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    祝いを君へは贈らない, 他十編後に残るは雪ばかり有名無貌かくも愛しき友人たちへチョコレェト・デイ ver.1チョコレェト・デイ ver.2鳥はとうに飛び去った水底の星祝いを君へは贈らない灰に灯るは人肌の奪い奪われ、さてその先は泥濘に足を洗う後に残るは雪ばかり

    「人間の眼の底には、たったいま見た景色が消えずに残っているものだって。」/太宰治「雪の夜の話」


     雪は渾々と振り駸々と積もる。濡れた土色さえ白い粉で覆い隠した景色は化粧と呼ぶに相応しい。この天気では夜中に鍛錬へ出るものもおらず、外からは枯葉が地をかすめる音一つ聞こえることはない。まして降り積もった雪は音を吸い、痛いましいほどの静けさが辺りを包んでいる。息を吐けば白い靄が暗闇に浮かび上がり、すぐに風と流されて消えた。
     久々知兵助には時折、このような雪の降る夜に廊下へ出て一心に銀景色を眺める癖があった。長い間座っていたのであろう、頬は寒風に吹かれ赤く染まり、吹き込んだ雪で睫毛がわずかに白く彩られている。誰かと話すでもなくただ一人、寒さなど意に介さないと言うように背を真っ直ぐに伸ばし降り積もる雪を見つめ続ける。廊下を通りがかった者たちの寄越す視線を受け流す様子は静謐を湛えた雪景色と混ざり合い、触れてはならないような感覚を覚えさせた。
    「何しているんだ、お前は」
     誰もが手はおろか声さえかけることを躊躇うほど身体に馴染ませていた空気がうち破られる。同時に竹のように伸ばされた背へ綿の入った半纏が掛けられた。
     久々知は座ったまま首だけで背後を見やった。「三郎?」
    「勘右衛門から聞いてみれば、そんなに肌を赤くして、一体どれほどここに座っていたんだ」唇を尖らせ鉢屋は言った。非難がましい色を乗せた視線に反し彼自身も藍色の制服姿のまま、鼻の頭を赤くしている。
     部屋に帰るぞと言い布の上からでも指先に伝わるほど冷えた腕へ手を伸ばした。久々知は身を任せたまま引き上げられるように立ち上がる。その間も視線は雪景色を見つめたままだ。
    「雪なんぞ珍しくないだろう」
    「綺麗だから」久々知が言った。「知っているか? 人の目には見てきた景色が焼き付いて残るそうだ……今のうちに、少しでも綺麗なものを目の中に残しておきたくてさ」
    「なんで、また」
    「戦場はいつだって火薬の煙と土埃で溢れているだろう。全てが終わった後の合戦場は草木は根こそぎ倒れ、血かどうかも分からないほど地面が露わになっている。このご時世、一々胸を痛めるつもりはないけれど……いざ自分が死んだ時に目に映った景色がそんな寂しい物なのは嫌だなって」
    「……なんだ、そんなことか」
     鉢屋は掴んだままの腕を自らの方へ引き寄せると反対側の手で遠くを見つめる横顔を包み込んだ。雪から逸らされた瞳は当然、面から覗く視線とぶつかる。黙ったまま見つめ合う形になり、久々知は二度と瞬きを落とした。
    「綺麗だよ」
    「……え」
     鉢屋は白く飾られた睫毛を指でそっと拭い、そのまま両の手で頬を覆った。
    「こんなに冷えてるじゃないか。茶でも淹れてやるから、部屋に戻るぞ」
     言葉は荒いがその声色は雪のように柔らかな風合いを含み鼓膜を揺らす。兵助は何か言おうと何度も唇を動かし、しかし、わずかに空気を震わせる音は言葉になるより早く銀色の地面に吸い込まれて消えていった。
     やがて首だけが小さく縦に揺れる。濡れた睫毛がゆっくりと下を向いた。


    診断メーカー「こんなお話いかがですか」より
    エピグラム引用:青空文庫

    (2018/10/24)
    有名無貌 その名を貸してほしい。瞬きもなく見つめられたまま放たれた言葉によって鉢屋の眉間に深い谷が生み出された。目の前に立つ男は特別な意図を隠す素ぶり一つ見せず、やや吊り上がった大きな目を向けている。日が暮れて間もない空は薄闇を長屋へ忍び込ませてはお互いの顔を覆い隠していた。
    「次の実習課題のために、名前が必要なんだ」久々知が言った。「それで、三郎って名前を借りようと思って」
     彼は淀みなく言葉を告げると、どうだろうかと言うように首を傾げてみせた。首の後ろに垂れ落ちた黒髪が肩越しに揺れ、頸が暗がりの中に浮かび上がる。着物を掠める乾いた音が部屋の中を埋めるように響いた。
    「三郎という名は私だけのものではないよ」
     よくある名前で、自分の占有物ではないのだからと続ける。そもそも目の前の男が別の名を用いているところには、これまでに幾度も居合わせている。その度に同じ名を持つ人間に伺いを立てることなど出来るはずもなく、なぜそのようなことを聞くのかと不信の色が口の端に浮かび上がった。
    「それに私の名が、本当に三郎だと信じているわけじゃあ、ないだろう」舌の根が乾き、動きの悪い歯車のように軋む。頬の奥へ歯が触れ、口内へ鉄の匂いを微かに漂わせた。「他人の面に己を隠し、名だけが本当だなんて」
     唇が歪な形をしていることが気にかかり、鉢屋は蕭条とした中庭へ顔を向けた。秋風から置き去りにされた枯葉は地面にこびりつき、半ば腐りかけている。
    「名前だけなら本当にできるから」
    「名前なんていくらでも変えられる」
    「俺は三郎の顔を知らない。だから別の顔になってしまったら、きっと見つけられない。お前の変装がそう甘くないことは、知っている」
     久々知の瞳が鉢屋の視線を辿り、やがて枯葉へと行きついた。
    「それでも、お前は優しいから。五年間俺たちが呼び続けた名なら、こうして俺が『お前の名』として借りてしまった名なら、捨てられないだろう」
     指先が背けられた肩に触れた。
    「卑怯でごめん」
     伏せられた額が首筋に押し当てられる。血の気の失せた爪は小刻みに震えている。鉢屋は吹きかかる吐息に合わせて息を吐いた。
    「私はね、兵助。皆が三郎と呼んでくれることを、お前が三郎と呼んでくれることを、とうに気に入ってしまったんだよ」
     すっかり捨てられなくなってしまった。鉢屋は顔を見ないままに囁いた。
    「どこでも、その名で私を呼べばいい」
    「地獄の底でも、いいのか」
    「同じ地獄に落ちたらな」
     一際強い夜風が裏山を吹き降り、砂煙を巻き上げた。反射的に視界を閉ざしながら指先を覆ったままの手のひらに力を込めた。やがて荒風は過ぎ行き、瞼を持ち上げる。夜の幕を下ろした中庭で、枯れ木だけがただ風の名残に揺れていた。

