青い影より青い 何もない草原で彼は立ち止まり、宙へ向かって微笑みを浮かべた。唇の端だけを静かに持ち上げた微笑。眦にだけ僅かに哀愁が滲む。或いは憐憫、さもなければ憧憬か。何れにせよ、見たことのない笑みだった。鉢屋は彼の横顔を三秒見つめ、その事に気付いた。彼がその秘密めいた微笑を三秒も維持していたという事実を含めて。
二人は人気のない草原を、黙ったまま、並んで歩いていた。時折、実習の帰りにしては埃に塗れていない着物の裾が草に触れて揺れた。
彼らに言い渡された課題は、学園長とかつて親交があったという貴族の屋敷で、病に伏せている後継ぎの代わりを務めるものだった。戦い好きの生徒であれば残念がることもあったかもしれないが、鉢屋も久々知も、特別に戦いを好んではいない。忍が常に戦の中にいるものではないことは十分に理解していたし、むしろ利害の香りに聡い貴族の前で一芝居を打つことは、忍の技量を問われる課題と言えるだろう。それでも戦場を行き交う砲弾と比較すれば少なからず、危険の制御権が手の内にあるという点で、安全を感じさせた。尤も、安全なのは身体的、物質的な部分でしかない。他者を欺くために張り詰められていた神経は、二人だけになった後で大きな溜息となって現れた。本当の安全を確かめるように。
昔は小さな道だったのだろう、草の陰に薄く残る道を選ぶように進む。二人のどちらも通ったことのない道だったが、足取りに躊躇いはなかった。森の中で道を間違えたのだろうというのが彼らの大凡の結論で、それはただの事実として受け止められた。間違えたことの焦りも、恥もなく。人生において同じ道ばかりを歩いてはいられないことと同じように。森を抜けてから一刻も経っていないことを思えば、取り返しのつかない誤りというわけでもない。学園のある方角さえ分かっていれば、いつかは知った道に辿り着けるだろうという楽観さえあった。
不意に、久々知が微笑を湛えたまま小さく頷いた。
その仕草が意味するところを一瞬だけ思考し、しかし、鉢屋は黙って彼の鼻梁を見つめた。
太陽の、強い光線が肌に反射して鈍く拡散される。
その輪郭、一番外側に、残像のような青が淡く輝く。
視線に気付いたのだろう、久々知が振り向き、鉢屋を見つめる。彼の双眸に映るものをそのまま教えるつもりか。瞬きもせず。彼の目の奥に映る己の表情を見ないように、鉢屋は彼の双眸を見つめ返した。呼吸を一つ。
「少しだけ、いい?」久々知が尋ねた。
鉢屋は黙って頷いた。少し、という言葉が時間を指しているのか、空間を指しているのか、或いは今ここにある物質のいずれかを指しているのかも分からないまま。気にならなかったわけではない。それでも、しかし、尋ねなかったのは僅かな抵抗だろうと分析する。眼前の少年のことを知っているはずだと思い込んでいる、思い込みたがっている己への。
鉢屋の頷きを見届け、久々知は懐から一本の笛を取り出した。実習のために持っていたものだ。着物は全て彼らが用意をしていたが、笛だけは自分のものを使わせてほしいと頼んだのは久々知だった。慣れた道具の方が上手く扱えるからと伝えた時の彼の表情は正しく忍の顔であり、本心は単に、他人の道具に口を付けることが憚られたからだろう。原因不明の病で倒れた人間の笛を使いたいと思う人間はいない。それを平然と使うよう差し出してきた貴族からすれば、忍は人と呼ぶには魍魎じみているのかもしれない。
久々知がそっと空気を吸い込む。助走のような呼吸が鼓膜を震わせる。
横笛に唇を寄せ、そして、息を吹き込む。夏用の薄い布地の下で肺が膨らみ、萎み、一瞬遅れて風に似た響きが青空に舞い上がった。
ゆっくりと。
水底のように茫洋と広がり、
波のように揺蕩う。
淡々として、
連綿と続く。
知らない旋律だ、と頭の中で誰かが言う。自分の声ではない気がしたが、自分の声がどんな風であるかも、はっきりとは思い出せないことに気付く。音の源へ目を向ければ、宙へ向かい笛を奏でる久々知の横顔が、淡く輝いていた。貴族の屋敷で吹いていた時よりも、優しく、楽しげな表情だった。微風か、或いは吐息の名残か、睫毛が時折不規則に震える。その度に太陽の光は透過され、彼の双眸に光を遊ばせる。
殆ど変化のない、しかし異なる旋律を二度ずつ繰り返し、久々知は静かに笛から唇を離した。吐くためではない呼吸を一つ。笛を持った手とは反対の手で宙をなでる。手を振ったのかもしれない。それから、静かに鉢屋を振り返った。
光を振り払うように靡いた髪を見つめながら、鉢屋は二度瞬きを繰り返した。
「きれいだった」
「何が?」久々知が尋ねる。
「青が」
「青」
「私にはそう見えた」鉢屋は宙へ視線を向ける。「兵助の演奏が」
「聞こえた、ではなくて?」
「印象という意味。もしくは、心象。優れた演奏は幻想を呼ぶから」
「三郎にはそう伝わったんだね」久々知は素直に頷いた。それから僅かに照れたような笑みを浮かべる。「そっか、」
「つまり、別の誰かに伝えていた?」彼の言葉の真意を探るように鉢屋は首を傾げた。真っ直ぐなままでは見えない世界があると信じているのかもしれない。
