天泣に白装束_前雨が降っている。
地面に叩き付けるような激しさはなく、さらさらと鼓膜の輪郭を水の気配が撫でていく音から細雨であることは見えずとも察せた。
目を開けると、雨の名残りが鼓膜にだけ残っている。カーテンを開けて隙間から外を覗いても、眼下の道路に水の気配はない。ここ一週間、雨が降っていないのだから当然だろう。
ではこの記憶に残った雨の気配は一体なんなのか。瞼を開く瞬間まで鼓膜は雨音を確かに聞いていた記憶が残っている。
奇妙な夢を見るものだと暁人は思ったが、鼓膜に雨の気配が残る以外に異変もない。たかだか雨の音がするだけで、特段誰かにその夢についての話をすることもなかった。
「暁人、オマエ最近何か変わったことはなかったか」
日の入りと同時にアジトでの仕事を終えて自宅のアパートへ戻ってきたKKを出迎えて、家で余分に作ってきた夕飯を小さな冷蔵庫に詰め込んでいたところに後ろから声がかかる。
振り向くと冷蔵庫の前に屈みこんだ暁人を覗き込むようにKKが立っており、おぼろげなものでも見透かすように目を眇めて此方を睨んでいた。
「さいきん?別に何もないと思うけど……」
「隠してんじゃねえぞ」
「隠してないよ、本当に本当」
KKは何か納得のいかない様子だったが、暁人の方にも心当たりはない。やがて諦めたか納得かしたかしたらしく、乱雑に暁人の頭をひと撫でして踵を返して戻って行った。
「それよりKK、また冷蔵庫の中空っぽなんだけど」
「空けてねえとオマエの料理が入んねえだろ」
「限度ってものがあるでしょ!僕だって毎日持ってきてあげられるわけじゃないんだから、僕の心配する前にもうちょっと自分の食生活に頓着してよ」
「オマエのおかげで前よりゃよっぽどいい生活させてもらってるよ」
「えぇ、嘘でしょこれで……?」
アジトに住み付いていた時代のKKの私生活を想像しかけ、ぞっとしたので途中で考えることを止めた。
「ちゃんとした生活してよ、僕のためにも」
「もっと可愛くお願いされたら考えるかもな」
「KK」
一段低くなった暁人の声に、KKは踵を返すと肩越しにひらひらと手を振ってベランダに出て行った。
食料を詰め込み終えた冷蔵庫の扉を閉め、暁人は黙って後を追う。ベランダへと続く窓を開けると外気と一緒に煙の匂いが室内に流れ込んできた。
「中入ってな、臭いが付いちまうぞ」
背中越しに紫煙が吐き出されているのが見える。暁人は口を閉ざしたまま後ろからKKの右肩に額を乗せた。
「できるだけ長く一緒にいたいって思ってるのは僕だけ?」
「……」
「不摂生で早死になんかしたら許さないからな」
「……、暁人、」
「もしそんなしょうもない理由で死んだら一緒にいってやらない」
言い捨てて暁人は踵を返し、さっさと室内に引っ込んだ。
「それは反則だろ!」
「煙草咥えたまま入ってこないで、室内禁煙です」
「おいコラ鍵かけんな!」
煙草を中断しどうにか室内に戻ることを許されたKKから健康的な生活に努めることへの言質を取ることに成功した。職業柄か、KKは言葉での宣言を避けようとするきらいがある。彼の言葉を借りるのなら、「言葉は因果を結ぶ」のだそうだ。
因果とやらが現実にどのような影響を及ぼすのか暁人はよく分からない。KKが忌避するのだから良くないものなのだろうと漠然とした認識でいる。
「ただでさえ危ない仕事してるんだから、健康くらい気をつけてよ。息子さんの成人式とか結婚式とか見れなくなっても知らないよ」
「そん時ゃ化けて出ても駆けつけるさ」
暁人が無言で睨むとKKは口角を引き攣らせて冗談だと前言を撤回した。
人を睨むこと等生まれてこの方数える程しかしたことはなかったが、KKにはそこそこ効果があるようだ。
ふと窓の外で音がした気がして、暁人は視線をカーテンに覆われた窓に移す。
