花火の夜
ここ数年、梅雨入りした途端に雨が止むのも、梅雨明けした途端に雨が降り始めるのも例年のことで、外気どころか家の中まで湿気だらけでアスファルトの照り返しもひどく、連日の三十度を越えと時折突破する三十五度には、さすがに体力バカと自他ともに認める明神もまだ七月だというのにすでに体力のバテりを感じていた。
身体が暑さに慣れた八月にでもなればまだマシなのだが、急激に上がった気温に身体も心もついていけていない。作り置きの麦茶を噛むように飲んで、体中の水分をしょっちゅう補給しないと干からびそうだ。去年からは合間に梅干しも補給に加わった。
「年々ひどくなるな、温暖化っていうのは」
「あれ? でも、冬よりは夏のほうが好きって前言ってなかった?」
「昔は夏のほうがいくらか過ごしやすかったんだよ。冬のほうがほんとに死にそうだった。暑くて死ぬなんてオレがガキの頃には想像したことないな」
「じゃあ、最近は冬のほうが好きなんだ」
名前通りだね、と笑う彼女の肌がいくら家の中だからといってタンクトップだけで、過剰に露出している気がして、思わず目を逸らした。
「ヒメノー。そろそろ準備するわよー」
「はーい。今行くー」
「え、もうそんな時間?」
「別に明神さんは準備いらないでしょ? 待ってて」
「おおー」
リビングで一緒にゴロゴロしていたが、一人取り残されて、ノコノコと扇風機の前に移動する。
エージがヒョコっと部屋に入ってくるなり、明神は「うげえ」と自然と声が出た。
「なんだよ、人が帰ってきたってのに、そんな声出して失礼な奴だな」
「ガクもツキタケもだけど、ほんとお前ら自分が暑くないからってもう少し季節感のある恰好してくれよ。見てるこっちが暑い」
「へーへー。ヒメノが入ってくる前はほとんど家の中じゃパンイチだったもんな」
「服着てるだけ文化的だろ」
「アホくさ。ヒメノは?」
「着替えてる」
「あー、今日か。花火大会」
「うん」
花火大会の話を聞いたのは夏前だった。
なんの気なしにヒメノが言ったのだろうそれを聞いてあまり深く考えることなく本人に向かって「行く?」と聞いたら、懐かしい女子高生みたいなキラキラした顔で「うん!」と返事をしたのが昨日のことのように思い出せる。
基本的に人混みが嫌いで、しかも花火といえば夜で、それも盆をすぎた後なのに明神が行く意志を見せたのにももちろん理由がある。
彼女が話していた花火大会の会場近くにあるホテルには伝手があったのだ。
昔、師匠と一緒にその一角で案内をしたことがある。不慮の事故で亡くなったオーナーの兄だった。
それ以来何年かはそこの部屋を借りることもあったりしたが、近年改装をしたという話を聞いていた。噂によると、ホテルの屋上から花火が見えるため、そこに客を案内出来るように改装したとのことだった。まだ先の話だし、大丈夫だろうかと思いながら昔の知人に連絡を取った。
ヒメノの浮かれようは周辺の人々を微笑ませる。
あまり夜の外出をしないよう教育されてきたし、盆暮れ時期にはあちこちに霊がいる。どこにどんな敵がいるかもわからないので、人が多くいるところには出かけたことがほとんどなかった。
花火大会に行くならば、といってガクやコクテンたちと一緒に浴衣を慎重に選んで新調した。明神はまだ見ていない。
ヒメノがおしゃれをするのなら、と当然明神もエージとプラチナと一緒に買い物に出かけた。ただし、夏なのでどうせ汗まみれになるのならなんでもいいんじゃないか? という話に落ち着いてしまい、オシャレとは縁遠い買い物になり後日プラチナが暑さに思考力が削がれていたと言い訳をしていた。新陳代謝が良すぎてすぐに汗だくになってしまうので一日に無精な明神でも二回は洗濯物を回している。でないとすぐに着るものが無くなってしまうのだ。すぐに乾くからいいけれど、仕方ないので同じ服を三枚くらい買っただけになった。
