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    天泣に白装束_後今自分が置かれている状況も一瞬忘れて巨大な蛇神に見惚れていたが、袖を引く感覚がして振り返った先に見覚えのある女性が立っていた。
    美しい仕立ての着物を纏った女性は品の良い微笑を浮かべ、暁人の袖を再度引いた。誘われるまま一歩踏み出した時、背後で耳障りな断末魔が響く。先程の老婆と同じような光景が容易に想像できてしまい、思わず振り返りそうになったがそれを遮るタイミングでまた女性から腕を引かれてしまい、暁人は振り返るのを止めておくことにした。
    女性に先導され広間を出て廊下を渡る。随分長く感じた廊下も、行きの半分以下の時間で渡り切り、しかし引き戸を開けるとその先に外はなく、代わりに闇が広がっていた。女性は特に驚く素振りは見せず闇に向かって一歩踏み出す。
    女性が踏み締めた場所から水面のように波紋が広がった。女性は闇の中へ踏み出すことを若干躊躇した暁人の心中を察してか、無理に暁人の手を引くことなくその場に立ち止まり安心させるように微笑を深めた。そのまま暁人を導いていた手とは逆の方の手で闇の向こう側を指差す。
    闇の中にぽつりと浮かぶように見覚えのある人影がそこに立っていた。
    「祟り屋……と、一緒にいた人」
    KKが呼んでいた『祟り屋』というのが、あの三人のことを指すのか特定の一人を指しての呼称なのかいまいち分からない。以前会った時は武器を携行していたが、今回その人物は手ぶらに見えた。そもそも特徴の廃された外見であった上に分かりやすい区別のシンボルもなくなってしまうと、暁人にはその人物が三人のうちの誰なのかも分からない。
    「……あの人についていけばいいの?」
    女性に視線を移して問い掛けると彼女はやはり微笑みながら頷いた。闇が満たされた世界の中で、彼女の着物の鮮やかさは眩しい程だ。
    「分かった。助けてくれてありがとう、あなたが幸せそうで良かった。……あなたの旦那さんにも、お礼を伝えておいてください」
    暁人が頭を下げると彼女は満足そうに一つ頷いて来た道を引き返して行った。
    建物の奥へ消えていく背中を見送った後、暁人は改めて眼前に広がる光景を眺める。彼女や祟り屋は地面のように闇の上に立っていたが、果たして自分も同じように歩けるのだろうか。
    しかし進まなければ帰れもしない。意を決して敷居を跨ぎ闇の中へ一歩踏み出した。
    「ぅ、わっ」
    しかし、踏み出した方の足に体重を掛けようとした途端闇の中に足首まで沈んでしまい、暁人は慌てて足を引き抜いた。水とも泥ともつかない奇妙な感触が足の裏に残っている。彼女は容易くこの闇の上に立っていたが、自分では到底真似できそうになかった。だがここから出なければ元居た世界に帰ることもままならない。
    「ど、どうしよう」
    不安から思わず言葉が漏れた時、動くものの気配を感じて視線を上げると、先程まで十数メートル先に居た祟り屋が目と鼻の先のところにまで近づいてきていた。
    顔は布面で隠れていて相手の視線の先も定かでないが、此方を見ているような気配がする。以前会った時も敵対的ではなかった相手だ。暁人は藁にも縋る思いで声を掛けた。
    「ぁ、あの……僕、この先に行けないみたいです。なので、KKに僕がここに居ることを知らせてもらうことはできませんか」
    KKと連絡さえ取れれば現状を打破できると考えるのは安直過ぎるだろうか。
    しかし一人でここから生還できるとも思えない。未知の存在を前にした時、普段の常識でそれらを判断してはならないと何度も説かれた。
    安易に行動を起こさないこと、そして可能であれば助けを呼ぶこと。現状自分にできそうなことはこの二つだけだ。
