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    立春「賭けをしよう」
     彼が提案した。柔らかな声には相手がそれに乗ることを見越した、ある種の断定的な響きがあった。或いは、そういう発声をすることで、同意しなければならないと思わせたのか。
     彼らは暮れかかった朱を臨む坂道の頂上に立っていた。周囲には誰もいない。学園へ至るための道は、すなわち、山の奥へ続く道である。月明かりのある晩であったとしても、夜に沈んだ森を歩くことには危険がつきまとう。獣は人を人と定めず、夜闇に織り込まれた木々は一つの夜となって道を失わせる。土地に慣れた者であっても、夕刻に立ち入ることは稀だろう。もしくはひどく急ぎ足で進むことになるに違いなかった。迫り来る赤光に急かされるように。
     しかし、刻一刻と鋭角を刻む陽を背に受けながらも、彼らは緩慢とした足取りで進んだ。時を惜しむ気配はない。ただ、穏やかな波に似た滑らかな繰り返しが続く。
    「賭け?」鉢屋は足元を意識することなく、相手の顔を見た。二人は平行に並んでいる。相手の表情を見るには首を傾ける必要性があった。「私と兵助で?」
    「前に言われただろう。三郎と俺とでは賭けにならない、と」
     記憶を遡れば、同じ意味の言葉を三度、別の人物から言われていたらしいと分かる。久々知が示しているのはどれだろうか、と考え、鉢屋はすぐに思考を切り替えた。記憶の中で同じ場所に彼が立っているのは、三つの内でただ一つだけだった。
    「だから、賭けをしよう」久々知が薄く微笑んだ。
    「どんな賭けだ?」鉢屋は尋ねた。「学園に着いた時、一番初めに誰と出会すか?」
    「それじゃあ賭けにならないよ」
    「兵助は誰だと思う?」
    「小松田さん……にお菓子のことを知られたくない学園長先生かな」
    「学園長先生、今日のお菓子には随分前からご執心なんだ」
     鉢屋の言葉に、久々知は控えめに顎を突き出した。己の正しさを示す仕草だ。薄く伸びた影の輪郭が微かに形を変える。尤も、先を歩く影は斜陽のために間延びし、実像とは似つかない。その偽物の顔を視線だけで一瞥し、再び横に並ぶ額の曲面を見据えた。
    「それで、どんな賭けをする」
    「明日」久々知が一度口を閉じ、二秒の間を取った。「授業はないけれど、三郎、予定は?」
    「身を持て余す予定なら」
    「よかった」微笑みを浮かべ、その後で久々知は一つ頷いた。
    「明日までの秘密か?」
    「明日の朝、風がどちらから吹いていると思う?」
    「それが賭けの内容?」
    「一つ目のね」
    「一つ目」鉢屋が繰り返し、瞬きを一つ落とす。
    「一回だけじゃあ、つまらないだろう?」零された震えを掬い上げるように、再び久々知薄く唇を引いた。「証明にもならない」
    「なるほど」鉢屋が目の前にある表情を真似て言った。
     先まで大気を染め上げていた、淡く茫洋と広がる朱は音もなく霧散していた。東の空から流れ込む薄藍が二人の表情を却って判然と浮かび上がらせる。影は力を失くし、足元に留まった僅かな残滓が一つずつ。その足で、坂の終わりを踏み越えた。
    「北」鉢屋が言う。
    「東」同時に、久々知が言った。
     薄闇の中に茫と滲む表情を見据える。一瞬の沈黙。
    「明日の朝、井戸で」
    「答え合わせだな」鉢屋が微笑む。
     二人は同時に頷く。久々知は唇を直線に結んだままだった。

     夜闇の濃密な気配は山際から生まれる輝きによって呆気なく押し流された。一年という巡りの中で、今は夜という時間の粘性が増す季節ではあったが、あくまで観測された時という枠組みの中での比較でしかない。明けない夜はなく、沈まない日もまた然り。ただ重要なのは、その循環に何を見出すか。規則的な自然は人のためになく、だからこそ、個々の思いを巡らせることができる。世界を構築する圧倒的な力を、己の世界に落とし込むことができる。
