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    霜降「赤い色に良い印象がない」と彼は言った。
     裏山の山頂付近。山道から外れた先にある椛林を二人は歩いていた。ちょうど午後すぎにあたる時刻。まだ空は明るいが、彼らの他に人の気配はなく、誰かが来るかもしれないという想定を、二人とも持っていなかった。この場所を他人に知られていないわけではない。この林には毎年秋になれば色々な人、その殆どは学園の生徒であったが、少なくない数の人が訪れる。彼らも過去に幾度も訪れたことがあったし、つまり、何のために訪れるのかを知っていた。
     丁度傾きはじめた陽光が、鋭さを持って枝葉の隙から降り注ぐ。夕陽と呼ぶにはまだ白々とした陽射しに目を細めれば、自ずと焦点が位置を変える。天蓋のように広がっていた椛の葉が、明瞭に視界へ映される。掌を思わせる先端を備えた形の葉は見事に枝に生い茂り、しかし、その色は未だ青い。
    「できれば赤い服は着たくないし、赤い表紙の本は読みたくない」と彼は続けた。露出した木の根を避けるために、一歩半、間合いが開く。
    「病的だな」鉢屋は相槌を返す。「食べ物はいいのか?」
     麻婆豆腐。彼の得意料理の名前を口に出し、唇の片端だけを器用に持ち上げる。彼はゆっくりと瞬きを繰り返し、最後に目を伏せた。それから小さく舌打ちを落とす。
    「考えから漏れていた」
    「その心は」
    「麻婆豆腐は、豆腐のためだからなぁ……それに、赤というには不純だ」
    「赤い色と意識したことはない?」
    「豆腐を意識しているし、」彼は口先を尖らせた。「全く赤が嫌いなわけでもない。絶対的に忌避しているわけでもない」
    「それでも、兵助が赤い服を着たところを私は見たことが無い。麻婆豆腐はよく作っているけれど」
    「食べ物は食べてしまえば関係ないとは考えられないかな」
    「豆腐の白さについて一刻の間語り続けて勘右衛門を参らせた奴が何を言うんだ」鉢屋が鼻の先で笑う。呆れの混じる笑みではあるが、それは軽口の応酬に対する評価のようなもの。彼自身、彼の並々ならぬ豆腐への愛着を揶揄するものではない。彼もそれを理解しているのだろう、表情は変えないまま、しかし不快さも現れることはない。
    「俺にとっての優先順位の問題かもしれない。赤という色に良い印象がないけれど、それ以上に豆腐が好きってだけ」
    「なぜ?」鉢屋は開いたままの間合いを目で測る。
     彼らを隔てるものは空気ばかり。木の根は再び土に潜り、草葉の布団に覆われている。地面を彩るものが枯葉の絨毯へ変わるまでには未だ暫くかかるだろう。
    「なにが?」久々知が疑問符を返す。
    「なぜ赤に良い印象がない? 良い印象がなければなんだという? 身に纏いたくないほどのそれを取り込むことは許容されるのはなぜ? 豆腐をそれほどまでに好きなのは?」
     流れるように疑問を羅列しながら鉢屋は久々知の顔を見た。ひどく澄ました鼻筋が陽光を受けて鈍く輝いている。作り物ではない、自然の婉曲をなぞれば大きな目にたどり着く。双眸の片側だけが、鉢屋の顔を覗き返す。日差しの中で生まれた黒目の陰影が微細に収縮している、生きている瞳を。
    「三郎は俺のことを知りたいの?」
    「兵助は見えにくい」
    「変装ばかりの三郎に言われたくはない」
    「私は見せているだろう。特に、君には」
    「君って、」久々知が吹き出すように笑った。「お坊さんのような言い方」
    「……昨日まで課題で化けていたから、そのせいかな」
    「三郎は誰かに変装する時、成り切るよりは要点を抑えて仕草や言動を選択する方が得意なことは知っている」
    「冷めた人間だからな」
    「熱っぽくならないって意味」久々知は笑みの名残を頬に浮かべたままだ。「誰に化けていようと、その実鉢屋三郎という土台は揺らがない。そうでなければ五年もの間他人に変装し続けるのは難しい」
    「正確には九年だな」
    「……俺は学園に入学する前の三郎は知らない」
    「知りたいのか?」鉢屋は地面へ視線を逸らした。枝葉の網目を映した影が、水面のように揺れている。地上から見える重厚な表面より、水底から見上げた時の薄膜を思い出す。
    「別に、いいよ」久々知が言い切った。平坦な口調。「入学した後の、今の三郎を知っているから」
     面の奥に潜む双眸が見開く。意識した動きではない。鉢屋は俄かに眼球へ突き刺さる光の眩しさに、自分が目を見開いた状態にあるのだと気付く。それから、僅かな落胆。息を吐く。木々に連なる葉は遠く、吐息は何を成すこともなく、風の中に紛れて霧散した。
