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    しおり
    天泣に白装束_中翌朝、後ろ髪引かれながら学校へ向かった麻里と入れ替わる形でKKが訪ねてきた。以前のKK宅での件があるため事前に鍵は渡してある。暁人から招き入れることはせず、約束の時間丁度に入ってきてもらった。
    「昨夜は眠れたか」
    玄関先で出迎えはしたが、挨拶もそこそこに自室のベッドに追いやられ開口一番事務的な口調で問われる。ベッドに腰掛けた姿勢のまま傍らに立つKKを見上げ暁人は素直に頷いた。
    「言いつけ通り結界は張ってたみたいだが、それ以外に何かしたか?」
    「いや?言われたこと以外は特別何もしてないよ。麻里が一緒に寝たいって部屋にきたくらい」
    「ああ、なるほど」
    「なにが?」
    「妹御に感謝しとけよ。オマエが思ってるより、オマエは妹に守られて助けられてるぞ」
    「麻里に?」
    KK曰く、麻里と暁人は真逆の性質を持っているのだそうだ。二人で居ることで程よくバランスが取れている状態になるらしい。麻里は陽の気が強く、暁人は陰の気が強い。どちらが過剰でも少な過ぎても良くない。陰は引、良いものも悪いものも引き寄せる性質を生まれ持つ。それは陽も例外でなく、陽は引き寄せられた陰が悪いものに害されないよう守ろうとする性質を持つ。
    これについての解説を受けた時、暁人は「KKはどっち?」と聞いたことがある。直後片方の口角だけを微かに歪ませたKKに鼻で笑われた。口に出してから聞くまでもない愚問であったと思いはしたが、それにしたってもう少し答え方というものがあるだろうに。
    「よく分からないけど、麻里のことは大切にしてるし、これからもするよ」
    「結構なことだ」
    KKはどこか満足気に笑い、徐ろに暁人の両目を覆うようにして手の平を押し当ててきた。
    「まだ熱ぃな」
    「KK、そこ目だよ。おでこはもう少し上」
    「分かってらぁ、何か視えるか?」
    「質問の意図が分からないんだけど……目を塞がれたら何も見えないよね」
    「見えはしねえが視えるもんはあるだろ。集中しな」
    納得はいかなかったが言われるまま暗闇の中意識を集中させる。黒一色かと思われた視界の中にふと何かが過り、暁人は思わず声を上げた。
    「あ、なんだろ、あれ……」
    「何が視えた?」
    「分からない、漠然としてる。白っぽい何か」
    「方角は」
    「あっち」
    暁人が指差した方向にKKが顔を向けた気配がする。程なくして目を覆っていた掌が離れ、KKの許可を得て暁人はゆっくり瞼を開けた。自分が指差した方向を振り返ってみても部屋の壁があるだけでそこに何かがある訳ではない。説明を求めてKKの方を見ると、KKは思案時の癖なのか顎の無精ひげを指先で撫でながらこちらを振り向いた。
    「今からアジトに向かうが、歩けそうか?」
    「そこまで重病人じゃないよ。熱も引いてきたし平気」
    一応市販の解熱剤を服用し、着替えてタクシーでアジトへ向かった。凛子にも既に何かしら話が通っているようで、まだ健常とは言えない状態の暁人をKKが連れてきても何も言わなかった。
    「凛子、この近辺の地図出してくれ」
    「いつの?」
    「現代から順に」
    凛子の仕事部屋に三人が集まり、一番大きなモニターにアジト周辺の地図が映し出される。何の変哲もない地図のように見えるが、無数に書き込みがされていた。
    「アジトはここ。伊月くんの家は……この辺かな」
    「はい、合ってます」
    「暁人が視た方角はこっちだ、直線状に何かあるか?」
    「何かね、もう少し手掛かりでもないと絞り切れないわよ。この辺りは特に密集地帯だから」
    「それもそうか……暁人、オマエ最近何か変わったことなかったか」
    「変わったこと?昨夜話したこと以外に?」
