花の名 変な時期に転入生がやってきた。
黒い髪に、光りの具合によって綺麗な深い緑の色を映す瞳は大きく、小柄に見えるのは顔が小さいせいだろう。詰襟の学生服をきっちり真上まで上げている男子はそう多くない。学ランがやけに似合っているのが印象的だが、出て来た声はしっかりと硬質で自身を名乗った。
「水心子正秀、です。よろしくお願いいたします」
教室内がざわざわと騒がしくなる。変わった名前、昔の人みたい、どんな字なんだ? 「はいはーい! それじゃあみんな、水心子くんに色々教えてあげてな~」という担任教師の声が続けて自分の隣の席を指さした。そこが空き席だから、と。
「よ、よろしく」
緊張した面持ちの声は、先ほどとは比べものにならないほど情けなくて、本当はきっと彼も緊張していたのだと気付いて笑った。
「こちらこそ、よろしく」
水心子は、とても几帳面で、だけどやる気が空回ることが多くてかといってそれでめげることもなく、改善策を考えては次に挑戦する。とてもじゃないが、生きていて疲れないのか、と思うくらいに「一生懸命」な奴だった。クラスにはそれなりに馴染んだが、やはり多くの人の前では気張ってしまう。なぜか僕とはうまいこと馬が合って、一緒に人気の少ないところで弁当を食べたり、パックの牛乳を飲みながら帰ったり、英語を教えてやったり、古典と歴史を教えてもらったりした。
だからある時、本当に大事なことをそうとは言わずにこっそりと伝えてくれたのが本当に嬉しかった。
「僕には、親友がいたんだ」
僕と話す時だけ、水心子は「僕」と言う。彼によく似合った一人称だが、人前ではそれを照れくさがって「私」などと年上ぶって見せた。
彼の親友はどんな人なんだろう。時々話してくれる。
「彼はとても穏やかだった」
「彼は、見た目に反して力があってね」
「とても気の付く、すごい奴だったんだよ」
そうか。
だけど、そう語る彼はいつもすこし伏目で、あの明るい瞳が黒く見える。
「ねえ、その親友は、今はどこにいるの?」
「さあ。もう会えないから、わからないや」
そういって、寂しく笑う。
それは少しわかる気がした。
なぜなら、僕も親友を失ったから。
ある時、突然、「彼」の存在がなくなった。
携帯のアドレス帳にあったはずの名前がない。彼から借りっぱだったCDはなぜか姉が借りてきたことになっていた。家に行ってみたけど、前は表札にあった名前が無くなっていた。僕がいくと喜んでいた柴犬のナナちゃんは僕とは会ったこともない、というように散々吠えられるようになった。そうなのだ。彼がいる時は僕はナナちゃんに触れたけど、彼がいない時は全く触れなかった。そんなところは一緒なのに、自分が観た範囲では彼の存在を覚えている人は誰もいなかった。彼の両親でさえも。
その親友と入れ替わるように転校してきた水心子が親友のようになって嬉しかったけど、やっぱり胸のわだかまりはいつまでも消えない。
死んだと言われたらまだよかった。
生きているのか、死んでいるのか。それすらもわからない。そもそも存在していなかったのなら「死」とはなんだ。どうして彼はいなくなったのだ。どうして自分だけは彼を覚えているのか。わからないことだらけで混乱している状態がずっと続いていた。
まるで、夢の中を生きているような心地のまま。それは現実からの逃避の「夢」ではなく、「悪夢」が現実に侵食しているようなものだった。
新しい友と、失った友人。
どちらも大切だが、心中の折り合いを付けられないまま、時は過ぎて夏になった。
テスト期間中、いよいよ最終日、半日で終わるということでこぞって早く帰って試験勉強だ、と皆が帰っていく中、担任に呼び出されて職員室に行き、提出していない書類があるとのことでもう一度プリントをもらって教室に戻った時、恐ろしい鬼のようなものが立っていた。声を出そうにも干からびているように喉が張り付いて声を出す間もなく教室の中に引き込まれる。喰われる! と己の腕を突き出そうとしたら、首根っこを掴まれて、教室の後ろにすごい勢いで放り投げられた。机にぶつかって思いっきり後ろにコケる。
