【サンプル】翼、星を歩くための【超忍Fes.2026】 梟の翼が星影を遮って羽ばたいた。
その麓。枝葉の隙間から僅かに差し込む灯りすら拒むように走る影が五つ。一瞬生まれた暗闇を縫うように、夜の中を駆け抜けていく。
付かず、離れず。不均衡な距離を保ちながら。傍目にはただ逃げ足の速い者が先を行き、遅い者が最後を走っているように見えるかもしれない並び。法則は見出せず、方式も感じられない。時折、声を掛け合うこともなく前後左右が入れ替わることはあったが、道幅のためか地面に落ちた障害物のためか、少なくとも大きな意味があるようには見えなかった。
陣形、或いは戦術に造詣の深いものであっても、関連を見出すのは難しいであろう不規則。彼らにとっては、しかし、それこそが正しい在り方だった。つまり彼らの間合い、武器の届く距離、判断の速さ、決断の重さ。それらを積み重ね、織り合わせ、編み出した彼らだけに通じる正しさで結ばれながら、彼らは走っていた。
「どうする」先頭を走る鉢屋が振り返らずに囁いた。肉声ではない。風に混ぜた音による暗号であれ、簡単な会話ができる術を彼らは身につけている。「追っ手は」
「振り切れない」最後尾の久々知が、数秒の後に答える。「数が多すぎる」
「体勢を立て直そうか」久々知の前を走る不破が誰にともなく問いかける。「いや、でも……このまま村まで降りるって手も……」
「悩んでる時間はないだろ」不破と並んだ竹谷が、わざとらしく肩を竦めながら嗜めた。「それに体勢を立て直せる場所なんてあるのか」
「一箇所ある」鉢屋のすぐ後ろを走る尾浜が後方を振り返り、指を一本だけ立てた。「ここから二間ほど先の大木。虚があって、すぐには見つからない」
「長く隠れるのは無理ってことか」竹谷の口布に隠された唇が笑みを模る。
「そ、でも作戦の練り直しには十分じゃない?」
「勘右衛門、場所を」鉢屋が一足分だけ歩速を緩めた。全体の速度は、しかし、弛まない。
先頭に立った尾浜は勢いよく鋭角に曲がり、藪の中へと入ったように見せかける。夜の森では視界よりも音の方が役に立つ。わざわざ音の響く方へ行くことは悪手であり、つまり、それだけ切羽詰まったように見せかける演技だった。
追っ手の気配が僅かに離れていく。彼らの動向を伺っているのだろう。音が聞こえている限り見失うことはないと確信しているのかもしれない。姿勢を低く隠しながら四人は尾浜について獣の通り道を素早く駆け抜ける。そのまま二度、三度。並び立つ大木の周りを、翻弄するように、左右に曲がる。
同じ道を引き返し、それから別の方向へ。追っ手の気配は次第に遠ざかる。そも、彼らに接近してついて来ているのは全体のうちのごく少数、追跡を任された者たちだけだ。下調べの間に大凡把握した森の中では、追っ手を一時的に撒くことは容易い。その程度をこなすことができなければ、彼らにこの忍務は任されていない。
忍術学園の五年生であれば実習ではない、本当の意味での忍務を請け負うこともある。プロの忍と違うのは、彼らの所属する組織が学園であり、彼らは生徒だということ。力量を超えた忍務は与えられないように、つまり、守られている。
音もなく大木の虚に隠れ、五人は同時に息を吐いた。危機的な状況ではあるが、それは危機に限りなく類似した状況というだけのこと。危機に近くとも本当の危機ではないことを、彼らは知っていた。
「それで、」竹谷が虚の出入り口に立ち、外を伺いながら言った。「どう動く?」
