青写真なら波に捨てた ウィンカの明滅する光が茫と車内に差し込んだ。コンクリートで固められた広大な空間に並んだ背の高い街灯は半分ほど灯りが落とされ、光と影の境を奇妙に際立たせる。目が眩まないよう、フロントガラスに目を凝らせば、置き去られた車たちの群れが深海を思わせる沈黙を並べていた。
運転席のシートに深く沈んだ背骨に、エンジンの振動が伝う。その心地よさに鉢屋は頬を緩めた。機嫌は悪くないらしい。道が混んでいなかったためか。それから、機嫌がいいのは己とエンジン、どちらだろうと考える。
広い駐車場をほとんど自転車と変わらない速度でゆっくりと回る。建物に近い角に、空いているスペースを見つけ、彼は頭から車を停めた。エンジンを切り、鍵を抜く。黒いカバーだけがつけられた、キーホルダの一つもついていない、シンプルな鍵。つける趣味がないわけではない。揺れた拍子に響く、安い金属のぶつかり合う音が趣味ではないだけだった。
静寂に満ちた車の中で深呼吸を二度繰り返し、車の扉を開ける。そのまま勢いよく閉めれば、暗闇には似合わない音が響く。古いドアは、少しばかり力を込めなければ閉まらない。
彼は音を気にすることなく鍵をかけ、右手ごとカーディガンのポケットへ仕舞い込む。夜の空気は車の中で感じたよりも蒸し暑く、通雨でもあったのだろう、湿潤に満ちていた。深海というより、子供の頃に連れられた、屋外プールの質感。生温く、どこか汗と薬品の匂いを感じさせる、人工の空間。僅かばかりに設られた植え込みの草木でさえ排気ガスの温風から逃れるように、背を丸め、息を殺しているようだった。或いは、建物の向こう側から響く轟音から逃れるためか。何れにせよ、ここに植えられた草木は幸福とは呼べないだろう。植物に意思があろうと、無かろうと。
植え込みを踏まないように飛び越え、鉢屋の足は再びコンクリートを踏んだ。タイヤを傷つけないように舗装された道ではない。人が転ばないように整えられた白い道だった。昼の日の名残か、暗闇の中で微かに光る道の上を、荷物一つ持たずに歩いていく。途中ですれ違った大荷物の人間が、一瞬、怪訝な顔で鉢屋を見た。
ガラス張りの自動ドアを潜り抜け、建物の中に入る。眩暈を感じさせるほど高い天井を一瞬だけ見上げ、すぐに目を逸らした。代わりに建物の中へ視線を向ければ通路に点々と佇む人の影が見える。明かりとシャッタが九割方閉められた時間でも、人がいるのだと、彼は不意に気がついた。多かれ少なかれ荷物を引きずりながら歩いている人々の間を悠と歩きながら、再び天井を見上げる。巨大な水槽に閉じ込められた錯覚。天井よりは遥かに低い、しかし、見上げなければ見えない場所に掲げられたパネルに映る光の文字が篝火のように点滅する。
「お客様にご案内申し上げます。ホルヘ・チャベス空港発、成田空港行き、第七……」
奇妙に優しげな声音のアナウンスが館内に響きわたる。鉢屋は三秒だけ足を止め、再び歩き出す。迷うことなく。彷徨うためでもなく。それは確かな足取りだった。
彼が帰国する時には必ず鉢屋が迎えに行く。
それはいつの頃からかの習慣だった。口に出して約束したことはない。ただ何となく、何回か繰り返した結果、それが決まりのようになったのだろう。初めて迎えた行った時に、彼がどこから帰ってきたのか、鉢屋は覚えていなかった。思い出すことはできるかもしれないが、そうすることに意味があるとは感じられなかった。重要なのは彼が帰ってきたという事実だけだ。
入国ゲートの前にあるベンチに腰を下ろす。鉢屋と同じく誰かを迎えに来たのだろう、数人の影が距離を置いて座っていた。昼間のフロアとは異なり、明かりが最低限に抑えられているからか。誰もがどこか眠そうな顔付きに映る中で、鉢屋だけが判然と目を開けたまま、窓の外へ視線を向ける。滑走路を示す光か、両脇に等間隔で並んだライトの粒子が、ガラスに反射して奇妙に滲む。光が眩すぎるために、滑走路に落ちる影は夜よりも暗い。その光の周縁、或いは影の境界を眺めながら、鉢屋は一度だけ瞬きを落とした。反転した残光が瞼の裏で収縮する。人には想像できない不規則さで。膨らみ、縮み、揺らぐ。再び目を開け、光を眼差し、目を瞑る。光を遊ばせるように。影を泳ぐように。その無秩序を遊ぶ。ただそれだけで、時間を消費できる。