     薄青い空を仰ぎながら、鉢屋は真っ直ぐに佇んでいた。井戸の周りに人の影はなく、山の中から反響する鳥の囀りだけが断続的に鼓膜を震わせる。隣り合った静謐に合わせ、ゆっくりと呼吸を繰り返す。息を吐いた反動か、瞼が自ずと網膜を覆う。柔らかな絹の輝きは皮膚、そしてその下に眠る肉をも透き通り、黒目を真新しい光で洗う。
     呼吸を一つ。
     空気は冷たく。
     頬に吹き付ける。
     風。
     鉢屋は両目の瞼を丁寧に持ち上げた。
    「おはよう」
     よく知った顔が、目の前で微笑む。
    「おはよう、兵助」音もなく現れた彼に驚きも見せず、鉢屋が言った。
    「風を読んだ?」静謐に寄り添うように、久々知が囁いた。
    「読まないようにしていた」
    「目を伏せていたのはそのため?」
    「眩しくて」鉢屋が目を眇める。
     薄水色の空を見やれば、淡い雲が太陽の下に膜を張っている。雲の隙間に跳ね返り、拡散された光線は地上の明度を微かに落とす。世界が淡く彩られ、何もかもが曖昧。その空間の中で、波打つ髪の揺めきだけが黒々と明瞭な光を反射する。
     陽光をより遠くへ運ぶかのように。
    「俺の勝ちだね」久々知が穏やかな口調で言った。頬骨をくすぐる黒髪を払う。
    「どうして分かった?」
    「最近、土井先生の手伝いで実験の記録をつけていたから」
    「なるほど」
    「怒るかと思った」
    「だから一つ目、なんだろう?」
    「うん、だから、次は三郎が決めて」
    「そう言うと思って決めていたけれど」鉢屋が首を横に振る。「兵助に任せるよ」
     久々知が大きな目を二度瞬かせた。乱れた髪を指で整えながら、その影で小さく息を吐く。「お見通しだってことか」
    「反対の立場なら、兵助だって気が付くだろう」
    「何に?」
     鉢屋は肩を竦め、久々知の方へ一足分、身を近づけた。指を止め、久々知の双眸が距離の縮まった相手の顔を真っ直ぐに見返す。静止。沈黙。鳥の羽ばたきが反響し、空気を震わせる。
     目に見えない波をうち崩したのは、久々知だった。
    「外出届の用意は?」
     言葉を返すより早く、鉢屋は久々知の隣に足を並べた。示し合わせることもない。歩き出した背を包むように、東風が柔らかく吹き付けた。
     正門まで、彼らは誰一人ともすれ違うことはなかった。休日の朝であるせいだろう。遅くまで眠ろうとする者には早く、夜明け前から鍛錬を行う者にとっては遅すぎる時刻と言える。当然、正門にも人の影はない。外出届を受け付ける事務員の姿が見えず、鉢屋は徐に「出門表にサインしてくださぁい」と喉を震わせた。日頃学園に響き渡る声と、ほとんど同一。久々知は彼の技術に感心を浮かべながら、一方で、鉢屋の肩を軽く小突いた。学園への入出に関しては恐ろしいまでの鋭敏さを発揮する事務員であれば十を数える前に現れるだろう。徒に驚かせる必要はない、という意味だった。案の定、事務員は目を丸くしながら現れ、鉢屋の姿を見つけると大仰に肩を落とした。二人は事務員へ軽く謝罪し、外出届を手渡す。彼らは並び立ったまま、門の外へ出た。
     正門の外は俄かに賑やかな気配を奏でていた。学園という、或いは人間の住処という囲いから外れたためだろう。人間の騒めきのように枝葉が擦れ合う響きが雑然となり響く。久々知は行き先を決めているのか、迷うことなく裏山へ続く道を進み始めた。
    「どこへ?」別れ道を左手に進んだ時、鉢屋は尋ねた。山に入って最初の別れ道だ。右に進めば街に至る道へと出る。
    「そう遠くないよ」久々知は答えながら、微かに足の速度を緩めた。頭上を見上げ、目で何かを追うように進む。「もうすぐ……」声を潜め、同時に足音が消えた。歩き方を変えたのだ。鉢屋もそれに倣い、足の裏へと意識の一端を回す。整えられた道を外れ、藪の影に沿って数歩進んだところで久々知は足を止めた。