「すまない! 強すぎた!」
その声は、聴いたことがある。
目の前には、長い濃紺のコートを翻した青年が日本刀を構えている。頭には学生帽のようなものを被り、顔の半分が埋まっているぐらい襟の高い外套で、よくそんな機敏な動きが出来るな、というくらい素早く教室の机を蹴とばして戦えるスペースを作っていた。
大きな鬼はそんな彼に向かってそちらも持っていた刀を振り下ろす。教室の床のタイルが一気に剥がれて飛び散った破片がこちらにまで飛んできた。その刃の上に乗って青年が刀を構え、鬼の頭を真横に両断した。鬼の頭蓋骨と脳みそが綺麗に輪になったのが見えたが、すぐに黒い煙にまみれたと思うと、灰のようになってどこからか吹いた風によって一瞬で教室には割れたタイル以外ととっ散らかった机と椅子以外なにも変化はない。
先ほどの怪人のようなものはなんだったのか。
青年が刀をブンと振って、血を振り落として鞘に納める。こちらを見て、真っ直ぐに歩いてきた。
「す、すいしんし……?」
「ああ」
「え、うそ…。その恰好は、一体……ていうか、刀なんて……持って……?」
「私は新々刀の祖、水心子正秀。先ほどは済まなかった。ああも急に出てきたものだから。ケガはないか?」
「いや、僕は大丈夫……。水心子こそ……」
「私はなんともない」
そういって、手を差し伸べてくれたので、それに引っ張られ立ち上がる。今度は適切な力加減だった。
「君は」
「ん?」
「君は、覚えているか?
君に、親友がいたことを」
「どうして、それを……?」
話したことはない。だって、誰も覚えていなかったから。あんなに一緒にいろんなところに行って、いつも彼の話をしていたのに、姉も母も覚えていなかった。
まるで僕にそんな友達なんて最初からいなかった、とでも言うみたいに。
「水心子、君は一体……」
そして、水心子は、キッとこちらを強く見て、その大きな綺麗な深緑の瞳に薄い水の膜が張られ、それを必死に押しとどめている。
「君は、『彼』がいた世界を、覚えていたいか?」
なにを言っているんだろう?
「そりゃ、覚えていたい。覚えていたいよ! 僕は、彼を、覚えているんだ!」
「ならば、一つだけ、方法がある」
「え……?」
水心子が一歩前に進み、僕との距離が近づいた。それほど身長は変わらない。なのでお互いに真っ直ぐに立って、向き合う位置に瞳がある。
悲しみを湛え、それでも強い光を放つ。そうだ。彼は、そういう人だった。
諦めない。苦しくても、それでも、立ち上がり、何度でも、進むのだ。
「これから起こることは、君を苦しめる。
辛いことばかりだろう。真の平穏は、今後きっともう訪れない。
それでも『彼』がいた『世界』を覚えていたいというのなら、一つだけ方法がある」
彼から伸ばされた腕。
細い、僕とそれほど変わらない腕。全部真っ黒い制服のような服に覆われて、あの一緒に夏服の制服で見えていた腕が見えないことに不安になった。
身長の割には確かに彼の身体は筋肉がしっかりとしていた。戦える身体だったのか。ああやって、どこかで、なにかを護るための。
その腕を取った。
「それでも、僕は、覚えていたい。
僕が生きていた世界は、そこだから」
*
「我が主よ。今戻った」
水心子正秀が戻って来た。
無事に任務は達成できたようだ。そりゃあそうだ。彼は私の一番信頼のおける男士なのだから。
「おかえり、水心子。大変だったろう。
お茶を淹れようか。まだ時間はあるよ。一緒に、茶を飲むくらいなら」
「主」
「水心子、ありがとう。ほら、顔を上げて」
執務室に戻った水心子が、こちらを見ている。ボロボロと涙を流しながら、帽子をそこらへんに投げ捨てて、口をわなわなと震わせて、うまく言葉も出せないくらいに。そうして私にしがみついて問いを発した。彼自身に問うように。
「本当に、これで、よかったのか?」
「もちろん。これが正しい歴史なのだから」
「これが、歴史? あの『彼』を見殺しにすることが? 僕たちの護るべき歴史だと言うのか?
