二人で見る月第一話 気づきの毒気
長い間使っていた部屋が空っぽになって、なんとなく、ぼんやりとドア付近から部屋全体を見てみる。正直、部屋に感慨などなく、ほとんど寝るためだけに存在していたので思い出なんてあったものではない。だが、それでも、なんとなく、感じるものがある、というのは感傷的すぎる、と冬悟は鼻で笑った。
それよりも、もっと切実な問題が今自分の目の前にあって、そちらのほうが手ごわい。
どうして、こんなにも、ここを離れがたいのか。それが原因でここを出ようと決めたのに、結局ズルズルと後ろ髪を引かれるようにこうして、引越しの突然ぽっかりと空いた空白時間に、まだ迷っているのだ。
それに気が付いたのは、突然だった。
夕食の材料を買いに行く、という彼女の荷物もちでついていき、一緒に歩いていたときだった。小柄な少女は少しずつ大人の雰囲気が出てきていて、自分だけが置いていかれる気持ちになる。それは誰相手でも同じで、いつも自分だけが時間の外にいる、というのはわかっていたが、その日はもっと鬼気迫るものがあった。
突然思い立ったそれに対して、表面上はまったく無関心を装う。ヒメノは相変わらず自分の隣でニコニコしながら大学の様子を話す。自分の知らないその生活部分にやっぱり苦いものを飲み込んだ気持ちになるが、やっぱりそれは知られてはいけない背徳感でいっぱいだった。
いつから学んだのかポーカーフェイスはヒメノには知られてない。
時々現れるそんな心の嵐によって、突然頭を抱えたくなったり、不貞寝をしたりとやり過ごしてきたこともあるが、胸のうちがケロイドでただれたように長い間彼女といることで腐ってきているのだとようやく冬悟は思い立った。
「なにそれ?」
エージの部屋で明日彼が出かけるという練習先の地図を広げながらエージは冬悟を呆れた視線で見た。彼は年下のくせに冬悟を時々こういう目で見る。自分にはわからないのに、エージにはわかっているというそれが悔しいが、普通の人間じゃないという自覚を持つ冬悟としてはそこは負けを認めざるを得ない。
マーカーで道を確認していた冬悟は、その視線を受けてつい目をそらした。
「いや、なんていうか、うまくいえねーけど」
「ヒメノといるときだけか?」
「大体は」
「それって、昔から?」
「時々」
「もしかして、梵痕が出る前にオッサンに対してもあったんじゃないの?」
「ええ!? エージすげえな!!」
素直に感動する冬悟を見て、エージは大きくため息をついた。この男は、どれだけ感情というものが欠落しているのか。周りから見れば、一目瞭然だというのに。
「それってさ、ヒメノが好きなんだろ?」
「は?」
「置いてかれたくないとか、自分が知らないことが嫌だとか、いわゆる嫉妬だろ? 嫉妬っつーか、なんつーんだろうな、独占したいんじゃないの?」
「無いだろ、それ」
「無くないだろ、それ」
「アイツは普通の女の子なんだぞ?」
「ここにいつヤツらは正確な意味じゃ普通じゃないだろ。みえるんだから」
「それだけだろ。触れられないし、白くない」
「ここには希少価値なんて無視していっぱいいたけどな」
「いやいやいやいや、そういう話じゃなくてだな」
「そもそもお前がおかしいよ。なんで? アイツのなにが不満なんだよ、つーか、お前自覚あるんじゃん」
「ねえよ! そんな目で俺はアイツを見ていない!」
「自棄になるなって。なにがいけないんだよ、そんな否定することか? 小学生じゃあるまいし」
「そうじゃなくて……」
う、と目線をまたそらした。エージはこういうときの冬悟はあまり好きではない。普段の彼は結構傍若無人で奔放にやりたいことをやり、言いたいことを言う。ただし、それは敵と自分のことに関してだけで他人のことは別だが。冬悟が他人との関わりに恐怖心を持っているのはわかっているが、エージからすればわからない。
「やっぱり、だめだ」
そういって、冬悟は結局部屋を出て行ってしまった。
自分の部屋で寝ていても、やっぱり迷っていた。
そんなバカなことがあるものか。自分が誰かに対して特別な感情を持てるような人間だとは思えない。大体が、そういった感情を向ける相手のことを思うと、迷惑以外のなにものでもないとしか思えなかった。
ヒメノは、幸せになるべきだと思う。というか、それはここで一緒に過ごした仲間すべてに感じているのだけど、その中に自分の姿を思い描くことが出来ない。だから、あの子が幸せなときには自分がいないのだ。でも、それでいいと思う。
そう、いつものように考えたとき、ものすごく気分が悪くなった。
第二話 普通になりたい
明神が予定よりも遅れてトラックを借りてきた。冬悟の荷物は少なくて、積み込みは今度は予定よりもずっと早く終わった。このまま明神と冬悟だけで一人暮らし先のアパートへと行く。それでもう彼はここへ帰ってこないのだ。手伝っていたエージと予定を空けた正宗はあまりの荷物の少なさとやることのなさに肩透かしをくらった状態ですらあった。
「まあ、電化製品とかないしな。そんなもんか」
「でも正兄のときのほうが荷物多かった」
「……悪かったな。CDとレコードは捨てられない人間なんだ」
頭にタオルを巻いた二人がそんな会話をしている横をヒメノが包みを持ってやってきた。
「え、もう終わりなの? 早!」
「な。プラチナよりも少ないんだぜ?」
「そういや、アイツも少なかったな。ガクは本だらけだったし」
「あ、冬悟くーん、明神さん!」
もう一度部屋に戻って明神と確認をして降りてきたところへ声をかける。冬悟が一瞬振り向いたが持っていた手提げを置きに車へ行ってしまった。
「おう、ひめのん。それじゃ行ってくるから。俺は夕飯いらないよ。荷物届くのも待つし、セッティングしてくるからさ。場合によっては一晩泊まってくる」
「は?なに言ってんだテメー。とっとと帰れ! 過保護なんだよ!」