「どうした」
「今雨降ってる?」
「……いや?」
KKはカーテンの端を摘んでできた隙間から窓の外を覗き込み、首を横に振った。
「今は雲一つねえよ。今日そんな予報だったか?」
「違うけど、雨の音がした気がして。気のせいだったかな」
「……オマエまた何か乗っけてんじゃねえだろうな」
「え、どうして急に?そういうんじゃないよ、ただの空耳」
「だといいがな。遅くなる前に帰れよ、あんまり遅くなるとまた妹御が心配するぞ」
「分かってるよ、今日はもともとご飯渡したらすぐ帰るつもりだったし」
帰り際玄関口で靴を履いているとKKが無言で寄ってきて背後に立った。声をかける訳でもなく、背中の中央辺りを指先で軽く突いてくる。
「寄り道すんなよ。このまじないはそんなに長く保たねえからな」
「分かったよ。ありがと」
靴を履き終え玄関扉に手をかけたところで後ろからKKの手が伸びてきてドアノブを握った暁人の手を押さえてくる。驚いて振り返る前に反対側の手が暁人の胴体に回り、そのまま後ろへ引き寄せられた。
「KK?」
彼からの抱擁を受け珍しいこともあるものだと戸惑うが、それを口に出したらすぐに手を離してしまいそうだったため言葉を飲み込む。KKは少しの間言葉を選ぶような素振りを見せた後、随分歯切れ悪く口を開いた。
「オレだって、できるだけ長生きはしてえと思ってる。そんだけオマエと一緒に居られるってことだしな。いやまあ、そう思ってるヤツの生活態度じゃなかったのは確かだが……でも、これからは気ぃ使うようにする。煙草も……極力減らす」
「止める選択肢はないんだ?」
「勘弁してくれ、取り上げられたらそれこそストレスで寿命が縮んじまう」
「たしかに、健康になって欲しくてストレス溜まっちゃうのは本末転倒か……」
暁人はKKの腕の中で体を反転させ、目線よりも少し上にある目を下から覗き込んだ。
「約束だよ」
「分かってるよ。二言はねえ」
彼は暁人の機嫌を取るためにその場限りの嘘を吐ける性質ではない。暁人は彼の言を信じることにして、自分からも煙の匂いが染みついた体に抱擁し返した。
KKの家を出て帰路に着く。まだ未成年の妹を家に一人残しておくのは落ち着かなかった。
離れても尚、鼻の奥に嗅ぎ慣れた煙の匂いが残っている気がする。嗅覚はすっかりこの匂いを覚えてしまっており、これがなくなってしまうのは少しだけ惜しくも感じてしまい、暁人は小さく鼻を鳴らした。
歩く内にすっかり日が暮れて、街灯の明かりを頼りに人気のない路地を進む。ふと目先の街灯の足元に何かが蹲っていることに気付き、暁人の視線は自然とそれに吸い寄せられた。
「(あ、)」
最初こそ人が蹲っているように見えたが、姿がぶれる。よくよく目を凝らすとそれはぶつぶつと何事か呟きながら体を小刻みに揺すっていた。人にしてはやけに四肢と首が長い。無論手足や首が平均より長い人というのも当たり前に居るのだろうが、それはそもそもそう言った次元の姿はしていなかった。人間という生き物を見たことがないものが、十分でない情報だけで人間を作ったらこんな姿になるのかもしれない。半端に姿が人間に似ていることが、余計に不気味さを助長していた。
今更引き返すことはできない距離まできてしまっている。ここで立ち止まったり急いで走り抜けようとしてそれの注意を引くような行動をしてしまったらKKの結界越しであっても気付かれてしまう。
それの呟きを余り聞かないようにしながら歩調は変えずそれの前を素通りした。それは暁人には目もくれず体を揺すり続けており、そして時折蜃気楼のように輪郭が揺らいだ。
暫く目線を前方に固定して機械的に歩き続け、塊からある程度距離を取れたところで少しだけ肩の力を抜く。