答えてくれ、主! 貴方は、本当に、後悔をしていないのか!?」
私の胸元に掴みかかった水心子の涙が、服にまで落ちる。なんて綺麗な涙を流すのだろう。やはり彼に行かせて正解だった。これでよかった。
「後悔なんて、今更だよ。もう人間に流れてしまった時間は戻せない。
いいんだよ、水心子。こうして、君が、水心子が、僕のために、全力を尽くして心を砕いて泣いてくれるから」
両手で自らの顔を抑えてしまった。その手にそっと自分も両手を添える。
泣かないでほしい。いいや、泣いてほしい。私の、いいや、僕のために。
ずっと昔、親友を残して死んでしまった僕の、二度目の死のために。
「どうして、こんなことが許されるのか? 正しい歴史とはなんだ?
貴方が生きていたことは無駄だったのか? あなたが、あなたが選んでくれた僕たち刀剣男士は正しくなかったとでも?
貴方は今、ここにいるのに! 僕は知っているのに! あなたが生きていることを!」
きちんと話をするときは、相手の目を見て話す水心子が好きだった。
僕は友達が少なかったから、話すのが得意でなくて、だから水心子とは時間がかかったけれど、お互いに隠していた自分を少しずつ、少しずつ分けるようにさらけ出せるようになって、こうして最後の一振りにまでなってしまった。
水心子の両手を握った。手袋のあちこちが湿っている。こんなにも泣いてくれた。
もう僕の涙は流れない。散々泣いたので。
かつて、若かりし頃、高校生の時に「審神者」適性があるということで政府に連れていかれ、選ぶまもなく「審神者」になった。
後の世のことは知らない。ただ、たった一人親友だった友人が気になっていた。
ある時、知ったのだ。気付いたのだ。
本当に審神者になるべきだったのは、彼のほうだったのではないか、と。
私には適正があった。それは事実だ。だが、何度も何度も時をさかのぼる。何度も何度も夢を見る。夢に干渉されている。
私がいなくなった後の世界はスムーズに進んだという。いや、違うのだ。それではおかしいはずなんだ。「審神者」になる者なら、特異点となり記憶に残っていなければ。逆だったのだ。いなくてもいいのなら、最初からいなくてよかった。生まれてくる必要もなかった。
どこかで、きっと、間違えたのだ。いいや、変わってしまった。歴史が。
私が存在しない歴史が「正史」となった。
それが確定してしまったのなら、正すしかない。
入れ替わってしまった私たちの関係を、いいや、もう私が死んでしまった世界の中に生きる親友と、立場を変わらねばならない。
そして、私は消える。
彼が審神者になれば、私は本当に正史から消えてしまう。なにがいけなかったんだろうなぁ。
友もなく、親も失い、未来もなく、男士たちも水心子以外刀解してしまった。恋もしなかった。金も使わなかった。私はなんのために、生まれてきたのだろう。
後悔なんてない。後悔なんて小さな言葉ではない。
ただ、無心でしかなかった。それでも水心子がいてくれたから。彼は本当に、私の味方だったから。
握った両手を離して、そっと水心子を抱きしめた。私の背中にぎゅっと力が集まった。
「ありがとう、水心子。
辛い選択を、僕と一緒にしてくれて」
ふるふると首を振る。
「我が主よ。私は、絶対に忘れない。
私が、いつか忘れられる日が来るまで、貴方を覚えている。あなたが全ての人に忘れられてしまっても、あなたがいなくなっても、僕は、絶対に、忘れない!」
もう流れないと思った涙は、一筋だけ落ちた。
なんて力強い言葉だろう。
ああ、そうか。この言葉を聞くために、きっと私は、今日まで生きてきたのだ。そうに違いない。
生きていた証を、誰かが覚えていてくれる。それだけでいい。それだけで、よかったんだ。本当は。
「あなたという人が、生きていたことを。
大河の流れに押し流され、それでも小川のせせらぎに心と命を救われた物がある。
あなたも、どうか、それを忘れないでくれ」
「うん、忘れないよ。最後まで」
「ああ、我が主よ。あなたは、私の誇りだった」
その言葉だけで、十分だよ。水心子。
そうして、一つの命が歴史の正当性の名の元に消えた。
数多の命の重みなどない。塵芥とて変わらぬ。
しかし、覚えているのだ。誰かが。忘れずにいてくれる。
「刀剣男士で、あるがゆえに」
心に決めた主に仕える男士は、決して忘れぬという。