一瞬だけの信頼 最近ちょっと痩せたなとか、顔色悪いんじゃないかとか、継続して剄を繰り出すスピードが本来なら慣れて速くなるはずなのに遅いなーとか、思っていたけれど、どれについても俺は口にしなかった。
今はとてつもなく後悔している。
*
「一日点滴を打って数日間安静にしていれば問題ありませんよ。風邪ですね」
はあ、と生返事をしてもまだ俺の鼓動はどくどく言っていた。
冬悟はすでに別室で点滴を打たれているのだろう。ではといって医者が処方する薬を伝えてくれているが、俺は気が気でない。アイツは目が覚めて俺がいなかったら暴れるんじゃないかとか考えている自分がいる。
「それじゃあ、これから案内しますから。あと、ちゃんと食事には気をつけさせてくださいね。栄養足りてませんよ、彼」
「そ、そうですか……。いや男所帯なもので」
「まだ成長期ですからね。保護者の方が気をつけてあげてください。学校とか行ってしまうと食事は朝晩だけで調整しないといけないこともあります。とにかく、三食食べさせることですね」
そして看護師が来て、カーテンを開けた。こちらでーす、と案内されていくのを何も言わずに付いていく。
夕方からの仕事に冬悟を引き連れて行ったのが、間違いだったのだ。
相手はたいしたことはなかった。ただ数が多くて、俺たちはとにかく数をしとめなくてはならないことが面倒くさかった。古いその家を後にする頃には、さすがに俺のほうも疲れていたが、後ろからゆっくりと付いてくる冬悟の気配はわかっていたのに、不意に違和感を感じて振り返ると、ちょうど冬悟が壁にもたれかかるところで、慌てて駆け寄る。
「冬悟!」
「なんでもねえ、ちょっと疲れただけだ」
と、いうが、顔が真っ青で、俺のほうこそめまいがしてきた。なにが起こっているのかサッパリわからない。結局冬悟を支えようと俺がアイツの腕の下に手を入れたら、アイツはプツリと糸が切れたようにぶっ倒れた。
自分が剄を伝えることも出来たのに、そんなことも忘れてすっかり動転した俺は、とにかく駆け込めるところを探した。病院だ、とにかく病院に連れていかないといけない。
死んでしまうんじゃないか、と思ったのだ。
なんか白いし、細いし、生っちろい。俺が腕を振り上げて叩き潰したらきっとコイツは潰れてしまうんじゃないか、というくらいにコイツは弱弱しい。
守らないと、と俺の本能が告げていて、俺がコイツの盾にならないと、と誓わないといけない気がして、だから、コイツが気を失って俺が背中に担いで息を切らして病院に駆け込むのは当たり前のことだった。
とにかく、なんで冬悟がこんな状態なのかがさっぱりわからなくて、知らないことが恐ろしかった。昼間は学校に行かせているからそのときの様子なんてわからないし、朝夕は一緒でもこいつはまだ言葉が少なかった。俺に向かっていうのはいつも「バカ」とか「はげ」とか罵詈雑言ばかりで、たまにかわいらしく「うん」とか返事をする。なのに犬みたいに俺の後だけを付いて来た。ほかの誰にも付いていかないけれど、俺の後ろだけは着いてくる。俺はそれが嬉しくてなにを言われても、平気だった。
いや、軽く傷つくけども。
医者に言わせるとただの風邪。
とにかく食事はほとんどもどしていたみたいで、水だけで生活していたらしい。そりゃ栄養失調にでもなるだろ。俺と一緒に食っていたはずなのにな。きっと学校で吐いてたんだろう。夜も眠れていなかったんだろう。剄を使って消耗しているのに、飯を食えず、眠れもせず、ひたすらに死に向かっていたのに、冬悟は必ず「俺も行く」といった。
絶対についてこようとする意思だけが見えた。でなけりゃ俺は置いていく。
俺がコイツを預かる上で決めていたのは、コイツがやりたいと言ったことは絶対にさせてやろうと思った。その代わり、俺も絶対に一緒のつもりで。
俺はコイツを守らないといけないのだから。
なのに、情けないことに、このザマ。
だらしなく頭をかいて、白い髪と白い顔した冬悟を見て、俺はため息をついた。やはり白い腕からは点滴の管が伸びていた。これが終われば帰れるのか。ゆっくり休ませてやらないと、とか思うけれど、俺はどうすればいいのかわからなかった。
「このタヌキ」
そういってアゴを掴んでやるとぎゃわ!と叫んで目を開けた。
***
意識が暗くなったのは、明神のコートに俺の体が埋もれたからだ。
