笑う魚「それなら、エコーはどうだ?」
酒の席での、何かの雑談の延長だったとバンディットは記憶している。笑っているところを見たことがあるか、という出涸らしの茶のような話題にこの場に居ない同僚の名前を持ち出したのは向かいに座って飲んでいるイェーガーだった。
「エコー?確かにあまり陽気なタイプじゃないが、さすがに……」
昔馴染みとまではいかないものの、そこそこの時間をチームメイトとして過ごしてきている。任務の最中や訓練中に笑う場面というのも余りあるものではないが、時間外に談笑くらいはするだろう。そう思って直近の記憶を軽く遡ってみるが、蘇るのはどれも不機嫌そうな横顔だけだった。
「鼻で笑われたことならあるぞ」
「それはお前がしつこくするからだろ、パルス」
結局、この場の誰もエコーが笑った姿というものを目にしたことがないというのが結論だった。
「彼が入ってきて何年経ってる?なのに一度もないなんて」
無論自分より彼と親しい相手であれば見かける機会もあるのかもしれない。以前カヴェイラと雑談しているところを見かけたことはあるが、その時彼がどんな表情をしていたかまでは覚えていなかった。
「ちょっと気難しいんだ彼は」
「ちょっとかアレ?」
「見たことないなら見せてもらうまでだ。どうせだから、ここに呼んじまおう。酒が入れば少しは機嫌も良くなるだろ。エコーのプライベートナンバー知ってる奴は?」
イェーガーの問いにパルスが黙って挙手する。
「一応聞くだけなんだが、それはちゃんと当人の了承を得て入手した番号だよな?」
「おい俺をなんだと思ってるんだ。ちゃんと本人から聞いたに決まってるだろ!聞き出すのに一週間掛かっただけだ」
「それ聞き出したんじゃなくて、抉じ開けたの間違いだろ」
「お前本当そういうところだぞ」
テルミットやブリッツの全うな指摘をパルスはグラスを煽ることで受け流した。
ともあれ彼への連絡手段を持っているのはパルスしか居なかったためスピーカー状態にしたパルスの端末をテーブル上に置き、エコーのプライベートナンバーにコールする。六コール目でやっと相手と繋がった。
「……なんだ」
普段より数割増しに気怠そうな声が雑音と共に聞こえてくる。眠っていたのかもしれない。
「ようエコー。今皆で飲んでるんだがお前もこないか」
「行かない」
間髪入れず切り捨てられるパルスの隣でイェーガーが吹き出しそうなのを堪えている。しかしパルスは断られることを予期していたらしく、怯む素振りも見せず会話を続けた。
「つれないこと言うなよ。こないだ一緒に飲もうって約束しただろ」
「あんたが勝手に言い出しただけだろ。俺は了承してない」
「今きたらイェーガーが奢ってやるってさ。店で一番高い酒飲み放題だ」
「おい」
「酒は好きじゃない。用はそれだけか?もう切るぞ」
「酒以外もあるぞ。飯が美味いって評判の店なんだ。ここ最近、研究室に缶詰でロクなモン食ってないだろ?」
今回の否定は即座には返ってこなかった。話を聞いているのかいないのか、受話口から少し遠い場所で唸るような声が微かに聞こえてくる。構わずパルスは通話口の相手に念押しした。
「店の場所教えるから、絶対こいよ」
結局返答も別れの挨拶もなく、通話は呆気無く切れる。客観的に余り色好い返事でないように感じたが、パルスは何か手ごたえを感じたらしかった。
「来るってさ」
「今のやり取りで何を根拠に確信したんだ」
「最後まで話ができたから。マジで来たくない時はそもそも電話に出ないし、出たとしても話の途中だろうが何だろうがぶっちぎられる。今日はだいぶ機嫌良くてラッキーだったな」
「お前のそういうところ、尊敬すべきか引くべきか判断に迷ってる」
呆れ気味に酒を舐めながらブリッツが感想を述べたが、やはりパルスは気にした様子もなく肩を竦めて見せるだけだった。
