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    小満 目の前が金色に染まっていた。
     彼は殆ど光の色と言うべき色彩を眺めながら、茫と座っていた。それは現実の景色ではなく、瞼の裏に透けた光と、皮膚の淡いから生まれた色である。さらに正確には、見えているのではなく、閉じることのできない瞳が捉えている映像、或いは絶対的な認識だった。じっとそれを見つめていると、金色は時折、奇妙な歪みを走らせたり、収縮や拡大を繰り返したりした。渦が現れることがあれば、赤や緑の明滅が浮かび上がることもあった。僅かに輝きがくすむことや、反対に殆ど白と言えるほど燦然とした光を放つことも。外界の光や、景色の変化がそのような毛氈で現れていることを彼は知っていた。視覚よりも、原始的な感覚に近い認識。景色というには情報が単調で、無秩序であったためだろう。日頃何を思うでもなく映している景色に含まれた情報量を考えれば、天と地ほどの差がある。今の彼には外界の変化も、ただの波のようにしか映ることは無い。
     その他は皆、一面の金色。
     彼は目を逸らすこともできないまま、既に閉じた瞼の上を白い布で覆った。柔らかな布が擦れ、僅かに皮膚が引き攣る感触。多少の衝撃で緩まない程度にしっかりと布を巻き付け、反対側の手を後頭部へ回し、几帳面さを思わせる手つきで端を結んだ。昨日、彼に包帯を手渡した人間の声を思い出す。一つ歳上の生徒は彼の様子に構うことなく治療を施すと、治るまではなるべく包帯を外さないよう、彼に言った。治療を終えた時と医務室を出る間際に、念を押すように二度繰り返して。
    「先生も仰っていた通り黒目に異常はないから、多分一時的なものだろうね。二、三日で視力は戻ると思うけれど……出来れば大人しく過ごした方が良い。あと、治るまでは包帯を外さないように。光が刺激になってしまうし、それに、君が目に怪我をしていることを伝えられるからね」
     学園での生活も五年目であれば、敷地内の建物や部屋の間取りは頭の中に入っている。しかし現実として、頭の中だけを頼りに生活するには、学園という空間は賑やかすぎた。いつ、どの曲がり角で走り回る下級生にぶつかるかを彼に予測する力はない。例え地図があろうと己の立ち位置を見失ってしまえば意味もなく、仕方なく告げられた言葉に従い、自室に大人しくとどまっていた。することもなく、頭の中で告げられた言葉を反芻する。身体を床へと傾ければ、視界が角度を変えないままに平衡が崩れる奇妙な感覚が首の裏に滲んだ。

     彼の目を傷つけたのは、形のない煙だった。実習で戦場の偵察を行っている最中、劣勢であった城が一つの砲弾を打ち出したものだ。その砲弾は多くの敵兵を傷つけるには至らない威力の弱いもの見えた。すでに戦場の中央で敵味方入り混じる乱闘が行われている中でなぜ塹壕を壊すための砲弾を打つのか。偵察で確認するべきは兵士や数の優劣だけではなく、奇妙な砲弾について記録をとる必要があると、彼は暫くの間偵察を続けた。威力の弱さに加えて煙の量が俄かに多いらしいと頭の片隅に書き付ける。その時、ちょうど自身の居座る樹が風下にあたり、微風に乗った煙が迫っていた。観察はまた別の角度から行うべきだろう。そう判断し、彼は樹から降りた。
     次の瞬間。目の奥、黒目よりも奥まった一点に痛みが走った。反射的に目を閉じる。長く正座を続けた後の、痺れた足に似た感覚。或いは、そのような事態を経験したことはないが、眼球の上を際限なく針で付きまわされているような感覚が彼を襲った。瞼の上から双眸を押さえる。圧迫されたためか俄かに痛みが増し、手を離す。ゆっくりと瞼を持ち上げれば、痛みのためか、涙のためか、鈍く霞んだ視界が広がった。未だ見えている。最悪の場合を考えれば、今すぐにここを離れるべきだろう。彼は考えるよりも早く結論付け、音もなく駆けだした。偵察を目的としていたため、幸いにも他人の目に付きにくい場所にいる。背後に残された戦場からはいくつかの悲鳴と、すすり泣く声が微かに聞こえた。