一列を開けた斜め前の席に座っていた人が立ち上がり、大きく伸びをした。何かに抗うように腕を振り回す。肩を回しているのかもしれない。顔がよく見えない状況というのは、幾らか人を自由にさせるらしい、と鉢屋は思う。ただ思い付いだけの些細な思考。鉢屋は喉の奥で小さく笑みを堪え、再び窓の外を見据えた。薄く反射する己の姿を捉え、その瞳の中に、ジョークを思いついた時と似た楽しさがあると分析する。待つことは嫌いではない。後に良いことがあるという控えめな希望のためではない。待つ時間自体を楽しむことができる。あらゆる全てを楽しみながら。待つということだけに時間を費やせる。その意味で鉢屋が彼の迎えを担うことになったのは、ある種の必然とも言えるかもしれない。彼の旅先はいつも、空港を二つか三つ経由しなければならないような土地であるために、到着時刻が遅れることも少なくない。ただ待つだけでは心配と退屈にたちまち追い込まれるだろう。
ロビィの正面に設置された電光掲示板が一瞬明滅した。外枠の他に何も表示されていなかった画面に文字が映る。
深夜三時二十三分着。
その数字だけを目で追い、鉢屋は右腕へ視線を落とした。時計の針は深夜三時を三秒ほど過ぎたところだった。レトロな捻子式の時計は、今は五分ほど早く進んでいる。その微差を計算に入れたとしても、飛行機はもう間も無く帰ってくるらしい。
ベンチに点在する顔がみな、飛行機の到着時間を告げるメッセージが日本語から英語に切り替わり、さらに無数の言語に移り変わっていくのを茫と見やる。街灯に誘われる蛾のように。光に視線が集められる。人間も、虫も変わらない。どこからか入り込んだのか、本物の蛾が一匹、音もなくモニタの端に張り付いていた。
目を瞑り、その羽の模様を想像する。瞼の裏に揺蕩う光を操りながら。目玉にも見える円をいくつも描く。現実にはいない蛾は、光の翅を纏わされ、きっとその翅に焼け死ぬのだろう。
鉢屋は名残の燐光を探すように、ゆっくりと目を開けた。窓の外で何かが大きく唸る音が響く。
エンジンか、風か。
やがて、入国ゲートと書かれた文字の先に明かりが灯る。数分遅れて、雑然とした足音とタイヤの転がる摩擦音が近付いてくる。奇妙に明るさを取り戻したフロアで、ベンチから立ち上がった人々は一斉にゲートの下に歩き寄った。疲れと高揚の入り混じった足取りで、姿を現した人の群れに目を凝らしている。想像よりも多くの人間が微かに傾斜のあるゲートを潜り抜けていく。時折、足を止めた人が手を挙げ、誰かとの再会を果たしていた。
鉢屋はベンチに腰を下ろしたまま、携帯の画面を見た。幾つか受信していたメッセージは何れも彼からのものではない。彼からの連絡は、数十時間前に送られてきた帰国の予定と、一枚の写真だけだった。
携帯をしまい、顔を上げる。疎らになった乗客たちの列は誰も疲れた足取りでゆっくりと進んでいる。或いは、道を譲れるだけの余裕があるのだろう。数人のスタッフがゲートの周りで足早に仕事を始めている。こんな真夜中でも、すぐに次の便が到着するのだろう。否、宙を渡る者たちに時間など意味はない。
最後の一団がゲートを潜り抜けていく。
その最後尾で、真っ直ぐに背を伸ばして歩く影を見つけ、鉢屋はゆっくりと立ち上がった。周りにいた人々はとうにいなくなっていることに気付いた。
その場に佇み、真っ直ぐに影を見据える。
彼の長いまつ毛が、鉢屋を見た。
視線に応えるように。
言葉のない交信。
星からの囁きのような。
静謐と存在の矛盾を光らせた双眸が。
眩さを放ち、鉢屋を捉える。
彼は爪先だけで方向を変え、鉢屋の前で立ち止まった。
「ただいま」彼は言う。目を逸らすことなく。
「おかえり」鉢屋は答えた。「兵助」
光を見つめたまま、瞬きを一度だけ落とす。瞼の裏に、最も美しい光が滲む。すぐに目を開けば、しかし、光はとうに消散し、もう見えなかった。
