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GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

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    しおり
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    運命を継ぐもの私はそれに運命と名前を付けた。


    その屋敷には過去にマグル(アメリカでは魔法を使わない彼らの事をノーマジというらしいが、ニュートがそう呼ぶのでクリーデンスも倣ってマグルと呼んでいる)が住んでいた。周辺地域では名の知れた旧い貴族の血筋だったらしいが、奇病で当主の一人娘が死んで以来その家は没落の一途を辿り、ついには屋敷を手放さざるを得なくなったという。屋敷から逃げるように居なくなってしまった貴族の末裔たちが今どこで何をしているのかは、この町の誰も知らない。
    過去をざっと調べても別段これと言って目立った曰くがあるわけではなかった。人死にもその一人娘の病死位で、他殺や自殺は勿論、事故死だって起きていない。だというのに町の人々はそこを人食い屋敷と呼び、不躾に足を踏み入れる者を呪い殺すのだと恐れていた。
    当主の一人娘の死から始まった屋敷の呪い。
    ニュートはそれを魔法生物の仕業と考えた。
    放棄された私有地の調査機関を装い町人に聞き込みを行った結果、彼は確信を深めたようだ。少なくとも、当主の娘の奇病には魔法生物が絡んでいると断言した。
    事前情報の調査も終え、ニュートとクリーデンスは元々の住人が去って半世紀は優に経とうとしている屋敷の前に立つ。最初の住人が去った後も好奇心か酔狂か、この屋敷を買い取って住もうとする者が居たようだが誰も長続きはしなかった。最後の住人が立ち退いたのが今から8年前。それ以降買い手はつかず、人の住まなくなった屋敷はあっという間に老いた。
    朽ちて錆びた門扉は傾き、押し開けようとすると酷い音を立てて軋んだ。中庭には膝程の高さまで雑草が生い茂り、石煉瓦の小道はひび割れている。
    窓は見渡す限り全てが割れ、内側から木板が打ち付けられていた。乱雑に固定された板の隙間から内部の暗闇が垣間見え、クリーデンスは恐々と周囲を見渡し迷いなく中庭を突っ切り屋敷の正面玄関へ向かうニュートの背中を追う。
    「先生、本当に入って大丈夫なんですか」
    時折足元に視線を落とし何かの痕跡を探しているニュートに不安から声を掛けると、彼は地面から顔を持ち上げクリーデンスの方を振り返った。
    「役場からも許可は貰ったし、怒られないよ」
    「そうじゃなくて、呪いとか、本当にあったら」
    「え?うん、それを確認しに来たんだから。実際に入ってみないと分からないよ」
    不思議そうに首を傾げられ、クリーデンスは返答に窮した。何か、根本的な齟齬を感じる。
    クリーデンスが迷っている間にもニュートはずんずん歩を進め、閉ざされた正面玄関の扉の前に立った。役場に許可を貰いに行った際預かった鍵を鍵穴に差し込み捻る。かちん、と音がして鍵が拘束力を失った事を確認し、ニュートはそっとドアノブを捻り押し開けた。
    どれだけゆっくり開いても扉はぎぎ、と大袈裟に音を立てる。中は当然ながら薄暗く、空気も淀んでいた。ニュートがランタンを取り出しマッチで火をつけると、ぼんやりと橙色の光が室内を照らし出す。カビのつんとした臭いとランタンのオイルが燃える匂いがクリーデンスの鼻先を擽った。今回マグルの町で、ニュートもマグルを装ってこの屋敷の調査権を得ている。下手に杖を使用して、町人に見られる事だけは回避しなければならない。
    かつては広々とした吹き抜けのエントランスホールだったのだろうが、シャンデリアは落ち絨毯も剥げ、荒れ放題の様相であった。人が寄り付かないこの場所を隠れ蓑にしていた不法滞在者が居たのだろう、焚火の痕跡や無闇な暴力を振るった名残りがあちこちに伺える。
    分厚く積もった床の埃を見る限り、少なくともここ数か月の間は誰も入ってきていないらしいことが分かった。
    「少し安心したよ。廃墟で何が一番怖いって、生きた人間と遭遇することだからね」
    建物の崩壊や、今回のような曰く付きの物件ならば心霊的な事象も十二分に注意すべき点ではあるが、人の寄り付かない廃墟で最も出会ってはならないのは生身の人間だろう。人目の憚られるような後ろ暗い事をするのに廃墟以上に打って付けの場所もない。
    見つかれば最悪、自分が『曰く』の仲間入りをすることになる。
    「昔、魔法動物を追っかけてマグルの密売組織の塒に知らずに入っちゃって、酷い目に遭ったよ」
    「だ、大丈夫だったんですか…?」
    「大丈夫じゃなかったら、今頃僕の臓器は姿現し失敗した時みたいにばらけてたかもね」
    はは、と軽い冗談のように言うがクリーデンスにしてみれば全く笑えない話だ。
    「クリーデンス、変なものを見付けたり聞いたりしたらすぐ僕に言うんだよ。それが魔法動物であれ人間であれそれ以外であれ、対処は早いに越したことはないから」
    「は、はい」