     彼は戦場となっていた平原から森の中へ逃げ込むと、切り拓かれた林道に沿って真っ直ぐに歩いた。視界は辛うじて保たれていたが、靄をかけた視界は徐々に光を失くし、暗く濁った色に変わっていた。雨上がりの、泥を運ぶ濁流の中にいるようだ。違うのは全てを押し流そうとする力と水がぶつかり合って生まれる轟音がないことか。
     森の中は、一時も歩かない先で戦が行われているとは思われないほど静寂に満ちていた。枝葉の摩擦、獣の息遣いまでがはっきりと鼓膜を揺らす。視覚の異常によって神経が張り詰めているのかもしれない。盲人は目が見えない代わりにその他の感覚が他者よりも冴えていると、どこかで耳にした噂話を思い出す。それがたった今、偶然に視力を失った彼にも通用する話であるか、彼には分からなかった。途中、森の外れに小さな渓流があったことを思い出したが、目が見えない今、己の状態を確認する方法はない。加えて道を外れた後で正しく森を抜けられる保証がない以上、彼はひたすらに林道を歩き続ける他になかった。手を伸ばし、木々の間隔を確かめながら。
     歩き始めて半刻ほど経った頃、彼の左手に触れていた木の感触が消えた。手を伸ばし、周囲を探るように半円を描けば、最後の一本を残して道が開けていると分かった。森の終点だろう。尤も、森の中を大きく外れたとは考えられないものの、森を貫いた一本道を正しく進めたという確証はない。ここが正しい出口であれば、もう半刻後に級友らと落ち合う手はずになっていることを頭の中で確認し、彼は樹に左手を添え直すと、荒い凹凸のある幹へ背を預けた。

     あの時危険を承知の上で川へ言っていれば、最悪に近い結果にはならなかったかもしれない。彼はそう考えて鼻先で吹き出した。余りにも無謀な考えであったからだ。例え二度目があったとしても、目が見えないという状況の中では、同じ行動を取るだろう。それに、目が見えなくなったことが最悪であるとは言い難い。最悪であることと、最悪に近いことは、空と海ほどの違いがある。彼が想像し得る最悪とは常に命を落とすことで、視力を失うことは精々泥沼に足を取られた程度の困難と言えた。不愉快であっても、我慢できないことではない。
     彼は包帯を崩さないよう床板に寝そべった。胃の底を逡巡する不愉快の源から逃れるように、身体を横にして背を丸める。誰かがこの姿を見れば怪我の具合が悪いのかと心配されるのではないかという考えが思考の片隅に浮かび、すぐに沈んだ。考えなければならないことが彼には多くあった。
     戦場を離れた後の判断に自信があったとして、それ以前はどうだろうか。むしろ不愉快の原因は、迂闊にも風下を陣取った己にあるのではないか。視力を失ったことによる不便ではなく、失う事態を招いた己に、と彼は頭の中で与えられた課題の内容を広げた。
     偵察を言い渡された戦は小さな城同士の戦いで、どちらが勝ったところで世の大局には影響しない規模だった。二つの城に隣接した城が情勢を気に掛ける程度の、小さな戦。尤も戦である以上は少なくない数の人が死に、草木は踏み倒されていく。しかし、それを気に掛ける者は、戦の行方を気に掛ける者よりももっと少ないだろう。雑兵や武器も寄せ集めの、言わばガラクタとも呼べるような代物のはずだった。大砲を持っていたこと自体、奇跡と言えた。人の何倍もの力を持った武器を手にしている事実を持ち帰ったことは偵察の内、最も大きな成果だ。しかし、予想していなかったからこそ彼は身を隠す都合を優先し、風下に身を置いた。砂煙が沸き立つ中央には元より近寄れず、火器による煙幕がないのであれば風下であっても問題はないと。油断は忍にとって忌むべき感情であると理解しているからこそ、全てを終えた今では自身の状況を慢心であったと分析ができる。偵察とは何があると決めてかかることではない。その場で何が起きているのかを確かめることだ。それを取り違えたという事実、内省が落ち着きのない蛇のように神経を這いまわっている。

     木の幹にもたれたまま、彼は時が過ぎるのを待った。その間、俄かに鋭さを増した聴覚に届くものは森の奥から響く鳥のさえずりと頭上や足音から響く葉の騒めきだけだった。戦が行われることが広く知れ渡っているか、近くの村人が通りがかる気配もない。この辺りには城に阿らない村も多いため、余計な火の粉には近づかないのだろう。
