングスペースから「あ」と声がした。見ると社員の一人がクッションの山に埋もれている。割とリモートOKのわが社において、ほぼ毎日出社してきている奇特な社員だ。
「それ腰言わせない?」
「落ち着くんですよ、うちにいるより捗るし」
「ハハ、アズールみたいなこと言う」
直前まで彼のことを考えていたせいで、思わず口走ってしまった。恐る恐る部下の様子を伺うと、じっとこちらを見ている。あー、しくった。誰だよって感じだよね突然知らん名前出されても一番困るやつだよねごめんねコミュ弱で……。
「それってアズール・アーシェングロットですか? モストロ・マーケティングの」
「う、うんそうだけど……」
「そいえば社長おな校でしたっけ。知り合いなんすか?」
「え、あー、元カレ?」
クッション氏が目を円くしている。なんだろうなーなんでこういうこと言っちゃうかなーさては拙者情緒不安定か? 自分から言っておいて、気まずさからぼさぼさの髪に手を突っ込んでかきまぜる。あー、とクッション氏が間延びした声を上げた。
「だと気まずいっすねー。なんかモストロが魔導分野に来る的な記事出てて、ワンチャンうちとも仕事してくんねっかなって思ってたんすけど」
さっぱりした声音に安心する。この人のこういう、割と陽キャなんだけどスキャンダル的なことにいちいち食いつかない所が付き合い易いんだよな。
「あでもこのアズール・アーシェングロットと社長が付き合ってたとか絶対面白いんで今度飲み行きましょう」
「絶対に嫌」
やっぱり陽キャは敵だった。
それにしたって、こうして僕が他人とそれなりに話すことができるようになったのもアズールのお陰かもしれない。そう思ったらもうどうしようもなく泣けてきてしまって、ていうかあの学生時代に僕はアズールに何を返せたんだろうとか思っちゃって、あんな対価対価の子が僕には何の見返りもなく色々なことを教えてくれて、とか考えちゃってうわってなった。仕事中に泣くとかさすがにおメンがふわトロすぎでしょコンビニスイーツか? じゃがりこの心を持てイデア・頭プリン・シュラウド。てかそも僕なんで出て来たんだっけ。たまには社員とコミュニケーションなど取ろうってか? なんか社長突然イキりだしてさーちょう馴れ馴れしく距離詰めてくるわけ。うわキモーそういうの本当やめてほしいよね。ビジネスの距離感大事にしてほしい。とか言われるやつじゃんAll right。多少歳をとったところで自意識の暴走癖は治らない。クソ陰キャが慣れないことをするからこうなるんだ。もういいや部屋戻る。イデア・ザコ虫・シュラウドはさっさとあるべき場所に帰ってどうぞ。
「あ、社長お部屋にいらっしゃらないと思ったらこんなところに」
「お、秘書さんどうしたんすか」
ウッと顔を覆う。妙な気まぐれを起こした結果秘書に探させてしまった。もう二度とこんなことはやめよう。お前はいつだってそうだ。
「突然今日会いたいとかいうアポ依頼がありまして……もちろん日を改めていただくようお断りしたんですが、モストロ・マーケティングのアズール・アーシェングロットと伝えてくださいって食い下がられてしまいまして……いかがいたしましょう?」
クッション氏が物凄い顔でこちらを凝視していた。
【Sマキネティック社員ルーム】
10:07AM
アルタムーラ/秘書:
モストロマーケから即日アポ依頼
水星マン/シス1:
は?常識なさすぎプライマリーから出直してこい
モリ/シス1:
なめられたもんだな
アルタムーラ/秘書:
やでもなんか様子おかしくて
アルタムーラ/秘書:
社長が電話してきたんだけど
ワン/ラボA:
直々?
アルタムーラ/秘書:
そう直々
アルタムーラ/秘書:
しかもあっちの社長めっちゃ食い下がってくる
ロペス/広報:
MMの社長ってアズール・アーシェングロット?