「ここで誰かが死んだと言ったら、三郎は信じる?」
「どこでだって、誰かが死んでいるだろう」鉢屋は答えてから首を傾けた。「ただ、兵助はここに来たことがないと思っていた」
「来たことはない。俺も、今さっき気付いた」
「天啓?」鉢屋は尋ねる。
「見つけたから」久々知が空と草に挟まれた空白に指を向ける。「青い、幽霊を」
「幽霊」久々知の言葉を繰り返し、鉢屋は瞬きを二度繰り返す。それから青空を仰ぐ。東の空に輝く日は天頂にはまだ届かず、しかし、薄衣のように織り重なって地へ降り注いでいる。空は真理を感じさせる冴えた青を湛え、風の跡すら残らない。
夢のような夏景色。幽霊と比較するには、輝かしすぎるほどに。目眩を覚え、鉢屋は顔を俯けた。斜めに歪んだ影が鮮明に痛む視界を和らげる。人間にも、眩すぎるかもしれない。
「亡霊の方がいい?」久々知は鉢屋の顔を視線だけで微かに覗き込んで言った。「俺はあまり、それらの差異について詳しくはないのだけれど」
「幽霊が見えるなんて知らなかった」
「見える、と言っていいかは分からない」
「だけど、存在は知覚できるのだろう」
「存在って?」
「そこにいると信じること」
「つまり、俺の思い込みか、幻覚の可能性もある」
「だとしても、何の問題がある」鉢屋は迷うことなく続ける。「ここには兵助と、私しかいないのに」
久々知が瞬きを落とす。言葉の間を繋ぐように、手にしたままの笛が微かに音を立てた。微風が吹き抜けたためだろう。音色と呼ぶには単調で掠れた響きは細やかに舞い上がり、すぐに消散した。もしくは風と共に去っていったのかもしれない。風は存在すると言えるだろうか、と鉢屋は考えた。手には掴めず、目には見えない。現象。運動。それを己は、存在していると捉えているだろうか。
久々知は三度瞬きを繰り返し、それから僅かに首を傾けた。
「いつも見えるわけじゃない。ただ、時々、青い影が見えるんだ。輪郭はぼやけていて、それが人なのかさえも曖昧で、大抵は俺をじっと見ている……俺が見つけたから、見つめ返してくるだけかもしれないけれど」
「言葉はないのか」
「滅多にはない。それでも、何となく分かるから」瞳を空に向け、彼は眩しさを惜しむことなく目を細めた。「見つけてほしい誰かなのか。それとも、そこに焼きついただけの影なのかは」
「誰かであれば、笛を吹いてやる?」
「必ずじゃない。いつも笛を持っているわけではないから」
「どうして」鉢屋は尋ねる。その双眸は影を見つめたまま、微動だにしない。
「どうしてだろう」言葉を切り、笛を空へ掲げる。日差しを遮るように、額に青空を滲ませた影がかかる。「それしか、出来ることがないからかもしれない」
「兵助の優しさだな」
「長所とは言わないんだね」
「優しいことが、良いことだとは限らないだろう」
「三郎自身が優しいから。だから、良いと言い切れない」
「……分析されるのは苦手なんだ」
「知ってる」久々知が軽く笑みをこぼす。先ほどの澄んだ笑みからは遠い、見慣れた微笑だった。
笛を懐にしまい、頬骨に張り付いた髪を払う。そのまま、彼は手のひらを鉢屋に差し出した。
「すまない。寄り道になってしまって」
「たまには、いいさ」
「実習の評価が下がってしまっても?」
「早く帰ることが評価になるわけじゃないし、私たちは課題を正しくこなした。つまり、」軽く咳払いを一つ落とし、鉢屋は悪戯気に微笑み返す。「完璧だ」
「立花先輩ならもっと完璧にやってのけたと思うけど」
「何か失敗があったのか」
「作法をいくつか間違えた。気付かなかった?」
「私が変装をするのは主に農民や町人だからな。貴族の振る舞いについては兵助の方が詳しい」
「久しぶりに知識だけではままならないと痛感したよ」
「それで少し元気がなかったのか」
「今はどう見える?」
「いつもの兵助だよ」鉢屋は顔の前で両手を広げた。「私が慰める隙がなくて残念だ」
「それは悪いことをした」久々知が喉奥で小さく笑い声を立てる。もう、機嫌は悪くはないらしい。「代わりに三郎が落ち込んだ時には、俺が慰めるよ」
「生憎、私はあまり落ち込まなくてね」
「それでも哀しくなることはある。意味もなく、ただ、どうしようもなく」
「それならば、」鉢屋はゆっくりと言った。音の一つさえ誤ることを恐るように。「その時は、さっきの笛を聴かせてくれ」
「三郎の中に、幽霊がいる?」
「生まれた時からずっと一緒にいる幽霊が」
久々知は小さく頷いた。肯定も否定もなく、しかし、冗談とも受け取らない。ただ彼の言葉を受け止めるだけの仕草だった。
再び、二人は並んで歩き始める。無秩序に茂る草の波に流されながら、ゆっくりと。どちらともなく話すのをやめ、口を閉ざす。二人の間を穏やかな沈黙が埋める。水底のように。呼吸の音だけが、地上であることを伝えていた。
*
心臓が悲鳴を上げた。
喉は渇ききっている。
手足は震え、身体のあらゆる機能が制御を失い、立ち尽くすことしか許されない。
吐く息の生温かさに、自分がまだ生きていることを思い出す。