「あぶな……人かと思って声かけそうだった」
小さく呟き胸の奥でどくどくと早鐘を打つ心臓を服の上から撫でて宥める。
暁人は最近これまで知覚の外にあったものが見えるようになった。
KKと初めて出会った夜のように、既に死んだものの魂や人ならざるものの姿や気配、音、果ては気の流れのようなものまで。こちらが認識していると悟ると、それらは暁人に寄ってくる。無害なものならまだいいが、悪意や害意を持って近付いてくるものもざらだ。大半は然程力を持たずただ暁人に引き寄せられただけの連中で、これらはKKが張ってくれた結界のお陰で無闇には近付いてこれない。結界をものともしないものにもたまに出くわすが、KKからその手の輩を撒く手段をいくらか教えてもらって日々どうにか逃げ延びている。
出掛けに施してもらったまじないも、そういった手合いからの認識を阻害する結界の類だ。
どうにも暁人はそういうもの達から美味そうに見えるようで、物欲しそうに眺められて時には襲い掛かられる。KKが傍に付いてくれていたお陰で今のところ直接的に被害を被ったことはない。
それでも気を抜けば人か否か曖昧なものが口を開けて暁人が不用意に近付いてくることを待ち受けている。自衛するにはまだ自身の知識や技量は心許ないと言わざるを得ない。
KKに目をかけてもらい、手ずから守られるのは嫌な気分ではなかったが、早く肩を並べて彼の手助けが出来るようになりたいとも思う。どの道、自分の身を自分で守れてもいない現状では、KKの相棒等まだまだ程遠い話であることは確かだ。
「ただいま」
玄関に入るなり、私室の扉を半分開けて顔だけ出した麻里が恨めしそうな視線を投げかけてきた。
「おかえり、ずいぶん遅かったね」
「言う程遅くないだろ」
「遅くなくない!KKさんとラブラブなのはいいことだと思うけど、恋人をこんなに遅くに帰すのって大人としてどうなの?」
「ラ……その言い方止めない?」
「KKさんにメッセで苦情入れてくる」
「止めてくれ、KKにはオレから言うから!」
麻里は胡乱げに暁人を睨めつけていたが、宥めすかしてどうにか納得させた。自室に戻って携帯端末を鞄から取り出す。考えるまでもなく指先が覚えている名前を呼び出して、端末を耳元へ添えた。
程なくしてコールが途中で途切れ、先程まで聞いていた声が耳元から聞こえてくる。
「どうした、こんな時間に。寝れないのか」
「違うよ、麻里に苦情入れられたんだ。帰りが遅いって」
「オマエは危なっかしいが服着て歩いてるようなヤツだからな、妹御が心配すんのも無理はない」
「KKまでそっち側なの?」
「むしろなんでオマエのこれまでの無理無茶無謀を最前列で見てきたオレに味方してもらえると思ってんだよ」
「僕ら恋人のはずなんだけど……」
「恋人だろうが師匠だろうが、そうじゃなかろうが、オマエが危ない真似すんなら年長者としてそれを止める義務がオレにはある」
「自分は率先して無茶するクセに」
「オレはいいんだよ。無茶を通せる実力があるからな」
「うわっ自分で言う?」
「事実だからな。とやかく言われたくねえんならオマエも実力つけろ」
「簡単に言ってくれるよ……まだ基礎中の基礎しかできないのに、一人前になるまでどれくらいかかるのさ」
「筋はいい、飲み込みも早い、素質も十分ある。案外、あっという間にオレを追い越しちまうかもな」
「急に褒めるなんて、どうしたの」
「オレぁ事実を言ってるだけだ。用がそれだけならもう寝ろ。夜中に悩んでもろくなことないぞ」
「わかったよ。おやすみKK」
通話を終え、何気なく携帯端末の画面に視線を落とした先で現在の時刻が目に入る。違和感に暁人は思わず首を傾げた。
「……?」
