あまやどり
霧雨のような雨が次第に強くなっていくのが背中に感じる雨粒の強さでわかった。参ったなあ、と他人事のように打たれながらベタベタと足を押し付けるように歩いていく。だが、なかなか歩が進まない。
久しぶりの大捕り物で盛大に暗闇で立ち回ったおかげで疲労困憊、目はショボショボするし、内臓が軽い。つまりは腹が減っている。あとは、まるで貧血のようだが、きっと貧血だ。頭の中身まで軽いようだ。
これで雨に打たれて、いくら打たれ強いとかマゾとか言われている自分でも、さすがに体力の限界が近づいていた。季節はだんだんと冷え込んでくる直前の秋。それだからこそ、朝と夜はずいぶんと温度の上下が出ている頃だった。
寒いのは、一体、雨のせいなのか。
それとも。
***
車を走らせていると、正宗の視界に不快な黒い物体が映った。
子どもの頃のように、霊と人間の区別がつかないほどではないが、さすがに深夜のしかも車中からではすぐには自信が持てずに誰も走らない住宅街で一時停止をする。
だが、車を止めたことをすぐに後悔した。
黒いのは、自分の目によく見慣れたコートだったからだ。
「明神冬悟、起きろ」
揺さぶってみるものの、反応がない。そういえば、コイツは寝相が悪いと穏やかな婦人が言っていたが、いやだが待て。いくらなんでも、ここからうたかた荘へは車を使わないとさすがに無理だ。自分たちの能力を使えば来ること自体は可能だが、寝ている人間に出来るわけがない。それでは夢遊病者である。
と、なると、ここまで来たのは起きていたとき。
そして、普段は自分のアパート近辺で警備している彼がいるのは。
「陰魄か」
と、その単語を言った途端に白い髪がピクリと動いた。そこは仕事人としての誇りがあるようだ。
「う」
「おい、どうした。誰にやられた」
「なにその火サス」
「かさす?」
「つか、まさむね?」
「そうだ。貴様、一体どうして深夜に道路っ端に倒れているんだ。どこかやられたのか」
暗いアスファルトのせいで地面がよく見えない。よく見ると、ほかの部分よりも色が濃い気がして、危機感が募った。
「は」
「は?」
「腹減った」
なんとなく、正宗はぶん殴りたい衝動に駆られて、深夜のテンションに任せ(なぜなら彼だってバーの仕事帰りなのだから)明神のコートを捲くりたてた。
***
その部屋は、なんだか白っぽいなあ、と思ったのは、コンクリートがむき出しだからだと、壁にかけられたカレンダーを見て思った。カレンダーは、壁に貼れないので天井から糸をたらして釣られている。
なによりも、生活感が無いなあ、とぼんやり思って、明神は自分の視界が横向きであることに気づき、そしてここがどこだかもわからないことに思い至った。
「腹部に裂傷、右腕は術の使いすぎでリバウンド。一応応急処置は施してある。
ついでに一言言わせてもらえば、頭は取り返しがつかないほど悪い、というのが俺の初見だが」
うっすらと目の前が暗くなったかと思えば、正宗が突っ立っていて、明神は重いと感じる半身を起こした。
「すみません、全ての状況がわかりません」
「自分で把握しようという努力が見えない。マイナス5点だ」
「どこから引かれているんだ、それは」
思わず突っ込んでしまったが、正宗のほうは手に持っていたカップを口につけてシンプルな小さめのテーブルとセットの椅子に座り、指を5本立てながら説明を始めた。
「俺は火神楽正宗。お前は明神冬悟。
ここは俺の家。
時刻は現在日本時刻にして午前3時。
ここにいる理由は俺が仕事を終えて車にて帰宅の徒につこうというときにお前が道で行き倒れているのを発見して、拾ってきたからだ。
さあ、質問は」
短的なその回答に明神は拍手をして、冷や汗を流す。こいつ、もしかして怒ってんのかな。
いつも表情が見えないだけに、相手の考えていることがわからない。なんとなく雰囲気で察するが、怒っているのか、ムカついているのか、あきれているのか。少なくとも、バカにはされてそうだなあ、なんてこちらもちょっと情けない気持ちにさせられた。
「とりあえず、お前に迷惑はかけたようだから、それに関しては謝る。すまなかった。
そして、ありがとう」
そういうと、正宗はフンと小さく鼻を鳴らした。