地獄がこの世にあるなるば、それは、きっと、この場所のことだ。刃こぼれの目立つ刀を持った男が首を貫かれて死んでいた。片足分の足具しかなかった男は、片足だけになったまま生き絶えた。まだ幼い弟の食い扶持を得るのだと勇んでいた少年は引き攣った笑顔を剥がせないまま、闇雲に刀を奮っている。背後から轟く猛々しい掛け声が「撃て」と叫ぶたびに、味方も敵もなく弓矢の雨に射られて悲鳴を上げた。
逃げなければ。誰かが言った。
まだ人であるうちに。
身体は震え、心臓が激しく鼓動する。何かを拒むように。人を殺すことか。殺されることか。もしくは、戦うことを求める誰かの声か。
誰だ、戦うことを褒め称えたのは。頭の中で誰かが叫ぶ。
こんなものが、こんな地獄が。誰もが嫌だと呻きながら、避け難い圧力に流され、苦痛に苛まれるだけだと知っていたのか。知りながら、彼らをここに立たせたのか。
一体、誰が。何が。
肌が沸々と粟立つ。震えが身体のうちに収まらなくなる。
不意に頭上から空笛に似た空虚が響いた。
続けて陽光のように閃いた金属の輝きを避け、目の前の何かを突き飛ばす。ひどく粘着質な、湿気た感触が手のひらに広がる。
次の瞬間、身体が大きく跳ねた。遅れて、走っていることに気付く。足は震えながらも力強く、地獄を駆ける。
帰らなければ。そう思った。
どこへ。誰かが問う。
来た場所へ。まだ、人であるうちに。
どこから来たのか。
自分は、誰だ。
問う声。
痛み。
とうに意味をなくしていた鎧を貫いた矢が、
まだ動いていた心臓をも貫き。
身体と地を。
時と問いを。
縫い留める。
帰らなければ。
だけど、どこへ?
顔を上げる。
青い双眸と目が合った。
*
鉢屋はゆっくりと身体を起こした。婉曲した額の表面に沿って汗が流れ落ちる。暑さのためか。或いは夢のためか。手の甲で弾けた雫を寝間着の袖で拭い、深く息を吐く。規則的に、自ずと吸い込んだ空気はひどく生暖かく、喉にまとわりつきながら肺を満たす。その微かな粘性は繭の内側を連想させた。蝶は、もしくは蛾は、繭の中で身体の全てを溶かしてたった一対の羽を得るのだと教えてくれた級友の表情を思い出す。それから、己が誰であるのかを。
「おはよう、三郎」隣から穏やかな声がかかる。まだ完全に目は覚めていないのだろう、くぐもった響きが低く響く。「随分早いね」
「目が覚めてしまって」
「ふうん。もう起きる?」
「せっかくだから、少し走ってくる。雷蔵は?」
「一緒に行くか迷うべきかもしれないけれど、昨日は夜が遅くて」枕から少しだけ顔を上げ、不破は言った。
「分かった。戻ってきても起きてなかったら叩き起こしてやろう」
「お手柔らかに頼むよ」
不破は布団に戻り、すぐに規則的な寝息を立て始めた。鉢屋は音を立てないようにそっと立ち上がった。布団の傍らに置いてあって手拭いを拾い上げ、額の汗拭う。今の自分がどんな顔をしているのか、彼には分からなかった。尤も、自分がどんな顔をしているのかを知っている者の方が少ないだろう。
薄暗い中で身支度を済ませ、板戸へ手をかけた。一人分だけの隙間から身を滑らせる。室内に閉じ込められていた空気が鉢屋と共に外へ溢れ出し、瞬く間に消散する。代わりに吹き付けた真新しい風が朝露を誘う冷たさで首筋を冷やす。風の尾を辿るように、鉢屋は上空へ目を向けた。
朝焼けを静めたばかりの、名残を薄く滲ませた青が双眸に沁みる。
目眩。
瞬きを忘れ、
輝きから目を逸らすように、
鮮鋭を焼き付けるように、
青を仰ぐ。
やがて、再び吹き付けた風が背をそっと押した。自ずと動き出した足が跳ねる。廊下から中庭へ飛び出し、鉢屋は真っ直ぐに走り出した。
まだ朝の早い学園はひどく静かで、鳥の囀りだけが反響もせず響き渡っていた。人の気配は戸の内に秘され、彼の側には届かない。誰もいない中庭を走り抜け、そのまま校舎の裏側へ回る。一晩のうちに停滞した血液が全身を巡る感覚。まだ目眩を引きずっているのか、明滅する思考に反して身体は奇妙なほどに軽い。自ずと速度は上がり、呼吸を浅く繰り返す。頬をかすめる風は冷たく、しかし、日差しは昼の暑さを予感させる強さで照りつけている。どこに向かおうと考えることもなく、鉢屋はただ土を蹴った。砂の微小な鋭角が時折、足の裏へそっと存在を主張した。現実はここだと教えるように。
校庭を抜け、水練用の池を周り、学園の塀に沿って走る。修補が行われたばかりなのか、真新しい漆喰は学園の歴史に反して白く輝いている。
塀を越えてしまおうかと考え、鉢屋はすぐに思考を止めた。外出届を出していない以上、早朝といえど、事務員の小松田に気付かれてしまうだろう。静謐を自らの手で台無しにしたい気分ではない。かわりに、塀から離れ、学園の端へ続く道を走り出す。校舎から離れた小道には日頃から生徒の影は少ないが、しかし、静まり返った空間では学園にいないかのような錯覚を誘う。
秘密めいて揺れる木漏れ日が頭上にかかり、鉢屋は規則的だった呼吸を止めた。つられて足が停止する。ちょうど同じ角度で、鏡のように、目の前の人物も足を止めていることに遅れて気が付いた。