「知らないぞ、そんなこといって地元霊に祟られても」
「わかってるっつーの。教えられたとおりに挨拶行ってくればいいんだろ?」
「あ、これ」
ヒメノが包みを差し出した。
「なに? これ?」
「お昼。もう行くんでしょう?買って食べるよりかは、と思って」
「おお、ありがとう。じゃあ、行ってくるよ」
「じゃあな」
「おう」
「適当に帰ってこいよー」
「冬悟くん」
「またね」
その顔を見れなくて、後ろ姿のまま、手を振ってドアを開けた。
考えて、あきらめようとして、それでもそのことを考えてしまった。
ヒメノが幸せになる姿を想像しようとして、そのたびにそこに自分がいないことに絶望する。そんなこと、いままでありえなかった。
望んではいけないことだ。自分は普通ではない、普通の幸せなど、はるか遠い雲の上なのに、なにを考える。考えることすら、いけないことだ。
「お前はさ、これから、どうするの?」
あるとき、仕事後に明神とラーメンを深夜に食いながら、そんなことを言われた。
「とりあえず、俺の後継者ってことはいいんだけど、具体的にさ。なにか、やりたいことねーの?」
「やりたいこと?」
「澪はもっともっと強くなりたいって、出て行ったし。まあ海外にまで足を伸ばすとは思わなかったけど。白金はリーマンやって社会に揉まれに行ったし、正宗は火神楽さんの店で働いているだろ?
お前はさ、なんでもいいんだけど、なんか、ないの?」
ならば、今しかないのかもしれない。
「俺は、とりあえず、ここを出たい」
「一人で、どこまで出来るか、やってみたい。
俺、ずっと明神に頼りっぱなしだし、俺はアイツらみたいに外に出て行くことは難しいけど、俺みたいなヤツとか、一人の霊とか、救えない霊とか、そういうヤツらをどうにかしたい。
俺に出来ることは、それしかないし」
少し、意外だという顔で明神は冬悟を見たが、目をそらすと、年を取ったように笑った。
「もっと、わがままいっていいのに」
「なんだ、それ」
「いや、いいんだけど。
あのさあ、もう少し、大きくなればわかるのかなあ。自分に出来ることを、そうやって断定しないでさ、お前、もっともっといろんなこと出来るんだからさ。もっと、なんていうの?
普通っぽいこと言っても、いいんだぜ?」
「なんだよ、普通っぽいって」
そうして笑った。
「犬飼いたいとか? うまい飯食いたいとか?」
「超平凡」
ならば、その平凡の中に、きっと彼女の幸せは含まれる。
普通に恋をして、誰かと幸せになる彼女。それを想像することで幸せになる。
本当は、それが自分ならば、と生まれて初めて思ったのだけど、それは「普通」ではないので、切り捨てることにした。
第三話 背中越しの表情
空っぽだった部屋に荷物を黙々と運び入れて、適当なところでヒメノの弁当を食べた。おいなりさんが結構な数詰めてあったが、中身を空にするほかないと思い、完食した。
「この飯が、しばらく食えなくなるんだぞ、肝に銘じておけ」
そう明神が笑っていったのを、ふんと鼻で笑い飛ばした。
頼んでいた電化製品も届き、雑多な品をもう一度買い出しに出かけたりして、なんだかんだで、明神の帰りは夕方過ぎだった。帰りにレンタカーを返して寮へと戻るという。
「アズミ、寂しがるだろーなー」
「そうだな」
「エージだってなんだかんだ寂しいんだぜ」
「そうか?」
「ひめのんもな」
それには応えられない。ふうんとか適当な相槌を打つ。明神は、靴を履きながら、冬悟へと問いかけた。
「本当はさ、お前、どうして出たかったの?」
もう身長差はそんなになくって、玄関の段差で明神よりも冬悟のほうが見下ろしている。なのに、明神に再度見られると、冬悟はやっぱり明神の前では昔のままの子どものときの寂しさを包まれる安心感と射すくめられる恐怖があった。口を結んだまま開けなくて、明神が嘆息を漏らす。
「たとえば、誰かとの関係について悩むようなことがあったとき、そこから逃げても何も得られないぞ。面と向かわないと、意味がないんだ。
今回のこれが、お前の逃げでも、俺は別にかまわない。お前なりにいろいろ考えてるみたいだからな。
でも、俺が、お前に言いたいのは、常に、お前が、一番最初に考えて、望んだことを選んでほしい。こうでなくちゃいけないとか、こうしないとダメだとか、それはきっと、お前の本心じゃないだろう。
一人で考えることもいいけど、たまには俺も、頼ってくれよ」
そして、今逆転しているのに、冬悟の頭を子どものように撫でた。撥ね退けようとしたけど、腕が動かなくて、なされるがままになった。
「でも、俺は、いつも思ってるんだ。俺じゃないほうがいいんじゃないかって」
「そんなの、誰にわかるんだ。だって、俺の弟子はお前しかいなくて、俺たちがずっと一緒に暮らしていたのは冬悟なんだ。お前が『明神』になったからってみんながお前に対して変わらなかったように、俺たちは、お前しか知らない。
お前が選んだり、決意したことなら、きっと、みんな、話を聞いてくれるから」
じゃあ、おやすみ、と出て行く背中を見ていた。おう、と返事にもならないものを答えて、後ろを向いて部屋を見ると、自分が寝るスペースくらいしかないような部屋で、誰もいないことが気持ちよくて、怖くなった。
布団を敷いて、思い描いたのは、「またね」といったときのあの子の表情はどんなだったのだろうかということだった。
引越しを決めたとき、寮の仲間たちは相当驚いていた。
ヒメノはただ「そうなんだ」と言ったっきりだった。それはよく覚えている。視線が彼女をずっと追うようになっていたからだ。
大体、おかしい話なのだ。
考えることをやめてしまえば、この件はおしまいのはずだ。なぜなら、これは冬悟一人の気持ちであって、それに気づいているのはエージしかいない。誰も気づいていないはずだ。冬悟がヒメノを追うようになっても、それでも冬悟は隠し通そうと決めた。
