冬の終わりを 氷と雲の名に相応しい寒さが満ちた廊下を、彼女はゆっくりと歩いた。現実として寒いのではない。時の流れを断絶する窓のない空間。静寂が増幅した空気。それらが呼吸さえも躊躇いを覚えるほどの張り詰めた、冷たい水底を連想させる。即ち、イメージとしての寒さだった。いかなる場所——妖精会館に属する長老たちの前でさえも、臆することなく背筋を伸ばしている彼女の足でさえも重みを感じるほどに。
彼女が氷雲城を訪れるのは初めてではない。執行人である以上、任務のために幾度も訪れたことはあったし、己の手で捕らえた囚人と話をするために牢屋の前に一時間以上座っていたこともあった。だが、それらはいずれも事務所や極浅い階層でしかない。言わば入り口、表層だ。
氷雲城が氷雲城たる所以であることを真に示す場所、即ち数百年に及ぶ拘束を言い渡された重罪人たちを数百年の間その場に封じ込め続ける深層部には、彼女でさえも立ち入ったことがなかった。尤も、重罪人とされる妖精たちは大抵外部との接触が禁じられており、余程のことがなければ立ち入ることが許されていないという意味でもある。彼女がそこに足を踏み入れたことがないのは当然のことだった。積極的に行きたいと思うことはおろか、存在が意識に上がることさえ稀な忘れられた場所。或いは会館の妖精である以上無意識に思考するのを恐れる場所。それが氷雲城の本来の性質であることを、彼女は最深部へ通じる唯一の門を潜った時に思い出した。
その程度で、しかし、足を止めるほど未熟ではない。
師を前にした時の緊張とはまた異なる、絶対的な威圧を跳ね除けるように背筋を真っ直ぐ伸ばす。前だけを見据え、彼女は一足ずつ歩を進めた。
表層部の羅列された檻とは異なり、深層部の檻はそれぞれの廊下に一つずつしかないらしい。収監された者同士が万が一にも結託することを防ぐためか。或いは心霊系の妖精による監視を行いやすくするためか。牢獄と聞いて想像される空間とはかけ離れた通路を歩き続ける。
石造りの壁には装飾は愚か継ぎ目の一つもなく、歩き続ければ眩暈に倒れそうなほどに閉塞されている。どこから歩いてきたのか。どこまで歩いて行くのか。一瞬のうちに忘れ、そして、思い出す。その繰り返し。何らかの呪が機能しているのかもしれない、と彼女は考えた。
立ち入りを許されたとはいえ、この場所の防御機構について彼女は一つも知らされていなかった。ただ、許可されたに過ぎない。尤も、その許可一つを得るために彼女は三日ほど氷雲城に通い、数十枚の書類にサインをさせられている。窓口で彼女を担当した妖精は、承諾の印が押された紙を差し出しながら、最後の最後で彼女に「どうしてここまでして、あの妖精に会おうとするんですか」と尋ねた。
彼女は答えなかった。
廊下の先に仄かな灯りが見えた。廊下全体を均質に照らす光が何かに反射し、月光に似た青白い光となって茫と光っている。その光に照らされた檻の、四角く切り取られた影が廊下へ伸び、永遠に続く空間の終点を告げていた。どれほど歩いてきたのかを考えようとし、しかし、彼女はすぐに思考を止めた。冷静と平静を取り戻した感覚が空間に僅かな歪みを見出す。螺子のように少しずつ位相がずれていく構造らしい。今がどの地点であるのかは不明瞭であり、体感による距離と時間は当てにならない。重要なのは、少なくとも、目的の場所には着いたということ。それだけだった。
歩調を変えずに、彼女はゆっくりと檻の前に立った。当然、椅子など用意されていない。真っ直ぐに上げた視線を、瞬きもせず、部屋の一番奥へ向けて僅かに下げる。
かつて、夜景の中で掠め見た時よりも小さくなった角が目に入る。
薄水色に澄んだ氷の角。