再び落とされた照明の中で、彼は出口の方向を指で示した。清掃員だろう、どこかで見たことのあるような制服を着たスタッフが二人を遠慮がちに見つめている。彼らの目に自分たちはどう映るのだろうかと、鉢屋は一瞬考え、すぐに思考を手放した。
二人はメインフロアに向かう通路に並びながら、音もなく歩いた。毛の短いカーペットが音を吸収しているのだろう。トランクケースを引きずり歩く者には有用かもしれないが、彼らにとっては足音がしないということ以外には意味のない機能。久々知は登山用品店で見かけるものよりも一回り大きなリュックを背負っている。それでも、彼が旅に出ていた時間を考えれば荷物は殆どないに等しい。濃いブルーのシャツと街を歩くには無骨なシューズだけを見れば、山登りから帰ってきた人間に見えたかもしれないが、手に持ったシルバのアタッシュケースだけが統一感を拒むように丸い角を光らせていた。
「それは?」鉢屋は視線を金属製の持ち手に向け、尋ねた。
「仕事」久々知は一言だけ返し、それから足を止めた。「少しBゲートの近くに寄ってもいい?」
「構わないが」
「届け物なんだ」手にしたケースを掲げ、久々知が言う。「いつもの如くね」
「ふぅん。中身は?」
「娘の結婚祝いだって。こちらに働きにきて、そのまま結婚したそうだよ」
「……めでたいな」
「含みがありそう」
「この国は、決して他所の人間に優しくは無いから」
「他所って?」
「彼岸。或いはそこから来たように見える人」
「そうだね。この国で生まれ育った異邦人もいる」
「首を吊られたくはないな」
「でも、太陽のせいで人を撃ち殺しそうになったことはある」
「自分の話をしている? それとも」鉢屋はアタッシュケースに反射し、歪な線で描かれた、己の顔を見た。「私の?」
「どちらかであることが必要?」久々知は尋ね返した。それから目を伏せた。「……ごめん」
「どうして謝る」
「嫌だって顔をしたから」
「別に、嫌じゃあない」鉢屋は小さく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。「ただ、図星だっただけだ」
二人は黙ったまま空港の中を歩いた。高い天井のせいか、靴音だけが俄かに響く。時折すれ違う、或いは見かける人たちは皆俯きがちに目を伏せていた。眠っているのか。それとも、目を伏せておくことがこの場でのルールなのかもしれない。
白地のゴシック体でBと書かれた大きな看板を見つけ、二人は顔を上げた。顔を上げたかったわけではない。高い位置にあったせいだった。久々知は静かな双眸で鉢屋を一瞥し、小さく瞬いた。ここだよ、と知らせるつもりなのだろう。鉢屋は瞬きの代わりに頷きを一つだけ返した。分かりきったことを伝え合うだけの、コミュニケィションとしてはひどく稚拙なやり取り。伝えたいのは、しかし、情報ではない。
巨大な看板の下に小さな人間が二人、立っているのを見つけた。久々知は頬に笑みを浮かべ、それは鉢屋からすればあからさまに作られた笑みだったが、早足でそちらに向かう。鉢屋は足を止め、その場に立ち尽くした。通路の中央から少しずれただけの場所。真昼の空港であれば行き交う人々にたちまち舌打ちを落とされるような場所であったが、今は誰もいない。鉢屋の他には。
視線の先では久々知が、二人の人間に話しかけていた。何語かも分からない言葉で何かを告げ、アタッシュケースを渡す。受け取った方は満面の笑みでシルバの堅い側面を抱きしめ、それから久々知を抱きしめた。
感謝を伝えるだけの仕草。
頭の片隅で誰かが言った。
ただそれだけのこと。
その通りだと鉢屋は考える。ほとんどの思考が同意していた。それは、しかし、この程度のことに数えきれないほど並行した思考のほとんどを使っているということ。
集中した状態と言えるかもしれない。
それ自体が異常。
鉢屋にとって珍しいと呼ぶべき状況だった。
抱擁から解放された久々知が軽く手を挙げ、踵を返す。手を振り続ける二人のことを振り返ることなく、彼は真っ直ぐに鉢屋の元へ戻ると「お待たせ」と言った。