水星マン/シス1:
ggった うわ嫌味っぽ
モリ/シス1:
えこれが食い下がってくんの?
アルタムーラ/秘書:
そう食い下がってくる めっちゃ
ジャンボ/シス2:
えなんで
チャンガイ/管理:
でうちの社長どうすんの あの人絶対断りそ
アルタムーラ/秘書:
と思うじゃん
キリン/広報:
まさか
アルタムーラ/秘書:
まさかだった
モリ/シス1:
意味不
アルタムーラ/秘書:
クソテンパりながらok出してた
アルタムーラ/秘書:
シャッチョ「はあ!?!?!?えっなななんで、は、ききょ今日?今日!?!?嘘え、嘘いやはいああ会いますはい」ワイ(クソデカ大声じゃん)クッションさん(クソドモるじゃん)
社長のあんな大声初めて聞いた
ワン/ラボA:
想像余裕で笑う
ロペス/広報:
でもなぜwhy
水星マン/シス1:
あ
水星マン/シス1:
これ
チャンガイ/管理:
何
水星マン/シス1:
うちの社長ってNRC出身だったよね
アルタムーラ/秘書:
確かそうだったはず
水星マン/シス1:
アズール・アーシェングロットの経歴 こいつもNRCだわ
キリン/広報:
なる
モリ/シス1:
知り合い説
水星マン/シス1:
それ
ジャンボ/シス2:
いーじゃん SSRコネ
ワン/ラボA:
でもなんか 社長脅されてね?
ロペス/広報:
確かに クソテンパるって何事
アルタムーラ/秘書:
まあ社長テンパりキャラではあるけど
キリン/広報:
それな
ロペス/広報:
読めんな
【Sマキネティック社員ルーム】
15:11
クッションの妖精/シス2:
アズール・アーシェングロット来た来たきた
チャンガイ/管理:
ヒェッ
ロペス/広報:
会社IN勢gj
水星マン/シス1:
実況たのむ
クッションの妖精/シス2:
いやでもアズール・アーシェングロット秘書氏と一緒に下行っちゃったし しかも我めっちゃ顔見られたし
水星マン/シス1:
は?
キリン/広報:
無能
ジャンボ/シス2:
クッション野郎はこれだから
ワン/ラボA:
一生クッション抱いてろ
クッションの妖精/シス2:
クッション悪くなくない??? ねえ???
水星マン/シス1:
disってんのはクッションじゃなくてお前なんだよなあ
クッションの妖精/シス2:
ぴぇん
ジャンボ/シス2:
(低音)
モリ/シス1:
(棒読み)
クッションの妖精/シス2:
お?
ジャンボ/シス2:
やんのか?
ワン/ラボA:
クッション野郎が討ち死にならあと目撃者は秘書さんだけ?
チャンガイ/管理:
そうなるな
水星マン/シス1:
少なくとも間近で見てんのは間違い茄子
キリン/広報:
弊社の歴史動く瞬間
ワン/ラボA:
立ち合っちゃってるか~
モリ/シス1:
吸収とかじゃないといいなあ
ジャンボ/シス2:
いやまさかそこまでは
アルタムーラ/秘書:
お待たせ
クッションの妖精/シス2:
秘書氏!!!!!!!!!!!!
チャンガイ/管理:
待ってた
モリ/シス1:
クッションはオワコン 時代は秘書担
ワン/ラボA:
秘書さんいてくれたらこの会社100年持つわ
アルタムーラ/秘書:
え私100年働かされるの
モリ/シス1:
秘書さんワンチャン妖精族系とかない?
アルタムーラ/秘書:
ないですね
アルタムーラ/秘書:
てかやばくて
キリン/広報:
何
アルタムーラ/秘書:
契約ノールック署名
チャンガイ/管理:
は
ロペス/広報:
??????????