「とりあえず二手に別れよう」久々知が答える。「巻物を盗んだのは俺だから、敵は俺の方に来るはず」
「囮に?」不破が尋ねた。「でも、それは……」
久々知は無言で頷く。話し合いを拒むように、眦の鋭角が光った。不破もそれ以上を問うことはなく、しかし、気遣うように久々知の肩へ手を置いた。議論の時間がないことを理解していると示す仕草。尤も二人だけではなく、五人の全員が同じ事実を共有している。
「それなら俺が兵助と一緒に行こうか」尾浜が手を挙げる。
「いや」首を振りながら、久々知は一度目を伏せた。
「待て」同時に、鉢屋が掌を顔の横に広げる。
「三郎が言っていいよ」久々知は穏やかな声音で言う。敵地からの逃走を話し合う場には不釣り合いな発音だった。
「……なるほど、兵助と私は同意見か」
「最善を選ぶのなら」声音を変えずに久々知は鉢屋を見据え、小さく頷いた。「選ばないこともまた、選択の一つ」
「この中で兵助の次に、山に慣れているのは勘右衛門だ」鉢屋は三人の顔を順番に見つめながら、静かに続ける。「だから、兵助が残るなら勘右衛門は逃げる組に入るべきだろう」
「……慣れているからこそ、危険の多い兵助に付くべきじゃない?」尾浜が頬を膨らませる。「安全という意味では」
「安全なんてものが存在しているとでも? 危険なのはどちらも同じだ」
鉢屋と尾浜が睨み合う。一瞬、正しく瞬きの間に等しい、一秒にも満たない時間、二人は視線を交わした。やがて尾浜は両手を広げ、肩を竦める。片方の頬だけを子どものように膨らませながら。大人びた仕草と子どもじみた仕草。そのどちらにも均衡を保ちながら、彼は目だけで笑って見せた。
「分かった、分かった。三郎の言うとおりだよ」
尾浜はそのまま両手を首の後ろで組み、竹谷の隣に並ぶ。入れ違うように、竹谷は虚の中心へ身体を向けた。外の様子には問題がないと伝えるように、大きく頷いて見せた。
「二人が別れるのはいいとして、僕たちはどう振り分ける?」不破が言う。
「定石としては、囮は人数が多い方がいいんじゃないか?」竹谷が首を傾ける。「万が一に備えて」
「だからこそ、少ない方を囮にするべきだ」久々知は目を眇めながら、一瞬外を見やる。「取りこぼしは出るけれど」
「あー……まあ、確かに。そもそも人数差があるから、二人も三人も同じか」竹谷は、今度は素早く頷いた。「敵の人数が多すぎる」
五人は顔を見合わせ、草臥れた笑みを一瞬だけ交わした。すでに一流と呼ぶべき能力を身につけているとして、彼らはまだ卵。雛でさえない。緊張も疲れも、確かに蓄積している。それを正しく評価できるという点こそが、しかし、最も秀でた点でもある。
「まあ、どちらにせよ」竹谷が真面目な声音で続けた。「俺は勘右衛門につくべきだな」
「そうだね」久々知が同意を示す。「万が一を考えても、勘右衛門か八左ヱ門のどちらかがいれば、まず学園の領内までは走り抜けられる」
山に慣れている久々知。久々知の鍛錬に付き合う間に山に慣れた尾浜。逃げた獣を追い回し野山を駆け回る竹谷。五人の実力に差はなくとも、得意分野は当然にある。忍務の遂行を優先する以上、三人の内の半数を囮に割くことは考え難い。残るは、鉢屋と不破をどう振り分けるべきか。最も正しい采配をごく僅かな時間に決断しなければならない。
「僕らが兵助と一緒に残るか、二手に分かれるか」不破が目を瞑る。「どうしよう……確実に忍務をこなすのなら、囮は二人にしておくべきという点には賛成なんだけど」