「呼び出せはしたが、エコーの奴マジで酒飲まないぞ。俺も外で飲んでるのはほとんど見たことない」
「なに、顔出したんならこっちのもんだ。どんな手使っても飲ましてやる」
何やら自信ありげな様子で口角を釣り上げるイェーガーに胡乱な視線を向けながら、一同はチビチビと酒を消費しながらエコーを待つことにした。
数十分後、バーの入り口にエコーがのっそりと姿を現した。店内の奥側の席を陣取っていたためパルスが手を挙げて呼ぶと、踵を引き摺るような歩き方で気怠そうに近づいてくる。
「よく来たな!まあ座って飲もうぜ」
「飲まないって言ってるだろ。飯だけ食いにきた」
促されるままパルスとイェーガーの間に腰を下ろしたエコーはメニューを流し見ていくつか料理を注文した。
「基地で食ってるとこ見たことなかったが、意外と食うのな」
「たまたま腹が減ってたタイミングだっただけだ」
「せっかく来たんだから、一杯くらい付き合えよ。全然飲めないってワケじゃないんだろ?」
イェーガーがエコーの肩に手を回そうとして払い除けられる。
「飲まない。なんで誰も彼も俺に飲ませたがるんだ。自分で飲んでろよ」
「酒は皆で飲むもんだ。一人で酔ったって楽しくないだろ」
程なくして湯気の立つ料理盛られた皿がいくつかテーブルに運ばれてきたことを契機に、エコーは口元を覆っていたマスクを顎下へずらすと料理に向かって軽く手を合わせ食べ始めた。
もう当初の目的も半分程忘れ、バンディットはぼんやりと酔いの回った頭で余り見る機会もない同僚の素顔を眺めていた。エコーは普段の排他的というべきか、他者からの接触を極端に嫌う潔癖な性質からは想像の付かない豪快さで料理を口に運んでいく。
仕事一辺倒な印象が強いことと、イェーガーが指摘したように食堂や基地周辺の飲食関連の店で彼の姿を見かけないことから、食事という行為そのものに興味がないのだろうという先入観があった。
しかし今目の前の彼は、大の男でも完食は難しいだろうと思える数の料理をペースを落とすことなく黙々と食べ続けている。味についての感想はなく食べ方も無造作だが、作業として胃に押し込めているという印象はなかった。咀嚼や嚥下する音は必要最小限にしか聞こえてこない。飢えた者が貪るような下品な食べ方には感じないのに、不思議と皿はあっという間に空になる。
表現として正しいのかは不明だが、彼が食事をしている姿は能動的だった。普段徹底的なまでに不動を貫くエコーの別側面であるという事実が眼前の光景を妙に新鮮に見せる。
料理を頬張るために口を開けるたび、バンディットの位置からは見る機会の少ない口腔内が垣間見えた。肉を噛み切る粒の揃った前歯と、意外なくらい尖った犬歯、一口分の料理を迎え入れ閉じられた口の端についたソースを舐め取るために舌先が少しだけ覗いてすぐ見えなくなる。
特筆すべきこともない、男の食事風景だ。目の前にあって、他に見るべきものもないからただ眺めている。そう思っていたのは最初の内だけでいつしか手にしていたグラスから酒を舐めるのも忘れて、バンディットは正面に座ったエコーに見入っていた。
鶏もも肉のソテーを食べた時、口の中に骨が残ったようで、微かに眉を顰めたエコーが口を僅かに開け隙間から指を突っ込んで骨の破片を摘み出そうとする。不快感からうっすら歪められた表情と、半端に開いた口唇から口内の骨片を押し出すために僅かに押し出された舌先、下唇に指が沈み込み柔く形を変えている。
「ん、」
骨片が口の中で逃げるのか、小さく漏れる吐息に似た声を聞いた時、バンディットは理由も分からず居た堪れない気持ちになって思わず視線を逸らしてしまった。
視線を逃がした先でエコーの隣に座るイェーガーと目が合い、器用に片眉だけ持ち上げられる。正面であっても真隣であっても、抱く感想は余り変わらなそうだ。
こちらの思考等知る由もなく、無事口の中から骨片を排除出来たらしいエコーがまた食事を再開させる。