「で、なんの仕事だったんだ? こんなところまで来るなんて」
「逃げられたから、追ってきただけだよ」
「嘘だな」
そうだ。嘘だ。
明神は後頭部を掻いて、なはは、と小さく笑った。同業者にはすぐにばれる。そう、ただの陰魄が何かを追って移動することなどは実は滅多に無い。
陽魂は人につくことが多いが、陰魄は土地につきやすい。広範囲を移動するなど、エネルギーの無駄であるため、習性的にほとんど無い。ある特定の範囲を決まった行動で回ることばかりで、だからこそパトロールなどとふざけている行為も間違っていないし、意味がある。
バレバレなのだ、そんなこと。
「なに、たいしたことではなかったさ」
今頃、空腹と勘違いして痛んできた腹に手をやって、明神はくたびれた笑いを作る。
それを見て、今度こそ、正宗が呆れた顔をしたのをわかった。
それでも明神の思考は安定せず、黄布を巻かれているのを見て、誰が使うのも黄色いし、模様についても同じ文面なのだな、などと見当違いなことを考える。
ふうん、と興味があるようなないような態度のまま、正宗は明神から目を逸らした。
けれど、その手は、明神の手と重ねるように腹へと近づいてくる。
「なに」
「傷。今は俺の術で塞いでいる。
一度お前の霊気と合わせないと、反発を起こすかもしれん。簡単だ。手を重ねろ。次第に気が混じってくる。いつものように気を流し込むだけだ。反発すると痛むが、どうせ怪我なんて慣れっこなんだろ。
特に問題はない。治り方も変わらん」
「痛い思いなんて好きでしてないよ。それに痛みがあると心配される」
「じゃあ、最初から、無理をしないことだ。
愛そうとした相手に拒絶されれば、霊も傷つく。気安く霊と付き合うとそうやって勘違いされる。
人間に未練があるのなら、あまり霊を甘やかすことはやめるんだな」
ビクリと、明神の腹が動いて、冷や汗がすごい流れている錯覚を感じた。
ぎぎぎ、とブリキのような擬音が発しそうなほどぎこちない動きで明神は少しだけアゴをあげて、正宗の隻眼を見た。
「ななななんあななななんあああああ、なんなんなん、なんで?
なんで、わかった?」
「落ち着けよ」
「落ち着けないよ」
今度は、ふ、と笑った気がして、少し気持ちが悪くなった。
***
バタリとアホなことをいって再び倒れこんだ明神を見て、正宗は本気で捨ておこうかと迷ったが、結局つれていくことにした。後々案内屋仲間に知られて助けなかったことがばれても面倒くさい。
それに、結局、気になってしまったのだから、寝つきが悪くなるのもゴメンだった。
体格はしっかりしているので、担ぐのも一苦労だったし、ふと気付けば流血もしている。ヤクザの抗争に巻き込まれたと思われても仕方が無い様相で、後ろのシートに乗せれば狭い車内に血の匂いが充満した気がした。
自分の部屋へつれていっても、彼はぐっすりと寝入ってしまいいかんともしがたい。一応止まってはいるが、出血の処理をしようとして検分する。
彼の手首には、よくよく見ると細い手形が残っていて、顔などには引っかき傷がある。
裂傷は爪のようで、皮膚を見てもそれほどひどくないようだったが、範囲が広く、思いが強すぎたせいで恨みがこもっていて、通常のものよりも毒素がある。
女霊につかれたな。
ハナペチャだとか言われているが、霊たちにとってみれば珍しい自分たちが見える人間である。亡くなったことにも気付かない、または認めたくない霊たちにとっては彼らが唯一の現実との架け橋。思い切り頼りにされたり、はたまた恨みを抱かれたり。入る収入の割りには割に合わない職だが、そういう問題ではない。
とくに、人間霊の異性案内屋への思い入れは、ときに案内屋を一緒に連れて行ってしまうほど。
優しくてもならず、厳しくてもいけない。
この男は、優しすぎたのだろう。
女に優しくして、そして女を見送ろうとしたけれど、女には耐えられなかったんだろう。
それは八つ当たりのようなもので、コイツのせいでは確かにないんだろうけれど、それでも誰にでも優しさを捨てられないのはコイツの悪いところだ。
いいや、だが。耐えられないのは、それは女だけではなく、男でも同じこと。人として、同じことなのだ。