今までと同じように、なんの変化もないように、あの子を見て、料理をうまいと言った。そうすると、ヒメノはまた微笑む。じゃあ、また荷物もちね、なんて言って、また何回か連れ出されたりした。
そう変わらない関係。このままの関係がいい。変化を望まないほうがいい。変化するエネルギーがありそうにも無いからだ。
だから、冬悟は黙っているほかはない。
あの子を想うことも、本当はいけない。忘れるしかない。
だからこうして姿が見えないところで暮らすことにした。そうすれば、きっときっと、その姿はぼやけるはずだ。
あの子を幸せにしたいなんて、大層な想いが自分にあることは新しい発見で驚き戸惑ったけど、その気持ちは誰かを想うことで暖かくなった。でも、それを受け入れることは出来ない。
なぜなら、同時に相手の気持ちを必要とするからだ。
だから、自分が、忘れてしまえば、日常だけに固執すれば、きっと、あの子も自分も互いに思い出になるだろう。
そうすれば、きっと。
あの子が誰かと幸せになるのを、微笑んで見送れるに違いないのだ。
第四話 声すら届かず
寺社関係へ挨拶をつないでもらっていたので、意外とスムーズに依頼はやってきた。たいした物ではないが、細々と毎日は食べていける。寺などで定期的に開かれる集会において用心棒代わりに雇われたり、深夜に営業している占い師たちのサークルに混ざってネタを拾ったり、公園を毎日周回していると顔見知りも出来て、噂の収集はだいぶ楽になった。
時には噂を集める人々から情報屋として情報の売り買いの賃金が入ってリズムも整ってきた。
公園を歩きながら思い出すのは、アズミとよく一緒に早朝散歩に来たことだったり、エージの朝錬をからかいについていったことだった。
人々の中にまぎれていると、そういうところが苦手なツキタケを思い出して、彼を庇うようにいつも歩いていたガクのことまで思い出した。
夜中に陽魂の話を聞き終わり、無事に彼らが空を目指したのを確認すると、同じ案内屋の仲間たちを思い出した。
だけど、なによりも一番に顔が浮かぶのは、いつも決まっていた。
朝食の味噌汁が、味気ないインスタントのとき。
天気のいい日曜には必ず下から自分を呼ぶ声がした。
洗濯物を干しながら、あの子の動作を思い出す。
あの子が好きなテレビは残念ながらテレビが無いので見れない。
シャンプーだって、適当なものを買っているから匂いが違う。
正直、ガッカリした。
どうして、彼女のことばかり思い浮かぶのか。その映像のクリアさに。思い出せないくらいの思い出ならよかったのに、あそこでの出来事は全部捨てられなくて、自分の中身となっていて、捨てられないし、でも、思い出すことが苦しい。
逢いたくてたまらない。
本人に逢いたい。あの声で呼んでほしい。もうほとんどの人が呼ばなくなりつつある、自分の名前を当たり前のように呼んでもらいたい。一度だけ、寒いといって寄せてきた手に、もう一度触れたい。あの細くて小さな手の感触はどんなだったんだろうか。想像しても、それは目の前にはないのだ。
そして、気づいた。
姫乃。
その名を呼びたいんだ。
「結構キレイにしてんじゃんか」
エージとツキタケとアズミが遊びに来た。アズミは家へと着くなり、中へ入って天井から首を360度の勢いで回している。後ろに倒れそうになったのをツキタケが支えた。
「物がないだけだろ」
「あれ、冷蔵庫、なんか、すっごい小さくない?」
「それ、元からあったヤツ。冷凍がないんだ」
「え! 夏大変だね!」
「そうか?」
「アイス、溶けちゃうよ」
真顔でアズミが言ったのを、男三人は笑ってしまった。
「買ったら、すぐ食べるから平気」
適当なお茶を入れて、三人が(おそらく明神に持たされたのだろう)持ってきたお菓子をビリビリと開けた。結構包装紙をキレイにはがすのが自慢だった冬悟的にはその破り方は彼の美学に反していた。
話題は結局終始寮の会話になる。明神がやたらとエージを晩酌に付き合わせたがること。冬悟がいなくなったので、土曜の夜にしょっちゅうガクが泊まりに来るようになったこと。寮の解体が、いよいよ本格的に実施されそうなこと。利用者が少なく、老朽化しているため、もう少し大型の寮を建設しようという計画があるという。冬悟たちが在学中の間から噂はあったが、予算不足のために頓挫していたというが、大学の院も増設するらしい、ということから、もしかして話が広がったのかもしれない。
狭い部屋でまだ子どもとはいえ、男三人も居て窮屈さに次第にツキタケが耐えられなくなってきたようだった。足を伸ばして、エージをちらちらと見る。エージはため息をついて、冬悟の肩を叩いていたアズミの手を止めた。
「じゃあ、俺らそろそろ帰るわ」
「おお、そっか」
結局ぞろぞろと駅まで連れ立って歩く。駅から20分はかかる上、長い坂道が上りと下り両方あるので、次第に口数も減ってしまった。
「なあ」
エージが小声でたずねてきた。冬悟はなんとなく、その先がわかる気がした。
「結局、お前は、なにも言わないの?」
「なんのこと?」
とぼけるな、といってガスンと肘鉄が入った。いて、というが、正直全然痛くない。だが、どことなく胸は苦しい。
「たまには、電話くらいしてこいよ。帰ってこなくてもいいからさ」
電車に乗る直前にそういったエージの意味を明神のことと思ったツキタケたちはそうだぞーと言っていたが、実際には違う人物を指しているので、冬悟は苦笑いもへたくそに小さく笑っただけだった。
第五話 羨望
現在、この寺での従業員(と呼ぶかはよく知らないが)は、高齢化が進んでいるらしく、人手が足りないと言われ着物を着れるのをこれ幸いと寺の内部で雑用を手伝うようになった。事務なんて出来るわけがないので、まさに荷物運びなどの力仕事専門と化している。ぶっちゃけ、昼間の間はしっかりと働けるし、決まった金額が入るようになったので、生活は目に見えて楽になった。