結局、エコーはこの場の全員が満腹になりそうな量の料理を一時間も経たない内に綺麗に平らげてしまった。食べ始める時と同じく静かに手を合わせたエコーは紙ナプキンで口元を丁寧に拭った後顎下のマスクを引き上げて口元を覆い隠す。
すっかり元通りになった彼の姿を見て漸く夢から覚めたような心地になり、イェーガーがぽつりと間の抜けた感想を漏らした。
「予想の三倍くらいよく食う奴だな」
食べ残しはほぼ、というか全くない。ひたすら運ばれてきた料理がエコーの腹に吸い込まれていき綺麗さっぱり完食した様を、店主と思しき中年男性がカウンターの向こうから少し呆気に取られたような顔で見ていた。
「いつもこんな量食ってんのか?すげーな」
「普段は普通の量で済ませてる。今日はあんたの奢りだって聞いたから好きに食っただけだ」
「テメエ」
言いながらエコーはさっさと空になった皿を片付けて返却しに行く。
「美味かった。また食べにくる」
皿を返しながら、店主にそう述べているのが背中越しに漏れ聞こえてきた。程なくして、エコーがグラスを片手に席へ戻ってくる。
「お、何頼んだんだ?」
イェーガーが興味津々と言った様子で覗き込むが、エコーは煩わしそうに押し退けた。
「ただの水だ」
「はあ?つまんねえ、酒頼めよ!」
「飲まないって言ってるだろ、しつこいな」
「飲むまで帰さないからな!」
その後も奢りであることを全面に押し出して延々とイェーガーが絡み続け、根負けしたらしいエコーが折れた。
「分かった、一杯だけなら」
うんざりと言った表情でイェーガーから渋々グラスを受け取る。
「エコー、本当に苦手なら無理するなよ」
アジア系、特に日本人はアルコールを受け付けない体質の者が居ると以前どこかで聞きかじった記憶がある。白人、黒人には殆ど見られない体質であるためか、アジア圏外では然程浸透していない知識だしバンディット自身そんな体質の者が居ることをその時まで知らず驚いた。
どこで見聞きしたか確かでないあやふやな知識である上にその体質の者がアルコールを摂取するとどうなるのかまでは覚えていない。しかしそれが例えば特定の成分に反応するアレルギーのようなものなのだとしたら、無理に飲ませるのは危険だろう。今更になってそんなことを思い出し、心配になって助け舟を出したが、エコーは静かに首を横へ振った。
「飲めないわけじゃない」
温度のない視線で暫く押し付けられたグラスの中で揺れる液体を眺めていたエコーだったが、再度マスクを外して口元にグラスを運ぶ。相変わらず静かだったが食事の際と違い、ゆっくりと酒を嚥下している様子だった。
「……随分キツいな」
眉間の皺を僅かに深くして、エコーは短く感想を述べる。
「キツくなきゃ酒とは言わねえよ」
エコーが言うことを聞いたためか、イェーガーは上機嫌に自分のグラスを空けていた。
当然一杯で帰るという彼の願いは叶わず、その後もあれこれと理由をつけてはイェーガーが押し通す形でエコーに飲ませ続けた。
飲むのをさんざ渋っていたから酒には強くないのかと思っていたが、エコーが酔いを顔に出すようになるまでにその場の面子の半分が酔い潰れた。
現在生き残っているのは、もうこれは収拾がつかないなと早々に悟り後始末係として途中からノンアルコールカクテルに切り替えたバンディット、異様なテンションではあるがまだ呂律は正常なイェーガー、そしてそのイェーガーに半ば無理矢理飲まされ続けているエコーのみだった。
元から飲んでいたとはいえ、パルス、ブリッツばかりでなく普段自分の許容量を把握し自制するテルミットまでもがエコーに釣られて飲み続けて、テーブルや椅子に突っ伏して寝息を立てている。
「なんだよお前こんなに酒強いならもっと飲みに顔出せよ!」
