ナルキッソスの終局 鉄屑。
それがオレの名だった。
家族以外に一番呼ばれた名前のことだ。当然、本名などではないが、言霊の存在があるように、そう呼ばれることで、オレは「鉄」のような重たい身体と、「屑」のように鈍い動きを身に付けていった。
鉄道会社の独身宿舎の隣に住んでいたからついた渾名は「鉄」。泣いて喜ぶガキ大将のオモチャになったら早いもので、子どもはどんどん汚い言葉や言い回しだけは大人顔負けに覚えていく。いつからか語感の良さから「鉄」に「くず」が付いて「鉄屑」になってから、まるで素晴らしい言葉のように身体に馴染むまでそう呼ばれ続けた。
そんな弱気なオレと正反対な気質だった兄貴だけは、いつもオレを庇って、守ってくれた。
同じ学校に一度だって一緒に通えなかった歳の離れた兄貴は、オレをかわいがっていたのだと思っていた。
でも、そんな兄貴の健気な言動も、金メッキのように簡単にはがされてしまった。
子どもはもう寝る時間よ、といつものように声をかけられて一人だけ常に先に布団に入った。両親と兄貴は食後にコーヒーを飲みながらテレビを見ながら談笑している。その空間にオレはお呼びではないようだ。何の話をしていたのかは今でもわからない。でもいつだって思い出せる。どういう流れだったのか母の楽しくなった時にすこし跳ね上がる声が夜に似合わない明るさを持って「あの子は、扱いづらいのよ」というのが真っ直ぐにオレの耳を通って目を突き抜けて、喉を射た。
誰のことかなんてすぐにわかる。オレしかいない。
扱いづらい。そうか。オレは、家族にとっても「鉄屑」のように、持て余している存在なのだと。
そのあと、気付いたら布団にくるまって寝ていた。家族四人同じ寝室だったので、他の三人の寝息が聞こえる。どうやって再び布団に戻ったか覚えていない。でも、目が冴えて眠れなくて、目の奥に光りがパチパチとしているようで、眠ることが出来なかった。怖くて、苦しくて、声が出なくて、どうして、どうしたら、なにをしたら「扱いやすく」なるのかばかり考えていたけど、なにもしていないのに、扱いづらいと言われてしまうのなら、なにをしても同じだと思った。
この世は地獄だった。あの時、あの母の発言を、兄貴が笑って同意していたから。兄貴だけは、味方だと、思っていたのに。
絶望は、ますますオレを現実から遠ざけた。中学には結局行かなくなった。
「おじいちゃんのところに、行かないか」
父がそう話した時、「ああ、ついにこの家からも追い出されるのだ」と思った。だからすぐに返事をした。「いいよ」と。
誰もオレを待っていないのなら、どこにいたって同じである。
行き方はあまりよく覚えていない。不思議な行先のバスに乗って、鳥居のような門をくぐり、四季折々の花が咲くのを不思議な心地で眺め、カエルが鳴く小さな細い川に沿って歩いて、横にたなびく松の木の下にある小さな木戸を開いた先で、じいちゃんはオレと父さんを迎えてくれた。
「こんな遠くまで、よく来たな」
「お久しぶりです」
「大きくなったなぁ。今日はどれくらいいられるんだ」
「私はもう……。この子を送り届けに来ただけなので」
やはりそうか。オレと父の関わりは薄かった。でも、会話がなくても、ここに来るまでに、オレのボストンバックを持ち、自分の革靴が濡れるのも気にせずオレと一緒におたまじゃくしの卵を探してくれた。初めて親父がオレと遊んでくれたのだと、父が帰ってから気付いた。家はあまり裕福ではなかったから、父が忙しいのも知っていたが、稼ぐ才能には恵まれなかったのだろう。家族で出かけることもあまりなかったから遊んだ記憶がほとんどなかったのは、もしかしてこの時の記憶が全部上書きされてしまったのかもしれない。
じいちゃんに会うのは本当に久し振りだった。
「都会は忙しない。ゆっくりしていきな。無駄な殺生以外なら、なにしててもええよ。
なにもせんでもええ」
「なにも、しなくても?」
「まあ、毎日ジジイとお茶でもしてくれたらな」
「うん」
十年ぶりくらいに会うじいちゃんの顔は全く覚えていなかったけど、約一年ここで過ごした。
本当に、天国のような、穏やかな日々。ゆっくりと流れる時間。花が綻び、紅葉が色付き、雪が積もり新雪を踏みしめた。昔話の紙芝居のような、絵に描いたような四季がオレを取り囲んでいた。食事は高齢の祖父に合わせて油っぽいものはあまり無かったけど、いつも上品な味で、季節にあったものが多過ぎない量用意されていた。時々無性に凝った料理が出てくる時、祖父は遠くを撫でるように笑みを浮かべた。
この時は、気付いていなかった。
まだ、オレには、なんにも見えていなかったから。
一年経つころ、父が単身赴任になるというので、いい機会だからとついていくことにした。
ド田舎とまでは言わないが、車がないと生活が出来ない、けれど電車で三十分のところに大体なんでもある中心部の街がある、港町だった。
海が近くにあることと、気候が性に合っていたのか、あの「本丸」での生活が心の平穏を取り戻してくれたのか、それからの数年はとても穏やかだった。半年に一度、夏と年末年始には母と兄が住んでいる「実家」に行って過ごしたが、いつの間にかあの頃の焦燥感も堅苦しさも呼吸のしにくさも感じなくなっていた。ただ、オレが生きる場所はここではないという想いだけが年々強まっただけだ。兄貴はすでに働いていて下の弟は小学校に上がったところだった。オレは他人だったのだ。家を出た頃に生まれた弟にどう接すればいいのかなんて本当にわからなくて触れたくなかった。