「ごめんね、待たせて」
「いいや」鉢屋は首を振った。意識の全てで久々知を見ていることに気付く。「喜んでもらえたのか」
「うん」彼は微笑んだ。本当に良いことのように。「いい仕事だった」
二人は再び歩き出す。どこに車を停めたのかを思い出そうと鉢屋は首を傾けた。
「珍しいな」記憶を辿る思考とは別の思考が言う。「兵助が個人的な仕事を受けるのは」
「前に仕事をした会社に勤めている人なんだ。社長から紹介……というかお願いをされて」
海外を飛び回るついでか。いつの頃からか、久々知は時折個人的な輸出入の依頼を受けることがあった。大抵は飛行機に乗せ損ねた小さな荷物や、人に持たせた方が安く済むような品で、個人の輸入業者などから仕事を個人的に請け負うらしい。尤も、彼が仕事と呼ぶのは、この運び屋の真似事だけだった。収入のためにやっていると言い切ることは。
二人で潜るには大きすぎる自動ドアを潜り抜け、建物の外へ出る。明かりが半分ほどに落とされていたとはいえ、室内は互いの姿が十分に見えるだけの眩さがあったと思い知る。暗闇の中で、より暗い影を滲ませる輪郭に目を凝らす。二人の間に吹き込んだ生暖かい空気に埋もれないように。影に手を伸ばす。
「三郎?」
影が口を開いた。
「こっち」宙を指し、鉢屋は言った。「車」
影は瞬きを一度だけ落とし、つま先の向きを変えた。人気のない駐車場の、白線の上を堂々と歩く。鉢屋はその後ろに続きながら、コンクリートの黒い部分へはみ出さないよう、そっと歩いた。電灯が当たるたびに影は久々知に変わり、久々知が影に変わる。伸び、縮み。膨らみ、萎む。その繰り返し。
やがて久々知は白線から足を外し、真っ直ぐに一台の車へ歩き寄った。明かりから遠ざかり、一瞬にして影になる。鉢屋は息を止め、彼に続いた。
車の助手席側に周り、久々知は鉢屋の顔を見た。正解を尋ねているのではない。どこにでもある薄汚れた軽バンを、しかし、彼が間違えたことは一度もなかった。ナンバを覚えているからか。或いは、バックミラーの付け根に控えめにつけられた、木彫りの人形のためか。どちらにしても、この暗闇の中では見えないだろう。
鉢屋は黙って鍵を差し込むと軽く手首を捻った。一度だけ前後に取り付けられたライトが赤く光る。解除を知らせる原始的な合図を横目に、久々知は扉を開け、それから背負っていた荷物を下ろした。
「後ろ、置ける?」
「ああ。今日は何もないから放り込んでくれて構わない」
頷きながら、久々知は後部座席の扉をスライドさせる。座席の下に荷物を置き、バランスを取るように二、三度角度を調整する。具合良く置けたのだろう。丁寧に扉を閉めると、助手席に乗り込む。鉢屋はそれを確かめてから運転席に座り、エンジンに鍵を挿した。右手首を捻り、エンジンをかける。低い唸り声が一つ響き、続けて小気味良い振動が低く響く。左手でギアを入れ、道路へとバックする。慣れた手つきでギアを戻し、今度は真っ直ぐに前進を始める。ハンドルへ両手が添えられるのを見届けた久々知が小さく笑みを溢した。
「どうした?」
「今日は一発でエンジンがかかったなって」
「湿気が好きなんだ、この車は」
「夏にうってつけだ」久々知が笑う「でもエアコンは弱いね」
「窓、開けてもいいけれど」
「車の窓から見る夜って、水族館みたいで好きなんだ」
久々知は窓を見ながら言った。両手は行儀良く膝に乗せたまま。人形のようにしなやかな背筋が青みがかったガラスに反射する。鉢屋は視線だけでその輪郭を記憶し、すぐにフロントガラスに視線を戻した。
対向車も、並走する車もない道。澱んだ倦怠から逃れるようにアクセルを踏めば、ガラス越しの双眸が二度瞬く。
「珍しいね」
「何が?」
「三郎が法定速度を破るなんて」
「ルールを破るか守るかを考えていないだけだ」
「そうだね、」久々知は笑わずに言う。「みんなそれを知らないから」
「だから私は悪戯者に見えるし、兵助は優等生に見える」
「昔から、ずっと」
