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GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

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    しおり
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    死に懸想せよしゃりん、と華奢で何処か物憂げな音がアレクの鼓膜を擽る。

    依頼の為に降り立った町の大きな通りで一行は手分けをして備品の調達を行っていた。両手に抱えた消耗品の数を数えていたアレクは頤を持ち上げてその音の出所を探る。

    「あ、あそこ」

    隣でアレクと同じようにきょろきょろと辺りを見渡していたグランが指を差した先に、緩やかな坂を非常にゆっくりとした速度で縦断する行列があった。先頭で鈴を持ち行き先を先導する人物が一人、その後ろに人一人がぴったり納まるサイズの箱を肩に担いだ人間が六人。整然と列を成した人々が一歩踏み出す度に件の鈴の音が鳴る。そろそろ日も落ちようかという時間帯にその存在はアレク達の目に異質に映った。

    「……なんだぁ、ありゃ」

    グランのフードの中からその様子を見ていたビィも訝しげに声を潜める。それを聞き留めた買出しをした店の店主が一行に行列の正体を教えてくれた。

    「葬列だよ。あの坂の上にある家の住人が昨夜亡くなったのさ。家族や兄弟がああやって死者を運ぶんだ」
    「葬式か……」

    隣でそれを聞いたグランが消え入りそうな声で呟く。その視線は店主ではなく行列に担がれている棺に注がれており、アレクも釣られるようにその光景を眺めていた。

    しゃりん。

    「でもよぅ、なんだってあんな不気味な格好してんだ?」

    ビィは尻尾の先で行列の先頭を歩く人物を差す。先頭の人物のみならず、行列を形成する人々は全員黒衣を身に纏っていた。服の形は多少違えど、襟を詰めた上着から靴に至るまで全て黒一色で、顔は白い布面で覆われている。一言も喋らず、少し俯いたまま歩く姿はビィの言うように少々不気味だ。

    「そうか、外の人には不気味に見えちまうのも仕方ないか」

    店主が言うには、古くからこの町では死んだ人間の魂を食べる不可視の魔物が居ると考えられており、その魔物から故人の魂を守るために遺体の周囲を血の繋がった親類達で囲んで墓地まで運ぶのだという。血縁関係が濃ければ魂も似ているという考えから生きた人間の魂は食べることが出来ない魔物への目眩ましになるそうだ。墓地できちんと神の元へ魂を引き渡すまで遺族は一言も喋らず、白い面布を外すこともない。
    美しい音の鳴る鈴も、魔物除けの意味合いがあるのだそうだ。

    「へえ、そんなに深い理由があったんだなぁ」

    鈴の音の余韻を残して通りを去っていく葬列を見送りながらビィが呟く傍らで、グランは顔も知らない故人の為に少しの間黙祷を捧げていた。

    「……、」

    態々見も知らない人物に心を注ぐ姿に何か言いたい気もしたが、アレクは何も言わずに彼の短い祈りが終わるのを傍らで黙って待っていた。



    今回の依頼人は病を患った母親を看病しながら町唯一の薬屋として生計を立てている男性だ。少しやつれた男性はそれでも約束の時間通りに家を訪れた騎空団一行を歓迎し、店舗兼住居のリビングに通される。

    「薬の材料を取ってきて欲しいのです」

    依頼内容は母親の常用する薬の主要成分となる花の採集だった。場所は町の外れの森にある泉の畔、夜にしか咲かない花の花粉に病の症状を抑える効果があるらしい。

    「お安いご用だぜ!今からひとっ走り行って取ってきてやるよ!」

    簡単な依頼だとビィは意気込んでいたが、男性は静かに首を横に振った。

    「花は咲いている状態のものを採って来ていただかないと意味がないのです。あの森に魔物は出ませんが、恥ずかしながら腰を痛めてしまって」
    「魔物が出ない森か。珍しいな」

    出された茶を啜りながらアレクが何気なく口に出した呟きに、男性は一瞬不自然な間を作った。おや、と思ったのも束の間男性は何事も無かったかのように返答してくる。

    「魔物が棲みにくい地質なのでしょうかねえ。専門家ではないので詳しいことは分かりませんが、隣町へ行くための平原の方が魔物が出るくらいで」
    「ふぅん」

    アレクが僅かに感じた違和感は胸裏の隅に引っ掛かったが、隣に座るグランはそれに気付いていないようだった。それを見ていると円滑に進む依頼の話に割り込む程重要なことでもないような気がし始め、アレクは結局口を噤むことを選んだのだった。

    そしてその行動の選択を後に酷く後悔する羽目になると、この時点で気付く術はなかった。
    月が山々の隙間から顔を出し闇を支配し始める。

    光源確保の為のランプと愛用の剣を腰に提げ、グランはアレクを伴って宿を出た。アレクも護身用のナイフと自分の足元を照らすランプしか身につけていない。魔物の出ない区域で行う採集任務の為、必要最低限の装備でもし仮に魔物と遭遇した場合も戦闘は避け逃げに徹する腹積もりだ。

    依頼を受けた際グランに名指しで着いてくるよう指示をされ、アレクは大人しくそれに従い現在森の入り口で二人は並んで立っている。

    「あんまり遅くなっても皆心配するかな。行こうか」

    グランが頤を上げ夜の闇に吸い込まれて行く先を失っている小道を眺め呟いた。枝葉の茂った森の中は月明かりも遮られておりそれだけを頼りに進むのは随分と心許ない。手持ちのランプに火を入れ眼前に掲げると自分を中心に橙色の光が灯り小道を照らし出した。

    ランプの光は陰影を更に濃いものに変化させ、幼い子供であれば木々の皺が恐ろしい形相をした幽霊に見えるのかも知れない。アレクにそういった経験がない為、いまいちぴんとこない感覚ではあったが。

    グランが先導の為に一歩を踏み出し、数歩遅れてアレクが続く。森の入り口はすぐに遠ざかり、アレクが背中越しに振り返った先には既に点のように小さくなった平原が青白い月光を受けて静かに凪いでいた。

    砂利と小さな雑草の混ざった土道を踏む音と、ランプの接続部が軋む音だけが周囲を満たす。時折森を住処にしている動物達が蠢く気配も感じるが、侵入者二人を遠巻きに眺めてくるだけで害を成そうとはしてこなかった。

    二人分の人工的な灯りがゆらゆらと森を照らす。

    「静かだね」

    ぽつんとグランが呟いた言葉が沈黙に押し流されてアレクの鼓膜を上滑りしていき、反応が遅れた。

    「……あ?あぁ、そうだな」

    慌てて少し前を歩く背中に向かって返答すると、グランは僅かに体を此方に振り向かせアレクを手招きした。歩調を少し緩やかなものに変え、隣に並んだアレクに微笑みかける。

    「船での生活はもう慣れた?」
    「もう、さすがにな。最初の内は寝れなかったし、常に床揺れてるから気持ち悪くなったりしたけど、慣れたよ」

    宛がわれた個室のベッドの上で、ゆらゆらと揺れる世界に戸惑いを覚えていたのは少しの間だけだ。今は逆に、揺れないベッドに違和感を覚える程度には、騎空艇での生活に体が馴染んでいた。

    「そっか、アレクはすごいな。僕なんか慣れるのに大分掛かったんだ」

    眉尻を下げて頼りない表情で苦笑するグランの顔を横目で眺め、アレクは何故グランが採集任務の供に自分を選んだのか理由をうっすらと察して眉根を寄せた。

    「……団長、まさかそれを聞くためだけに俺を連れて来たのか?」

    年長者のより多い団員達の中で自分が彼より幼いからか、グランは時折こうして気を回す。それが迷惑という訳ではないが、年齢や生い立ちを理由に特別扱いされるのは余り良い気分ではなかった。

    「うーん、その気が全く無かった、って言えばそれは嘘になるけど。少しアレクと腹を割って話がしたくて」

    その時二人のすぐ側を何かが通り過ぎて行った。グランは咄嗟にアレクの進行を遮る形で彼の前に腕を出し、目線の位置にランプを掲げて音のした方角へ視線を走らせる。どうやらそれがただ小動物が走り去って行く際に立てた音だと判断すると、ゆっくりランプと腕を元の位置に戻した。

    「……アレク、死ぬってどういうことか分かる?」

    歩みを再開させたと同時に零された問いの内容と先程とは打って変わって硬く乾いた声音に思わず隣にある横顔を見上げた。視線は交わらず、グランは前方を見据えたまま問いに対する答えを待っている。

    アレクは少しの間口の中で投げ掛けられた問いを噛み砕きどう答えたものか逡巡した。自分の中でそれについての答えは既に出ている。だがグランがどういった解答を求めているのかが分からなかった。