弟が中心の世界の中にオレの居場所はなかったけれど、でも、それは一つの救いだった。
オレがいないことで、オレの代わりに現れた「弟」がいる明るい世界。
オレがいなければ、こんな明るい世界でいられたのだと思うと、戻らなくて正解だと思った。
あの町で、朝汽笛が聞こえる町で、潮気のある風が常に吹く町で、生きて行こうと思った。
ずっとまとわりついていた重石は「鉄」で、「屑」に囲まれた生活から抜け出して海の広さに感銘を受けて、怒り狂った海も、なだらかな海も見て、ようやく鉄から離れられたと思っていた。そのままそこで大学を出たら、就職して、少ないけれど適度な距離感の知人と友人もいて満足していて、このままなにも起伏なく死ぬんだと思った。
その矢先、祖父が亡くなった。
なぜか、オレが呼び出された。
実家に帰ったら、知らないスーツ姿の男が名刺を差し出してきた。つい反射で受け取ると、先方も少しだけ不憫そうな口元だけの笑みを浮かべた。この葬儀の間に何回も見た「お悔やみ申し上げます」の表情だ。
また、鉄の匂いが鼻から離れない。足元にゴミが絡みついて歩きにくい幻影が見える。身体が鉛のようだった。淀んだ空気が、オレの全身を包む。
どうして、誰もかれもが平気そうな顔をしているんだろう。
祖父が住んでいたところは、通称「離れ」と呼んでいた。そんな近い距離でもないが、呼べば逢えるから、と。
よくよく考えなくてもおかしな話だったのである。あの日バスを乗り継いで、どこともわからない川を下って、同時に咲くはずのない花を見ながら下った丘は、一体どこだったのだろうか。その事実に気付いた時、目の前にいるスーツの男の傍に、光る衣のような、服も、肌も、髪も、まつげも、全身真っ白な男が立っていた。まるで女のように繊細な身体と着物だが、手や身長を見ると明らかに男で、その手には刀を握っていた。
驚いて立ち上がろうとすると、その男がオレを制した。側にいたスーツの男もオレを見つめた。ホッと一息つくような、そんな吐息を吐き出して。
両親だけが、オレたちのやりとりをポカンとして見ていた。
「君が、正解だな」
「アンタ、一体、いつから、そこに……」
「最初からいたさ。君がこの家に帰ってきて、ちゃんとおじいさまの仏壇に手を合わせているところから俺は見ていたぜ」
人間離れした美しい男と話すと、母が怪訝な顔をしていた。
「あんた、誰と、話してるの?」
その言葉に、血の気が引いたが、白い男はますますこの世のものとは思えない綺麗な笑い顔を浮かべただけだった。
「君には、この孤独がわかるだろう?」
スーツの男が、今度はハッキリとオレを見ながら本題を切り出した。
「おじいさまの跡を継いで、審神者になっていただけませんか?」
長年審神者を務めた祖父とは別の本丸を与えられるという。
説得するような言い方だが、これが「お願い」ではないことに薄々誰もが気付き始めていた。
どうか、どちらかだけでいいから。そう言われた瞬間、母の目が光った。
「オレが、なります」
気付いたら、一も二もなくオレが応えていた。
この世に未練なんてなかった。
結局、オレは、ずっと空っぽだったのだ。
仕事を退職し、アパートを整理して引き払い、やることがなくなって、最後の二日間実家に帰った。
いよいよ別れの時。持ち込める荷物は手に持ったけど、ほとんどなにもなかった。生活用品なら、向こうについてから調達すればいいと言われていたし、ここからなにかを持っていきたいとも思わなかった。
じゃあ、と軽く手を上げて門をくぐろうとしたとき、母が泣いているのに気付いた。母が泣くのを、初めて見た。オレは泣かなかった。
常にだれかの代わりだった。
誰も俺自身なんて見ていない。母は、オレと兄を比べた。兄と比べて出来の悪いオレをよく叱った。オレは第二の兄にはなれなかった。
兄がいなくなって、今度は弟と比べられた。可愛げなんて、後から出てくるわけもない。もっと弟らしくあれ、と笑われた。
鉄の代わりに蹴っ飛ばされ、屑の代わりにゴミ箱に詰められ、家族内で子どものなり替わりを求められ、おじいちゃんのところで初めて息が出来たのだと思った。
あの空気の中で生きていけるのなら、こっちに二度と戻れなくてもなんの問題もない。
オレを、「オレ自身」として見届けてくれる誰か。
そんな夢のような存在を求めていた。
だが、誰もオレをそんな風に見ることはない。当たり前だ。オレ自身が、なにも見てなどいなかったのだから。
***
久しぶりに、現世の夢を見た。
呼吸が荒い。苦しい。胸が押しつぶされそうだ。オレを拒んだ世界の記憶も、全て失えればいいのに。
これは罰なのだろう。
山姥切国広を、信じきれなかった、オレの。
「もう熱は大分下がってる。そんなに落ち込むなよ、大将。病は気からっていうだろ?」
ヘラヘラと笑って曖昧な返事をして薬研に手渡されたマスクをつけて、再び横になった。薬研はそんなオレの態度を見て苦笑を返す。