耐えられないことはない。ただし、それは生きていれば、の過程だ。
隻眼を瞑れば、正宗にはまるで目の前にいるのが明神ではなく、女の姿が見えるようだ。
可哀相に。いいや、可哀相なんていう言葉ではなく。ただ、ともに悲しく。
最後の決定打が、人への思いで、あと一歩で踏ん張っていたところが、あっという間に転落した。
傷は、誰かに受け継がれて、また誰かを傷つける。この傷から伝わってくる悲しみとか苦しみとか、うんざりするほど正宗は嫌いだけれど、明神は鈍感すぎて、きっとこの思いを受け取れない。
それは、それで、とても、不憫だ。
(お願いだから。私を見て)
そんな願いは、誰かのところに、届けば、きっと、きっと、消えていくから。
だから、今は眠るといい。魂と一緒に、この痛みも毒も、貴女のものだ。誰かに渡すものじゃない。さあ、受け取って、大事に持って帰るべきだ。
愛してほしくば、今度はもっと、ちゃんと、順序をもって、幸せにおなり。
傷から出る毒素に触れて、開いた瞳は片方だけで、自分の触れた右手もヒリヒリとする。
いつもはあまり使わない水の梵術へ手を滑らせて、儀式のような治療を終えたら、コーヒーを飲もうと思った。
雨が、強くて、とても、窓を開ける気にならない。
まだ、部屋には悲しみが満ちているのに。
***
正宗に言われて、コーヒー豆をひいていることに、明神は疑問を抱いていた。
いつもは挽いてあるタイプやむしろインスタントを買ってくることがほとんどの明神にとっては、豆を挽く行為そのものが珍しい。ゴリゴリという音と力を入れてグリグリ回していたのが、少し柔らかくなった。
加減がわからなくて、困った。これはいつまでやればいいんだろうか。
「なんでこんなことしてるんだよ」
思わずブチリと文句を垂れる。
「飲みたくないのか?」
「いえ、とても飲みたいです」
「じゃあ、大人しく豆でもひいてろ」
はあ、と生返事をして、痛みの引いてきた腹を見る。
腹にあった違和感は正宗の気だということがわかって、ぼんやりとした温かみのある気を炎に例えるのは確かにわかりやすかった。それと自分の大気のような気が混ざるのは、まるで火事の上流のようで一時熱みを帯びたが、ぬるま湯のように変化していくと、残っていた痛みも一緒に消えたが、それは今度こそ空腹を訴えているようで、やっぱり違うことを言われているようだった。
傷から霊の思いを受け取ることも多々あるのだが、あまりに感覚が違いすぎると理解を超えてしまうことが多い。特に、明神には情けない話だが自覚があった。
女性に対しての思いは特に。
真っ当に、受け取れない。
生きている人間に対してもそうなのに、死者へ鞭打つことも出来ず、そして死者へ弔いのキスも与えられない。半端な愛も無意味である。
「なあ」
「なんだよ」
ケトルで熱湯を沸くのを見詰めながら待っている正宗に話しかけると、少し振り向いてくれた。ぴしゃりと伸びた背中がうらやましい。
「雨、やまないな」
「そうだな」
そしてシュンシュンという熱湯のサイン。
正宗は火を止めた。フタを取って、湯を見ているようだった。
「コーヒーは」
「あ?」
一度どれくらいになったのかパカリとちょうどミルを開けたらとてもいい匂いがして、明神が瞳を閉じたところで、唐突な正宗の珍しく流れるような言葉が聞こえてきた。
「熱湯で注いではダメだ。しかし日本茶などよりは熱い温度で。
あまり高いところから注いでも苦味が出る。何度も蒸らして、ふわっと被せる形で湯を何度もかけて膨らませて抽出する」
はあ、と再び生返事を返す明神を気にも留めないで、二つのコーヒーフィルターを両手に持った。
「苦味があるのと、あっさりの、どっちがいい」
「あっさり系」
「じゃあ、カリタ式」
そしてポコンとサーバーの上に乗せた。、乗せられたものは3つ穴で、正宗がいまだ持っているのは1つ穴。手品のように底を見せて教えてくれた。
「なんで穴の数が違うんだ」
「落ちる速度が違う。リブの長さも違うから……」
「待った。リブってなに」
「この穴にいくまでに溝があるだろ? 溝のことをリブっていうんだ。これがないとべったりフィルターに張り付くだろうが」
「ああ! なるほどねえ!!」
「ここでペーパーと器を慣らす」