    「……あの?」
    祟り屋は答えない。そもそも、彼らが声を発することが可能なのかも不明だ。KKは三人いたうちの一人と顔見知りの様子で、世間話と言って差し支えない会話を交わしていたが、暁人にしてみれば彼らは未知の存在に他ならない。
    あの時はKKが傍に居たから暁人に手出しをしてこなかっただけかもしれないし、今回もそうとは限らない。
    祟り屋は黙ったまま暁人の目の前に立つ。視線は同じ位だが、ここまで近付いているのに驚く程生き物としての気配が希薄だ。視覚は間違いなく暁人と同程度の上背をした姿を認識しているが、それ以外の感覚器官は祟り屋を上手く認識できていないようだった。
    逃げるべきだろうか、しかし彼女は祟り屋について行けば良いと暁人に教えた。彼女が嘘を吐いたとは考えにくい。
    「えっと、祟り……ぅわっ!」
    暫く黙って暁人と向き合っていた祟り屋だったが、不意に暁人の方に両腕を伸ばす。身構える間もなく、暁人はいとも簡単に体を抱え上げられてしまった。
    暁人の体を荷物のように担ぎ上げたまま、祟り屋は踵を返して闇色の水面を歩き出す。成人男性を担いでいるとは思えない程、歩調は規則的で乱れを感じられない。祟り屋が足を踏み出すたび、闇の中で波紋が広がり見えなくなっていった。
    今ここで暴れて落とされでもしたら自分は闇の中で溺れて死ぬのだろうか。
    運が良ければただ死ぬだけで済むかもしれない。より悲惨なのは死に損なう方なのだとKKは言っていた。
    既に先程の家屋にも引き返せない距離まで来ている。大人しく運ばれる他に選択肢はなかった。
    どれ程揺られていただろうか。相変わらず祟り屋は無言で、疲れた様子も見せない。今更気が付いたが自分を抱え上げるために触れている体からは体温や心音等、凡そすべての生物が発するであろう痕跡を一切感じられなかった。
    どうにか身体を捩って祟り屋が進む先に視線をやると、闇色一色の世界に文字通り異彩を放つものが暁人たちを待ち構えている。近付くとそれが人影と木製の扉のようなものだと分かった。
    「無事なようで何よりだ、祓い屋の愛弟子よ」
    鼓膜を通さない奇妙な声には聞き覚えがある。暁人は抱えられた体勢のまま、木製の扉の傍で自分たちを待ち構えていた相手を呼んだ。
    「祟り屋、……さん」
    「好きに呼ぶと良い。我々を表す呼び名と姿は無数にある、ひとつくらい増えても構いはしない」
    「あの、僕をわざわざ助けにきてくれたんですか?」
    祟り屋は鷹揚に見える仕草で頷く。すべての常識が死んだ世界の中で、祟り屋だけが妙に人間くさい。
    「珍しく祓い屋から頼み込まれてな。以前の貸しのこともあるから了承したが、山神に先を越された」
    「……あの人たちを呼んだのは、あなたたちじゃないんですか?」
    「いいや?そもそもあれは特定の地に根差し信仰を集めることで力を得る類の神だ。基本的に自分の領域外のものに興味を示さない。それがわざわざこんなところに顔を出すのだから、余程お前がお気に入りと見える」
    「そういうものですか」
    「いかに鼠が好物だろうと、山神がわざわざ領域の外へ出ては来るまい。神気もないただの大鼠では、腹も膨れんだろうしな」
    「あの鼠は……神様?それとも妖怪ですか?」
    「どちらでもない。お前も良く知る屋根裏を這い回るただの鼠だ。己を神と勘違いした哀れな、と前置きがつくが」
    「ただのねずみ……そんな風には見えませんでした」
    「他よりほんの少し長く生きたようだが、それ以外に特筆すべきものもない。古びた社の梁の上に棲み付き、そこを参拝する人々から信仰されていると思い込んでいたようだな。何ともかわいらしいことだ」