山姥切国広が、修行に旅立った。
直後、結局熱をぶり返し、こうしてまたオレは熱にうなされながら夢と現を彷徨っている。
前田と薬研が世話をしてくれているが、昨日から内番のみにして出陣は取りやめ。オレの体調不良で戦闘に支障が出ると危険なので普段からそうしているが、この判断はやはり正しかったと思う。ずっと、ずっと、山姥切国広が言った言葉を反芻しているだけのオレの頭はすでにその真意も意味もわからなくなっていた。
「ずっと寝っぱなしで飽きてるだろ。まあ、適当な連中に声でもかけておくから、暇つぶしになりそうな相手用意しとくよ。みんなも暇してるしな」
「主で遊ぼうとすんなよ……」
「大将のためを思ってだ。ここにいる刀は、切国だけじゃ、ないんだぜ?」
それを言われると心苦しい。
当然そんなこを思ったことはないし、こうして前田や薬研には最初期から一緒なので気安い仲なのだが、それとは別にやはり贔屓をしていたように見えてしまっているのだろうか。それはそれで他の奴らとの話がとてもしづらい。
「主君の修行は、切国さん以外の刀とも親睦を深めてもらうことでよろしいのではないですかね」
「前田までそんなこと言うの?」
「もちろん。切国さんに託されましたので」
「あ、そう……」
へこむオレの相手は慣れたもので、「一度、お着替えをいたしましょうか」と言って席を外した。
「大将は、」
「ん?」
「子どもの頃、なにになりたかったんだ?」
「はあ? なんだよ、それ」
「昨日のテレビでやってた。いろんな子どもたちに話を聞くんだ。短刀たちでアンタはなんだったんだろうなって話で盛り上がってな」
薬研の手袋越しの掌が、横になったオレの目の上に来た。光りが遮られて、でも小さな手では全部覆えないから光りが漏れているような、そんな感じだった。
「……大人に、なりたかった」
「大人?」
「そう。子どもの自分が嫌だったから、早く大人になりたかった。
大人になったら、自由に、好きなことが出来るんだと思っていたよ」
「ふうん。思って、いた、ね」
もう出ていくのだろう薬研は、こちらを見て、顕現した最初に見せたような「神様」みたいな綺麗な笑みを浮かべた。
「子どもの姿も、案外悪くないもんだぜ?」
***
「全く、薬研が言うから来てあげましたけどね、貴方、大体身体が強くないわりにいつも薄着だったり油断しているからこんな風邪なんか長引かせるんですよ」
さっきからずっと小言を言っているのは宗三だ。
嗄らした喉でコーヒーが飲みたいと訴えれば「見様見真似でよろしければ」という珍しい言い訳付きで今宗三が目の前でコーヒーを淹れてくれている。
「悪いな、そんなことさせて」
「おや、僕たちはいつも主君である貴方にさせているのですが、悪いことだったんですか?」
「そういうんじゃないけどさ」
「なら、たまには黙って淹れられていなさいよ。茶は前田のしか飲まないわけではないのでしょう? それとも、コーヒーはやはり切国のじゃないと飲みたくないとでも言うつもりですか?」
「別に、そんなこと言ってないだろ……っていうか、え、切国が淹れたコーヒーって、なんでそんなの知ってるんだ?」
「夜中に時々コーヒーを淹れてましたからね。牛乳でも取りに来てたんでしょう」
「あっそ……」
つまり、それは、宗三は拗ねていたのだろうか。
今更、気付いた。オレは淹れてやることが楽しかったし、みんなとのコミュニケーションだと思っていたけれど、もしかして、それだけではないところも、みんな見られていたのだろうか。
「今更色々思い悩むのも結構ですけど」
「今更ってなんだよ!」
「そのまんまですよ。
貴方、僕をよく構っていたのも、似た者同士の同類の憐みからでしょう? どこが似ているとかは知りませんけど」
「は、」
「貴方は江雪兄様には結構素直に甘えるし、お小夜には結構甘いですけど、僕には結構素ですもんね。他の御仁からはつっけんどんって言われてましたけど」
「……オレも、歳の離れた三兄弟の真ん中だっただけだよ」
そういうと、宗三の口がポカンと空いた。
「なんだよ、その顔。オレだって向こうには実の家族だっているんだぞ。もうほとんど縁切ったようなもんだけど」
「いや、ちゃんと貴方人間だったのですねぇ。昔のことをほとんど言わないので、存在してないのかと思ってましたよ」
よく見ていると自分でいうだけあって、オレの手つきをよく真似たコーヒーは、不味くはなかった。美味いとも言えないが。宗三もほぼ同時に口に含めて同じように首を傾げる。
「味、ちゃんとあります?」
「落ち着け。あるよ、味。初めてなら上出来だって」
うれしかった。宗三が自ら「なんなら僕が淹れますよ」と言ったことも。あんまりうまくないコーヒーも、その手つきはオレの姿を本当によく見ていたのだと実感できたから。宗三は好きだった。勝手に自分を重ねて兄と弟に囲まれて幸せそうに微笑む宗三が羨ましいと思うくらいに。自分がなれなかった姿を、宗三に託して心底「良かったなぁ」と思うことは一種の喜びであった。そこに、他意はなかった。そのはずだった。
「今、短刀たちが集まっておやつを作っています」
「へえ」
「プリンなら、主でも喉を傷めていても食べれるだろうって、相談したようですよ」