「で、なんで穴の数が違うの?」
「だから、速度が違うといっただろう。じっくり落としてしっかりした味が飲みたければ1つ穴を使うし、すっきりした味がよければ3つ穴を使う。豆を透過するのが早いからその分味が違うんだ」
「ははあん」
「お前、わかってんのか?」
「わからせる気あるのか?」
「あまり無いな」
そして湯が注がれた。
ぽわんと広がる香りに、明神はほうとため息のようなものをつく。
今は何時なんだろうか。帰らないとみんな心配するなあ。
だが、今はそれよりも、あの霊は、人から変性して、鬼となり、どれだけ傷ついた思いで、自分に愛を求めたのだろうか。
応えられないのに、優しくするのが、ダメならば、彼らにどうしてやればいいんだろう。
「正宗」
「なんだ」
「優しくしてやってもいけないなら、どうすればいいんだ」
「優しくするなといっているわけじゃない」
「そう聞こえた」
「近いことは言っている」
むう、とよくわからないということを示そうと口を尖らせたら笑われた。
今、何度も丁寧に湯を注ぐ手を見ながら、じっくりと入れる、ということの意味が少し分かりかけた気がする。
彼は、確かに、じっくりで、自分は早急すぎたということで、いいのだろうか。
***
じっとコーヒーカップを見詰める明神は、幼い。
正宗はそういえば、とコートのポケットにサングラスをしまってやったことを思い出した。その瞳はいつも色でごまかそうとしているけれど、直視するのがつらい現実を彼なりにやり過ごそうということの意味ならば否定はしない。自分の隻眼とて、似たようなものだ。
自分が見ている世界と彼の世界は絶対違う。
「愛するだけじゃ、ダメなんだ」
ぼそりというと、明神は素直な瞳でこちらを見た。その瞳が幼さを煽るんだと感じる。
「規模でけーこと言ってんな」
「そういう仕事だ」
「密売が?」
「そっちじゃない」
「冗談だ」
ソーサーにカップを乗せて、向かいの明神に出してやる。パンと手を合わせて、いただきます、と小さい声が聞こえた。なんとなく、不釣合いだ。
小さいテーブルに男が二人向かい合っているのが、とても不恰好だが、それが、自分たちのベストのポジションのようで、違和感はない。真正面から見詰めてくるこの男は、とても不器用で、脆い。
だけど、その脆さに愛おしさを感じる。
変な意味ではなく、彼の良さは、きっとそこにあって、あと一本の糸でギリギリ立っているところが、いかにも人間臭いのが、ほほえましいのだ。
「急ぐ必要はないと思う」
「うん」
「じっくり、焙煎していくんだ。豆みたいに」
さきほど明神が挽いていたミルを逆さに振って、こぼれてきた微粉を手に取った。
「焙煎が浅いと、酸味が強くて、深くなると苦味が出る。
アイスにするには焙煎を濃いものを使うし、エスプレッソなんかも深入りだ。
冷たくするには、まず、充分に炒ってからだ。急いでもいいことはなにもない。
急いで結果を出すにも、逆に下準備はじっくりやってから。
相手に合わせて、みえているから、愛しているからこそ、ここが、もう、アイツらの世界ではないんだ、と、告げてやれ」
それは、コーヒーのように、じっくりと。
人間のスモークは、時に恐ろしい答えを返してくれるから、急いではいけない。自分たちには制限時間があるが、彼らには時間がないから、もしかして、焙煎されているのは自分たちではないかと、たまに思うけれど。
「俺が急いでいたのかな」
「お前が急いでたんじゃないのか」
「そうかもしれない」
「きっとそうだ」
「うん」
コーヒーを両手で持って、白け始めた空を見た。
雨はやんでいるようだ。
手についた微粉は、豆のエグミやくどさの原因である。あまりに細かく付き合っても、それが見えてしまうとどうすればいいのかわからなくなる。だが、付き合わない限りは、送ってやることもうまくいかない。
どうすれば、その粒子を自分の水に溶かしてやれるのか、どうすれば、その焙煎を深めてやれるのか、どうすれば、すっきりとした、だがコクのある、別れが出来るのか。
研究しても、したりない。
自分が吸い取ってやれるのは、ほんの少しだし、相手と次元の違うところにいることは、触れられるということを除いてハッキリと明確に理解されるから。