ヒメノが雪乃に浴衣を着つけてもらっているので、自分もそろそろ準備をするか、と思い立ち上がる。冷たいシャワーを頭から浴びて黒いTシャツを着て、いつものGパンを履く。まだ濡れている頭のままで麦茶を沸かし、そのうちまた汗をかいていた。(ほんとにバカだな、オレは。シャワー浴びる前に沸かせばよかった)なんて思っていると雪乃が明神を探しに来た。
「いたいた。あら、シャワー浴びたの?」
「ええ。暑くて」
「麦茶沸かしてから入ればいいのに」
少し呆れたような言葉に「オレもそう思います」なんて返したけれど、すぐに「こっち来て」と呼ばれる。
「ヒメノー、入るわよー」
「はーい」
開かれた襖の中で、ヒメノが姿見の前で髪の毛を整えている。長い髪を少し低い位置にお団子にしていた。
「どう、冬悟さん。結構大人っぽい柄選んだでしょ」
最近頓に娘と似てきた雪乃の声がしたが、浴衣の「大人っぽい」というのが、どういうことがあまりよくわからず返答に困る。ただ当たり前だがいつもと装いが違うだけで印象は変わるものだと外見の良しあしにあまり関心がない明神にもよくわかった。
「は~~~、本当に尊い……。素敵だ……ひめのん……。なのに、今日の君のお伴はこのバカ……やっぱり殺そう……」
「ダメダメ、ガクリン。殺さないで。花火見に行く場所、私一人じゃ行けないから」
「お、いい感じじゃん。もうあの白い金魚の子どもっぽいのは着ないのか?」
「エージくんもうるさいよ! アズミちゃんっぽい柄なんていうから今年は新調しました!」
「あれはあれでかわいいじゃないか」
「すぐそうやってからかうんだから。ほんと、生意気」
ほら、といって、鏡から明神たちのほうに全身を向ける。
確かにエージの言う通り、去年近くの神社の祭りの時に着ていたのは白っぽい浴衣だった気がする。あれはあれで暗い人混みで探しやすいから明神は重宝していたのだが。
今日着ているのは藍色に白地の染め抜き。朝顔の縁の部分には艶やかなマゼンダが入っているものだ。帯は白っぽく、後ろに結ばれたリボンは黄色くてシュワシュワしている。
お団子にした髪は夏にはよく見かける髪型だったが、それを留めているのはかんざしのようで、青いトンボ玉が光っていた。いつもはあまり人目に晒されることのない細い首筋には、すでにうっすらと汗が滲んでいる。日焼け止めを塗ったような白っぽい顔に、なにかを塗っているのだろうつややかな唇が明神の言葉を待って、明らかに微笑んだ口元が、確かに年齢よりもずっと大人っぽく見えた。
「似合ってるんじゃない」
「相変わらず鈍くさい感想だな、明神!」
「ほんっと、旦那ってニブチンだよね~」
エージとツキタケに冷やかされて「なんだよ」と言いながら二人の首根っこを掴まえて部屋から追い出す。ガクは見惚れたようにヒメノをじっと見つめては「いい……」と何度もつぶやいていた。
「じゃあ、ひめのん、行こうか」
「うん!」
たった一言その鈍くさい言葉だけでも、ヒメノは満足したらしく、昨年も履いていた下駄を箱から出しながら年相応に元気よく返事をした。
***
あっぶね~……。
心の中で、盛大にため息をついた。
やばい。やばすぎる。あんな幼かった印象の子が、あんなに綺麗になるものなのか?
オレの目がやばい? それともこれが惚れた弱みか?