キリン/広報:
社長御乱心
チャンガイ/管理:
え契約書 データ はよ
アルタムーラ/秘書:
無理今スキャン待ち
ジャンボ/シス2:
は?紙?引
クッションの妖精/シス2:
モストロマーケは旧石器時代か?
アルタムーラ/秘書:
とりまデータ化したら弁護士チェック依頼かける所存
ロペス/広報:
賢明
アルタムーラ/秘書:
あとあっちが持ち込んだプレゼン資料フォーラム置いとくからシス1と広報見といて
モリ/シス1:
りょ
キリン/広報:
おけ もうアーシェングロット帰った?
アルタムーラ/秘書:
いや今なんか話して いや え
水星マン/シス1:
どうしたのおじいちゃん ちゃんと説明して
アルタムーラ/秘書:
社長とアーシェングロット 外出
ワン/ラボA:
草
アルタムーラ/秘書:
そも契約の時も露骨にわけあり風だったんだな 社長クソテンパってたし なんか約束とかゆってたし
チャンガイ/管理:
えーーーーーー何それ クッション氏しゃちょ捕獲頼む 飲み屋予約しとくから
クッションの妖精/シス2:
言われんでも
事業の提案を受け終えた頃には、もう殆ど日が暮れていた。随分寒くて、雪だって降るかもしれない。僕らはあてもなく街をぶらついていた。僕たちを照らす街灯が不規則に点滅して、左右交互にクロスする二人の足元が揺らいで見えた。隣をゆくアズールの探るような視線を感じる。分かっている、僕たちはつい先ほど、他人からただのビジネスパートナーに昇格したばかりだ。するんだろうか過去の話を。するべきなんだろう、多分。
「お久しぶりですね、イデアさん」
「ん、うん、久しぶり。その、ごめん、連絡とか全然」
「いえ、僕の方こそ」
謝罪は素っ気なく拒まれた。僕はコミュニケーションが苦手だから、その意図が汲めなくて泣きたくなる。不義理をなじられているんだろうか。それなら、今日来てくれたのも純粋なビジネスなのかもしれない。沈黙が気まずい。俯くと、僕のスニーカーの隣で彼のピカピカの革靴が地面を踏んでいる。上手に歩くんだなあと思った。あっちこっち踏んづけたりこすったりして薄汚れた僕のスニーカーとは大違いだ。
「あ、あの、あのね、アアズール氏」
「ふふ、あなたそんな昔みたいに」
アズールが一瞬楽しそうに笑って、すぐに気まずげに口をつぐんだ。
「……コート、持ってるんですね。あ、いえ、すみません、当たり前か」
彼がおっかなびっくり過去に手を伸ばそうとしているのが分かった。まるで生まれたばかりの子猫に触れようとする手つきだ。逡巡して、少しだけ触れかけて、すぐに引っ込める。ちらりと目が合った。
「あ、その、僕、今日、嬉しかった。きみが来てくれて」
「そうですか」
「連絡とか、しなかったのに」
「それは……それはもう本当にお互い様ですから、不問ということにしませんか」
「あ……うん」
うん、ともう一度、相槌を口の中で転がす。僕の方から連絡を絶やしたはずなのだけれど、彼の中ではお互い様ということになっているらしい。そういえば彼は、気まずいからってコンタクトを躊躇するような人じゃなかった。とすれば彼は本当に僕がいらなくなって、えっ、じゃあなんで今日ここに?