牢の光を透かし。
部屋の中を青白く照らしている。
角の影に隠れた双眸は閉ざされたまま。唇もまた然り。
肩も背も微動だにせず。
折り畳まれた足と膝の上で組まれた手は動く意思を感じさせることなく静止している。
長く伸びた髪は床に頽れ、踏み躙られた草を連想させた。
彼女が檻の前に立っていることに気付いているのか。いないのかさえ感じさせないほど希釈された気配。目の前にあるものが妖精ではなく巨大な氷の塊だとしても、違いはないだろう。
真正面からは初めて見る姿。彼女は歩調と同じくゆっくりとその姿を眺め、それから漸く口を開いた。
「こんにちは」彼女は言う。「虚淮」
檻の向こうから反応がないことを確かめ、彼女は僅かに眉を顰めた。目の前にいる妖精について彼女が知っていることは多くない。まして、殆どが妖精会館の文書録に記録された情報である以上、この妖精が今わざと彼女を無視しているのか、或いは気分によるものなのかを判別することは出来なかった。
出来ないからこそ、彼女はここに来た。
「聞こえてるのは分かってる」瞼は開かず、微かな身動ぎさえしない。それを確認し、彼女は溜息を隠さずに続けた。「一応言っておくと、これは妖精会館の聴取じゃない。むしろ、私が何のために来たのか知りたくて仕方のない奴らがこぞって聞き耳を立ててる……と、思う。知らないけど」
牢の向こうの妖精に動きはない。霊力の気配でさえも揺らがない、完全な静止。彼女を牢の入り口まで案内して妖精は遠慮がちに「虚淮はここに来てからごく限られた方にしか口を利かないままです」と言ったが、口を利かないというよりは、生命活動を放棄しているという方が正しいだろう。
「虚淮」彼女は再び彼の名を呼んだ。「今でもお前たちがやったことを正しいと思っている?」
言葉を続けようと息を吸い、そして、呼吸を止めた。
瞼。その薄い氷から伸びた結晶が、一瞬、彼女の存在を知覚するように揺れる。
「誰?」唇から零れ落ちたのか、思念による言葉かも判然としない、希薄な声が言う。
「私を知らない?」
「生憎と」痛いほどの静寂の中でさえ、耳を澄まさなければ聞こえない程の声で虚淮が答える。
「……鹿野」彼女は名乗った。妖精会館の中では、良くも悪くも、名のある妖精の部類であるし、何より彼女の持つ背景からして知られているだろうと思っていた。その僅かな驚きは顔に出さず、言葉を続ける。「師父……无限の、最後の弟子」
師の名前を出したのは、些細な反抗だったのかもしれない。言い終えてから彼女は自分をそう分析し、心の内で舌打ちを落とした。尤も、この面会を監視している心霊系の妖精たちには筒抜けだろう。
「へぇ」虚淮は一言だけを、一言しか喋らないという誓約でも課しているかのように、再び返した。
「少しは驚くかと思ったけど」
「なぜ?」
「なぜって……」鹿野は自ずと背中で腕を組み、真っ直ぐに目の前の妖精を見つめ直した。「私の師と、アンタたちとには、少なからず因縁がある」
「因縁?」疑問符を返し、虚淮は微かに嘆息を落とした。拒絶ではない。理解できないことを伝えるための、最小の仕草だった。
鹿野は反射的に虚淮を睨み、それから呼吸を整えるために深く息を吐いた。同じだけの空気が身体の内を巡る。冷えた、重い空気が頭を冷やす感覚。きっと、錯覚だろう。
「まあいい、本題に入ろう。先日起きた蒼南会館での一件は知ってる?」
虚淮は目を伏せたまま、言葉を返さない。彼女と話をするのはもう終わりだと言うように。再び静止する。この妖精が口を利くという相手は誰なのだろうと、彼女は不意に考えた。
