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    しおり
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    立冬 四辻の山茶花に触れてはいけない。
     その噂はいつの間にか学園に広まっていた。裏々山の三本杉と街道を結ぶ野道の間にある四辻。あたりには民家もなく、ただ森から運ばれてきた植物が茂っているだけの、いわば何の変哲もない道だ。街へ至るために四辻の一つを通る者は学園の人間のみならず存在したたが、大きな事件が起きたことも、野生動物との事故が起きたこともない。噂を引き起こす要素を何一つとして持たない場所に突如として現れた噂だった。
     四辻の山茶花に触れてはいけない。
     魅入られて首を取られるぞ。
     いつの間にか根付いていた噂に対して、学園の生徒の反応は凡そ三つに分かれていた。
     一つに、噂の真意を探ろうとする者。これは最も人数が多い。子供であれど忍を志す者にとって、噂の内容よりも裏にある意図を重視する者が多い。首を取られるという直接的な脅しは、その場に近付けさせないための方便として有用だ。山茶花、ひいては四辻に何者かが重要なものを隠しているのではないかという疑惑を誘うには十分な力がある。教師の多くも何者かの企みを疑った。しかし、彼らがこれを調べたところ、一先ず危うい仕掛けは見当たらないと結論が出た。
     二つに、噂の真実を探ろうとする者。真意ではなく、首が取られるという事実を確かめようとする者たちがいた。一年ろ組の鶴町などを筆頭にした彼らは、それが人の手による偽りであるかを問わず、ただ首が取られるという事実の奇怪さについてを追い求めた。
     三つに、真意も真実も疑わず、噂を信じた者。これは当然、最も少数派だった。教師が噂について危険はないと判断した後に少し数を増やしたものの、表だって噂を信じていると言う者より、彼らを笑う者の方が数は多かった。
    噂の真偽について話が及ぶと、どの立場であれ、多くの生徒は決まってこう言った。「ところで誰か、首を取られたものを知っているのか」
     実際、学園の中で四辻に首を見た者はいない。噂について調べ回る教師や生徒の中に、前者は無事を、後者は首があることを望んでいるという違いはあったが、どちらも同様に噂に火をつけるだけの事象は見つけられなかった。教師の殆どはその時点で、悪戯話が拡張された末の流言だと結論付け、生徒の中には山茶花に触れたが無事だと勝ち誇った顔で吹聴する者さえいた。
     噂を信じている者が殆どいないにも関わらず、煙のように消えて無くならない。この噂において最も奇妙と言えるのはその点だろう。学園は忙しなく、喧騒に満ちている。子供たちの好奇心を満たしたものはすぐに次の話題にとって代わり、絶えず新たな話題、或いは大なり小なりの事件が渦を巻く。それが常でありながら、未だ口の端に上っては赤い花の影を覗かせている。
    「山茶花が枯れるまで、きっと続くよ」
     放課後、石蔵の隅で少年はそう言った。確信に満ちた言葉に笑みはなく、事実を伝える口調に近い響きがあった。空は青い、石は固い、そのような、分かり切ったことを言うような。彼は石蔵の中に並べられた壺の一つを棚から下ろし、何事もなく蓋を開けた。
    「兵助は信じているのか」
    「三郎は?」
     蔵の中には二人だけだった。久々知にとっては馴染みの場所、或いは縄張りとも呼ぶべき石蔵は、くすんだ埃っぽい雰囲気だけを漂せる。実際の埃は、しかし、一欠けらも見当たらない。彼の後輩である委員会の一員がよく掃除を行っている証だ。屋根まで吹き抜けた構造のために肌寒さを感じるが、静けさと清潔さによってある種の快適さがある。それを知っているのだろう、鉢屋は時折硝煙蔵を訪れた。決まって、久々知が一人だけで作業をしている時に。