瓶を運んだり、戸の不具合を直したり、人を案内したり、掃除をしたり、あまり器用ではないが、住職たちはいざというときの用心棒として冬悟を寺へと入れてくれていたので、そこらへんはオマケらしい。確かに本職は案内なので、そちらがきちんと出来ていれば問題はない。
回数はそれほど多くなく、寺や神社などで彷徨う霊はあまり居ない。ここを拠点に自分たちの念の強い場所へと霊たちは移動するからだ。それでも何回か案内行為を行っているため、住職たちの信頼は篤くなっていた。
「明神くん。二の間、空いているっけ?」
「はい。ああ、茶器、運んでおきます」
「すまんね、頼むよ」
服をほとんど持っていないので(使いまわせるGパンとTシャツばかりと、安物のスーツだけ)、作務衣を借りて仕事に勤しむ。頭は目立つので、黒いタオルをいつも巻いていた。
休憩をしているときに、黒い髪の少女を見た。最近疲れることが多い。
陽魂と陰魄の狭間のような、娘だった。
「すみません、ちょっと、本職に」
そういうと、タオルをはずし、腕を捲くった。梵痕をチラと見て、自分の意識を安定させた。
俺は、明神だ。大丈夫。今度もきっと、うまくいく。
「お嬢さん、お暇かい」
そう声をかけると、中学生くらいの女の子は振り返った。やはりキレイな黒髪だった。
「み、みえるの?」
どうやら、死んだことはわかっているらしい。コクリと頷くと、わっと泣きついてきた。一番苦手なパターンになりそうだ。
「どうして! どうして私がほかの人にはみえないの!? 一体なにが起こっているの?」
「とりあえず、落ち着いて。俺には君が見えるよ。ゆっくりと、話してごらん」
アズミに話しているかのような口調で、少女を座らせる。隣に腰掛けるが、ピッタリと少女は冬悟にくっついていた。陰気が少しずつ、寄せてくる。今までの鬱憤がいきなり噴出しているような、漏れ出しているような感じであった。このままでは、当てられる。
「おじいちゃんの、四十九日で、ここへ来て、そうよ、確かにそうだわ。お父さんとお母さんと3人で車に乗ってきたの」
「来たときのことは覚えているんだね。じゃあ、帰りのことは?」
そうできるだけ、優しく聞く。だが、少女はすでに自分の思考に入り込んでいた。あっと気づいたときには一歩遅く、隣接していた側の腕から肉の匂いがしていた。急いで離れるが、左腕が焼け焦げていた。
「くそっ!」
「どうして私なの? なにもしていないのに。次の週からテストだったわ。テスト明けにみんなででかけようって約束してたのに。やっとあの子と一緒にでかける口実ができたのに、ひどいわ」
「待つんだ! その人に何も言わないで、このままでいいのかよ! そんな気持ちをむき出しにしちゃ、ダメだ!!」
「だって見てもらえないんだもの!! 私に誰も気が付かない!! そんなの意味が無いわ!! 私まだなにもしていない!! やりたいことたくさんあったのに!! なんでほかの人は生きているの!? どうして私が先だったの!? もっともっと、死ねばいい人が、たくさんいるのに!!!」
黒髪が伸びてきて、冬悟の両手を掴み挙げる。両手に剄を集めて、振り落とし、髪を引きちぎった。右手の平に剄を乗せ、飛を出そうと足を踏み出そうとしたとき、女の子の目が全身髪に埋もれた中からグリンとこちらへと向いた。篭った声が冬悟へと伸びる。
「言えずに終わる気持ちも、わからないくせに」
「わかるさ」
思わず言い返す。
「霊が見える人間なんて、普通じゃないからね。声をかけることすら、躊躇っちまう」
「なによ、それ」
逆上した黒いとげが地面を刺しながら冬悟の足元を狙ってきた。あまり移動をすると境内に入ってしまう。両手をついて、上へとジャンプし、枝へと飛び乗った。木の根元で少女は地団駄を踏んだ。
「あなたなんて、アナタなんて、生きてるくせに!!!」
どこで間違ったかなあ、なんて、後悔しながら、冬悟は今度こそ右手を振り下ろした。
きっと、最初に声をかけて隣に座ったのが間違いだったんだろうと考える。遠くからゆっくりゆっくり、距離を測るべきだったのかなあ。でも、もう、ほとんど、陰魄に、近かったよなあ……。
助けられないたびに、原因を辿る。いつも詰まってしまうけれど、その原因の多くは自分が生きているからだ。
でも、きっと、そうなんだろう。
生きているのに、幸せになるのを、放棄しているのは、なんという傲慢なんだ。
知っている。知っているんだ。
でも、怖い。可能性はあるけれど、そうなれないことを知ることが。「普通」を手に入れることが、どれほどに難しいことを、知っているのだ。
幸せな人間を見るのは、好きだ。誰かを幸せにするには、「幸せ」を知らなくてはいけない。幸せを知らない人間が、誰かを幸せになんて、出来るものか。
でも、あの娘の黒髪は美しかった。
それは、絶対に、そういう髪を知っているからだ。すべての連想が彼女へと繋がっている。自分の世界の中に、深く深く彼女という存在が根ざしている。彼女がいることがすでに自分の幸福の「一部」になっている。もう、否定のしようもないところまで、来ている。
結局、両腕は焼け爛れたようになり、足元には彼女の髪の残骸が散らばってしまった。それを出来るだけ拾い上げ、住職の下へと持っていき、とりあえず供養してもらうことにした。
そして腕を見た住職に怒鳴られ、両腕を包帯でぐるぐる巻きにされ、家へと帰された。ちゃんと病院へ行くように! と深く深く念入りに言われ。
帰り道、自分で水の梵術を使えばいいや、と結局まっすぐ自宅へ帰ることにし、ずっとずっと記憶の中の黒髪を追いかけていた。逢いたい。このままでは黒髪がトラウマになる!