     二人は無言のまま、陽光の中を無為に歩いた。この場所に至るまでには目的があったはずだが、二人のどちらもが、もうそれを思い出すことができなかった。思い出すということ自体、二人はその術を忘れていた。頭の中に敷いた地図を畳んでしまったせいだろう。正しい道を見つけるために努力することはできるが、それが無意味に等しい行為であることを彼らは知っている。
    「私は、赤色が嫌いじゃない」鉢屋が風に散った葉を踏んだ。数日前の雨に散った、朽ちかけの葉。彼が通り過ぎた後には細い葉脈だけが残された。「秋の夕暮れに遊ぶ子供たちを見るとそう思う。あの赤い陽に呑まれて消える想像をして、それから優しい気分になる」
    「三郎は子供が苦手だよね」
    「無邪気な声は居心地が悪いし、」鉢屋が指を顎に当てた。「私が子供のようなものだから。合わないんだ、お互い」
    「多くの子供は年上の人が自分に合わせてくれると思っている。それが世界の決まりだとね」
    「良い世界だな」純粋に頷く。
    「その規則に従わない人間が現れると混乱するんだ。三郎はその規則を破ってしまう」
    「それは、私に対する分析?」
    「三郎は存外に甘えた人間だってこと」久々知の言葉に笑みが滲む。苦笑ではない、優しげな笑み。ちょうど、一年は組を前にした教科担当の教師が纏うような。「だから甘えた人間を見ると、つい、それを知らしめてやりたくなってしまうんだろうね」
     二人は同じ速度で木々の狭間を歩く。
     つま先に跳ねられた小石が地面の上を二度弾み、柔らかな土へ埋もれる。その軌道を瞼の裏に反芻した後で鉢屋は静かに肩を竦めた。肯定とも否定ともつかない仕草。他人の容貌を分析することは得意だが、自身の内面を分析する気はないと示したつもりだった。久々知は彼を安心させるように、微笑んだまま頷いた。
    「俺はそうだよ」
    「今が、その結果?」
    「自分にはないもの、過ぎ去ってしまったものに浸る相手を見出だして、残酷になる。それから、その残酷さを許す。過去の自分を許す。優しさっていうのは、そうやって生まれるものだから」
    「兵助は私に何を見る?」鉢屋が再び、今度は意識的に小石を蹴り飛ばす。一度だけ地面を跳ねた小石は、先の角度よりも低い軌道で地面へと落下した。「何を許す?」
     風が正面から吹き付けた。
     同じ顔が二つ並ぶ。
     前髪が踊り、表情を隠す。
     踊っているのは片方の黒髪だけ。
     それが本物と偽物の境界。
     睫毛を掠める黒髪に、随分伸びたな、と考えた。
     一体どちらの思考か。
    「赤い色の安心はどこから来るのだと思う?」久々知は鉢屋の問に答えず、別の問を投げた。
    「私たちは初め、みんな真っ赤に染まっていた」鉢屋はそれを想定していたように答えた。「他人の腹から生まれる時、他人の内臓を食い破った証だ」
    「食べるという行為は口から内へ取り込むことだから、食い破るっていうのは正確じゃない」
    「それなら突き破ると言い換えようか。そんな言い換えに意味はあるとは思えないけれど」
    「取り込むことは、つまり、得るものがあるということ。だけど生まれる時には何も得られない。失わせるだけだから、その差は大きいよ」
    「命が与えられた」
    「生まれた時点で命は既に存在しているし、それは生まれた人間そのものの持ち物であって、産んだ人間のものじゃない」
    「不均衡だな」
    「生も死もそうだよ。だから生きている内は、どうにか平衡を得ようとする」久々知は無意識に瞬きを落とし、唇を尖らせた。「でも、三郎の言う通り、意味はないね」話を戻そう、とさらに一度瞬きを繰り返す。
    「生まれた時に赤い色を纏っていれば、それが安心になるとどうしてそう思う?」
    「親しみがある。親しんでいなければいけないという無意識……という意味だけれど。私たちは生まれた時にそれを纏い、生きている限り身体の内にそれを巡らせている。それは絶対的な安心じゃないか?」
    「つまり、生の証?」首を傾げる。うねりを伴った黒髪が肩から滑り落ち、宙に揺れる。
    「死からの逃避かも」眼前の少年とは反対側へ、鉢屋は首を傾げて見せた。鏡合わせのような対称。しかし、それを観測する者はいない。
    「生きていることが、大切? 生きているって、どういうことだと思う?」
    「兵助は私を知りたい?」
    「俺は、俺を知りたい」
     鉢屋は視線を正面に戻した。
     もう随分と歩いて来たにも関わらず、景色には殆ど変化がない。ずっと同じ樹の群れが続いている。或いは進んでいたというのは錯覚で、一歩も動いていないのかもしれない。突拍子もない俄かに笑みを浮かべる。久々知は彼の表情を意に介さず、代わりに、真っ直ぐに彼の瞳を覗き込んだ。