「兵助」乱れた呼気を整えるように二回深呼吸を繰り返してから、彼は言った。
「三郎」驚きを隠さず、久々知が答える。「おはよう」
「ああ、おはよう……随分と早いな」
「三郎も、」抑制された跡の残る穏やかな声音で久々知は続けた。「その、何か……あった?」
「何か?」
「三郎が早起きをするのは珍しいことじゃあないけれど。その、」
「どの?」
久々知は顔を俯け、再び真っ直ぐに鉢屋を見た。水底を覗き込むように、瞬きもせず。
「目が」
鉢屋が瞬いた。
「目」たった一音を繰り返す。
自分の目を見ることはできない。代わりに右手で片目に触れれば、瞼が自ずと下ろされる。生物であるための、ほとんど反射として。触れただけでは何も分からず、鉢屋は首を傾げた。
「誰にも、何も言われなかった?」久々知が尋ねる。
「誰にも会っていないからなぁ。正確には、顔を合わせていないと言うべきだが。雷蔵とは出掛けに話したけれど、布団越しだった」
「そっか……」
「目がどうかしたのか」首を傾けたまま、鉢屋は反対側の目に触れる。
「おかしな感じはない? 例えば、」久々知は目を逸らさずに続けた。「世界がやけに青く見えるとか」
具体性の高い質問に、鉢屋は隠すことなく首を傾げた。顔を動かした拍子に手が離れ、宙を仰ぐ。雲一つない青空が目に染みる。その横顔を久々知は真っ直ぐに見つめている。輪郭に僅かに浮かぶ影が、今ここにいる存在は間違いなく鉢屋三郎であると告げていた。
「どうして」宙を仰いだまま鉢屋は尋ねた。
「目が、」
「目?」
「青いから」
「青い……?」
黙ったまま、久々知は頷いた。鉢屋は彼の双眸を真っ直ぐに見つめ返した。黒く輝いた表面に反射する、己の影を覗き込む。瞬きもせず。二秒。三秒。沈黙に紛れ込むように、鉢屋は小さく息を吐いた。
「青いようには見えない」
「青いよ」久々知は言い切った。「あの影と、同じ青」
「あの影」鉢屋は繰り返す。不意に、宙の呼吸を思わせる旋律が耳の底に蘇る。或いは、本当に風が流れていったのかもしれない。
「三郎」ゆっくりと、確かめるように名前を呼ぶ。
「私が取り憑かれていると?」
「まさか」久々知は目を合わせてから初めて微笑んでみせた。「三郎は、三郎だよ」
「雷蔵の可能性があるだろう」そう言ってから、今は不破の面を付けていることを思い出す。
「俺が見えているものの話をしたのは三郎だけだ」何事でもないかのように久々知は言った。「だから、今の話が伝わっている時点で少なくとも、他の誰でもない」
「そのやり方はずるい」
「俺の秘密を知ったんだから、これでおあいこ」
「その言い方も、ずるいなぁ」
鉢屋はわざとらしく溜息をついた。それから口の端を少し持ち上げて見せる。鉢屋を知るものが見れば誰もが鉢屋らしいと感じるであろう仕草だった。
「仮に取り憑かれているとして、」久々知は困惑の重みか、微かに目を伏せる。「どうして三郎だけ、三郎の目にだけ憑いたのかは分からない。そも、取り憑くということが何を指しているのか、その定義を俺は知らない」
「幽霊は同情ほしさに生きているものに取り憑くと言う」
「三郎の感覚としては、どう?」
「さあ」鉢屋は首を傾けた。視界の片隅に青空が映る。「自覚はない。尤も、取り憑かれた経験もないから、比較もできないのだけれども」
「どうしようか」
「長屋に戻ろう」鉢屋は微笑んだ。自らを走らせた衝動がいつの間にか落ち着いていたことに気付く。久々知に会ったためか。もし、真実として自身に青い影が取り憑いているのならば、影が久々知に会いたいと望んだのか。「朝飯の時間に間に合わないと、おばちゃんに怒られてしまう」
「怖くはないの?」
「実際、私は自分の目を自分で見ることはできないからな。いつも通りという感覚でしか事態を図れない。だから、いつも通り授業に出て、放課後、また考えればいいさ」
「三郎」久々知は目を眇めたまま言う。「本当に、心当たりはない?」
「心当たり」
「俺の見てきた幽霊は、ずっと、其処にあるだけだった。幽霊とは呼んでいるけれど、影に近い。そんな、俺だけに見えていたものがどうして三郎に憑くのかが、」
「分からない」微笑んだまま、先に続くはずの言葉を浚う。遅れて、嘘をついたことを自覚する。きっと、眼前の少年も知っているだろう。「私もだ。だけど、まあ、大丈夫だろうさ」
「何が?」
「何もかもが」
二人は並んで長屋へ戻った。挨拶を交わす賑やかな声が一日の始まりを報せるように、どこからともなく流れていく。今が朝ならば、先ほどまでの時間はどう呼ぶべきだろうか。鉢屋は考え、しかし、それを口には出さなかった。一度だけ、すれ違った後輩と朝の挨拶を交わした後、久々知が唇の先を微かに尖らせた。同じことを考えているのかもしれない。
久々知の部屋の前で二人は足を止め、すぐに久々知は部屋の戸を開け、鉢屋は軽く手を振った。言葉はなく。ただそれだけだった。控えめに開かれた扉の向こうから一瞬、丸い双眸が鉢屋を見据えた。彼は反射的に目を逸らし、その間に、扉は閉ざされていた。微かにくぐもった声で「雷蔵? 三郎?」「三郎。そこで会って」「へえ」というだけの簡素な声が聞こえてくる。