心臓がバクバクして、これから二人で出かけなければならないという事実に急に怖気づいてきた。
首丸見えなのやばいだろ。オレの語彙の無さもやばいけど。やばいとしか言えない。
え、これから二人っきりになるの? え、どうしよう。緊張する。
いや~、顔見れない。やばい。
先日買った黒いキャップを目深に被ってまだ昼すぎなので太陽光を遮るためにサングラスもかけるとオレの準備を見てたエージがドン引きした顔をしていた。
「明神、その恰好で行くのかよ……」
「え、ダメ?」
「ダメじゃないけど……。いや、まあ、前みたいにタオル頭に巻いて出かけないだけいいか……」
「え、それもダメだったの?」
「ダメだろ……。しかもヒメノと出かけるのに」
「あ、そうですか。はい、すみません」
しかし今はこの恰好の準備しかないし時間もない。玄関に二人で行くとヒメノとお母さんが待っていた。
「あ、冬悟さん。これ持っていって」
そういってお母さんからリュックを渡される。予想していた重さよりもずっと重くて思わずギョッとして「なんですかコレ!」と反射的に聞いた。
「ペットボトル凍らせて入ってるから。あとああいうところで屋台とかも並ぶでしょうからもし買えなかったらおにぎりとか入れてあるから食べてちょうだい。いくつかタオルも入ってるからちゃんと汗ふいてね」
「あ、はい」
後半はオレではなく、当然実娘のほうを向いてしゃべっていた。
「やだー、もうお母さんたら、それくらい自分で途中で買ってくよ」
「なに言ってるのよ。ああいうところはすっごい混んでトイレ行くだけでも一時間とかかかるのよ」
「まあ、近くの建物の屋上だし、公共の施設じゃないから大丈夫だと思いますけど」
「ぐおおおおおお……。明神、コロス……」
「ガク、帰ってきたら相手してやるから今陰魄にならないでくれ」
「楽しんで来いよ」
「いってらっしゃーい」
時刻は13時。天気は快晴だった。
ただ、どことなく、大気の異変を明神は感じてはいたけれど、それは誤差の範囲内だったはずだった。
***
「どうしてこんなことになっちゃったのかなぁ~~」
ホテルのロビーで全身びしょ濡れになったヒメノが半泣きの声を上げる。
ちょっとあんまり直視出来る状態ではない。オレが背負っていたリュックを持たせて身体を隠させるが、それでも十分に目の毒だ。
「いや、大変でしたね。急にこんなことになっちゃって」
「で、部屋は?」
「満員だったんだけど、一組逆にこの嵐で来れなくなったって人がいるからそこにお通ししますね。最初に約束してた部屋はもう一組入っちゃったんですよ」
「いえ、こんな事態ですから当然です。そちらも商売なんだし。無事に使えてるならよかったです」
「一応明日のチェックアウト後に空き室はまた見てもらってもいいですかね」
「もちろんです。それでお願いします。助かりました」
交渉成立。
なんとか、部屋を確保できた安心感でオレのほうも油断していた。
こちらが若い女の子を連れていたことに先方もなんの違和感も抱いていなかったのだろう。
それが裏目に出ることになるとは思わなかったけれど。
大会の最寄り駅に着く前、乗り換えをした頃にはチラチラと浴衣姿や甚兵衛姿の若者が目立つようになってきた。
どことなくそわそわとした、明るい空気感が漂っていたのだが、うたかた荘を出る時に感じた大気の異変は大きくなっていた。
「冬悟さん、どうしたの?」
「いや、なんでもないんだ」
混み合ってきた電車内でヒメノの腕を自分の腕に掴まらせる。人混みで離れてしまうと、小さくて見えなくなる。首筋が赤く染まったのが見えて、自分の耳も熱くなった。
乗り換えてからほんの十五分ほど乗っただけなのに、どうしてこんなことになったのか。
駅に着いた頃には、土砂降りだった。
「大雨って、決行?」
「まさか? 嘘だろ」
プラチナや正宗ではないが、思わず「ジーザス」と言って顔を押さえてしまった。
ありがたいことにお母さんが用意してくれたリュックの中に折り畳み傘が入っていて、横殴りの雨の中、ようやく三件目のファミレスで席を確保することが出来た。
全然止まない雨にヒメノがため息を大仰について、タオルで髪の毛を吹きながらふてくされた顔でパフェを食べている。
「ま、まあ、こういうこともあるよ……。もしかしたら開始前に止むかもしれないし」
「まだ中止は発表されてないみたい」
「ならチャンスはまだあるだろ」
そういってアイスコーヒーを飲みながら、オレはずっとヒメノの濡れた肌を見ていた。
ヴーヴーと突然ヒメノの携帯が鳴りだして、自分の下心が見透かされていたような気持になって冷や汗をたらす。