イェーガーは普段の三割強といった機嫌の良さと距離の近さでエコーの肩を抱いて笑っている。エコーはといえば、最初の内こそ触るな鬱陶しい離せ帰ると文句を言っていたが少し前から極端に口数が減っていた。顔は耳まで赤くなりぼんやりした表情をしていて、分かりやすく酔っている。彼のこんな姿を見るのは初めてだった。
何となく予想はついていたが、酔ったからと言って陽気になるタイプではないらしい。
「にしても、耳まで真っ赤になるくらい酔っても無愛想なのは変わらないんだな。もうちょっと愛想良くしたって損はないだろ」
「……、そういうのはやりたい奴がやればいい。俺は興味ない」
受け答えが出来てはいるが、返答までに丸一秒程タイムラグが発生している。これはそろそろ限界かもしれない、とバンディットが止めるタイミングを見計らっているとイェーガーは不意にエコーとの距離を詰めた。元から肩を組んでいて体の半分はほぼ密着していたため距離感はゼロに近かったのに更に詰め寄ろうとしている。
「ちょっと笑ってみてくれよ、ほら」
言いながらイェーガーは肩に回している手でエコーの顔を無理矢理自分の方へ向けようとする。当然エコーは嫌がり、顰めた顔を外側へ背けた。
「止めろ、顔を近付けるな」
エコーがグラスを持っていない方の手で相手を押し退けようとした時、イェーガーの手が彼の項をかすめた。
「、……」
エコーは口を真横に引き結んでいたから、声が漏れたと思ったのは錯覚なのだろう。しかし項――正確には首裏から首筋の中間辺り――を不意に触られたことで反応したのは端から見ても明らかだった。傍観しているバンディットが気付いたのだから、密着しているイェーガーが気付かない訳もない。
「お、弱点発見」
「触るな」
「結構くすぐったがりなのか。肩組むの嫌がるのも、この辺弱いからか?」
これまで殆ど思ったような反応を得られなかったエコーから漸く引き出せた遊び甲斐のありそうなリアクションを深追いし、イェーガーが首の他に肩や脇腹を撫でた時、文句を言おうとしたエコーの口から堪え切れなかった声が漏れた。
「やめ、ぁはっ、ハ」
普段の低く張りもやる気も感じられない声よりも高く掠れた笑い声。体を擽られて勝手に漏れてしまうそれを無理矢理喉の奥に飲み込もうとするからか、しゃっくりのように末尾が上擦っている。
物理的に声を抑えようとエコーは自分の口を覆い、イェーガーを睨みつけた。口は覆ったままグラスを置いて空いた手でイェーガーの顔面を掴み、容赦なく指を食い込ませる。
「いてててッ!ギブギブ!悪かったよ!」
早々に両手を上げて降伏の姿勢を見せたイェーガーが追撃や不意打ちをしてこないか疑わしげに睨め付けていたエコーだったが、やがて「便所」と一言言い捨てて席を立ってしまった。
酔い潰れたパルスを跨ぎ越し店の奥の扉に向かう足取りは多少ふらついてはいるものの危なげない。エコーの背中が何事もなく扉の向こうに消えたことを契機に、バンディットは視線を正面のイェーガーに戻した。
「少しやり過ぎだ。日本人……エコーは特に、スキンシップを好まないのは知ってる筈だろ」
イェーガーは自身が身内と定めた相手には距離が近い。普段はエコーの性質を察し適度な距離感で付き合っているが、今はアルコールのせいかエコーが強く拒否していないからか、若干箍が外れているように見える。
バンディットの忠告に対しイェーガーは曖昧に返事をして最早何杯目かも忘れたグラスの中身を煽っている。見た目には分からないだけでこちらもこちらで相当酔いが回っているのかもしれない。
「そろそろお開きにしよう。コイツら引きずって帰るのはちょっと面倒だが……」
潰れている面々に視線を投げた時、突如店内に男の悲鳴が響き渡った。疎らだった客と店主がぎょっとした顔で声のした方を振り返っている。バンディットとイェーガーも同じ方へ顔を巡らせた。