    「どうって、死ぬまで生きて、死んだら終わり。それだけだろ。俺はどちらにせよ長くは生きられないんだろうから、せめて悔いのないように生きて死ぬさ」

    生来何一つ思い通りにならない人生を送ってきた。周囲の人間から比べれば半分の時間も生きていないのだろうが、宿命から逃れられないのだと諦めるには十分過ぎる時間と経験がアレクの中にはある。自分に辛く当たる世界を嘆くのも恨むのも、もう飽きてしまった。

    自分の命の灯が長くはないことは誰に言われるまでもなく分かっているのだから、せめてすぐそこにある死を見据えて生きようと思ったのだ。無様に逃げ回って怯えながら暮らすよりかは、その方が幾分マシに思えた。

    「どうせ、死ぬんだ」

    ただその言葉が強がりではないと言い切れる程、アレクは大人びてはいない。

    「……、そう」

    噛み締めるように呟いたアレクの言葉に、グランは何を思ったのか少し悲しそうな顔をして見せた。どうやら彼の望む答えを与えることは出来なかったらしい。

    別に『いい子』を演じたいわけではなかった。ただ、彼に失望されるのはアレクにとって少しだけ気に喰わない事態なのだ。だが今更吐いた言葉を取り消すことも出来ないし、仮に取り消すことが出来たとして上手い回答を思いつける訳でもなかった。

    逃げるように前方に視線を投げた先に、淡く青白い光を発する空間を見つけアレクは小さく声を漏らす。

    「あれか?」
    「そうかも。行ってみよう」

    誰に急かされる訳でもなく少しだけ足早に道を進むと、生い茂っていた木々が開けて小さな湖を擁した広場に出た。湖というよりも泉と表現した方が良いだろうか、静かに凪いだ水面に光が反射して夜間であるにも関わらず煌々と明るい。

    光の源は泉の周囲に群生する芥子に似た小さな花かららしかった。白い花弁が慎ましく開き、その中央の花粉が青く光って見える。

    「わぁ……」

    感嘆の溜め息を零したのはアレクだったかグランだったか。二人はその場に立ち尽くし、暫くの間眼前に広がる息をすることすら躊躇われる光景に圧倒されていた。

    息を飲み込み先に一歩を踏み出したグランは無意識にか足音を殺し、そろそろと泉の畔に近付く。花の傍らに膝を付き、ランプを置くと慎重な手付きで花弁に触れた。

    擽ったがるように身動ぎした花から淡く光を帯びた花粉が中空に散る。触れたグランの指先にもそれは付着して仄かに光を発していた。

    「きらきらして、綺麗だね」

    アレクも座り込んだグランの傍に近寄り、腰を屈めて花に顔を近付ける。花特有の香りは殆どせず泉に満ちた水の匂いが辺りに漂っていた。

    「アレク」
    「……なに?」

    静謐な空気に呑まれ心ここにあらずと言った様子で返事をしたアレクの顔をグランはしゃがんだ状態で覗き込み、さっきの話の続きだけど、と前置きをしてから口を開く。

    「お前は自分の死について随分と軽く考えているようだけど、アレクが僕の下に居る以上、その命はお前だけのものじゃないんだ。アレクが傷付けば僕は悲しいし、アレクが死んだら僕の心の一部も死ぬ。きっと人の死ってそういうことだよ。アレク」

    島から島へと空を渡り魔物やならず者、時には帝国軍すら相手取り戦った。日常に命を脅かされる事態というのはアレク達にとって最早珍しいことではない。そんな状況を幾度となく経たからこそ強い絆も生まれたのだ。
    その結び付きが強ければ強い程、仲間の死とはただその命が尽きる事以上の意味を持つ。

    「ずっと一人で闘って生きてきたお前の価値観を否定したい訳じゃない。ただ心の何処かに留めておいて欲しいんだ。もうお前は一人じゃないんだからさ」

    アレクの反論を察してか先回りされた言葉に、アレクは口を噤んだまま微かに顎を引く事で答えた。

    今はまだ、それを素直に受け入れられない。まだ自分の隣に誰かが居るという状況に慣れていないのだ。

    それでもグランはその返答に満足したのだろう。表情を綻ばせ、ごく自然な動作で頭を撫でる。普段ならすぐにでも腕を跳ね除けて文句を言っているところだが、アレクはうっかりタイミングを掴み損ねてただされるがままになってしまった。

    我に返った頃にはグランの視線と手はアレクから足下の花に移っていた。

    「依頼の花ってこれだよね?見付かって良かった、摘んで帰ろう」

    花を根元で手折り、花粉が零れないようそっと腰に付けた革袋の中に仕舞い込む。袋越しにも光が漏れているのが見え、グランは満足げに頷き立ち上がった。
    地面に直接置いていたランプを拾い、オイルの残量を確認する。アレクもそれに倣い自分のランプを覗き込んだ。

    「オイルの残りは平気?」
    「ああ、十分残ってるよ。戻って、もう一回ここに来ても足りる」
    「そうならないように、これは無くさないようにしないとね」

    腰の革袋を軽く叩きグランが笑うのに釣られて、アレクも口角を釣り上げて見せた。

    美しい泉を最後にもう一度見渡して、アレクは背を向ける。きっと今夜の記憶はずっと後にも忘がたい光景として胸の奥に残るだろう、グランから送られた言葉と共に。

    アレクが数歩も歩かない内に、背後から水音が聞こえた気がした。何分ささやかな音だった為、聞き間違いかオイルがランプの中で跳ねた音かもしれないとアレクは気に止めなかったが突然背中から突き飛ばされ前方につんのめる。

    「うわっ!何すんだよっ!危ねえだ、ろ」

    危うく取り落としそうになったランプを持ち直し、眉間に皺を寄せて背後を振り返った先にあった光景に語気を強くした言葉は不自然に途切れた。

    眼前にはこちらに背中を向ける形で立ち塞がったグランの姿がある。また水音が、今度は間近で聞こえた。
    アレク、と掠れた声が名前を呼ぶが、それに返事をする事が出来なかった。

    「けが、は、ない……?」

    ぽたりと粘性を帯びた赤い水滴がグランの腹部を貫いた茨の尖端から垂れて背の低い草地に落ちて丸い円を作る。呆然と立ち尽くしていると、グランは腰に提げた剣に手を掛け引き抜いた。刃で自分の腹を突き破る茨を切断し、ふらふらとその場でたたらを踏む。

    「グランッ!」

    漸く動くようになった足を急かしてふらつくグランに駆け寄るとくず折れる体を支えた。

    ちゃぷん。

    荒い呼吸音を間近で聞きながら、アレクは水音のした方へ顔を向ける。アレクの視線は幻想的な美しさを保つ泉へ吸い寄せられた。

    「なん、だあれ……」

    泉の水面がじわりと押し上げられ音もなく黒い塊が姿を現す。泉の底に蟠る闇そのものが這い出てきたように感じた。
    苔のまとわりついた黒一色の体表から赤い色の目がこちらを獲物として見据えている。二人が呆然と見つめる中、『それ』は泉の縁に節の目立つ脚を掛け巨躯を水面上へと引き摺り上げた。

    大股に岸辺に咲く花を跨ぎ越し、水底の泥と枯れた水草の臭いを纏わせながら近付いてくる。

    獣毛に似た毛皮に包まれているずんぐりとした胴体を長細い複数の歩脚で支える姿は蜘蛛に似ていた。触肢の代わりか茨に似た触腕が背からいくつも伸びており、グランの腹を貫いたものと同じ形状をしている。

    グランは持っていたランプを振りかぶると魔物の顔と思しき場所に向かって投げ付けた。がしゃんと派手な音を立て右目に直撃したランプからオイルが飛び散り間髪を容れず火が引火して魔物を燃やす。

    おぞましい悲鳴が上がった。

    「走って!」

    苦悶に暴れる魔物から視線を遮る形でグランが立ち塞がったことでアレクはやっと衝撃から我に返る。言われるがままグランに肩を貸し泉と魔物から背を向けて来た道を走った。少しでも早く魔物の咆哮と水の匂いから遠ざかる為に必死に足を動かす。

    走ることは疎か歩くのもやっとの状態のグランを庇いながら逃げるというのは想像以上に二人の体力を消耗させた。追手の有無の確認の為に振り返った先の地面にはグランの血が点々と道標のように残っている。すぐ傍の顔色を伺えば目に見えて血色を失った頬と虚ろに揺らぐ目がアレクの心細さを増長させた。

    「あ、アレク……まって、とまって」

    引き摺っていた爪先に小石が引っ掛かり崩れた体勢を持ち直す事が出来ず、とうとうグランが音を上げた。出来るだけ傷に障らないように座らせてやりたかったが疲れ切った幼い体にはそれも難しく、グランはどさりと地面に倒れ伏す。