確かに目が合ったはずだった。光の角度による錯覚で見えなかったのか。それとも錯覚を起こしているのは自分たちの方で、本当は何も異変など起きていないのかもしれない。鉢屋考えながら歩き出した。歩行に合わせて引き起こされる微かな振動のためか、背骨の窪みを一筋の汗が伝う。食堂へ向かう前に一度汗を拭いた方が良いだろうと思いつく。同時に、今日はまだ鏡を見ていないことを思い出した。しかし鏡を見たところで、見えるものは鏡面だ。ただ滑らかな表面に己の影が映り込んでいるに過ぎない。己の目で自分を見ることはできないのだから。
「ただいま」
鉢屋は声をかけながら戸を叩いた。開けてもいいかと尋ねる合図。自室であっても、ほとんどの場合、鉢屋は戸の内側にいる者への報せを欠かさなかった。見られたくない秘密が多くあるのは、自分の方であるために。
「あっ、おかえり」
軽い挨拶を確認してから戸を滑らせる。出掛けた時よりも明るさに満ちた部屋の中で、不破は振り返らずにもう一度「おかえり」と言った。ちょうど押し入れに布団を押し込んでいるところで、宙を舞う埃が、微かな光を無秩序に散乱させていた。
「外、暑かった?」不破は押し入れの戸を閉め終わってから、鉢屋の方へ顔を向けた。それから、何事もないかのように訪ねる。
「まだそこまで暑くはない」
「つまり、暑くなりそうってことだね」
「夏だからなぁ。仕方ないさ」
「それはそうなんだけど。今日は実技の授業が多いから、気を付けないとね」
「むしろ山の中の方が案外涼しいかもしれない。夏の教室は窓を全て開けていても風の通りが悪い」
「い組は今日、一日中教科の授業らしいよ」
「誰からそれを?」
「勘右衛門。昨日までの実習、僕、勘右衛門と八左ヱ門とだったから」不破はそういえば、と言い置いてから小さく微笑んだ。下級生に笑いかける時に似た、優しさを伝えるための笑みだった。「どうだった? 三郎は」
「どうって……」
「二人が組むなんて珍しいから」
「適材適所というだけだ。私の変姿の術と、兵助の知識と度胸」
「度胸」
「貴族の前で貴族の真似事をするのは、最前線で戦うに等しい」
「なるほど。寸鉄を武器にする兵助にぴったりだ」
「実際、あの重い着物の中に隠すにはうってつけの武器だったな」
「兵助が使っているところを見ているから接近戦で戦う印象だけど、一撃必殺で使うことも多いものだしね。そう思うと、寸鉄って意外と幅の広い武器だなぁ」自分の掌を見つめる。それから同じ掌で鉢屋の肩を叩いた。
「機能が単純かつ簡潔だからこそ、使い手の技が試される武器だ。武器自体に刀を受け止められる強度があったとしても指を落とされずに受け止める技量が必要になるし、一撃で急所を貫く時だって、あの小さな先端で一点を穿つだけの正確さと力がなければ役には立たない」
「扱いが難しいけれど、ただ真っ直ぐに相手を切り裂くことだけに集中した鏢刀とは正反対。だけど、どちらも削ぎ落とされた鋭敏さがある」
「正反対な方法を取ったとしても、同じ結論に辿り着くことはある。それに、同じ敵に相対していたとしても見えてるものが同じとは限らない」鉢屋は首をやや後方に捻り、不破の顔を真っ直ぐに見据えた。彼が唯一、真に装うことのできない、その双眸を。「今も」
不破の黒目が瞬きを繰り返す。その奥に映るもう一対の双眸は彼のものよりも一際暗く、しかし、黒と茶の濃淡で彩られていた。
「どういう意味?」
「興味が無さそう」鉢屋は一瞬微笑んだ。嫌味の混ざらない、不破の機微に気付いたことを喜ぶような、子供っぽい笑みで。
「つまらなくはないけれど、朝から考えるにはちょっと重いかな」不破は素直に言った。悪い様に伝わることはないと信じているからだろう。
「私だって考えようとしていたわけじゃない。思い浮かんだだけだ」
「へぇ。何かあったのかい」
「兵助が、」その問いかけに、鉢屋は素直に口を開き、遅れて躊躇いがちに唇を窄めた。「いいや、夢の話だ」
「三郎にとって、兵助は夢?」不破が尋ねる。
鉢屋は瞬きを一つ落とした。生体の反射ではない。意識的な動き。
鏡と呼ぶにはくぐもった水面の向こうに映る瞳も瞬きを落とす。
黒から青へ。
切り替わる。
言葉が消える。
鉢屋は答えなかった。
*
放課後になれば学園は一際賑わいを増す。実技の授業中には暑さに溜息を吐いていた子どもたちが、溢してしまった幸せを取り戻そうと笑いながら走り回っている。すれ違う度に投げかけられる「こんにちは」の声に軽く片手を上げながら、鉢屋は裏門の前に向かった。
校庭とは反対側にあるためか、人の気配のない裏門の前には制服姿の少年が一人、何にも凭れずに立っていた。宙へ抗うように真っ直ぐ伸びた背が振り向く。風に揺れた髪を翼に錯覚し、鉢屋は目を眇めた。
「待たせたな」
「掃除当番だったって、八左ヱ門に聞いた」
「私と出掛けることを言った?」
「言って欲しかった?」久々知が悪戯気に微笑む。「きっと、八左ヱ門は何も思わないよ」
「そこがアイツのいいところだ」鉢屋は横に首を振った。「さて、行こうか」