ろくでもない思考の陥穽に落ちかけて、慌ててうーとかあーとか言った。僕はすぐに声の出し方を忘れてしまう。
「ごめんこれだけ言わせて。ほんと嬉しかったんだ。僕が今こうしてるの、きみのお陰、だから」
何か言いかけるように口を開いたアズールと自分との間に人差し指を立てて制する。ごめんね、僕は会話が上手くないから、頭の中の言葉を会話の中で編みなおすのとか、うまくできないから。
「きみが僕を見つけてくれて本当に嬉しい」
ほっと息をついて、腕を下げた。いつからか僕らは川沿いの道を歩いていた。どこかにバイオリン弾きがいるようで、陽気な音楽が踊っている。道行く人たちは皆その旋律に乗るように、軽やかな足取りで僕らの脇を通り過ぎて行った。浮かれた夜に僕らの足音だけが変拍子を加えている。酔客が数人、とうとう立ち止まった僕らを追い越して行った。僕は、とアズールが切り出す。
「僕は、ずっと見てましたよ、あなたを」
え、と口から零れ落ちた声は誰に拾われるでもなく暗い地面を転がっていった。アズールはこちらをちらりと一瞥して、言葉を続ける。
「あなたは星みたいにいつも光っていたので、海の底からでもよく見えました」
触れればちりんと音が鳴りそうなアズールの目を、僕はわざわざ正面に回り込んで覗き込む。冴え冴えと輝いて、彼の目の方がよっぽど星みたいだなと思う。引き絞られた口元、その唇は記憶の中の彼よりも少し乾いていた。
「なんか、アズール……大人になったね」
はあ? と彼の眉が歪む。その角度がかつてと同じで、僕は無性に嬉しくなって思わず笑ってしまった。
「何ですか、急に。年上ぶるのはやめてください」
「年上だもの。大人になったし、えーと、その、ンッ、き、」
綺麗になったね、という言葉はさすがに唇の隙間ですり潰してしまった。けれど実際、歳をとったアズールは世慣れて都会的な雰囲気をまとい、益々美しかった。
「たった一歳じゃないか」
「そうだけどさ」
「あなただって大人になりましたよ。素敵です」
ミ゛ャッっと妙な声が出た。そういうことさらっと言っちゃうのアズール氏マジアズール氏~~~~スマートにいよいよ磨きがかかってアズール氏2.0~~~~! ついていけなくなった僕にアズールのひそやかな笑い声が戯れかかる。表情豊かな彼の、ちょっと下がった眉がすごくかわいい。
「ねえイデアさん」
「は、はい。なんでしょ」
「今から僕、結構恥ずかしいこと言うと思うんですけど、聞いてくれますか」
「さっきのより恥ずかしいことってある?」
「あなたが恥ずかしくなるんじゃなくて、僕が恥ずかしいやつですよ。」
強がってたみたいです。僕の視線から逃れて、アズールがこぼした。指がステッキの飾りをしきりになぞっている。唇はうっすら自嘲的な弧を描いて、目は彼の内面を彷徨うように焦点を失っている。
「確かにアズール氏だいぶマウン……負けず嫌いっていうか、うん強がりなとこあったけど、今更……?」
「茶化さないで。そういうんじゃ……いや、そうなのかな。あなた時々、僕よりも僕のこと分かってるから」
でも多分そうじゃなくて、とアズールは更に言葉を継いだ。
「あなたを失うのは僕にとって大した問題ではないと、強がっていたんです」
「あ……」
僕の体から力が抜ける。連絡を絶やした時のことだ、どうしよう、僕はアズールを傷つけてた? この数年間はやっぱり僕のせいだった? あからさまにうろたえる僕に、アズールは「謝らないで」とぴしゃりと言い放った。先回りされてしまって、彼の肩に触れて慰める勇気もなく、僕は黙り込むほかない。
「不義理についてはお互い不問にと約束したはずです、いいですね。僕は強がって……あなたは重要じゃなかったと思うことにしていました。でもやっぱり、ふふ、さっきの声」
「声?」
「びゃっみたいな変な声のことですよ。あれを聞いて確信しました。やっぱり僕にはあなたが必要みたいなんです」
首をひねる。アズール氏の……僕のすっスススちゅきなところは……奇声……?