「山の戦いなら俺が有利だから、こちらは心配ないよ」
「でも、もし、想定外のことが起きたら?」不破は真剣な顔で続ける。「今だって……」
不破の肩に手が置かれた。彼の手とは異なる、小さな切り傷を無数に抱えた手。形の良い、白い爪だけが、夜闇に茫と浮かび上がる。
「私が残ろう」閉じた唇を開かず、鉢屋が言った。「兵助と、私。それで十分だ」
「確かに人数と、得意武器のことを考慮すれば、僕が勘右衛門と八左ヱ門について行く方がいいのだろうけれど」
「今この場で遠間からでも複数人を相手どれるのは雷蔵だけだ」鉢屋が続ける。「逃げる時にそれがどれだけ役に立つのか、分かっているのは雷蔵だろう。それに囮は常にある程度距離を詰めている必要がある。印地打ちが活かせない」
「……そうだね。うん」数秒の間逡巡し、不破は素直に頷いた。「分かった。絶対に二人を学園まで連れて行く」
尾浜と竹谷が口布の下で小さく笑みを交わした。それから尾浜が再び、わざとらしく手を挙げる。懐から取り出した絵巻を、久々知はその手にそっと預けた。
「俺たちは三人で、無事に、学園に戻る」尾浜が絵巻をしまいながら言う。
「それで、助けを連れてくる」竹谷が応えるように、拳を突き出す。
五人は握りしめた拳をそれぞれに合わせ、視線を交わした。星を結ぶように。呼吸を一つ。その一瞬で忍としての緊張を再び身にまとう。丸く切り取られた宙に浮かぶ星明かりを睨み、背筋を正す。頭上で鳥の羽ばたきが聞こえた。
「三郎」口布を直しながら、久々知が鉢屋の名前を呼んだ。「背後は任せた」
返事を待つことなく、長い黒髪が木の虚から飛び出して行く。続けて竹谷と不破が反対方向へ走り出す。敵の気配はない。森を歩く獣の足音に彼らの足音が低く混ざり、夜の間に滲む。
「三郎、」羽の舞う音に紛れ、尾浜が囁いた。「無茶するなよ」
「それは兵助に言ってくれ」鉢屋が肩を竦める。
布で隠された頬にえくぼの影を浮かべながら、尾浜は鉢屋の肩をそっと叩いた。気合いを入れろという意味か。もしくは、忍務は任せろ、という暗号かもしれない。行動の意味が読めないのは常のことだ。
誰もいなくなった木の虚を振り返ることなく、砂を蹴る。夜に身を翻し、風を切る。木々に遮られた星影は却って眩く、視界を覆い隠す。その隙を縫うように目を凝らせば、夜よりも黒い髪の名残が、波の跡を錯覚させた。
足音は潮騒か。
砂を擦る。
息を止め。
水底に似た、
不自由を游ぐ。
袖に指を伸ばし、
そこにある金属の冷たさを確かめ、
そして彼は足を止めた。
目の前を流れ星のように銀の刃が落ちていく。
流れ星は流れているのか、落ちているのか。そう問いかけた声を思い出す。
どちらだと答えたのかは思い出せない。
きっと、思い出せないほど深い水底に落としてしまったのだろう。
「いたぞ!」
懐から苦無を取り出しながら、反対の手で鏢刀を投げる。武器の金属がぶつかり合う喧騒。
「囲め!」
「逃すな!」
誰かの叫ぶ声。捜索の本隊か、人数はこれまでで一番多い。足音だけで追っ手の数を数えながら鉢屋は片頬を上げた。見つけたのは向こうではなく、こちらなのだということにまだ気付いていないところをみれば、彼らは少なくとも忍ではない。数の不利が絶対的なものではないことを知らない相手であることは今夜の彼らにとって、数少ない幸運だった。
前を走る久々知が振り返り、片目だけで瞬きをした。町娘の真似ではない。攻撃を仕掛けると示すための仕草だ。