    クリーデンスは自分の肩掛けの鞄から帳面を取り出し、鉛筆でまだ何も書かれていない紙面に文字を書きつけた。ニュートから文字の読み書きを習ってから此方、調査記録の覚書はクリーデンスの仕事である。
    初日は屋敷の外回りと一階部分の部屋の把握のみで何事もなく過ぎた。特にこれといった手掛かりも掴めず、日が落ちてきたので屋敷の中で野宿することにする。
    近くに町があるのだからそこに宿を取ればいいのでは、と提案したがこれも調査の一環だという。
    「野生の魔法動物はとても警戒心が強いから、余所者には敏感なんだよね。だから出来るだけ僕らがこの屋敷に馴染んでいかないと、いつまでも姿を見せてくれないんだ」
    いくら正当な理由があろうと、周囲からは幽霊屋敷と呼ばれる曰くつきの建造物である。夜を内部で越すことに一抹の不安はあったが、ニュートは全く気にならないようで逆に壁と屋根がある事を無邪気に喜んでいた。
    比較的綺麗な状態を保っている部屋を探し出し、そこを調査期間中の拠点と定める。
    念のため外敵が一定の距離に近付くと炎の色が変わるろうそくにランタンの火を移し、隙間風と家鳴りの音を聞きながら保存食で夕飯を済ませた。不味い訳ではないがやはり味気ない。調査を終えたら美味しいものを食べに行こうと約束し、その日は明日の事を考え早めに就寝することになった。
    ろうそくの火が眠ることを遮らない程度に室内を照らしている。野宿にも随分慣れたつもりだったが、まさか曰くつきの廃墟で眠ることになろうとは。
    少し離れた場所でこちらに背を向けて毛布に包まって眠っているニュートの肩が寝息で上下するのを眺めていると徐々に瞼が重くなって行き、漸く近付いてきたなだらかな眠気に逆らわずクリーデンスは目を閉じた。

    その夜クリーデンスは夢を見た。
    きらびやかな夜会の光景、一昔前のドレスを纏った女性たちがタキシードを来た男性と音楽に合わせて楽しそうに踊っている。少し地味なドレスを来た自分は気後れしてしまい、壁際から動けずにいた。何分初めての舞踏会だ、緊張で正しくステップが踏めるかも怪しい。
    父から誕生日の祝いにと贈られたブローチに触れる。ぱっとしない自分とは違って、ブローチは照明を反射しきらきらと美しく輝いていた。
    波打つ赤毛も、積極的になれない理由の一つだ。人参色だとからかわれたのは随分と昔の事だが、それ以来自分に自信が持てない。
    根が張ってしまったように立ち尽くす自分に手を差し伸べてくれる人が現れた。もしも運命というものがあるのなら、間違いなくこれは神に定められた出会いだろう。
    優しく細められる青い瞳に、私は一瞬で恋に落ちた。

    「……、」
    物音がした気がして目を開くと朝だった。窓に打ち付けられた木板の隙間から白い朝日が差し込んでいる。クリーデンスが寝惚けながらもそもそと体を起こすのと殆ど同時にニュートがトランクの中から出てきた。
    寝癖もそのままに、動物たちの朝食をやりに行っていたらしい。自分の朝食も後回しに。彼らしいというか何というか。
    朝食と身支度を済ませた後は、引き続き屋敷の二階以降の部分の調査を進める。
    床で寝たからかいつまでも意識が覚醒し切らず夢見心地で、一度床板が腐敗していることに気付かず思い切り踏み抜き階下へ落ちかけた。膝元まで埋まった足を引き抜くと丸い穴から下の階の廊下が見えぞっとする。
    「気を付けてね、見た目じゃ通っても大丈夫か分からないところもあるから」
    「すみません…」
    また踏み抜くと今度こそ直下してしまう為、穴を開けてしまった箇所を手近にあったテーブルの天板らしい板で軽く補強する。用心深く廊下を進み、扉の外れた部屋の中を覗き込んだニュートが気の抜けた声を上げた。
    「わあ、これはまた」
    後ろから覗き込むと、一瞬室内がどうなっているのか分からなかった。ランタンの光を受ける床が無く、どこまでも闇が広がっているように見える。目を凝らすと、床がある筈の空間に一階の梁がむき出しになっているのが分かった。
    「この下は確か、広いホールだったかな。壁や柱が少ないから自重で抜けちゃったんだろうね」
    「ホール…」
    昨日見た光景を思い出す。バラバラになった机と脚の壊れた椅子が転がる閑散とした空間だった。全盛期は毎晩のように夜会が開かれていたのだろうが、当然面影はない。
    「あっ……」
    不意に、夢の中で見た光景がよみがえり、あの夢の舞台がかつてのこの屋敷なのだと気付いた。夢の住人が身に付けていたドレスのデザインが一昔前のものだったのも、最初の住人である貴族らの年代のものだと思えば納得出来る。
    「どうしたの?何か見つけた?」
    小さく声を漏らしたクリーデンスの視線の先を共有しようと目を凝らすニュートにクリーデンスは慌てて首を振った。
    所詮、夢は夢だ。廃墟の雰囲気に呑まれて見たものなのだろう。
    クリーデンスの様子を特に疑うこともなく、ニュートは「何か見つけたら教えてね」と床の抜けた部屋の探索を諦め次の部屋へ移動を再開させた。後を追う為体を反転させ、視線だけで室内に広がる闇を見下ろす。
    「あの子は、……」