玄関に入るなり、冬悟は滅多に使われることのない携帯を取り出す。なんとなく、外でかけるのも照れくさく、結局家電と変わらない。
「もしもし」
『も、もしもし!?』
「おう、俺だけど」
『と、冬悟くん!?』
「うん。元気?」
『げ、元気!! 冬悟くんは?』
「うん。普通? あのさ」
『なあに? 一体どうしたの? 突然電話なんて』
「ちょっと、逢えない?」
その一言を言うまでに、どれだけの想いを重ねたか、お前は知らないだろうけど。
第六話 はじめの一歩
先日怪我をして勢いだけでヒメノへ電話し、気障ったらしく「逢いたい」の一言で電話を切り、ヒメノを大いに慌てさせたようだった。その後一時間くらいで本当にやってきて玄関で転がっている冬悟を見てヒメノが悲鳴を上げそうになったところで冬悟が寝ていただけというのが判明し、危うく刺されるところだったが。
現在、彼女はせっせと夕食を作っている。
「明神くん。今夜いっぱいどうだい? 奢るよ」
「ああ、すんません、今日はちょっと……」
「ああ、そうかそうか。噂の通い妻の日だね?」
「は?」
「いやあ、なかなかの別嬪さんだって? 君もやるじゃないか。純朴そうに見えてねえ」
「ちょ、ま、誰が言ってるんですかそんなこと!!」
「怒鳴ることないだろう。君のお師匠さんだよ」
(アイツ、殺す)
ヒメノは大学の授業の空く毎週木曜日、と勝手に決めて、勝手に夕食を作って帰っていく。
時々、エージとかと一緒に遊びに来るときにはさもそんなことなどしていないように「ちゃんと食事を作るのよ」なんて言っている。どういうつもりか、冬悟にはわからない。ただ、当然のように自堕落な人間にとっておいしい食事を作ってくれる彼女のような存在は大変ありがたく、それまでヒメノ欠乏症でおかしな思考回路に陥っていた冬悟にとっては絶好の機会だった。
彼女がいる間は落ち着ける。まるで人が暮らしてないような冬悟の部屋が、一気に華々しく人間らしい部屋になる。彼女がいるだけで、空気まで暖かい。もしかして、ヒメノが足りていなかったのではなく、本当に栄養が足りてなかったのではないか、とすら思った。
「冬悟くん、おいしい?」
「うまいよ」
なんとなく、目線を合わせづらい。照れくさい。
彼女は自分の分の食器を置いていった。片付けくらいはやるから、といって食べたら駅まで送っていく。そんなことを繰り返している。怪我をすれば、手当てをして、時々メールが来て「今日はなにがいい?」なんて聞かれて、大学の話をいつも楽しそうに話す。着々と、彼女が生活に占める割合が再び増している。部屋の中も少しずつ変わってきている。それが心地よい自分がいる。
だが、また、別の問題が浮上した。
結局、根本的なことは、なにひとつ解決していない。
ヒメノといることで、ヒメノが普通の幸せを得られなくなるかもしれないから、自分は離れたんじゃないのか。
ヒメノを独占したいという気持ちが存在しているから、気分が悪くなるのではなかったか。彼女を思うとき、同時に彼女を征服したいという思いがあるのを否めない自分を知っているから、離れたのではないのか。
結局堂々巡りで、夜中に考えては、ヘコみ、彼女と会うことで好意は増していくのに、同時に自己嫌悪は相変わらず比例して増加する。
どうすれば、この思いは終わるのか。それが、冬悟には、わからない。
ある木曜日。
ヒメノが狭いキッチンでいつものように料理を作っている。コンロがひとつしかないので、一品ずつしか出来ないし、手伝うにしてもほとんど料理の出来ない冬悟ではなんの役にも立たないのでいつも「あっち行ってて」の一言だった。
「今日、なに?」
なんとなく、後ろから近寄る。
「肉じゃが」
「いいにおい」
ふと、彼女がポケットに入れている携帯が目に付いた。
「ストラップ、変わった?」
「あ、うん。かわいいでしょ。もらったんだー」
「誰に?」
うっかり、きつい言い方になった気がする。ヒメノは驚いた顔で冬悟を見ていた。そこで、ハッと気が付いた。俺は、なにを、言っているんだ!!!