決して開かれているとは言えない、獣道の途中。生い茂る木々は視界を不規則に遮り、手を伸ばせば藪の小枝が指を刺す。長い刀に重い武具を纏う相手には、今の状況から選択できる中で、最も適した場所と言えた。
突然、久々知が足を止める。追っ手を振り返ることなく彼は懐から焙烙火矢を一つ取り出した。一つ上の先輩ほどではなくとも彼は火薬委員会の委員長代理だ。加えて顧問の研究を日々手伝っているとなれば、知識に留まらず、火薬の扱いには長けていて当然のこと。それを得意と言わないのは、ただ、彼の謙虚さの表れでしかない。
手慣れた仕草で短い口火に火を付ける。それから足音のする方へ軽く放り投げた。火器を扱うには滑らかな爪が弧を描く。焙烙火矢は一瞬浮遊し、しかし、投げた者が安全を確保する間もなく落下した。
閃光。
熱。
煙
火薬の爆ぜる匂い。
破裂音。
舞い上がる白煙。
追っ手の雑兵たちが何かを叫ぶ。逃げろか、伏せろ、あたりか。宙へ流れる細い筋に身を隠しながら、鉢屋は地面を軽く蹴った。手に触れた枝を掴み、そのまま身体を半回転させ、樹上へ登る。枝がたわみ、葉の擦れ合う音が響く。しかし、それは鳥が飛び立った音と大きな差はない。生き物が降り立ったのか、飛び去ったのか。その程度の差。枝にとっては微差だろう。
地面を見下ろせば、鍛えられた鉄の尖端が白煙を切り裂き、追っ手の頭上に振り下ろされたところだった。久々知は止まることなく蹲る雑兵の襟元を掴み左側に投げ飛ばす。刀を構えていた雑兵の腕に、気を失った雑兵の武具がぶつかり、派手な音を立てる。
鉢屋は指の間に三枚の鏢刀を挟み、木の下へ撃ち放った。次の瞬間、久々知の死角から飛び出した雑兵が刀を落とし蹲る。その頭を、久々知の踵が蹴り飛ばす。道に落ちた小石を弾く遊びのような軽さ。そのまま反転し、振り下ろされた刀を避ける。長い髪が目眩を誘うように、星影を不規則に滲ませる。その眩さを一瞬で瞼の裏に焼き付け、鉢屋は音もなく隣の木へ飛び移った。
地上と樹上。
舞い上がる砂。
降り注ぐ刃。
その隙間を縫うように。
踊る影と、
翔ぶ黒髪。
近付くことはなく、
遠ざかることもない。
正面ではなく、
対にもならない。
捩れを保ちながら。
追っ手の縁を削り取る。
「三郎」
宙を裂く刃の音が囁く。
黒髪が半回転し、眼光が閃き彼を射抜く。
どこまでも鋭い鮮烈。
あまりにも潔い苛烈。
目の下に奔る赤い直線を一瞬でなぞり、
彼は閉じた唇で小さく風の声を真似た。
「了解」
木の枝を蹴り、宙へ身体を踊らせる。
一瞬の浮遊。落下。内腑と肉が分離する感覚。
そのまま空宙で一回転し、爪先で地表へ降り立つ。
音もなく。
砂埃を少しだけ舞い上げながら。
「さて、ここからだ」鉢屋は笑った。「あと半分くらいか?」
宙から現れた彼の姿を警戒するように、雑兵たちが刀の間合いに離れ、二人を再び囲う。追っ手の動きから目を離すことなく、鉢屋と久々知は背中を預け合った。
「もう少しやれる」久々知が寸鉄を掌で回しながら答える。「違う?」
「違わない」鉢屋が軽く肩を竦めた。「でも無茶はするな」
「その言葉、そっくり返すよ」
彼らを囲う円がゆっくりと狭まる。間合いを保つように二人は一足背後に下がった。互いの肩が一瞬触れ、そして次の瞬間、同時に地面を蹴る。
鉢屋の手から放たれた鏢刀が宙を舞い、
久々知の手の内に潜む寸鉄が円を穿つ。