    人の倍程の身丈のある大鼠をかわいらしいと評する祟り屋の感性にはいまいち共感できなかったが、そもそも理解しようとしてできるものでもないのかもしれない。今はそこに思考を割くよりも五体満足で元の世界へ戻ることの方が先決だと、暁人はそれについて考えることを止めた。
    「鼠に使い道は多くあるが、丸呑みされたのでは仕方がない。今回は諦めよう」
    祟り屋はそう独り言ち、自分の隣の木製の扉を手の甲で軽く叩いた。
    檜か桐か、やけに真新しく扉にしては奇妙な意匠が施されている。暁人の目線の位置にある覗き窓らしき箇所には観音開きの小さな扉がついていたが今は閉じられ向こう側は見えない。
    「これを潜れば体ごとあちらへ戻れる。ここから先は我々が手を引いてやることは叶わないが、決して立ち止まらず、振り返らず、ただ真っ直ぐ進み続ければいいだけだ。容易いことだろう」
    「……分かりました」
    ずっと抱えてもらっていた姿勢から、木製の扉の目の前に下ろされる。扉の付近は暁人だけでも立つことができるようだった。
    近付いて初めて気付いたが、扉にしてはやけに小さい。高さは暁人の身長程で、身幅は人ひとりが漸く肩を竦めず通れるかといった程度しかない。扉だと思っていた木製のそれもただ蓋がしてあっただけで、縁を持って横へずらすとその先の空間が現れた。闇一色の世界とは対照的に、白く切り取られていて眩しい程だ。
    蓋を開けた途端、噎せ返るような植物の匂いが溢れ暁人は思わず咳き込んでしまった。甘ったるいような青臭いような、これは生花の匂いだろうか。
    暁人はその場で振り返ると、自分を見守っている二人に向かって頭を下げた。
    「あの、ありがとうございました。僕一人では戻れなかったと思います、助かりました」
    「気にすることはない、そういう契約だ。我々と、祓い屋との間のな」
    「この恩はいつかお返しします。僕にできることがあったら言ってください」
    暁人がそう口にした途端、これまで滞りなく返ってきていた祟り屋からの返答が止まった。訝しんで頭を上げた先で、祟り屋は黒衣に包まれた体を小刻みに震わせており暁人は思わずぎょっとして身を竦ませた。
    「愛弟子、祓い屋に人でないものの前でやってはならないことを教わらなかったか」
    「どういう意味ですか」
    「そのままの意味だ。よもや、我々を人と思っているわけではあるまい」
    「……でも、あなたたちは敵じゃない。僕の恩人です」
    恐る恐る思ったままを答えると、祟り屋は暁人の姿を頭から爪先まで眺め回した後納得したような素振りを見せた。
    「なるほど、祓い屋が過保護になるのも頷ける。無防備で無垢で無欲で、どの■も綺麗に乗りそうだ」
    暁人は祟り屋が笑っているのだと気付いた。体が震えているのは笑気を発散させている仕草なのだと。これまでやたらと人間臭い言動をしていた祟り屋だが、その動きはどこか機械的で不気味だった。
    「……ここまで送り届けてくださってありがとうございました。失礼します」
    これ以上話を続けるのは危険だと直感が告げている。暁人は会話を切り上げ踵を返そうとしたが、それより一瞬早く暁人をここまで抱えて運んできた方が暁人の左腕を掴んだ。背後から先程と変わらない、人間くさいがあくまで人間を模倣しているだけの声が聞こえてきた。
    「少し気が変わった。このままこちらで■■として育てよう。それとも、■■■が向いているかな。■■■■から株分けをして■■の接ぎ木をして、どう■が変わるか観察しよう。それがいい、それがいい」
