媒鳥を鳴かす_中顔を合わせるたび、飲み込む言葉がある。
庇護欲と罪悪感の中に埋もれるようにしてそれは確かに存在していて、常にこちらが油断するのを待ち構えている。気を抜けばそれは忽ち自分を支配し、思考と肉体の主導権を奪うだろう。
そして喉元で堪えている言葉を、指先を握り込むことで押し殺している衝動を現実のものとしてしまう。
何度脳内で夢想しようと、それは現実になってはならない。夜中不意に見る夢は、夢のままで在らねばならない。
近い場所で見守って居られれば良かった。踏みにじられた野花にしてやるように、たまに水をやって、目をかけて、やがて別離するその背中を見送ることができればそれで。
まだほんの子どもだ。自分がどれ程危険な真似をしてるか分かっていない無力な庇護対象なのだと擦り切れる程己に言い聞かせてもまだ足りない。
瞼の裏側に焼き付いて離れない。脳裏にこびりついて拭えない。何度忘れようとしても陵辱の限りを尽くされた姿が少しも褪せない。
他の誰かに汚される様を見る羽目になるくらいなら、先に自分が手折っておけば良かった。
同情等ではなかったのだ。あの時、怒りの薪になったのはもっと悍ましい、悔恨と独占欲の混ざったどす黒い感情だった。だから許せなかった、怒りで我を忘れさえした。
繰り返し夢に見る。
夢の中で自分はその首に、両腕に足に、胴に、エーテルを撚り合わせたワイヤーを食い込ませ、詰問するのだ。
お前は誰のものだ、俺だろう。
依頼を終えてからが兎角面倒だった。
死体が上がってしまった以上、警察機関へ通報しなければならず、人里離れた山小屋に遺棄された遺体を発見するに至った経緯を説明するのも一苦労だった。
最終的にKKの事情をある程度知る刑事時代の知人から口添えをしてもらってやっとのことでKKと暁人は帰宅を許された。
肉体的というよりは精神的に疲れ果て、既に夜も遅い時間だったこともあり凛子には電話口で簡単に顛末の説明をして近くのビジネスホテルに泊まることにした。運良く取れた部屋のベッドに二人は同時に倒れ込み、暫く死んだように動けずにいた。
「僕、事情聴取ってはじめてだったんだけど、あんななんだ……なんていうか、すごく丁寧で、じっくり」
「思ったまま言えよ」
「……クッッソしつこい……なんで同じこと永遠に聞くんだ……」
「非効率に見えてやらんとならん事情はあるんだが、今は同意しとく」
一応このような事態になった時、二人で主張が食い違わないための打ち合わせは事前にしていたため必要以上に話が拗れることはなかった。馬鹿正直に事情を話しても理解してもらえるとは思っていない。
怪訝な顔はされたが、それでも一応納得させることには成功したようだ。
今後娘の遺体の件については村の中で捜査が行われるだろう。そうなれば真実に辿り着くのも時間の問題だ。そこから先は、今のKKが関わる話ではない。
「慰労会だ、飲むぞ」
「えっ、それ飲んじゃうの?」
KKが荷物の中から取り出した酒瓶を見て、暁人はぎょっとした顔をKKに向けた。蛇神から受け取った酒瓶の中身を部屋に備え付けのグラスに注ごうとするKKに困惑気味の視線を寄越してくる。
「もったいなくない?」
「飲まねえとそっちのがもったいないだろ」
「そうかもしれないけど……そんな雑な感じに飲むものでもないんじゃ……」
「酒は飲みたい時に飲むのが一番美味いんだよ」
KKはグラスに注いだ酒を目線の位置に掲げて一息に煽った。
水よりももっと透明に思える液体は口に入った瞬間、強い酒精がかっと口内を瞬間的に燃やす。しかし後味は驚く程爽やかで、するすると水のように抵抗なく喉の奥へ流れ込んでいった。
若干衝撃的な美味さだった。グラスを握って沈黙するKKに暁人が恐る恐る話しかけてくる。
「ど、どう……?」
「めちゃくちゃ美味い」
KKが別のグラスに酒を注ぎ差し出すと、暁人は少し慌てたように首を振った。
「僕はいいよ、お酒あまり飲まないんだ」