「アソコでこの前、ちょっとした事件があった。詳しくは言わないけど、師父が巻き込まれて、私たちも巻き込まれた」鹿野はそこで言葉を切った。タイミングを測り、口を開くための、一瞬。斬り合いと同じ。全ては何に対応し、何に反応させるか。それが戦いの主導権を握るという意味において。「私たち、つまり、私と小黒のことだけど」
虚淮は何も言わなかった。目を伏せたまま、ただ、微かに口を開く。何を言うべきか迷うような、初めての反応を見せる虚淮に鹿野は口の端を持ち上げた。
「そう」虚淮がゆっくりと言った。「それが、ここに来た理由か」
「なんだ、話せるんだ」
「話さないわけではないよ」虚淮は、しかし変わらず双眸は閉ざしたまま、口を開いた。声量も変わらない。「ただ、ここで聞かれることにはもう答えてしまった。同じことを二度答えてやるほど親切ではないし、それ以上は答えたくもない」
「……お喋りする相手がいるって聞いたけど?」
「そんなことを聞くためにここへ?」虚淮が言う。声音の裏に響いた微かな疑問符には、確かに会話をしようという意思があった。
鹿野は姿勢を崩すことなく、ただ首を横に振った。端的な会話は嫌いではない。むしろ無駄のない方が好きな性質だ。
「確かに。話が逸れた」
「構わない。確かに無駄な話をしに来る奴もいる」虚淮の瞼が微かに開く。張り詰めた薄氷のような澄んだ輝きが、淡い光を反射して輝く。「……小黒は、元気か?」
「それこそ関係ある?」
「小黒に関係があるから、私のところに来た。違う?」
小黒を妖精の社会における確執に巻き込んだ張本人の一人。同時に、まだ何も知らなかった小黒に、初めて仲間と家を与えたのは紛れもなく彼らだ。あの黒猫の成長に大きな光と影を与えた自覚が虚淮にはあった。尤も、それを与えたのは虚淮自身ではなかったとしても。止めなかった時点で同じこと。虚淮は再び目を伏せた。睫毛の影。その残像が木の枝のように瞼の裏に映る。それだけが、虚淮にとっての慰めだった。己に許した唯一の慰め、という意味で。
「蒼南会館の事件絡みで、事件の首謀者と戦った」前置きもせず、鹿野は言った。
「そうか」虚淮が静かに言う。
「それで勝ったんだけど」
「へえ」
「強いよ、あの子。師父に鍛えられてるから」
「そう」
「気にならない?」
「何が?」虚淮は平淡な声音で言った。
「……小黒が師父の、无限の弟子になったこと」
「そういうこともあるだろう」鹿野が何を気にしているのか。何を問いたいのか。本当に分からないと示す、完璧な声音だった。「ああでも、さっきお前は自分を无限の最後の弟子と言っていなかった?」
「小黒は最後の最後の弟子らしい」
「…………?」
「本題に戻す」鹿野は短く言い、すぐに話を切り替えた。元々余談に過ぎない。もしかすれば彼が口を開くかもしれないという、手札、或いは切り札の一つのつもりだったが、存外普通に口を利くのであればその必要もない。「事件の中で、ちょっと、人間を危険に晒したらあの子、真っ直ぐにそれはダメだと言ったんだ。だからその後で小黒に尋ねた。もし妖精と人間、どちらかを選ぶとしたら。どっちの味方をするのかって」
話に脈絡がないことは百も承知だった。それでも灵遥のことも、若木のことも話すわけにはいかない。蒼南会館で事件が起きたことさえ、本当は言うべきではないのだろう。執行人の立場であれば決して口にはしなかったが、しかし彼女は今、執行人の鹿野ではなくただの鹿野として立っている。
虚淮もそれを理解しているのか。或いは興味がないのか。彼女の話について追及はせず、先を促すように瞼を持ち上げ、すぐに閉ざす。
「私は妖精の味方をする」鹿野は言った。
「へえ」虚淮は何も反応を見せず、ただ相槌だけを返す。
「小黒は、正しい方の味方をすると言った」