    多少腕を引いても解放してくれず、腕を掴む力ばかりが強くなっていく。指が腕に食い込む痛みに恐怖を煽られ、暁人は振り払おうと暴れた。
    「は、離してください!」
    「お前が言ったのだろう、愛弟子。自分にできることで恩を返すと」
    「それは……っ」
    「恐ろしいか、当然だろうとも。命を脅かされる恐怖は生物にのみ与えられた特権だ。どのような形で発散してもらってもかまわない、恐怖は■■の好物だ」
    先程から祟り屋の言葉の一部が聞き取れない。否、正確には聞こえてはいるが頭が理解できていない。
    ただ祟り屋が口にするそれが、本能が理解することすら拒む程悍ましいものであることだけは感じ取れた。
    腕を引かれて出口からじりじりと引き離される。腰を落として踏み止まろうとするが、腕を引く力の方が僅かに上回った。扉との距離が開き、爪先が闇に浸り沈んでいく。冷たくもぬるくもない、水よりも抵抗のない何かが足を伝って足首にも登ってきた。闇が皮膚を貫通し骨を直接撫でてくるような感触に怖気が立つ。
    「……!!」
    いよいよ恐怖と不快感に耐えかねて叫ぼうと息を短く吸った時、祟り屋が引く方とは反対側の腕を急に掴まれた。両腕を捕らえられたのだと気付きパニックに陥った暁人が背後を振り返るより先に強く後ろへ引かれる。ぬかるみに似た不安定な地面に足を取られ大きく体勢を崩してしまい、背中から倒れ込むかと思われたが後ろから暁人を引いた腕は力尽くで暁人の体を引き摺った。
    僅かに自由になる視線を背後へ向け、白く切り取られた扉の向こうから伸びた見覚えのある腕が自分を扉の先へ引きずり込もうとしている光景を最後に、暁人の意識は白一色に染まり、そして途切れた。
    暖かい。
    僅かに身動ぎし、暁人は鼻孔を擽る懐かしい匂いに誘われ瞼を開けた。
    小さな庭に面した窓から差し込むオレンジ色の陽光の眩しさに目を細め、ゆっくり体を起こす。上半身を起こした拍子に、肩に掛けられていた薄手のブランケットが柔らかな色合いのカーペットの上に滑り落ちた。
    「やっと起きた?ずいぶんぐっすり寝てたのね」
    寝起きで頭がぼんやりとしていて上手く回らない。現状を把握するために数度緩慢な瞬きを繰り返す。細やかな物音を聴覚が拾い、声のした方へ頭を巡らせた。
    リビングからキッチンに立つ後ろ姿が見える。夕飯を作っているらしく、空腹を擽る匂いがそちらから漂ってきていた。背中しか見えずとも見間違える筈がない。
    背丈や服装、日常的な動作の中のちょっとした癖、記憶の奥底に押し込めていた母の姿が今紛れもなく目の前にあった。
    調理を続けながら、背中越しに母は暁人に話しかけてくる。
    「もうすぐだから、二度寝したら駄目よ」
    「……うん」
    呼吸を繰り返すたび柔らかで優しくて、嗅ぎ慣れた匂いが肺に満ちて、ここでは一切の心配が不要なのだと、無条件に守られる安心感を覚えるのと同時に、何故かひどく胸が締め付けられる。
    悲しくはない。恐ろしいわけでもない。それでも胸の奥、心臓の近くが疼痛のように痛んで堪らない。
    穴が空く程母の後姿を暁人はただ見つめていた。特筆すべきこともない、ありふれた日常の細部に至るまでを目に焼き付けようとした。
    母は手際良くキッチン内を行き来しており、何か手伝えることがないかと腰を浮かしかけた時玄関の方からインターホンの音が鳴った。
    「あら、お客さんかしら。暁人、お母さん出れないから出てもらえる?」
    「分かった」
    素直に頷き、暁人はキッチンに向けていた爪先を玄関へ続く廊下の方へ転換した。
    「……」
    ふと予感めいた感覚が胸の中に落ちてきて、暁人は踏み出しかけていた足を止めその場で振り返る。母は相変わらずこちらに背を向けて料理をしていて、顔は見えない。