    「だ、大丈夫……なわけないよな、どうしよう、治療道具なんて何も、」

    魔物と出会っても逃げやすいようにと軽装で来た事が完全に仇となってしまった。持ち合わせのものでは応急処置すら満足に出来ない。

    胸当てと篭手を外し痛みに喘ぎながらグランは俯せに蹲り、背中に貫通している茨に触れて顔を顰めた。

    「アレク……手伝っ、て」

    血で赤く染まった掌で呼び寄せられ恐る恐る近付いて傍らに膝をつく。何をすればいいのか分からず、軽率に触ってしまえば傷を悪化させてしまいそうで大きく上下する肩を擦ることも出来ずにいた。

    「なに、すればいい……?おれ、傷の手当てなんてしたことないよ」

    言葉尻が勝手に震え、それを誤魔化す余裕もない。
    顔を俯かせじっと目を瞑り堪えているグランが最後に大きく息を吐いて目を開けた時、ある種の決意の光が宿っていた。

    「これを、抜く」

    ひゅ、と今にも倒れそうな顔で息を吸い込んだのはアレクの方だった。想定出来る範囲内で最も荷が重いと感じる部類の頼みに、アレクは悲鳴に近い声を上げる。

    「む、無理だ、出来ないよ……!」
    「この蔦返しが付いてる。前からじゃ抜けないんだ……お願い、アレク。……僕を助けて」

    懇願され、アレクは意を決してグランの背後に回った。血でなのか汗でなのかは分からないが茨を握ろうとすると滑り、仕方なく袖を引っ張り上げ布越しに蔦をしっかりと握った。

    「……い、痛くても、恨むなよ」

    精一杯の虚勢にグランが薄く笑う気配がした。

    苦しみは短い方が良いに決まっている。出来るだけ傷口をこれ以上広げることなく的確に、一度で引き抜く必要があった。

    気を落ち着かせる為か深呼吸を繰り返し、グランが小さく頷いたのを合図にアレクは握り締めた茨を渾身の力を込めて引いた。

    ずる、という怖気立つ手応えと共に茨が内臓を引き摺りながら腹の中から這い出てくる。同時に傷口からどろりと固まり掛けの血液が流れ出した。

    「がっ、あああぁあっ!!」

    グランが今まで聞いたことのない獣じみた絶叫を喉の奥から搾り出し、ぶるぶると震える手を地面に突き立てのた打ち回るのを寸でのところで堪えている。

    アレクは泣き出したいのを必死に堪え、歯を食い縛り半分程まで姿を現した茨を一気に引き抜いた。血で真っ赤に染まった茨を忌々しげに見つめその場に投げ捨てる。

    「う、ぇ……っ」

    力なく地面に伏せたグランが口から多量の血を吐き、慌ててアレクは駆け寄り抱き起こし揺すぶった。

    「グラン、グラン!目ぇ開けろ!」

    喉の奥にまとわりつく血を何度も吐き出しながら、グランは土で汚れた手で自分の腰につけた道具袋を指差す。言われるがまま袋の中を覗き込むと、中には即効性のポーションが入った小瓶が収まっていた。

    戦闘用の予備を持ってきていたのだろう。この大怪我を前にしては焼け石に水程度の効果しか得られないが、今は何よりもありがたい。

    「飲めるか?吐くなよ、頼むから……」

    グランの顎を上に向けさせ、薄く開いた隙間から半透明の液体を零れないよう流し込む。咽て吐き出すのではないかと思っていたが、グランは大人しくそれを嚥下した。

    アレクは自分の服の裾を裂くと患部に巻き付け呼吸を邪魔しない程度に結ぶ。すぐにじわりとどす黒い赤色が破いた裾を染めていったが、ポーションのお陰か出血は収まってきているようでアレクは一先ず安堵の溜め息を吐いた。

    「……グラン、森の出口まであと少しだ。歩けるか?」

    酷な事を言っているのは百も承知だったが、このままじっとしていては助かるものも助からない。血の匂いに釣られて普段は寄り付かない魔物が来る可能性もある。なんとか小康状態にまでこぎつけた今多少無理をしてでも移動すべきだ。

    だがグランは立ち上がる気力すら残っていないのか反応は弱い。

    「……アレク、助けを呼んできて」

    なんとか手近な木の幹に背を預ける事に成功したグランから途切れ途切れにそう告げられ、アレクは咄嗟に拒絶した。

    「何言ってんだ!置いていけるわけないだろ!」
    「かかる時間の問題だよ、アレクが僕を背負って森を抜けるよりも一人で町に助けを呼んでくる方が速い」

    グランは一つ一つの動作を酷く億劫そうに行い、件の花が収まった革袋をアレクに差し出した。

    「……頼んだよ」

    声に力はなくともその目は確信を帯びた強い光を灯してアレクを見つめている。アレクが必ず目的を果たしてくれると寸分も疑わない目だ。

    不承不承差し出したアレクの掌の上に革袋が落とされる。たった花一輪の重さが、アレクには鉄の塊でも持たされた心地にさせた。

    ベルトに革袋を厳重に括り付け、アレクは冷たいグランの指先を両手で強く握り込む。

    「すぐ、すぐに戻る。……それまで絶対死ぬなよ、死んだら許さないからな」
    「ちゃんと待ってるよ。こう見えて結構図太いんだ」

    弱々しく握り返される手を離し、アレクはふらふらとグランの傍から数歩後ずさる。

    「アレク、ランプを持っていかないと」

    一つだけ残った光源をアレクに渡そうとするが緩く首を振って辞退する。

    「走るのに邪魔になる。それに俺にはこれがあるからな」

    普段は意識して抑え込んでいる力を解放する。途端に掌から溢れ出した熱と光にグランが目を細めた。

    「走って」

    その声に背中を押され、アレクは闇に呑まれた小道を走り出した。町まで息が続くかとか、一人きりの不安も何も考えず少しでも速く町へ辿り着く為に足を闇雲に動かす。

    ただ夜風に晒される目が潤み、アレクは勝手に溢れてこようとする水滴で視界が歪まないよう必死に堪えることしか出来なかった。

    無我夢中に走り続け、魔物とも遭遇することなく町に戻ってくることが出来た。酷使してがくがくと震える足を叱咤して団員達が宿泊している宿まで何とか辿り着くと部屋の扉を荒くノックする。程なくして訝しげな表情をしながら扉を開けたカタリナが血塗れの姿で廊下に立つアレクを認め大きく目を見開いた。

    カタリナが何かを問う前にアレクはグランの血に塗れた手で縋りつき叫ぶ。

    「ぐら、グランをっ、助けてくれ……っ!」
    緊急の報告を受けたカタリナの対処は迅速且つ適格だった。現在動ける団員から少数精鋭の救援部隊を編成し、アレクが床に直に座り込んだまま息を整え終える頃彼女はいつもの鎧を纏って出発の準備を終えていた。

    その傍らで今にも泣き出しそうな顔で事の成り行きを見守っているルリアにアレクは慢性的に熱を持っている足を引き摺って近付く。

    「ルリア」

    名前を呼ばれ、はっとアレクの方に不安に揺れる丸い瞳を向けた少女にアレクはベルトに挟んでいた革袋を差し出した。袋の中で激しく揺すられた花は多少花粉を散らしてはいたが頼まれた量には十分足りるだろう。

    「これ依頼されてた花だ。ルリアから依頼主に渡しといてくれ」
    「え?でも……」
    「今夜中に引き渡す約束だ。頼むよ」

    戸惑う少女の掌に半ば強引に革袋を押し付けた時、カタリナに名前を呼ばれた。

    「アレク、すまないが道案内を頼めるか。ここまで急いできてもらって疲れているだろうが、我々だけでは団長の正しい位置が分からない」
    「言われなくても、そうするつもりだよ。元は俺のせいでグランは怪我したんだ」

    グランが庇っていなければ、あの時茨に貫かれていたのはアレクだった。背後から急所を狙われていたのなら、きっと今頃生きてはいなかっただろう。

    魔物が出る筈がないと油断をした。気を張っていれば聞き逃すことのない魔物の出す水音にも気付かずその結果グランに怪我をさせた。

    罪悪感と自分に対する憤りが炎雷の如く燃え、恩人の元へ急ぐアレクの胸を焼く。

    森の中は最初に足を踏み入れた時よりも暗く感じた。掌から溢れる炎で月明かりの届かない場所を照らし、仲間を振り切ってしまわないよう小走りになって道なりに進んでいく。

    誰も無駄口を叩く者は居らず、アレクを含め全体を重苦しい空気が覆っている。何度か先走るアレクを戒める為にカタリナが小さな背中に向かって声を掛けたが余り効果はなかった。森の木々は彼らの頭上に枝を広げ、先を急ぐ一行を無表情に見下ろしている。