「全くダメなわけじゃねえんだろ、一口くらい飲んでおけ。蛇神が手ずから造った酒だ、悪いモンではなかったとはいえ一度死んだ魂を内側に入れたんなら清めておいた方がいい」
言ってから、こういう強要も最近は良くないのかと思い至る。しかし口に出してしまったものは戻らない。これで尚嫌がるようなら大人しく引き下がろうと決めた矢先、暁人はおずおずとKKから杯を受け取った。
「少しだけでもいい?たぶん強くないんだ僕」
「酒の許容量は早めに失敗して知っておいた方が後々得だぞ」
「うう、怖いなあ」
恐る恐るといった様子で暁人はグラスに口を付ける。KKは黙って暁人の尖った喉仏が微かに上下する様を眺めていた。
「わ……本当においしいね。こういう味好きだな」
「へえ、こういうの好きか。酒飲みの舌だな、親譲りか?」
「……どうかな、僕らの前ではあまり飲まない人たちだったから。そういえばお酒の好みも知らないや」
咄嗟に謝罪が口をついて出そうになったが、語る暁人の表情が余りに穏やかで、謝れば逆に気を遣わせてしまいそうだったためKKは自分のグラスを空けることで出かかった言葉を飲み込んだ。
暁人はゆっくりとグラスの中身を消費している。渡す際グラスの半分程の量を注いだが、それがいくらも減らない内から顔が赤らみ始めた。
「……大丈夫か?」
「平気だよ。もしかして、もう顔赤い?お酒飲むとすぐ赤くなるんだよね」
顔が赤くはあるが、受け答えはしっかり出来ており呂律も通常時と変わらない。目が据わるようなこともないため、本当に赤くなっているだけなのだろう。
「念のためその一杯で止めとけよ」
「そうする」
KKが手酌で注いだ二杯目が空になる頃、暁人は自分の杯を空にした。
「ごちそうさまでした」
「気分はどうだ」
「美味しかったし、気分は良いよ」
「そうか、じゃあ水飲んで今日は寝ろ」
水のボトルを投げ渡すと、暁人は若干辟易した表情で自分の手元にきたボトルを受け止めた。
「僕、今日一日でめちゃくちゃ水飲んだ気がするよ」
「昼間飲んだ分は全部出したろ」
「それもそうか……」
酒と同じようにゆっくり水を飲み、暁人はそのままベッドへ倒れ込んだ。顔を腕で覆ってそのまま寝入ってしまうかと思われたが、暫し沈黙が続いた後ぽつりと暁人が呟いた。
「思い出したかもしれない」
グラスを煽ろうとした手を止め、思わず暁人の方を振り返った。先程の体勢から動かず、口だけが小さく動く。
「KKが忘れろって言ってた日のこと」
「……どこまで思い出した?」
「たぶん全部。彼女の記憶の似た部分に引っ張られたんだと思う。……ごめん」
「謝んな、オマエは何一つ悪くねえだろうが」
「……うん」
「無理に受け入れる必要はないからな。もしオマエに抵抗がないなら、もう一度忘れさせてやることもできる」
「いや、必要ないよ。ありがとうKK、こんなことがあったからずっと気を遣ってくれてたんだね」
「礼なんか言うな、情けなくてこっちが泣けてくる」
KKは憮然として顔を背け、こみ上げてくる苦い気持ちを酒を煽ることで飲み下した。
本当に情けない。
守るどころか肝心なところで甘くなって、今回も前回も暁人に相当な負担を強いた。変に背負い込むことが多い暁人のことだ、心配し気遣ったところで強がることは目に見えているのに上手く立ち回ってやれない自分に腹が立つ。
「惚れた男ひとり守れねえくせに師匠面してんだ、笑えるぜ」
暁人は徐にベッドから起き上がると、少し困ったように笑った。
「責任感が強いのはKKの長所だと僕は思ってるけど、強すぎるのも心配だよ。あまり思い詰めないでね」
KKは暁人の顔を見ないまま、低く唸るように返事をした。やはり怒るでもなく暁人は静かにベッドから立ち上がる。
「お風呂入ってから寝るよ。シャワー先に使わせてもらうね」
「……ああ」
暁人の姿が浴室に続く扉の向こうに消えるのを見届けて、KKはグラスの底に残った酒を一息に煽る。喉を心地良く焼く酒精が食道を下って行ったのを感じつつ、KKはふと違和感に気が付いた。
今、自分は何を言った?