    「母さん」
    「んー?」
    「ありがとう」
    唐突な暁人の言葉にも、特に何故とは返ってこなかった。ただほんの微かに顔がこちらを向き彼女の睫毛の先が暁人の位置から見える角度で母は小さく頷いて見せた。
    暁人は止めていた足を再び動かし廊下を渡り、玄関の扉のドアノブに手を掛ける。外へ向かって押すと同時に眠気に似た感覚に襲われ、扉を開けば開く程眠気は強くなり暁人は抗い切れず瞼を閉じる。
    心地良い微睡みの中、幼い頃から繰り返し聞き続けた母の見送りの言葉を聞いた気がした。
    急に体が重たく感じ、不快感で意識が覚醒する。眉間に皺を寄せながら瞼を抉じ開けると、自分よりも余程深く眉間に皺を刻んだ顔がこちらを覗き込んでいた。
    「……KK、すごい顔」
    「だろうよ。今オレぁ頗る機嫌が悪いからな」
    「ごめん……」
    「いやオマエに怒ってるわけじゃない。起きれるか?」
    KKに介助されつつどうにか横たわっていた姿勢から半身を起こす。嗅ぎ慣れない古めかしい匂いが鼻をつき、暁人は周囲を見渡した。
    「ここは?」
    「町外れの管理放棄された社の中だ」
    暁人らの居る場所は一応建物としての体裁を成してはいたが、分厚く埃が降り積もり、至る所に鼠害と思われる痕跡が見受けられる。長らく人の手が入っていないだろうことは容易に見て取れた。
    「オマエはアジトで姿を消して、12時間後にここで倒れているのを凛子が見つけた」
    「半日も経ってるんだ」
    「向こうとこっちじゃ時間の流れ方も違うからな。半日で済んで良かったって思っとけ」
    腐蝕の目立つ柱と天井に架かった梁を視線で辿る。どこも死んだように静まり返っていて生き物が潜んでいる気配はない。
    KKに肩を貸してもらい崩れかけた社を出る。苔むした石畳の参道を引き上げながら、暁人は訥々とあちらの世界での出来事をKKに話した。
    「大鼠との結婚ね……」
    「祟り屋はあれをただのねずみだって言っていたけど、神様でも妖怪でもない生き物にこんなことができるものなの?」
    鼠たちは人の言葉を話し、人の婚姻を真似た儀式を執り行おうとしていた。暁人を体ごと向こう側の世界へ引き摺りこんだことも、果たしてただの鼠に成せることなのだろうか。
    「出来るか出来ないかで答えるなら、出来るさ。もともと素養がある個体だったんだろう。相性の良い神に仕えてりゃ、神格とまでは行かずとも神使程度にゃなれたかもな」
    「そうなんだ……ただの動物だと思ってたけど鼠ってすごいんだね」
    「動物は人間より五感が鋭いだろう。それと同じように人に知覚できないものを感じ取る感覚も鋭いんだ。動物を好んで自分の眷属や依代にする神も多いし、優秀なヤツがそのまま神格に召し上げられることもある」
    「前依頼で行った山に居たのも、白い蛇の神様だったね」
    人の丈程もある巨大な鼠を一呑みした大蛇を思い出し、今更その厳かな姿に少し背筋が寒くなる。どうして大蛇が己の領域である山を離れてまで自分を助けてくれたのかは分からないが、きっとあれは自分の身に余る程の僥倖だったのだろう。
    アジトに戻ると、凛子が出迎えてくれた。暁人の顔を見て、彼女はほんの少し眦を緩ませた。
    「きみが無事で本当に良かった」
    「ご迷惑おかけしました」
    促されるままリビングのソファに腰を下ろし、暁人は事態の解決に尽力してくれていたであろう凛子に頭を下げた。
    「きみは悪くないよ。悪いのはコイツ」
    凛子に顎で指された先で、KKが不機嫌そうに口角を曲げているが珍しく反論はない。
    「いえ、僕も不用意でしたし、KKが悪いわけじゃ……」