「お母さんだ」
そういうとサッと携帯に出る。
「どうしたの?」「うん、平気」「え、ほんと?」「ええ?」「嘘でしょ?」
次から次へとヒメノが驚いて慌てる表情はクルクルと変わり、それを見ているだけでも飽きないが、なんとなく事態は悪化していることだけは伝わってきた。すると「はい」と言ってこちらに携帯を渡してくる。
「え? オレ?」
「うん」
「はい、もしもし」
『あ、冬悟さん?』
「はい」
『あのね、ヒメノには伝えたんだけど、今日多分あなたたち電車止まっちゃって帰ってこれないだろうから、ちゃんとファミレスとか漫画喫茶とかじゃなくて横になれるところで泊まるのよ。変なところケチらないでね。風邪引いちゃってもよくないからちゃんとシャワー浴びれるところでね』
「ちょっと、待って。いや、待ってください。
どういう、その、んん?」
『詳細はヒメノから聞いてちょうだい。とにかく、手持ちのお金が足りないなら、リュックに念のため多めにお小遣い入れておいたから確認して使って。
あと、』
「はあ」
『まあ、覚悟が決まってるんなら、本人の同意の上でね』
「待って、それ、」
『相手が冬悟さんなら私も安心だし』
「安心しちゃ駄目なやつですよソレ。それはちょっと、」
『なに言ってるの。私があの子を産んだのいくつだと思ってるわけ? 今のあの子の年で産んでるのよ』
「そういう展開にはなりませんから!」
『え、そうなの? せっかく二人きりなのに』
「とにかく! 事情はともかく、ちゃんとしたところに泊まりますから変な心配しないでください!!」
『期待してるわね!』
「結構です!」
思わず電話を切ってしまった。
なんてことを言うんだ、あの母親は! 節操なさすぎだろ! 全身が熱い!
せっかく雨で冷やされた身体から蒸気が出ているようだ。
「え、お母さんなんだって?」
キョトンとした娘は会話の内容は察していない様子で安心したが、オレの不自然な態度を見て眉をひそめている。
「大したことじゃないよ。こういうファミレスとか満喫で時間潰すんじゃなくてちゃんとしたところに泊まりなさいって」
「ふうん。ねえ、こういう時って本当に電車止まるんだね! 私初めてだよ、こんなこと」
「いや、オレ詳しく聞けなかったんだっけど、なんで電車止まってんの?」
「やだ。聞いてないの?
雷落ちて停電だって。それと、乗り換えてから乗った路線あったでしょ? 線路脇の木に落雷して線路塞がれちゃって今復旧中なんだって。でもこの大雨でしょ? 今復旧の見込みがないって話」
「そんな大事になってんの?」
「うん。困ったね」
「参ったな……それじゃ明日も午前中に帰れないじゃないか……」
「明日仕事?」
「いや、まあ、なんとかなるとは思うけど」
「じゃあ、どうする?」
そういって、こちらを見上げてくるヒメノの目は、どことなく、期待が込められているように感じられたのも、オレの下心がゆえに違いない。
どこから聞こえてくるのか、17時の鐘が豪雨と遠雷の中をかろうじて聞き取れた。
元々予定していたホテルで部屋を確保できたものの、室内に入る前には、嵐で二人とも全身びしょ濡れで、どことなく浮かれていたヒメノも、卸したての浴衣がびしょ濡れになったことにショックを隠し切れない様子で放心していたところで、トドメに部屋の内部を見てさすがに黙り込んでしまった。
オレの感想はただ一つ。やっちまった。
「あの……冬悟さん……」
「まず、お風呂に入ろう。ひめのん、ずっとその恰好じゃ風邪引くから、まずシャワー」
「え、でも着替え……」
「はい、コレ。ガウン。小さいサイズもらってきたから」
「え、でも……冬悟さんも濡れてるし」
「オレは平気だから、ほら先入って」
そういってヒメノをバスルームに追いやる。
そうだよなぁ、予想してしかるべきだったんだよなぁ。
ダブルに通されることくらい。
仕方ないので、自分も身体にピッタリくっついたTシャツを脱いでハンガーにかける。Gパンもびしょびしょで張り付いて気持ちが悪いが、ここでパンツ一丁になるわけにも行かず、とりあえずリュックの中身を確認したら、タオルにしてはたくさん入ってるな、と思っていたビニールに包まれた袋を開けると、二人分の着替えが出てきた。というか、そもそもとしてメシとペットボトルだけでこんな大きさと重さになるわけなかったんだよな! そりゃそうだ!
おそらく彼女の服が入っているものを開けて、急いで閉じた。
「ひめのーん!!」
あー、ごめん! ごめんなさい!! 見てない! オレは見ていない!!