    「何でもいい、変な夢見たとか、何かが偶然続いてるとか、とにかく普段とは違ったことだ」
    「違うこと……ちがうこと……」
    暁人が記憶を逆さに振って絞り出している間、KKと凛子は難しい顔をしながら話をしていた。
    「そう遠くはないはずだ。生活圏内だったらある程度絞れるだろ」
    「あんたの依頼に連れて行ったこともあるでしょ」
    「オレが傍に居て、そんなこと許すとでも?」
    「ああ、はいはい。だったらいいわ。言ってみただけ」
    「……あの、」
    「何か思い出したか」
    「変わったこと、って言ってもいいのか分からないんだけど……ここ最近、雨の音が聞こえることがあるんだ」
    「具体的には?」
    「起きる直前にさ、体は寝てるけど音は聞こえてる、みたいな状態になるだろ。そういう時に、雨の音を聞いた気がする」
    さすがにそれはただの気のせいだと一笑に付されるつもりだった。しかし予想に反しKKも凛子も笑うどころか互いに顔を見合わせ怪訝な表情を浮かべる。
    「いつからだ?」
    「えーと……いつからだろう。気付いたら聞こえるようになってたから、一ヶ月くらい、かな?」
    「雨、雨か……」
    顎の下を擦りながら室内を歩き回り始めたKKを尻目に、凛子は端末を操作しながら暁人を傍に呼び寄せた。
    「伊月くん、ここ最近通った経路を詳しく教えてくれる?」
    「はい、って言っても、決まった道しか通らないから……」
    指先でモニター上の地図の普段使っている道路をなぞっていく。凛子は視線でそれを追いつつ端末に暁人の行動範囲を反映させていった。
    「見た感じ変なとこには入ってないね」
    「そのつもりですが……」
    「雨は聞いただけか」
    KKが凛子と暁人の間に割って入ってくる。少したじろぎつつ質問には頷いた。
    「音を聞いただけ。実際に降ってるとこは見てない、と思う」
    「そうか」
    「雨に縁があるのはこの辺、大分絞れてきたんじゃない」
    「聞こえた音ってのが、雨じゃねえ可能性もある」
    「じゃあ、水で括ってみる?一気に候補増えるけど」
    KKと凛子の会話を大人しく聞いていた時、不意に意識が浮き上がるような感覚がして暁人は軽く頭を振った。忘れかけていたが解熱剤の効果があるとはいえまだ微熱は続いている。表情には出していないつもりだったが、KKは目ざとく体調の悪化を察知し暁人を半分抱えるようにして部屋から連れ出した。
    「連れ回して悪かったな。オレらで調べておくから少し休んでろ」
    「大丈夫だよ、僕」
    「平熱に戻ったらその言葉信用してやるよ」
    暁人をリビングのソファに座らせ踵を返すKKに向かって何か言おうと口を開きかけた時、微かに鼓膜を撫でる音に気付き暁人は視線を彷徨わせた。
    「KK」
    「大人しくしてな、すぐ……」
    「違う。これたぶん雨じゃない」
    あっという間に目眩が酷くなって、振り向いてこちらへ駆け寄ってくるKKが世界ごとぐるりと回る。次に目を開けた時、気付けば自分は床に座り込んでKKに抱き留められていた。
    「止めろ、考えなくていい、それを聞くな、暁人!」
    奇妙に歪みぼやける世界で、間近で発されている筈のKKの声も降りしきる雨の音に遮られ遠い。暁人はもつれる舌を動かし何とか言葉を乗せた。
    「KK、おしえて。僕が、やれることは?」
    KKが狼狽から立ち直るのは一瞬のことだった。朦朧とする暁人にも伝わるようにはっきりと簡潔に告げる。
    「オレのこと考えてろ」
    「いつまで?」
    「オレが迎えに行くまで」
    「分かった。ずっとKKのこと考えてるから、はやく迎えにきて、ね」
    どうにかそう言い返したつもりだが、正しく喋れていたかは分からない。雨の音が全てを覆い尽くし、暁人を正常な世界から切り離していく。世界がもう一度回って捩じ切れるような感覚を最後に意識は暗転し、暗闇の中に暁人は投げ出された。