日の入りと同時にKKの家へ向かい、滞在時間は長く見積もっても二時間足らず。そこから徒歩で帰宅してすぐKKに電話を掛けた。その筈だ。
しかし、何度確認しても時計は日付がとうに変わった時刻を示している。そんな筈はない。事実であるならKKの家に向かった時刻から六時間、KKの家を出て帰路についてから四時間以上経過していることになってしまう。
道中寄り道はしていない。通い慣れた道で今更迷うこともない。普通に歩けば1時間とかからない距離だ。
端末の時刻表示がおかしくなったのかと室内の時計を確認したが、時刻は正確だった。つまりおかしいのは自分の方だということだ。麻里の言葉は誇張でも何でもなく、本当に夜遅くまで出歩く自分を心配しての指摘だったのだ。
咄嗟に先程まで話していたKKの番号を画面に呼び出すが発信する直前に躊躇が操作する指を押し留める。
これは深夜に何度も連絡を入れる必要がある程緊急性の高い事象なのだろうか。心身に変調らしい変調は感じない。ただ時間が思ったよりも経過していたというだけで深夜に騒ぐのはどうなのか。
どうせ明日またアジトで顔を合わせることになるのだ、その時に伝えればいいだろう。
暁人は連絡することに気が進まない理由をそう結論づけ、端末から手を離した。
しかし翌日、暁人は体調を崩し、時間への違和感についてKKに相談することもできず寝込む羽目になる。
風邪を引くのも何年振りだろうか。
幸い拗らせることこそなかったものの、久方振りの体調不良に自分で思うよりもショックを受けていたようで丸二日全くと言っていい程ベッドの上から身動きが取れなくなった。
やたら張り切った麻里が献身的に世話を焼いてくれたお陰で悪化はしなかったが、体調の回復は牛歩そのものであった。
浅い眠りと熱に魘されて覚醒を繰り返しては些細な拍子に目が覚めて遅々として進まない時間を持て余す。食欲も動く気力もなかったが、安静にしながら体調の回復に努め続けるのにもそろそろ飽きてきた。
平日の昼間で、麻里は学校に行っている。普段の倍程に重く感じる体を引き摺るようにしながら僅かばかりの水分と食事を摂り、それだけで体力が尽きてベッドへ逆戻りする。
携帯端末には暁人の容態を見舞う凛子や絵梨花からのメッセージが届いているが、文章を考えられる程頭が回っていなかった。
熱が上がってきたのだろうか、意識が朦朧として自分の部屋の天井が傾いていくような錯覚を覚える。
斜面を滑り落ちていくように意識を手放す寸前、やはり遠くで雨の音が聞こえた気がした。
玄関の扉が開く音を契機に、意識が混濁から僅かに浮上し始める。麻里が学校から帰ってきたのだろうか。とすれば少しは眠ることができたらしい。
目を開けると眠る前と変わらない天井が視界に入ってきた。幸い体調は快復に向かいつつあり、船の中のように意識が揺れることもない。安堵していたのも束の間、部屋の扉が勢いよく開け放たれ麻里が飛び込んできた。
「お兄ちゃん!!」
「わっ、どうしたんだ麻里」
尋常でない様子で駆け寄ってきたかと思うと、妹は凄まじい剣幕で怒り始めた。
「どうしたじゃない!まだ熱も下がってないのに今までどこ行ってたの!!」
予想もつかないことで詰め寄られ、暁人は数秒の間放心してしまった。
「どこにって……何のこと?」
「スマホ置きっぱなしで連絡つかないしどこ探しても見つかんないし、私たちがどんだけ探したと思ってんのよ!」
「ま、待ってよ、話がぜんぜん見えないんだけど」
暁人が本気で困惑していることに気がついたらしい麻里は一先ず剣幕を収めはしたが、未だに不満気な顔をしている。暁人がベッドの端を軽く叩いて促すと黙ったままそこに腰掛けた。
「順を追って話してほしいんだ。何があったんだ?」
「何って……それはお兄ちゃんが一番分かってるでしょ」