そう思ったら、明神が人の身体をガクガク揺らすから余計に耐えられなくなってきた。倒れた人間の頭は揺らすなって習ってねーのかよ。
俺を担ぎ上げて、すごいスピードで走りだすその様はすごく不恰好で俺がいつも見ている背中が目の前にあるのに全然かっこよくなかった。さっきの陰魄たちの数に負けそうになっていた俺たちだけど、なんだかんだで無事に全てを浄化した。当然今の俺なんて使い物にならなくて、明神が3分の2は倒したことだろう。どれくらい力を使ったのかもうわからないけれど、コートの匂いにあの屋敷の匂いが混ざっている気がした。本当は自分の汗と引いていく血の匂いが見えた気がした。
そうして、本当に俺はなにも見えなくなった。
死んだほうが、ましだと思った。
くらい胃が痛かった。
ゴロゴロと転がってみたり、丸くなってみたり、上を向いたり横を見たりいろいろしたけど全部無駄。とにかく痛い。こんな痛みが続くのなら死んだほうがよかった。頭はボーっとするし身体を起こすと頭痛がする。寝ていると痛みで目が覚めて、なぜか視界が歪む。みっともないと思った。
風邪っぽいと思ったのは数日前で、なんとなく身体がだるくて間接が痛い。最初は成長痛かただの筋肉痛と思っていたのに頭痛がぶつかってきたからアウトだった。ていうか、風邪ってこんなんだっけ?と思ったけど、明神には言わない。
具合が良くないとわかれば、アイツはきっと俺を置いていこうとするからだ。
全身の組織が白っぽいのをこれほどよかったと思ったことはない。アイツはたまに首をかしげていたけど俺が行くといえば絶対に断らないのを知っていた。
俺は行きたい。
アイツと一緒に行けるのなら、絶対に。
学校には行ったけど、「行った」だけだ。授業に出てるなんて誰も言ってない。ずっと空き教室で眠って、トイレで吐く。食べても吐くのでクスリも飲めない。水を入れても気持ちが悪かった。水も吐いていた。というか、水だって飲んでいたか覚えてない。多分途中からは胃酸だったのだと思う。
全面的に俺が悪いことは認める。
アイツが本当に焦ったのを見たのは初めてだった。
アイツがまるで自分の身体が悪いかのように青い顔で部屋に入ってきたときには腕が萎縮した。点滴なんて初めてだし、そもそも病院に世話になることは二人してない。
二人とも病院が嫌いなので仕方なかったが、白い病院に黒いアイツは実に似合わなくて、そこでようやく俺は早く帰りたくなった。
でも、一体どこに帰るのか。点滴が終わったら、俺が帰るところはどこなのか。
これから明神が俺に向かって何を言うのか。俺には予想も出来ない。
考えられるほどの回復は、していない。と思うことにした。
置いてかれるんじゃないか、とか、このまま入院とか、いっそなんかの施設行きとか、今考えてしまえば、きっともう、無理だと思った。
「このタヌキ!」
という声と人のアゴを急に掴まれて変な声が出た。声を出すと胃が痛い。思わずうなったら、また急に優しい(というか、若干気持ち悪い)声で明神が俺の顔を触った。
「大丈夫か」
「だいじょぶじゃねえ」
「バカ野郎。なんでそんな無理してんだ。バカ」
「バカいいすぎ」
「反省が見えん」
「……ごめん」
正直に言ったら、今度はアイツは近くの椅子に腰を下ろして、顔を覆ってしまう。長いため息が聞こえてきて、俺は首を無理やりにそっちに向けて薄暗い部屋で明神を見た。
でかい図体が小さく見える。いつもの明神じゃないみたいだ。大きな両手が覆っていた顔から声が漏れてきた。
「なあ」
「うん?」
「俺ってそんな頼りねえの?」
そしてサングラス越しに俺を見た明神はすごく疲れていて、俺は言葉が出てこなかった。
***
実に情けない。
こんなガキに、本当は保護者の俺が気が付かなければならないのに気がつかなかったことを当たっていた。しかも、本人に向かって。普段と変わりないように、と冗談のように言っているが「バカ」というたびに俺の心臓はさっきの動悸を思い出す。
本当に死んでしまえば、そんなこともいえなくなる。
また、守れないで死んでしまったのかもしれない。ちょっとコイツは丈夫だからって、俺は油断をしていた。コイツはまだ子どもなんだ。まだ子どもなのに、無理させて、大人が守ってやらなくちゃいけないのに、コイツの判断だけを信じて、俺は自分の判断を放棄した。
なあ、どうしてお前は言ってくれない?