    クリーデンスは夢の中で赤毛の少女になっていた。彼女の思い、考えていることも自然と頭に流れ込んできて、まるで追体験をしているようだった。彼女は実在した人間なのだろうか。いや、そんなまさか。
    「クリーデンス?」
    「あ、はいっ」
    名前を呼ばれ、クリーデンスは静かに扉を閉めると少し先で立ち止まっているニュートの下へ急いだ。最後に肩越しにちらりと部屋へと視線を投げると、四角く切り取られた暗闇がただそこに佇んでいる。
    「(あれ?扉……)」
    自分は扉を閉めた筈ではなかったか。疑念が頭を擡げるが、途中ではたと思い至る。
    そうだ、そもそもあの部屋に扉はなかった。外れてしまっていたのだから。
    「(じゃあ、……僕は)」
    クリーデンスは頭を振って考える事を止めた。気のせいだったのだ、習慣が身に沁みついて、扉を閉めたと錯覚しただけだ。強引にそう結論付け、少しでも早くニュートの傍に辿り着こうと歩調を速めた。

    鮮やかな恋、鮮烈な、そして短い恋だった。
    戦争だ、兵士として旅立った彼は戦場から戻ってこなかった。彼から託されたと、彼の友からシルクのリボンを手渡される。
    私の誕生日に渡すつもりだったと、私の髪に良く映える色を選んだと。彼の瞳と同じ色、もう二度と開かれる事のない瞳と。
    何故、なぜいってしまったの。
    私の事を思うのなら、その気持ちが偽りのないものなら、無様に逃げ延びてでも生きて戻って欲しかった。彼はもう戻らない、二度と。手の届かない場所へいってしまった。
    調査を開始して三日目、三階の書斎らしき部屋で朽ちかけた机の引き出しに手を掛けた時、突然ランタンの火が消えた。同時に音すら闇に吸い込まれたように何も聞こえなくなりクリーデンスは悲鳴も上げられないまま体を硬直させる。
    「せ、先生……?」
    すぐ近くでニュートも部屋を調べていた筈だ、いくら声がか細くとも聞こえない筈はないのだが返答は無い。誰かが身動きする気配も感じられなかった。
    手元のランタンに再度火を灯そうと手繰り寄せるが光の一切介入しない完全な暗闇の中ではランタンのどこに触れているのかも覚束ない。
    「(そうだ、マッチ…火をつけないと)」
    指先の感覚だけを頼りにマッチの箱を鞄の中から探る。漸く手の中に収まってしまう小さな箱を掴んだ時、背後で扉が開く音がした。
    ニュートだろうか、しかし未だ暗闇は保たれたままだ。彼もランタンを持っているし、非常時なら杖で最低限の光源くらい確保するだろう。
    こつん、と床板を噛む細く硬い足音。違う、彼ではない。彼はヒールの靴等履かない。
    彼でないのなら、この気配の主は一体誰なのか。
    酷くゆっくりとした歩みで、気配の主は部屋の中へ、クリーデンスの傍へ近寄ってくる。人のものらしき息遣いが聞こえる。こちらの様子を伺っているのだろうか、クリーデンスは呼吸を止め見えない気配の動きに神経を尖らせた。
    気配が手を伸ばす、触れられてしまう!
    恐ろしさからぎゅっと目を閉じて身を硬くしていると、結局気配はクリーデンスに触れることなく遠ざかっていった。そっと慎重に目を開く。ランタンの火は変わらず消えていたが、周囲は完全な暗闇ではなかった。木板の隙間から差し込む陽光が薄らぼんやりと室内の輪郭を浮かび上がらせている。
    「……、…」
    言葉を失っていると廊下に続く扉の向こうからひょこりとニュートが顔を出した。クリーデンスに休憩を告げに来たらしい彼は、部屋の中央で呆然と立ち尽くすクリーデンスを見て片眉を持ち上げる。
    「クリーデンス?どうかした?」
    「……え、あの…」
    「ああ、ランタンが消えちゃったんだね。うーん、まだ燃料は残ってるのにどうして消えちゃったんだろう」
    ニュートが手持ちのマッチでクリーデンスのランタンに火を点けた。部屋に橙色の光が戻り、壊れた家具の陰影が影絵のように壁に映し出される。
    クリーデンスは自分の手に握り締められたマッチ箱を見下ろした。あの完全な暗闇と、正体不明の気配に思いを馳せる。もし、もう少しだけクリーデンスがマッチ箱を見つけるのが早かったら、あの暗闇の中をマッチで照らし出していたら、気配の主の正体をこの目に捉える事が出来たのだろうか。
    そしてその正体を知った時自分は、果たして無事で居られただろうか。
    自分の中に明確な答えは無く、さりとてあの気配を深追いする勇気もなく、クリーデンスはニュートに促されるまま部屋を後にした。

    炎の病。
    巷ではそう呼ばれているらしい。ああ確かに、その名前の通り。全身が炎で炙られているように熱い。どれだけ冷やしても足りない、体は凍り付いていようと皮膚の下が焼け付いている。
    苦しい、呼吸するだけで肺が燃える。最低限生きようとする努力すらままならない。この苦しみがこの先ずっと続くのなら、いっそこの心臓の動きを止めて楽になりたい。死ねば英霊となったあなたのそばにいけるのだろうか。病よりも何よりもあなたの居ない孤独が私を蝕んでいる。
    死ぬのならあなたの愛に殺されたかった。

    「……!……ンス!起きて、クリーデンスッ!」