「分からないよ。オレはずっと寝込んでたんだから」
「うそ!」
「嘘じゃない。こんなことで嘘なんか吐かないよ」
「寝てたっていうなら今までどこにいたの?」
「ここに居たよ。ベッドで寝てた」
「……本当に、うそじゃないの?私のことからかってるわけじゃない?」
その時の麻里は、非常に複雑な心境をそのまま表したような顔つきをしていた。安堵と困惑と、払拭し切れない疑念、それから少しの不安。胸の内に抱える感情を素直に表に出す妹の肩に軽く触れ、暁人は努めて穏やかに述べた。
「本当だよ。麻里も言っただろ、オレまだ熱があるし、ちょっと歩いただけでもふらふらするんだ。こんな状態で外になんか行けないよ」
「でも、だって……、それならなんで……」
本気で困惑している様子の麻里に寄り添いながら、なんとか話を聞き出した。
麻里が学校から帰った時、暁人は家から忽然と姿を消していた。家中を探しても見つからず、何か食べたくなって出かけたのかと近所のコンビニを探したがそこにも兄の姿はない。不安に駆られた麻里はKKたちに連絡を入れ、つい先ほどまで一緒に暁人を捜索していたらしい。日が暮れて、もしかしたら既に帰宅している可能性もあるからと麻里は先に帰宅させられたのだそうだ。
「それで、帰ったらオレがいた?」
頷く麻里に、暁人は首を傾げる他なかった。部屋を出た記憶どころか、途中で目覚めた覚えすらない。しかし麻里が嘘を吐いている様子もなかった。そんな嘘を吐く必要もないだろう。
「KKに連絡はした?」
「まだ……」
「オレからしとくから、麻里はもう休みな。心配かけてごめんな」
とぼとぼ歩いて部屋を出て行く妹の背中を見送って、枕元に置かれた自分の端末を拾い上げる。画面に表示されている時刻はすっかり夜だ。
学校から帰って制服から着替えもせずにこんな時間まで麻里は姿を消した自分を探し回ってくれていたのだ。覚えのないこととはいえ罪悪感で胸が痛む。
KKの番号を呼び出し発信する。普段は出るか出ないかすら半々の確率であるにも関わらず、2コール目が終わる前に相手が応答した。
「言い訳があるなら聞いてやるぞ」
こちらが口を開く前に機嫌が悪いのだと手に取るように分かる程低い声が聞こえてくる。思わず肩を竦めつつ、暁人は自分でも整理し切らない現状について話した。
「本当に何も覚えてないのか?」
「本当だよ。今日のことだって麻里から聞いたけど未だに半信半疑だよ」
「覚えてない?何も?」
KKは電話口の向こうで暫し沈黙する。
「明日一番にそっちに行く。今日は部屋に結界張って休め。あまり意味はないだろうが、ないよりはマシだ」
「分かった」
就寝の挨拶を交わし、通話を終える。ブラックアウトした端末の画面を見下ろしながら、暁人は沈思した。
一体自分の身に何が起きているのだろう。夢遊病のように眠りながら歩き回っているというのか。だとしたら自分は眠っている間どこへ行っているのだろう。
考え込んでいると部屋の外から扉が小さくノックされ、暁人は思考から抜け出した。扉を開けた先には、まだ制服から着替えていない麻里が立っている。
「どうした?」
「……お兄ちゃん、今日いっしょに寝てもいい?」
深刻そうな顔のままそんなことを言う妹を無下にも出来ず、暁人は仕方なく頷いた。
「風邪うつっても知らないぞ。来客用の布団出しておくから、お風呂入っておいで」
丸く小振りな頭を軽く撫でて促すと麻里は大人しく従った。
押入れの奥に眠っていた布団を引っ張り出しながら、自分の記憶を掘り返す。しかしいくら思い出そうとしても、雨の音が邪魔をする。ここ最近雨が降った覚え等ないというのに。
風呂に入り、寝間着に着替えた麻里は枕だけ抱えて再度部屋を訪れた。ベッドと床に敷いた布団とに並んで横になり、消灯して薄暗い室内で小さな声でぽつぽつと昔話をした。