「……正しい方」虚淮が繰り返した。「正しい方、か」
「戦争に正しいも何もない。ただ、勝った方が正しかったことになるだけだ。私たちは犯人に勝った……だから、結果的に私たちの行動は正しくなったし、師父がいつだって正しいのは、師父が負けないから」鹿野は続ける。「そう信じてきた」
「きた?」
戦争で全てを奪われてから。師を新たな師に選んだ時から。師の下を去った時から。無数の分岐に迷い、選び、いつも最後に、自分が正しかったことを知る。
「だけど、小黒は迷わなかったから」
「それが私にどう関係する」
「面が見てみたくなった」鹿野が小さく笑みを溢した。「あの子に正しさを叩き込んだ奴らの面をね」
虚淮が目を開く。ゆっくりと。
初めて、薄氷の視線に晒される。
全てを俯瞰するかのような。
全てを拒絶するかのような。
絶対的に冷たく、
どこまでも澄んだ、
何もない青。
最後に残されただけの色。
「正しいかどうかなんて」薄青が微かなを浮かべた。見た目にはわからない。極微小な、しかし、確かな笑みを。「考えたこともない。ただ、私はあの子の……あの子たちの幸せを願っているだけ」
彼の言う「あの子」とは、鹿野の言う「あの子」とは違うのだろう。それが誰であるかを問うことなく鹿野は首を傾げた。
「それで、他の妖精はどうでもいいと言うつもり?」
「犠牲に意味はない。正しさにも。どちらも言い訳だ。残されたものが、残された理由を問うための。私たちがやったことは結果的に小黒を殺した。それを是とする気はないよ。同時に、あの子が最後にあげた声を否定させることもまた、誰にもできない」
「だから、何も話さないのか」鹿野が言う。「风息のことを」
瞬間、虚淮が息を呑んだ。それから鹿野を二秒見つめ、顔を伏せた。ツノの影に隠された双眸は、硬く閉ざされているのだろう。
「語るな」虚淮が短く言った。「その口で、あの子の名を」
「……そんなに大切なら、止めればよかったのに」己の師に勝てるはずもない。そう続けようとした言葉を飲む。「まさか、妖精の楽園なんてものを、本当に信じた?」
「あの子の夢を叶えてやりたかった」虚淮は呟くように続けたら。「あの子の夢を守りたかった……健やかに生きられる場に連れて行きたかった……それだけだ」
強奪がはじめに奪ったものが何かなど、誰も気にしない。
強奪が奪い続けたものが何かなど、誰も問いかけない。
だから、もう、
奪わせないと決めた。
夢も、眠りも。
勝手な言葉で、彼から言葉を奪った唇たちに、語らせはしない。
虚淮は静かに地面を、そこに映る己の影を睨む。その唇には当然、自分も含まれている。
間に合わなかったのだから。
側にいられなかったのだから。
「人間も妖精も、もう、私には関係のないこと」虚淮は目を伏せた。「人間と戦争をしたければ勝手にすればいい。それは人間と妖精の戦争ではなく、人間のいくつかの国と妖精会館との戦争だ。尤も、私が巻き込まれるのならば、私は私の守るべきものだけは守るけれど」
戦争。
彼が口にした瞬間、鹿野は反射的に眼前の妖精を睨みつけた。力を失った妖精という認識から、類を見ない大事を引き起こした妖精たち、その主犯の一角という認識に切り替わったせいだろう。執行人として長く会館に反抗する妖精たちを見てきた鹿野にとって、その切り替えは息をするよりも自然に行われるものだった。
「お前、知っていたな」確信。断定。それらの意志を隠さずに鹿野は言い切った。