    目を開くと同時に大きく息を吸う。途端肺に火種が投げ込まれたように焼け付いてクリーデンスは横たわったまま体をくの字に折り曲げて咳き込んだ。長距離を全力で走った直後のような息苦しさと疲労感、そして肺に限らず茹だるような熱が全身に及び意識を取り戻したクリーデンスを一挙に襲う。
    「せ、……んせ…」
    「大丈夫?酷いうなされ方だったけど…怖い夢でも見てた?」
    「うな、されて……?」
    直前まで見ていた夢の記憶は曖昧で、根拠なく不安だったが上手く言い表せなかった。
    「分からな、いです……でも、すごく暑い…体が熱い……」
    ただの風邪とは明らかに一線を画した熱に頭が浮かされて正常に働かない。あつい、あついと繰り返すことしか出来なかった。
    「クリーデンス、服脱げる?」
    「ふく……」
    深刻な表情をしたニュートに言われ、覚束ない指先でシャツのボタンを外した。全ての感覚が酷く遠い。見下ろす手が小刻みに震えていた。
    「体を見せて」
    言われるがままシャツをくつろげ、自分の体を見下ろして初めて異常に気付き驚きから声を漏らす。肌が赤く爛れていた。まるで炎の海の中に投げ込まれたかのようだ。それを見たニュートは表情を険しくさせ、囁くような声量で症状の正体を告げた。
    「溶岩蟲の毒を貰ったね、クリーデンス。何か心当たりはある?」
    どうやら彼の言う『溶岩蟲』というのがこの火傷の原因なのだと何とか理解は出来たが、クリーデンスは首を振った。分からない。虫なんて見掛けなかったし言いつけ通り変なものに触れもしなかった。心当たりはない。
    朦朧として、思い出せないだけかもしれないが。
    ニュートは身動きの取れないクリーデンスを抱えると姿くらましを使い移動した。辛いだろうけど座ってて、と促された場所がトランクの中の作業小屋である事に暫くしてから漸く気付く。
    ニュートはクリーデンスに背を向けて薬品の保管されている戸棚からいくつか小瓶を取り出し、手順の暗唱か何事かを口の中で呟きながら小瓶の中身を手早くグラスの中で混ぜ合わせて行く。青く光り、次に赤く染まり、やがて緑色になった液体をぐるぐると混ぜると白濁して粘性を帯びてくる。攪拌棒の先を舐めて確認したそれをニュートはクリーデンスの鼻先に差し出した。
    「毒下しだよ、飲んで。吐き気がしてきたら、ここに吐いていいから」
    バケツを足元に設置され、言われるまま酷い味の液体を飲む。確かに吐き気を催す味だった。健常時であったら全て飲むのは至難だったかもしれない。あらゆる感覚が熱で麻痺している今だからこそ無理矢理食道に流し込む事が出来た。
    喉の奥に張り付く液体を飲み下し、暫く待ったがせり上がってくる感覚はない。
    無理にでも吐いた方が良いのだろうかとニュートの様子を伺うと、彼は首を傾げた。
    「あれ、吐き気こない?……変だな、この症状は確かに…」
    ごとんっ!
    その時頭上で大きな物音がしてクリーデンスは思わずその場で跳び上がり、椅子から転げ落ちそうになった。例えるなら重いものが落ちて床に叩き付けられた時のような、屋敷全体が震える錯覚がする程大きな音。
    「な、なんでしょうか…今の音」
    音の出所はトランクの外のようだが、誰も居ない筈の屋敷の中で一体何が起きたというのか。
    不安に駆られ外へ続く梯子を見上げるクリーデンスの言葉にニュートはきょとんとした声を上げた。
    「え、音?」
    「え……?聞こえたでしょう?ごとん、って、重たい音」
    「聞こえ……たかな?」
    いくら他の事に気を遣っていたとはいえ、聞き漏らす方が難しい大きな音だったのに、ニュートには聞こえなかったらしい。
    あんなにも屋敷全体を揺るがすような音が?
    「……、誰か、きたのかもね。クリーデンスはここに居て。ちょっと見て来るよ」
    ニュートは戸惑いの表情を引っ込め、杖を片手に梯子を登ってトランクの外へ顔を出す。注意深く周囲を見渡し警戒するが、クリーデンスの言う物音に関わるような変化は見られない。自分達以外の生き物が居た気配もなかった。
    念の為拠点としている部屋を出てそこから続く廊下の端から端まで見て回ったが異変の正体は分からずじまいで、首を傾げながら部屋に戻ってくる。
    人間ならば当然のこと、ニュートの知る魔法動物の中にも痕跡を一切残さず特定の人間にだけ聞こえる音を出す動物等存在しない。熱に浮かされたクリーデンスの幻聴だったのかもしれない、と一旦結論付けニュートは開けっ放しのトランクの中を覗き込んだ。
    「クリーデンス、大丈夫だよ。誰も居な……クリーデンス?」
    ニュートは梯子を下りると作業小屋の床に降り立ちぐるりと室内を見渡す。先程までそこに居た筈のクリーデンスは忽然と姿を消していた。
    音は今も断続的に続いている。いや、頭の中で反芻されているだけかもしれない。分からない。だが音の正体を確かめずには居られなかった。
    体中の血が煮え滾っているようだ。熱で眩暈がする。視界が右に左に回っては遠のいたが、そのたびに立ち止まって耐えた。
    片手にランタンを握り締め、壁を伝って廊下を進む。音の出所を手繰り寄せ、クリーデンスは昼間謎の気配を感じた書斎に辿り着いた。音はかなり近くなったがまだ扉一枚分程遠い。隣の部屋だろうかと踵を返しかけた時、書斎に置かれている朽ちかけた机の一番上の引き出しが口を開けている事に気付いた。