    自分の身に何が起きているのか、この先どうなってしまうのか、不安も未知への恐怖も脇に置き、言われた通り意識が途切れるその間際までKKのことだけを考え続けていた。


    突然容態が悪化し倒れた暁人は、KKの眼前から忽然と消えた。何の前触れもなく、瞬きの内に相手を抱き留めていた筈の腕の中は空になった。
    KKの悪態を聞きつけ凛子が部屋から出てくる。事情を説明するまでもなく、KKの様子を見ただけで何が起きたか察したらしかった。眉間に皺を深く刻んで舌打ちする。
    「……やられたね。まさかここまで強引に連れて行くなんて」
    「せいぜい人好きな妖怪の類だと当たりをつけてたが、こりゃ想定より力が強いもんに目ぇ付けられてんな」
    「昨夜居なくなったってのも、こういうことだったわけね」
    「オレの責任だ。思い出させるべきじゃなかった、クソ……」
    暁人は消えた訳ではない。しかしKKらには知覚できなくなってしまった。暁人が聞いていた雨の音の主が住む世界に体ごと引き摺り込まれたのだ。
    この世界はいくつかの次元が重なり合って構成されている。大半の人間は自分が知覚している次元以外に干渉することもされることもないがたまにこうした例外は発生することはあった。
    所謂心霊現象であったり科学的な説明のつかない物事の殆どは他の次元と偶発的あるいは意図的な接触が原因であることが多い。無論、それでも説明のつかない事象というものは存在するが、今回の件に限って言えばほぼ間違いなく別次元の住人からの故意的な干渉が原因だろう。
    古臭い言い方をするなら、暁人は神隠しに遭ったのだ。
    次元の異なる世界同士を行き来することも、そうそう容易に出来ることではないし推奨されない行為だ。双方の世界に影響が及び、その影響は水面の波紋のようにどこまでも広がっていく。
    今回は特に、それを望んでいない相手に無理矢理次元を跨がせたことが問題だ。どこの神が望んだかまでは不明だが、産まれたばかりで厳然とした世界の理を知らないか、或いは正気を失い善悪の区別すら付かなくなっているか。どちらにせよ、神が住む次元で人間は長く生きられはしない。魚が陸で暮らせないのと同じ道理だ。次元を跨げば時間の概念すら異なってくる。こちらでの1分が向こうでは数年の可能性だってないとは言い切れないのだ。
    「今から追跡くらいならできるかもしれないけど、伊月くんが正気を失ったらそれも出来なくなるよ」
    「分かってらァ。同業者に会ってくる、10分経ったらに起こしてくれ」
    現代の人間は生身で次元を越境する力を持たない。余程特殊な環境下であるか、でなければ入念な準備が要る。今からやろうとしている方法はそれを簡略化したものだ。制限も危険も多く、長くは保たないため進んでやりたいものではないが、今回ばかりは用事を済ますことさえ出来ればそれでいい。
    KKは仕事着代わりのスーツを脱ぎ、ワイシャツ姿でアジトの浴室に足を踏み入れた。水を浴槽に注ぎ、服は着たまま身を沈める。水の冷たさにぞっとしたのも一瞬ですぐに慣れてどうでも良くなる。足を曲げ浴槽の縁にしっかり手を掛けた状態で短く息を吸い仰向けに寝転ぶ形で水中に体を沈めた。
    自分の口から溢れた水泡が上っていき、水面を不規則に揺らす。十数秒、数十秒、一分と身動ぎひとつせず時間が過ぎるのを待った。鼓膜が水圧で圧迫されている。水の冷たさが腑にまで伝播して体の中心まで侵食されていく。次第に体内の酸素が足りなくなってくるがそれでも動かなかった。
    指先が妙に冷えて痺れてきたことを契機に目を閉じる。自分の意識が途切れる間際、背を付けていた筈の浴槽の底の感触が消えた。かといって背中から落ちることはなく、次いで体を包んでいた水の感触が消え、最後に手をかけていた浴槽の縁の感触がなくなる。そこまで来て問題なく息を吸えることを確認し、KKは意識がずれてしまわないよう慎重に目を開けた。
    「お前から我々に接触するとは、珍しいこともあるものだな、祓い屋」