     あの煙、と彼は頭の中に流れるいくつかの思考から、この半刻の間絶えず茫と浮かんでいた言葉を心中で吐き出した。戦場で、彼は砂埃や直接の武器が届くには離れた場所にいた。彼を害することができたのは、直前に炸裂した砲弾の他に考えられない。何か薬物を混ぜていたのか、或いは煙に含まれる微細な粒子が偶然にも粘膜に傷をつけたのか。彼に判別はできないが、何れにせよ、それが原因であることは明白だ。或いは、火器に詳しい人間であればもっと詳細な推測を打ち立てられたかもしれない。それでも、きっと、煙には違いないだろう。戦場へ戻れば、煙の正体が分かるだろうか。しかし、正体を知ったところで失われたものは戻らない。
     とめどなく同じ海を周遊する魚のような思考が停止したのは、近づいてくる足音に気が付いたためだった。僅かに俯いていた顎を持ち上げ、耳をそばだてる。足音は二つ。横並びではなく、半歩開きがある。地面をしっかりと掴みながら歩いていることを伝える足音に、彼は一瞬にして張り詰めた緊張の糸を緩めた。そのどちらも、彼が良く知った響きであると理解したためだった。
    「三郎?」足音に合わせた調子で、彼の名を呼ぶ声が一つ。
    「やあ」彼は音のする方角へ顔を向けた。「雷蔵。それに、八左ヱ門も一緒だな」
    「随分早かったんだね」不破が言った。
    「まあ、ちょっと想定外の事象が起きたので、早めに引き上げたんだ……尤も最低限の結果は得られているから、そこは心配ない」
    「想定外?」
    「しくじった、と言い換えた方が正しいな」
    「珍しい。どんな失態をしたんだ」竹谷の声が不破の横から聞こえた。「というか、悠長にここで待っていてよかったのか」
    「別に見つかったわけじゃない。ただちょっと、怪我をしただけで……」
    「怪我なんて、どこに?」
    「目」
    「え、それって」不破が俄かに口ごもりながら言った。「もしかして三郎、今」
    「見えている。ただ少し、霞んでいるだけだ」彼は平静を装うつもりで、肩を竦めた。
    「本当に? あ、でも目が上手く見えてないなら怪我の状態も分からないか……とにかく、急いで学園に戻らないと……」
    「雷蔵、落ち着け」竹谷がゆっくりと言った。「それから三郎、この状況で嘘を吐いてどうする」
    「八左ヱ門は他人の視界が分かるのか?」
    「目の見えない猫を保護したことがあるが、うっすらとでも視力がある生き物なら、多少なりとも視線が合うものなんだよ」
    「さすが、生物委員会。おかげで一つ賢くなった」
    「まさか三郎、全く見えてない状態でここまで?」
    「途中までは本当に視界がぼやけている程度だったから、何とかなった。ついでに今も、光の加減程度は分かる」
     彼が口早に言えば、二つの溜息が折り重なって森に響いた。返答の代わりだったのか言葉が返されることはなく、一呼吸の後に彼の腕が持ち上げられる。そのままどちらかの肩に腕が回された。彼を支えるつもりだろう。彼は俄かに踵を浮かせながら、足を怪我したわけじゃないと呟く。
    「毒の可能性だってあるんだから、背負われないだけマシだと思って」不破が呆れを隠さない声色で言った。
     彼らはそれ以降口を開くことなく、真っ直ぐに帰路を辿った。きっと誰もが、口にするまでもなく、帰路を急いでいた。

     陽光に暖められた床に頬を押し付けながら、彼は毒ではないと言い切った校医のいやに緩慢な口調を思い出した。「視力を瞬間的に奪って、数時間も作用しない毒があるとすれば、それは私の知り及ぶものではないですねぇ」と言った校医は日頃と変わらない笑みを浮かべていたのだろう。立て続けに「もっぱんを使われた後の症状とよく似ていますから、おそらく何等かの刺激物が混ぜられていたのでしょう。私はこの件を先生方に伝えてきますから、あとは善法寺君、よろしく頼みます」とだけ告げると校医は医務室を出て行った。言われたことはそれだけだった。
     それから彼は手当を受け、自室に戻ったきり、一歩も外へ出ていない。学園内を歩き回ることは可能であったが、身体、骨や筋肉ではなくもっと内側に潜む臓腑がいやに重く感じられる。このままもう一度、二、三度目であったかもしれないが眠ってしまおうかと視界に揺れる微小な黒点を見つめた。