やはり、難儀な仕事だと思うのだ。
明神の、手首の手形は消えていた。
彼の心には、まだ、きっとあの女はいて、綺麗に送れなかったけど、今の彼に出来ることはきっと全てやったんだ。
それしかない。そうして何度も重ねていくしかないんだ。
何度も、湯を被せて、抽出をするように。
「もう一杯飲むか?」
「眠れなくなる」
そして少しクマが出た瞳がようやく笑った。
***
コーヒーの香りに包まれて、生活感の無い部屋で、また寝転んだ。
シャワーを借りて、腹を見たときには、傷跡はあっても、恨みは少し、晴れたようだ。
「ベッド借りていいの?」
「別にいい。ソファベッドだから」
じゃあ、遠慮なく、と本当に遠慮なしに寝ようとして、ふと思う。
「今何時?」
「6時」
「朝の?」
「夕方にはまだ早いな」
どうやって帰ろうか、といまさら思ったら、正宗がコートをベッドの近くにかけてくれた。
「とりあえず、一旦寝ろ。そしたら送る」
「なにで」
「貴様は人の話を根本から聞いてなかったのか」
「ああ、車ね! 車!!」
「別にどうせ他に仕事もないんだろ?」
「うるせーなどうせねえよ! ていうか、お前こそ仕事は」
「あいにくと、本日定休日」
ふふ、と笑いがこみ上げた。
「気持ちわりい」
「いや、なんだが、気分がよくなった」
「あっそ」
「そうさ」
今度は、コーヒーが飲みたくなったら、ここに来ようと勝手に思った。
*
実は提出物を忘れていて、教室に一人、残された。
なんとなく、物寂しい気持ちで下校口に立つと、雨が降っていて、以前置き傘用においていったビニール傘は当然のように、パクられていた。
おなかはすいたし、傘はないし、みんな短縮授業で先に帰ってるし、もうすぐテストだし、明神さんは昨日から帰ってこない。
昨日見た人が、いないことで、ヒメノはずっしりとした気持ちになった。
なんだが、散々な天気と自分の気持ちが重なって、雨と同じように、いよいよ泣きそうになる。
泣いてしまうと、がんばりが無駄になる気がして、泣きたくない。
そう思う女の子は、人前で泣けない子になって、あまり可愛くないのだそうだ。
だからといって、いまさら自分は変えられない。そう言い返したかったが、相手はいなかった。
***
夕食はワインである。
理由は単に、もらったから。それだけで。
赤に合うのなら、何にしよう、などと主婦顔負けにおかずを考えていたら、見慣れた黄色い模様のリボンをつけたカバンの女の子がいた。職業柄、その模様には大変お世話になっているからか、それともその少女自身が地味な外見の割りにこちらの目を引くからか、ようするに、知った顔であるおかげで、すぐにプラチナは車を止めた。
「ヒメノちゃん」
呼び止めると、警戒していたのがすぐに取れたが、雨の中ズルズルと重い足取りで歩いているのは彼女らしくなかった。
「プラチナさん」
「風邪を引くよ」
「うん、寒い」
「ここなら、俺の家のが近い。雨宿りにおいで」
「でも」
「うん?」
「知らない男の人についてっちゃダメだって」
「結構厳しいジョークを言うね」
「ええ、母にそういいなさい、といわれてるもので」
だが、彼女はしっかりと濡れている制服を見下ろしながら、車が濡れます、と言った。
きっと、男の一人暮らしに連れ込まれるよりも、そういうことのほうが耐えられなかったのだろう。
「シートなんて、いいから、早く入りなさい」
自分が降りて、ドアを開けてあげると、ようやくヒメノは乗り込んだ。
「タバコの匂いがする」
「そりゃ正宗くんだ」
そして5分もかからないのに、ヒメノはコテンと澪のために取ったけれど渡せず仕舞いのぬいぐるみに埋もれて寝こけてしまった。
かつての自分の青春時代までさかのぼって古くからの知り合いの愛しい彼女を思い出しても、年頃の女の子は、いつだって傷ついている気がした。
***
ついたよ、と声をかけられ、ぼんやりとしていたので丁寧に手を引かれ、4階の彼のアパートへ上がると、靴箱が散乱している玄関へと入った。
「なんで靴箱だらけなんですか」
「風水で靴はむき出しにするなって、言ってたから」