    道程と時間が進むに連れ、アレクの中に焦りの他に不安が芽生え始めた。

    グランを置き去りにした地点はまだ先だっただろうか、こんなに遠かっただろうか。人の気配もない、残してきたランプの光も見当たらない。まさか血の匂いに誘われた魔物が動けない彼を襲ったのか、手遅れだったのか、間に合わなかったのか。

    考えたくも無い最悪の光景が脳裏を過ぎり、頭を振り被って不吉な予感を振り払う。その時錆びた鉄の匂いがアレクの鼻先を掠め、思わず立ち止まり視界の利かない中忙しなく視線を彷徨わせ匂いの出所を探った。

    「グラン……?」

    静まり返った森の中では、アレクのそんな小さな囁きも木々の隙間を通って辺りに響く。

    「……アレク」

    そしてそれに応える弱々しい返答も、聞き落とす事無くアレクの耳に届いた。

    「グラン!?何処だ!」
    「ここだよ」

    少しはっきり聞こえるようになった声を辿って行くと、道から少し外れた大きな木の洞の中に彼の姿を見つけた。ランプの灯は極限まで落とされ、灯りを漏らさない為に外した胸当てで覆われている。

    すぐ近くを捜索していたカタリナ達を呼び寄せると、その場で応急処置が始まった。

    周囲の安全確保を仲間に任せ、グランを平らな草地に布を敷いた上に仰向けに寝かせる。血を吸って重くなった服を裂き、露になった患部を一目見てカタリナが柳眉を顰めた。

    「……酷いなこれは」

    ポーションの効果で出血は収まりつつあるものの、まだ完全に止まった訳ではない。内臓が傷付いてしまったのか断続的に血を吐いており、アレクの居ない間にどれ程の量の血を失ったのか顔色は死人と遜色ない。

    ヒールを掛け動かしても大丈夫な状態にまで容態を回復させ、ぐったりとして自力では動けない彼をラカムが背負う。漸く塞がりかけている傷が開いてしまわないよう慎重に帰路に着いた。

    町へ戻るとルリアから報せを受けたらしい依頼主の薬剤師と町唯一の医者が宿屋の前で待ち受けていた。特に依頼主の男の顔色は悪く、酷く狼狽しており指先が忙しなく震えている。

    自分がした依頼が元で怪我人が出ればそれも仕方のないことだろうと団員達は気に留めなかったが、アレクはその反応が過剰過ぎる気がしてどうしても頭の隅に引っ掛かっていた。

    だが今はそれを問い詰めている状況ではない。急遽宿屋の部屋で医師の診察が始まり、医療の心得の無いアレク達は部屋の外で待つことになった。

    「……」

    処置が行われている部屋の扉を睨みつけたまま落ち着き無く手を組んだ拍子にかさついた感触に気付く。己の手を見下ろして漸く血や土で汚れていることを思い出した。手だけではない、服もそして恐らく顔にも彼の血がこびり付いている。固まって瘡蓋のようになった血を強く擦って落とそうとしていると、隣から濡れた手拭いが差し出された。

    手拭いからそれを支える腕を辿って顔を上げるとそこにはオイゲンが立っており、アレクが何も反応せずに居ると痺れを切らしたのか手拭いを押し付け隣の壁に背を預けて息を吐く。

    眼帯の男に自分を責める気配がない事を察するとアレクはのろのろと自分の手と手拭いを見比べて、指を一本ずつ丁寧に拭った。

    見るからに消沈しているアレクを見兼ねてかオイゲンがその肩に手を置いて二度軽く叩く。

    「心配すんな、あいつなら大丈夫だ」
    「……分かってるよ」

    それでもほんの少しだけ表情を和らげさせ、アレクは廊下の壁に背を預け瞼を下ろした。目を閉じると意識していなかった疲労が酷使した足元から這い上がって頭を押さえつけてくる。思わず頭を振ってまとわりついてくるそれを振り払うと、カタリナがそれを目に留めて部屋で休んだらどうかと提案してきた。

    気遣いは嬉しかったがアレクは重たい首を横に振りやんわりと申し出を断る。グランの容体がはっきりするまではとても眠れる心境ではなかったし、今一人になるのも余計なことを色々と考えてしまいそうで恐ろしい気がした。
    カタリナもそれが分からない訳ではないらしく、そうか、だが無理はするなと釘を刺してから引き下がる。

    程なくして医師が扉の向こうから姿を現した。真っ先に反応したのはアレクで、隣で腕を組んだ状態で舟を漕いでいたラカムがびくりと肩を震わせて目を覚ます。

    「グランは……っ?」

    医師の出てきた扉の隙間から部屋の中を覗き込むが、ベッドの上に横たわっている彼は微動だにしない。ここからではきちんと呼吸をしているのかも分からなかった。

    「大丈夫、命に別状はない」

    医師が扉ごと脇に避け、アレク達を中へ招き入れた。転がるようにしてベッドの傍まで駆け寄ったアレクはそっと静かに寝息を立てているグランの顔を覗き込む。
    顔色は相変わらず白いままだったが、安定した呼吸を繰り返して眠っている姿に思わず全身から力が抜けその場にへたり込んだ。

    「アレク、」

    崩れ落ちたアレクの隣に涙を目の縁一杯に溜めたルリアが膝を付く。心底ほっとしているのだろう、アレクの背に添えられた繊手が微かに震えていた。

    「アレクとグランが持ってきたお花は、ちゃんと依頼主さんに渡しました」
    「そっか。ありがとな」

    アレクから告げられた礼にルリアは慌てて首を振った。

    「そんな、頑張ったのはアレクです!これで依頼主さんのお母さんの容態も、……」

    気丈に振舞おうとしていたのだろう。だがそこまで言って堪えきれず、大きな涙の粒が音もなく零れ頬を伝って落ちて行く。ごめんなさい、と震える声の呟きを、アレクは僅かに首を振る事で応えた。



    応急処置と発見が迅速だった為、致命的な失血に至る前に治療をすることが出来たのだと医師は語る。
    後ほんの少し貫かれる場所がずれていたら、この結果は得られなかったと聞きアレクの背に冷たいものが走る。ベッドの上に力なく投げ出された手に温もりが宿っていることがこの上ない奇跡なのだ。

    一晩様子を見て、翌日彼が問題なく目覚めれば失った分の血液を補う為の薬を投与すると告げ、医師は部屋を出て行った。

    事の成り行きを見守っていた団員達も一人また一人と眠気に抗えず各自与えられた部屋に戻っていき、グランの眠る部屋に残ったのはグランと殊更付き合いの長い面子だけだった。

    「アレク、ルリア。貴方達ももう休みなさい」

    グランの傍から離れようとしないアレクとルリアの頭を薔薇の花の香るたおやかな腕が撫でる。振り返ると慈しみの笑みを浮かべたロゼッタが静かに表情を深めた。

    「彼が目を覚ました時に二人の顔色が悪かったら、きっとびっくりしてしまうわ」

    ルリアが何かを言いたげに口を開いたがカタリナに優しく促されると逆らわずに大人しく立ち上がる。部屋から出ていく時も最後までグランの方を気遣わしげに見つめていた。

    「さ、アレクも。今日は疲れたでしょう」

    その言葉に逆らう気力も残っておらず、アレクは力なく頷き立ち上がる。

    眠れる筈もないと思っていたが、いざベッドに横になり目を閉じるとあっという間に睡魔が意識の中に滑り込んできてアレクを夢の中に投げ出した。


    夢の中でもアレクは森の中を走っており墨の流し込まれた迷路のような森でたった一人、出口も分からずただ恐ろしい衝動のままに足を動かし続ける。

    孤独と不安から逃れる為に目を覚ました時、窓の外からは既に昇りきった太陽の光が差し込んでいた。全く眠れた気がせず、逆に疲労した錯覚すら感じる。

    身支度もそこそこにグランの眠っている部屋の前に駆けつけると、中からは既に人の気配がしていた。ノックするべきか迷い、そっと音を立てないように扉を薄く開いて隙間から中を覗き込む。

    扉が開いた微かな物音に気付いたのか、ベッド脇の椅子に腰かけていたロゼッタがこちらを振り返ると、赤い唇の前に人差し指を立てて見せた。

    「みんな寝てるから、静かにいらっしゃい」

    隙間を押し広げて中に足を踏み入れ、長椅子や机に突っ伏した状態で寝息を立てている団員達を起こしてしまわないよう摺り足でベッドに近づく。

    「早起きね。疲れは取れた?」

    静寂を壊さない穏やかな声での問い掛けにアレクは曖昧に首を振った。それについて深追いする気はないらしく、ロゼッタは視線を規則的な呼吸を繰り返しているグランに移す。

    「呼吸も脈も安定してるわ。いつ目覚めてもおかしくない筈なんだけど……」

    その言葉に反応したわけではないのだろうが、固く閉ざされたままだったグランの瞼の裏側がひくりと動いた。思わず身を乗り出して様子を伺っていると、意識が浅い場所にまできているのだろう。眼球がうろうろと動いている様子が分かる。