どこへ行くのか。その問いかけはなく、代わりに久々知は周囲を徐に見渡した。「小松田さんは……」
「外出届はもう出してある」
「俺の字を真似て?」
「いいや。久々知兵助が書いたんだ」
「生徒で小松田さんの目をかいくぐれるのは三郎くらいだろうね」
「即ち、かいくぐった者がいたとしたら、それが私だ。変装は三人以上の人間がいないと成り立たない。真似る者と真似られる者、そして、」
「それを観測する者」
鉢屋は頷きを落とし、それから久々知へ手を差し伸べた。久々知は瞬きを一度だけ落とし、手を重ねる。
「俺たちを観測するのは誰?」
「さあ? 幽霊か、亡霊か」鉢屋は喉の奥で小さく笑った。自分が今、観測しているのか、されているのか分からなかった。視点は容易に入れ替わり、織り重なり、増幅する。今、何を見ているのか。その問いに答えることは、常に難問となる。
「三郎?」久々知が首を傾けた。視線が真っ直ぐに、鉢屋を射抜く。
彼は今、何を見ているのか。
鉢屋を見つめたままの目が、小さく微笑む。
「行かないの?」
「何でもない」鉢屋は首を振った。「行こう」
裏門を片手で押し開け、外へ出る。学園との境界を超えただけでは日差しは変わらず、やや傾いた角度で二人の頬を滑り落ちる。背後で扉の閉まる鈍い音が一度だけ響いた。
しばらくの間、二人は黙ったまま、古い道に沿って歩いた。表門から続く、街道へ至るための道とは異なる、人気のない道。尤も学園の生徒にとっては、街とは別の場所へ実習へ向かう時にはよく通る、慣れた道の一つだ。古くからあるというだけで、特別に荒れていることもなかった。
四半刻ほど歩いた頃、鉢屋は一度背後を振り返り、軽く肩を竦めた。古道はとうに森の野道と混ざり合い、左右に揺れる木々の影が涼やかな風を送り込んでいる。
「よかった」
「何が?」
「小松田さんに追いかけられなくて」
「外出届は出してくれたんだろう?」
「出した。だが、ほら、」鉢屋が己の片目に指を向ける。「この目。私の偽者だと思われるかもしれないし、兵助に変装していることがバレるかもしれなかったから」
「それ、俺にしか見えないみたいだね」今日一日誰も鉢屋の瞳のことを話題にしなかった、と続ける。「つまり、問題があるのは俺のほうかもしれない」
「いいや」鉢屋が断言した。「影は確かに、ここにいるんだ」
「ここって?」
目に向けていた人差し指が迷うように宙に弧を描き、そして、控えめに心臓を示す。言葉に反して曖昧な仕草だった。
「どうして分かる」久々知は鉢屋の双眸を見据えながら言う。見つめると言うよりは、睨むに近い。獲物を狩る寸前の鷹にも似た、緊張を湛えた視線。
「私も亡霊だから」
風。
木々が揺れ。
視界の外へ。
視界が光に眩み、
何もかもが見えなくなる。
そして、
残される、
青。
後から草原が現れ、小波よりも細やかな草葉の擦れる乾いた音が響いた。
「変わってないね」久々知は表情を変えずに言った。眩しさにも微動だにせず、真っ直ぐに背を伸ばしたまま。
「昨日の今日で、そう変わるものではないだろう」
「三郎にも、そう見える?」
「変わっていないな。目に見えるものは」
「目に見えないものは」
「例えば、私の目とか?」鉢屋は微笑みながら頷いた。否定も肯定もない、単なる相槌として。「もしくは、私自身?」
草原に足を踏み入れる。つま先を夏草が柔らかく掠めていく。微かな摩擦。久々知がゆっくりと後をついてきた。決して追い抜くことはなく、何かを見極めるかのように、じっと鉢屋の輪郭を辿っている。
「たぶん、」歩きながら鉢屋は言った。「私だったからだ」
「どうして」久々知が尋ねる。
「言っただろう、私も幽霊だって」
「三郎は生きているよ」
「生きているって?」
「物質として確立している。現実に影響を与えることが……他人に干渉することが、できる。俺にとってはそれが生きているということ」
「それだけでは幽霊と変わらない。幽霊はそこにいないはずのものが干渉してくるという事象を持って顕在化するものだ」
「それなら三郎はどう定義する」
「私」
鉢屋は微笑んだ。
久々知は笑わない。
「私を……『鉢屋三郎』を、兵助、お前は問えるか?」鉢屋が表情を変えずに尋ねる。
「問うって、」久々知は僅かに目を伏せた。「ああ、いや、そういうことか……」
「周りからすれば私は『鉢屋三郎』だ。しかし、そうであると、それが正しいと言えるのは私だけだ。皆は何を根拠に私を『鉢屋三郎』とする?」
鉢屋は微笑んだまま、草の頭を撫でた。風にさざめく流れを堰き止めるように。その障害こそが、存在だと示すように。久々知は彼の正面に立ち、真っ直ぐに鉢屋を見据えた。傾いた太陽が後方から照らし、額に前髪の影を落とす。薄く持ち上げられた微笑の影だけが却ってはっきりと浮かんでいる。自分の表情は彼の影に隠れて見えないだろう、と考えた。
「お前は、誰?」久々知は尋ねた。
「誰でもない」鉢屋はすぐに答えた。その問いかけを予期していたかのように。「誰でもないものこそが、私だから」
「そして亡霊も」