かろうじてシャワー前だった彼女が隙間を開けたところに着替えをねじ込む。ヒメノもなんとか受け取ってくれた。
「え、なに、ちょっと明神さん!?」
「これ、ちょ、コレ! ハイ! あげる!」
「え、あ! 着替えだ!」
「オレは、なんにも見てないから!」
違う! これでは見ましたと言ってるようなものだ!
くっそ~、あの人絶対天気の異変をわかってオレたちを送り出したようなもんじゃないか!
いや、もしかしてこれ全部あの人のせいじゃないのか!? ゴウメイにでも雷落とさせたのか?!
ちくしょう! 白の上下イメージ通りですありがとうございました! と、誰に言うわけでもないのに土下座をしていた。
せっかくなので、自分も用意されていた着替えに全部取り換えて、とりあえずは濡れた服から解放されて一安心する。
だが、シャワールームから聞こえてくる水の音がやけに生々しくて、今度は耳が熱を持つ。
オレは思春期の男子高校生か!
水音をかき消すようにテレビをつけると、先ほどファミレスで聞いた通りの内容がニュースでやっていた。
結局今日の花火大会は当然中止。雨は依然として暴風を伴い今夜中は夜間の出歩きを控えるように伝えている。関東各地に警報が出ているが、夏の大気は一時的に不安定なものが多いので、明日の朝はきっと綺麗に晴れることだろう。
ダブルのベッド以外には窓際につけられたカウンター式のテーブルだけで、窓に向かって座りにくそうな椅子が一脚あるだけだ。テレビもベッドに寝そべりながら見れるように壁に埋め込み式になっている。
オレの寝相では落ちたらすぐに壁にぶつかるくらいの狭さである。
この曖昧で、名前だけの「恋人」という関係を乗り越えることを周囲からも本人からも期待されていることはわかっているし、関係性は良好であることは事実なのだが、あまりにも、ちょっとあまりにも急な展開すぎて自分の気持ちと身体が追いつかない。
嘘だ。身体はものすごく興奮している気がする。ホテルに入った段階で心臓がバクバク言って止まらなくて、いや止まったら死んじゃうんだけど、自分の身体の外から音が聞こえているような気がしていた。緊張して、チェックインの名前を書く時には手が震えるし、恰好悪いったらない。
自分が濡れて帰ることはしょっちゅうだし、そもそもあまり傘を差さないので、気にしたことがなかったけれど、女の子が濡れると、こうも目に毒だというのは初めて知った。
彼女の細い髪の毛が服に張り付いて首筋が艶めかしい。化粧なんかしなくても、湿った頬や潤んだ瞳のほうがよっぽどクるものがある。足元に滴る雫は淫靡だ。ジーンズやTシャツよりも、濡れた浴衣が張り付いて余計に身体のラインの妄想が引き立てられる。
あー、やばい。これで、二人っきりで夜を越すの? 嘘だろ?
ひとりなら大雨だろうがなんだろうが遠くても歩いてでも帰れるけれど、彼女を連れて雨の中帰るわけにも行かない。
いや、落ち着け。ホテルでも、ここは普通のビジホだ。もしここが最初の予定通り空いていなかったら、違う趣旨のホテルに行かなければいけなかった。そっちじゃなくてよかった。そう、よかったんだ。堂々とオレは「ちゃんとしたホテルに泊まりました」とお母さんに報告すればいい。やましいことなんて何一つとしてない。
周囲の期待なんて知ったことか。オレにはオレのペースがある。彼女だってそうだ。
こんな味も素っ気も雰囲気なんてないようなところでお互い最初の夜を迎えなくたっていいんだ。
気負ってはいけない。そういうことをするためにここに来たんじゃない。落ち着け、冬悟。
そうだ、ビール飲もう、ビール。到着する前に無理をいってコンビニに寄ってでも手に入れたビール飲もう。飲まずにいられるか。
逃げ道を作って良かった、とこの時のオレは自分を褒め称えたが、この選択がこれほど呪わしい結果をもたらすなんて、知る由もなかった。
*
「出たよ」
「おー、ちゃんとあったまった?」
「え、ちょっと、冬悟さん、ビールどんだけ飲んでんの?」
「え、そんなに飲んでないよ」
うわー、どうしよう! 風呂上りだ! いや、毎日見てるけど、うわー! なんだこれ恥ずかしい!