「な、なんでもねえよ!!」
「残念だなー、女の子なんだよねーくれた人って」
「は?」
「安心した? 冬悟くん?」
ニコニコと見上げてくる、ヒメノを見つめながら、なんと言えばいいのか、わからなくなった。とりあえず、持ち上がる口角を隠そうと顔を手で覆ったけれど。
「気になるなら、外そうか?」
「別にいい」
食事が終わってお茶を両手で持ちながらヒメノがまだニヤニヤしながら携帯を指差した。
さすがにムッとしたので、冬悟は自分の携帯についていたストラップを外した。
「これも一緒につけておけ」
今度はヒメノが顔を赤くしてコクリと頷くだけだった。
第七話 下がって二歩
まずい。最近抑えが効いていない気がする。
彼女が来る日が正直、楽しみだ。飯がうまいから、とかではなくて。今日はどんな話をするのだろうか。こないだは新しいスカートだといっていた。髪の毛を切りたいといっていた。友達と海に行こうと話しているだとか、旅行に行くんだとか、授業が難しいとか、つまらないとか、好きな先生とか面白い先生とか、昔と変わらず、彼女はいつも「平凡」を与えてくれる。自分にはない「普通」とか「平凡」とか、ありえないはずの現実を与えてくれる。
それが、本当にうれしくて、涙が出そうになるのだ。それを与えてくれる彼女という存在を、なんとしてでも守りたくて、彼女の生活を汚してはいけない。
汚してはいけない、というのなら、自分とのこの関係は断ち切ったほうが、いいとは気づいている。
「でさあ、明神くんのあの通い妻の子だけど」
「その言い方やめてくれませんか」
「そう睨むなって。冗談の通じない子だねえ」
「みなさん騒ぎすぎです。大体アイツは別にそういうんじゃないんで」
そういって茶をすする。周りにいた住職とか奥さんとか、事務の女の子とか、みんな首をかしげた。
「でもさ、明神くんはそういうけど、それって、じゃあ」
「一体、なんなの?」
もちろん、答えられなかった。ついでに事務の女の子にはコテンパンに怒られた。
触れられるものなら、それこそ、そういう関係になれるのかもしれない。
だが、そうなってしまえばおしまいなのだ。そうなってしまったら、遅いのだ。
そんなことを考えながら、ヒメノが料理を作るのを見ていた。
「冬悟くん、作ったらちゃんと呼ぶから、向こうで待ってればいいのに」
「うん、まあ」
なんとなく、離れがたいなんて、いえるはずもない。
「なんか、ガクリンみたいね」
「不本意だな」
そして二人で笑う。いまさらアイツの気持ちの一端を理解することになるとは思わなかった。いや同じとは限らないのだが、こうして彼女の傍にいたいという思いはおそらく共通だろう。
そこで、なんとなく、こないだの感覚がフラッシュバックする。
なんだ、これは?
ゴキと首を鳴らすとヒメノが叱った。それを流しながら、冬悟は考える。匂いだ。
「これ、なんの匂い?」
彼女の黒髪に手を通して、触れていた。
直後、振り返ったヒメノが真っ赤になって固まっていた。彼女の髪の一房を救い上げていたことに、いまさら気づいて、冬悟はびっくりした。頭の中を警告が回る。
触れてはいけない! この子に触れてはいけないんだ!! 禁忌を犯すな!!
ぱっと手を離して、悪いとバツが悪そうにした。なんでもないように振舞えているだろうか。
「そんなに驚くなよ」
「いや、ちょっと、びっくりして。シャンプーの匂いでしょ?」
はは、と笑う彼女の耳が赤かった。シャンプーかなあ?
「ていうか、冬悟くんは石鹸で洗うからいけないのよ」
「石鹸がなくなるのが早いって湟神がうるさいから後半はちゃんとシャンプー使ってたさ。でも同じ匂いだとは思えない」
「じゃあ、リンスじゃないの?」
もうおしまいと、ヒメノは冬悟をキッチンから押し出した。なんとなく、気まずくて、おとなしく出て行く。
触れちゃいけないって、あんなに決めていたのに。このままじゃ、まずい。いけない。ダメだ。やっぱり、これ以上、一緒にいたら、まずい!!
そう、頭の中が暴走していた。
触れたくて、たまらないのだ。彼女は優しいから。自分がなにをしても赦してしまいそうな怖さがある。大体、そうだ、そもそも、こうして男の部屋に料理を作りに来るなんてこと自体が異常じゃないか!!