その優しさが、自分に向くのに、慣れていない。
いつも「いない」ように扱われていたから、いつからか向けられる優しさに鈍感になってしまったのかもしれない。嬉しいよりも、「怖い」「なぜ」が先に来る自分に、ますます嫌悪感だけが募っていく。
「あなたが始めたことなんですからね。昔、乾燥で喉を傷めた五虎退にゼリーを作ってやって、まだ人数もそう多くない頃でしたから打刀にまでお裾分けが来ましたね」
「そんなことも、あったなぁ」
「今日は、お小夜もプリンを作ってくるって出ていきました。
残さず食べてくださいね」
当たり前だ。
***
「起きていたの?」
静かに襖を開けた小夜は一瞬聞き取れないような小さな吐息を吐いてから、こちらが起きていることに気付いてそう聞いた。
「うん。小夜が来るって聞いて」
「宗三兄様だね」
ちょっと照れくさそうにそっぽを向いたが、すぐに襖を閉めて丁寧な所作でこちらに向いた。
「聞いていると思うけど、おやつ、みんなで作ったんだ。本丸にいる他の刀にも配ってる。あなたの分だけ先に持ってきました」
「ありがとう」
小夜の手から受け取ると、すでに冷え切った小夜の手のほうが気になってしまった。
「おやつ作ってたのにこんなに冷たいのか?」
「使った用具を洗っていたから。別に、平気」
身体のあちこちに包帯の巻いてある手足でそういうが、そうではない。この子が強いのはわかっている。オレなんかよりも、ずっと、ずっと。
それでも、こんな小さな身体が冷えていると、自分のことよりも不安になる。
「すこしいいですか」
そう言って、小夜が俺の頭を抱えて抱きしめた。
「は?」
なにが起きているのかわからず、小夜の小さな腕が、掌が頭の後ろに回ったことだけはわかる。布団の上に座ってただボーっとしていただけで、小夜は立ったまま俺の頭を抱えて、その薄い胸に顔面を押し付けられている。
「貴方の身体も、冷えているから」
「え、あ、うん、あ、ありがとう……?」
「切国さんと、なにがあったのか、よく知らないけど」
「……うん」
「あの刀は、絶対に貴方を裏切ることはしないと思う」
「小夜から見て、そう思うんだ」
「はい」
「そっか」
やっぱり、オレだけが、オレ「が」、アイツを信じられていない。
もうすぐアイツがいない初めての夜を迎える。たった一振りいないだけでこの様だ。他の奴らにもなんてひどいことをしているのかと自分が嫌になる。
「貴方をそんなに悩ませている相手が、目の前にいれば、僕が復讐してあげたのに」
「言っておくけど、切国じゃないからな」
「わかってるよ」
「復讐なんて、しようがないんだ」
小夜の小さな身体は小さくて、柔らかくて、刀だと知らなければ、とてもじゃないが戦争になんて出せるわけがないほど細かった。あまり会わなかった弟の幼い頃を思い出す。復讐したいのは、いつだって他人じゃなくて、自分の言動への後悔で、出来るはずのことを出来ない自分とか、我慢が効かないとか、もっと踏ん張れたらとか、普通の人間ならきっとこんなことで落ち込んだりしないのにすぐに落ち込んでこうしてみんなに迷惑をかけていることそれ自体だ。
そんな「自分」は「復讐」したいし、抹殺したいし、見なかったことにして、立派になって、みんなに胸を張って自分の主はこんなにもすごいんだって言われるようになりたかった。そんなの、くだらない幻想で、妄想でしかない。
現実から逃げてここにいるけれど、結局ここだって「現実」だから、オレはいつまでたっても変わることなんかできるわけがないのだ。
「復讐、したいよ。出来るもんなら」
「でも、それを抱えて生きるのが、『僕たち』でしょう?」
言われた言葉に、ここで初めて小夜と目線が合った。
いつもは見下ろしている鋭い目線に見下ろされている。言われた言葉に、彼の手紙を思い出した。
「僕がこうして貴方を抱きしめられるのは、貴方が僕にしてくれたからです。
貴方と過ごして、僕が不安な時は貴方がこうして僕を抱きしめてくれて、ここで兄様たちと出会って、修行に行って、僕は復讐を抱えて生きることに決めた。貴方が、復讐しかないと思っていた僕に、こうして教えてくれたんだ。寒い時は、さみしい時は、誰かとくっつくといいんだって」
ぼそぼそと独り言みたいに呟くような声は聞かせようとしていない。それでも、言葉にしてくれたのだという喜びが浮かんで来て、瞼が熱くなった。
最初の頃、特に不安定だった小夜が心配で、今剣と一緒に呼んでは一緒の布団で寝ていた。切国は呆れていたけれど、自分のところに来た刀に「人間」の真似事をさせたかったわけではないが、それでもただ戦うだけなら、本当に「武器」として使い捨てるような方法を選ぶことになると思って不安を抱えるならすこしでも取り除いてやりたいと思って始めたのがきっかけだった。
もう小夜が不安定になることなんてほとんどないからすっかり忘れていたのに、ちゃんと、覚えていてくれたことが嬉しかった。
そして、それを、彼が、自分に対して向けてくれたことも。
「少し、落ち着いた?」
「うん。暖かくなった」
「大将! プリン食べた? 俺もここで一緒に食べる!」