    「……やむを得ん緊急事態だ。手を貸してもらうぞ、祟り屋」
    KKは浴室ではなく鏡のように凪いだ水面の上に立っており、眼前にはよく知る同業者が立っている。奇妙な模様の面布の向こう側で祟り屋は微かに笑った気配がした。
    「いいとも、お前からの頼み事は珍しい。面白いものが見れそうだ」
    「オマエに快諾されんのもなかなか気味が悪いな」
    祟り屋の背後には崩れ落ち傾いたビルの残骸が聳えている。ビルに掲げられた看板の文字は、よく見知ったものと共通点がいくつかあったが似て非なるものであった。
    「真面目な話をするなら、お前たちには槌蜘蛛の件で借りがある。こちらとあちらの使い走り程度なら請け負ってやろう」
    祟り屋は徐ろに片手を持ち上げる。いつの間にか背後の傾いたビルの看板と大きく穴が開いた瓦礫の山の上に腰掛ける人影があり、その内の看板に腰掛けていた方が看板から飛び降りKKらのいる水面に着地した。倒壊している建造物とは言え、人影が元居た場所からKKらが立つ場所まではそれなりの高さがあったが、重力という概念すらない場所のようで水面に波紋一つ立てず降り立った人影は無言で祟り屋のすぐ後ろに立つ。体格からして、今は無手だが以前弓を背負っていた方だろう。
    「これを行かせる。口は利けないが道案内に声は必要なかろう」
    「手下にやらせて、オマエは高みの見物決め込むつもりかよ」
    「喜劇は上から観るのが丁度良い」
    祟り屋の言葉にKKの眉尻が微かに跳ねる。
    今こいつはこちらの非常事態を喜劇と言ったのか。
    KKを取り巻く空気が硬化したことを悟ってか、祟り屋の部下が微かに身動ぎする。どうやらKKを警戒しているようだ。しかし当の発言をした祟り屋はやけに人間臭い動きで両の手を肩の高さに持ち上げて弁明した。
    「勘違いしないでくれ。喜劇と呼んだのはお前たちのことではないよ」
    「だったらなんだってんだよ」
    「先に顛末を知ってしまってはつまらないだろう」
    「……悪趣味なやつめ」
    KKが眉間に皺を寄せて吐き捨てると祟り屋はわざとらしく笑った。
    「どうせ、これまでのことも傍観してやがったんだろ。説明は省くぜ、暁人を取り返してくれ。要求はそれだけだ」
    「分かっているとも。お前の愛弟子には傷ひとつ付けさせないと約束しよう」
    祟り屋は上機嫌な様子で僅かに背後に視線をやって浅く顎を引く。それだけで背後に控えていた部下は全てを察したようだ。一度だけはっきりと頷いて見せ、踵を返すと同時にその姿は闇に溶け入るように消えてしまった。
    そのような光景を目にするたび、眼前のそれらは人のように見えて全くの別物であるのだと実感する。朽ちた看板の読めない文字のように、見てくれが似ているだけだ。本質は我々の理解が及ぶところにはない。彼らを理解できると考えるのはただの思い上がりだ。必要以上に近付けば容赦なくこちらの精神を焼き切ってくるだろう。
    「そろそろ時間か。生身の体があると不便だな」
    祟り屋の言葉に応えるように、足下から音が聞こえ始める。ごぽごぽと低い、水が流れる音だ。
    「生憎と、オレぁまだ人間辞めるつもりはねえよ」
    「それは残念だ」
    極端に起伏の少ない平坦な声では、その発言が真実なのかただの冗談なのかすら分からない。反応はせず、KKは徐々に大きくなっていく水音に促される形で目を閉じた。
    目を閉じると途端に目の前に居た筈の相手の気配が曖昧になる。直前まで姿を見て会話をしていた筈の相手があっという間に認識できなくなり、次の瞬間体が重力を突然思い出したようにずんと重くなる。食道から喉元まで隙間なく水が詰まっているのを感じ、KKは浴槽の底から体を起こすのと同時に水を吐き出した。
    「げほっ!」
    自分の口から信じられない量の水が逆流してくる。暫く激しく咳き込んでは体内に溜まった水を吐き出し、引き換えに酸素を肺に満たすことに専念した。