    (2018/12/22)
    かくも愛しき友人たちへ 同室の男が灯りもつけず部屋の隅に座っていた。傍らには半分ほど中身を残し、温もりを手放した湯のみが置かれている。戸の開けられた気配に視線だけ寄越した男はいつも通り己と同じ顔をしながら、ひどく乱雑に唇を噛んでいた。
    「また喧嘩したんだろう」不破は彼の横に腰を下ろした。壁に背を凭せ掛けながら横目で隣を伺う。髪の隙間から覗く歯は己のものよりいくらか小さく、尖っている。「謝った?」
    「なんで私が謝る体で話す?」
    「経験則。それと、少なくともお前が後悔しているから」
    「時々、兵助が分からない」鉢屋は冷えた湯のみを指で弾いた。「あいつの考え方はある程度理解しているつもりだけど」
    「三郎と兵助は似ているからね。それはつまり兵助の思考が、お前がどうしても見たくない場所……お前の足元を掬うようなものだったから理解したくなかっただけだろうさ」
    「いつもそう言う」冷静であることを確かめるように大きく息を吸い、脳へ酸素を送り込んでから鉢屋が呟いた。「私は兵助とお前が似ていると思うけれど」
    「お前と僕と比べて?」
     不破の問いかけに鉢屋は鼻を鳴らした。額には、捌いた魚の腹から寄生虫が這い出てきた時と似た皺が浮かび上がっている。
    「私は比較は好きじゃない……分類の問題だ。私は努力よりも勘を重んじるが君たちは努力を重んじる。つまり足場が違う」
    「いいや、兵助はお前と同じ足場に立っているよ」不破は言い切った。二人の間に置かれた湯のみを掴み、一息に飲み干す。「早く仲直りするといい。理解し合うことから逃げるなよ」
     隣の男は何も答えず、ただ顔を上げた。

     放課後の図書室は盛況とはいえなかった。並べ置かれた本棚を眺める目がいくつか存在するだけで、当番が一人であっても十分に時間を余らせている。中在家が実習で留守にする間を埋めるように与えられた仕事だ。本来であればもう一人呼ぶはずの当番に、誰を呼ぼうか迷った末自分一人で行うことにした判断は結果的にはよかったかもしれないと、自画自賛の影で小さく欠伸を漏らした。
    「雷蔵、これ返したいんだけど」
     顔に影がかかる。目線を上げた先には見慣れた黒髪が揺れている。
    「兵助。返却ありがとう、また何か借りていく?」
    「そうだなあ。しばらく試験もなくて時間あるし、新しいものがあれば借りたい」
    「新しいものなら、丁度先週入ったのがあるよ。松千代先生がもう読まないものを自宅から持ってきてくださったんだ」
     立ち上がり、背後にそびえる棚の上から二、三冊手に取り机へ並べた。久々知は端から手に取り表紙を捲っては元に戻していく。時間をかけず全てを眺め終えると真ん中の一冊へ指を向けた。
    「これ、借りても?」
    「もちろん」貸出手続きを済ませるべく筆をとりながら不破が言った。「兵助って同じ本を借りないよね」
    「? そりゃそうだろう」
     差し出された本を受け取りながら久々知は答えた。視線は真っ直ぐに不破を捉えている。含みのないそれに笑みで応え、筆を置く。空いた両手で机に肘をつき、一度周りを見渡してから耳打ちをするように唇を小さく動かした。
    「そういえば、三郎は謝った?」
    「やっぱり雷蔵には知られてしまうなあ」
    「まあ同室だしねえ。なんで喧嘩していたのか聞いても?」
    「前に五年全体での実習があっただろう。その時に起こったことと起こり得た事象の差異を話していたんだが、それに関する回避策で揉めたんだ。今回先に暴言を吐いたのは向こうだから、待つよ」
    「その前は兵助だっけ。二人とも天才だから自論と美学に自信があって、仕方ないことなのだけれど」
    「俺にはないよ、特に美学は。天才は三郎の領分だろうさ。俺にできることは累積させた知識から予測していくことだから、勘で最善を弾き出す三郎とは真反対のやり口だ」久々知が言った。「雷蔵もそうだろう」
     不破は「僕はね」と一言だけ言葉を投げると、分かりきっている返却期限を告げた。
    「まあともかく仲直りは早めにね。三郎も兵助も、せっかく似た者同士なんだから」
    「それ、よく言うけど。俺は三郎みたいに天才の感性は持ってないよ」
     久々知は借りた本を抱え図書室から歩き去る。再び、沈黙が場に立ち込めた。
    「天才の感性」
     喉を震わせることなく、唇だけで言葉をなぞる。三回繰り返し、肺に溜まった空気を思い切り押し出した。久々知が自分のやり口を不破と同じだと言った時の何一つ疑問を挟まない声色を思い出し、眼窩へ指が伸びる。目玉を押し込むように圧力をかけると、自ずから瞼が降りた。
    「兵助は同じ本を借りないよね」
    「そりゃそうだろう」
     先ほど交わしたばかりの会話が瞼の裏で幾度も繰り返されている。その隅では積み上げた書物の山と、書き込みの為に置かれた筆が転がされている自室の風景がはっきりと映っていた。
    「結局、自覚か無自覚かの違いしかないんだもんなあ」
     不破は目を開けた。
     この図書室に保管された書物の貸出管理表に、久々知兵助の名前が二度載ったものは一冊もない。鉢屋や立場上連携を取ることの多い竹谷はおろか同室の尾浜でさえ知らないであろう事実。図書委員という特権の基、久々知兵助という人物において不破が知る唯一の秘密だ。不破にとって久々知も鉢屋も等しく尊敬し、また対等に並び立つ友人である。だからこそ二人の間に流れる他の誰とも共有されることのない空気へ皹が入らないよう見守っている。理解され難い天才の感性に触れることができない以上、見守ることが友情を芽ぶかせる土壌となる。それでも、時に己の足元を掘り返すことから逃げるあまり、互いの理解から遠ざかる彼らを見守ることしかできないという事実は強い風となって葉を揺らした。
     つまり、一種の意趣返しなのだ。もがいた先で気が付けば良いと、不破は見守る者だけに許された意地の悪さを振りかざしている。この秘密を、今はまだ教えてやるものかと不破は小さく微笑んだ。

    (2019/02/03)
    チョコレェト・デイ ver.1(※現代パロディ)

     エスカレータを降りた先には人の波が渦巻いている。久々知は流れに従いながらも気後れするように歩幅を狭めた。色も柄も様々なのコートが気ままに溢れかえり、人混みに鮮やかな色をつける。少し暑さを感じるほど人を密集させた室内でさえもどこか楽しげな雰囲気が広がっている。周りを歩く人の殆どは女性で、隠しきれない笑みを浮かべる人や真剣にショーウィンドウを覗き込む人、腕にたくさんの袋を下げてため息を吐く人、それぞれに思惑があってここへ来ていることは明白だ。
    「すごい人だな」
     久々知の横を歩く男が呆れと感心の混ざった声色で言った。
    「本当に……なあ三郎、やっぱり」
    「わざわざ皆がよく使うデパートと別の路線で三駅離れたデパートに来たのに?」
    「それは、そうなんだけど」
     周りを行き交う人は皆忙しなく通路を闊歩している。漠然と歩き回っているのが自分だけのようで、久々知は袖の先を指で握った。
    「別に男も結構来ているし、誰もが贈りたい相手に買いに来てるわけじゃあないだろう」鉢屋はポケットに詰め込まれていた手を出しながら言った。「この様子じゃバレンタインとチョコレート、どっちが目的かなんて分からない」
    「……今、俺の悩みは三郎にとってすごく些細なこと?」
    「些細とは言わんさ。私だって多少は場違いだとは思っている。けどそれは兵助とここにいるからではなくて……私がこんなイベントに託けて兵助と出かけようとしたことに対して、であって」
     鉢屋は言い淀むように唇を二、三度動かすと袖に隠れた久々知の掌をそっと掴んだ。
    「兵助の選んだ、チョコを、食べたいです」
     掌にはしる細い血管を伝い、鉢屋の脈が届く。普段より早く響くそれに自ずと頬の強張りが解けていく。
    「俺も、三郎が選んだチョコを食べたい」
     触れ合っただけの掌を強く握り返す。コートの裾へ隠すように繋がれた二人の手に気がつく者はなく、ただ楽しげな雰囲気に飲み込まれるばかりだ。見知った顔の一つとしてないデパートの中を、二人は並んで歩き始めた。