「俺ってそんな頼りねえの?」
思わず口から出ていた。
それを聞いた冬悟の顔が更に真っ白になっていた。コイツの語彙は少ないから今一生懸命脳みそを動かしているんだろう。まだ点滴は終わっていない。さっき目が覚めたばかりなのに、また俺はコイツに無理を強いている。
「悪い。忘れろ。
ちょっと水買ってくるから」
冬悟の顔を見ていられなくて、立ち上がって出て行こうとするが、グンと後ろに引かれるような、だが弱い力を感じる。振り返ると冬悟が俺のコートを掴んでいた。
相変わらず言葉が全く出てきていない。そうだ。いつもコイツは言葉につまる。
いつだって、重要なときほどなにをいえばいいのか出てこない子どもなのだ。当たり前のことも、当たり前に言えないほどに。
俺はどれほどコイツに無理をさせているんだ。その手を掴んで、ゆっくりとほどくように放していく。
「すぐ戻る」
だが、薬指を掴まれた。ああ、教えたよなあ、その指は弱点だって。どうしてそうやって、俺の教えたことを、どうでもいいようなことをお前は覚えているんだよ。
「なんだ? のど、渇いてないか?」
しゃべれないような仕草でうなずくと、顔をしかめて半身を起こそうとする。寝かそうとしたら、「起きる」と今度はハッキリと言った。仕方ないのでさきほどの椅子に座りなおして、冬悟の背中をさすってやる。確実に細くなっている。ああ、やめてくれ。俺にわかるようにそんな身体をしないでくれ。守ろうと思っているのに、目の前のコイツを見ると俺はどうにもやりきれない。視界から即座に外したい。
コイツに見られていることに耐えられない。
「明神の、せいじゃない」
健気に、いまだにそんなことを言った。
「大丈夫だって。さっき自販機見えたから。すこしだけ待ってろ」
「……いやだ」
「いやってガキじゃないんだから……」
「本当に、アンタが帰ってくる保証はどこにある」
なんだって?
下を向いた冬悟は俺の指をそれでも握っていた。
コイツは泣き虫のくせに、泣かないときがあって、一人で泣いても誰も見ていないということをよく知っているからだと思っていた。俺が見詰めている限り、コイツは泣かない。俺が一瞬でも目を離せば泣くくせに。俺の見ていないところでは泣こうとするのに、俺の前で泣き始めることはほとんどない。だから、今も泣いていない。俺はコイツから目を離さない。今のはどういうことなのか考えている。
なあ、お前はやっぱり、バカだなあ。
「俺がいままで帰ってこなかったことあったかよ」
「ないけど、だからってないってことはないだろ」
「経験則ってこと知らないのか」
「同じことがずっと続くなんて信じてるやつはバカだ」
「お前みたいにずっといつか起こるかもしれないことを考え続けているのもバカだよ」
「知ってるよ」
「ん?」
「アンタはいつも、俺のことバカっていうじゃんか」
「お前だっていうだろう」
「でも、アンタの相棒になるなら、もっと賢いほうがいい」
「俺は多少バカなほうが好きだよ」
「ならもっとバカなヤツならいくらでもいる」
「俺はお前がいいんだ」
その細くなった身体が壊れてしまう。そう思えて抱けなかった。頭を撫でても、冬悟は下を向いている。俺の指だけは離さない。
離れることを恐れて、自分の死は恐れない。
アンバランスすぎるその構造にどうすれば俺は近づける?