何かとてつもない禁句を口走ってしまった気がする。気のせいか錯覚かとも思ったが、酒の味が色濃く残る舌はその言葉を発したことをはっきり記憶していた。
自覚と同時にどっと全身から嫌な汗が噴き出る。咄嗟に弁明のために立ち上がろうとして、中腰の状態で動きを止めた。
暁人はKKの発言に対し大きな反応を示さなかった。酔っ払いの戯言と思ったか、単なる言葉の綾として特別深い意味はないと判断したのだろう。この場合に限っては暁人の判断と己の幸運に感謝した。
なかったことにすべきだ。酒を飲んでいたとは言え口を滑らせてしまったのは自分だが、なかったことに出来るのならそれに越したことはない。
酒、と思い至りKKはホテル備え付けの小さなテーブルの上に乗った陶器製の酒瓶を見下ろした。中にはまだあの美酒が残っている。
神域で神の手ずから作られた酒。清らかな水はそれだけで特別なことをせずとも穢れを濯ぎ、穢れを跳ね返す。穢れとは死や呪いだけでなく虚偽や隠匿も含まれ、姿を偽り人を騙す妖怪も水に触れればその正体を隠しておくことが出来ず尻尾を現すが、どうやら人にも効果があるようだ。
平たく言うのなら、嘘を吐けなくなる効能のある酒だったということだろう。本音が出やすくなる、と言う方が近いか。
なかったことにするのなら動揺していては話にならない。KKは暁人が戻るまでに何とか平静を取り戻すことに成功した。
ホテルの備え付けの寝間着姿で出てきた暁人にやはり変わった様子は見られない。安堵する反面、そのくらい意識されていないのだと考えると複雑な気分だった。
暁人が自分を好意的に見ていることは分かるが、所謂父親を重ねたりや師としての尊敬や憧憬からくるものであって恋愛感情とは違うのだろう。仮に万一恋愛的な意味での好意だとして、既にKKの中の暁人への感情は恋愛という可愛らしい名のつく枠からは大きく逸脱を始めている。感情に姿があるのなら、それはきっと醜く巨大な鬼の姿をしている。こんな穢れにも似た感情で暁人の好意を汚したくはなかった。
この感情は生涯表に出さず冥府に抱えていく他ないだろう。
「……KK、大丈夫?」
自分で気付かない内に目を閉じていたらしい。間近から聞こえてきた声に促されて瞼を押し上げた途端、目の前に手が伸びてきているのを見てKKは反射的にその手を強く掴んだ。掴んでから、声と手の主が暁人だと気が付いた。
「そこで寝るのよくないよ、せめて服だけでも着替えてベッドで寝なよ」
椅子に座って俯いていた自分の顔を覗き込むためにか暁人はKKの前の床に膝をついてこちらを見上げている。フリーサイズの寝間着の大きく開いた襟ぐりからくっきりと浮き出た鎖骨が見えて、取り戻せていた筈の平常心がまたぐらぐらと揺れ始めたのを感じ、KKは慌てて暁人から手を離した。
「ちょっと一服してくる、待ってなくていいから先に寝てろ」
愛飲している煙草の箱とライターをまとめて掴んで椅子から立ち上がる。急に動いたからか頭の中でアルコールが大きく回った気がした。
「さっき言ったこと気にしてる?」
背中に投げかけられた言葉に聞こえない振りをして部屋を出れば良かった。そうすればその事実は完全になかったこととして消え去った筈だ。しかし誰かに掴まれでもしたようにKKの足は扉の手前で先に進まなくなってしまった。
「勘違いだったらごめん、あれからちょっと様子がおかしかったから。僕は気にしてないよ、言葉の綾とか、そういうやつだよね?特別な意味がないことは分かってるから心配しないで。忘れるのはちょっと、無理かもしれないけど、ちゃんとKKの同僚でいるから。だからお願い、離れていかないで」