全員の視線の先には先程エコーが入っていったトイレへ続く扉がある。悲鳴の後バタバタと荒っぽい物音と共に、来るな、止めろ、という懇願が聞こえてきた。どう捉えても穏便な状況は想像出来ない。
「……今のは」
「エコー、じゃなかったな」
声質は男だったが彼の声ではなかった。怪訝な顔をしてトイレに向かおうとしていた店主を手振りで押し止め、バンディットはイェーガーに目配せし席を立つ。
摺足で扉の前まで行き、音を立てないようにドアノブを捻り引き開ける。二人して覗き込んだ先に、室内で立ち尽くすエコーの後ろ姿を見つけた。
「エコー?」
きっちり一秒、まるで測ったようなタイムラグの後エコーがこちらを振り返る。席を立つ前より瞼がとろんと落ちていて眠そうに見えた。
「何の騒ぎだ?」
「……こいつが、」
一先ず大事には至っていなさそうだと判断しトイレの中に入り近付くと、エコーが言う『こいつ』が視認出来た。見知らぬ男が一人、突き当たりの壁に背中をべったり貼り付けて床に座り込んでいる。向かって左の肩を庇っており、出血等は認められないが怪我をしているような仕草だった。察するに先程の悲鳴と物音の主だろう。
「一般人に怪我させたのか?」
「怪我はさせてない」
イェーガーが何故か極度に怯えている男の傍らにしゃがみ込み、庇っている腕を軽く触診する。
「あー、肩外れてら」
男は痛みからかパニックに陥っていて、正確な状況聴取は期待出来そうにない。バンディットは男から隣のエコーに視線を戻した。
「肩が外れているようだが」
「寸止めにするつもりだったんだ。でも向こうが暴れてちょっと力加減を失敗した。もとに戻してやると言ってるんだが、拒否される」
「……」
そりゃ、肩を外した張本人に戻してやると言われても信用出来ないのは当然では、と思いはしたが口には出さずバンディットは別の質問をすることにした。
「俺の記憶が正しければお前はトイレに行くと言って席を立った筈だが、何故彼の肩を外すことになったんだ」
「寸止めにするつもりだった」
「それは分かった。事の経緯を教えてくれ」
「……こいつが、話しかけてきた」
続けてエコーの口から告げられた差別的かつ下品な内容に思わず眉を顰めて男の方を振り返ると視線を顔ごと逸らされた。つまりエコーの供述が事実だということだろう。
無言でエコーに話の続きを促す。
「断ったら、個室に押しこまれそうになったから、しかたなく」
「……なるほど」
席を立つ前と比べてエコーの服装が乱れている理由が分かった。暑くなって着崩しているのかと思っていたが、無理矢理服を剥ぎ取られそうになり抵抗した末の結果ということだろう。
「だから酔うのはいやなんだ。素面ならもっとうまくやれてた」
エコーは若干不満そうに口を尖らせている。素面時の他者を牽制するような険を帯びた雰囲気がアルコールで取り払われた分、今の彼は一見無防備そうに見えた。絡んできた男も、彼の様子に付け入る隙有りと見てそんな愚行に及んだのだろう。
だが蓋を開けてみれば隙だらけの酔っ払いだと思っていた相手は頭が回っていなかろうが自身への攻撃に対する反撃が体に染み付いた軍人であった上、素面では出来ていた筈の手加減が酩酊状態にあったことで失敗し、結果肩を外されてしまう羽目になったと。
未遂とは言え同僚に無体を働こうとした相手に同情してやる義理はないが、知らず虎穴へ頭から突っ込んだ男にバンディットは若干の憐憫の念を抱いた。
「きみ」
子供のようにしゃくり上げている男に、バンディットは穏やかな口調を努めて話しかけた。
「今の説明に相違ないか?」
男は声が出ないのか小刻みに首を縦に振る。
「そうか。俺たちの連れがすまなかったな。しかし、話を聞く限りきみにも非があったように思う。だから、この件についてはきみの肩の治療を以って両者不問としたいんだが、どうだろう」
「そっそれで、っ、お願い、し、します」
「そうか。応じてくれて嬉しいよ。じゃあ、イェーガー。あとは頼む」