    「……グラン、聞こえるか?」

    恐る恐る声を掛け、傷には障らない場所に触れると寝起きの自分よりも体温が高い。アレクが触れたことでより意識が覚醒に近付いたのか、瞼が細かく震えて薄く押し上げられた。

    「グラン……!」
    「……、」

    喜色の隠しきれない声に、グランの唇が応えようと戦慄く。だが喉から音は出ず、覚醒し切らない表情のまま、半分程開いた瞼の隙間を現状を把握する為に黒目が移ろう。

    「あらお目覚めかしら?貴方大怪我したのよ。覚えてる?」

    軽い言葉を選ぶロゼッタの声にも安堵が滲んでいた。

    瞬きをたっぷりと時間を掛けて三度繰り返した時、漸くグランの瞳に力が籠り、同時に勢いよく跳ね起きた。

    「いっ……!?」

    掛布を跳ね除け半身を起こしたところで腹部の強烈な痛みに引き戻されまたベッドの上に体を投げ出した。患部を押さえ身悶えるグランに溜息混じりの声が追い打ちを掛ける。

    「だから言ったじゃない、大怪我したって」
    「……今思い出したよ」

    まだ意識が朦朧としているのだろう。起き抜けに激痛に襲われたグランは暫く呻いていたが、再度起き上がろうと身を捩り始めた為、アレクとロゼッタがそれを介助してベッドの上に半身を起こした。

    「具合はどう?」
    「すごく痛い」
    「痛いのは生きている証拠よ。何よりだわ」

    ロゼッタの言葉に苦笑いを零すグランにどう声を掛けたらいいのか分からず、アレクはその横顔を凝視して固まっていた。

    頭では謝るべきだと分かっているのに、言葉が出てこない。謝罪程度でチャラになる程軽いものではないのだと、事の重大さをアレクは正しく理解していた。

    一歩間違えれば彼は自分を庇ったばかりに死んでいて、団員達は大きな指標を喪うことになっただろう。
    些細な油断の対価とするには余りに大きすぎる喪失。アレクの命を使っても補いきれない程の。

    最悪の未来を奇跡的に回避出来た今だからこそ、アレクの背筋は凍る思いをしていた。

    自分は死というものについて何も分かっていなかったのだ。

    分かった気になっていた。死とは常に自分にとって身近なものだと驕っていた。
    死とは平等なものだ。誰の背後にも寄り添い、その瞬間を待っている。

    「アレク?」

    名前を呼ばれ思わず肩が揺れた。恐る恐る顔を上げると心配の色を帯びた目と視線がかち合う。

    「大丈夫?顔色が悪いけど、」

    顔色が悪いのは自分だろうとか、言うに事欠いて自分に怪我をさせた張本人の心配をするのかとか、言いたいこと言うべきことは山ほどあった筈だが声が出ない。

    「あ、の」

    無理矢理口を開いたが舌が乾いていて縺れる。気ばかりが急いて言いたいことを頭の中で上手くまとめられずに居た。

    「医者を呼んでくるわ。依頼も終わったことだし、きちんと看てもらってゆっくり養生しましょ」

    押し黙ってしまったアレクに気を利かせてか、ロゼッタが静かに席を立つ。二人きりは流石に気まずいと視線だけでロゼッタに縋るが、彼女はぱちりと片目を瞑り優雅に身を翻した。

    室内には複数人の寝息だけが満ち、アレクは首元を抑え込まれたような息苦しさを感じた。

    「……みず、」
    「えっ」
    「喉が渇いちゃって。取ってくれる?」

    遠慮がちに指差された先には脇机の上に置かれた水差しと杯があり、ぎこちない手つきでガラス製の杯に水を灌いで差し出す。

    「ありがとう」

    少し覚束ない動作で杯を受け取りゆっくりと時間をかけて水を飲む傍らで、アレクはただ俯いていた。

    杯を傾けて底に残った最後の水を飲み干したグランは間合いを測るように短く息を吐く。指で一点を押されている時に似た感覚で、自分の旋毛辺りに視線が来ているのが嫌でも分かった。アレクは一度ぎゅっと強く目を瞑って自分の中の勇気をかき集める。魔物と対峙する時よりも沢山集める必要があった。

    きっと彼は簡単にアレクを許すだろう。そもそも、アレクのせいではないのだと諭そうとする姿が容易に想像出来た。空みたいに底抜けなお人好しだ、誰かのせいにする位なら全部自分で背負おうとするのだ。

    許されてしまえばアレクにはもう自分の中の罪の意識を懺悔することすら許されなくなってしまう。
    意を決してアレクが視線を上げるのと、グランが遠慮がちに話し掛けるのはほぼ同時だった。

    「アレ、く」

    淀みのないグランの声で呼ばれる名前が濁る。同時にぽたぽたと冷たい水音がグランの掌を濡らした。

    「……え、」

    呆然と斑に赤く染まった自分の掌を見つめる。それが自分の口から溢れたものだという理解が追い付かないらしく、グランは小さく首を傾げた。

    その直後激しく咳き込み、一度目よりも多量の血が零れて掌のみならず服やシーツを赤黒く染める。

    「グランッ!?」

    力を喪ったグランの手から滑り落ちた杯が床に落ちて派手な音を立てて割れる。嘔吐と咳を繰り返した果てに、ぷつりと糸が切れたようにベッドへ倒れ込んだ。

    杯の割れた音とアレクの悲鳴を聞き付けて飛び起きた団員達が声を掛けるが反応はない。

    「何があった!」
    「わ、分からない。いきなり血を吐いた」
    「医者は?」
    「ロゼッタが今呼びに行ってる」

    苦し紛れにカタリナがヒールを掛けるが、芳しい効果は表れなかった。原因が分からず血と体力を失っていく様子を前に途方に暮れているところにロゼッタが医師を伴って戻ってきた。

    「ロゼッタ!」

    部屋の様子を一見しただけで事態を把握したらしいロゼッタは後から部屋に入ってきた医師を急かす。
    皆が医師の診察の様子を固唾を飲んで見守っている背後で、ロゼッタが一際険しい顔をしていた。

    「なあ、ロゼッタ。あいつ大丈夫だよな?ちゃんと治るよな……」

    最早祈りに似た呟きだったが、ロゼッタは険しい表情を僅かに緩ませてアレクの頭を撫でる。

    「ええ、大丈夫よ。あの子はこんな所で死ぬ器じゃないもの。死なせたりしないわ」

    確信の響きを持った声はアレクを幾らか安堵させたが、不安は消えない。唇を噛むアレクに微笑みを残し、ロゼッタは他の誰にも気付かれないよう部屋を出て行った。

    アレクは彼女との付き合いが然程長い訳でもないが、抽象的な言葉に不思議な頼もしさがある女性である。彼女がそうだと言うのなら不安も少しは軽くなる気がした。


    そのまま部屋に居ると不安に押し潰されそうで、アレクはロゼッタの後を追う形で部屋を抜け出した。早朝故に廊下に人影はなく、窓から見える表通りにも人はまばらだった。
    現実逃避気味に道行く人の数を数えていると、朝市を開く為の準備で忙しそうに歩き回る商人達の間隙を縫い歩くロゼッタの後姿を見つける。迷いのない足取りは何処へ向かうか決まっているようだった。

    グランを「死なせない」と彼女は言い切った。つまりその方法を知っている、或いは見当がついているということだろう。

    一体何処へ行き、何をするつもりなのか。

    町のより中心部へと向かう彼女の後姿を、アレクは咄嗟に宿から飛び出し追い掛けていた。
    彼女の歩調は思ったより速く、アレクはその背中を見失わないようにするので精一杯だった。何処へ行くのかと話し掛けることも叶わず必然的に黙って尾行する形になってしまい、あっちが速過ぎるんだと誰にともなく言い訳をする。

    とうとうアレクが息を切らし始めた頃漸く彼女の歩みが止まった。ほっとしたのも束の間、彼女が何の躊躇いもなく一軒の家屋へ入って行ってしまいアレクは静かに瞠目する。

    その建物には見覚えがあった。昨日今日の出来事を忘れる者の方が稀有であろう。
    そこは騎空団に依頼を持ち掛けた薬剤師の家だった。

    彼女が何故単身でこの場所に足を運んだのか、アレクには分からなかったが嫌な予感が胸を満たす。頭の何処かでは分かっているのに、理性がそれを理解したがらないのだ。
    暫く引き返すべきかを迷ったが結局アレクの足はロゼッタの後を追った。