人間を嫌う风息たちに灵遥、或いは彼に与する者が接触した可能性をなぜ考えなかったのか。鹿野は内心で舌打ちを落とす。龍游の事件が起きるまで、妖精会館にとって风息とは青い夢ばかり見る子どものようなものだった。諭し続ければ、或いは月日が経てば、彼も現実を学ぶだろうと、彼らは勝手に思い込んでいたし、故に実力と若さのアンバランスを危険視こそすれ、风息自体を真に危ぶむ者はいなかった。灵遥という老獪にとっては、しかし、その不均衡さ故に、操りやすい妖精に見えただろう。尤も、本当のところはもっと、ずっと、遥かに強かな妖精ではあったのだけれど。
「何の話だ?」虚淮は微動だにせず、囁きだけで答える。「……ああ、いや。多分勘違いだ。私も耳は悪くないというだけ」
「私も?」
「私の友人には及ばないという意味」
「……?」鹿野が首を傾ける。「待って、本当に何の話?」
「ここに誰かが来るたびに、少しばかりは声が漏れ聞こえてくるだけのこと。この間来たものたちと一緒に、戦争という言葉が聞こえた。今の話と繋げれば、大凡のことは想像がつく。どうせ人間との戦争を狙った事件が起きたんだろう、と」
「……本当に知らない?」この堅牢な檻の中でそんなことが可能なのか。疑いの視線を隠さず、鹿野は尋ねる。「いや、知っていても、同じか」
「何が?」無表情のまま虚淮は言う。「まあ、想像の分は多少知っていることはある。でも勝手に聞こえてくることがあるというだけ。心配せずとも、もう、私は何にも関わる気はない……そんな気にはなれない」
「そう」鹿野は頷いた。関わる気はないと言いながら漏れ聞こえる言葉を覚えているという矛盾を指摘してやるほど、彼に親切にしてやる道理はない。「分かった」
「何が?」虚淮が問う。
「来た意味はなかったということが」
背筋を伸ばし、踵を返す。引き返すための道は真っ直ぐに見えている。
「そう」虚淮も短く頷いた。「何もない」
鹿野が顔だけで振り返る。結局彼は瞼を僅かに開閉しただけで同じ姿勢を崩さなかったことに気付く。
「私にはもう、過去しかないから」
彼は一言だけつぶやき、再び顔を伏せた。もう会話をする気はないのだろう。角だけが変わらず茫とした光を揺らめかせている。その光が、眼前の妖精にとって希望の光になることはないのだろう。
追想。
追憶。
そして、
追悼。
水底のような冷たい空間は術のせいではない。この妖精の悲哀が、嘆きが、ただ渦を巻いているせいだ。眩暈を誘う螺旋は虚淮自身が生み出した、拒絶の意思。
この妖精を捉えた者たちはさぞ困惑しただろう。囚人自らが、むしろ、閉じこもるために牢を利用しているのだから。
鹿野は角の先端に灯る光を一秒だけ見つめ、それから牢に背を向けた。真っ直ぐに、感覚として正しく、歩くことのできる廊下を常と変わらない足取りで進む。伸ばした背を追いかけるものは何もない。彼はもう鹿野を見ていないことを感じ取る。否、初めから見ていなかった。
无限の弟子。小黒の師姐。そのことさえ、彼にとっては端から意味をなさないのだろう。妖精会館にとって守り育む者の中に彼らが含まれなかったように、彼の心の中の席に鹿野たちはいない。ただそれだけのこと。
扉から出て、牢の連なった廊下を歩く。いくつかの顔が鹿野を追った。彼女が捕まえた者だろうか。事務所に顔を出し、転送ゲートの用意を依頼する。ゲートの操作を担当しているらしい妖精は興味本位という態度を崩さずに「どうでしたか」と聞いた。
「さあ?」彼女は軽く肩を竦めた。「記録でも見れば」
会話の内容だけではなく。どうせ、彼女の瑣末な内心も書き残されているのだから。皮肉めいた笑みを浮かべれば、妖精が勢いよく首を振った。
「勝手に見たら怒られるんですよぉ」
「へぇ、つまり、見たことあるんだ」
受付の妖精は彼女の問いには答えず、氷雲城のイメージには不釣り合いに柔らかな笑みを浮かべながら、手際よく門を設定した。