     床板を踏み鳴らす音が、鈍重な臓腑へ低く響いた。
     五年生にもなって大きな足音を立てて歩く者は少ない。片側の髪だけ乱れた頭のまま、彼は身を起こす。顔を入り口に向けた後で、己の視界が変わらないことに気が付いた。
    「三郎、」扉が二度叩かれる。足音から連想されなかった声が端的に響く。「いる?」
    「いる」彼が答えた。
     扉が開き、慎重に閉じられる。一瞬射しこんだ光は彼の視界を白っぽく輝かせ、それから一つの影を浮かび上がらせた。
    「兵助」確かめるように名前を呼ぶ。
    「そうだよ。目、大丈夫?」
    「痛みは引いた。新野先生も善法寺先輩も大事にはならないと仰っていたから、数日の我慢だな」
    「ならよかった」
    「ところでさっきの足音は、お前か?」
    「音が聞こえた方が安心かと思って」
    「普段の兵助と違い過ぎて、逆に分からなかった。下級生の誰かかとばかり」
    「なるほど、覚えておくよ」
    「兵助の足音を覚えている奴じゃないと通用しないぞ」
    「つまり、三郎には通用する」久々知が小さく笑った。「座っても? その、三郎の前に」
     彼は頷いた。「雷蔵から聞いたのか?」
    「何を」
    「私のこと」
    「土井先生から。見慣れない砲弾だし、一応調査に行くみたい」
    「同行しないのか」
    「確かに戦場に潜入する経験にはなるけど、立花先輩が同行を希望されていたからね。こういうのは火器に興味のある人が一緒に行くべきだよ」久々知は決められた台詞を読むように言った。
    「行儀のいい答えだな」彼は笑いながら、声の方へ顔を向けた。視線が合うことはなく、しかし、摩擦に似た感触を錯覚する。
    「悪戯者を気取るつもりはないからね」
    「土井先生は何か仰っていたか? その、砲弾について」
    「おそらくもっぱんと同じ要領で作った弾だろうって。合戦中に撃ち込んで、敵味方かまわず混乱させた隙に本隊で攻めるつもりだったんだろう」音も無く顰めた表情は彼の目には届かない。「……何にせよ、元気そうで安心したよ」
    「それを確かめに、わざわざ?」
    「心配だったから」
    「……兵助、今日、出かけようと言っていたことを覚えているか?」
    「三郎の目が見えないなら、出かけたって仕方ない」久々知が言い切った。「それとも、」
     沈黙。
     等間隔で流れていく脈だけが身体の底で響いている。久々知は彼の答えを待っているのか、言葉が続く気配はない。具体的な疑問符が投げかけられずとも、彼は問われた意味、疑問符を正しく理解していた。
    「行こう」短く、彼が言った。
    目の前で久々知が瞬きを落とした。長い睫毛の擦れ合う僅かな音を鼓膜が拾い上げる。
    「俺から言ったことだけど、その、本当に大丈夫?」
    「無理はするなと言われたが、一日部屋に閉じこもっているのと外へ出るのではどうしたって後者の方が健康的だ」
     言いながら未だ床の痕が残ったままの髪を指で梳いた。頭部の上から下へと繰り返される指の動きに合わせて呼吸を繰り返す。
     久々知は分かったと言い、音を立てて腰を上げた。「ありがとう、三郎」
    彼は黙ったまま立ちあがった。扉の方向へゆっくりとつま先を向ける。指先が微熱に掴まれる。内臓を締め付けていた形のない不快はいつの間にか収まっていた。

     学園から街に続く道を逸れた小さな野原を、二人は歩いた。彼と久々知が約束をしたのは一週間ほど前で、久々知が見せたいものがあると言い出したためであった。つまり、彼は具体的な行先を知らず、例え目が見えていたとしても、久々知の案内なしには進めない道を歩いている。違いは手を繋いでいるか、いないか。たったそれだけでしかない。
    「目を瞑っていてほしい」
     正門を出てすぐに、久々知が言った。彼は意図を測りかねると示すつもりで首を傾げ、理由を問う代わりにはっきりと首を縦に振った。
    「私は今、見えてないけれど」