    「半々、だな」鉢屋は何も置かれていない棚に背を預けていた。「この噂を流した奴が絶えず噂を流し続けていると仮定したとき、そこには意図があって然るべきだろう。悪戯の執念を越えている。それが何かは知らないし、興味もないが、触らぬ神に祟りなしと言う」
    「首を取られるということには懐疑的だけど、山茶花に触れないことは正解。その意味での半々ってことか」
    「実際にあの山茶花が化け物かどうかを証明する手立ては現状無い」
    「誰かが実際に食われるまではね」
    「少なくとも即座の危険がないことは確かめられたけれど、今後も同じようにしてあそこにあるものが危害を加えない理由はない。その意味で、噂が途切れるまで待った方がいいのも事実だ」もの、と鉢屋は言った。噂の裏にあるのが人間のたくらみであれ、真実の怪現象であれ、区別をしない言い方だった。
    「結局は興味がない、ということだね」
     蓋を閉じ、何かを記帳した後で久々知は鉢屋の方を見た。蔵の中は明り取りの窓から入る陽射しの他に光源はなく、薄闇が紗々と空間を覆っている。薄絹の幕は蔵の中に在るもの、棚や壺、人の肌にも密着する。粘膜に影を跳ね返す双眸だけが取り残され、浮き上がる。暗闇に孤立した瞳は空間をよく見抜き、しかし、表情の細部までを窺うことはできなかった。
    「兵助はどう思っている?」
     久々知は次の棚へ向かい、別の列へ移った。お互いの姿が棚に遮られ、声だけが存在を伝えている。
    「徒に触れない方が良い、ということには賛成」
    「別の点には異論が?」
    「うん」久々知は声だけで頷いた。
     空白。
     空気が唇を通過する摩擦。
    「あの山茶花は、本当に首を取るよ」
     平淡な声が蔵の中に響いた。脅かしや悪戯のつもりを感じさせない声音。尤も彼は忍の卵であるからして、それを装うことは可能だろう。彼の声が事実を告げているだけだと感じるのは、鉢屋にとって久々知は少なからず知った人間であるからにすぎない。或いは、そうと信じたいだけのことか。
     彼の言葉に、鉢屋は返事をしなかった。
     久々知は全ての棚を見終えた後で、手にした帳面を大切そうに懐へとしまい込んだ。空の棚にもたれたままの鉢屋はただその仕草を茫と眺めていた。動き回っていた久々知と違い、佇んでいたばかりの鉢屋の指先は温度を失くしている。厚く切り出された石は外気を遮断し温度を保つが、決して暖かくはない。火気厳禁の戒めもあり冬場は寒さを強いられる。冬が近いな、と鉢屋は思った。口に言葉が出ていたのかもしれない。久々知が鉢屋へ顔を向ける。感覚の鈍くなった指先を開閉すれば、単調な動きに合わせて大きな黒目が微動した。
    「明日、」沈黙に埋もれた空間に、言葉がいやに明瞭な輪郭を持って反響する。「街に行くけど、三郎も来る?」
    「どうして?」
    「あの四辻を通った先に、学園と懇意の店がある。舶来品を取り扱っているところで、硝石なんかを真っ当に売ってくれる善良な店だ。そこへ注文に行く」
     なぜ街へ行くのか、なぜ鉢屋を誘うのか。二つの問いに正しく答えを返し、久々知は首を僅かに傾けた。前髪が自然に揺れ、額の上に影を落とす。睫毛と交錯した毛先へ指を伸ばし、鉢屋は細絹の簾を爪の先で除ける。
     視線が重なり合う。
     久々知が唇の端を持ち上げる。
     微笑。
     唇が動きだけで「冷たい」と言った。

    ***

     陽が昇り切った後に学園を出た二人が街に着いたのは、ちょうど昼過ぎだった。朝の市を終えたばかりの街は落ち着いた賑わいに満ちていた。人々は気ままに往来を闊歩し、軒先では店主と客であろう人々が雑談に興じる姿があった。通りのあちらこちらで香ばしさを纏った煙が立ち上り、一仕事を終えた街の人々を寄せ付けている。