    「庇わなくていいのよ伊月くん。コイツがやらかしたのは本当だから」
    「? それはどういう……」
    「凛子、もう勘弁してくれ」
    本当に珍しい。
    凛子に懇願しているKKを物珍しさから思わずじっと見つめると、KKは居心地が悪そうに唸りながら片手で顔を覆った。
    「あとで説明する」
    「う、うん。分かった」
    凛子からの軽い検査を受けてから、暁人はKKと共にアジトを出て帰路についた。
    世界を越境したことで肉体や精神に変調を来すことも珍しくないらしい。検査の結果、幸い暁人は目立った後遺症もなく問題は発見されなかったようだ。行きと同様にタクシーで家の前まで送ってもらう。
    玄関には麻里が仁王立ちで待ち構えていた。一応家を空ける前に連絡はしていたが、それでも病み上がりの体で半日も外出していたことについて半泣きで詰られるのは中々堪えた。
    心配をかけたことについての謝罪と体調が回復してからの埋め合わせを約束し、どうにか納得してもらった暁人は自室のベッドにぐったりと体を投げ出した。
    「病み上がりに説教はキッツいや……」
    「オレのせいにしとけって言ったろ」
    ベッドの端に腰掛けながら、KKは苦笑して暁人の頭を優しく撫でる。手の大きさと体温が心地良くて、暁人は目を細めた。
    「麻里の不安は分かるからさ……せめて受け止めてやりたくて」
    家族が理不尽に奪われる絶望は、かつて暁人も感じたものだ。その瞬間は唐突にやってきて、自分ではどうしようもない力で大切なものを手の届かない場所へ奪い去って行く。
    遣り場のない不安も、無力な自分自身への失望も、遠くへ行ってしまった家族への恋しさも、身に覚えがあり過ぎるから、せめてその感情の一部だけでも受け止めてやりたくなったのだ。
    「ただの自己満足だよ」
    暁人が淡く微笑むと、KKは神妙な顔で黙り込んだ後徐ろに頭を撫でていた掌で暁人の頬を包み、体を屈めて顔を寄せてきた。
    何をされるか察し、特に拒否をするという選択肢も思い付かなかったため唇同士が重なる瞬間目を閉じる。そこから更に何かをされる訳でもなく、数秒後何事もなかったようにKKは体を起こしてまた乱雑に暁人の髪を掻き回した。
    「な、なに?今そういう感じだった?」
    「いや?でも、少しは楽になっただろ」
    言われてみると、確かに気怠さが少しマシになった気がする。発熱による不快な暑さではない、心地良い温かさが体内にあるのが分かった。
    「何をどうやったの?」
    「オマエん中の気が淀んでたから、オレの気を少し送って流れるようにしてやっただけだ」
    「そんな簡単にできるんだ」
    「これは例外だ。本来なら他人の気に干渉するなんてそうそうできるもんじゃない」
    「KKでも?」
    「オレでも。オマエが特別なんだ」
    「え、僕?」
    自分に矛先がくるとは思っておらず、思わず瞠目する。KKは暁人の髪を無闇に掻き混ぜながら言葉を続けた。
    「オレとつるむようになってから、いろいろ見えやすくなっただろう」
    過去を思い起こすまでもなく、暁人は頷く。KKとの出会いは、良くも悪くも人生が大きく変わることとなったきっかけだ。得たものは数え切れない程あるが、引き換えに多くの危険に晒されるようにもなった。それについて、無論後悔等ない。
    「オレと気が合ったってのもあるんだろうが、オマエは特に染まりやすい性質だったらしい。体質までオレに寄っちまったみてえだ」
    「もしかしてそれがKKのせいだってこと?そんなこと思ってないよ」
    「いや違う」