振り返った先で、口元を押さえて少し驚いたような表情をした暁人と目が合う。
「いや、違う、こんなこと言うつもりなくて……僕」
明らかに動揺している暁人を黙って部屋に置き去りにも出来ず、KKは逃亡を諦めて暁人に向き直った。
「……さっき飲ませちまった酒が原因だ。強い効果じゃないが、さっきのオレや今のオマエみたいに口が滑りやすくなるみてえだな。酒が抜けりゃ、元に戻るから心配するな」
KKはゆっくりと暁人に近付き、こちらを見上げてくる頭を軽く撫でた。手の平をくすぐる細く柔らかな髪の感触が心地良い。
「驚かせて……気ぃ遣わせて悪かったな。オレん中の問題だからオマエが何かする必要はないし、このことで距離置くなんてこともねえから安心しな」
せめて師として同僚として、彼の傍に長く居られるよう一層注意深く感情に蓋をしなければ。
暁人に喋る間を与えず、半ば畳み掛けるように話し続けた。
「……オレは近くのネカフェかなんかで寝るから、オマエもちゃんと寝て疲れ取れよ」
返事はなかった。当然だと思った。しかし暁人は突然踵を返しテーブルの上に置かれた酒瓶を掴むとそのまま勢い良く中身を煽った。
「おいっ暁人!」
ぎょっとして止めるが既に遅く、暁人は若干咳き込みながら口を手の甲で乱雑に拭いながらこちらを振り向いた。
「僕はあんたのことが好きだ。ずっと前から」
明るい虹彩を湛えた目が据わっている。視線はKKにだけじっと注がれていた。
「言ったらぜったい困らせるから、黙ってるつもりだった。でも、本当は諦めたくなんかない。だって初めてだったんだ、この人のためなら何でもできるって思うくらい好きになった人。たぶん、こんなこと最初で最後だ」
落ち着き始めていた紅潮がぶり返し、目も心なしか潤んで見えた。しかし泣くわけでも激昂するわけでもなく、静かにKKを睨みつけてくる。視線の強さに圧倒された。
「あんただけに言い逃げさせてたまるか」
眉尻が跳ねる。磔になっていた足が動くようになり、KKはわざとゆっくりとした動作で大股に一歩、暁人に向かって近付いて口を開いた。
「……オレが逃げてるって?本気でそう思ってんのか」
低く恫喝するような声音を作って凄む。頤を上げて睨め下ろすが、暁人は引こうとしなかった。
「逆だ、逃がしてやってんだ。オマエを、オレから」
「頼んでない」
「オレの頭ん中を見せられるモンなら見せてやりてえよ。そこでオマエがどうなってるか知ったら、そんなこと口が裂けても言えなくなる」
わざと強い言葉を選んで威圧した。
怯えろ、危険だと気付いて逃げ出してしまえ。
逃がしてやれる、今ならまだ。
半ば祈るような気持ちで、しかしそれをおくびにも出すことなくKKは暁人の反応を待った。
「……KKは、僕を物みたいにあつかう?血が出るほど痛いことをして、痛がってるところを見て笑う?言うことをきかなかったら顔を殴ったり、首を締めたりする?」
「暁人やめろ」
「止めない。『抱いてやってるんだから喜んで足開け』なんて言わないだろあんたは」
赤い唇の端が小さく震えている。感情が大きく揺らいでいるようだったが、暁人は淡々とした口調で続けた。
「あんたが優しいことなんて、もうとっくに分かってるから。だからもう逃げるのはやめてよ。オレあんたからされて嫌なことなんてひとつもない」
右手が強張り、KKは咄嗟に拳を強く握り締めた。湧き上がる衝動に任せたら暁人に何をするか分からなかった。
「(……ああ、そうか)」