信濃の元気な声が聞こえた瞬間、短刀の中では俊敏さは劣るが、人間よりもよっぽど機敏な動きによって小夜はさっと離れたと思うと、俺の掌にプリンとスプーンを持たせた。頬がすこし赤いのがかわいらしい。らしくないことをしたとでも思っているのだろう。
「入っていいよ、信濃。これからだから一緒に食べよう」
「わーい! 小夜も一緒に食べよう。あれ? 大将の分しか持ってきてない? じゃあ、俺小夜の分持ってくるよ」
止める間もなくサッと再び信濃が出て行ってしまう。小夜もポカンとしていたが、目が合った瞬間に「ふ」と笑った。
後で、宗三に自慢してやろうと決めた。
***
「前田」
夕餉を終えて、就寝前の様子を見に来た前田を見て、思わず縋るような声を上げてしまった。
前田は、まるで、わかっていた、というように、オレを見て優しい微笑みを向ける。
「どうされましたか」
すぐに答えることが出来ない。
思わず、頭を抱えて、顔を覆ってしまった。たった一日で与えられた情報量が多すぎて、心の整理が全くついていない。気が付いたら、夕餉の後の記憶がない。なんて言ったら、いいのだろうか。
「お前に言っていいのか、わからないけど、オレは、ここで、こんなにも、みんなに受け入れられてるって、ようやく気付いた気がする。申し訳なさで死にたい……」
「まだ死なないでください。そうですか。それは、良かったです」
さも当然です、と言わんばかりの前田の態度に、ますます鼻の奥がツンとなった。
「オレは、切国のことばかりで、お前たちにひどいことをしていたのかな……」
「主君、そうではありません。また、そうやってすぐに悪い方、悪い方へと考えられるんですから。大典太さんじゃあるまいし」
そんな風に使われる大典太がさすがにかわいそうで少し笑ってしまった。
不安になるたびに、いつも前田はオレの手を取ってくれる。もうお互い寝る前なので、寝間着姿で、緊張感はないけれど、凛とした声は戦場のものと変わらない。
「切国さんと、主君が、ここを作られた。
貴方が、みなに愛を注いでくださったから、僕たちはここで穏やかに、健やかに過ごせるのです。
主君の憂鬱が杞憂であればといつも思います。
だって、僕たちは、貴方でなければいけないのですから。
でも、貴方のそのお気持ちは、あの方でなければ晴らせないのでしょう?
貴方の、そのお心を占める塊を溶かせるのは、切国さんだけ。
でも、僕たちは、僕たちも、ずっと、ずっとお傍に、いるのです。それだけは、お忘れなきよう、覚えておいていただければ幸いです」
「忘れるわけない。
だって、誰一振りだって、オレの、オレが、顕現した刀なんだ。
誰だって、失いたくない。さみしい思いだってさせない。苦しい思いだってさせたくない。悲しいことは回避したい。
オレに出来ることなら、なんだってするよ。そう、決めて、ここにいるんだ」
オレが、何者であっても。
何者にも、なれなくても。
「知っています」
前田がそう笑ってくれた。
***
熱は下がったものの、だるさが残っている。昨日と違って着替えはしたものの、薬研からは寝てなくても良いが安静にしておけとのことで彼は今朝食を取りに行ってくれている。前田と一緒にそれを待っているところで堀川派の二振りが手紙を持って駆け込んできた。
「主さん! 手紙、届きました!」
朝一番にドタバタとらしくない足音が響いた。
「おはようございます。堀川さん、山伏さん」
「主殿、早朝より済まない。兄弟からの手紙が届いたので、まずは主殿にと思い、つい……」
「ぼ、僕たちも読んでもいいですか?」
「もちろん」
注目される中、切国の手紙を紐解く。その手が震える。アイツから手紙なんてもらったことはない。
どういう風に描くのだろうか。仕事上文字を書くところはよく見ていたからアイツの字は一目でわかる。
開いた手紙を一読して、喉の奥が鳴った。
「主さん」
思わず、左手で両目を強く押しつぶす。苦しい。しんどい。堀川が右手の手紙をそっと抜き取ったのがわかった。あのままでは握りつぶしてしまいそうだったので、それでよかった。まだ一通目の手紙なのに、なんの要領も得ない中身なのに、たった一言でなにも話せなくなってしまった。喉が震えて舌が動かない。情けない嗚咽を止めようとして息をつめた。
「主君」
前田の小さな手の平が、背中を撫でた。ようやく、深く呼吸をして、前を見る。
心配そうな堀川と山伏に情けない笑顔を向けた。
「ごめん。大丈夫だから、読んでくれ」
「すみません。拝読します」
「他の奴らと一緒で、まだなんにも始まってないよ」
「そうであろうなぁ」
山伏の、オレを慮ってかいつもよりも小さな声の笑い声に、ようやくオレの喉も一緒に動き出した。
「強くなりたい」と書いてあった。
それだけなのに、全身が粟立つような感覚を覚えた。
本当に、アイツの言う通りなのだ。
今のオレは、アイツと同じだ。
「オレ自身」として見てもらいたいと願っていながら、初期刀に甘え、アイツの目線にばかり気を取られて他の刀たちをおざなりにした。
それなのに、他の刀たちは誰一人としてオレを責めない。それどころか、オレを守り、甘えさせ、救ってくれようとする。
オレの、オレ自身が下している評価は、こんなにも低いのに、前田を初めとして、皆オレを主君として慕ってくれている。
もう、違うんだ。あの頃とは。オレを誰かとして扱わない。オレを物のように粗雑にしない。