「メシどうする? お母さんの作ってくれたおにぎりあるけど」
「え、でも日中持ち歩いてたやつでしょ? 大丈夫かなぁ」
「ほら、冷凍したペットボトルの上に置いてあったから大丈夫だとは思う」
「でもさっき半端な時間に食べたし。あれ、夕飯代わりでいいかなぁとは思ってた」
「おなか空いてない? それならいいけど」
「冬悟さんは? おなか空いたの?」
「食えって言われたら食えるよ」
「そうじゃないでしょ。あ、いけない! 冬悟さんもシャワー浴びてきてよ! 風邪引いちゃう!」
「バカだから引かないよ。なんか着替えたら満足しちゃったし」
そんなことを言いながらも、相変わらず彼女を前にしたら心臓の音が耳元で鳴っているように大きくなった。
普段着の着替えは渡したものの、おそらく下着だけつけて上に着ているのはホテルで用意している全部ボタンで留めるシャツ型のガウンだ。
あ~! どうしてそんな無防備な恰好で寄ってくるんだよ~!
その下、もう下着じゃん! 明らかに下着じゃん! うわ~! オレの理性が試されている!
「ダメだよ! ちゃんと入ってきて! あー、もう! やっぱり身体冷たくなってるじゃん!」
いやいや、そんなことないです。熱いです。大丈夫。あー、近寄っちゃ駄目。もーほんとつらい~。
「わかった、わかった。入ってくるから。
あ、ひめのんの分は冷蔵庫入ってるよ」
「はーい。ありがとう」
大人しく引いた振りをしてシャワールームに逃げ込んだ。
彼女がコンビニで買ったカクテル缶とチョコレートをダシにしたらあっさりとそちらに気を取られた様子で安心する。
室内に入った時はお互い緊張でガチガチだったのに、あっという間に彼女はいつものペースを取り戻しているではないか。どういうことだ。
女の子ってそういうもんなの?
とりあえずユニットバスのトイレに座り込む。
やばい。ガチやばい。師匠……助けて……。
ここで一発抜いておいたほうが後々のためになりそうだけど、いや、だが、実際もしもそういう感じになった時に早いとか遅いとか思われても微妙だ。いくらなんでも、オレにだって少ない男のプライドはまだ残ってる。
だけど、どこまで我慢出来る? オレは、オレをどこまで信じればいい?
いや、まずは風呂だ。シャワーだ。室内からはニュースからバラエティ番組に切り替わったらしく、複数人の笑い声が聞こえた。そこにヒメノの声はない。
*
「嘘だろ……」
そう長くないシャワーから上がると、ヒメノが完全に出来上がっていた。
たった一缶で? 度数低いのに?
「あー、明神さんだー。おかえりー」
「出たよ。これ全部飲んだの?」
「中に入ってたやつも飲んでみた」
「え!? マジで? あ!! ほんとだ! ウメッシュ飲んでるじゃん!」
「おいしいです~」
「あ~! なにフワフワした返事してんの! クッソかわいいな!」
「ほんと?」
あ。
「かわいい? ほんとに?」
ヒメノ一人では有り余っているダブルベッドに寝っ転がって片膝だけ立てるという不埒な状態だったのを起こそうとしたら、思いがけない素早さでヒメノの腕がオレの手を取った。
「浴衣着ても、かわいいって言ってくれなかった」
「かわいかったよ」
「かわいいだけ?」
知らない。
こんな女性は知らない。
妖艶な口元はアルコールの匂いを発し、その少し濡れた状態がよりオレの視覚を刺激する。今すぐにでも貪りたいような、吸い付きたいという欲望が、ここまでハッキリと前面に現れているのは、一体どうしてだろうか。シャワーの後のあたたかい子どもみたいな匂いから、少し彼女の匂いが絡みついて、今上がったばかりの自分と同じ匂いがしているという事実に背中にゾクリとした振動が走った。いつもは、お互い違う石鹸を使っているから同じ匂いになんてなったことがなかったのだと、今初めて気付いた。
かわいいだけじゃない。
今日の君は、とても、綺麗で、美しくて、色気がある。
顔面が熱い。ヒメノに掴まれた腕もすごく熱くて、テレビの音が鳴っているはずなのに、耳鳴りみたいな、雑音というよりBGMになっている。
「それだけじゃない」
そう返した自分の声が、膜を張った向こうから聴こえてくるように遠く感じた。