    KKはまた唸って後頭部を掻く。ここまで歯切れの悪いKKを見るのも初めてかもしれない。
    「あーその、……オマエに手ェ出しただろ」
    「……何て?」
    室内に二人きりでこの会話を聞く他人も居ない状況ではあるが、声高にする話ではない内容を唐突に持ってこられ、声が一段低くなる。KKは慌てた様子で両手を肩の高さに持ち上げた。
    「待て待て、真面目な話だこれは!相性良い同士がそういうことやると余計に気が混じるんだよ!」
    「混ざると良くないもの?」
    「混ざること自体はどっちかっつうと良いことなんだが……妖怪や一部の神格の好物なんだ。だから人間の気が好物のやつらはこぞって人間と婚姻を結びたがる」
    KKの手が懐に一度入り、何もせず出てくる。どうやら無意識に出た仕草らしく、普段そこに入れている煙草を探していたようだ。踏み止まったのか単に手持ちがなかったのか、KKは表情を険しくさせて空の手で目頭を強く揉んだ。
    「オマエの体質のことも分かってたのに、浮かれて対策立てる前にオマエに手出して、結局守りきれずにオマエは向こうに招かれて危うく鼠に嫁入りするとこだった。凛子が言ってたのはそういうことだ」
    KKに説かれて漸く、今回自身に降りかかった出来事に得心が行った気がした。あの大鼠は暁人を使って気とやらを得て、本物の神格へ至りたかったのだろう。
    「守れなくて悪かった。怖かったろ」
    「う、ん、まあそれは……少しだけね…」
    人と同じ背丈の鼠に取り囲まれた時はぞっとしたし、余りの非現実感に眩暈すら覚えたが、それについてKKを責めようという気にはどうしてもなれない。
    「……手、どうかしたのか」
    「え?」
    指摘されて初めて自分が服の上から左腕を摩っていることに気が付いた。
    「見せてみろ」
    言われるまま腕を出そうとして心当たりをひとつ思い出す。祟り屋に腕を掴まれ、闇の中に引き摺り込まれかけた記憶が一気に押し寄せてきて思わずKKの手から逃げてしまった。
    「別に何でもないよ」
    「今のでなんかあるのは分かった。大人しく腕出せ」
    当然KKに適当な誤魔化し等通用する筈もなく、あえなく腕を捕らえられ袖を捲り上げられる。自分は顔ごと目を逸らしていたが、無言のままKKの機嫌が降下する気配が伝わってきた。
    「誰にやられた?」
    「これは……」
    「鼠じゃねえだろ」
    「えっと」
    「触るぞ。痛んだら言えよ」
    KKの指先がそっと触れた場所が、治りかけの火傷に触れられたようにひりついて思わず自分の左手を視界に入れてしまった。
    「うわっ気持ち悪ッ」
    左腕の一部が変色している。鬱血の青とも火傷の赤とも知れない色が腕に巻きついており、これまで自覚がなかったことが不思議な程異様な状態だった。
    「感覚はあるか」
    「う、うん、一応。ちょっとひりひりする」
    「冷たいか?熱いか?」
    「どっちかというと冷たいかな」
    「心当たりあるだろう」
    「うん……はい」
    こちらの世界に戻ってくる寸前に起きたことをそのまま伝えると、KKの眉間の皺がまた深くなる。
    「黙っててごめん……全然痛くなかったから、こんな状態になってるなんて気付かなかった」
    「オマエが謝ることじゃない。もとはと言えばオレが……ああクソッ」
    珍しく本気で苛立っているようで、いつになく語気が強まるKKに暁人はほんの少し萎縮する。あの時、祟り屋も言っていたが自分が迂闊な言動をしなければこの痕がつけられることはなかったかもしれない。
    「ごめん、KK。僕がもっと……」
    「よせ、もうその言葉は使うな。情けなくて泣きたくなる」