それは、彼女が、本当に、想っている相手に対してやるべきなんだ。
たまたま、俺なんかが受けていい恩恵というには、深すぎる。
その日の食事はいっぱいいっぱいになってしまって、会話も思い出せない。
第八話 曖昧から断定
自分から連絡をした。
「今日は、来なくていい。出かける用があるから」
『え? 今日なの?』
「うん、また今度頼むよ」
そういって質問を受け付けずに切った。
予定なんて、あるわけない。アイツが来る日が決まっていたので、誰もこの曜日に連絡をしようなんてヤツはいなかった。予定なんてあるわけないんだ。お前が来ることが、一番の予定だったんだから。
でも、先週、うっかりアイツの黒髪に触れてしまってから、俺はもう、無理だと思った。
アイツに触れたいと思う。
アイツになら、触れられたいと思っている。
触れることが怖くて、怖くて、怯えていた少年時代。いまだに体温のあるものでも体温のないものでも触れることに一定の恐怖感をぬぐえない。なのに、どうして、コイツだけは特別で、俺は、甘えすぎている。
これ以上一緒にいたら、もうこの気持ちがもっともっと流れでてしまうに決まっている。もう胸のうちに留めておくことが出来ない。確実に。アイツの後姿を見ていて、アイツの髪を見ていて、アイツの笑顔を見ていて、一緒にいる間、俺はアイツに癒される。手に入れたいとすら思う。思ってはいけないのに、この関係を壊してはダメだ。アイツは、俺が無害だという思い込みがあるに違いない。でなければ、こんなことをするはずがないのだ。
だから、なんとしても、もう、ここにアイツを入れてはいけない気がした。
真っ暗な部屋で一人でぼんやりする。窓を少し開けているので風は入ってくるが、どことなく空気が悪い。あとでパトロールに行かないとなあ、と今日のルートを思い描こうとする。
すると、ドンドンと、扉を叩く音。
今日はアイツが来ない日だ。また新聞かなんかだろう。宗教かなあ。面倒くせえなあ。そう思って、ダラダラと短い玄関までの道を歩く。本当に狭い部屋なのに、出るまで長く、気分は最悪だった。
「やっぱり居た」
開けたらヒメノで、仁王立ちで俺を睨んでいた。
「ちょ、おま、人の話、聞いてたか?」
「出かけてないじゃない。今日は作って持ってきちゃったからね!」
イライラしている様子だが、それでも作って持ってくるとはなんなんだコイツ!!
俺が呆然としている横で、ヒメノは俺をずっと睨んでいる。俺を見て、そして突然大きな声で怒鳴り始めた。
「なんだか、よくわからないけど、そうやってまた一人で悩んで!
そうじゃないでしょ!! みんな離れてるけど、友達でしょ? 仲間でしょ?
一人でウジウジしてるんじゃないの!! 言いたいことがあるなら、本人に言う!! 言わないで後悔するんなら、言ってから後悔しなさい!! なにもしてないのにそうやっているのが一番ダメなんだから!!」
そして俺の傍らまでくると、背中を強く叩いた。バッチイィィィン!! といい音が狭い部屋に響いた。
「いってえ!!」
「ほら!! 元気だす!! こんな暗い部屋にいるからよ!!」
そういって電気をつけた。バチン!!
「お腹が空いてるからイライラするの!!」
そしてテキパキとテーブルに手作りの煮物とかを広げ始めた。ヒメノは俺を叩いたら気分はスッキリしたらしく、途中までニコニコしていたが、俺がずっと立ちっぱなしで小刻みに震えているのを見ると、こちらの様子を伺うようになった。
「と、冬悟くん?」
俺は、なんだか、もう、止められなかった。
「おま、マジ、ねーよ……!!」
俺がいろいろ考えたりとか、ああしようこうしようと思ってたこととか、相手を思うあまりに遠ざかっていることとか、結局また、怖い怖いっていって一人に戻ろうとしているとか、そういうのを、コイツはすぐにぶち壊す。
俺が一人で、困っているところとか、一人でブツブツ言っていると、気づくと隣にいる。
俺は、そんな行為にどれだけ、救われているのだろうか。
そうやって、ずっと、ずっと、一緒に、居てもらいたい。
俺は、すぐに悩むし、間違えるし、一人になってしまうから。だから、俺が一人になって、また過ちを犯さないように、どうか見届けてほしい。必ず、お前は、俺が守ってみせるから。
「ちょ、冬悟くん笑いすぎ!! やだなんか恥ずかしくなってきたじゃない!!」
「あっはっはっはっは!! お前、最高すぎる……!! 今日、なに、これ、肉豆腐? 俺今日豆腐食いたかったんだよねー」
そういって俺が笑うと、コイツもようやく、本当に、俺が好きな顔で笑った。
可愛い顔で。俺の好きな、表情だ。
第九話 すべての経験則に告ぐ
アイツが言ったんだ。〈言う前から後悔するんじゃなくて、言ってから、後悔しろ〉って。
もう、この関係を壊すしかないんだと思う。もう、この状態で居られない。俺は耐えられない。
きっと、もう、ダメになるだろう。
きっと、もう、終わりになるだろう。
それでも、伝えておきたい。言っておきたい。初めてなんだ。こんな想いは。
お前になら、お前のためになら、なんでも出来る気がするんだって、ようやく、心が解放されたような、自由がある。お前のために、なんでもするよ。
お前の想いが俺になくたって、俺はお前を想うから。
「ヒメノさん」
鶴を折りながら、俺は背中越しにヒメノへと声をかけた。ヒメノは向こうのキッチンで夕食を作っている。今日はカレーのようだ。いい、匂いがする。
「なあに、冬悟さん」
俺の言い方に乗っかってヒメノもそんな風に俺を呼ぶ。どうやら俺を振り返ってはいないようだ。そのほうがいい。
「お前が、ここに来る目的って、なんなの?」
ヒメノが振り返ったようだ。
「モノや暇つぶしや、同情なのか?」
「何が言いたいの? 私がここに来るのは、嫌?」