    「あ、ほら、」宙へ指を向けた。囁き声で続けながら振り返る。「見える?」
     鉢屋も首の角度を変え、宙へと視線を上げた。木々の網目に詰め込まれた光に、目を細める。「何が?」鉢屋もまた、囁き声で聞き返した。
    「あそこ、」
     宙へ伸ばされた指が導くように、黒目から視線を誘う。
    「あ、」
    「見えた?」
    「鳥……大きくはないな……」
     樹上高く、人の手ではおよそ届かない位置。絵画のように静止した鳥が一羽、羽を休めている。
    「鶯」
    「よく見えるな」
    「三郎の方からだと、枝が一本、影になるから」
    「あれが、二つ目?」鉢屋は視隣に並ぶ横顔を見据えた。
     平行に並んでいた視線がぶつかり合う。
    「あの鶯が、鳴くか」久々知は尋ねた。「百を数える間に」
    「鳥を探していたってことは、ここが気に入りの鳥か」
    「前に八左ヱ門が教えてくれたんだ」
    「つまり、兵助は私よりも答えに近い」
    「だから三郎が先に決めて。俺はそれと反対に賭ける」
    「それでは、意味が、」
    「三郎の決める先を予測することは可能だから」久々知が当然のように言った。「俺は三郎を誘導できる、三郎は選択権がある。ほら、平等だ」
    「なるほど。ここまで誘われたのにも意味がある、と」
    「どうする?」
     鉢屋は遥か頭上の鳥を仰ぎ見た。彼の選択を待っているのか、沈黙したまま。機敏に左右へ頭を振っている。木々の周りにはかの鳥の他に生き物の姿はなく、梢のさざめきだけが漫然と繰り替えされる。単調な空間に鳥の声はよく映えるだろう、と鉢屋は鶯の鳴き声を頭の内で思い出す。
    「鳴く」
    「何故」
    「私が、聞きたいから」
    「鳴いてほしいからってこと?」
     鉢屋が頷いた。久々知もつられるように頷き、それから己の手首を晒した。指を当て、鉢屋の顔を見やる。鉢屋は瞬きの間に逡巡し、そっと、彼の手首へ指の腹を触れさせた。
     一つ、二つ。三つ。低く震わせた声が、丁寧に脈を数え上げていく。
     二十。三十。四十。乱れることなく等間隔に続く拍動。
     七十。八十。九十。指の上に続く小さな振動が静寂のように全身を包む。震えは神経を伝い、骨へ届く。反響。耳には聞こえず、しかし鼓膜を震わせる声音と混ざり合い、二つの音が内腑の底へ落ちていく。
    「九十一、九十二、九十三……」
     ホゥ。
     空気の抜けるような響きが頭上に流れた。
    「九十……あ、」久々知は言葉を止め、首を傾ける。
     ホゥ。
     ホ、ホ、ホホゥーー……キョッ。
    「鳴い……た?」鉢屋が視線を彷徨わせる。視界の隅で、隣に立った男の横顔が微かに笑んでいる気配を捉えた。
    「可愛いだろう?」
    「…………独特だな」
    「練習中なんだって」伝聞の形で久々知が言った。「この前八左ヱ門がここで鳴き方を教えてたんだ」
    「だからこの時間に鳴くことを知っていたのか」
    「ううん」久々知が否定した。「鳥がいつ鳴くのかなんて俺には分からないよ」
    「……つまり、本当に、ただの偶然?」
    「三郎は幸運だな」
     未だ奇妙な囀りを続ける鳥から目を逸らし、鉢屋が深く息を吐いた。騙されたことへの抵抗ではなく、ほとんど安堵に近い嘆息。目の前で微笑む相手の意図を知ったためだと分析する。
    「ちなみにどうして鳴くと分かったの?」
    「虫もいないのにずっと頭を振っていた。落ち着きがなかったし、嘴がずっと震えていた」
    「目がいいなぁ」
    「百を数え切る前に鳴き出すかまでは、」鉢屋が両手を広げ、顔の前に晒した。手の内を明かしていると伝えるための動き。「それこそ、賭けだった」