    手を掛けはしたものの、直後暗闇に見舞われた為すっかり調べる事を忘れていた引き出しだ。ニュートが後から来て中を確認していったのだろうか。いやもうそんな逃避じみた仮定に意味はないだろう。
    この屋敷には明らかにクリーデンスら以外の誰かが居る。その『何か』がこれ見よがしに引き出しを開けて行ったのだ。
    机に近寄り引き出しを覗き込む。中にはぽつんと小さな鍵が入っていた。襲い来る暗闇を覚悟して鍵に手を伸ばす。触れる直前躊躇いが顔を出し手が止まるが、途端ぐっと見えない力がクリーデンスの手を押して鍵を掴ませた。
    「っ!」
    慌てて鍵を掴んだ腕を取り戻し後ずさるがそれ以上何も起こらず、手の中に大人しく収まった鍵を見下ろす。錆びついた古い鍵だ、おそらくこの屋敷の何処かの扉を開ける為に使うのだろう。
    しかし三日かけた調査で部屋は全て見て回った筈だ。そのどれにも鍵は掛かっていなかったし、扉の他に鍵が必要そうな代物も見た覚えがない。
    悩んでいると背後を足音が通って行った。昼間の、ヒールのある靴を履いた足音だ。思わず振り返り周囲を見渡すが触れられそうな程近くを通って行ったのにも関わらず人影はない。
    足音は書斎の奥へ向かって行った。その先には本棚しかない筈だが足音は立ち止まることなく遠ざかって行く。無意識に足音を殺して、クリーデンスは書斎の奥へ歩を進めた。
    壁際に沿って置かれた本棚のすぐ近くの床に重いものを引き摺ったような跡が付いている事に気付く。本棚を掴んで跡の方向に引くとするすると音もなく本棚は引き出され、その奥から小さな扉が現れた。
    所謂隠し部屋へ続く扉なのだろうが、鍵が掛かっていて開かない。試しに書斎の机に入っていた鍵を鍵穴に差し込み捻るとかちりと音を立て錠が役目を放棄した。
    扉を開けると同時に、執拗に響き続けて居た落下音がぱたりと途絶える。扉が開け放たれ、クリーデンスの前には気の遠くなるような闇と、耳が痛くなる程の静寂が立ち塞がっていた。呼吸一つするのにも酷く神経を使う。クリーデンスはか細く息を吐き爪先をじわりと室内へ進めた。
    中に足を踏み入れる。暗い。カビと埃の臭いの充満する淀んだ空気に咽そうになる。半ば息を止めて堪えた。
    ぎぃ。ぎぃ。
    何かが軋む音。規則的で、振り子のような。汗が滲む。皮膚の下が酷く熱い。掻きむしりたい、皮膚を剥がして湖に飛び込みたい。
    ぎぃ。ぎぃ。
    クリーデンスが義務感に駆られて一歩部屋へ踏み入るたび、ランタンが暗闇を裂き室内の様子を浮かび上がらせる。かつては家具であったのだろう何かの破片や鼠に齧られ朽ちた絨毯、剥き出しの床板がランタンの光を吸って不安定な影を生み出した。
    ランタンの光が届くぎりぎりの範囲に、ゆらゆらと揺れるものが掠める。慎重に目を凝らすと爪先が見えた。ヒールの靴を履いた少女の足先。その足の裏は地面を踏まず、音に合わせて揺れている。
    見ない方が良い、頭の隅では分かっているのに体は勝手にランタンと共に視線を持ち上げる。
    嗚呼。
    鮮やかな赤毛に、首に巻き付いた青色のリボンがよく映える。碧空を落とし込んだリボンの端は部屋の梁に括り付けられ、件の軋む音を出していた。
    ガラス玉のような目がクリーデンスを見上げている。いや見上げているのは自分か?視界が混ざる、現実と夢の間のように、意識が曖昧だ。黒髪の青年を見下ろしているのは誰だ、赤毛の少女の視点から、彼女の短い半生をなぞっていた自分は一体誰だ。揺れている、視界が、少女が、青年が、自分が、急かすようにこちらを見ている。
    はやく、いかなければ。
    彼のもとへ。
    「クリーデンス!!」
    強い力で引き寄せられ足元が大きくぐらつき床の上に派手に転倒した。クリーデンスが大きく動いたことで舞い上がった埃を思い切り吸い込んでしまい激しく咳き込む。
    埃っぽい空気を吸う度に頭がはっきりしていった。薄暗いながらもぼんやりしていた視界が明瞭になり、同時に体が酷く冷えていることに気付き思わず身震いする。あれ程クリーデンスを責め苛んでいた熱はいつの間にか何処かへ消えてしまっていた。
    「意識は戻った?何をしてたか覚えてる?」
    尻もちを付いたまま見上げた先には緩く輪の作られたリボンが梁から提げられ揺れており、その真下には不安定な椅子が倒れている。引き寄せられた時、自分が何をしようとして何の上に立っていたのか漸く気付いてぞっとした。
    「ごめん、僕の判断ミスだ。毒なんかじゃなかったんだ」
    震えるクリーデンスに自分のコートを被せ背中を摩る。
    「これは呪いだ」
    ニュートは大きな円を描くように杖を振った。杖の先から白っぽい光が零れ、二人の周囲にドーム状の透明な壁が生成される。
    注意深く周囲を見渡し、未だ小さく揺れているリボンが掛かった梁の上辺りにニュートは杖の先を据え呪文を低く囁いた。
    「レベリオ」
    闇色の緞帳が剥がれ落ちるように、梁の上に居た不可視の存在を露わにする。
    首が奇妙に伸びた少女がガラス玉のような目でクリーデンスをじっと見下ろしていた。呆然と視線を見返すクリーデンスの目をニュートの掌が覆い隠す。
    「見ちゃ駄目だ、また引き摺られるよ」