    「ご、ごめん」
    暁人が自分に萎縮している様を見て、KKは大きく深い溜め息を一つ吐き切る内に気持ちを切り替えたようだった。
    「ともかく、やる事は決まった。最優先は、この目障りなもんをどうにかすることからだ」
    「仕事増やしてごめん、KK」
    「こんなもん増えた内に入んねえよ。オマエはきっちり休んで体調戻すことに集中しろ。まだ若干熱あるだろ、コレどうにかするのはそれからだ」
    「分かった」
    「素直でよろしい」
    ほんの少し表情を緩めたKKに頭を撫でられ、暁人は漸く日常に帰ってこれたような気分になった。ずっと強張ったような感覚があった体から余分な力が抜けていき、同時に発熱による気怠さを体が思い出す。
    少しぎこちない、頭皮を擽るような触れ方で自分を撫でるKKの袖を弱く引き、暁人はベッドの端に座るKKの顔を見上げた。
    「ねえKK、僕まだ少し熱があるからさ」
    「ああ、そうだな?だからよく休んで……」
    「だから、もう一回、KKの気を分けてくれたらはやく良くなる気がするんだけどな」
    白々しく告げた自分の声の何と甘ったるいことか。口に出した瞬間に羞恥と後悔が首を擡げるが最早発言を取り消すことはできない。
    馬鹿な事を言うなと咎められるだろうかと恐る恐るKKを見上げると、感情が読み辛い表情のまま眉間に一度ぎゅっと皺が寄り、すぐにほどけた。
    「……ごめんなさい、調子に乗りました。忘れて……」
    読めない表情について、自分の子供っぽい言動に呆れているのだろうと解釈し、布団に潜り込みながら懺悔する。
    「しみじみ末恐ろしいヤツだなオマエは。ほら、お望みどおりいくらでもくれてやるから顔出せ」
    頭まで被った布団越しに声を掛けられるが今更顔を見る勇気もない。
    「逃げるこたねえだろ、オマエが言い出したことだろうに」
    「忘れて、今すぐに。早急に」
    「いやあそりゃ無理だ」
    「分かった、KKの記憶が風化するまでここから出ない」
    「干からびるまで籠ってるつもりか?いいから顔見せろ」
    しばらくKKに抵抗して緊張感のない格闘を繰り広げていたが、最終的には布団を剥ぎ取られ覆い被さられる。せめてもの抵抗として両腕で顔を覆って隠した。
    「くっそ、元気な時だったら絶対口滑らせたりしなかったのに」
    「たまには熱出すのもいいんじゃねえか?オマエは本音が話せるし、オレは役得だ」
    「うーわ最悪だ、人の体調不良のこと役得って言った!」
    「どうどう、そんな暴れるなって。熱上がるぞ」
    「くッ、半笑いで宥められるの腹立つ……!」
    最後の砦の両腕も抵抗虚しく剥がされて、笑みの余韻が残る唇で口を塞がれる。触れ合った場所がじんわりと熱を帯びて、ゆっくりと喉元を通り体の中央に馴染んでいく。
    癪だが、やっぱりKKからじわりと滲むように寄越される無形の感覚が心地良い。非常に癪だが。
    「しっかり休んでさっさと治しちまえよ、オマエが可愛くて堪んねえ時に手が出せねえとオレも困る」
    「情緒の欠片もない発言やめて」
    どうせならもらえるだけもらってしまおうと暁人はKKの襟元を掴み覆い被さっている体を引き寄せ、自分から唇に噛み付いた。
    亮佑 Link Message Mute
    2023/11/08 21:15:16

    天泣に白装束_後

    人気作品アーカイブ入り (2023/11/08)

    終わり。祟り屋に気に入られて引きずり込まれそうになる暁人くん。
    #K暁

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