「準備できましたよ」
「それじゃあね」
「お疲れ様でした」
電気が肌を撫でるような感触が全身を覆う。瞬きの間に彼女の身体は会館の転送門に送られていた。遅れて意識が、転送が無事に成功したことを認識する。隣の門に立った妖精が彼女を見つけ、頭を下げる。知った顔ではない。一方的に知られていることは、しかし、彼女にとってはよくあることだった。会釈をした妖精の姿は半端な角度で傾いたまま、彼女の前から消える。どこへ行ったのかとも考えず、彼女は門から出た。
転送門の並ぶ建物から外へ出れば、会館の裾野に広がる街の賑わいが彼女を包んだ。異質なほどの静寂の中にいたせいか。浸透圧のように染み込む喧騒に微かな耳鳴りを覚え、彼女は空を見上げた。雲ひとつ、風のひと筋すらない。青に意識を逃す。
会う価値はなかった。
同じくらいに会う価値があった、と鹿野は思う。
犠牲を覚悟してでも守るべき正義がある。今回の件も、彼女は間違えたとは思っていない。師を救い、戦争を止めるためには、あれが最善だった。例えそのために、彼女が死んだとしても。彼女が守らないものは常に己だけだ。
だから師は師弟を自分に預けたのかもしれない。鹿野が全てを賭けて妖精と師を守ろうとすることくらい、師には分かり切っていたのだろうから。
何かを、自分をも、犠牲にすることは正しくない。
その意志を小さな身体に抱えた妖精に。
そして、それは、師には教えられないものだ。誰よりも強く、だからこそあらゆる者に打ち勝つ。誰よりも気高く、あらゆる状況を救うことができてしまう。最強たる、彼女たちの師には。
故に彼女は虚淮に会いに行った。師弟を殺しかけた、否、一度は殺した妖精はもういない。だから一番近くにいたであろう奴の顔を見てやろうと思った。そこにいたのは、しかし、ただの抜け殻。絹を奪われた繭の名残。過去を祈ることで辛うじて存在しているだけの、影。
終わったこと、というのは事実なのだろう。どんな妖精であれ時を巻き戻すことはできない。自らの時、即ち、霊質の流動を止めることで縋ることができる程度。細い糸が解けていくように、いつかは溶け出すとしても。
それでも。縋らなければ、耐えることができない。喪失を前にして、打ち沈むだけのただの妖精。少なくとも龍游を未曾有の事件に巻き込んだ者とは思えない、陳腐な悲しみだけで辛うじて生を繋いでいるだけのもの。
しかし、
もし、
彼女は考える。
今回の事件で己が死んでいたら。
師は、あれほど悲しんでくれるだろうか。
後悔と祈りを捧げてくれるだろうか。
そんなことをしてほしくはないと、今の自分の声が言う。
同時に「いいなぁ」と誰かの声がする。
一度としてあったことのない幼年時代の。
ピンク色の衣を纏い、アイスを片手に持った少女の声が言う。
「泣いてほしい」「悲しんでほしい」「悔やんでほしい」「忘れないでほしい」「ずっと師父の心においてほしい」
絶対に言うことのできないわがまま。言いたいとは、もはや、思わない願い。その声を、しかし、今は認識できる。きっと師弟の無邪気さに当てられたために。彼女は眉を顰めた。
あの素直で無邪気な子どもはそう願うのだろう。師父とずっと一緒にいると言った時の瞳と同じ、子どもの輝いた双眸で。
空を見上げたままゆっくりと彼女は歩き出した。不意に、この街には美味しいと評判の菓子の店があったことを思い出す。彼女は一度も買ったことがないけれど。甘いものが好きな子どもはきっと喜ぶだろう。菓子屋の方角は爪先を向け、彼女は人混みを進む。
もう、幼き日々は取り戻せない。取り戻したいとも思わない。
それでもこれから手に入れられる光が、彼女には、まだある。