「おう」
バンディットが踵を返しながらエコーを促すと、彼は大人しくついてきた。背後から涙声で困惑する男とイェーガーの会話が聞こえてくる。
「えっ?ぁあの、治療って病院とか……」
「ただの脱臼だろ?病院なんて大袈裟だな。大丈夫大丈夫、ハメ直すのは一瞬だ」
「ま、ま、待て、待ってくれ!頼む止めてくれっお、俺が悪かったからっ」
「口は閉じとけよ舌噛むぞ。ほらさーんにーいーち」
バンディットとエコーがトイレから出たところで活きのいい二度目の悲鳴が扉越しに聞こえてきた。
「大丈夫か?」
男への治療と口止めをきっちり済ませて戻ってきたイェーガーと手分けして潰れた面子をタクシーに押し込む作業の片手間にエコーへ問い掛けた。舐めてかかる相手を間違えて速攻で天罰を食らっていた間抜けな男の顛末は傍観者の自分としては愉快な見世物だったなという感想位しか残っていないが、当事者としては面白くもなんともないだろう。
まだ反応が鈍い彼は微かに首を傾げて見せる。隙だらけだなとバンディットは再度思った。そう見えるだけで、実際に手を出そうとしたらどういう目に遭うかは先程の男が体を張って教えてくれたためどうにかしようとは思わないが。
「俺は自力で帰れる」
「いやそっちじゃなく。トイレで遭ったことの方だ」
エコーはあーとどうでも良さそうに声を漏らす。戻すのを忘れているのか暑くて意図的にそうしているのか、顔の下半分を覆っていたマスクはずっと顎下にずらされたままだ。
「別に気にしてない。初めてでもないし」
「良くあるのか?」
「たまに。大体は適当にやり返したら手を引く。しつこい奴は一個ずつ関節外してくんだ。そしたら何個目かで向こうから謝ってくる」
エコーは(アジア人にしては)身長がある方だし、身長以外でも過酷な任務や訓練をこなす上で必要な肉体的素養は十分有している。バンディットから見て特別舐められ易そうだという認識はないのだが、彼曰く、時折ああいう手合いに目を付けられてしまうらしい。トラブル慣れしていたお陰で今回のように酔っ払っていても自衛出来たのだろうが、何とも皮肉な話だ。彼が外で飲みたがらない理由の一端はこれか、と今更思い至った。
アルコール耐性云々の話と同様、西洋人と東洋人は体の造りに細かな差異がある。骨格や筋肉量も例外ではなく、同じトレーニングメニューをこなしても個人差はあれど同じ場所に同じ量の筋肉が付くことはない。
加えてエコーは肌を晒すことに抵抗があるようで――基地の共用シャワー室もわざわざ利用時間をずらして使っているようだが、脱線し過ぎるためここでは割愛する――夏場でさえ肘から上を露出しているところを見たことがない。こちらで売っている服の規格が彼の体に合わないという問題もあるのかもしれないが、今も少しオーバーサイズ気味のパーカーを着ている。
鍛えていても分かりやすい筋肉が付かない体質のエコーが更に体格の分かりづらい服装をしていると、そもそもが童顔気味なことも相まって彼の苛烈な内面を知らない者からは狙い易そうな獲物に見えてしまうのかもしれない、というのが今回の件におけるバンディット視点からの私的見解だ。
エコーの外見年齢に関しては正直なところ半信半疑だ。今も。ミュートやルーク辺りと同世代なのかと思っていたら、彼らより一回り近く上だと知った時は軽い衝撃を覚えた。
「前絡まれた時も酒入ってた時だった」
部隊の別の面子に半強制的に参加させられ、こことは違う店に引き摺ってこられた際、その時居合わせた酔っ払いの男に絡まれたのだという。エコーは酔っ払いを投げ飛ばして返り討ちにしたが男の悲運はそれだけに留まらず、既に出来上がっていた他の面子に捕まり玩具にされたらしい。エコーは自分に絡んできた男に毛程も興味がなく、男が同僚たちの玩具にされている様を見ても追い打ちも助けもしなかった。その時居合わせた面子をエコーは正確には覚えていないそうだが、面子の組み合わせによっては肩を外された方がまだマシと思える展開になっていそうだ。男はいつの間にか居なくなっていたらしいが、何かしらのトラウマでも植え付けられていそうだなと顔も知らない男の末路に思いを馳せた。