限界だ。
君に、触れたい。少しでも多く。
掴まれていた腕を逆に引き寄せ、軽く抱きしめてから彼女を押し倒す。自分の影に彼女の小さな顔が覆われても、揺れる瞳がキラキラとして美しくて、オレを見つめるその眼はオレの中身も燃やそうとしているようだった。
今まで触れるだけのキスしかしたことがなかった。
先に進んでしまったら、もう引き返す自信が無かったから。それを何度もチクリチクリと本人に指摘されたのも少なくない。
あんなに、踏ん張って、耐えてきたのに、今は一瞬でタガが外れたという状態のまま、彼女に覆いかぶさっている。
髪の毛を押しつぶさないようにそっと掻き分け、子どもみたいにほんのりとアルコールで赤くなっている頬に触れて、首筋にキスをする。くすぐったそうにする彼女の声が、聴いたことのない甘い響きを持っていて、ますます周囲が見えなくなる。
首から、耳、穴に舌を這わせるとすごく嫌がられて暴れたから両手首を掴んで額、鼻先とキスをした。
額を合わせて、視線が交わる。
「そんな顔、初めて見た」
「どんな顔」
「言葉に出来ない」
君から自分と同じ匂いがしていることも、口元から微かなアルコールの匂いがすることも、温かい体温がここまで重なりあっていることも、ほとんどお互い布一枚隔てただけの恰好でこうしていることも、全部が初めてだった。
何度も顔中に触れるだけのキスを繰り返す。
どんどん彼女の声が高く、途切れがちになっていく。
柔らかい唇を食むようにして柔らかさを堪能し、何度も歯並びを確かめて、口の中に舌を伸ばすと、最初は引っ込んでいたのに次第にこちらの動きに合わせるように舌が応えてくれるようになって、がっついて口の中に奥まで入り込んでは引き下がってを繰り返し、触っていないところなどないことを確認するように舌を這わせた。
どれくらいそうしていたかわからなくなった頃、ヒメノがぷはっと呼吸をする。
「かわいい」
「息、できな」
「鼻でするんだよ」
当たり前のことなのに、そんなことも出来ないところがかわいい。
右腕で自分の口元を拭うけど、どちらの唾液が判別がつかなくなるほどに濡れていた。
ヒメノの瞳はますます眠そうな、涙を湛えていて、オレだけを見ていた。
そんな目でオレを見ないでくれ。呼吸が荒くなっていて、腰が疼く。胸がドキドキして、破裂しそうで、空気が淀んでいるような、もったりとした空間にいる。上半身を起こして彼女を見下ろす。
さっきまでオレに掴まれていた両腕を投げ出して、その細い体躯をオレに敷かれている。その事実だけで胸がいっぱいになって、苦しい。どれだけ夢に見たか。どれほどこの時を待ち望んだか。決して手が届かないと思い込んでいた物が目の前に無抵抗に横たわる。そんな日が、瞬間が今であることがまだ信じられない。
頭が全く働いていないことだけはわかる。彼女の瞳が閉じられて、それを合図に再び深い口付けを繰り返す。吐息が感じられる度に自分が、彼女が生きていることを痛感する。ただ、ただ、本能のままに、身体が動く。やったことなんて、経験したことなんてないのに、自分の身体が勝手に動いている。
下半身が張り詰めている。久しぶりに感じる高まりに、息を吐く。
その身を震わせてくったりとしているヒメノを見て優越感を得た。まだ意識があるうちにゴムを取ろうと立ち上がる。一分にも満たない短い時間だったけれど、長い、とても長い時間だった。一歩にも満たない短い距離を、少しもたついて財布から目的のものを取り出して、ベッドに戻る。
これが恐れていた間か。彼女の動きが気になった。その気じゃなくなってたらどうしよう。そんなことを思って。もうこちらは我慢の限界なのだから。早くその身に触れたかった。
「嘘だろ……?」
寝ている。
ん? あれは、もしかして、眠そうな目じゃなかったってこと……? 眠かったってこと? 嘘。ここまで来ちゃったのに? いや、待て。嘘、待って。ほんとに。
そして、よく考えると、彼女は、二日酔いの後、大体のことを覚えていない。
あー、ちょっと、待って。え、じゃあ、さっきまでの、アレコレは、もしかして、明日覚えてない? 可能性が、ある?