あの過去よりも、明るい世界。オレの存在を、確かに認めてくれる本丸。
オレが作り出した、居場所。
今、同じように修行先で混乱し、苦しみ、戦っているだろう切国と、オレは、本当に、一緒に修行をしているのだと、ようやくわかった。
***
その後も、日中は定期的に誰かしらが会いに来てくれて時間をつぶすのは容易かった。
二通目の手紙も、三通目の手紙も、読むたびに、毎回泣いていた。
中身は本人の言葉のように簡潔だ。とてもらしいと言える。
アイツの混乱を自分のことのように受け止め、考えた。
手紙を読んだ後、朝餉まで堀川派とああでもないこうでもないと意見を交わす。心を整理して朝食に向かう。そうでもしないと、みんなの前に出れる自信がなかった。
<迷いは晴れた>
明日、切国が、帰ってくる。
オレも、覚悟を決めなくては。
***
「主。本当によろしかったのですか?」
そう平野が不安そうに問う。一緒にいる太郎太刀も同様の表情を向けている。
「いいもなにも、ただ敷地内を散歩してるだけだろ? 一人で出るなって、平野が言ったんじゃないか」
「当然です。いくら本丸内とはいえ、こんな早朝からおひとりで歩き回られては危険です。どこになにがいるかわかったものではないのですから」
「まあ、散歩のお伴くらいなら私にもできますので」
少しだけぷんすこしている平野に対して、あくまでも通りすがっただけの太郎を連れてきてしまったのはさすがに少し悪かった気がする。だが、太郎は太郎でこの状況を楽しみ始めているのがわかったので気にしないことにした。
二振りとも気にしているのは、時間だ。
切国が出立したのは朝餉前というのを知ってるから、オレがその時間に室内にいなくていいのか、ということだろう。
別に構わない。
だって、そもそも、今なぜこんな本丸内をウロウロしているかと言ったら緊張しすぎて全く眠れなかったのだ。見事に完敗である。
正直まともに顔を見れる気もしない。
そして不安しかない。本当に、アイツは、オレのところに、帰ってくるのか。
手紙の内容は、スッキリとはしていた。アイツらしい文章だった。だが、それとこれとは話は別だ。
覚悟を決める、腹を据える、自分を見つめなおす。「しなければならない」と思っていても、じゃあすぐに出来るかと言えばそういうものでもない。男士たちはみな修行として場合によっては数年どころか何十年という時間を費やしている。切国の文中から具体的な時間はわからないが、こちらの四日とは比べものにならない時間だろう。
帰ってきたアイツに何をいえばいいのか。いつもはまず帰ってきたら「おかえり」といって時間を取って二人で手紙ではよくわからなかった時間を埋めるように話を聞いた。場合によってはこっちではどうだったかばかりを聞きたがる奴もいるが、大概はやはり戻って来たという安心感があるのか普段は口数が少ない刀でもそこそこ話が弾むものだ。
腹をくくれ、と言ったアイツを、腹を括れていないオレが出迎えていいものか。それが頭のほとんどを占めていた。
「もうそろそろ新しい野菜も埋めたいなあ。歌仙は花を増やそうと画策してくるけど、結構江雪さんは野菜でも乗り気なんだよね」
「野菜は数が多く必要ですからね。種類を増やしても、全員にいきわたらないとなると厨当番の方がお困りになるのもわかりますが」
「それなら呑兵衛用にしてしまえばよろしいのでは? 次郎や日本号にでも作業をさせる理由にもなるでしょう」
「太郎、マジで酒飲みにだけは厳しいな」
「言葉では通用しなかったので」
そんな会話をしながら母屋に戻る。オレの私室は離れにあるが、食事は母屋で揃ってみんなで食事をするので、そちらに自然と向かう。その間も畑の計画を思い思いに話ていた。普段通りに食堂となっている大広間に入ろうとして、平野がサッと障子を開いた。
「主」
完全に、失念していた。
ザワッとした空気が、一瞬にしてオレの周囲を取り巻く。もうすぐ朝食なので、ほとんどの男士が揃っているようだった。いないのは、先ほども話題に出た呑兵衛組くらいだろう。一斉にほとんどの瞳が、自分に向けられて、さすがに何年もしているとこの視線にも慣れてきたと思っていたが、誰も声を発声しない中、みんなの中心に取り囲まれていた初期刀が真っ直ぐにオレを見てもう一度オレを呼んだ。
「主」
「うわああああああああああああ!!」
思いっきり、障子を音を立てて閉めてしまった。
「いるじゃん! 切国!!」
「そりゃいますよ。だからお時間大丈夫ですかって聞いたじゃないですか!」
「太郎! 抑えてて!」
「はあ、まあそれがお望みなら」
「こら! 主! 開けろ! アンタの刀が帰って来たぞ!」
ガタガタと障子を開けようとしているのだろう音にビクリと身体を震わせるオレを太郎が笑った。
「笑いごとじゃ、ね~から! まだ錬結してないからいけるはず! 頼んだぞ!」
「え、ちょ、主!」
平野の制止を無視して自分の離れに向かった。後ろでは太郎と切国が押し問答をしているが、一方でギャラリーの多くは切国の味方のようで「主が逃げたぞー」「ははははは、元気なこったな」「切国~、がんばえ~」と茶化している。うるせー! オレはまだ心の準備が結局出来ていないんだ!