じゃあちゃんとゲタ箱を買えば良いのに、と思ったけれど言わない。こっち、と案内されたのは、普通のキッチンダイニングで、ローテーブルと低いソファ。テーブルにはティッシュが乗っているだけ。明神と比較するわけではないが、あまりにモノが無い気がした。
ただ、明神も物はあまりもっていないが、彼の場合は常に全てが出払っている、というのが正しい状態だとすぐに気付く。そうして彼となんでも比較していることに若干照れた。
「ちょっと座ってて。今バスタオル持ってくるから」
「すみません」
「謝らないの」
まるでお母さんみたい、と失礼なことを思ったが、あまり気にならなかった。
全部の家具が低めに設定されているらしく、カラーボックスがいくつか並んでいて、それがこの部屋の唯一の収納のようだ。まだ全身が湿っているので、ソファに座るわけにも行かず、突っ立ったまま、天井を見たり、窓を見たりした。
今朝方やんだはずの雨は、昼を境に再度降ったり止んだりを繰り返した。
今日のヒメノが沈んだり、昇ったりしているように。
「ほら、よく拭いて。冷えちゃうから」
などといいながら、プラチナはヒメノの髪をゴシゴシと無理やり拭いた。そうされながらヒメノは自分で体を拭いていく。髪を拭かれたら、突然軽くなった気がしたけど、ぐわんぐわんに振り回されたおかげで少し気持ちが悪くなった。
「どうかした?」
「いえ、車酔いです」
本当のことは言えずに、結局ごまかす。
ああ、またそうやっている。
***
足を拭いて、スカートを拭いて、外したピンを付け直して、ようやくヒメノはソファに座った。そういうところがとても律儀だ。眠れるようなサイズを買っているので、小さめの女の子が一人座るだけだととても大きく見える。どうにも彼女が本日縮こまっているからだと、プラチナは思った。
もっともっと、女の子らしく、ワガママに振舞ったっていいのに、と思うけど、それをこの子は望まない。
「暖かいものでも入れようか」
そして立ち上がると、ついてきた。
「あの、大丈夫だよ?」
「お手伝いします」
「そう?」
座ってられないらしく、肩からバスタオルをかけたまま、口を結んでこちらを見ていた。
自慢のホーローのケトルは見た目の可愛さに負けたのだが、正宗には買い替えが必要だと一笑された。だがヒメノの食いつきがよく、プラチナは満足する。
「かわいいでしょう」
「可愛い!」
これが女子高生といい年した脱サラした男の会話とは一瞬自分も思わなかった。情けなさより、惨めさが少し先には立つ。だが、後悔はしないぜ。
ケトルに水道水を入れて火にかけた。紅茶には水道水、というのは一体誰に聞いたのか。
そしてトドメとばかりにスプーンなどの食器類の下にある広い引き出しを開けると、ごろりと様々な缶が出てきて、またヒメノは釘付けになる。
こういう反応が欲しかったんだ……、と半分悦っているとヒメノがニコニコしながら質問を矢継ぎ早にしてきた。
「これ、みんなプラチナさんが集めたんですか!」
「そりゃそうだろうねえ、ここは俺ん家だもの」
「みんな飲んだの?」
「それもそうだよ、買ったんだから」
「えー、どれもおいしそう!」
「ちょうど3時なんだから、3時のお茶にいたしましょうか、お嬢様」
そして1つ、ジップロックで保存されているものを取り出した。
「それはなんていうお茶ですか?」
「アフタヌーンアールグレイ」
大変普通のフレーバーで申し訳ない。まあ、ヒメノが楽しそうなのでよしとする。
なんとなく、これからは自分のためだけに緑茶のフレーバーばかりを買うのを控えようと思ったプラチナだった。
再びキャッキャとついてくるヒメノに盆を持たせ、カップとソーサーを渡す。お湯はポットに入っていたものを入れてすでに捨ててある。丸い紅茶用に使用しているポットを出すとまたヒメノがじっと見ていた。
「これも可愛いですねえ、丸いの」
「急須でも平気なんだよ」
「えー? 急須で紅茶入れるんですか?」
「ようは丸くて大きいデザインが重要だってことさ。条件がないと葉がジャンピングしないからね」
ふうん、となんとも興味ありげに話を聞いてくれるので、楽しくなって、プラチナは笑った。
だけど、ティースプーンをもって、プラチナは笑みを深める。
きっとこの子ならわかってくれるだろう。そして、今、この子に必要な言葉になるかもしれないと想像して。