    言われて慌てて視線を下へと逸らした。しかし少女が未だにクリーデンスを見つめているのが嫌でも分かる。梁の上を移動しているのかぎぃ、ぎぃと音が鳴った。
    「どうやら気に入られてしまったね、このままじゃいずれ憑り殺される」
    目を合わせないように様子を伺うと、透明な壁のお陰で今のところは手出しが出来ないらしく、うろうろと四つ足で歩き回っているのが見える。
    「せ、先生……どうすれば…っ」
    「僕が対処する」
    ニュートはクリーデンスに被せたコートの内ポケットから小皿と背の低いろうそく、そして仄かに光る青い液体の入った小瓶を取り出した。小皿の上にろうそくを立て杖の先端で火をつける。途端に常とは違う緑色の炎を灯したろうそくを床に置き、小瓶の封を開けると中の液体を喉の奥に流し込んだ。
    名前を呼ばれ縋る思いでニュートの方を向くと、両肩を正面から掴まれ決意の籠った目で間近から覗き込まれる。
    「これから、僕がどれだけ苦しんで君に助けを求めても、君は返事をしちゃ駄目だよ。このろうそくの火が消えるまで、ここの結界から出ないように。約束出来る?」
    不穏な指示に心臓はどくどくと脈を速くするがクリーデンスははっきりと頷いて見せた。クリーデンスの返答を見届け、ニュートは単身結界の外側へ這い出す。
    それを待ち構えていたかのように、少女が梁の上からニュートに飛び掛かってきた。
    「せん……っ!」
    思わず声を上げるがニュートが口の前で人差し指を立てた事で言いつけを思い出す。震える両手で自分の口を覆った。
    自分に飛びついてきた少女を、あろう事かニュートは何の抵抗もせず受け止める。勢いのまま仰向けに押し倒されたニュートの中に少女はずぶずぶと溶け込んでいった。癒着していくように、少女とニュートの境目が曖昧になり、やがて一つになっていく。
    「う、ぁ」
    少女が完全にニュートの中へ消えた途端、ニュートの表情が変わった。
    「ぅああぁっ!!」
    胸を掻き毟り足で床を蹴って暴れる。喉が傷つくことも厭わない叫びはクリーデンスにまで苦痛を錯覚させる程悲痛なものだった。
    ニュートはのた打ち回って叫び、喘鳴の合間に何度もクリーデンスを呼ぶ。
    助けて、助けて、苦しい、熱い、死んでしまう、こっちへきて、助けて、クリーデンス、クリーデンス!!
    クリーデンスは言いつけの通り、何度呼ばれても歯を食い縛り返事をしなかった。ただ震えていた。何もできない事への歯がゆさと恐怖の間で。
    どれ程ニュートは苦しんだのだろうか、不規則に体が痙攣したのを最後に糸が切れたように動かなくなる。ニュートの悲鳴が途絶えると部屋には幾度目かの静寂が満ちた。
    ろうそくの火はまだ消えていない。勢いは弱まりつつあるものの緑色の鮮やかな炎を揺らし続けて居る。助け起こし縋りつきたいのを堪え、じっと待った。
    ゆっくりと火勢を失ったろうそくの火がふっと消えると同時に、床に爪を立て俯せの状態で倒れていたニュートががばりと体を起こした。四つん這いになり激しく咳き込んだ末黒いタールのようなものを床に吐き出す。
    「っげほ、うぇ……っ」
    クリーデンスは慌てて駆け寄り背中を摩る。胃袋一杯にタールが詰まっていたのではと思う程大量のそれを吐き出し終えた後顔を上げたニュートは先程の鬼気迫る形相は何だったのかと思う程けろりとしていた。
    「ああ、苦しかった。もう大丈夫だよ、怖い思いをさせたね」
    「は、はい……」
    戸惑いは強いが呪いは片付いたらしい。余りに呆気ない幕引きに感じたが、確かに部屋から嫌な空気は消えていた。カビと埃の臭いはどうしようもないとして。
    あの少女は一体何だったのかと問うとニュートは口元を拭いながら梁の上を見上げた。くすんだ色のリボンが死んだように垂れ下がっている。もう揺れてはいない。
    「この屋敷で病死したっていう女の子だったんじゃないかな。初めはちょっとした心残り程度だったんだろうけど彼女の思念に、周りの似たものたちが呼び寄せられて、その都度取り込んで大きくなって、たぶん自分でも制御できなくなってた」
    今回何故かクリーデンスと波長が合ってしまった結果、生身の人間であるクリーデンスが引き寄せられたのだろうとニュートは憶測を語った。
    「今は先生の中に居るんですか?」
    「いや、もうどこにも居ないよ。感情の塊みたいなものだからね。その感情が落ち着くか、満たされれば自然と消えて行くんだ」
    ニュートは空になった小瓶をクリーデンスの前に差し出した。
    「これ、僕がさっき飲んだ奴ね。スウィーピングイーヴルの毒を調合したもので、嫌な記憶を消してしまえる効果がある。『彼女たち』を僕の中に招き入れて、嫌な気持ちや辛い記憶を中和させたんだ」
    『彼女』は病で死ぬことを拒絶し、彼の遺したリボンを用いて自死を選んだ。そうすることで彼に会いに行こうとした。
    死後間もなくは実害のないただの残留思念であったが、彼女と同じく亡者となった者共の感情と癒着を繰り返す内、次第に本質が変化していってしまったのだろう。
    『彼女ら』は自死の瞬間を繰り返し、自らと同じ辛く悲しい思いを抱える者を取り込もうとこの部屋へ誘う。