     人の隙間を縫いながら、久々知は迷うことなく通りを進んで行った。もう何度も訪れているのだろう。時に店と店の間にある細道を通り抜け、街の奥へと向かう。鉢屋は彼の半歩後ろを黙ってついて歩いた。
     最も活気に満ちていた中心部を過ぎると、今度は仕立ての良い着物をまとった人間の姿が増える。店の位が上がれば客層も変わる。素早く、騒々しくとも言える街の空気は悠然と行き交う人々の空気へと変貌した。年若い、農民と比べれば小綺麗な着物ではあるが武家や貴族のそれとは比べるまでもない、質素な恰好に身を包んだ少年が並んで歩くには似合わないだろう。すれ違う人々は時折訝し気に彼らを振り返り、中には彼らを睨みつける者までいた。久々知は、しかし、気にする素振りもなく通りを進む。針を思わせる背筋は常と同じように真っ直ぐ天へ伸びていた。
     彼は赤い布を掲げた大きな店の前で、ようやく足を止めた。鉢屋を一度振り返り「ここ」とだけ言った。教室の一辺でも余るほど大きな店構えを前に、鉢屋は軽く息を吸いこんだ。
    「私も付いて入っていのか?」
    「変装した人はお断りとでも書いてあった?」
     久々知は口の端から笑みを零し、それから店の奥へ向けて「ごめんください」と声を上げた。
     棚の影から足音が一つ、丁寧な足取りで現れる。店構えに引けを取らない上質な着物を纏った男性が一人、手を広げながら久々知の前に立ち、にこやかな笑みを浮かべた。
    「これは、これは学園の。どうも、ご無沙汰しておりますな」
    「こんにちは。こちらこそご無沙汰しております」
    「先生はご一緒ではないのですね」男は久々知の斜め後ろに佇む鉢屋へ目を向け、僅かに眉を潜めた。「それともそちらの方が?」
    「いえ、彼は俺の同輩です。街に出る用事があるというので一緒に」
    「なるほど。すみません、学園の方は時に思いもよらない姿で起こしになるので」
     男の手招きに従い、二人は店の中へ足を踏み入れた。店の中には彼らの他に客らしい者の姿はない。店の奥からは奉公人たちであろう、忙しない足音が行き交っている。
    「それで、今日は火薬の原料のご注文ですかな」年若い少年を相手にするにはやや慇懃ともとれる態度で男は言った。この店にとって学園がいかに優良な客であるのかを窺わせる。或いは、誰であれ客を尊重する姿勢があるからこそ、学園が贔屓にしているのか。
    「ええ。物と量はこちらに」久々知は懐から封書を取り出し、男へ差し出した。
    「どれどれ拝見します……」男が封書を開く。時折頷きながら紙面を一通り読み終え、元の通り畳み直すと小さく息を吐いた。「硫黄の方は在庫があるのでいつでもお出しできますが、硝石は次の船を待たないとご用意ができません。最近、大きな発注をいただきましてな……」
    「次の船はいつでしょうか」
    「天候にもよりますが、二十日後には戻るはずです」
    「分かりました。問題ありません」
    「用意できる分を先にお渡しすることもできますが」
    「いえ、揃ってからでお願いします」
    「かしこまりました。それではいつも通り価格について計算の上、文書でお渡しいたしますので、少々お待ちいただけますかな」男は立ち上がり、店の奥へ向かう。
     鉢屋は知らず詰めていた息を緩め、店の中を見渡した。
    「大層な店だな」
    「大陸との貿易をやっている店だからな」
    「兵助はもう何度もここに?」
    「委員長代理になる前は荷運びのために来ていたくらいだけど、今は発注が必要になると大抵は俺が来ることになってる。本当は土井先生がいらした方が良いんだけど、色々とお忙しいから。まあお使いみたいなものだよ」
    「お使いにしては商品も値段も可愛らしさに欠けるな」
    「学級委員長委員会が学園長に頼まれて買っているお菓子も、大概高級品だろうに」久々知が小さく吹き出した。