    「それでも、きっと、光の色は分かるだろう? それも秘密にしたいんだ」
    「今は包帯があるから、真っ暗だよ」
     道中、久々知は足元の枝や小石を器用に足先で払い歩いた。手を引いた相手が転ばないように。障害物があればすぐに耳打ちをし、握った手に力を込めて、それを伝える。丁寧に、取りこぼすことなく。野原を越え、緩やかな上り坂へと道が変化したときにも、彼は坂があることを二度繰り返し、一度手を握り直した。春から夏へ走り出した空気は暖かく、触れ合った皮膚の間隙を一筋の汗が落ちて行った。
    「兵助、」彼は坂の途中で一度だけ久々知に問いかけた。深く息を吐いた、その弾みに。「どこへ向かっている?」久々知は一瞬足を止め、しかし、答えることなく歩みを再開した。彼もそれ以上には言葉を重ねることはなかった。久々知との間では沈黙でさえ一種の会話となることを彼は知っていた。
     上り坂は長く続いた。面の下に汗が薄く滲み始めたころ、ようやく久々知は足を止めた。
    「三郎」何を報せるつもりか、手を強く握る。
     彼はゆっくりと瞼を持ち上げた。
     光の波が視界を覆う。
     空いている手で包帯の結び目を解く。
     俄かに視界が輝きを帯び、
     金色が網膜に揺れている。
     光。
     黄金。
     見えるのはただ、鮮やかな抽象の他にはない。
    「何が見える?」
     どちらかが言った。
    「金色の海」
    「黄金色の光」
     どちらともなく答える。
     沈黙。
     風が二人の間を走り抜け、頬を冷やす。
     坂の下から、葉擦れに似た騒めき。吹き寄せる風に膨れ上がり、行き過ぎる風を追いかけては消失していく。
    「兵助、」一音一音を確かめるように、彼は口を開いた。「これが、私に見せたかったもの?」
    「ここ、一面の麦畑なんだ」
    「今が盛りか」
    「この前街へ行った帰りに見つけてね、黄金色の麦が一斉に揺れて、綺麗で……三郎に見せたいと思った」独白じみた口調で久々知は続けた。「数日中には刈り取りを始めると言っていたから、間に合ってよかった」
    「どうして、私に?」
    「何となく。ここに立って、綺麗だと息をのんだ瞬間に浮かんだ顔が三郎だった。三郎なら、どんな風にこの景色を見るのか知りたくなった。それだけだよ」
     投げられた言葉に、久々知の表情を想像する。微笑、或いは至極まじめな顔をしているかもしれない。そのどちらもを詳細に描き出そうと、瞼を閉ざした。
    「残念だ」彼は言った。「見えないことを、初めて悔しく思った」
    「三郎には、今、どう映っている?」
    「ずっと見ていた光だな。瞼を、透かして映る金色によく似ている。ただ、少し、鮮烈すぎるけれど」
    「きっと、綺麗なんだろうね」
    「悪くはない。でも、」彼は繋がれた指の力を緩めた。「兵助の見ているものが見られないのは、悔しい」
     彼の言葉に久々知が軽く息を零した。笑ったのだろう。「俺だって、三郎の見ている世界は見られないよ」
    「……それもそうだな」彼は小さく吹き出した。「私が見ている世界も、本当に、悪くないんだ」
    「でもずっと目が見えなかったら困るだろう?」
    「数日しか楽しめない景色だからこそ価値になる」
    「麦畑と同じ」
     二人は同時に強く掌を握りしめた。
    「目が治ったら、三郎の見た景色を絵に描いてよ」
     風と麦穂の合唱へ溶け込むような声音が囁きを零す。
    「来年、またここで、答え合わせをしよう」
     返事を乗せた歌は風に乗り、やがては霧散する。
     後には名残の光たちが、音も無く金色を揺らしていた。
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    2022/09/11 0:00:36

    小満

    #鉢くく
    別サイトからの移転です。
    初出:2022-05-21

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