    ごぽごぽと音を立てながら浴槽を満たしていた水が排水口に渦を巻き流れていく。漸く脳にまで酸素が行き渡り、KKは浴槽の傍らに立つ凛子を見上げた。
    「きっちり10分。おかえり、正気で戻ってこれたみたいで良かったわ」
    「……ありがとよ」
    髪から滴る水滴を頭を振って飛ばすと、凛子は露骨に眉間に皺を寄せKKから距離を取った。
    「ちょっと、犬じゃないんだから」
    「暁人の追跡はどうなってる」
    「ん……時間経過でどんどんこっちとの繋がりが希薄になってて、見失わないようにするので精一杯。精度は期待しないで」
    「ある程度分かりゃいい。あとは足で探す」
    「あいつらは何て?協力の言質は取れたんでしょうね」
    「ああよ。乗り気なのが若干気味悪いが、何かアテがあるらしい。向こうのことは任せて良さそうだ」
    「そう……」
    水気を吸って肌に張り付くワイシャツを脱ぐことに苦労しているKKからの返答を聞き、凛子は僅かに肩から力を抜く。
    「オレらはこっちでやれることをやる。暁人が移動した先の座標送ってくれ。その周辺に出入り口を作りに行く」
    「分かった」
    漸く袖から腕を引き抜くことに成功し、両手でワイシャツを絞りつつKKは向こう側で同業者が口にした単語を呟いた。
    「……喜劇ね」

    がくんと体が揺れた拍子に目を開くと、暁人は狭い箱に入れられていた。膝を抱えるように座って背を屈め、限界まで体を縮めることで漸く収まるかといった具合の、狭い空間である。断続的に縦方向の揺れを感じることから、自分の箱が移動していることは察することができた。
    手元を見下ろすと服が変わっている。アジトに行くために寝間着から普段着の洋服に着替えていた筈だが、今は白い無地の着物を身に着けていた。絹のような上等そうな手触りがする。
    ここはどこか、助けを呼ぶため声を上げるべきか否かも分からない。どこかが開かないかと箱の壁に当たる部分を触っていると、一部が覗き窓のように横へスライドする形に開いた。
    音を立てないように覗くが、外は暗く、夜であろうことくらいしか分からない。暗闇の中、それでも何か情報を得ようと遠くから聞こえてくる音に耳を澄ませた。
    「雨……?」
    外から入り込んでくる空気は乾いていて水の気配はない。しかし遠くからさあさあと聞こえてくる音は雨粒が地面を叩くもののように思えた。
    時間の経過と共に視覚が暗闇に慣れ始め、遠くで体を前後に揺らす薄の群体が見えるようになった。降雨の音だとばかり思っていたが、道端を隙間なく埋める薄同士が風に揺られ、擦れる時に出す音だったのだろう。
    先程まで都心部のマンションの一室であるアジトにKKらと一緒にいた筈だが、ここには人工物も殆ど見られない。屋外であることは推測できるが街灯や家屋といった人工物は見当たらず、曇っているのか頭上に夜道を照らす星や月すらも見当たらない。
    暁人が入れられている箱はゆっくりとした速度で未舗装の砂利道を進んでいる。この場では箱と砂利道だけが人の手が入ったものであった。箱を移動させている人の気配はするが、覗き窓の制限された視界からでは姿まで見ることは出来ない。
    現状、大人しくしておくべきなのか脱出を図るべきなのかも分からなかった。もし箱から脱出を果たせたとして、単純に今進んでいる方向とは逆に進めば元居た場所へ戻れるかと言えばそれも確証がない。
    意識を失う前、KKから唯一受けた指示は、彼のことを考え続けることだった。未だそういった未知のものに対し基礎的な知識と簡易的な自衛手段程度のものしか身に付けられていない自分にできることはその程度だろう。
    迎えにくるというKKの言葉を信じて彼のことを考え続ける他ない。姿、声、彼が纏う煙草の匂い。思い出そうと努力する必要もない程容易く脳裏に蘇る。長い付き合いだと言い切れる程の時間を共有はしていない筈なのに、人生の大半を彼と共に過ごしてきたような、そんな錯覚すら覚える程KKが傍に居る日常が自分に馴染み切っているのだと、まさかこんな状況で気付くことになるとは思いもしなかった。