    チョコポスト「鉢くくがこっそり手を繋いで買いに行ったチョコ」より

    (2019/02/06)
    チョコレェト・デイ ver.2(※現代パロディ)

     バレンタイン・ディが近付くほどに街には甘い香りが漂い始める。日頃から食べることもない、どこかのブランドを冠したチョコレートを並べたデパートの特設売り場から主婦が野菜と一緒にカゴへ放り込むようなスーパーにまで、その影が写り込まない場所はないように。元は恋人の日であったはずがいつの間にかチョコレートが主役となった風習は今年も盛況なようだ。鉢屋は目の前に立つ女子高生が二人、自分の為に高いチョコレートを買うのだと笑い合う姿が茫洋と視界に収まっている。女子高生たちはコンビニでは買うつもりがないのだろう、早々に自動ドアをくぐり抜けて行った。ドアが開いた拍子に吹き込んだ風に右側にいる少女の高く結ばれた黒髪が煽られる。癖の強い少女の髪が知人の髪を思い起こさせ、鉢屋は少女たちから目を背けチョコレートの棚の方へ顔を向けた。一枚百円もしない板状の物からチョコレートを使った菓子に至るまで様々な物が整然と置かれている。中には女子高生が言ったような値の張る物も一段高い場所から店内を見下ろしていた。
     鉢屋は並んだチョコレートたちを一列ずつ眺めやると、レジの列から外れ棚の前へ歩を進めた。視線の先にはアルファベットで飾られた箱がある。海外から輸入されたそれはコンビニに馴染みがなく、安っぽい原色で印刷されたパッケージの中で一際浮いて見えた。箱の前に立ち、顎にやっていた手を伸ばす。誰に言い訳するでもなく、自ずと鉢屋は視線を床へぶつけた。
    「…………?」
     指先に厚紙と異なる感触がはしった。足跡の残る床から目を離し、慌てて前を向く。途端に大きな黒目と視線がぶつかり、鉢屋は声もなく口を開けた。
    「……三郎!」
     相手の声に瞬きを繰り返す。数秒かけて自分の名前が呼ばれたことに気がつくと、開いたままの口が小さく萎んでいく。閉ざされる直前に肺から絞り出された呼吸に混ざり、言葉が零れ落ちた。
    「兵助」
    「びっくりした。マフラーで顔が見えなかったし」
    「……私も驚いた」
    「三郎もチョコを? 俺もなんだ。別にバレンタインに興味があるわけでもないんだけど、ここまであちこちに並んでるとつい買いたくなる」
     久々知の指先に触れた箱は鉢屋が触れている物と同じ物で、彼はそこでようやく触れているのは久々知の指だと知った。
    「気が合うな」久々知が言った。
     鉢屋は指をずらし箱の側面を摘まみ上げるとカゴの中へそれを放り込んだ。自分の為に買うつもりではないという言葉を喉の中程で押し留める。
    「合わないさ」
     顔を隠すようにマフラーを引き上げる。目先に映る赤く染まった爪先から目をそらし、鉢屋はレジの列へ並んだ。


    チョコポスト「三郎と兵助が二人で手に取ったチョコ」より

    (2019/02/09)
    鳥はとうに飛び去った 帳面の全ては鳥で埋められていた。カワセミに似た小さな鳥から見たこともない大きな鳥まで。同じ形をした物のない絵が、初めから終わりまで一枚も抜けることなく続く。
     ただ一つ、描かれた鳥たちは皆一様に、水面から飛び出す瞬間を切り取られていた。
    「鳥が好き?」
     久々知は帳面を表に返し、机に戻した。手のひらは置かれたまま、全ての紙面を束ね合わせる紐をなぞる。
    「好きとは言えないな。それほど詳しいわけでもないから」帳面の方を一瞥することもなく鉢屋は答えた。「それも部屋の隅に置いてたものを見つけただけだ。いつ描いたかも覚えてない」
    「詳しくなくても好きと言うことは許されてる」
    「お前が片付けの最中に入ってきて、勝手に見始めたんだろう」
    「俺は鳥が好きだよ。ねえ三郎、鳥が好き?」
     久々知が、今度は顔を上げて尋ねた。櫛をしまい直す手を止めた鉢屋は少しばかり口を開き、そのまま首を振った。久々知は再び帳面へ視線を戻した。肩から落ちる黒髪が胸の膨らむのに合わせて上下する。満足したと言うように大きく息を吸ったからだった。
    「この時の三郎は何を思っていたんだろうな」
    「魚を捕る鳥が、その瞬間、どこを見ているか知っているか知りたかったんだ。ひどく綺麗で、似ているような気がして」
    「それで?」
     鉢屋は机の向こうに座る男の方へ身を乗り出し、秘密を教える子供のような声色で囁いた。
    「空だよ」
    「鳥は獲った魚なんて見ていない。嘴に捉えた瞬間彼らは空を見ている。もがく魚には目もくれず、でもそれは冷たいんじゃない。彼らはもう、次の場所を目指している?だから美しい……彼らは振り返らない」
     久々知は背を伸ばしたまま、帳面を見つめた。
    「それは、似ていた?」何にとも言わず、問いが投げられる。
    「似ていたよ。質問を投げておいて答えた途端に次のことを考え出している、誰かに」
    「寸鉄を使っていると、瞬間が命取りになるんだ。すごく近くに行かなければいけないし……相手に武器を向けながら次にどちらへ向ければいいか見ないと、とても間に合わない。でもどこを見ていようと関係ないんだ。つまり、切り替える瞬間が人より速いだけってことなんだけど」癖のようなものだと唇の先を歪めた。
    「ねえ、三郎はこの鳥たちが好き?」
    「ああ、好きだ」
     鉢屋の喉を震わせた波が音に変わる。乗り出していた身を元へ戻し、帳面を指で押しやった。
    「兵助がよければ、それ、持っていてくれ」
     久々知は窓へ首を向けた。窓の枠を超え流れ出しそうなほど鮮やかな青が広がっている。同じ青でも水の色とはどこまでも異なる青色だ。どちらが本当の青であるのか、久々知には分かるはずもない。きっと鳥も同じだろう。水面を眺めやることと空を仰ぐことに、何一つ違いはない。
     だから振り返らないのではなく、振り返る必要がないというだけ。
    「それを綺麗だと言ってくれるお前の感性を、美しいと思うよ」
     差し出された帳面を抱きかかえた。
     目の端に映る太陽の眩しさに目を閉じる。瞼の裏に広がる歪んだ残像は翼を広げた鳥の姿をしていた。

    (2019/04/22)
    水底の星 蝉が鳴き止んだ。たった一瞬生まれた静寂が却って鼓膜をひどく震わせたような感覚に襲われ、鉢屋は耳を塞いだ。左耳に枝がこすれ、ざわめきを生む。彼は枯れ枝を手に山の中を歩いていた。もう半刻以上は経っている。五年の間に通い慣れた裏山の道ではなく、木の枝も草も生い茂った獣道だ。一足踏むごとに草の葉と草鞋が擦れ否応なく音を立てる。忍の好みからは遠く離れた道であるからして、鉢屋は今まで誰にも会わずにただ歩き続けている。背後で枝を踏み割る音が響いた。等しく同じ速度で響く足音は彼が学園の門を出た時からついて回っている。それを出会ったと言うつもりはなかった。
     手にした枝が、木から鷹揚に伸びた蔦にかかる。絡みついたそれを取ろうと一度足を止めた。足音も同じように止まった。わざとらしささえある几帳面な動向にせり上がる溜息を押し殺した。振り返ったところで足音の主はいつものように、平然と背筋を伸ばしているのだ。底の見えない黒目でただ真っ直ぐに鉢屋を見ているのだろう。首筋に火傷にも似た鈍い感覚がはしった。同時に背を流れ落ちた汗が暑さのためであるのか、彼には到底分からなかった。