    住居と店舗を兼ねた家からは乾いた薬草の匂いが漂っている。まだ準備中であろう室内をそっと覗き込むと、ロゼッタが思ったよりも近くに居て思わず身を隠した。

    別に疾しいことがある訳ではない。黙って後を着いて来たことに関しては多少気まずくはあるが半ば不可抗力だ。アレクがこそこそと身を隠す必要性はなかったが、鋭利な響きを帯びたロゼッタの語る内容にその場から一歩も動けなくなった。

    「――貴方、あそこにあの魔物が出ると分かっていてわざと言わなかったわね」

    足の甲を太い針で貫かれ、地面に磔にされたようにアレクはその場に立ち尽くす。ロゼッタの言葉を噛み砕くのにはもっと時間が必要だったがロゼッタと依頼主の男の会話はそんな事情等知る由もなく進んでいく。

    「な、なんのことですか」

    男の声音は動揺を隠せていないが白を切るつもりらしく突き付けられた事柄について認めようとしなかった。姿の見えないロゼッタの声は団内で聞いたことの無い位に冷たく、感情の片鱗すら伺えない。

    「別に貴方が認めようが認めまいが、そんなことどうでもいいわ。問題はそこではないのよ。私は、」
    「待てよ」

    気付けばアレクは二人の前に姿を晒し、地を這うような低い声で話の流れを止めていた。ロゼッタはどうでもいいと一蹴したが、アレクにとっては聞き捨てならないことだったのだ。
    ロゼッタが彼の名前を呼ぶが殆ど聞こえていなかった。

    「どういうことだ、おっさんはあそこに魔物が出ることを隠してたのか?何のために?それで、そのせいでグランは死に掛けたんだぞ!」

    現に今だって生死の境に彼は身を置いている。あの泉に魔物が棲んでいると分かっていたなら回避出来たかもしれない未来だったのに、男はそれをしなかった。男にどのような事情があれど、それはグランの命よりも重いものの筈はない。あってはならないのだ。

    怒りが雷と炎に姿を変えて体中を恐ろしい速度で巡る。幼い器から溢れた感情がびりびりと空気を裂いて音を立てた。

    「ひ、ひぃっ」

    男は悲鳴を上げて壁に背を付け、今にも飛び掛かりそうな様相をしているアレクから距離を取った。
    ロゼッタはもう一度アレクの名を呼んだものの、彼の暴走を止めようという明確な言動は起こさず男を見つめている。

    「ま、まさか本当に出るなんて思わなかったんですっ。死んだ父がずっと昔に一度見たきりで、私も見たことがなくて、居ないものだとばかり……」

    危機に瀕した男は漸く重たい口を開き二人に意図的に伏せられていた事情を明かした。


    「あの泉は、正確に言えばあの泉の畔に咲く花は代々私の家系が管理していました」

    あらゆる病や怪我に効果のある万能の薬の元になる花だ。管理し守る者が居なければあっという間に絶えてしまう。澄んだ水を湛えた泉の傍にしか咲かない花の貴重性を悟った男の祖先は自分の系譜外の人間が花を取り尽してしまわないよう泉の在り処を隠蔽した。

    件の魔物がいつからあの泉に棲みついていたのかは男も知らない。少なくとも、父から語り継がれた曽祖父の代に数度接触があったようだが形ある資料は何も残っていなかった。

    代が父から男へと変わり、男はその内泉の魔物等実在しないのではないかと思い始めるようになったという。夜の泉に足を取られることのないようにとある種の訓話として架空の存在が親から子へ伝わったのではと、生まれてこの方一度も姿を見ていない魔物が実しやかに言い伝えられる理由としてそう考えれば納得がいく気がした。

    「なので、今回の件を依頼するに当たっても、貴方がたの耳に入れる程のことでもないと思ってしまって」

    男が嘘を吐いている素振りはない。今語った内容がすべて真実なのだろう。

    「……そう」
    「ゆ、許してください。どうか命だけは」
    「言ったでしょう、私は貴方の言葉の真偽を確かめにきたわけじゃないの。交渉しにきたのよ」
    「交渉……?」

    ロゼッタはアレクの方を振り返ると視線で炎雷を収めるよう促してきた。まだ男に対する憤りは消え去ったわけではないが、渋々アレクはそれに従い感情と共に放出される力を飲み込む。

    「あの泉を代々守ってきた薬剤師の貴方なら分かるでしょう。あの子を救う解毒薬を作って頂戴」
    「毒……」

    形はなく、だが悪意を持って人を内側から壊すもの。先程のグランの様子を思い出しアレクの背筋に冷たいものが走る。

    男ははっと顔を上げたが直後に言葉に詰まり小さく首を振った。

    「……作れません」
    「毒を持った魔物が棲むと分かっていて長年あの泉に出入りしていたのなら、毒への対処法が用意されている筈よ。いいえ、ないとは言わせないわ」
    「あります、あるんですが……」

    男は青い顔色のまま恐る恐るアレクとロゼッタを見比べて告げた。

    「泉の花がないと作れないんです」



    夜にしか咲かない花を昼間手に入れる手段はない。一行はじりじりと夜を待ち、日没と同時に宿屋を出た。例の魔物がどのような条件で襲ってくるのか判然としない以上、戦闘を前提とした面子と装備が団長代行のカタリナの指示の元選出された。アレクも嘆願し一行に加わっている。

    「……それで、一体どんな姿をしているんだ。泉の主とやらは」

    この短期間で実に三度目の来訪となる夜の森へ侵入を果たした時、辺りを注意深く見渡しながらカタリナが問いかけてきた。

    グランが動けない今、魔物と対峙した経験を持つのはアレクだけということになる。その存在が確実となっただけで現状こちらの魔物に対する情報は皆無だ。
    少しでも実のある情報をとアレクは記憶を振り絞る。

    「外見は、でっかい蜘蛛みたいな感じだった。ドラフの男よりもう一回りでかくて、足が六……八本?ある。あと、背中から茨みたいなものが生えてて、それにグランが刺された」
    「では、その茨に毒が含まれているということか」
    「かもしれない。俺も良く見たわけじゃないから、確かなことは言えないけど」
    「いや十分だ。ありがとう」

    暫くすると昨晩グランを置き去りにした地点を通過した。流石に血の匂いは失せていたがそこかしこにどす黒い斑点が残っており、記憶に新しい惨状を生々しく思い出させる。

    そこから更に歩を進めると、視界が開け水と光を湛えた泉が一行の前に姿を現した。
    息を飲む美しさも損なわれておらず、あのおぞましい姿をした魔物が潜んでいると俄かには信じがたい。

    「これ程美しい場所だったとは」

    夜空を映す鏡面の泉と、青白い光を放つ花の広がる光景に圧倒され言葉を失う一行をアレクの厳しい声が現実に引き戻した。

    「さっさと持って帰ろう。ぐずぐずしてたらまた襲われるかもしれない」

    この美しさが今のアレクにとっては恐ろしい。まるで泉全体が意思を持ち近付く人々を惑わせて魔物の腹の中へ誘い込もうとしているように感じられた。

    注意深く泉の縁に歩み寄り小さな花を一本手折る。地面から引き離される瞬間、音のない声のように花粉が僅かに散った。
    革袋へと花を収め、未だにぼんやりと泉を見渡しているカタリナに声を掛け引き返そうと促す。

    ちゃぷん。

    仲間達と連れ立って泉に背を向けた瞬間、アレクの耳に僅かな水音が届いた。他の誰も気付かずに居ようと、今度こそは聞き逃さない。

    「カタリナ!」

    振り向き様腰に携えたナイフを抜き、視界の端を掠めた黒い物体を躊躇いなく切り伏せた。

    「なっ……!」

    数拍遅れて振り返ったカタリナの足元に黒い茨に似た触腕がぼとりと落ちる。切り落とされた茨は暫く痙攣していたが、やがて動かなくなった。

    「泉の中から来るぞ!」

    周囲の光景を映している水面の下に目を凝らすと何かが蠢く姿が見える。一行が警戒度合を上げ各々の武器に手を掛けた時、泉の静けさを裂くように「それ」が這い出て来た。

    多足を持つ虫が特に苦手なカタリナがアレクの隣で引き攣った声を上げる。

    胴体から水を滴らせながら近付いてくる魔物と間合いを測り戦いやすい距離に展開する。背中と思しき部分から伸びる触腕を揺らめかせ、魔物は唯一目に見えて怯んだカタリナを最初の標的に決めたらしく水辺の柔らかな土を踏み荒し、巨体にそぐわない俊敏さで肉薄した。

    「こ、このっ!」

    鳥肌を立てながらではあるがカタリナは魔物の攻撃を冷静に迎え撃つ。触腕も彼女を捉えることは叶わず空しく地面に突き立った。
    仲間も次々とカタリナに助勢を始め、混戦する渦中から少し離れた場所でアレクは呼吸を整え意識を集中させる。