    クリーデンスも過去の冷たく忌まわしい記憶を読み取られ、肩に手を掛けられたのだ。
    だがいくら悲しみを抱える者を取り込み続けたとしても彼女がこの先満足することは決してなかっただろう。彼女が探し求めていたのは英霊となってしまった唯一人なのだから。
    「彼女は、ちゃんと彼に会えるでしょうか……」
    クリーデンスは夢うつつに見たものをぽつぽつとニュートに語って聞かせた。ニュートは短い相槌以外に口を挟まず、クリーデンスの上手いとは言えない語りに耳を傾ける。
    「そうか……そんな事が過去にここで起こってたんだね」
    ニュートは神妙な顔で頷くと梁に括り付けられていたリボンを解き丁寧に皺を伸ばして折り畳む。掌の中に収まってしまえる大きさになったそれを、そっとクリーデンスに差し出した。
    「君が眠る場所を決めてあげて。彼女の思いを知ってる君が」
    受け取ったリボンはクリーデンスの手の中で大人しくしている。もう恐ろしくはなかった。
    「先生、手伝って貰えますか」
    暫しの黙考の末緩くリボンを握り締めて振り返ったクリーデンスの問いに対するニュートの答えは初めから決まっているようだった。
    「勿論、僕に出来ることなら」

    いつの間にか夜は既に明け、太陽が山間から顔を覗かせている。僅かな移動音と共にクリーデンスはニュートに連れられ姿現しで屋敷の屋根の上に出た。必要に駆られ何度か経験しているが、姿現しの体を内側へ引っ張られるような感覚は未だに慣れない。
    「足元気を付けて」
    慎重に足場を探し体重を乗せ自立する。周囲に屋敷より高い建造物はなく、見渡す限り平たい草原が広がり、遠くには小さな家屋がぽつぽつと建っているのが見えた。眺めに意識を奪われたのも束の間、優しくはない風が横殴りに吹き付けてきて慌てて足に力を入れて踏ん張った。
    「思ったより風が強いな……ちゃんと火がつくといいけど」
    クリーデンスの手には古びたリボンと、マッチの箱が握られている。せめてもの抵抗として、風上に自分の体を置いて座り込み手元で箱からマッチを取り出し側面で擦った。ジッと音がしてマッチの先端に火が灯る。吹き消されてしまわない内に、クリーデンスはリボンの端を小さな炎に近付けた。
    この判断が正解か否か、クリーデンスには分からない。ただ、ずっとこの屋敷に囚われ続けて居た彼女を自由にしてやりたいと思ったのだ。彼女は長く苦しんだ、半世紀もの間ずっと。もう解放されてもいい筈だ。
    リボンの表面を炎が撫でた途端、あっという間に橙色の熱は燃え移った。炎の朱い色は青色の布地によく映えて、まるで彼女の髪の色のようだった。
    全てが燃え尽きる直前にクリーデンスはリボンを風に乗せて手放す。巻き上げられ上空へ身を泳がせたリボンは火勢を増してほんの一瞬で跡形もなく燃え尽きてしまった。
    「……、」
    雲一つない空を見上げ暫くの間祈りを捧げる。どうか彼女の旅路が穏やかなものであるように。
    「……そろそろ戻ろうか」
    ニュートに優しく肩を叩かれ、クリーデンスは逆らわず立ち上がる。姿くらましでその場を去る直前、視界の端にあの鮮やかな赤毛が見えた気がした。
    二人同時に書斎の床に靴底を付ける。ふらついたクリーデンスをニュートが支える。
    「さて、調査も終わったし僕らも撤収しなきゃね」
    呪いの根源はこの屋敷を去った。人食い屋敷という呼び名も徐々になくなっていくだろう。
    魔法生物の調査としての収穫は無いに等しかったが、様々な場所を調査して回っているとままある事だ。殊更気にする程のことでもない。
    大きく伸びをした後踵を返すニュートにクリーデンスも続こうとして、ふと書斎の机の二番目の引き出しが薄く開いている事に気付き硬直した。一段目の引き出しから鍵を取った時、他の引き出しは開いていなかった筈だ。今更になって何故。
    部屋を出て行こうとしていたニュートを引き留め事情を話すと、ニュートは少し考えた末大股に机に歩み寄り中途半端に開いた二段目の引き出しに手を掛けた。
    「せ、先生っ」
    クリーデンスが制止するより早く引き出しの中身が露わになる。恐る恐る二人して中を覗き込むと、そこに収まっていたのは美しい細工の施されたブローチだった。中央に大きく鮮やかな宝石のあしらわれた、女性もののデザイン。専門的な知識のない二人でもそれが相当な値打ちのするものだと分かる。
    恐らくは『彼女』の私物。いやこの場合は遺産と呼んだ方がいいのか。
    「……」
    「……これは、つまり?」
    半世紀も前の住人の持ち物が誰にも気付かれずこんな場所に残っている可能性は限りなく低い。それが二人の前に鎮座している意味とはつまり。
    「あなたにあげる、ってことなのかな…?」
    半信半疑に呟くニュートの言葉を肯定するように、ブローチがころりと引き出しの中で転がった。
    自分を解放してくれた礼なのか、身軽になった旅路には必要ないものだと譲渡しようとしたのかは不明だが、クリーデンスはそうっと慎重な手つきでブローチを拾い上げた。
    「綺麗ですね……」
    「くれるっていうんなら、貰っておきなよ」
    「いいのかな、僕なんかがもらっても」