「ねえ、ヒメノちゃん」
「はい」
「ポットに入れる茶葉は何杯か知ってるかい?」
「えーと、人数分にプラスして、一杯、でしたっけ?」
なんとなく、自信なさげのヒメノ。それがもう、いつもの彼女と違うんだ、とやっぱり感じる。
「ほぼ、正解」
スプーンで少し多めに取って2杯入れた。
「本当はポットのための一杯、といって入れるんだけれどね、日本の水は軟水だから、特に必要ないんだよ。イギリスでの飲み方がそのまま伝わって、ポットのための一杯となっているけれど、日本での飲み方ならば必要ない。まあ、多少多めに入れるし、濃い目が好きなら入れても良い」
そうやって、余分なものを入れることが前提となる。
それは気持ちの持ちようも同じだと思う。
「ねえ。
煮詰まったり、時間がかかりすぎたりすると、なんだか嫌になるじゃない。そうすると、自分を責めたり、追い詰めたり、いじめたりする。
でもさ、そういうことが、細いポットや小さいポットでは解決出来なくて、おいしい紅茶は出てきてくれない」
ヒメノに紅茶のジップを渡す。受け取って、ジーっとそれを自然に閉めた。
「そういう余裕っていうか、広さっていうか、そういうのが、きっと必要なんだ。
果報は寝て待て、じゃないけど、ガッカリくることがあったら、ガッカリするといい。
困ったことがあったら、その人にはちゃんと告げるといい。
嫌なことがあったら、なにかに当たったって、いいと思う」
そして盆を持っていってしまったのを見て、ヒメノは慌てて追いかけてきた。
「ちゃんと、感情には、名前をつけてあげてほしい」
そういうと、彼女の混乱が伝わってくるようだ。
そうだなあ、そうやって、一生懸命に、なにかを追いかけてばかりでも、疲れてしまうと思うんだ、とは、自慢にもならずに言えなくて、情けない思いをしたが、それを見せてしまうとさすがに大人としてどうかと自問してしまった。
大体、それでも好きだから追いかけてしまうのだし。なんて自分を振り返りつつ。
俺は今、この子の前に立つ大人なのだ! という自信、というか余裕、そう、自分が今語っている余裕のある大人として前に立たなくては。
そうやって、みんな大人に意識してなるのだから。
***
プラチナが突然変なことを言い出して、なにを、どこまで、わかっているのかいないのか。
ヒメノは混乱気味に、だけど、少しずつ、どうしようかなあ、なんて考える余裕は確かに出てきていた。
ポットの中で、きっと紅茶たちは今跳ね回っている。
香りが、部屋に飛び散って、二人はうっすらと目を閉じたから。
手に持ったカップは先ほど暖めたのが残っていて、まだぬるい。これくらいがちょうどいいと思う。
熱すぎても、面倒くさい。冷たくても、淋しい。
綺麗な花模様が描かれていて、とても高そう。おいてある家具などは見覚えがあるからきっとヒメノがよく見るような家具量販店なんかの店のと変わらないだろうに、服とか小物とか、カップなんかは品がよくって高そうだ。
以前、明神がそう言っているのを聞いて同様に思ったことがあるくらいに。
彼は、いつまでも残るものは、安くすまして、壊れていくものに金をかける。
それは、ちょっと、悲しい気がして、どうして、彼は、残すことを恐れるのか。
でも、それもわかるのだ。
彼が案内屋である限り。
「プラチナさん。このカップ、綺麗ですね」
「いいでしょう? ちゃんとしたもの買ってるもの」
「へええ」
「別に壊したからって弁償しろとか言わないよ」
最初っから、わかってるから。
なにが、という前に、カップをりん、と鳴らした音に目がいった。
「いいかい。お嬢さん。
なぜ、これらはこんなにも、美しいのか」
これ、は今、彼がなにを指そうとしているのか一瞬わかったようなわからないような、面持ちでコクリとうなずいて反応を示す。
「理由は、必ず、壊れるからだ。
だから、大切に扱う。
でも、忘れないでほしい。
永遠だって、存在してる。
今俺たちが話しているこの一瞬は、確かに一つ一つすぐに次の一瞬へと姿も役割も移っていくけれど、その一瞬は確かに永遠なんだ。
確実に存在していたその繰り返し、積み重ねで今、時が流れている。