全力で走って自室に戻ると、最初からわかっていたというように前田が座っていた。
「廊下を走るな、といつもおっしゃっているのは主君ではないですか」
そういいながら茶を淹れてくれる。障子が開けられては困るので、後ろ手で押さえているので茶が飲めない。ゼエゼエと肩で息をしているオレを見て軽く笑って、「僕が代わります」と言って交代した。茶は適度にぬるくて、そこまで見通されていたのかと思うと、情けなくなってくる。
「どうしよう……帰ってきてしまった……」
「なにをそんな驚くことがあるのですか。最初から今日のこの時間に戻られることはわかっていたではないですか」
「わかって、いた、けど……あんなに顔面晒して帰ってくるなんて……」
「それこそ最初から布外してるのは知ってたでしょう!?」
「そうだけど……。そんなに顔面ばかり押してきたことなかったし……それと、その、ほんとに、本当に、帰ってくる自信が、なかったというか……」
「は? 今更? どうしてですか!? 僕らの修行の時はここまで取り乱されていなかったですよね?」
「そうなんだけど、アイツは、ほんとに、自分の代わりというか、まるで、オレ自身みたいというか、だから、本当に、帰ってくるって……う……」
「必ず帰ると、言っただろう」
「ぎゃー!」
前田に背中を向けていたのが悪かった。耳に慣れた声に驚いて振り向くと、当然のように切国が立っていた。前田がいい笑顔で少しだけ会釈して入れ違いに出ていった。
うわ……裏切られてた……。そして、オレが逃げられないようにか、切国は真正面に座った。元々、普段目線が合わない(合わせなかったとも言うが)だけで、いざとなると相手の目を絶対に逸らさない。犬と同じだ。きっと逸らしたら負けだと思ってるに決まってる。しかし、眼圧に堪えられなかったのは当然こちらのほうだった。
「う、眩しい……」
「なにがだ」
「お前の顔面だよ! イケメンがすぎる……暴力振るわれてる……顔面圧力が高い……」
「おかしなことを言うな」
「まだ綺麗って言ってない!」
「綺麗って言うな!」
さすがに少し顔を赤くして互いの膝を見つめ合った。
「切国」
呼びかけると、肩が揺れて、もう一度、こちらをハッキリと見返した。
「……おかえり」
「ああ、戻った。約束通り」
「うん」
「手紙は、読んだのだろう?」
「うん」
「写しがどうとか、考えるのは、もうやめた。俺はあんたの刀だ。それだけで十分だったんだ」
なにがどう十分だ。それを聞かせろと思ったが、次の相槌は声にならなくて、呻き声だった。ふ、と切国が笑ったのが空気でわかる。
「そら、あんたの、山姥切国広が、帰ってきたぞ」
「お前さぁ……、そういうところだよ……」
「もう、あんたに、誰かに、この名を呼ばれても、俺は動じない」
「そっか」
「あんたは、どうなんだ。俺がいない間、あんたは、どうだった。教えてくれ」
そういう声はすごく優しくて、最初にコイツを選んだ時、初めて重傷になって半泣きで手入れをして謝った時ずっと冷たい声だったのに「あんたのせいじゃない」と言った時のことを思い出した。あの声があったから、オレは、ここまで、コイツと一緒にやってこれたのだということをふいに突き付けられた気がした。
「ずっと、お前のことを、考えていたよ」
「ずっと、ずっと、お前とオレのことを考えていた。
それと同時に、皆にどれだけ救われて、どれだけ助けられて、今ここにいるのか。
ここには、オレを蔑む人間はいない。
オレを誰かと代用する奴もいない。
オレのことを、ここの奴らは、ずっとまっすぐに見てくれていたのに、オレは、ずっとお前しか、いや、お前を通して「自分」しか見ていなかったんだって、改めてわかった」
「そうか」
まっすぐな碧がオレを見通すように光った。朝の柔らかい光が、切国の瞳に入って、キラキラとしてこちらにこぼれ落ちるように。その中には、情けない顔をした自分の黒い瞳が見える。
祖父も、父も、瞳は黒かった。
母は少し明るくて茶色味が強くて日本人離れした目をしていたのに、兄と弟は少しその茶色が入っていたけど、オレだけは、祖父譲りの真っ黒い深淵みたいな黒で、黒のコンタクトでも入れているようだとすら言われたことがあった。
なにを見ているのか、わからないとよく母に言われた。だから、この瞳が、自分で怖くて、嫌いで、見たくなかった。