     その花をもらったのは夏に入る前の雨の日だった。忍務というには軽すぎる、しかし下級生には任せられない使いを頼まれた帰りのこと。同期の男が道の反対側から歩いてくるのを目にした。学園から最も近い町に買い出しへ繰り出す生徒は少なくない。帰り道の上にあるのだから何も特別な出会いではなかった。鉢屋が女物の着物を羽織っていたからといえど、そこに特別なものは存在し得なかった。変装癖は学園の中でも有名なものであり、五年間肩を並べてきた同期たちには町で友人が女装をしていたからと構う者もある。しかし偶然出会った男がそういった人物ではないと断言できる程度には浅からぬ付き合いがあった。朝から降り続く雨は季節に似合いの風景だが、道を歩くには煩わしい。人の少ない道ですれ違えば、己の格好がどうであれ、会釈くらいは交わしても構わないだろう。そう考え顔を上げた矢先のことだ。
    「これをどうぞ」
     視界に鮮やかな色が飛び込んだ。厚い雲と濡れた地面に挟まれた地上でくすむことなく花弁を雫に濡らしている。小さな花が寄せ集まり大きな房を成す。紫の中に青みを帯びた花のついた枝を思わず手に取り、それから瞬きを繰り返した。
    「紫陽花?」
    「雨の日には少しくらい色彩を持って歩いた方がいいと思うよ」
     男はそう言って唇で月を描いて見せた。空いた手を振り、鉢屋が口を開くよりも早く背を向ける。日頃より広い歩幅で歩き去る彼の後ろ姿をただ視界に写し、立ち尽くした。網膜には紫陽花の紫よりも、黒々とした目が鮮明に焼きついている。
     花は数日もしないうちに色を落とし、さらに数週間をかけて茶に戻っていった。

     陽の名残を頼りに黙ったまま獣道を辿る。彼が歩幅を緩めれば後ろの足音も歩幅を緩め、道の険しさに神経を削れば足音もまた神経質なものへ変わる。制服の裾が破れないよう器用に道を進む。やがて鼻奥を水の香りがくすぐり、鉢屋は顔を上げた。目の前には川がある。谷へ流れ込む大きな川ではなく、子供の背丈でも腰まで浸かることは難しいであろう浅い川だ。川幅も狭く、けれど人の手に晒されていない川は底に泳ぐ小魚一匹さえも見透かすほどに澄んでいる。川面を見つめ、鉢屋は肺に溜め込んだため息を一気に押し流した。澄んだ水は光を反射し、鏡のようにあたりを映し出す。
     そして黒目を捉えた。
    「やっぱり、兵助」
    「そんなもの持ってどこへ行くのか、気になったから」水面に揺れる鉢屋の顔を見据えながら久々知が言った。「随分、大切にしてくれていたようだけど」
    「罪悪感でも覚えたのか?」
    「……たまたま町で三郎を見つけたから。悪戯のつもりだったんだ」
     いつもの仕返しだと彼は顔色を変えずに続けた。鉢屋は僅かに肩をすくめるばかりだ。
    「兵助は私の女装を見破れなかったとばかり思った」
    「嘘をつけ。そう思ったならネタをばらした後で散々からかうだろう、三郎なら」久々知の唇がつり上がる。濃い紫の迫る空を映す川にもそれは映り、気の早い三日月のように揺れた。「大切にしてくれていて嬉しかったんだ。俺が、いつだって三郎を見つけられるとは限らないから。三郎は決まって俺を見つけてくれるけれど」
    「つまり、今のように?」
     久々知は頷いた。空はとうに暗闇へ沈み、互いの顔は見えなくなっていた。
    「ここに紫陽花を埋めようと思ったんだ。枯れてはしまったけれど、もしかしたら芽を出すかもしれないから」枯れ枝を川沿いの土に突き刺し、鉢屋は言った。「また、見に来られるだろう」
    「……三郎ってたまに夢想家みたいなことを言うんだよな」
    「夢想家ついでに良いことを教えてやろう」下級生たちを褒める時と同じ暖かさが声を包んだ。「前を見てみろ」
     久々知が顔を上げた。いつの間にか天を覆った星々が一筋の流れを作り、遥か空の上に横たわっている。三秒ほど瞬きを忘れ、やがて目の端に飛び込んだ光の眩しさに慌てて瞼を下ろした。強張る目蓋を静かに開けば水面いっぱいに映し出された星々が代わりというように瞳へ飛び込む。光は暗闇へ馴染んだ四つの目の上で踊るように跳ね返る。黒い目はより多くの星を掬うかのごとく、大きく見開かれていた。
    「天の川だ」
    「川の底の石まで星明かりで輝いて、宝石みたいだろう」
    「やっぱり夢想家だ」
    「なんとでも」
     紫陽花の枯れ枝は風に押され、すっかり倒れきっている。鉢屋はそれを拾い上げ、川へ向かい放り投げた。落下の衝撃で生み出された波紋が鏡を壊し、天の川からただの川へと戻っていく。
    「帰ろう、兵助」
    「そうだな」
     日が暮れては危ないから開かれた道に出ようと、獣道とは反対に向いた足は四足。横並びに土を踏んでいた。