“今” があるのは、一瞬があるからだ。
どうか、お願いだよ。
霊たちは、怖がりだ。
壊れやすいんだ。
彼らを大切にしてあげて」
にこりと、サングラス越しにも、彼が笑ったのが見えた。
「でも、君のこと自身を大切にしないと、誰もしあわせには、出来ない。
君は素敵な子だ。
だから、余分な一杯をいつも誰かに、幸せを誰かに分けられるように、素敵な思いをいっぱいして。
そうすれば、君が得たその幸せで、ほかの人を幸せに出来る」
ぐっと、手のひらに力を込めた。
それでも、と言いたいけれど、いってはいけないような、言ってもいいのか、悩んで、涙がこぼれそうだ。
でも、泣く子は可愛い女の子かもしれないけど、頑張ったのに、恩を仇で返すようでやはり泣きたくない。
私がなりたいのは、可愛い女の子ではなくて、そういわれる幸せそうな女の子だ。
この感情に名前をつけることは難しくて、ずっとずっと考えている。
そのために、頑張りたい。
「泣くことができるのは、幸せな証拠さ」
ああ、いわないで。言わないでください。
でも、本当は、言って欲しかった言葉なんだ。
慰めなんていらない、なんて、いつも自分も思ってるのに、自分が誰かにそんな屈辱を与えているかもしれないことになぜ気がつかないのか。
どうしてそういうことに鈍くなってしまうのか。
見えないものに、手を伸ばすのは、あと一歩の境界線を越えることだ。
私は触れられないのに、触れようとしてしまう。
優しくするって、どういうことなのかしら。
優しくしてはいけないって、どうしてなの。
見えているのに、なんにもしてあげられない。
いいえ、そもそも、その「してあげられない」なんて、考え方、最低なのよ。
でも、わたしは。
私には、
みえるの。
***
まったく、強情な子だ。
そこが可愛いけれど。
グスン、と一つ鼻をすすっただけで、「平気です」なんて、ごまかした。
どんな子どもも、まるでいつかの自分のようで、必ずその仕草の中に、同じものがある。
プラチナには、一体ヒメノが何に傷ついていたのかなんて知る術もないし、強情な娘が口を割りそうにないので、きっとその理由はいつまでもわからないままだろう。
それでいい。
みえなくたって、みえたって、どうしようもないことは多々あるんだ。
ただ、ゆっくりと、君が開くまで、待っている。
それが出来るようになるまで、大人になれればいいんだから。
紅茶のように、じっくり待って、誰かのその温度を分けられるよう、大きめのポットのように。
いつか名づけられたその感情がこの子の心を一層豊かにする香りのように。
「そうだ。スコーンあるんだ」
「すこーん? わあ、ほんとに、アフタヌーンティーですね」
「最初っから、そういってるじゃないか」
「いや、紅茶の名前がそれだったので、ひっかけだったのかと」
先にカップに入れておいたミルクの上から注がれた紅茶は、綺麗なキャラメル色になって、香しい香りが広がった。
そして、薄いカーテンの隙間から見えた空には、赤みが広がり始めたところのようだった。
雨は、きっと彼女の心と一緒に移動した。
***
「どうもすみません。わざわざ送ってもらっちゃって」
「なにいってんの。当たり前でしょ。俺の家でハイサヨナラ、なんてできるわけないじゃないか」
うたかた荘の前で、止めてやると、降りたヒメノは笑った。
おみやげにお母さん分のスコーンまでもらった。すごく、うれしかった。
「あれ、ひめのん」
「おう、プラチナ」
と、背中から声がして、振り向けば二人のだらしなそうな男たち。
明神はくしゃくしゃになったコートを羽織ってサングラスは頭上。正宗は黒いTシャツに白いシャツを着ていたが、大層似合っていなかった。
「明神さん!! 昨日帰ってこなかったじゃないですか、心配したんですよ!」
「ああ、ごめんごめん」
なんてヒメノがいきなり食って掛かっても、明神はぽやんぽやんしていた。
「拾ったのか」
「うん」
「お互いでかい拾い物だな」
「そうだね」
「おい、モノ扱いすんな!」
「そうですよ!」
そしてプラチナが笑うと、ケタケタと明神も笑った。つられてヒメノが笑っても、正宗は空を見ていた。
夕焼けだ、という彼の低い声は、じっくりと三人に聞こえたけれど。