思いっきり持て余した自分の身体にため息と、突然降りかかった絶望にじんわりと涙が出てきた。
あー、ダメだ。違う。彼女はなにも悪くない。わかっていたはずだ! この子が酒にまだまだ弱いことくらい! これくらい全然予想の範囲内だっただろうオレ!
そうだ、これは、一生、オレだけの思い出にして生きていこう。
あと、絶対一緒に宿泊する時には彼女には飲ませない。オレが飲むのを我慢しても、飲ませない。あー、禁酒しよ。虚しい。寂しい。人肌恋しい。
さっきまで触れていた肌は温かく、頰に触れると、涙の跡があった。そこまでは、真実だろう。
彼女の身体を持ち上げてちゃんと掛け布団を掛ける。髪の毛を整えて、額にもう一度キスをした。
眠り姫は、目覚めない。
結局、冷たいシャワーを浴び直して、同じベッドに寝ることも出来ず、狭い隙間みたいなところの椅子でカーテンを見つめながら一夜を一睡もすることなく過ごした。
***
朝目が醒めると、コーヒーの匂いがして、いつもと肌触りが違う布団に違和感を感じ、身体を起こすと鈍い頭痛が頭に響いた。
「おはよう」
そう声が聞こえてそちらを向くと、冬悟さんが私と同じホテルのガウンを着て、サングラスをかけて室内の備え付けのポットからインスタントコーヒーを入れているところだった。
「あれ……、ここ……」
「ホテルに泊まったんだよ。覚えてない?」
「え、は、ホテル?!」
思わず自分の身体を見下ろすと、冬悟さんの乾いた笑いが聞こえた。
「残念ながら、なんにも無いよ」
残念、という言い回しに自分の欲がバレていたような気恥ずかしさを感じて額が熱くなる。冬悟さんはコーヒーを音を立てて啜って続きを話しだす。
「ところで、今のひめのんだと外で慣れない酒の缶を二本以上開けるのは禁止ね。外でこんな簡単に寝落ちられたんじゃ、気が気でなくなる。オレが相手じゃなかったら、なにが起こっていることやら」
そういって近付いてくる彼の視線がサングラスで見えない上に逆光で、外が明るくてきっと晴れているのだとわかった。
気がつくと彼が目の前にいた。囁くような声が、頭に広がる。
「覚えてる? 昨日のこと」
「え」
「オレのほうが、挑発されたんだけど」
「えっ?!」
そういうと、眠たそうな目で距離が零になる。口にキスされて、そのまま押し倒されて、コーヒーの匂いがした。
いつもは触れるだけなのに、それよりは深くて長い時間の、コーヒーの湿った味がするキスだった。
わけがわからないまま、近付いてきた時と同じように冬悟さんが離れていく。なにも無かったように、カーテンを勢いよく開けて、こちらを向いた。
「さあ! 言った通りよく晴れただろう?!
朝飯食って、仕事して、帰ろう」
そして、両手を引かれて身体を起こす。顔が熱くて、冬悟さんの顔が見れない。
「ほら、お姫様」
顔を洗っておいで。そう言われてバスルームに行く。
顔を洗って、化粧をしていて気が付いた。
首元に、お母さんが入れてくれた着替えのTシャツを着たら見えるか見えないかの位置に、昨日までは覚えがない赤い斑点が出来ていたのに。
きっと、彼に聞いても教えてくれることはないだろう。私がしたという「挑発」への返事なのだから。
どうしてなんにも覚えていないのだ!! せっかくのチャンスだったのに!!
一応分からないようにファンデーションを塗ってバスルームを出た。顔が熱い。
「どうかした?」
「別に」
わざと聞くからタチが悪い。
「もう、ほんと意地悪!」
「どっちが」
そういう顔は、確かに不貞腐れていて、昨日の自分が一体なにをしたのか、恐ろしくて聞けないまま、ロビーに隣接した食堂へと移動するため部屋を出た。
なかなか顔を合わせられずに下を向いていたが、上から聞こえた声は更にトドメを刺す。
「次は無いからな」
そう言いながら、何度チャンスを逃してきたのか。結局なにも返事をせずにカードキーで扉を閉めた手を握って二人で歩き出した。きっと彼の顔も、不貞腐れながらも照れ臭そうにしていることがわかっていたから。
きっとこんなことを繰り返しながら、二人のペースで、進めばいいのだ。