    「文字書きワードパレット」より
    6.トリクル・トリクル【紫陽花】【宝石】【歩く】

    (2019/08/09)
    祝いを君へは贈らない 幸せになってください。山の入り口でそう叫んでいるのは商人然とした身形の男だった。視線の先にいるのは晴れ着と思わしき鮮やかな染め模様を纏う女性で、慕わしげな表情を振り返りながら山へ向かう道を進んでいる。側を歩く老女に急き立てられた女は最後とばかりに足を止めて身体ごと男へ向いた。か細い声は木々のざわめきに揉まれ聞こえない。それでも陽に照らされた顔は明るく、男は再度叫びながら大きく腕を振った。
     久々知が何者かの門出に出くわしたのはただの偶然であった。秀才の誉れ高い男ではあるが、時に何をしようと手につかない日もある。教師の出張から自習を言い渡されるも、本を読もうと数日前に行われた実習の反省を再度行おうと、半刻もしない間に心臓が奇妙な浮つきを訴えるのだ。とても自習など出来はしないと教室を出た。当然授業時間であるのだから、勝手に出歩くことが許可されることはない。図書室へ資料を取りに行くと学級委員でもある友人に告げたところ、彼は「そうかい」と返した。
    「今日は小松田さんが帰省中だから、曲者に気を付けろよ」
     先から本を閉じては開けてを繰り返している己の様子はバレている。当人は爽やかと形容する笑みには曖昧な頷きを返すだけに留め、一言ありがとうと告げた。
     そうして何食わぬ顔で学園から出たところで、件の光景を目にした。
     誰に咎められる訳でもないが気の持ち様から木の影を渡り歩いていた彼に、男も女も気が付きはしなかった。どこか似た顔立ちをした二人は恐らく姉弟で、姉が山を越えた先へ嫁ぐのだろう。真偽は傍観者たる久々知には分からないが、周りの者々の荷の多さから予想くらいは立てられる。仮にも忍びの卵だ。観察眼は常に鍛えるよう習慣付けている。
    「いいことなんだろうな」
     心の中で呟き、彼らが立ち去るのを待つ。姿を見られようと構いはしないが、荷の一つも持たない男が山道から音も無く現れては驚かせよう。そんな気遣いをする程度には、目の前に広がる光景を好ましく思っていた。
     別れの挨拶は長く続いている。茫洋と眺めたまま、不意に視線を悟られては堪らないと、一度視線を逸らす。地面を見やれば、足元に木の枝が落ちているのが視界に入った。まだ若いうちに折れ落ちたのだろう枝はすでに水分を失い色褪せている。手持ち無沙汰に手にし、日頃扱う武器を真似て掌中で回してみせる。
     そして、女の頭上目掛けてうち放った。
    「誰だ!」
     集団が俄かに奮い立つ。女は慌てて人垣の中に隠れ、男もまた一歩後ずさる。先の尖っていた枝は女の背後に立っていた木に刺さり、いくらか表皮を落とした。絵に描いたような別れは事切れた。今度こそ彼らから目を離し、草木の影を伝い山の麓に広がる森へと身を翻す。しばらく森を走れば喧騒は遠ざかる。更に森の深くへと入り込み、ようやく足を止めた。呼吸は乱れていない。それでも久々知は深く息を吐いた。
     森の奥、小さな滝と清流からなる開けた場所だ。山道には通じず目立った薬草もない。絶え間なく飛沫を浴びる岩の群れはどこも黒く光沢を放っている。ただ自然が在るだけの場所。
     久々知はさざめく神経をそのまま苔の上へ倒れ込んだ。地面に広がる黒髪は水分を含み艶を増した。緑のにおいが全身を包む。彼がこの場所を訪れるのはそう珍しいことではない。誰しも学園の内外に一人になれる、有り体に言えば秘密基地のような場所を抱えている。この場所は久々知にとってのそれであるというだけのことだった。見つけたのは二年ほど前で、鍛錬や薬草探しに訪れる意味もなければ下級生が遊びで訪れるには足場が悪すぎるこの場所は、ただ沈黙を欲する久々知にとって望ましい場所であった。
     苔に背を預けながら大きく息を吸う。胸の上下に合わせて水の音が皮膚を通り背骨を震わせる。土と、水と、植物とに一体化して、沈んでいくのではないかと錯覚を起こす。
     瞬きを一つ落とす。途端に指先へ力が戻り、背が跳ね起きる。ようやく次の瞬間に、己の顔に影が覆いかぶさっていると気が付いた。
    「大丈夫か?」
     影の差し出す手に捕まり、半端に起こした身を持ち上げた。
    「よう、三郎」
    「よくまあ授業時間内に学園の門から出られたな」
    「今日は小松田さんがいないんだ……それに、い組は午後の教科が自習になりました」
     鉢屋が久々知の背に回る。傷だらけの指が制服に付いた細かな泥を払い落とした。「三郎って案外綺麗好きだよな」「お前、髪にまで草のにおいが付いてる。これじゃあサボりがばれるぞ」「学級委員長にはもうバレてる」「共犯かよ」久々知が淀みなく返せば鉢屋の肩がわざとらしく落とされた。「い組には自由人しかいないのか?」
    「三郎は? サボり?」
    「今日は違う。れっきとした忍務帰りだよ」
    「ふーん。お使いか」
    「そうとも言う。勘右衛門から聞いてないのか」
    「いや、なんでわざわざ三郎のいないところで三郎の話ししなきゃいけないんだ」
     鷹揚に顔を背けた久々知に鉢屋が喉で笑い声を立てた。男の反応に気を悪くしたのか、立ち上がったはずの腰を再び岩に下ろす。鉢屋もそれに倣うように苔の上に足を投げた。
    「私の忍務の話を聞かないのか」
    「三郎が聞いて欲しいなら」
    「じゃあ勝手に話そう。まあ忍務なんて言っても楽なもので、学園長の旧友の娘の嫁ぎ先が決まったらしく祝いの品を渡して来ただけなのだが。少しばかり遠いのと、祝いの場における礼儀作法がどうのと言われて下級生ではなく私が行くことになってね」
     嫁という言葉に先ほど見た光景が蘇る。今はそういった時期なのだろうかという疑問を喉につかえさせたまま、視線で続きを促した。
    「盛大な宴会でな。物を渡してすぐ帰るつもりが引き止められてしまった。まあ悪い場ではないからと初めは隅の方でしばらく様子を見ていたんだが、娘に向かって次々に客が言うんだ」
    「……何を」
    「幸せになってください」
    「………………」
    「なあ兵助、」
     鉢屋が言葉を切る。岩の上に置かれた久々知の手を、無数の蛸が膨れ上がっている肌色を見やった。
    「いいことだと思わないか」
    「人の幸せを祈れること? それとも幸せを祈ってくれる人がいることが?」こんな世の中で、と久々知は続けた。いつ命を落とすかもしれない世で、幸せになれという願いはあまりに無責任な祝福だ。だからこそ、夢のように美しい。
     先ほどの光景が脳裏に蘇る。
     芝居小屋の背景の如き様が己は気に食わなかったのだと、ようやく久々知は感情が胃の底に落とされた感触を覚えた。暗闇を知る己への酔いが引き起こした反発。或いは願う幸せが虚構に過ぎないことを知りながら真に祈りを口に出せる場所への捻くれた反感。要するに八つ当たりだ。ただでさえ何も手につけられない浮遊感に苛まれていたのだから、いつになく癇に障ったのだろう。
     久々知は同じく岩の上に投げ出されている鉢屋の手へ指を伸ばした。爪先からなぞり手の甲に至る。それまでに通った傷の数を、彼は数えなかった。
    「まあ私は少なくとも雷蔵や八左ヱ門、ついでに勘右衛門も含めてやるが、あいつらが不幸にならなければいいと願っているし、あいつらにならそれくらい願われてもいいと思っているよ」
    「俺は?」久々知が自らの手で無数の傷を覆う。
    「幸せなんか願ってやらないさ」
     鉢屋が重ねられた手を握り返した。
    「私の知らぬところで、幸せになられてたまるか」
     繋いだ指先から互いの熱が伝わり、通う。離すには惜しい柔らかな温度。それでも僅かに傾き始めた日が二人を照らし始め、どちらからともなく指を解いた。
    「授業が終わる前に戻らないと」
    「いや兵助まさかその格好で戻る気か。いくら勘右衛門が共犯だからって露骨すぎる」
    「大丈夫、自習の度に交代でサボってるから教室に戻る必要もないし」
    「集団カンニングといい本当に自由だなお前たちは!」何がと言わんばかりに真っ直ぐな目を向けられ、鉢屋は肺に溜め込んだ息を押し出した。溜息の意味を知ってか知らずか。その背を叩きつつ、久々知の声が空気を震わせた。
    「それで三郎はいつから気付いていたんだ」
    「たまたまだ。お前が花嫁に木の枝を投げたところを丁度見つけて、真っ直ぐここへ来るものだから。何かあると気付くのは当然だろう」
    「……見られたのが三郎でよかった」
    「そんなにこの場所を秘密にしたいのか」
    「だっていい場所だろう。こんなに静かで、きれいだ」
     鉢屋は無言で頷いた。清流へ背を向け、獣道に足を踏み入れる。二歩ほど踏み入ったところで振り返り、手を差し伸べる。久々知は大きな目を瞬かせ、すぐに手を伸ばした。枝の隙間を縫い歩けば自ずと足元に視線が向く。繋いだ手はそのままに獣道を抜ければ、いつの間にか無数の葉が袖に付いていた。幼少期の如き姿を目にし、互いに口の端を吊り上げる。
     不意に久々知が笑みを止め、真剣さを帯びた色を瞳に浮かべた。
    「俺は三郎が不幸せになりそうな時には、手を引いてやりたいと思うよ」
     今度は己が。
     結局のところ、幸せも不幸も勝手に味わうことを許したくないだけなのだ。手を離して幸せを願うのは、世の不条理に身を置く己らには眩すぎる。
    「兵助、もう大丈夫か?」
     先ほどまで確かに四肢へ広がっていた、倦怠に似た浮遊感はとうになりを潜めている。一人で暗がりを知ったような顔をする影もまた。
     きっと大丈夫だと、今なら言える。