    「時の運も忍びに必要な力だよ」
    「運も好機も分析できる要素だと考えるけれど」
    「分析したところで、人間は矛盾する」
    「だから、その結果を運と呼ぶわけだ」鉢屋が口の端を片方だけ押し上げた。「それに、いつだって完璧な計算ができるわけじゃない」
    「つまり、幸運?」久々知が微笑んだ。
     周囲の状況を余さず見ていられる余裕。十分に冷静な思考。それらが揃っていることそのものを指しているのだろう。人は常に万全な力を発揮できるわけではなく、むしろ、常に何割かの出力は余分な方向へ割かれている。鉢屋は同意を示すつもりで首を縦に振ると、悪戯じみた笑みを収め、控えめに微笑みを浮かべた。
    「次はどうする」
    「こっち」久々知が森の奥へと続く道を指で示した。「次で最後にしよう」
    「一勝一敗だから?」
    「次で決着するから」
     久々知がつま先の角度を変えた。まだ歩き出さない。鉢屋が並ぶのを待っている。鉢屋は表情を変えず、彼の隣に並び立った。
     歩きながら、振動に揺れる黒髪の流れを茫と追った。見慣れない角度。こうして真横を歩くのは珍しいことだと、思い出す。記憶に再生される久々知の顔は、半歩ほど後ろに下がった位置から切り取られていた。それが二人にとっての自然。今の状況は作為的と言えるだろう。誰の作為か。鉢屋は瞼を半分ほど落とした。
    「兵助、」
    「どうしたの」久々知は正面を向いたまま答えた。高く打たれた鼻先へ光が反射している。
    「……いいや」鉢屋は唇を開けたまま、ほとんど動かさずに言った。
    「もうすぐそこなんだ」
    「この辺り、私も来たことがある」
    「人気の場所だね」久々知が言った。「夏にはうってつけだ」
    「手頃だからなぁ。近くて、水場があって、足場も悪くない」
    「危険な生き物も少ない」
    「大きく命に関わらないことだけが危険ではないだろう」
    「危険と言う言葉の意味は、命に与える影響の程度」
    「なるほど」鉢屋が首を一周回した。
     偶然に、開けた空間の全容が視界へ収められた。鉢屋は瞬きを繰り返し、入力された情報を整える。己が立っている場所を認識するまでの、脈が二つ過ぎ行く間に、目的地に着いたことを理解した。
     再び、今度は意識的に辺りを見渡した。森を作り出した木々が数を減らし、俄かな空間が広がっている。人為を感じさせる、円形に整えられた境界に対して土の質は変わらない。芝の代わりに背の低い雑草が茂る。
     空間の中央には泉があった。子どもが十人ほど飛び込んでも十分な面積。尤も泉の中央は深く、大人であっても近付かない方が懸命なほど暗澹と水底を隠していることを、彼らは知っていた。
     夏になれば日射しを照り返し銀色に輝きを振りまく水面は薄灰色に沈み、硬く閉ざされている。氷が張っているのだろう。一冬の風を耐えた表面には微細な傷が無数に散りばめられ、その上を茫洋とした明るさが鈍く照らしていた。
    「ここで何を?」鉢屋が儀礼的な口調で尋ねた。何をするのか、おおよそ検討は付いている。しかし、尋ねることで生まれる調和を守ろうという優しさだった。
    「ここから魚が出てくるかどうか」物語の一節を読み上げるように、久々知は答えた。
    「魚?」
    「割れた氷の隙間から、氷を突き破って」
    「またずいぶん、奇妙な賭けだな」素直さを隠さず、鉢屋が呟いた。
    「賭けることに意味があるんじゃなくて、成立させることに意味がある。少なくとも、俺たちにおいては」
     久々知が言い切る。淀みのない口調。予め考えていた答えの一つだ。彼の言葉を聞き終えると、鉢屋は面と素肌の境を確かめるように指で顎先へ触れた。
    「……私は出てくる方に賭けよう」
    「理由は?」
    「氷の薄い、中央の方に割れ目がある。飛び出してくることもあるだろうさ」