    直視に堪えない醜い姿を見ているとふつふつと遠のきかけていた怒りが腹の底から溢れてきた。

    「お前の、」

    怒りを炎に変え、皮膚がびりびりと痛みを感じる程体中に力を行き渡らせる。溢れ出す炎は足元の草地を焦がし、体に纏う電流に周囲の木々が慄きざわめいた。

    「お前のせいで」

    体内を巡る沸騰する湯にも似た感情が頂点に達した時、アレクは引き金を引かれた銃弾のように駆け出した。復讐に燃える拳を振り被り、目の前の獲物に夢中になっている魔物を殴打する。

    自身を顧みない力の暴走に体が悲鳴を上げたが聞こえない振りをした。苦悶に蠢く魔物の頭部に乗り上げ、感情のままに稲妻を纏った拳を振り下ろした。
    致命的な音と共に魔物の巨体が硬直し、ゆっくりと横倒しに傾いていく。完全に倒れきる前にアレクは魔物の上から飛び退き草地の上に着地した。

    ずんと重たい地響きと共に魔物が倒れて動かなくなる。辺りには獣の肉の焦げた嫌な匂いが立ち込め始め、アレクは僅かに目を細め袖口で鼻を覆った。

    暫く誰も喋らず、誰も動かず、戦闘の痕跡の色濃く残る泉は静寂を取り戻した。だがそこに美しさは見る影もない。花は踏み潰され、泉の畔には魔物の死骸が転がっている。


    剣を腰の鞘へ収めたカタリナは幼い背中に用心深く声を掛けた。

    「……アレク」

    返事はないが僅かに顔がカタリナの方を向く。

    「戻ろう。グランが待っている」

    日没と同時に出発した筈だが、気付けばすっかり夜は更け月も真上から一行を見下ろしている。
    アレクが花を回収した時点でここに来た目的は果たしたのだ。これ以上ここに留まる意味もないだろう。

    「……分かった」

    大きな溜め息一つ分の空白の後、アレクは今更痛み出した四肢を無理矢理動かし踵を返した。


    来た道を引き返す仲間の背中を追って自身も森へ入ろうとした時、背後で何度目かも忘れた水音が聞こえた。


    背筋に緊張が走り臨戦態勢のまま振り返る。黒焦げにしたあの魔物がまだ生きていたのか、こんな事ならば首を切り落とせば良かったと考えが過ぎるが振り返った先にあったのは想像とは違う光景だった。

    「ぁ、」

    アレクと同様に水音に気付いたのであろう背後の仲間の内の誰かが短く吐息を漏らす。

    泉の縁で未だ煙を上げている巨体がずるずると這いずっていた。しかしその節足に力は入っておらず、歪な楕円の胴体に泉の中から伸びる黒い茨が巻き付いておりそれに引き寄せられている。無言のまま一行の中に緊張が走った。まだ泉の中に同様の魔物が居たのだ。

    しかし新たな魔物はアレク達に構う事はなく、死骸を泉の中に引き摺り込んだきりいくら待とうが再び顔を出すことは無かった。


    「……今のは、」

    剣の柄から手を離し溜め息を吐くカタリナの呟きに傍らのイオが少し青褪めた顔のまま答える。

    「まさか、さっきの奴の親……?泉と同じくらいの大きさだったように見えたけど」

    水面下からうっすらと覗いていた黒い影は泉全体に及んでおり、先程の魔物が小さく感じる程だ。

    「……どうやらこっちに興味はねえようだな。助かったぜ」

    ラカムが服の首元を引っ張り滲んだ冷や汗を逃がす。一行は泉の主の気が変わらない内にそそくさと森を後にした。
    アレクが持ち帰った花の花粉を使い、薬剤師の男は宿屋に持ち込んだ道具を使いその家系の者にしか受け継がれない薬を調合した。完成した液体状の薬は透明に近い色をしており、見た目は水と殆ど変らない。

    「これを飲ませればいいんだな?」
    「ええ、その筈です。ただ飲み込む体力が残っているかどうか……」

    花を採りに行った少しの間に、グランは酷く憔悴していた。意識は戻らず、体は異常に発熱し断続的に血を吐いている。傍らで彼が吐いた血と額に滲む汗を拭う役目を自ら負ったルリアも酷い顔をしており見ていて只管に痛々しかった。枕元にはビィが寄り添い意識のないグランを呼び戻そうと話し掛け続けている。

    「その薬寄越せ」

    男の返答を聞く前にアレクは男の手から薬の入った小瓶を引ったくりグランの横たわるベッドへ近付いた。靴のまま膝立ちでベッドへ乗り上げグランの胴を跨ぐ。誰かが制止の声を上げたが無視してアレクは小瓶の中身を自分で呷った。
    薬が舌に触れた途端味覚を鋭く刺激する苦味が襲ったが、それに対する反応は僅かに眉を顰める程度に抑えておく。薬は飲み込まず、グランの頬を両手で挟み指で下顎を押さえて口を抉じ開けた。

    「(悪く思うなよ)」

    胸中でグランに短く謝罪し、僅かに開いたそこに自分の唇を隙間なく重ねた。

    吐き出したり気管に流れ込まないよう慎重に口の中の液体を明け渡す。意識はなくとも苦味は感じるのか、無理矢理与えられる苦さから逃れようと喉の奥で呻いてもがいた。
    グランの抵抗を黙殺し、ゆっくりと時間をかけて口の中を空にしたアレクは顔を上げて大きく息を吐いた。

    「……どうだ?」

    アレクが退くとルリアがはっとしてグランの額に手を当て、微かに息を飲む。

    「ね、熱が引いてきてますっ」

    歓喜の声に室内に居合わせた全員が安堵の表情を見せた。


    緊張の糸が緩んだ空気を感じ取り、何とか上手くいったのだと実感した途端、アレクの体に麻痺していた疲労感がどっと押し寄せる。ベッドから降り傍の椅子にどっかりと腰を下ろし、長い長い旅路に疲れ果てた老人のように項垂れる。

    「よく頑張ったわね」

    今にも意識を彼方へ投げ遣ろうとしていたところに優しい声が鼓膜を擽り、アレクはうっそりと顔を持ち上げた。
    見上げるとロゼッタが傍らに立っており、規則的な呼吸を取り戻したグランを眺めている。

    「あなたのお陰であの子は死なずに済んだわ。私からもお礼を言わせて頂戴」

    アレクは椅子の背もたれに体を沈めながらくっと喉の奥で笑って見せた。

    「ああ、死にかけたのも俺のせいだけどな」

    自嘲するアレクの横顔をちらりと見たロゼッタはベッドの縁に腰を下ろしアレクと同じ位の位置に目線を下ろしてきた。

    「そうかもしれないわね。でも私はそっちはどうでもいいのよ」

    どうでもいいと一蹴され、どうやら慰めるために言っているわけではないらしいことを察したアレクは片眉を持ち上げてロゼッタを見返す。

    「大切な仲間が怪我をして、その怪我の快復のために奔走してくれた人に礼を言うのは当然のことでしょう。違う?」

    少し躊躇ってアレクは首を振った。アレクとてその当事者でなければ礼を言う側だっただろう。

    「その怪我に責任を感じているのなら、すべきことはこの場で愚痴ることじゃなくて本人に謝ることじゃないかしら?」

    反論出来ずに口角を歪ませるとロゼッタは声を出して笑った。深紅の唇が艶やかに弧を描く。

    「誰もあなたのせいだなんて思っていないわ。唯一居るとしたら、それはあなた自身よ」


    夜は静かに更けていった。


    念のため夜が明けたら医師の診察を仰ぎ、騎空艇内での養生が可能かどうかを全体で判断する。まだ予断を許さない状態であれば暫くはこの町を拠点に団長不在の状態で差し障りのない小さな依頼を受けることになるだろう。

    今後の騎空団の動向は一先ずグランの回復力に委ねられた。

    ベッドの縁に頬杖をつき、昼間よりは人間味を取り戻しつつあるグランの顔をアレクは飽きもせず眺めていた。

    体は疲れ果てていたがどうにも深く寝入ることが出来ず、何を考えるでもなくぼんやりと時間が経つのを待っている。
    昨日今日と夜が酷く長く感じる二日間だった。もう二度と夜明けはこないのではないかと思う瞬間も幾度となくあったが、そんなことがある訳がない。どう足掻こうが夜は明けるし、怪我を負えば人は呆気なく死ぬ。