    診断メーカー「こんなお話いかがですか」より

    (2019/10/26)
    灰に灯るは人肌の 色彩を忘れてきたのかと見紛うほど白と黒で構築された男が、頭から灰色に染まっている。忍術学園の敷地内において最も人気のない場所である火薬倉庫の隅で蹲る灰色の塊は野生の獣のようで、鉢屋は音もなく息をのんだ。灰を纏わせた黒い髪は夜に溶け込まず暗闇の中で忽然と浮かんでいる。
     この男は時折こうして独りになることを好む。鬱蒼とした茂みの先にある火薬倉庫には人の気配はおろか、辺りに漂う香りを警戒しているのか学園を闊歩する生物も近寄らない。風のない夜の中では葉の掠れる音も響かず、ひたすらに沈黙が鼓膜に突き刺さる。足元を揺さぶる感覚が脳にまで伝い目眩を引き起こす。鉢屋は力の抜けた足を踏み出すと砂利を思い切り踏みにじった。
     足の裏で砂を噛む些細な音が、爆発音のように響き渡る。
     灰色の首が僅かに擡げられた。
    「兵助」
     男の名を呼べば、灰に塗れた身体の中で唯一そのままの姿を留めた瞳が鉢屋の姿を捉えた。日頃は何もかもを射抜くつもりかと思うほど確とした視線が、今夜ばかりは不安定に揺れている。二秒と経たず俯いた男の名を、鉢屋は先より小さな声で呟いた。
    「兵助」
    「…………三郎」久々知がようやく言葉を返す。頭がただ一言分揺れるだけで、髪から灰が零れ落ちていく。「ごめん、今日は戻らないって勘右衛門に伝えてくれる?」
     奴はとっくに知っていると分かっているだろうに。喉まで出かかった言葉を抑え、代わりに一歩久々知の方へ近付いた。
     男は尾浜へ伝える必要など端からないことを知っているのだ。この同室の者たちは妙に互いに纏わる勘が良いのだから。夕飯にさえ姿を見せなかった尾浜が「今日は帰ってこないだろうな」と呟いたのは記憶に新しく、久々知も部屋へ一度も戻っていなければ気付かれることは承知の上だ。何より、五年も共に過ごしていればこのようなことは度々あることである。つまり、久々知は鉢屋へ遠回しに帰れと告げたのだ。さてどうするかと思案すれば、部屋の前で聞かされた「今日は寒くなるからなあ」という呟きが耳の奥で蘇った。わざとらしく言葉を残した男へ舌を打ち鳴らしたい衝動が脳をかすめる。何をせずにいられないことなど、とうに見破られているのだ。
     もう一歩近付けば灰色の塊は少し身動いでみせる。それだけだった。その場から動く気がないのだと分かった途端、鉢屋の足は素早く進んだ。大股で三歩もすれば蹲る男の目の前に立っていた。爪先だけが触れるか触れないかの水際にある。灰の隙間から微かに滲む白い肌が目を焼いた。
     眩しさを遮るように手を伸ばす。灰のざらついた感触など気にもせず、鉢屋は久々知の腕を掴んだ。そのまま己の肩へ乱雑な素振りで引き寄せる。制服の下で冷え切った皮膚の温度が手のひらへ伝う。
    「…………」
    「今ならまだ、湯もあるかもしれない」
     久々知はされるがままに灰を遊ばせている。初雪のようだと思いながらも笑うことは出来ず、鉢屋は男の腕を引いたまま来た道を引き返し始めた。

     火が落とされてからしばらく経つ浴場には人の姿などなく、湯船を満たした水はとうにぬるま湯へ変わっていた。冷えた肌であれば温もりを感じることはできるが、半端な熱では却って体温を奪われていく。鉢屋は仕方なくぬるま湯に手拭いを浸し、冷たくはないというだけの濡れ布巾を手に浴場を後にした。その後ろを久々知が黙ったまま、影のようについて歩く。長屋へ上がる前に灰の殆どは叩き落とされ、今では髪や制服に残る薄灰だけが男の輪郭を鈍らせていた。
     明かりの灯る自室の扉を開く。同時に不破が書物から顔を上げた。
    「お帰り、三郎」
    「ただいま。雷蔵、」
    「その様子だと無事に保護できたみたいだね」不破は鉢屋の目を捉えるが早く小さく頷いた。「うん、いいよ、僕はどこか別の部屋に行くから。八左ヱ門か、勘右衛門か……」
    「勘右衛門が待っていると思う」
    「そう? じゃあ今日は勘右衛門のところにしよう」
     枕を片手に立ち上がり、鉢屋の横をすり抜けるように部屋を出る。扉の陰に身を隠すように立つ久々知を一目見やると、何も言わずに彼らが来た方向とは反対へ歩き始めた。
     腕を引かれるまま部屋の中へ入る。先まで人がいた部屋は暖かく、鋭さを湛えた空気に晒されていた肌が和らいでいく。久々知はそこでようやく「ごめん」と一言零した。
    「雷蔵にも、迷惑をかけた」
    「兵助、そこに座れ。これ以上手拭いが冷える前に身体を拭いてやる」
    「別に、そんな必要」
    「私がやりたいんだ」
     言葉が返されるよりも早く肩を押せば手応えもなく重心は崩れ、膝が座布団に落ちる。軽い衝撃が前髪を歪ませ、その拍子に目元が露わになる。僅かに皺を寄せながらも久々知は手のひらを顔の横で広げてみせた。鉢屋が制服の肩に手をかける。灰が無作法に撒き散らされないよう袖を抜く。陶器と見紛うほど血の気のない腕へ手拭いを滑らせた。人肌ほどの温かさは冷えた皮膚の上を走ってはすぐに消えていく。腕から肩。肩から首。背をなぞる頃にはとうに温もりを失くし、背後から腹へ手を回せば寒さに疎い男の皮膚に淡い粒が浮き上がる。久々知は気にするつもりがないと言わんばかりに袴の裾を捲り上げた。隙間から入り込んだのであろう灰を拭い去るのに手間はかからない。手拭いを折り直し汚れていない最後の面を表にする。一等丁寧な仕草で顔を拭えば後には冷えきった身体一つが残された。
    「兵助、こっちに座ってくれ」鉢屋が机の前を指で示す。変装の道具が整然と並ぶ机の中央には一枚の鏡が置かれている。「髪を整えてやるから」
     絹にも似た細い髪を一房持ち上げる。北風に晒され縺れた糸は艶を失い、糊で貼り回された人形の髪に変わり果てている。まるで息をしていない。化粧道具のしまい込まれた箱から櫛を一つ取り出して荒波に通す。頭頂から毛先まで滑らせれば一筋の艶が後に靡いて続いた。時折歯に絡まる糸を解きながら、幾度も繰り返す。糸が引かれるのにつられて頭皮も引かれる柔い痛みに頭を揺らすことはあれど、久々知の頭は俯けられたまま、絡繰のように単調な動きを追って鏡の向こうで視線だけが茫洋と動いた。沈黙がうち響く空間の中では自ずと息は潜められる。髪と櫛が摩擦を起こす音がやけに大きく鼓膜を揺らした。鉢屋は何を言うこともできずただ黒い波の唸りに手を入れた。
     黒絹が艶を取り戻す度に部屋を満たす音は掠れていく。
     やがて静寂が訪れた。
     鏡の向こうから大きな黒目が鉢屋の目を捉えた。鏡越しに見合ったまま、久々知は背に重心を任せる。重みに傾ぐ背はすぐに鉢屋の肩へぶつかり動きを止める。暫し鉢屋の顔を下から眺めやり、やがて青紫に染まった唇を開いた。
    「三郎、寒い」
    「私もだ……すっかり冷えてしまった」
     床に向けて垂れ落ちていた腕が懐の重みへ回される。冷えた肌同士では互いを温めるには足りず、ただ触れ合ったわずか皮膚一枚だけは確かに温かい。黒髪の幕を鼻先で潜り首筋へ頭を預ける。互いの脈が鼓膜を、皮膚を通じて己の脈に染み渡る。喧騒も、痛いほどの静寂もない。朴訥と響く鼓動が二つ。
     二人には、それで充分だった。