幽霊も亡霊も、確かに『何か』であったのだろう。遠くの過去、或いは未来では確かに、生きていた。それらを『何か』だと見なし、観測する者から生み出されたために。しかし、今この瞬間、それらを誰が見つけてくれよう。
それらが、誰を、見つけられよう。
鉢屋は言葉の代わりに身体を反転させ、徐に両手を広げた。宙に向かい。青空と制服の藍の間に滲む影が、光よりも鮮やかな青を滲ませる。視界の端を青に染めながら、鉢屋は目を眇めた。目眩を恐れての反射に近かったが、むしろ、視界は奇妙なほどに冴え冴えと、青く澄んでいた。これが久々知の見ていた青か、と考えた。感じた、という方が正しいかもしれない。水面の裏表のように輝きの角度は違えど、きっと、同じ視界だと鉢屋は確信した。
微風が首筋に溢れた髪を揺らす。細やかな感触が伝達し、視界の青を微かに波立てる。影も、光も、風には影響されない。その意味で、少なからず、今ここに彼は存在するのだろう。
「……だから、」久々知が躊躇いがちに言った。口調に反し、鋭利な輝きが黒目の内に翻る。「語ることができない。物語に現れる幽霊とは違って」
「名のある幽霊はいる。有名な武者の亡霊伝説は無数に生み出されている。だが、それらは今、即ち幽霊や亡霊を目撃した者に影響を及ぼすからこそ語られる存在だ。悔いを訴え、過ちを嘆き、時には目にした者に危害を加える。それらはただの過去の記憶としての現象ではない。彼らの存在は人から人へ語られ、告げられる……つまり、」鉢屋が言葉を切り、久々知を振り返った。
「つまり、幽霊ではなく、幽霊という物語」久々知は微動だにせず、ただ鉢屋を見据えていた。正しくは、頬と宙の間に滲む青を。「だけど、俺の見る影には物語はない。きっともう……もしくはまだ、誰でもあって誰でもないから。物語る言葉を持たないから。誰にでも共鳴し、誰も馴染まない。ただ在るだけだ」
久々知の言葉に、鉢屋は今朝の夢を思い出した。悲鳴と混乱。苦痛と怒り。地獄に閃く炎を連想させる感情の渦は、きっと、誰のものでもないのだろう。何の物語でもなく、そして、誰もの感情だ。分かりやすい苦痛。分かりやすい後悔。
分かりやすい死。
幽霊の持つ怨みとしては最も想像に容易く、ありふれた幻想。だからこそあんな夢を見たのだろう。夢が現実に起きたことかどうかは知らない。本当に幽霊がいて、その記憶かどうかも、判断することは難しい。ただ鉢屋の中にある幽霊という意識が引き金となって現れただけのこと。
「だから、」鉢屋は呟く。「だから帰りたかった。誰かに……自分自身に」
「三郎なら、化けてくれると?」
「思う、という行為自体が思考の存在を証明するものだからな。兵助もさっき言っていただろう。影はそこにある風景に過ぎない……つまり、そう思ったのは、」鉢屋は隠喩もなく宙を仰いだ。未だ青い天蓋には鳥の影一つない。「私」
変姿の術とは誰かに、何かに成りすます技。他者を真似、演じ、装う術。変わるためには、変化する存在としての自己がいなければならない。変装するための己さえも、しかし、変装であったならば。その変装の奥に潜むはずの源を思い出せず、変装のために纏ったはずの変装であると知りながら、それを己とするならば。
源たる自己はそこにありながら、そして、ただ在るだけの影にすぎない。
幽霊が取り憑いていたのではない。幽霊が見出されただけのこと。
「三郎は、」久々知が言った。息を吸う。一瞬の緊張。「誰でもないままが良かった?」
視線が重なり、
双眸に閃く影が反射する。
一直線に。
揺らがない。
鷹が獲物を捕らえるように。
どこまでも鋭く、
どこまでも澄んだ光を見る。
「そうあるつもりだった。悪戯好きで、けれど憎めず。皆と適度に上手くやれる器用な『鉢屋三郎』を装っているつもりが、」鉢屋は目を細めた。僅かな目眩のためか、或いは、微笑んだのかもしれない。「気づいた時には、もう遅い」
二人の頭上に影が過る。鉢屋は表情を変えずに久々知を見据える。眩しさの源を、彼はとうに知っていた。
「不破雷蔵あるところ、鉢屋三郎あり。そう三郎が言い始めたのはいつからだったろうね」
「さてなぁ。それに、雷蔵だけじゃない、勘右衛門も、八左ヱ門も。私を、私が誰であっても、それが『鉢屋三郎』だと見つけて……形をくれる。私の欺瞞を見ないフリをして、『鉢屋三郎』でいていいのだと許容してくれるから」
「だから、捨てられなくなってしまった?」久々知が問う。
「捨てたくなくなってしまった」鉢屋が唇を尖らせる。不満というよりも、素直な子どもを思わせる仕草で。「だけど、時々不意に分からなくなってしまう」
「自分自身が誰なのか」
見つめ合ったまま、鉢屋は頷いた。不意に吹き付けた風が、再び草の波を運ぶ。頽れる草の頭が二人の足に絡み、波を堰き止める。お互いの姿が現実であることを確かめるように。教えるように。そっと、織り重なっていく。