    「それなら、俺は出てこない方に」久々知が目を細めた。
    「ところで、」視線だけで隣を見やりながら、鉢屋は続けた。「これは勝ったら何かあるのか? それとも、私には何もない?」
     風が吹き抜ける。
     返される言葉はなく。大きな双眸は氷の下にある影を探っているのか、真っ直ぐに泉を見据えている。
     沈黙。
     聞き覚えのある鶯の鳴き声。
    「あの氷の下……」不意に、久々知が言葉を発した。「夏になると魚がたくさん泳いでいるだろう?」
    「前に釣りをしたことがあったな」当時、彼は一緒だっただろうか。記憶を振り返らず、鉢屋は考えた。
     一瞬。葉が地面に触れる時間よりも僅かな思考の隙を突き、久々知が鉢屋の隣から離れた。氷の貼った泉に近付き、屈み込む。そのまま前傾を保ち、埃と砂の膜を施された表面に指を伸ばす。
     皮膚を触れさせ。
     氷の上に線を一つ描く。
    「三郎は、なぜ、俺の提案に乗ってくれたの?」
     氷の温度を確かめるように。
     指先で水面を辿る。
    「確かめたかったから」鉢屋は抑揚をおさえた口調で言った。
    「何を、」
    「兵助が何をしたいのか」
    「どうして?」
    「知りたいから」
    「どうして?」久々知が言葉を反復させる。「それを知って、三郎はどうしたい?」
    「何もしない」鉢屋はすぐに答えた。「知っても、知らなくても。ただその他に動機と言えるものがないだけだ」
     久々知は指を止め、東の空を見た。真青と呼ぶには淡い空が薄雲を泳がせている。日は丁度天頂に差し掛かり、彼らの足元に丸い影を作り出す。横顔に吹き付けた黒髪は輪郭に張り付き、影には映らない。
    「俺の考えていることが分からない?」風の隙間に紛れ込む声。
    「人の考えを分かると思うほど、私は鈍感ではないよ」
    「だけど人の考えを推測できないほど鈍くもない」
    「……兵助の考え方を推し測らずとも、得た情報が同じならば私たちは其々に同じ結論を出せる。私たちの賭けが上手くいかないのはそのせいだ。二者択一で、かつ、反対側に賭けようという気がない限り、同じ側に賭け続けることになるのだからな」
    「つまり、真実は唯一?」
    「真実は都合の良い影だ。光の当たる方角で変化する。その一瞬限りの存在」
    「真実を望む時、すなわち、光を当てた時にだけ存在するもの」
    「そういうことだな。裏返せば同じだけの光、同じ角度から生まれる影は相似となる」
    「だけど同じだけの情報量と指向を得た人間が、本当に存在するだろうか」
    「想像力」鉢屋がこめかみを軽く叩いた。
    「違うなら、他人の頭へ飛躍すれば良いだけのこと」
     推測ではなく、飛躍。自分の頭で考えるのではなく、他人の思考へ飛ぶという行為。その違いは大きい。
    「三郎は上手く飛べなかった」久々知が無表情に言う。「あの鶯と同じ……春は、まだ少し遠かったみたい」
    「兵助も」鉢屋は微笑んだ。
     久々知が小さく口の端を震わせた。「気付いていた?」
    「何かがあるとは。私たちの賭けがどうのという話は、もう何年も前にされたことだから。今更になって持ち出すのは違和感がある。だけど、それ以上は考えなかった」
    「残念。三郎なら気付くと思った」久々知が立ち上がる。「実のところ、賭けの相手は三郎じゃないんだ」
    「誰と?」
    「雷蔵と。春を探していると、三郎が気付くかどうかで」掌を広げ、彼は言った。左手の人差し指だけが薄く汚れている。「俺は三郎が気付く方に賭けた」
    「何故」
    「だって三郎、春が好きだろう?」
    「私が?」鉢屋が唇を開いたまま二秒静止した。息を吸い直し、再び舌を動かす。「そう言ったことがあったか……?」