振り翳された刀を掻い潜り、胴を蹴り上げる。均衡を崩した雑兵の頭を肘で打突。地面へ倒れるところまで見届けることなく、左から走り来る敵へ鏢刀を撃つ。そのまま右手で敵の刀を奪い、反対側から現れた雑兵の小手を蹴り上げた。宙へ投げ出された刀を左手で掴み、そのまま爪先を回転させ、藪ごと敵を薙ぎ払う。逃げ出した雑兵を追う必要はない。刀を手の内で滑らせ、逆手に構える。音を立てず二歩後退。久々知に向けて振り下ろされた刀を左手で受け、右脚で敵を蹴り飛ばす。右手の刀は二手遅れて、突撃して来る槍の切先に向かい、当然のようにその穂先を弾き返した。
反動で一歩後ろへ。肩に柔らかなものが触れる。確かめるまでもなく、それは久々知の髪であることを、鉢屋は知っていた。この程度の雑兵に背後を許すほど鉢屋は、或いは久々知は、鈍くはない。
二人と敵の間に再び間合いが生まれる。数の差は絶対ではないが、二人で倒せる数には限りがあることも二人は正しく理解していた。逃げるだけならばいくらでも手段はある。彼らの役目は、しかし、この場に留まること。正しくは、追っ手をこの場に留めることだ。動ける者の数を限りなく減らすことができれば御の字。
「どうする」音のない声で久々知が尋ねた。「半分には足りないけど」
口布に浮かぶ影が大きく息を吸い、吐く。思考を落ち着かせるためか。或いは、単に息が切れているのかもしれない。鉢屋も細く息を吐きながら、面の下に滲む汗を自覚する。追っ手の全員を倒すことは難しく、全速力で逃げるには体力が保たない。
「意外と粘られてしまったな」
「でも、このままなら半分は削れる」掌で寸鉄を遊ばせながら久々知は言う。山中での戦い方を、鉢屋よりも知っているためだろう。疲労を自覚していないわけではない。自覚しているからこそ、とるべき手段を選ぶことができる。「突破する」
「私は?」
「援護を」
「任された」
囲まれているとはいえ、雑兵たちは訓練された兵士ではない。どこかの農民や商人の次男や三男たちだ。戦の知識もなく、従って、彼らは無意識に道と呼べる場所に多く集まっている。尤もそれは獣道でしかないが、木々の生い茂る方向と比較すれば道と言えるだろう。久々知は獣道側に向かい、懐から小さな焙烙火矢を三つ取り出し、一斉に火をつけた。火縄の燃える音に臆することなく、素早く、しかし的確な制御で彼らの方へ放り込む。
一秒。二秒。
聞き慣れない音に戸惑う追っ手に構うことなく、二人は同時に跳躍し、手近な木の枝へ片手をかける。浮遊した勢いのまま身体を持ち上げ、枝の上へ。
三秒。
まずは光。
火薬の衝撃。
遅れて風。
最後に熱。
二人は炎の影に身を隠しながら樹上を渡り、やがて、草の残る地面へ降りた。背後を見やれば、炎の周りに雑兵たちが群がり、何をか口々に叫んでいる。火を消そうとしているのか。周辺を哨戒していたらしい者たちも集まり始めている。囮の役割としては、十全な威力。
「行こう」久々知は暗闇を見据えながら言った。「火はそこまで強くないから、消し止められる前に」
「どう山を下る?」鉢屋が問う。この山に入る道は幾つかあったが、しかし、学園へ最短で帰るための道は一つ。その道を通るわけには行かない。
久々知は前方を見つめながら指で虚空を示し、口布の下で微笑んだ。鉢屋も自ずと同じ方向へ目を向ける。
暗闇。
しかし、彼らにとっては十分に明瞭な闇だった。
「崖、か」鉢屋は呟く。「降りられる場所が?」
「ここから少し山を下るけれど。川を渡れば追っ手も簡単には追えないだろうから」
武具をつけ、刀や槍を持ったままでは浅くない川を渡ることは難しい。武具もつけず、刀や槍を持たないままで二人を捕えることは、しかし、もっと難しいだろう。