静かな声だった。
「俺は」
「飯とか、ケーキとか、とにかくなんだって、そういったものが、お前がここに来るための理由なら、いらない」
「お前は、どうして、ここに来るんだ?」
いつのまにか目の前に居て俺の顔をまっすぐ見て、ヒメノは嫌悪感をあらわした。
「ずるくない? それって」
「は?」
「人に言わせようとしないでよ。冬悟くんはどうしてほしいの? 言って。言いなさい!」
逆に詰め寄られて、俺が引いてしまう。
「たまにはかっこいいことくらい言ってよ!」
「なんだそりゃ!!」
パーカーの襟部分を掴まれて、ヒメノの髪がかかる。ああ、また、いい匂いだと思って、ヒメノの顔へと手を伸ばした。顔のわきを透けるように落ちる髪に触れたら、もう俺は、わかった気がした。
なんていえばいいのかを。
俺が触れるとヒメノは顔を赤くして、自分から近づいてきたくせに離れようとするから、髪を持ったまま俺はその髪にキスをした。
「冬悟くん!? ちょ、一体どこでそんなの習ってくるの!?」
「お前なあ、俺をなんだと思ってるんだ……」
「冬悟くんて、ほんと、髪触るの、好きなのね……」
「そうだな」
目を開けて、ようやく、まっすぐ、ヒメノを見た。大きな瞳と見詰め合う。
「好きだ」
「姫乃が」
大きな目がさらに大きく開いた。
「俺は、お前のいうとおりかっこいいこと言えないし、すぐに悩むし、ウジウジしてるし、すぐに一人になろうとして、お前に迷惑かけてるし、お前から見て、きっとすっげーかっこわりいと思うけど、とにかく、姫乃が必要なんだ。
正直あんまり、好きとか恋とかよくわかんねーし、ぶっちゃけ自信もないし、俺は人より目立つし、生活力も皆無だけど、でも、これから先、誰かと一緒に生きていけるなら、それが赦されるなら、俺はお前となら、いや、お前と一緒になら俺は生きていきたいと思う。
お前の存在に救われてるんだ。
お前がいないとダメなんだ。
ほんとうにどうしようもないけど、でも、本当によく考えたんだ。ずっとずっと考えたんだ。これが答えで、お前を誰にも渡したくないし、お前の傍に一番にいたいし、お前が辛いときには俺はきっとなにも出来ないけど、時間はたくさんあるからきっと傍にいる。俺が支えるとか出来るかわかんないけど、お前を支えたいんだ。
俺ばっかりがお前に救われてるけど、俺もお前を救いたいんだ。
お前に触れるのを許してほしい。お前に近づくのを認めてほしい。
お前の人生に俺の人生を関わらせてほしい。
俺に出来る限り、お前を支えたいんだ。
必ず、お前を、なにがあっても、世界中から、絶対に、守ってみせる」
両手で、姫乃の顔に触れて、額同士が合わさる。触れている、という熱がわかる。今、他人と触れている。それだけで、生きていることを感じる。
それが、姫乃であって、本当に、よかった。
言い切ると、わかっていたのに、また後悔。どうして、こんなこと、言ってしまったんだろう。
「ごめん」
「なんで謝るの」
「いや、もう、言わない。こんなこと」
「なんで?」
もう一度コツンと、姫乃のほうから、額が当てられた。瞳を開けると、姫乃の顔がある。少しうるんだ瞳が自分を見ている。
「もっと言ってよ。素敵だったわ。かっこよかった。やれば出来るんじゃない。
ねえ、知ってた?」
「なにを?」
期待なんてしたって、いいことなんて、今まで一度もなかったって、俺は学習をしている。
「私も、同じ気持ちなの」
そして、姫乃の瞳から、ポロリと一粒涙がこぼれた。
経験則の裏切りを、これほど、心地いいと思ったことは無い。
最終話 二人で見る月
俺が手を出すと、それを自然と取る手がある。
誰かと繋がっていられること。
後ろを向くと、笑顔が見れること。
俺が笑うことで、笑顔が返ってくること。
これを幸せといわずになんと言うのだろうか。
「なんかさ、辛かったな」
「あのねえ、冬悟くんが辛いっていうのは、相当なのよ? わかってる? だから四川のマーボーなんて嫌だったの!」
「そう怒るなよ」
冬悟は笑って、冷蔵庫からプリンを出した。自分の分は発泡酒の二本目だったが。
「これだっけ? 最近ハマってんのって」
「わ~! 買っておいてくれたの? うれしい~、ありがとう! このシリーズのデザートを制覇中なの」
「ふうん、よく食えるなあ……」
「冬悟くんこそ、よく二本目なんて飲むのね。今日のお仕事は?」
「行くよ」
「知らないからね。酔っ払って負けちゃっても」
「負けるわけないだろ。この俺が」
強がるとヒメノは笑うけど、根拠が無いわけじゃない。
ヒメノがいるのなら、もう負けない。そう思っている。
プリンを食べて、ヒメノが帰る時間になって、俺はサングラスをかけてコートを着る。師匠と似たようなのを最近買った。なんだかんだで、特徴になるようなものがほしくて買ったけど、ぶっちゃけ服とかいろいろ考えるのが面倒くさいので、実に都合がいい。制服みたいなものだ。
ただし、丈はそんなに長くない。腰にいつものバックを下げて、右手の梵痕を確認する。
「行こうか」
ヒメノが俺の準備が整ったのを見て、鍵を投げた。
それを受け取って、電気を消して、靴を履く。扉を半開きにしてヒメノが俺を待ってる。
「あ」
「え? 忘れ物?」
「いや、ちょっと」
手招きをすれば、素直に戻ってくる。こういうところがコイツは学習能力が無い。
身長差は頭1.5個分。扉で隠れて、唇を掠めてさっさと俺は扉を出て行く。鍵はヒメノの手の中に戻っていた。
「外ではそういうことしないでっていったでしょ!!」
怒号が飛ぶが、鍵をかけながらで、なおかつ暗いのに外の街灯でも顔が赤く染まって見える。自然と顔がにやけた。
「一応、外じゃないんじゃねーの?」
手を出したら、それでも、手を握り返してきた。
ああ、今日も、幸せだ。
終