     その内に映る自分の顔を確かめるように。
     自分の顔をした誰かの奥底を探るように。
    「赤い色が生命を現すとして、だけど、同時にそれを目にするときは死が近い」
    「私たちは皮膚を裂かなければ、或いは口から吐き出さなければ血を見ないから」鉢屋が目を眇めた。黒目に滲む複雑な色彩が角度を変える。「だけど赤色はそれだけに占有される色でもない。炎は赤いし、星にも赤い光はある」
    「生命と呼ぶより、力と言うべきなのかも」久々知は表情を変えない。「そう、安心って言うのはそういう意味だ」
    「力があれば、力に対抗できる?」
    「脅かされない。傷つけられない。奪われない。それが安心」
    「主題は何だ。命? 尊厳? それとも、思想?」
    「自由」
     鉢屋が頷いた。視線が僅かに動き、一瞬、地面を視界に捉える。落ち葉と石と砂が混ざり合った、土の香りが鼻先へ届く。林の中にずっと漂っているはずの香りは意識しなければ分からない。それでもここが現実であるということを確かめるには十分だった。久々知との会話は時折、飛び石のように飛躍を求められる。お互いに次の石がどこにあるのか理解していなければすぐに川へ落ちて行き先を見失う。その為に、彼との会話において鉢屋は時折現実を確かめることを余儀なくされる。
    「兵助は存外、力に肯定的だな」拳を開閉しながら鉢屋が言った。
    「否定できないから。現実に俺はそれを頼って生きてきたし、それに頼る道を志している。そこで力を否定しても何にもならない」
    「それならば、なぜ、赤に良い印象がない?」
     飛び石から対岸にたどり着く。
     久々知は鉢屋の問には答えず、音もなく目を伏せた。瞬きとも思えるほどの遮断。反射に近い動きではあるが、瞼には確かな意思が浮かぶ。彼はそのまま目を逸らし、空へ向けて瞼を押し上げる。葉を透かす光はいつの間にか角度を変え、睫毛の影を双眸に落とす。
    「どうしてだろうね」
     溜息を一つ。肺の底に潜む淀みが吐き出され、薄く開かれた口から新しい空気を取り込んでいく。
    「力を肯定することと好むことは違うから? 諦めてしまったことへの反感? それとも、本当は、ただの色として好みじゃないというだけなのかも」
    「どうあれ兵助は優しい」鉢屋は平淡な口調で言った。それだけで眼前の少年には優しさが伝わるだろうという程度の素直さだった。「仲間にも、後輩にも、見知らぬ誰かにも。それで十分じゃないか?」
    「三郎は?」
     久々知の顔は鉢屋へ向けられないまま。空を仰ぎ、鼻梁に光を滲ませる。
    「私?」視線を隠すことなく、鉢屋は久々知の顔を見つめる。
    「俺は三郎に、優しい?」
     黒目が魚のように滑らかな速度で動く。
     視線が重なり、
     一瞬の沈黙。
     全身を血潮が巡る感覚。
     波は赤い。
    「……少なくとも」鉢屋が言った。「私は兵助に優しくしている」
    「そうかもしれない」久々知が唇だけで微笑みを作る。「それに甘えているから、今も」
    「自覚があるならいい」鉢屋が眉を僅かに寄せた。「私たちは、未だ子供だから」
    「私たち?」
    「兵助と、私」
    「二人だけ?」
    「不満?」
    「いいや、三郎が甘える相手は俺じゃない気がしただけ」
    「種類が違う」鉢屋はそう言い切ると、不意に顔を背けた。「これは、兵助にだけだ」
     大きな瞳が瞬きを落とす。投げられた言葉を取り扱いあぐねるように、二度、三度と瞼が開閉する。久々知は目の前にある輪郭を徒に辿り、それから、鼻の先で笑みを零した。
    「赤い」口の中で呟く。
     言葉として聞き取るには不明瞭な音を聞きつけた鉢屋の首が僅かに傾いだ。
    「何か言った?」
    「うん、嫌いじゃないなって、」
     彼の頭上を指で示す。つられるように鉢屋は顔を上げ、久々知の言葉を待つ。
    「三郎と一緒なら、ここが一面赤色になってもいいなって思っただけ」
     言葉の波を浚うように、風が吹き抜ける。無為に踊る葉を夕陽が透かし、緑の天蓋は俄かに赤く染まる。
     その中に一つ、本当の赤があった。
    417_Utou Link Message Mute
    2022/10/24 0:20:40

    霜降

    #鉢くく
    はちとくく椛林を散歩してるだけの小話です

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