「それを知らしめたい?」鉢屋は尋ねた。前を向いたまま。「私たちが何であるかを……兵助に、私たちに、見えているものを」
久々知は一瞬だけ鉢屋の横顔を見た。その刹那に全てを読み取るような。読み解くような、鋭い光が目の奥に映り、そしてすぐに消える。彼は瞼を伏せ、それからゆっくりと開いた。鉢屋の横顔の奥にある、ガラスに映る車内を見る。
「ねぇ、三郎」
「なんだい」
「海に行かない?」
「海?」
「ずっと山にいたから」久々知は小さく微笑んで言った。「海が見たくなってしまった」
ハンドルを回す余地のない道を真っ直ぐに見据えたまま、鉢屋は一度だけ瞬いた。瞬間と呼ぶに相応しい、瞬き。
「分かった」彼はそう言い、微笑んだ。
*
星の光を跳ね返した波が双眸を眩ませる。まだ暗い宙は、しかし、海に漂う光のためか、仄青く光っている。海が宙の光を反射しているのか。宙が海の光を写しているのか。どちらにせや、最後に残るのはいつも、青。
ゆっくりとブレーキを踏み、鉢屋は隣を見た。眠っていないことは知っている。エンジン音だけが響く車内では、呼吸の一つでさえも耳に届く。鉢屋の車にはカーラジオも、ナビも付いていない。彼にとってこの車は荷物を運ぶためのツールにすぎず、行く場所も決まりきっている。ドライブを楽しむためのノイズも、道を調べるためのナビも余剰なものだった。
否、知らない道であろうと、こうして辿り着くことができる。道の機能とは元来そのためにあるはずだ、と鉢屋は考えた。どんな道を通っても、どこかには辿り着く。辿り着いてしまう。それなのに、正しい道というものに、どれほどの意味があるのだろう。
車が完全に速度を無くしてから、鉢屋の左手がブレーキを入れる。機械的な、ほとんど自動入力された動きだった。頭の中で誰かが指示を出していたのかもしれない。彼は車のエンジンを完全に停止させ、久々知の顔を見やった。
「どこか下に降りられるところを探す?」
「ここ停めておける場所?」
「こんな夜更けに通る車なんてほとんどない」片眉だけを上げ、鉢屋は言った。「ルールが大切?」
「ううん、ただ、事故は望まないだけ」
「帰るのに足がなくなったら困るしなぁ」喉の奥で小さく笑う。久々知も唇の端を僅かに持ち上げ、頷いた。冗談ではなく本当にそう思っているのだろう。極めて控えめな笑みだった。
ハンドルの下で刺さったままの鍵を抜き、鉢屋は車のドアを開けた。遅れて久々知も反対側の扉を開く。彼が降りたのを確認してから、鉢屋は音を立ててドアを閉めた。久々知は勢いよくドアを閉め、ボンネットの前に立っていた。土埃のついたフロントに手をつき、首だけで海を見つめている。鉢屋の方からは海が見えないためか。彼はその場に佇み鉢屋を待っていた。
鍵をかけ、鉢屋は久々知の隣に立った。鍵だけをポケットにねじ込み、空いた手で彼の肩を叩く。どれほどの時間せまいシートに座っていたのか。彼の羽織るシャツは奇妙なシワが刻まれていた。
二人はガードレールを飛び越えると、歩道に沿って固められたコンクリートの塊の縁まで歩き寄った。腰ほどまである堤防のようなそれに手をつき、下を覗き込めばテトラポットに跳ね返る泡が濁った白を広げている。隣では身を乗り出すことなく、しかし真っ直ぐに、水平線を見つめている久々知の横顔が薄く光る。等間隔に並んだ街灯の残光か、海に反射する星の光のためか。
彼の視線を辿り、東の空を見る。
水平線の一端に、青ざめた橙の光が灯っている。
「朝だね」久々知は視線だけで振り返り、それから微笑んだ。「もうすぐ」
波の音に紛れ込みながら、彼の声は不可思議なほどはっきりと響き、そしてすぐに消えていく。
「まだしばらくかかるさ」鉢屋は笑わずに答えた。時間を確かめようと考えながら、視線は遠く輝く間に吸い込まれ、微動だにしない。
瞬きさえもせず。ただ、光を焼き付ける。
久々知もまた、じっと宙と海の境を見据えている。
同じものを見ているとは、しかし、言えるだろうか。
彼の双眸に映る光と、己の目が吸い込んだ光は。
同一の認識であると言えるのか。