    非常に単純で分かり易く、しかし多くの人々が意識しないまま生活している。自分は正しく理解していると思っていたその事実を改めて鼻先に突き付けられた気分だった。

    そして同時に自分の背後に張り付いている死がぐっと距離を詰めてきた気がしてアレクは頭を振り寒気を振り払う。


    茫洋と思考の海に意識を沈めて過ごす内に気付けば窓の向こうで空が白み始めている。
    月が朝の気配に追い立てられて山々の向こうに体を押し込め寝支度を始める中、アレクはうとうとと頬杖をついた状態で舟を漕いでいた。意識は浅い場所を漂っていたが瞼はしっかり糊で貼り付けられたように開かない。中途半端な状態が酷く心地良かった。

    何度か人が近付いてきてはグランの様子を伺って、静かに離れて行く気配を感じたがわざわざ目を開けて確認するのも億劫で深く寝入った振りを決め込む。時間が来たら誰かが起こしてくれるだろう。

    途切れ途切れにそう考え寝入った振りでなく意識を更に深い場所へ手放そうとした時、遠慮がちに肩を揺らされた。まるで見計らったようなタイミングに多少不機嫌になりつつも無理矢理目を抉じ開ける。

    最後に見た時よりも室内は窓から差し込んでくる朝日によって随分明るくなっていた。眩しさに何度か瞬きをすることで網膜を慣らし、自分を揺り起した張本人を探す。


    「おはよう。そんなところで寝たら風邪ひくよ、アレク」


    青白い頬に陽光を受けながら、ベッドの上で半身を起こしたグランが微笑んでそう言った。
    何事もなかったように、いつもの表情で、いつもの声でアレクを呼ぶ。まだ半分眠っている頭の中で思考が絡まり、上手く言葉が紡げなかった。

    「なんだかずっと嫌な夢を見てた気分だ。よく覚えてないけど、アレクが助けてくれたんだよね?ありがとう」

    礼を言われるようなことはしていない。自分の失態の尻拭いをしただけだ。たった一晩で驚異的な回復を見せたグランへの驚愕と安堵と、色々なものが混ぜこぜになって胸中で渦巻いていた感情が喉元までせり上がってくる。アレクは咄嗟に歯を食い縛った。

    「……アレク?」

    不思議そうな声と共に手が伸びてきて指先で頬を擦られる。その指先が濡れているのを見て初めてアレクは自分が泣いていることに気付いた。

    「あ、れ、?……ぅ、…っく、ひ」

    泣いている、と自覚した途端涙が本格的に溢れ出し、自分の意思もお構いなしに視界を歪ませる。おまけに呼吸も上手く出来なくなって喉からは言葉の代わりにひ、ひ、と気管支が不器用に空気を吸い込む音がした。

    グランは泣き止ませようとするどころか、許す意味を込めてか優しく頭を撫でてくるお陰で余計に涙が止まらない。

    「し、死ぬ……かと、思っ……ふ、ぉれ、俺、のせいで……っ!」

    聞くに堪えない嗚咽の合間にやっとの思いで吐き出した言葉を聞きグランは微かな笑みを零した。

    「心配かけたね、ごめんね。もう大丈夫だから」

    何一つ責任のないグランが謝るものだからアレクは泣きじゃくりながら首を振る。今まで堪えてきた分が気が緩んだ為に一挙に押し寄せ、目が覚めたグランに色々と言いたいことはある筈だが言葉が紡げないし考えもまとまらなかった。

    「こ、怖かっ……グランが死ぬのかと思ったら、怖くてたまらなかったんだ」

    グランが遠のき、手の届かないところへ居なくなってしまうかもしれないという可能性にぞっとした。彼が泉の畔で語った死以上の意味を持つ「死」を、アレクは身を持って体感したのだ。

    「もう大丈夫、大丈夫だよ。ただいまアレク。お前のおかげで僕は戻ってこれたんだ」
    目を開けるとグランは町角に立っていた。空を見上げると時刻は夕暮れ時、周囲を見渡しても伴っていた筈の仲間は何処にもいない。

    「……アレク?」

    あの幼い仲間は何処へ行ったのだろう。さっきまで一緒に歩いていた筈だ。いやそもそも、何を目的として自分はここに立っているのか。

    左右を見渡して、雑踏の中に見知った顔がないかを探してみるが見慣れた顔は何処にもない。

    一先ずは、自分たちの宿泊先である宿屋へ戻ろうと足先を町の端にある宿屋の方向へと向けた時グランの耳元に華奢な音が届いた。

    しゃりん。

    透明な水飴を思わせる甘やかな音色。それに釣られて音のした方へ顔を向けると黒衣の一団が通りの向こうからグランの居る方向へ歩いてくる姿が見えた。

    「……葬列」

    白い布面で顔を覆った行列が棺を担いで往来の真ん中を歩む。人々は彼らに道を空け、僅かな間棺の主に祈りを捧げた。
    グランもそれに倣って顔も知らない誰かの永遠の眠りが安らかであるよう願う。

    ――……ダ。

    項に氷を押し当てられたような強烈な寒気を感じ、グランは閉じていた目をぱちりと開いた。咄嗟に背後を振り返り、今し方聞こえた音の出所を探る。

    声、のように感じた。だがあんなに恐ろしい声をグランは聞いたことがなかった。
    淀んだ水底の汚泥と腐った生き物の臭いを纏う醜く潰れた声。

    ――ド……ダ。

    繰り返される声が徐々に近付いてくる。グランは無意識に腰に帯びた剣の柄を握り締め、ゆっくりと声の方向へと首を巡らせた。

    ――ド、レ、ダ。

    丁度グランの目前に差し掛かっている葬列。その周囲をぐるぐると歩き回る怪物の姿が視界に飛び込んできてグランは思わず声を上げそうになった。

    人の背丈程もある魔物はどれだどれだと呟きながら葬列の周りを回っている。多足をばらばらに動かすその姿は蜘蛛を彷彿とさせた。

    往来の人々は魔物の姿が見えないのか何の反応もせず魔物の傍を通り過ぎていく。人の営みの中に魔物が紛れ込んでいる異様な光景だった。

    「(どうする……?)」

    剣を抜くべきか、否か。あの魔物を排除するとしたら周囲の何も知らずに生活している人々にも被害が及ぶ。だとして放置するわけにもいくまい。

    躊躇しながらそっと握り締めた剣の鞘が装備に当たって僅かな音を立てたその瞬間、魔物の首がぐるんとこちらを振り向いた。

    「っ!」

    淀んだ赤い目が間違いなくグランを見据えている。気付かれたのだ。この場でグランだけが自分を認識していると、魔物に気取られてしまった。
    じり、と半歩足を後ろに下げ魔物から意識を離さず周囲を確認する。

    一般人の溢れるここでは戦えない。何処か人気のない開けた場所にあれを誘導しなければ。

    ――ミ、ツケタ。

    耳元で聞こえた音にぞっと怖気立つ。魔物から意識は離さなかった筈だ。目で見ずとも、動く気配があれば分かる、その筈だったのに。気付けば魔物はグランに覆い被さるように肉薄していた。

    本能的な恐怖からグランの頭の中は真っ白になり、ただ視覚や聴覚から届く情報が空回りする。

    赤い目がグランを見下ろし、品定めしていた。鼻に付く腐り落ちた水草の匂い、深い水溜まりの底に沈んだ泥の臭い。


    ああ、自分は死ぬのか。


    何の脈絡もなくそう納得しかけた時、魔物が突然発火した。苦悶の呻き声を上げ、己の体を瞬く間に包んだ炎から逃れようと身を捩っている。地面を転がり回ろうと、節足を振り回そうと、炎の勢いは弱まるどころか見る間に大きくなり魔物全体を包んで大きな火柱を上げた。

    思わずその場に座り込んで眼前の光景を見つめる。雷撃を帯びたその暖かな色合いの炎を、グランは知っている気がした。


    しゃりん。



    「――……、」

    目を開けると町並みは木目の並ぶ天井に変わり、体はベッドに横たわっていた。目覚めた直後で記憶は煩雑としており、何処からが夢で、何処からが現実で起こった出来事なのか上手く整理が出来ず状況の把握に暫く掛かる。

    ゆっくりと体を起こすと腹部に引き攣れる痛みが走り、その痛みで漸く自分の身に何が起こったのかを思い出した。

    「いっ……てて…」

    腹が痛む以外には、体に特に不調な部分は感じない。むしろすっきりした気分だった。根拠はないが体内に蟠っていた悪いものが全て消化された、そんな気がする。

    傍らで誰かが身動ぐ気配を感じそちらに目をやると、朝日を受けて白く輝く金髪が視界に飛び込んできた。
    その眩しさに一瞬目を細め、椅子に座った状態でベッドに突っ伏して微動だにしない幼い肩に手を伸ばす。

    肩を優しく揺す振り、命の恩人に声を掛けた。

    「おはよう。そんなところで寝たら風邪ひくよ、アレク」
    亮佑 Link Message Mute
    2022/11/12 12:08:06

    死に懸想せよ

    pixivからの移設です
    #グラブル #アレグラ

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