    「それでも戦の道具よりはかわいいものだろうさ」
    「船に乗ってやってきている時点で、誰かの命が懸かっていることには違いがない」
    「だけど、暴力ではない」
     店の奥から秩序だった足音が聞こえ、二人は同時に口を噤んだ。一拍の後に男が新しい封書を片手に現れる。
    「お待たせいたしました。こちらにお取引の詳細を記載しておりますので。どうぞお納めください」
    「ありがとうございます」久々知は両手で封書を受け取り、懐へしまい込む。「商品が入った頃に、またお伺いいたします」
    「お待ちしております」男が頭を下げる。「それから、最近は少し商品が手に入りにくくなっておりますので、そのことについても封書の方へ記しております。望む方に売るのが我々商人ではございますが、学園の方には長い事ご贔屓いただいておりますので、注文はこれからもぜひうちに……先生方へも何卒お伝えください」
    「承知いたしました。確かにお伝えいたします」久々知は腰を上げ、お辞儀を一つ返した。
    男に見送られ、外へ出る。薄曇りの空では陽が天頂を過ぎ、傾きはじめている。元来た道を辿れば次第に通りの賑わいは増したが、それでも人の数は減っている。歩きやすくなった道に二人の影が平行に並ぶ。
    「日が短くなったから、人の減りも早いね」久々知が前を向いたまま言った。
    「もうそんな時期か」
    「これからもっと短くなる。俺たちにとっては、ある意味都合が良い時期だけど」
    「鍛錬には良いかもしれないけど、冬の野外授業は辛いからなぁ」
    「三郎は寒がりだもんね」
    「兵助はもう少し寒さに頓着しろ。冷え切っていることに気付かないで風邪を引いたことは何回あった?」
    「分からないものは仕方ないだろう」久々知が口の先を微かに尖らせた。「それに風邪を引くのは俺だけじゃない」
    「雷蔵は毎年これでもかと着込んでいるし、風邪を引いたのは三年前が最後だぞ」
    「同じ格好をしていたはずの三郎が去年三日間寝込んだのは、何のせいだろうね」
    「温かい恰好をしておいて、損はないだろう」
    「動きにくい」
    「八左ヱ門のようなことを言う」
    「そう言えば八左ヱ門は冬場でも着こまないのに、風邪ひいてるとこ見たことないね」
    「……結局は個人の強さ次第ってことか」鉢屋が小さく笑い声を零す。
    「今年も俺と三郎は風邪を引きそうだ」同じ笑みを返し、久々知は黒目だけで鉢屋の顔を見た。「残念なことに」
    「残念?」
    「今年も冬を見ることが」
     造りものである鼻筋に薄く赤色が滲んでいる。寒さのせいではなく、傾きはじめた陽が色を変えているせいだろう。鉢屋は影を映した顔を正面へ向けたまま、一瞬、視線だけを辺りに巡らせた。
     街はいつの間にか消え去っていた。等間隔に並んだ屋根は野原に変わり、烏の声が響き渡っている。
    「日が沈み切る前には学園に帰れそうだな」鉢屋は言った。
    「ちょうど陽の暮れ方に四辻を通ることになるね」久々知が言い添える。
     野の道を真っ直ぐに進めば、やがて件の四辻へ出る。鉢屋は曖昧に首を動かした。学園と街を繋ぐ道は、人が切り開いた安全な道という意味ではあるが、この一本しか存在しない。当然往路も帰路も同じ道を辿ることになる。日差しの穏やかな朝の景色を思い出そうとする。山茶花が咲いているのか、鉢屋には思い出すことができなかった。
     整えられた道に従って、草原から林へと入って行く。天から降り注ぐ赤光は木々に遮られ、
    「怖い?」
    不意に久々知が足を止めた。
     一足分の間合いが生まれる。
    「なにが?」鉢屋は振り返らない。
    「三郎にはきっと見えるよ」
    「なにが?」
