未来を見ないで ここは地獄だ。
産まれたことなど一度もないが、意識の覚醒するより以前の世界と言われても納得するような光の入らない部屋。闇でも見える瞳だからわかる。座敷牢のようになにもない部屋。以前は陽が射していたからだろう、おそらくずいぶんと色あせた畳。掛け軸のない床の間。時計の音もない。すえた匂いのする土壁。本丸全体を管理しているのであろう電気の振動音が遠くから地響きのように響く。それと自分の心臓くらいしか聞こえて、いや感じるものがない。
人も物も発する声のない空間。自分の呼吸の振動はわかるが、声を出すことはないので余計に無音が耳に響く。
そもそも自分の声を長らく聴いていない。
思い出すのは、記憶に残るかつて繋がりのあった幾振りかの刀の声だったはず。
戦場で再会した旧知の刀たち。
人懐っこい声と態度がうるさい元主の縁のある刀に、自身が尊敬の念を向けていた己のことを「博士」などとうそぶく男士。
なあ、先生。
アンタの声、どんなだったっけ?
*
「あ、やべ」
「どうされました?」
大体の書類は電子申請なのに、どうしても紙媒体で送れと指定されていた書類の準備をしていたが、いざ封をしようとしたところでテープのりが切れ、では先に切手を貼ろうかとしたところで切手のストックも足りないことに気付いた。
「長谷部さんや歌仙さんならお持ちなのでは? 伺ってきましょうか?」
そう言ったのは審神者の身の周りの世話を行う前田藤四郎だ。ここの初鍛刀で、細やかな気遣いを得意をしており、すっかり審神者も前田を常々重用していた。近侍は固定しておらず、本日の近侍である南海太郎朝尊はちょうど先ほど審神者が指示した資料を取りにこの執務室から出て行ったところだ。多少席を外すくらいならばいいか、と審神者は立ち上がる。
「いや、仕事もひと段落したところだし、菓子のストックも欲しい。
誰かに借りっぱなしも悪いから買いに行こう。前田、一緒に来てくれるか?」
「はい。もちろん、お伴いたします」
基本的に執務は主の部屋兼任で同一だったが、近年さすがに刀剣の数も増え、それに伴い資料の増加とさらなる増量の見込みのため、刀剣男士たちによる管理が必要となり正式に近侍部屋が発足された。
すぐ隣だが、そこには近侍とは別にそれぞれ自分の作業を行っている男士たちが控えている。
ヒョイと気軽に顔を普段から出しているので、中に半身のみを入れ様子を見ると、光忠と博多が設置されているちゃぶ台でそれぞれ電卓を叩いたり、パソコンでなにかを打ち込んでいた。光忠はおそらく献立案だろう。博多はその金銭面の調整役なので、予算会議の案を作っているようだった。
気配に聡い彼らは当然だが、前田を連れた審神者が現れたことに当たり前に笑顔を向ける。
「主。どないしたと?」
「お疲れ、二人とも。来月の献立決め?」
「そう。何かリクエストある? これから歌仙くんと小豆くんと北谷くんと練るからまだ変えられるよ」
「主だからってずるはしねえよ。ちゃんとリクエストボックスに入れた」
「ははは、律儀だね」
二人の穏やかな会話に邪魔にならないように控えていた前田がスッと入る。
「切国さんはどちらにいらっしゃるかご存知ですか?」
「この後ここで刀種会議があるから、多分その準備じゃないかな」
「茶請け用意するいうてたばい。厨やなかと?」
「そっか。サンキュ」
そして厨に足を向けた。
審神者の執務室から厨に向かうには中庭に面した廊下を通る。
中には小さな池があり、それなりに広さもあって短刀たちが鬼ごっこやかくれんぼをしたり、酔っ払いが池に落ちたりなどしょっちゅうである。池の近くには水仙の花が満開に咲ききっている。もうそろそろ見ごろは終わりだろうか。最初は黄色い花しかなかったが、歌仙や江雪が他の色もあるということを知り、様々な品種を植えたのだ。
それ以外にもなるべく池に落ちないようにとつつじの繁みや紫陽花の植え込みを作ってくれたりしたのだが、結局は鯉に餌をやるために囲いのないところがあると誰かが落ちるのはいつものことなのでシャワー室を別途用意することで池ポチャへの対策は落ち着いてしまった。むしろ好んで池に落ちたがる酔っ払いを教育するほうが早かったかもしれない。