「私が『鉢屋三郎』になったとして、それでは、今までの私は『鉢屋三郎』ではなかったのか。これからの『私』はどこへ行くのか……そも、考えてみたところでところで、結局『鉢屋三郎』は私という存在を外から見た時の呼称でしかないのかもしれない。ただそれを大切にしてくれる人たちがいるというだけのことならば今考えていること自体、きっと、何の意味もない」
「だから、寂しいんだね」寂しいという言葉を口にした一瞬だけ、久々知は微笑んだ。「それが、幽霊の正体」
「寂しい」鉢屋は繰り返す。
「違う?」
「いいや」瞼を伏せ、口の端をそっと持ち上げる。「正しいんだろうな。兵助が言うのだから」
「お前の感情はお前のものだよ」
「だけど、見つけるのはいつも、兵助だ」
自分の額を掌で多いながら、鉢屋は指の隙間から久々知を見た。真っ直ぐに彼を見つめる視線から隠れたところで、視線が彼を射抜いたままであることは知っていた。
「見つけているわけじゃない」久々知が言う。「ただ、見えているだけ……そこにいると、知っているだけ」
「ただ在るものを見つけているだけであっても、認識するかどうかは、それを見た者次第だ。その意味で、だから兵助には幽霊のような影が、或いは、影のような幽霊が見えるのかもしれないな」
久々知の指先、が鉢屋の手の甲に触れた。「意味なんて、考えたことはなかった」
「兵助にとって意味はなくても、私にとって意味はあった」
「それも、認識の違い?」
「雷蔵が私を『鉢屋三郎』にしてくれたように、八左ヱ門や勘右衛門が『鉢屋三郎』を見つけ続けてくれるように。兵助は『私』を知ってくれている。きっとそれを、確かめたくなっただけだ」
重ねられた掌がゆっくりと離れていく。遠ざかる熱を追いかけ、鉢屋は久々知の手を掴んだ。己の指で、彼の指の形を、皮膚の下にはっきりと象られた骨の一つ一つを辿る。
「三郎?」久々知が名前を呼ぶ。
静かな声音は風に混ざり、どこか掠れた響きに変わる。
「笛を、」鉢屋は囁いた。呼ばれた名が、単に彼を識別するための、記号としての名ではないことを祈るように。祈りを望むように。「笛を吹いてくれないか」
久々知は黙って頷いた。懐から取り出された笛が筒の曲面に陽光を反射させ、艶やかに光る。輝きに口付けるように、彼は下唇に笛を寄せた。
息を深く吸い、そして、吹き込む。
水面を滑る微風よりも清く、
波間に巡る残光よりも淡い。
旋律のない、旋律。
昨日よりも僅かに低い響きが宙に小波を起こす。
波は漂い、
広がり、
空に溶け、
やがて、消えていく。
瞼を伏せ、鉢屋は音の波に耳を澄ました。時折、久々知の唇から響く小さな呼吸、唇と風の擦れ合う乾いた音が錨のように、存在を繋ぎ止める。
ゆっくりと目を開けば、溢れ出す光に瞼が震えた。
「三郎」
いつの間に演奏を終えていたのか。笛から口を離した久々知の声がそっと鉢屋を呼ぶ。
「もう寂しくない?」
鉢屋が一度だけ首を振る。それから、久々知の頬に手を伸ばす。黒く艶めいた髪が風に舞い上がり、鉢屋の掌をそっと撫でる。崩れた髪を払いながら、久々知は頬に添えられた掌に自らの手を重ねた。喉奥に溢れた笑みの、微かな震えが骨を伝う。きっと、この世で最も静謐な笑みだろう。
「兵助が、私を知っていてくれるから。知ってくれることを、知ったから」
「知っているだけでは何もできない」久々知は言った。「それでも俺は……だからこそ、俺は。今ここにいるお前の全てをひっくるめて、全部、三郎と呼びたいと願うんだ」
その名前が祈りになるように。
「どうして」
「そこにいて欲しいから。今、同じ時に。空間に」
「どうして?」鉢屋が繰り返す。
「だって、寂しい」見ないフリをするのも、見抜くのも。その根源は変わらない。久々知は笛をしまい、空になった手で鉢屋の頬に触れた。「三郎が青い影と同じだとしたら。もし、今の三郎が消えていってしまうのだとしたら、すごく寂しいって気付いたから」
「どこにも行かないさ。私は、結局」
「だけど、考えることを止めようと、そう思っていただろう」
「兵助が私のことを考えていてくれると知ってしまってはな。止めることもできなくなってしまった」
「俺のせいにしてる?」
「半分は。もう半分は私のせい」
「責任が重そうだ」
「重いとも。だから、」鉢屋が悪戯気に笑う。それからいつもと同じ笑みが自ずと浮かぶことに、また笑った。「寂しくなったら、また、笛を吹いて」
「それだけでいいの」
「それがいいんだ」
「そっか」久々知は一言を唇に響かせた。静かな音に近い響きこそ、言葉よりも明瞭な返事だと知っていた。「いいよ。三郎のために、きっと、また」
久々知の答えに鉢屋は無言のまま小さく頷いた。風音も静寂の中で、二人だけが存在を切り取られたかのように浮かび、漂う錯覚。
二人は数秒見つめ合い、やがて同時に微笑んだ。
「帰ろう」
どちらかが言った。或いは、同時に口に出したのかもしれない。
着いた頃にはまだ姿を見せていた太陽はとうに山の向こうに隠れ、一筋だけ残された朱い光が漂っている。夕暮れはいつ景色を染めていたのだろう、と鉢屋は考えた。本当は、ずっと、宙には朱が広がっていたのかもしれない。
一度だけ、意識的に瞬きを落とす。
宙の端に滲む青より青い、藍を見た。
青い影はきっともうない。