    「俺が初めて見たのは一昨年」
    久々知が一歩足を進める。鉢屋もつられるように歩く。互いの顔が見えない間合いを保ったまま、二人はゆっくりと足を進めた。
    「その日も夕暮れで、丁度、今くらいの時間だった。街からの帰り道というのも同じ。違うのは一人だったってことだね。その時四辻の草叢の奥に山茶花が見えたんだ。夕陽が花びらに反射していて、すごく綺麗だった。だから暫く見入っていた」
    「それが見えたもの?」
     久々知は鉢屋の背を真っ直ぐ見据えたまま首を振った。「その時に、見えた」
    「何を見たんだ」
    「人」
    「人?」歩きながら、鉢屋は視線を僅かに後方へ向ける。背後から射し込む夕日が顔に影を落とし、表情は見えない。
    「首を吊った、人」
    「…………」息をのむ。人が死んでいたことではなく、予想もしていない言葉に対する衝撃が神経を伝う。「あの木は、そんなに背が高くないだろう」
    「三郎は知らない? 首吊りで必要なのは呼吸と血流を止めること。高さがなくても問題はないよ」
    「それを見て、兵助はどうしたんだ」
    「どうしようもない。一目で亡くなっていることが分かる様態だったし、何より俺はその人間を知らなかった。街か、近くの農村の人だったんだろうけど、心当たりもない。そのままにして学園へ帰った」
    「冷静だな」
    「三年の秋に合戦場での実習があっただろう。多分それで心構えみたいなものがついていたんだろうね」他人事のような口調のまま、久々知は言葉を続けた。「まあその時はそれっきり。気付いたら花も枯れて冬になって、あの人がどうなったかなんて忘れていた」
    「どこかで思い出した?」
    「思い出したのは次の年、つまり、去年の秋。同じ季節の頃」
    「まさか、また首を吊った人間を見たと言うんじゃないだろうな」
    「惜しい」
    「惜しい?」
    「俺が見たのは、一昨年に首を吊っていた人だよ」
    「…………?」鉢屋が眉根を寄せる。理解できないと伝えるための仕草だ。
    「幽霊、もしくは亡霊っていうのかな。或いは俺の幻覚。どちらにせよ生きたものではないだろうね。山茶花の木の下で、首に縄を巻いたまま立っているんだ」
    「どうしてそれが、お前の見た男だと分かった?」
    「額に傷のある男だったから、間違えようもない」
    「つまり、兵助が見た者は幽霊?」
    「さあ? さっきも言った通り俺にはあれが何なのか、分からないから。ただ、首に縄を巻いている人たちの姿が見えるだけ」
    「人たち?」鉢屋が足を止める。薄暗い林の先に、俄かに燃える陽射しが見えた。
    「そうだよ」
     久々知が鉢屋の隣に並ぶ。赤く映る林の終わりへ顔を向けながら、ゆっくりと歩を進める。鉢屋は影のように、同じ足を踏み出した。陽は最期の力を発散させるつもりか、痛々しいほどに鮮烈な赤光を放つ。炎の中を想像させるほど赤く染まった宙。乾いた風は、しかし、冷気を纏い肌を冷やす。
    「ほら」
     久々知が腕を伸ばした。
    指の先には藪が茂り、その奥に背の低い樹木。
    「見えた?」
     風が一つ。
     枝葉が揺れ、
     蜃気楼のように影が揺らぐ。
     人の顔。
     首には縄が。
    「……幻覚?」呟く。
    「もしそうなら、今、三郎と俺は同じ幻覚を共有していることになるね」
    「見えているものは同じか?」
    「俺には首に縄を巻いた人の顔がいくつも見えているよ」
     鉢屋は静かに息を吐いた。藪の向こうにいる者に気付かれないよう、そっと。震えの混ざった呼吸を聞き取ったのか、久々知が音もなく微笑みを浮かべた。
    「花が咲かない時期は、彼らは出てこない」
    「四辻の山茶花に魅入られたら首を取られる、か」