「あなたの声、僕好きです。知ってました? あなたの声、すごく感情豊かなんですよ。何考えてるか簡単に分かってしまう」
「え拙者ディスられてる?」
「ビジネスじゃ腹の内読ませないのが鉄則ですよ。あなたそんなんで大丈夫なんです?」
「無視じゃん。てかアズール氏も分かりやすい時めっちゃ分かりやすいですぞ」
「それなんですよ。僕、あなたといると簡単に素を出してしまう」
ぐいん、とアズールの頭が持ち上がって僕を見た。そしてその途端、「ああ!」と大声を上げて、片手で顔を覆ってあおのいた。
「ああ、駄目だ! くそ、好きですよ、イデアさん、好きです。好き! あなたがどうしようもなく好きです! 天才なところも好き、卑屈なところもかわいい、僕を煽ってくる凶悪な顔も好き! 僕を理解して、僕の避難所になってくれるところが」
好きです、と最後の言葉は急に小さくなって、白い吐息と一緒に暗い空に溶けるように吐き出された。所在なさげな声で、イデアさん、と呼ばれる。顔は上に向けて手で覆ったまま。唇が震えているのだけが見える。彼は北の海の生まれだから、あれはきっと寒さのせいではないのだろう。
「あなたは、僕を必要としてくれますか」
動かないアズールに僕は一歩距離を詰めた。そして彼の肩を今度こそそっと撫でる。
「アズール、アズ、こっち向いて、お願い」
「嫌ですよ僕今ひどい顔してる」
「絶対そんなことない。顔見たい。あと僕の顔も見て」
顔を覆う彼の手の甲に触れて促すと、アズールはおずおずと目線を合わせてくる。勝気な眉はすっかり下がってしまって、確かに彼の申告通り情けない顔だった。でもきっと僕も同じような顔をしている。結局僕らは似た者同士だから。欲しいものが分からずに何年も過ごしちゃうような不器用同士。彼の冷たい頬に手のひらをこすりつけるようにして撫でる。左サイドに一房下ろした髪を指に滑らせた。
「僕……僕は、アズールが必要だよ」
「マーケティングと営業のために?」
「混ぜ返さないでよ。分かってるだろ」
「分からないです。これは本当。あなたが僕が必要って、そう言ってくださるのは嬉しいけど、理由が分からない。教えてください」
うん、と頷いて、彼の睫毛の本数を数えながらこの数年間の記憶を手繰り寄せた。
「さっきも言ったけど、僕はアズールのお陰で今ここにいると思ってるから」
「ええ、それよく分からなかったんです。何の話ですか?」
「僕、家のこととか色々難しかったでしょう。でも、きみがいつも努力してたの思い出して、結構僕の人生って真っ白じゃんって気付いて」
「条項を作る前の契約書みたいに?」
「それはちょっとよく分からんですが」
真面目に言ってるのかふざけてるのか分からない彼の言葉に少し笑う。やわらかい頬が気持ちよくてずっともにもに揉んでいるのを、今の言い回しについて考え込んでいるらしいアズールはされるがままにしている。そういうわけだからさ、と僕は勝手に続けた。
「人生諦めるのやめよって、思えたの、きみのお陰。今も割と、無理ってなったらきみのこと思い出してる。だから僕にはきみが必要だと思うし、きみは眩しいから、できれば近くで見てたい。あ、あと、きみが言うみたいに、僕できみが安心できるなら、すごく嬉……しいでしてよ」
最後で照れるのやめてくださいよ、となじるアズールの声が甘い。手が胸の前で少し彷徨ってから、僕のダウンジャケットのファスナーをもてあそび始めた。はあもう勝利では? 焼け木杭が爆発炎上。ヘイカモンミュージック、アイムオルレディフィールソーハイ。
そう思っていたら、ふと聞き覚えのあるメロディが流れてきた。アズールもおやと辺りを見回す。道を渡ったところにバイオリン弾きがいて、いつかアズールが僕に革命の種を撒いた日に歌っていた曲を奏でていた。