    文字書きワードパレット より
    十一.ラトレイア【鏡】【無音】【灰色】

    (2019/12/01)
    奪い奪われ、さてその先は「そういえば今日、お前と恋仲なのかと尋ねられた」
     自室で課題に向かっていた不破が徐に呟いた。夜も深まる時分に聞こえるのは虫の羽音と種々の武器が風を切る音ばかりだ。柔らかな声は外から運び込まれる音を覆いながら染み込んでいく。反対側に置かれた机で同じように課題を片付けるべく筆を動かしていた鉢屋は緩慢な仕草で瞬いた。答えを書き記していた紙には黒い点が浮き上がっている。
    「……誰から」
    「能勢。二年生の間で噂になっていたらしいよ。鉢屋先輩はやたら不破先輩を気にかけるし、不破先輩は鉢屋先輩をやたら気にしないし、特別な仲なのかって」にわかに声色を変えて不破が言った。同じ委員会に属する後輩の真似ではあろうが、本人も真面目に真似る気はなくひどく半端な声は奇妙なほど間の抜けた色を浮かべていた。「面白いよね」
    「……それ本人には」
    「後輩の成長を見守るのが先輩の役目だもの。言ってないよ」
     忍術学園に在籍するということは十の頃より寄宿生活を送ることを意味する。決まりきった、人間関係における形式的なやり方は既に身に付けている子供が殆どであるが、より複雑な人間関係を学ぶには幼いままで親元を離れる事になるのだ。本来であれば両親や兄弟、或いは周りに暮らす数多の人間から学ぶ形のない関係性を教わる時分に。つまり彼らがそれらを垣間見、学ぶ相手は先輩と呼ばれる数年先を生きる者たちしかいない。先輩が町で女の子と、時としてそれは級友の女装姿であるのだが、歩いているのを見かけた。あの先輩には郷里に恋人がいるらしい。大抵はそんな噂から愛や恋といった人間関係の在り方を学んでいく。まさか自分たちがその噂の的になっていようとは思いもせず、不破は湧き上がる笑いを堪えるように息を吐いた。
    「ならいいんだが」
    「ああ、噂もきちんと否定しておいたから安心してくれ」
    「……悪いな」
    「この程度で怒っていたら、とうに顔を貸すのなんて止めていると思わない?」
     どうして鉢屋三郎に顔を貸しているのか。この五年間で嫌というほど投げかけられてきた問いだ。不破に何の利点がある、鉢屋の悪戯に巻き込まれては怒っているだろう。そのように問いかける者も少なくはない。確かに鉢屋三郎は悪戯者ではあるが、嫌な奴ではない。真剣に止めてくれと頼めば彼は変装を止めるだろう。それが不破の頼みであれば尚更のこと。だからこそこの問いの答えは単純で、つまり、不破が鉢屋の相棒であることを選んでいるだけなのだ。
    「二年生とはいえもう十一歳の子どもだもの。恋を知りたがるには早くない。けれど今はまだ友達を選ぶのと、特別に焦がれる気持ちとの差異を知らないだけだろうし……いずれ彼らも知るだろうけれど」
    「それが良いのかは分からないがな」
     不破の方を一度振り返り、鉢屋が独り言というには蒙昧とした声色で呟いた。不破は鼓膜を揺らす呻き声に肩をわずかに竦めてみせた。そのまま視線を横へ傾ける。灯りに映し出された影が二つ、同じ形で壁を這っている。
    「僕らは互いに互いを選ぶ余地があった。でも、」
     風もなく、蝋燭の火が揺れ動く。
    「焦がれる相手は、選べないものだろう?」
     鉢屋は黙したまま、部屋全てを照らすには心許ない灯りの筋を見つめている。
     瞬きほどの間もなく、扉が鈍い音を立てた。
     北風の来訪にしては意思を持って叩かれるそれは、すぐに扉の向こうから一人の声を運び込む。
    「三郎、いる?」
    「兵助?」
     入れと続けながら鉢屋は物音一つなしに立ち上がった。扉と壁の間に空いた一人分の隙をすり抜ける影が一つ。室内へ滑り込んだ身体からは土の香りが立ち上る。肌に纏った冷気が流れ出し、同じ顔をした二人は揃って背筋を震わせた。鼻先を赤くした久々知が遅くにごめんねと口先だけで謝罪を述べた。
    「やあ兵助、こんばんは。寒いのに鍛錬? お疲れ様」
    「こんばんは。ちょっとやりたいことがあってね。雷蔵たちは課題か」
    「そうなんだよ……今日の午後急に出されちゃって」不破が眉を潜めながら半分ほど黒で埋まった紙面を睨む。「それで、三郎に用があるんだろう」
     久々知は何も浮かんでいない宙を見上げ一人頷き、立ち上がったままの鉢屋へ身体を向ける。そして寒空の下から解放され、赤く色づいた手を広げてみせた。
    「悪いが切り傷用の薬を持っていないか」
    「薬なら保健委員長のところに行くべきだろう」
    「こんな夜に先輩の部屋に行けると思う? それに三郎の部屋の方が近い」
     鉢屋であれば己の望む薬を持っているという確信を隠さず久々知が言う。その口調に溜息を吐く素ぶりで答え、鉢屋は私物を入れた箱から小さな壺を取り出した。
    「どこを切った?」
    「指先を数カ所」薬の姿を見せながらも手渡す気配のない態度に首を傾げた。「すぐ済むから」
    「見せてみろ」
    「…………」
     男が二人睨み合う。束の間の静寂。互いに瞳の奥を貫いた視線を先に遮ったものは久々知の黒髪であった。顔を後方へ向けながら赤くなった掌を差し出す。右手で指先に触れれば燃えるような色からは窺えないほどの冷たさが皮膚に伝う。鉢屋は己の掌で包み込むように掴み直すと、目の前へ引き上げた。久々知の言う通り派手ではないものの、赤い色の上にいくつかの切り傷が散見される。手裏剣とはまた異なる丸みを帯びた傷だ。鉢屋はそれを見つめ、すぐに目頭に皺を寄せた。
    「この傷、見覚えがあるのだが」
    「……だから見せたくなかったんだ」
    「そのくせ私のところへ薬を無心に来るのか」薬壺へ伸びる左手を柔く叩いた。「せっかくだから塗ってやる。どうせ左手にもあるんだろう」
     伸びた手を捉え、薬壺の蓋を片手で取り去る。薄黄色の軟膏を指に絡めとり男の指へ運ぶ。幾つかの植物が混じり合い青臭さだけを残した香りが鼻腔を刺した。薄く伸ばされた軟膏は次第に肌へなじみ消えていく。薬を溶かすには熱が足りず、微かなべた付きの残る肌を撫ぜると鉢屋は両手を解放した。互いの温度はいつの間にか混ざりきり、掌には少しの温もりだけが残されている。
    「ありがとう」久々知が言った。定規を当てられているかのように伸びた背が向けられる。扉に手をかけると開くよりも前に鉢屋の瞳へ真っ直ぐに視線を投げた。「次の合同授業、覚悟しとけよ」
     言うが早いか入った時と同じように一人分の隙間をすり抜け、廊下と部屋が隔てられた。木と木の触れ合う乾いた音を背景に残されたおやすみの声に応えたのは不破一人であった。聞こえもしない足音に耳を澄ます。やがて廊下を真っ直ぐに風鳴りが吹き抜けた。
    「それで、何をしたんだい」不破が尋ねた。「い組との合同授業、この前あったばかりじゃないか」
     次の授業はしばらく行われない。それにも関わらず今から布告を残すなど執念深い話である。言葉の中に棘を包ませれば鉢屋も当然気が付いたようで、首の裏に手を回した。
    「先日の合同授業の内容、覚えているだろう」
    「得意武器以外での組手だろう。五、六人の班に分けられてその中で順に回して総当たり。班内で一位の人間が多い方の組が勝ち」
     淀みのない不破の言葉に、鉢屋は頷いた。
    「寸鉄を使ったんだ」
    「……兵助の前で?」
    「兵助を相手に」当然負けたよ、そう続けながら閉められたばかりの扉へ目を向けた。不破は横目で男の背を盗む。その背に纏う色が緩んでいることを指摘するべきか頭の片隅で問いを巡らせる。黒目を宙へ浮かべる不破を一瞥し、鉢屋は喉を震わせた。
    「知りたかったんだ。兵助の視界を」
     頭の中で巡っていた疑問が霧散していく。代わりに肺の底から湧き上がる溜息を誤魔化すかの如く言葉を紡いだ。
    「知るということは即ち己のものにするということだ」
     つまり、奪うことと何一つ変わらない。
     唄うように囁かれた言葉に、鉢屋は緩慢な瞬きを返した。
     誰かの見ている世界を知りたい、考えていることを知りたい。誰かの見ている世界を奪いたい、考えていることを奪いたい。奪い、己のものにしてしまえば、常に彼の視界に、思考に己の影を落とすことができる。視界を奪ったならば思考を、思考を奪えばまた次の思考を。人を知るには百や千でもこと足りず、その全てをどうして奪えよう。
    「それでも、欲しいと願ってしまうんだ」
    「言っただろう。焦がれる相手は選べない、と」不破が黒く埋め尽くされた紙を二つに折り畳んだ。「それに三郎だけが奪う側だなんて、思わない方がいい」
     扉にかけられた赤い手に浮かぶ三日月模様を思い返す。奪い合った果てに彼らがどう変わるのか、見守ってやるのもまた友人の務めだ。不破は立ち上がり、猫のように丸められた肩越しに顔を覗かせた。彼の机に広げられた半紙には文字と同じ程のしみが浮き上がっている。鉢屋は紙を手で無造作に丸め、部屋の隅へ投げ出した。そして立ち上がり、二人の間に置かれていた蝋燭へ向かう。
    「ああそうだ」押入を開けながら不破が不意に言葉を放った。「結局、兵助の見ているものは見えたのかい?」
     小さく息を吹き出す音が響いた。蝋燭の火が思い切り身を捩り、部屋の中で光が踊る。
    「さて、どうだろうなあ」
     最後の花と言うように部屋を濫りに照らし、炎が煙に変わる。夜闇に染まる部屋を、星が静かに照らしていた。