「置いてかねえよ、お前のことを」
「ウソだ」
「ウソじゃない」
「俺が具合が悪いっていったら、絶対に置いてったはずだ」
「まあ、そりゃそうだわな」
「それはいやだ」
「いやじゃねーだろ、治してくれよ」
「いやなんだ」
***
その背中だけが見えるのが。
背中だけを見ているのに、そこからさらに離されたくなかった。
俺はアイツがいつもいうようにバカだし、注意力はないし、実力だってない。どうして明神が俺に構うのかだってわからない。ついていくのが精一杯なのに、どうやれば俺は明神に並べるんだ。
アイツは俺の頭を撫でる。涙が出そうだけど、やっぱり明神の前では崩壊しない。涙を見せれば笑われる。情けないと言われる。明神と出会って俺はよく泣くようになった。けど、アイツはいつも呆れたようにいう。
泣き虫、と。
虫は踏まれるし、すぐに死んでしまう。わかっている。まるで俺みたいに低いところで生きている。明神はでかくて、高いところを飛べるから、いつか俺に気づかずに行ってしまう日がきっとくる。
置いてかれてしまう日がきっとくる。
***
俺はコイツを守れてなくて、コイツが泣き言をいえる相手にもなれていない。どうすればコイツがなんでもいえるようになるんだろう。俺になら平気だって信じてもらえるんだろう。どうして信じてもらえないんだ。
頭を撫でていても、泣きそうなのに、泣かない。泣いてしまえばいいのに。泣いてほしいんだ。
俺はどんなお前でもいい。お前がいるから俺がいる。いいたいことの表現が見つからないでずっと言葉に詰まっても、素直に話すことが出来なくても、自分の評価がすごく低くても、でも絶対に俺はお前を捨てないのに。
お前の魂である限り、俺はお前を救いたいと思うのに。
「泣いちまえよ。辛かったよな。胃薬もらってきたから。ゆっくり治せ。
わかったよ。お前が嫌だっていうなら、一人で仕事には行かない。お前を絶対連れていく。だから早く治せ。そんで肉食いに行こう。先生に怒られたんだぞ、成長期なんだからちゃんと食わせろって。
だから、俺を信じろ。
俺は、絶対にお前を置いていかない」
はあ、と深く息を吐く。同じように冬悟も息を吐いていて、俺の指をまだ掴んでいる。頭と背中をさすりながら「大丈夫だ」とつぶやいて、ああ、やっぱり細すぎるなんて思った。
「いつか、お前が俺を置いていっちまうんだから」
その白い髪はその証拠なんだ。まだ教えてやらねえけどな。
「またウソついた」
「だからウソじゃねーって」
「俺がアンタを置いてくなんてウソだ」
「いつかそうなるんだ。お前は俺のところから旅立つんだ。だから、安心しろ。お前が俺を置いていくんだ。絶対に俺はお前を捨てない。
頼りにしてくれよ。
お前が弱くたって構わない。これから一緒に強くなるんだ。
お前が泣くんなら、俺が一緒にいてやるから。だから泣いちまえ。
お前がツライのは、俺もツライ。だから、黙るな。言ってくれ。
俺を信じて、頼っていいんだ。
俺は絶対に、味方だ」
一度でいいから、伝わってほしい。
迂闊だったと思う。コイツには本当に最初の前提から話さなければ、ダメだってことを俺は失念していたのだから。なんとなく懐いてきたから大丈夫、なんて生っちょろい相手じゃない。1から10まで説明しないと絶対に納得しなくて、信じてくれない。
頼む。一度でいい。
今この瞬間、俺を信じてくれないか。
そうしたら、俺はいつかこの一瞬を幾重にも繋いでみせる。
***
一瞬言われた意味がわからなくて、とにかく、また、口ごもる。
明神のことは信じている。だけど、それは信じているのは、明神だからだ。俺が関わった明神のことはやっぱりすこし違う。俺が信じているのは「明神」一人であって、「俺」は含まない。
でも、それでも、俺は泣いてもいいのか。俺は倒れてもいいのか。俺は弱くても、明神が一緒にいてくれるなら、明神が置いていかないのなら、俺は人より遅いけど、半歩ずつだけど、進めるかもしれない。絶対はない。絶対なんて言葉俺は絶対使わない。
だって、人は裏切るし、どうしようもないし、俺は仕方のない人間だから、進めないかもしれない。
でも、やっぱり、明神なら、コイツなら、俺は、すこし見えないところも見えていいと思う。
自然と指が離れた。
帰ってきて、くれるって、言ったから。
「水より、お茶がいい」
手を離したら、明神に抱きしめられた。でかくて、俺がいつも見ている背中。明神が、部屋を出たとき、やはり、一筋、零れた。