真夏になればのうぜんかずらが咲き誇り、この池に映り込む姿を楽しむことが出来る。軽装も結構出そろったことだし、そういった夏の装いで花を楽しむのも一興かもな、と柄にもなくぼんやり花見について考えていたらあっという間に中庭を抜けて厨に来ていた。
「切国、いるか?」
「主、前田。どうした。なにかあったか?」
切国とは、山姥切国広のここでの通称だ。初期刀である切国が初日から「俺は山姥を切っていない」と言い張り、「国広」という言い方も審神者は用いているが、本丸全体としては審神者が咄嗟に使った「切国」をまるで正式名称のように全員が使っている。基本的には本刃が望む呼び方を優先するのが審神者の方針だった。修行を終えた初期刀は、審神者の全幅の信頼を受け、現在は出陣に本丸内の取りまとめにと日々忙しくしている。暇があるとネガティブ思考になるのは根本的には変わっていないのと、審神者のネガティブ傾向もあったため、最初から常に忙しくさせておこうという双方納得のもと、仕事を詰め込まれている。審神者のほうはそこまで詰め込まれるとネガティブが悪化するのでもう少し余裕のあるスケジュールを組まれているが、自分と比較する度に男士たちの体力にはぞっとする。結局最後は筋肉で解決すんのかよーと嘆くと山伏が「ならば主殿もぜひ……」と山籠もりを提案されたときには丁重に辞退した。その修行をする体力がそもそもない。鍛える以前の話である。
「ちょっと足りない文具と菓子買いに万事屋行ってくるよ」
「今からか?」
「はい。すぐに戻ります」
「まあ、前田がいれば大丈夫だろう。
会議で話がまとまればすぐにあんたに話を通したい。あまり寄り道はするなよ」
「もちろん。わかってるよ。
なにか買うものある?」
「今は特には」
「あ、朝尊は今資料用意してもらってるんだ。執務室に戻ってたら俺が帰るまでは自由にしていいって伝えておいてくれ」
「承知した。すぐに近侍部屋に行くから執務室との境を開けておこう」
「了解。頼んだ。
じゃ、行ってくるな」
「気を付けろよ。前田、主を頼む」
「お任せください」
購入するものを復唱しながら玄関に向かっていく二人を見送り、切国は会議の茶請けの準備を再開した。
本数分の湯呑は会議のためにセットされている。あとは冷たい麦茶と熱いお茶派とに分かれるので湯を沸かしていると、すぐに出ていった二人と入れ替わりのように南海太郎朝尊が来た。主は本人が自称した「朝尊」呼びをしているが、他の刀たちは旧知の仲であった肥前や陸奥守と同じく「南海」や「先生」という呼称を使うものが多い。なんとなくそうなった。特に南海太郎朝尊からの苦情もなかったのでそのまま放置されているが、なんで「先生」なのかは土佐に行かなかった面子にはあまり浸透していない。
「おや、主は? どこかに出かけたのかい?」
「今外に出かけた。ちょうどよかった。どうやら仕事で使う文具が足りなかったようで買いに行った。
そんなに時間はかからないだろうが、頼まれた仕事が終わったら戻るまでは自由にしていていいとのことだ」
「ああ、そうかい。それはありがたいね。
ところで、初期刀殿」
「なんだ」
多くの刀がふざけてよく「初期刀殿」と呼ぶ。元は古株のにっかり青江が使っていた気がするが、最近では打刀連中のほうがよく使っている気がする。特に咎めることはないが、誇らしいよりは、バカバカしい気持ちになりがちだ。
「先ほど管狐が持ってきた書面が重要度が高そうだから早く見せたほうがいいかと思って。主がいないのなら君に確認してもらおう」
そういって彼が持ってきた書類を受け取った。
「どんな内容だ?」
『警告』
相模国内の本丸にて、謀反あり。
刀剣男士が複数脱走、逃走中なり。
各本丸、外出時空間のひずみ、および他本丸の刀剣男士との遭遇その他言動に注意せよ。
審神者の重傷が確認されている。
簡潔に書かれたそれに、思わず用紙を持つ手に力が入り、紙がくしゃりと歪んだ。
「今すぐ主を呼び戻せ!」
沸かしっぱなしの薬缶もそのままにゲートに向かった切国だが、すでに主と前田は出ていった後だった。
*
はあ、はあ、と途切れない呼吸に、肺が引き攣れそうだった。
走って、走って、走って、太ももがちぎれそうで、ふくらはぎは爆発しそうだ。両腕はだらしなく垂れ下がり、喉は空気を取り込むのに忙しなくその他の仕事をする気がなさそうである。