    (2019/12/13)
    泥濘に足を洗う 楽園を見た。そんな錯覚を引き起こし、鉢屋は手の甲に爪を立てた。皮膚の引き攣る痛みが間もなくはしり、確かに現実であると告げた。それでも茫洋と前を見る。時折、乾いた視界など許さないと言わんばかりに瞼が瞬きを繰り返した。現と知って尚、目を逸らすことは叶わない。
     風に揺られる睡蓮の群れがそこにいた。
     甘い匂いが鼻腔を擽り、虫を誘う。昨夜満月を超えたばかりの月は一面に銀の光を遊ばせ、本来は薄桃色であろう花弁をも白く輝かせた。
     鉢屋は徐に足を踏み出した。水を含んだ土が一足ごとに柔く代わり、やがて泥が足を覆い尽くす。袴が泥に塗れることも気にせず進み行けば、間も無く膝まで泥濘に浸かり、ようやく池の中央にいるのだと気が付いた。四方を囲う花に自ずと呼吸が浅くなる。蜜の匂いは肌に吸い付くかのように纏わり付き、酸素を求め鉢屋は顔を上げた。
     月が網膜を焼いた。
     花を照らす光が己にも降り注ぐ。冴え冴えとした光に目を眩ませながらも瞼は閉じようとはせず、ただ月を見上げ続ける。次第に月の輪郭がぼやけ、奇妙なほどに膨らみ始める。「目を逸らさなければ」と脳裏で囁く声がした。足元は泥に覆われ真っ直ぐに立てているのか定かではない。頭の重みに重心を眩ませたまま、視界が月で満たされようとした。
    「三郎!」
     背後から凛然とした声がうち響く。不出来な絡繰人形のように軋んだ動きで振り返れば、黒く波打つ髪が白む視界を切り裂いた。よく知った黒髪を持つ者の名を呼ぶ前に男が岸辺から声を上げた。
    「何をしているんだ、一体」
     身の重さは泥のせいか、或いは水を存分に吸った着物のせいか。それでも池に向かい歩いた時よりも意識は明瞭とし、足は奇妙なほどに真っ直ぐに動いている。池を横切る度に底の見えぬ水面が波立ち、鉢屋の影を避けた。泥が地面に姿を変えた途端纏わりついていた重さも消え失せ、思わず重心を崩しかける。
    「……何をしていたんだ?」男が同じ言葉を繰り返す。先程よりも呆れの色の濃い声音がむせ返るような香りをうち払う。「こちらは上手く密書を回収して、それぞれ分散して帰るところなんだけど……三郎は事前の情報収集役だっただろう?」
     先に帰っているはずではと続けながら眉間に皺を刻んで見せる。鉢屋は大きく肺を膨らまし、目の前の男を見やった。月は男も等しく照らし、その輪郭を浮き彫りにする。白い肌は白銀に色を変え、月の光を遊ばせた。
    「似ていたのか」
     白い肌だけではなく。美しい姿勢の下に揺蕩う泥さえも。土埃に塗れ己を鍛え、善行とは言えぬ行為に覚悟を持って身を落とす。清濁を吞み下すこの男に。そして彼はただ在るだけの花よりも、匂い高く立っている。
     だから、その中に立ってみたくなったのだ。
     鉢屋は肺の底から深く息を吐いた。肺が軽くなると同時に泥に塗れた己の姿に笑いがこみ上げ、長い溜息が笑みに変わる。男は意味を話しもせず笑い始めた鉢屋と向き合ったまま、額に刻まれた皺を緩めた。真っさらな額へ浮かぶ陶器にも似た艶が一筋、月光を弾く。鉢屋は男の顔に手を伸ばし、泥の付いた指先で頬を撫ぜた。
    「きれいだ」
    「泥をつけられた頬が?」汚れを拭うことなく男が言う。「それよりも早く帰ろう。成功したとは言え忍務の途中だ」
     頬に伸ばされた手を覆うように掴み、絡め取る。結ばれた指から泥が伝い、薄桜色の爪から地面へと滴り落ちた。
    「お前はきれいだよ、兵助」
     繰り返される言葉に久々知は音もなく頬を染めていく。広がった歩幅へ合わせるように、手を引く力が強くなった。黒髪が荒い足並みに揺られ、大きく波打つ。
     花の香りが鼻先をくすぐった。

    (2019/12/14)
    417_Utou Link Message Mute
    2022/09/10 23:38:10

    祝いを君へは贈らない, 他十編

    #鉢くく
    別サイトからの移転です。
    初出:2019年12月14日

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