不意に頭の中で得心がいく。ずっと怯えていたのは自分の方だ。腹の底で産まれた感情があの夜の怪異の残滓がしたように、彼を暴力で捻じ伏せ、物のように扱ってしまう可能性が絶えず傍にあることが恐ろしかった。
望めばそれを容易く実現できてしまう。一方的な支配が常に手の届く範囲にある。
暁人の言葉は存外的を射ていたのだ。無意識に分かっていたのかもしれない。だから聞き流せず、反論に転じてしまった。
「もう逃げの手も打ち止めか」
懸想する相手にすら及び腰であることを看破されていた自分の間抜け具合に自嘲し、KKはもう一歩分暁人に近寄り飲酒で赤く熟れた頬を掌で包む。それだけで間近にある濡れた瞳が分かりやすく揺れた。
自分にあれだけの啖呵を切った癖に、稚い動揺を見せる暁人を見つめ、KKはふっと小さく笑う。
「オレを挑発したこと後悔するなよ。オレがとんでもなくしつこくて、目的のためなら手段を選ばないってこともオマエはよく知ってるだろ」
「しないよ、後悔なんか。……たぶん」
最後の最後で突然弱腰になられ、KKは思わず吹き出した。
「おいおい!なんだ急に弱気になんなよ、せっかくオレも腹ァ括ったってのにそりゃないぜ」
「し、しょうがないだろ!なんか急に自覚がきたんだよ!僕ら両思い……なんだよね?」
頬に触れる自分の手に相手のそれを重ねられ、上目遣いに問われて平静を保てる者等居るのだろうか。
少なくともKKには無理な話だった。
捕食欲求にも似た衝動が駆け巡り、暁人を引き寄せ顔を寄せる。KKが何をしようとしているのか察したのだろう、咄嗟にぎゅっと強く両目を瞑った様を見て、僅かばかり理性が戻りKKは音を立てて額に口付けた。
目を丸く見開く暁人に意地の悪い笑みを浮かべて見せる。
「酔っ払いにゃこれで十分だろ」
「それを言うなら、KKだって酔っ払ってるじゃないか!」
「そうだよ、だから自分に言い聞かせてんだっつの。このままオマエをどろどろのぐちゃぐちゃに抱きてえのを我慢してんだよ」
KKな発言の意味を暁人が理解するまで少しの間が必要だった。元々上気していた頬が更に鮮やかさを増し、ずっとKKから逸らされずにいた視線が初めて逸れた。
「痛い思いなんてこれっぽっちもさせねえ、気持ちいいことだけ覚えこませて、オレなしじゃ生きて行けなくしてやりてえのを今全力で堪えてる」
「せ、せくはらだ……」
「危機感の足りないオマエにも分りやすくオレの涙ぐましい努力を教えてやってんだろが」
話し続ける内に徐々に視線が下がっていき、とうとう完全に俯いてしまった暁人の旋毛に唇を押し付け少し真面目な口調で囁く。
「酒が抜けてからオマエのこと大事に愛させてくれ」
暁人の体が弱く跳ね、それから小さく頷いたのを見てKKは縮こまってしまった背中を優しく叩いて抱き締めた。
控えめに抱き返してくる腕の感触を覚えながら、KKはずっと腹の底で燻り外へ出せと暴れていたものが穏やかに凪いでいくのを感じていた。
往々にして酒の勢いとは翌朝に効き始める毒のようなものである。
無茶な飲酒と諸々の出来事のせいでふらつく暁人を寝かし付けた後、冷水のシャワーを浴びながら念仏を唱えることによってどうにか自分が発した言葉を真実へと昇華することに成功したKKは寝不足の頭を抱えながら起床することとなった。
幸い二日酔いの気配はない。そしてテーブルの上にあった筈の酒瓶も跡形もなく消えているのを確認し、何とも言えない気持ちになった。
KKから少し遅れて暁人が起床する。寝起きは良い方らしく、何度か眠気を振り払うような動作の後KKの視線に気が付き口を開いた。
「おはよう、KK。はやいね」
「おう、ちょっと眠りが浅くてな」