「行こう」一瞬だけ背後に目を配り、鉢屋が言った。「何人か追ってきた」
「向こうも必死だね」
「それは、こちらも」
二人は互いの双眸を真っ直ぐに見据え、小さく頷き合う。
そのまま、無言で土を蹴った。藪を飛び越え、草むらを走り抜ける。後方で「あっちだ」と叫ぶ声。久々知は走りながら地面に手をつき、拾い上げた石を明後日の方向へ投げた。足音のいくつかが石の落ちた方角へ向かう。
崖に沿った道は、人手はおろか獣さえ通らないのだろう。気ままに伸びた草木をかき分けながら進む。久々知が先を行き、鉢屋が後ろに立った。背を守るように。或いは、面を守るように。二人きりで戦うという状況は珍しいものであったが、しかし、彼らは当然のように立つべき場所を知っていた。
大きく突き出した枝を払い、その根元で細やかに揺れる草を踏む。陽の光を奪い合う植物同士も、闇を走る忍の前では無力。彼らの作った道を追いかけてくる雑兵の足音を数え、鉢屋は口布の下で微かに舌打ちを落とした。苛立ちではない。想定よりも数が多いことを伝えるための、いわば、ごく簡易な暗号だった。
「何人か蹴散らす?」久々知が振り返らずに言う。「鳥の子なら、まだあるけれど」
「立花先輩みたいなことを言うな」
「良いところは盗むべきだろう」
「笑えないことは冗談にできないことを知らないのか」鉢屋が喉の奥で密やかに笑った。
つまり、冗談。敵に追われているとは思えない、軽妙な響き。久々知の髪が応えるように軽く舞い上がり、背骨に沿って垂れ落ちた。
「伏せて」久々知が言う。
同時に、鉢屋は膝で柔らかな草を踏み潰した。頭上を何かが飛び去る気配。名残として焦げた香りが一筋だけ漂う。
次の瞬間、煙の噴出する、空気同士の掠れた摩擦音が響き渡った。
鉢屋は地面についていた片手を軸に、宙返りの要領で身体を起こした。そのまま、宙に抗う勢いで、鏢刀を撃つ。三日月を追いかけるように、星に似た手裏剣が流れて行く。
雑兵の幾人かが、もう何度目かの声を上げた。
一人一人の声は微細に異なるはずが、追われている時には、誰しも同じように聞こえるのは何故だろうか、と鉢屋は不意に考えた。煙の向こうに浮かぶ影が曖昧なせいかもしれない。
久々知が草木を縫うように抜け、軽い足取りで崖の淵に寄った。高さを確かめているのだろう。鉢屋も並んで崖の下を見やれば、まだ飛び降りるには勇気のいる景色が眼下に広がっている。川の音が僅かに近づいていることは、しかし、確か。
二人は顔を見合わせ、再び前を向く。
そして、
鉢屋が久々知の肩を突き飛ばした。
予想していない方向からの衝撃に久々知は姿勢を崩し、すぐに顔を上げる。
「三郎!」
鉢屋に近寄ろうとする久々知を、鉢屋が掌だけで止める。
投げられた刀の残像。
三日月の刃が同じ軌道を辿る。
指先を伝う、一筋の液体。
月明かりの下では、黒く見える。
一滴の雫を残し。
身体が宙へ。
腕の力が抜けたことで均衡を保てなくなったのかと、鉢屋は人ごとのように分析する。
足が地面から離れる。
一瞬の、或いは永遠のような浮遊。
「三郎!」
月影を覆う、黒い、二つの瞳を見た。
その輝きを求めるように、手を伸ばす。
口が自ずと動く。
「逃げろ」
黒い瞳が射手のように夜を睨み。
青の装束が流星のように。
落ちる。
鉢屋は目を見開き、しかし、巻き起こる風に視界を奪われる。
最後の瞬間。
翼のように広がる髪を見た。