「ちっちゃいころ、私がお兄ちゃんの部屋にきたの覚えてる?」
「ベッドの下にオバケがいるって泣きながらきたとき?」
「そう、あのときはお兄ちゃんのベッドに二人で寝たけど、今はもう無理だね」
「あの時だってぎゅうぎゅうだったろ、起こしに来た母さん驚いてたし」
「そうだっけ……あ、じゃああれは覚えてる?私の自転車の練習しに河川敷行って、二人して川に落ちたやつ」
「忘れる方が難しいよあれはさ……麻里オレに向かって突っ込んできただろ」
「ブレーキのかけ方分かんなかったんだもん」
「あの瞬間死を覚悟したよオレは」
「二人ともびしょびしょになっただけで無傷だったの奇跡だよね」
「無傷なもんか、あの後オレだけ風邪引いたんだからな」
「そうだったっけ」
夜の静謐な空気を壊してしまわないように、ひそひそと記憶の底から共通の思い出を取り出しては笑う。ベッドのすぐそばに敷いた布団の中から麻里が徐ろに手を伸ばしてベッドのシーツを引っ張った。
「お兄ちゃん、もう居なくならないでね」
「……気をつけるよ」
「絶対だよ。お兄ちゃんまで居なくなったら、私、どうしたらいいの、どう生きてけばいいの」
「麻里はオレよりよっぽどしっかりしてるから大丈夫だよ」
「ここは嘘でも一緒にいるよって言うとこでしょ」
「オレが嘘吐くの苦手なこと知ってるだろ。約束はできないよ。特にオレたちはお互い大変なことがあっただろ。もう二度とあんな目に遭わないに越したことはないけど、これから先あんなことがもうないなんて言い切れないんだから」
「だからだよ、だから、言葉だけでも聞いて安心したいの。KKさんが、言葉は口に出すと力を持つんだって言ってたよ」
「麻里、」
「お願い、お兄ちゃん」
麻里の声が縋るように震える。消灯して相手の姿が輪郭程度しか視認できない暗闇の中で、妹の姿が幼い頃と重なって見えてしまい、暁人は小さく溜め息を吐き葛藤を捨てた。
「……分かったよ。もう二度と麻里に黙ってどこかには行かない。ずっと一緒にいるよ、置いてなんていかない。たった二人の家族なんだから」
「うん」
「今日は疲れただろ、大丈夫だからちゃんと寝なよ」
「……うん」
ずっとどこか硬かった麻里の声音が漸く安堵で解けたように感じ、暁人自身もほっと肩の力を抜いた。
「おやすみ麻里」
「おやすみ」
程なくして聞こえてきたささやかな寝息を確認し、暁人は静かに目を閉じる。
安易な約束を口に出すことを躊躇ったのは、何も嫌だとか守る気がないからではない。本当は、断言してやりたかった。立て続けに両親を失い、自分自身も生死の境を彷徨った妹の不安を、大丈夫だと、何も心配要らないと笑い飛ばしてやりたかった。
だが口に出そうとするとあの夜のことが脳裏を過る。あらゆる常識から切り離された夜の中で、暁人は己の無力さを知り、同時に抗いようのない強大な力と対峙した。あり得ないことが当然の顔をして街を闊歩し、当たり前に在ったものが奪い去られ喪われたあの夜を堺に暁人の中の二十余年の内に培われた常識は死んだのだ。
ずっと傍に居ると、安易に約束はできない。また何らかの形で麻里に危険が及んだ時、己の命を投げ出してでも守る決意は依然として暁人の中にある。自分が居なくなった後妹を庇護してくれる役は、KKや凛子たちに頼んである。妹の人生に最後まで寄り添えなくとも、彼らが見守ってくれるのなら心配はないだろう。
「……ちゃんと守るよ、今度こそ」
目を閉じると病室に横たわる妹の姿が瞼の裏に浮かぶ。
もう二度と、あのようなことはあってはならない。よしんばまた無残な運命がやってくるとしても、その役目を負うべきなのは先に生まれた自分である筈だ。
その日、暁人は雨の音を聞くことなく眠りに落ちた。