「寝不足?車の運転大丈夫?」
「ああ……まあ、下の道使ってゆっくり帰るか」
「その方がいいかもね。僕が車の免許持ってたら交代できるんだけど」
「別にいいんじゃねえか?今時車は流行んねえしよ」
もっとぎこちなくなるかと身構えていたが、思いの外普段通りの接し方をされ少しだけ肩透かしを食らう。しかしそう思ったのも束の間、浴室で顔を洗い終えて戻ってきた暁人が何の躊躇いもなくKKの目の前で着替え始めたのを見て慌てて止めた。
「おい暁人、信頼してくれてんのは嬉しいが、それでも少しくらい警戒心は持ってくれ。昨夜オレが言ったこと忘れたか?」
KKの注意に、暁人は本気でぽかんとした表情をした。記憶を呼び起こすためにか視線が横へ逸れ、それから下方へ逸れる。
「……え、昨夜……?なんかあっ……あれっ?」
「残念ながらそれは夢でもなんでもなく現実だぞ、暁人くん」
「……、あ、これも夢……?」
「抓って目が覚めるんならいくらでもオレがしてやるところだがな。いいから服を着ろ」
着替え終えた暁人を座らせ、KKは静かに問いかけた。
「後悔してるか?」
「してない。すごく幸せな夢だったなって、本気で思ってたからびっくりしただけ……ごめん、寝ぼけてた」
「責めてるわけじゃない。オマエの気持ちが昨夜から変わってないか知りたかっただけだ」
「ずっと好きだったのに、たった一晩で変わるわけないよ」
おそらく無意識なのだろうが、こちらの理性を的確に揺さぶってくる暁人の言動に、KKは脳内で自分が後どのくらい余裕ぶっていられるか推測する。
目が合うと照れ臭そうに微笑む暁人がやけに眩しく見えるのは窓から差し込んでくる朝日だけが原因ではない。
残された時間はあまり多くはなさそうだ。
「そろそろ出るか、荷物まとめたか?」
「うん、すぐ出られるよ」
「そうか、じゃあ……家と部屋取るのと、どっちがいい」
「? なんの話?」
「行き先の話」
「これから帰るんじゃないの?泊まりこみの依頼ってなんかあったっけ?」
「まだ寝ぼけてんのか」
「だからなんの……、待って、その話まだ続いてたの?」
「ずっとその話をしてんだよ」
「なら家と部屋ってなんのことだよ?さっきの話題と違い過ぎて分かんないよ」
「なんも変わってないだろ、オレの家かホテルの部屋取るか、どっちがいいか希望を聞いてるだけだ、ッて!」
言い終わるか終わらないかのタイミングで拳が飛んできた。そこまで強くはなかったが、丁度肩の骨に当たって痛い。
「朝っぱらから何言ってんだ!そんな誘い方ってある?!」
「昨夜どんだけ我慢したと思ってんだ!オレだって頑張った分のご褒美は欲しい!」
「僕だって我慢したよ!散々煽ったくせにしないって言ったのはKKじゃんか!」
「大事にしたいからだって言ったろ。オマエも納得してた」
「にしては誘い方雑じゃない?昨夜はもっと言ってくれたのにさ」
「オレの年齢と性格を考慮してくれよ、素面であのノリは無理だ」
「ああ……」
「納得すんな」
「なんだよ面倒くさいなあ!」
暫く生産性のない口論を続け、チェックアウトの時間が迫ってきたため決着はつかないままビジネスホテルを出た。
寝不足と精神的な高揚状態であることを加味し、高速道路は避け下道で帰路につくことにした。
会話は特別続かなくとも気まずさを感じる間柄でもないが、何となく耳寂しくなりラジオでも付けるかと信号待ちの停車中にカーステレオの操作盤に手を伸ばす。
「……KKの部屋がいいです」
ボタンに指先が触れるか触れないかのタイミングで助手席から消え入りそうな声が聞こえ、KKは思わず車の天井を仰いだ。