    どれ程夜道を進んだだろうか、道の先に弱い光がぽつりと浮かんでいる。注視するとそれが提灯の灯りであることが分かった。提灯は道の突き当りから続く石造りの階段を頼りなく照らし出している。
    暁人を乗せた箱は階段の前まで進んで、漸く止まった。覗き穴があった側の壁が横方向へ開き、不明瞭な声で外へ出るよう促される。恐る恐る箱の外へ体を出すと、自分が押し込められていた箱が前と後ろで人が担いで運搬する駕籠であったことが分かった。暁人を乗せた駕籠をここまで運んできた者が少なくとも二人は居る筈だが、振り返ってもそれらしき人影はない。困惑する暁人を提灯を持った老婆が出迎えた。その人が本当に老婆なのかは、無地の布面が顔を覆っているため分からない。ただ背中は大きく曲がっていて、暁人の身長の半分にも満たない程に小柄な姿から暁人は老婆を連想した。
    「上で旦那様がお待ちです」
    老婆はそれだけ言って暁人に目の前の階段を登るように促す。階段の先には提灯の明かりも届かず、そこに何が待ち受けているのかは想像もつかない。
    しかし背後は遠くから微かに薄の擦れる音が聞こえるだけの暗闇だ。ここで無策に逃げ出したとして、事態が好転するとはどう楽観的に捉えても考えられなかった。
    意を決して石階段に向かって一歩を踏み出す。靴は履いておらず、足の裏に直接石の冷えた硬い感触が伝わってきた。
    老婆が掲げた提灯が足元を照らす中、KKが迎えにきてくれるまでの時間稼ぎのつもりで出来るだけゆっくりと階段を登る。老婆はそんな暁人を急かすことこそしなかったが、提灯で足元を照らす役目に徹して暁人のすぐ傍から離れようとしない。暁人には老婆が自分が逃げ出さないために見張る監視役であるように感じた。
    やがて階段にも果てがきて、最後の一段を登り切ると石畳の向こうに建物の影が見える。薄暗く全貌は把握出来ないが、建物の中から淡く光が漏れていた。
    「さあ中へ、旦那様がお待ちです」
    階段下で告げたことを繰り返し、老婆が暁人を促す。ここまできてじわじわとした焦りが暁人を支配し始めた。
    明らかに、このまま進んでいいわけがない。だが戻ることもできない。肩越しに振り返った石階段は完全な暗闇に呑み込まれていて、灯りもなく駆け下りることはできそうになかった。
    何より足が前方以外に動かない。後退りしようと踵を引こうとしても影に足首を掴まれでもしたようにびくともしなかった。
    「さあ、中へ」
    再度老婆が促す。声は平坦で感情の起伏は感じられない。提灯に照らされて、老婆の布面の隙間からやけに硬そうな髭に覆われた顔の一部が見えた。
    「さあ」
    最初に右足が、次に左足が、石畳をすり足で歩くように進み始める。力を込めても止められない。
    「……っ!」
    抗えず前進し続け、建造物の正面玄関と思しき場所に立つ。見上げる建物は木造の荘厳な作りをしていて、暁人を歓迎するように眼前で玄関の引き戸が音もなく開いた。
    皆様、待ちわびておいでです」
    老婆の声が背中を押すように、家屋の敷居を跨ぎ中に入る。中も外と変わらない程暗いが、真っ直ぐに続く廊下の向こうがほの明るい。そこが最終的な目的地ということなのだろう。
    背後で扉が閉まる音がする。暁人は階段を登った時よりも更にゆっくりとした歩調で廊下を渡り、とうとう突き当りの襖の前まできてしまった。
    随伴していた老婆が襖に手をかけゆっくりと開く。途端、それまで自分の心音と廊下の床板を踏み締めた時の軋み程度しか聞こえなかった空間に音が満ちた。
    氾濫する音の洪水に虚を衝かれ思わず呆然と硬直する。襖の先は広間になっていて、左右に人が座って暁人を待ち構えていた。
    全員老婆と同じように布面を垂らしており、素顔は見えない。そののっぺりした無地の面をこちらに向けて、皆両手を打ち合わせている。