    「今年は花が散るまで、彼らはいるだろうね」
    「どうしてわかる」
    「毎年、花が咲くと彼らが現れて、いつの間にか、消えている。次の年になって花が咲くとまた彼らが現れる。見知らぬ顔を一つ増やして」
    「呪いみたいだな」
    「呪いなのかも」
    「兵助はこれを私に見せてどうしたかった?」
    「どうもしない。ただ、一緒に見てほしかっただけだよ」
    「見たものが首を吊るとか、そういう怪談のようなことじゃないだろうな」
    「俺はもうずっと彼らを見ているけど、生きているよ」
    「偶然、お前より先に首を吊った人間がいる、もしくは、」鉢屋は久々知の双眸を覗き込んだ。「生きていないのかも」
    「三郎の幻?」
    「或いは兵助の幽霊」
     久々知は瞬きを二度繰り返し、それから吹き出して笑った。「残念ながら。まだ生きているよ」
     鉢屋は笑わなかった。
    「噂を流したのは、兵助?」
    「いいや。出どころは俺にも分からない。だけど噂を聞いて、彼らを見た人間が俺以外にもいるのだと知ったけれど……」
    「噂が消えないようにしむけているのは?」
     久々知は唇を僅かに歪め、両の掌を広げた。
    「そっちは俺。噂のおかげで無闇にここへ訪れる人が増えた。上級生ならまだしも、下級生がうっかり死体を目にしては可哀相だろうと思って」
     鉢屋は久々知の目を見つめたまま、ゆっくりと彼の正面に立った。草むらを背にし、山茶花の木を遮る。
    「誰の死体を?」
     風が枝葉を揺らす音が響く。
    「……勘違いしないでほしいのだけど、」久々知は平淡な口調で言い置いた。「別に何か心を病んでいるとか、今の暮らしに絶望しているとか、反対に今の自分以上に満ちたりた毎日を想像できないからとか、そういうことはない。俺は一流の忍者を志しているし、そのために頑張る毎日は楽しい。自惚れでなく未だ成長の余地が多くあるし、伸びていけると思う」
    「それなら、何故、」
    「未来であれ過去であれ、俺は俺の外を知ることができない。俺は俺以外の何物にもなれない。それは行き詰まりじゃないか? 身体があるというだけ理由で、生きているというだけの理由で。たった、それだけのことで。俺は俺以上の何にもなれないなんて、」表情を変えることなく久々知は鉢屋の顔を見据えている。声音は変わらず冷静なまま。「つまらないだろう」
     鉢屋は頷くことはなく、静かに首を振った。否定ではない、ただ場を繋ぐための仕草だった。
     草の揺れる音が二人の隙を埋めていく。
     沈黙。
     視線は重なったまま、逸らすことはない。
    「自己を越えることはできない」数秒かけて、鉢屋は唇を動かした。「山茶花の木下で自分の先を見つけられる保証も同じこと」
    「そうだね」
    「どうせいつかは死ぬんだ。今じゃなくても。私たちは安全な道を進んでいるわけじゃない」
    「それでも知りたいと思うことを止めては、次に進めない」
     唇が微笑を形作る。自分も笑っているのだろうか、と思考の隅で声がした。
     自分の顔を直接見ることはできない。
     生きている限り。
     それを許容できるかどうか。
     そのことを忘れていられるかどうか。
    「どうして、死ぬのを止めた?」鉢屋が問う。
    「首に縄を巻いた時、三郎の指の方が冷たいだろうなと思ったから」
     生きるとは、そういうことか。
    417_Utou Link Message Mute
    2022/11/07 22:12:40

    立冬

    #鉢くく
    奇妙な噂を聞いた鉢屋と久々知の話です。

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