「きれいだね」久々知は唇を動かさずに言う。「朝日と、星と、月。その全部の光が、今、ここにあって、青い海になる」
「最後に残る色だ」
「世界の涯の色?」
「取らないのか?」鉢屋は尋ね返した。「その、すべての光を」
「カメラには映らないから」久々知は微笑みを湛えたまま答える。波間からこぼれ落ちた微小の光が口の端に降り、静かに灯る。「それに、三郎がいる」
「私?」久々知の言葉を繰り返す。「私が?」
「今回の旅でも、」久々知はゆっくりと空を焼く閃光に目を細めながら続けた。「色んな写真を撮った。全部山の写真だけれど、多分、そのうちの何枚かは勘右衛門に使ってもらえそうな感じ」
「つまり、お前の納得のいくものではなかった」
久々知は振り返り、頷いた。
海風が彼の短い髪を僅かに遊ばせる。
彼の髪が長かったのはいつの頃か。
不意に鉢屋は考えた。
思い出せない。
忘れたはずもない。
それは、つまり、存在しない記憶。
今、ここには無い思い出。
「俺がどうして写真を撮るのか、三郎は知っている?」
「知りたいから」鉢屋は躊躇わずに答えた。「兵助が、お前が自身が。自分が見ている世界を」
自分の視界を、俯瞰するために。己から、飛翔するために。自分が見ている世界を、しかし、他人の目を通して見ることはできない。鏡を解さずに自分の顔を見ることができないのと同じ。ならば、他人に見てもらうしかない。そのためには映すものがいる。
鏡のように。
「俺はね、三郎」久々知は鉢屋の目を覗き込んだ。二つの黒目に波打つ海を、光を、重ね合わせるように。そこにあるものがただの反射であることを惜しむように光をなぞる。「答え合わせをしたいんだ」
「答え?」
「三郎と」
「何の?」
「俺の見ている世界が、存在することを」
「……なぜ、」自分の双眸よりも大きな目に吸い込まれる錯覚。「どうして私と」
「分かってるだろう」
「分からない……いや、」鉢屋は答え、それから静かに目を伏せた。「お前の口から、聞きたいんだと思う」
体温が上がるのを感じる。登り始めた日に照らされているせいではないだろう。炭酸の泡沫のように不規則な意識が大きな泡となる。弾ける一瞬を予感させる。不安。そして、一抹の期待。
「三郎しか、知らないから」久々知は喉の奥で笑った。波よりも穏やかな笑み。「同じ世界を見ていると分かる人を。ただほれだけ。言葉も存在しないところにある直感を、どうして説明できる?」
「直感」三郎は微笑んだ。「私の場合は、」
海から強い風が吹き付ける。久々知の前髪が、羽根のように舞い上がった。
黒髪の隙間が光を反射し。
舞い上がり、
拡散され、
弾け、
消える。
「兵助。髪が」
まつ毛に絡んだ髪に手を伸ばす。
爪よりも薄く、柔い、彼の一端に触れる。
海風の僅かな湿度。
潮の香り。
一瞬にして、しかし、それらは行き過ぎる。
手には残らない。
「三郎の場合は?」久々知は尋ねた。「俺も、聞きたい」
目を閉じる。
残るのは眼球に踊る光の名残か。
「祈り」
指先に絡んだ一本の絹糸を
そっと握りしめる。
両手を組み合わせ、額を寄せる。
そこに、すべての世界を見るように。
その一筋こそが、最果てであるかのように。
「三郎も神さまに祈るんだ」久々知は微笑んで言った。
「お前とまだ、同じ世界にいられるのなら。神にでも何でも祈るさ」
掌を開き、海へ。一本の髪を風が運ぶ。やがて髪は空へ消え、どこかの誰かが地平線に錯覚するかもしれない。そう考えて、鉢屋は喉奥で笑みを立てた。となりを見れば久々知の笑った口角が見えた。彼もきっと、同じことを考えているのだろう。
鉢屋は彼の肩に片手を添え、それからそっと頬に触れた。
「おかえり、兵助」
頬をくすぐる感覚のせいか、久々知は僅かに身動いだ。
「ただいま、三郎」
同じ瞳で、宙を見る。朝焼けに燃える星の名残が、青く輝いて消えていくまでを。青紫に解けた宙の間を。夜と朝の境界を。二人が見る宙が同じであることを二人は知っていた。それを知るのが未だお互いだけであっても。
冷たい波が頬に触れる。
今はそれだけが現実だった。