    体の大きさに対してやけに小さな手が打ち合うたびに鳴る音は広間の中で重なり合って反響し、暁人に降り注いだ。
    「……この、音」
    異様な光景の中ひとつだけ得心する。自分が夢現の中聞いたと思った雨の音はこれだ。大きな広間で、何かを祝福でもするように大勢が一心に手を打ち合わせ続けるこの音を、夜毎暁人は聞いていて頭の片隅で記憶していたのだ。
    歓迎されている。暁人は夜毎繰り返しここへ呼ばれ、そして今日、漸くこの広間に到達した。
    止まっていた足がまた動き出す。真っ直ぐ広間の中へ入って行こうとするので、暁人は自由にならない身を捩らせて暴れた。
    「いやだ、行きたくない!」
    腕を振り回した拍子にすぐ傍に控えていた老婆の布面を指先が掠めた。幸い老婆の身に手や爪が当たって傷付けることはなかったが、ずれた布面の下を目の当たりにした暁人はまた体を強張らせた。
    「あなたは望まれました。旦那様に望まれました」
    針金のような鈍色の獣毛に覆われた口元から声が零れる。頭部から突き出た丸い耳とつんと尖った鼻先は紛れもなく鼠のそれだ。
    人と変わらない大きさの鼠が、人のように服を着て、布面で顔を隠し、鋭利な爪を持つ小さな手で柏手を打つ。パチパチと弾けるような音は群れを成し、広間中に響き渡った。
    足は勝手に進む。広間に犇めく数え切れない程の鼠たちに祝福されながら進んだ先に、一際大きな姿が待ち構えていた。
    黒い紋付袴を着付けた巨大な鼠の隣には空の座布団が置かれている。そこに座るのが誰なのか、言われるまでもなく状況が克明に物語っていた。
    「さあ、祝言を」
    「祝言を、さあ」
    「この日を待ちわびていたのだ」
    「めでたいこの日を」
    鼠の鳴き声と人の言葉のような声が至るところから聞こえてくる。眼前で繰り広げられる光景の余りの異常さに、暁人は気が遠くなりかけた。これは夢で、目を覚ませば何事もなく自室で目覚めるのではないかと逃避しかけた。しかしいくら目を強く瞑っても、起きろと念じてみても事態は毛程も変化がない。
    「……、」
    最早喉すら自由を失って、拠り所にしていた男の名すら呼ぶことは出来なかった。巨大な鼠が暁人を手招きする。抗えず右足が一歩鼠に向かって踏み出された時、甲高い悲鳴が広間を劈いた。
    咄嗟のことだったからか、暁人の体を支配する何かしらも悲鳴に気を取られたのか、一瞬体が自由を取り戻し、鼓膜を直接引っ掻くような耳障りな音のする方を振り返る。
    悲鳴は広間の入り口に立ち塞がっていた老婆のものだった。
    老婆は生き物の須らくが急所と定める喉を仰向けに晒してびくびくと体を痙攣させている。腹に深々と突き刺さった牙の白さが薄暗い広間の中で眩しい程だった。
    極めて本能的な恐怖が老婆に一番近い位置に居た者から伝播していき、広間はあっという間に大混乱に陥った。出入り口の一つしかない広間の中で逃げ惑い、梁に登る者、部屋の隅でひと塊になり震える者、絶叫し立ち尽くす者、そんな恐慌の中、広間の入り口からそれはずるりと入り込んでくる。
    動かなくなった老婆を容易く丸呑みし、純白の体を蠕動させながらあっという間に広間を支配した姿に、暁人は恐怖より何よりも美しさを感じた。これ程までに圧倒的で、純粋な力とはかくも美しいものか。
    「……あなたは」
    縦に裂けた瞳孔を持つ紅玉の瞳は深い叡智を帯びている。
    山を統べ、人々から連綿と奉られてきた月白の鱗を持つ蛇神は天井に届かんばかりの巨躯をうねらせながら静かに暁人を見下ろしていた。
    亮佑 Link Message Mute
    2023/08/10 23:27:13

    天泣に白装束_中

    人気作品アーカイブ入り (2023/08/11)

    続き。強引な神隠しで連れていかれる暁人くんと祟り屋に会いに行くKK。
    #K暁

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