「だから酒が嫌いなのか?」
「いや別に。単に酔うのが苦手ってだけだ」
酩酊時特有の、ふわふわした感覚や頭がぼんやりする感覚がどうしても気持ち悪く感じて馴染めないのだとエコーは言った。自分含め酒を飲む者の大半はその感覚欲しさに飲んでいるし、それが苦手という意見はいまいちぴんとこない。が、知らなかったとは言え苦手なことを強要して悪かったという謝罪は、あんたに謝られる筋合いはないと一蹴されてしまった。
タクシーに乗り込み緩やかに走り出した車内で、隣の背もたれに埋もれるようにして座る男の横顔を盗み見る。窓の外を流れていく景色を眺めていた視線がふとこちらを向いた。
「あんたはいつもこんな役回りなのか?」
「こんな?」
「好き放題やった奴らの尻拭い。今回だって、途中から飲むの止めただろ」
バンディットが飲むものを酒から水やノンアルコールカクテルに変えた時には既にエコーもそこそこ酔っていたと記憶しているが、しっかり気付いていたようだ。
普段は周囲のこと等視界の端にすら留めないような素振りをしているが、そう見せているだけで存外周囲の色々なものに気を張り巡らせているのかも知れない。
「別にやろうと思ってやってるわけじゃないが、そうなることが多いのは事実だな」
「損な役回りを進んでやるなんて、変な奴」
「そういう性分なんだ」
酒が口の滑りを良くしているのか、エコーとの他愛ない雑談は弾みはしないまでも穏やかに続いた。苛烈な性質を持ち、気難しく無愛想な印象を持っていた彼は、(先入観もある程度事実ではあるものの)こうして話すと意外な程静かな話し方をする男だった。
彼を知る者の内の何人がこの姿を見たことがあるのだろうと、時折笑みすら浮かべながらこちらの言葉に返答する姿を見てバンディットは思った。
彼の静かな一面を意外かと問われれば答えは否だ。
平時から彼自身は余り激しく動き回ることはしない。人間の認識能力は並行処理速度や精度の維持に制限と限界があり、機械に任せられることを人力で行うのは非効率的だ、というのが彼のスタンスである。訓練であっても実際の任務であっても、彼が動くのは全ての情報が出揃い状況の打破に最短の手数で至る道筋が見えてからだ。彼のスタンスを静か動で表すならば前者だろう。
目的の達成は効率的に、最小の労力、消耗で最善最良の結果を。彼が持つ確固とした信念に基づいた言動なのだと思う。徹底振りが突き抜けているが故に部隊の一部と意見が合わず衝突する場面もままあるようだが、バンディット個人としては彼の考え方そのものは嫌いではなかった。
「部隊の奴は皆どこか変わってる奴らばかりだろう。自分で言うのもなんだが、その中でなら俺はまともな部類だと思うぞ」
バンディットの言葉に、エコーは少し虚をつかれたような顔をした。それからふっと彼の吊り上がり気味の目尻が僅かに解ける。
「そんなわけあるか。妙な謙遜をするな、それとも自覚がないだけか?どっちだ」
自分の発言がどうやら酔っ払った彼には愉快だったらしいが、自分としては特にウケを狙ったわけではない。
「謙遜もなにも、俺みたいなのは珍しくないだろ」
個性として突出し過ぎず、かと言って埋没もし過ぎず。どこかの組織の中に入り込む時には、そんな人物である方が何かと都合が良い。いつからかそこに居て、いつの間にか消えていて、それに誰も気が付かない。そう在れなければ、その先はない。存在に疑問を抱かれたら、組織の中で異質であると勘付かれたら、バンディットの命はそこまでだ。ずっとそんな環境の中を生き抜いてきた。
「ははっ、あんたみたいのがそこら辺に居てたまるか」