なのに、山姥切国広の瞳に映る黒は、ハッキリと、自分を映し出す。
ここに、いるという主張をしているように。
「主。俺は、ずっと、山姥切と呼ばれることが嫌だった。写しとして、偽物のように言われることも、なにかの代わりになることも、俺自身を見られているように思えなかったから。ここまで、偶然かどうかは知らんが、あんたと俺は同じだ」
「うん」
「だが、修行から戻って、今は違う。
出立前にあんたに言った。覚悟を、決めろと。
でも、もう、そんなことも、どうでもよくなった」
「は?」
「あんたに過去なにがあったのか、俺は知らない。知らなくてもいい。
そして、俺とあんたは、別の存在だ。あんたがずっと俺のことを自分の写しのように重ねて、俺が強くなることすらも否定するのは、あんたがさらに成長していくのも阻害しているようで嫌だったから修行を強行した。それだけだ。
帰ってきて、今あんたと話していて、やっぱり思うんだ。
俺は、吹っ切れて帰ってきたつもりだ。これから先、何一つとして揺らがないとは言えないが、「写し」であっても、俺は俺だ。
俺は、「山姥切国広」。そして、なにより、あんたがつけてくれたこの名がある。これからもあんたのくれた名で呼んでほしい。
そして、俺とあんたは別の存在。だから、あんたは俺と同じように吹っ切れる必要だって、ないんだ」
「切国」
「あんたは、悩めばいい。苦しめばいい。これからも。
その痛みも、苦しみも、悲しみも、全部、あんたのものだ。
俺がそれを奪ってはいけないんだと、ようやくわかった。
だから、あんたの刀として、あんたの前に立ちふさがるものは、俺が全て切り捨てる。
それが、俺が、あんたに対してしてやれる、唯一の、そして、全てだ」
「オレは、こんなに、弱いのに……お前の主で、いていいのか……」
「構わないだろう。人間なんだから」
「またお前を頼っちゃうよ……」
「頼ってもらえなければ困る」
「ずっと、ずっと、お前に、呪いをかけたんだと、思っていた……新しい名前を付けることで、お前が『山姥切国広』でなくなったらって何度も思った……」
「そうか」
「オレは、知っていたはずなのに……名前を切り刻まれる苦しみも、辛さも、痛みもわかっていたはずなのに、お前が否定しないのをいいことに、ずっとオレの付けた名で呼び続けて、お前を自分のものにしたつもりだったんだ……」
「でも、そのおかげで、俺はただの山姥切国広じゃない」
「は」
「あんたの、あんただけの『山姥切国広』で、ここでの俺は、この本丸の物語を紡いだ一振り『切国』になれたんだ」
「オレだけの……」
「そうだ。
俺は、あんたのただ一振りの、最初の刀として、あんたのためだけの刀だ」
オレの。
オレだけの。
何にも持っていない、なんにもなかったオレの、最初の刀がそういう。
オレは、最初から、大事なものを、ちゃんと持っていたんじゃないか。
顔を覆って、うずくまった。背中を、少し熱い掌がさする。
「ずっと、鉄のように、硬くて、冷たい心なんだって、ずっとずっと思ってた……。
お前たちよりも、ずっとオレのほうが、人間味がなくて、他人の気持ちも理解できない。そんなオレが、誰かを率いるなんて、やっぱり荷が重すぎるって、ずっと、今でも、やっぱり思ってしまう」
「それでもいい。俺や前田が、他の奴らもみんなあんたを支える。あんたのために戦うんだ」
「こんなに、情けないオレでも? 自信もない、根拠もない、ただ霊力のあった家系だからって呼ばれてなんにもわからずにここまで来てしまったオレなんかのために?」
「ずっと『写し』であることを理由にあんたと向き合えなかった俺があんたを責める言葉はない。
だが、あんたは、俺を見捨てなかった。それが理由だ。ここにいる奴らの誰一振りとしてあんたは見限ることをしてこなかった。俺には、それで、十分だ」
「自分が見限られたことがあるんだ。名剣名刀のお前たちを、一介の人間如きが貶められるか」
「そうだ。その調子で強気にいけ」
「笑うなよ、切国」
くつくつと、今までとは違う笑い方でオレの肩を持ちながら顔を上げさせる。
みっともなく泣いているオレの顔を見て、一層切国の表情が崩れた。
「鉄は、冷たいだけじゃない。
熱くして、鍛えて、強くなる。
アンタに、ピッタリじゃないか」
ああ、オレもまた、この名に、新しい意味を与えられてしまった。