「これ、覚えてる」
僕の呟きに思い当たるところがあったのか、彼もひとつ頷いた。小さな声で歌を紡ぎ出す。古い歌だ。陰鬱な旋律で流れ出す歌声に耳を澄ます。いつかと同じように興の乗ったアズールの歌声が徐々に力強くなってゆく。歌いながら、アズールが川辺に近づいて行った。鉄柵に体を預け、川を渡る風が髪にじゃれるのを気持ちよさそうにする。あの日、彼の歌声は白くうち沈んだ中庭に反響していた。それと同じ歌声は、今日は風に乗って僕らの知らない場所までも運ばれて行く。
彼が朗々と最後の旋律を歌い上げると、周囲の喧騒が戻ってきた。そういえばここは往来なのだ。揃って振り返ると、バイオリン弾きが笑顔で手を振っている。僕らの周りに何人か顔を赤くした人間たちが集まっていて、口々に口笛……えっ……待って無理
「うわどうしよアズール氏みんな見てるよ早く行こねえ、えいつから? 拙者らいつから見られてた?」
「さあ、最初っからじゃないですか」
アズール氏が世慣れた笑顔でギャラリーに手を振る。えほんと無理何やってるのこの子。でかい図体をアズールの後ろに隠すように回り込む。あなた昔も思ってましたけどそれ全然隠れてませんからね、と笑顔を貼り付けたままのアズールが辛辣なことを言う。ギャラリーが輪を縮めてきて、花とかチョコレートとか幸運の2マドル硬貨とかそういうチップだけどチップじゃないものを手渡しアッーーーーもうこれほんと最初から見られてたやつーーーーーーーー
「お願い……無理……行こ……」
「仕方ないですねえ」
にこやかにちょっとしたプレゼントを受け取るアズールが呆れた顔で笑いながら、僕の口に包みから出したチョコレートボールを押し込んでくる。無抵抗に受け入れると結構おいしい。
「ところでイデアさん、僕自宅は少し離れた場所にありまして。随分長く歩いたから、疲れてしまったんですよね。なので、あなたさえよろしければご自宅に招待していただけませんか?」
指についたチョコレートを舐めながら、アズールがいたずらっぽく笑う。とにかくここから立ち去りたいばかりの僕は必死で首を縦に振って、その数秒後、彼の言葉の意味に気付いた。
「えっ、あっアズール氏ちょっとそれ! どういうつもりでござるか!」
あっはっは、と大口を開けて笑って、アズールは僕の背中をばんとどついてきた。
暗い部屋に点滅するLEDランプが眩しくて、僕は重たい腕を伸ばす。社内チャットアプリだ。未読34件。うわ。
“社長”
一番新しいのはつい10分ほど前。個人トーク。クッション氏だ。
“社長社長社長”
“社長いますよね見てますよね既読ついてますよ”
“いません”
“社長!!!!!!!!!!!!!!!!!!!”
うるっさ。文字だけでうるさい。誰だよこいつ採用したの。僕か。
“社長誰にも言いませんから、ね 飲み連れてってくださいよお願い 興味しかない”
“嫌だってば”
“アーシェングロットさんってしゅっとした人ですね 生で見てびっくりしました なんで急に来たんですか”
“それは拙者が一番知りたい”
“復縁ですか もしかして今一緒にいる感じですか”
“ほんとやめて”
“キャーーーーーーーーーーーー すいません本当。野暮でした。消えます。”
静かになった端末を睨んで溜息をつく。少し顔を動かすと、僕の背中に貼りついてやり取りを覗き込んでいたアズールがニヤニヤ笑っていた。
「しちゃいましたね、復縁」
アズールの掌が僕の裸の胸をいやらしく滑る。僕はその真っ白な手をひったくって、思いっきり――血が出ない程度に――噛みついてやった。彼は僕の未来なので、足跡代わりに痕をつけてみたくなったのだ。