エコーの笑いのツボは分からなかったが、やはり笑い声は普段の声よりも少し高かった。笑いを堪えようとする癖があるようで、口元に手を当てて少し苦しそうに笑う。その仕草と表情は彼を余計に幼く見せた。
「やっぱり変わってるよ、あんた」
「……そうか?」
言いながら、ふと飲み会の中で彼の名を口に出す発端になった話題のことを思い出した。もうすっかり頭から抜けていたが、彼の笑い声と表情を見て不意に脳裏に蘇ってきた。
誰が言い出したかは思い出せないが、『笑い声と喘ぎ声のトーンは同じらしい』という、何とも眉唾な話が前提にあった。感情表現が豊かな面子では意外性がなく面白くない。だったら普段愛想笑いもしなさそうな奴はどうだろうか、という流れだったように思う。
何故、今このタイミングで思い出してしまったのだろう。妙な罪悪感に見舞われ、バンディットは咄嗟に頭を抱えたくなった。
エコーは笑う時、普段より少し声が高くなり、更に口から漏れてしまうそれを咄嗟に堪えようとする癖がある、等と自分が知ったところで何になるというのか。イェーガーやパルス辺りが先の話題を覚えていたとしたら嬉々として話の種にしていたかもしれないが、生憎と自分はこの話題についてそこまでの熱量はない。
エコーはまだ笑いの余韻があるのか口元が淡く緩んでいる。酒気にあてられほのかに赤い顔に柔らかな表情を浮かべた彼を見て、先程肩を外された男は彼のこういう姿を見て何とか出来ると思ったのだろうなあと妙に得心がいった。少し首を傾げている様子は、言い方は悪いかもしれないが子供のようで何とも無防備だ。
妙な庇護欲すら芽生えてきて、バンディットは少し笑いながらエコーの頬に手を伸ばした。
「そういう顔は、また良くない奴に絡まれるからあまりしない方がいい」
言いながら頬を指で軽く摘む。摘むと言っても力は殆ど込めておらず、頬には指の腹が少し沈んだだけだった。
生意気に言い返されるか、或いはまた笑い飛ばされるか。払い除けられてしまう前に自分から触れるのを止め、一旦口を閉じて相手の反応を待つ。彼は少し間を置いた後いずれの予想とも異なる反応を見せた。
「今はあんたしか見てない」
タクシーの窓辺に頬杖を付き、エコーは続けた。
「ああそれとも、バンディットに気を付けろって意味か?」
今度は小さく、溜め息のように彼は笑う。切れ長の瞼が音もなく閉じられ、ゆっくり開いた。そのまま視線を合わせていたら何か変な錯覚をしてしまいそうで、バンディットは自分の瞬きを契機にして無理矢理視線を窓の外へ移した。見慣れた風景が夜の闇に浮かび上がっており、目的地が近いことを報せている。
「もう着きそうだな」
バンディットの言葉に釣られてエコーも窓の外を振り返る。視線が逸れたことに安堵するような、目前で魚を釣り逃したような落ち着かない気分になってきて、バンディットは無意味に少し硬い座席に座り直した。
――『届きそうだ』と思った。
実際の距離の話ではない。彼の言葉と表情を見て、彼の内側に招かれたような感覚になった。だが僅かに残った理性は先へ踏み出すことを躊躇し、手前で引き返す選択をした。その判断が正しかったのか否か、酔いの回った頭では判然としない。
隣に座る男は既に口を閉じている。不機嫌になったとか、そんな様子ではなく酒気を帯び少し熱がこもったような黒目で窓の外の景色を追っていた。もうこちらに対する興味が失せたということか。
もう一度、今度はこちらを振り向かせるために触れたら彼はどんな反応をするだろう。
しかしそれを試すにはもう時間が残っていなかった。目的地は既に数分とかからない距離にまで迫っていて、到着したら自分は生き残った仲間と手分けをして酔っ払いたちの介抱に取りかからねばならない。
たった今自分は、水面まで姿を現した気難しくも珍しい魚を目の前でみすみす取り逃したのかもしれない。