    「いいや、ないけれど」久々知は小首を傾げた。「そういえば雷蔵が、三郎はきっと春だけじゃなくて夏でも秋でも、冬だって好きだろうって……」
    「確かに四季は嫌いではない……特別な好きな訳じゃない」その点で不破の言葉は的を射た指摘と言える。顔を借りている相手の、己では決して浮かべない柔らかな表情を思い浮かべ、嘆息を一つ。思慮深い、言い換えれば善意にさえ迷いが生じる彼からの助言だろう。「私にとって、四季の価値は別にある。雷蔵はそれを知っていた」
    「俺から見た三郎は四季を好んでいるように見えるけれど……見えているものが違うから、分からない……」
     一際大きな風が吹き付け、言葉を攫う。
    「知りたい?」
    「知りたい」
    「それなら、」鉢屋は風に目を細めた。面と瞼の間、素顔では決してあり得ない領域に、僅かな隙が生じる。
    「飛んで来て」
    「ずるい」久々知が唇を尖らせた。「三郎だって、飛ばない癖に」
    「私は兵助を知りたいだけで、兵助になりたいわけじゃない」
    「……いいのか、変装名人がそんなことを言って」
    「雷蔵が私のことを予測できたのは、単に彼が、私でも兵助でもないからだよ。客観と主観では見えるものがまるで違う。兵助では、兵助の目に映る私しか認識できない」
    「自分の心はよくわからない、という意味?」
    「兵助の目から見える私は、兵助の内にだけ存在すればいい、という意味」
    「……俺たちは時々、とても似ているのかも」
     広げた指を柔く握り込む。寸鉄を握る時とは異なる、ただ丸められただけの指。その指に引き寄せられるように、鉢屋が一歩足を踏み出した。
     同時に、調和を破る、細かな音が響いた。
     足音とは根底から異なる響き。
     氷の砕ける音。
     二人は泉をへ顔を向けた。
     薄氷が大気に舞い、続けて水滴が飛散する。
     水面からは僅かな距離。二股に別れた鈍色は陽光の反射だけを名残と残し、瞬きの間に姿を消した。
    「魚……?」疑問符が語尾に浮かぶ。呟いたのがどちらであったのか、彼らには分からなかった。揃って口を開いたまま、顔を見合わせて動きを止める。
    「やっぱり」先に時を取り戻した久々知が、深く息を吸う。「三郎は運がいいみたい」悪戯な笑みを作り、鉢屋へと向ける。
    「私の勝ち?」
    「団子でも奢る?」
    「勘右衛門と一緒にするな……団子はいらないが、そうだな、せっかくだ。一つ頼みがある」
    「あんまり大きな要求は困る」
     わざとらしく眉を顰めた久々知の表情に、鉢屋は肩を震わせた。振動のためか、風で乱れた毛先が背中へと落ちていく。
    「町に続く道から少し逸れたところに小さな丘があるんだ。立派な梅の木が立ち並んでいる……今はまだ蕾だけれど、暫くすれば綻ぶ頃合いになる」
     久々知は口を閉ざした。黙ったまま鉢屋の言葉を待つ。
    「春になったら、花見に付き合ってくれ」
    「それだけ?」
    「私は春が好きなのだろう?」唇を薄く吊り上げ、三日月を象る。
    「……三郎が、それでいいなら」
     もちろん、と言いながら鉢屋は頷いた。斜めに半歩ほど下がった位置で、久々知の顔を真っ直ぐに見据える。
    「兵助、」
    「なに?」
    「今はまだ早春でも、すぐに春は来る」
     久々知は言葉を探すように二、三度唇を動かし、やがて口を閉ざすと静かに頬を緩める。
     氷の割れる軽やかな響きは、まだそこにあった。
    417_Utou Link Message Mute
    2022/09/10 23:53:51

    立春

    #鉢くく
    別サイトからの移転です。
    初出:2022-02-05

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