肥前忠広は、自らの本体を抱えて、もうどれほど走ったのかわからないが、遠くまで来たことだけは理解していた。
知らない道。知らない空気。知らない喧騒。知らない空。
自分は、本当に、なにも知らなかった。あの閉鎖された世界のほうがよっぽど肥前の身体には合っていたくらいだ。あの緩慢な澱んだ気配に支配された、閉じられた空間のほうがよっぽど、この澄み渡った清浄さよりも息がしやすい。しょせんは人斬りの刀だから。
周囲にすこしずつ他の刀剣男士たちが行きかうが、自分をちらりと見る者もいれば素通りする者、訝し気に見つめてくる者、だが肥前という個体はあまりなれ合いを好まないのは周知の事実のためかあからさまに声をかけてくるものはいなかった。
ここにもいない。
ここではない。
まだ、誰にも見つかっていないのなら、おれが、なにより先におれがやらなければ。
水をバケツいっぱいでも飲めそうな渇きの中、唾を無理矢理飲み込んで、再び走り出した。
見える。
いや、見えていないけれど、わかる。その向こうに、ひずみがある。
見知った気配が、すでに歪んだ、いびつな形をした何かが動いている。
ならばこのまま、そいつを……
「ちょうど良さそうなものがあってよかったですね」
「こういう季節ものは歌仙が好きなんだよな。少し分けてやるかなぁ」
「なら通常のをもう少し買われたほうがよかったのでは?」
曲がり角で「あ」と思った時には、男の審神者と、それに付き従う短刀が現れた。
ぶつかる、と思った時には短刀が男の腕を咄嗟に引いたが、瞬間間に合わず、男の肩と肥前の肩が勢いよくぶつかった。
「いっ」
「クソっ」
そのまま、走ってその先のひずみに飛び込もうとしたら、その先にある怪物の姿が見えたらしい短刀が即座にこちらの服を掴んだ。
「危ないっ!」
「放せっ!」
そのまま突っ込むと、男と短刀が付いてきた。
は? こいつら、なにを……!?
正確に言うと、男のほうはぶつかった拍子の反動で耐えきれずに肥前に押された形でひずみに飛び込んだらしいが、肥前と一緒に主であろう男を守ろうとした短刀もまた一緒に飛び込んできてしまったらしい。
一瞬で、三人、暗闇の中にいた。
「な、え、どういうことだ!?」
男が驚愕の声を上げる。飛び込んだ際にまともに受け身も取れずスッ転んだのを短刀が手を差し伸べて立ち上がらせる。
「万事屋街から、他の空間に転移している途中の隙間ですね」
「空間のエアポケットってことか……」
「くそ……」
すっかり見失ったあの目的を、探すため、こちらはこちらでさっさと方向に適当に見切りをつけて走りだそうとした。すると、先ほどと同じく、短刀が肥前の腕を掴んだ。
「なんだよ、ぶつかったのは悪かった。悪気はねえ」
「いえ、わかります。お急ぎだったのでしょう」
「わかってんなら放せ」
「いえ」
グッと掴まれた力は肥前よりもずっと強い。肥前は、ようやくこの短刀が「修行」を終えた個体なのだということに気が付いた。
「あなた、お怪我を」
「え、ケガしてんの? さっき俺がぶつかったから? ごめんな、どこかの肥前忠広……」
「放っておけ。アンタたちには関係ねえ」
気配が離れていく。気がする。
いや、違う気配が見えない。わからない。濁ったような空間で、そうか、ここに入ったのが間違いだったのか。
完全に、見失ったようだった。
「先ほどの、遡行軍のようなもの、あなたの獲物ですか?」
「っち」
「え、遡行軍いたの? 町中で?」
「いえ、あそこから見えた、このひずみの中にです」
「うるせーな。こっちの話だ。余計な首を突っ込むな」
「残念ですが」
短刀が審神者の顔を見た。審神者がううん、と頷く。
「俺たちもここから出られないから、もう余計な首でもないかなぁ」
そういって、審神者が周辺を見回す。その手の平を周囲にかざすと、まるで見えない壁があるようにぴたりと手の平が押しとどめられた。
ようやく肥前も審神者と短刀が言いたかったことに気付く。一瞬で入り込んだこの空間に、全員閉じ込められたのだということに、今更気付いた。
少しだけ、吐息が漏れた。
なあ、先生。
誰かと行動を共にするのは、久しぶりだと、思わないか。
きっと、それは、“あの日”以来だ。