    振り向いてみても足音はもうしない。彼女はいってしまった。誰も彼女の悲しみを知らないまま。人食い屋敷の最初の被害者である彼女の孤独と苦痛は誰にも受け継がれなかった。
    「僕の勝手な憶測だけど、彼女は君に覚えてて欲しいんじゃないかな。何もいつも考えてなくてもさ、そのブローチを見た時にでも思い出したらいい」
    頭にニュートの手が乗せられ、軽く掻き混ぜられる。彼の重すぎない言葉は自分の中にすとんと落ちてきて、クリーデンスはブローチをぎゅっと握り締め深く頷いた。
    「……はい」
    名前も知らない、生きる時代も世界も違う、ただ僅かな間記憶を共有した彼女とクリーデンス。二人を結ぶ奇妙な縁の証はクリーデンスの掌の中できらきらと美しく輝いていた。
    クリーデンスを苛んだあの焼け付く熱は彼女の病を追体験したことで発生したいわば幻覚の産物であった。故に毒下しも効果がない。彼女にとって炎の病は不治のものであったからだ。
    炎の病、かつてマグルの間でそう呼ばれ恐れられていた原因不明の病は、ニュート曰く溶岩蟲と呼ばれる魔法生物の毒が原因なのだという。
    毒針に刺された対象は体内を巡る血液の温度が徐々に上昇していき、その過程で肌が火傷を負ったように爛れる。放置していれば三日と経たず血液は沸騰する程の高温になり、対象者は文字通り体内を生きながらに焼かれて死亡するのだ。
    最早推測しか出来ないが、恐らく彼女も何処かで刺されてしまったのだ。魔法界では随分前に治療法が確立され、毒下しも調合の然程難しくない一般的な魔法薬として認知されているが、魔法生物の存在すら知らないマグルには当然対処する術もなく、原因も治療法も不明の恐ろしい奇病であった事だろう。血を体内で煮沸される苦痛のことを思えば彼女が自死を選んだことも何ら不思議な選択ではない。
    無論、幻覚と言えどあのまま何の対処もしなければクリーデンスも彼女と同じ運命を辿っていたであろう事は想像に難くない。そうならなかったのは単にクリーデンスが幸運だっただけだ。クリーデンスには死の縁から連れ戻してくれる存在が居て、彼女には居なかった。それだけの話だ。
    焼け爛れた跡の一切残っていない自分の肌を確認し、もしニュートがあの部屋に居る自分を発見するのが少しでも遅れて居たら、と考えるとクリーデンスはうすら寒いような熱の名残りのような奇妙な感覚を覚えた。肌は凹凸もなく平らで、昨夜の苦痛も酷く遠く感じる。
    拠点に戻り、撤収の準備を進める傍ら、どうしても気になってクリーデンスは胸ポケットからブローチを取り出して光に翳した。陽光に翳すと宝石は尚色味を深めて美しさを増す。角度によって淡くも鮮やかにもなる緑の色彩はいつまでも眺めていたい気分にさせた。
    調査を終えたら町でこれの入れ物を購入しなければ。剥き出しのまま懐に入れておくのは少々落ち着かない。
    「綺麗だね」
    いつの間にか背後からブローチを覗き込んできていたニュートに声を掛けられクリーデンスは大袈裟に肩を竦めた。
    「す、すみません準備さぼって」
    「いや、もう終わるからいいんだよ。それ気に入った?付けてあげようか。あぁ、でも女性ものだしねえ」
    悪戯っぽく笑うニュートの目が優しげに細められる。窓の隙間から差し込んだ光を受けて淡い緑色の虹彩が鮮やかに色を深めた。
    「あ、」
    クリーデンスは思わず声を漏らす。今クリーデンスの手の中にある宝石と、目の前にいる彼の瞳がそっくりだった。その色の深さ、光を吸い込んだ輝き、ずっと見つめて居たくなる美しさ。
    「き」
    きれいだ。
    口を突いて出そうになった言葉を自覚した途端、直視が出来なくなりクリーデンスは慌ててニュートから顔ごと視線を逸らした。急に様子の変わったクリーデンスを気遣う彼に応えることが出来ず、勝手に熱くなっていく顔を見られないように俯いた。
    昨夜の内側が焼け付くような熱ではなく、表面に火を付けられたような熱さを孕む頬に手の甲を当てて少しでも冷まそうと足掻く。一番混乱したのはクリーデンス当人だ。
    これは一体どうしたというのだろう、心臓がうるさく鳴って仕方がない。これも彼女の記憶の一部なのだろうか。
    心当たりは一つある。最初の夜見た夜会の夢、彼女と彼が出会った時の胸の高鳴りにこれは似ていた。
    似ていたが別物だ。脈打つのは自分の心臓で、その理由は自分の師である筈の人で。
    「(僕は、あの子みたいに、)」
    クリーデンスは思い知る。
    彼女が本当に自分に託したのは値打ちのある宝石なんかではなかった。
    彼女は気付いていたのだ。クリーデンス当人すら気付かなかった、もしかすればニュートと出会った時からずっと心の奥底にあったこの感情の存在に。
    「(僕はあなたに、)」

    私とあなた、きっとどこかが似ていたの。
    ああきっとそう。
    あなたも、優しい瞳に恋をしたのね。
    亮佑 Link Message Mute
    2022/11/12 12:09:40

    運命を継ぐもの

    pixivからの移設です
    #ファンタビ #クリニュー

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