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    冬至 ぬばたまの、暗々と艶めく天蓋が、皺ひとつなく垂れ込めている。描かれた月には凹凸もなく、ただ卵の殻に似た白い光沢が浮かぶばかりで、冷たくも熱くも無い。星は不規則に明滅を繰り返し、月影に紛れて宙を泳ぐ。幾重に織り合わせられた白銀の輝きは重さを感じさせず、降り注ぐ。宙の上では赤や、黄や、青く映る星も皆、白に統合され、やがては色彩さえ失い、単なる光の一片となった。
     それらの光を、或いは闇を映し、吸収し、反射し、茫洋とさざめく水面。時折、波の縁に泡沫が現れては消えていく。星の明滅を真似るかのように。白波に目を凝らせば、そこには黄や、青や、紫の輝きを織り交ぜた虹が光っている。波の下に蠢く影は魚だろうか。水面を貫いた光を鱗に受け、徒に煌めいては新たな光を生み、海の果てへと去って行く。
     濡れた砂の感触をつま先で遊ばせながら、鉢屋は細やかに押し寄せる波を避けて砂浜の上を飛んだ。一瞬の浮遊。それから、砂を踏みしめる、閉塞した心地。一面に広がる微細な粒子たちは大気の温度をふんだんに吸い込み、凍てつくほどの冷たさを湛えている。波が規則的に引いていく。濡れた砂と乾いた砂は闇夜の中でも茫と境界を浮き上がらせている。その間際で、波に置いて行かれた泡沫の残骸が一つ、音もなく弾けて消失した。
    「暗いから気を付けて」
     斜め後方で声がする。首を傾けて振り返る。彼は波の届かない安全な場所を歩いていた。乾いた砂の上に、直線的な足跡が残されている。風のない夜だった。
    「海と宙、どちらが本当に暗いと思う?」顔を正面に戻し、鉢屋は尋ねた。
    「宙が海を映しているのか、海が宙を映しているのか、という問なら、水に色がないことが答え」
     押し寄せる波を避けながら、鉢屋は小さく微笑んだ。彼の返答が鉢屋の推測通りであったためだった。
    「しかし、宙に色があることをどうやって確かめる?」
    「色が見えることは、存在していることと等しくはない、ということ?」
    「手に触れられる以上、海は存在する。鏡の向こう側と同じ関係ならば、海はこちらで空が向こう側だ」
    「それなら星は?」彼は笑った。「目に見えても、存在しないものがある。存在しても、目に見えないものがある。星はどちらだろうね」
    「それを確かめるには、人間の腕は短すぎるな」
    「宙も同じ。人間は重すぎる」
    「海は?」
    「飛び込んでみようか」微笑んだままの彼が言う。悪戯気な口調は小波の繰り返しに呑まれ、すぐに消えた。
     足音が止まる。鉢屋は遅れて足を止め、視線だけを後方へ向けた。星、或いは月影に照らされた砂浜が茫洋と白く光っている。彼は上半身を屈め、片手で砂を掬い上げた。指の先から粒子が零れ落ちる。
     彼は掌に残った砂を握り、次の瞬間、流動を続ける水面へ向けて振り撒いた。一粒一粒がそれぞれに弧を描き、海へ落下する。音はない。波の音にかき消されてしまうせいだろう。
     沖の向こうで一際大きな影が膨らみ。
     泡立った白波の縁が緩慢に迫る。
     飛沫。
     押し寄せ、打ち付ける波。
     砂浜が海の一部となる。
     踝が潮水に埋まる。
     やがて波の動力は消散し、
     静かに水平線へ帰っていく。
     再び、小波の繰り返し。
    「冷たい」鉢屋が顔を顰めた。暗闇の中で、相手に見えているかは分からない。
     砂を踏む音の跡で、隣に彼が立ったことに気付く。
    「波は温まったかも」
    「次の波を待って確かめてみようか」鉢屋が口の端を持ち上げながら言った。
     彼は首を横に振り、それから視線を宙へ這わせた。星の位置を見たのだろう。時刻を確かめるためか。
    「夏なら、夕日が見られたのにね」
    「冬だから星が見られた」濡れた足で砂を遊ばせ、海へ向けて蹴り飛ばす。「星の方が好きだ。実は」
    「知ってる」彼は言った。「だから、三郎と来たかった」
     小波が二人の足元へ。つま先には届かない距離。引いていく波の跡に、小さな貝殻が残されていた。



    「愛?」
     彼は投げかけられた言葉を繰り返し、首を傾けた。帳面と筆をそれぞれ手にした両手は、彼の疑問とは関係なく、幾つかの文字を記すために動いていた。薄暗い、常より一定の明度を越えた光を得ることのない蔵の中で活動する間に得た細やかな技だ。紙面を捉えずとも、筆の軌跡を観測せずとも、規則正しい文字が書ける。彼はその特技を、尤も彼自身それを特技と呼んだことはなく、特別に意識したこともなかった。かつて委員会に所属していた先輩も同じようなことをしていたが、彼らから教えを受けたわけではない。硝煙蔵で仕事をこなす上で、最適化されるよう成長しただけだ。しかし、それを覚えずに成長したとしても、最適な成長でないとは言い難い。
     彼にそれを尋ねた少年は、箒を利き手に握ったまま動きを止めていた。彼を見上げる視線を辿り、床を見やる。埃は一つも落ちていない。少年の隣で、青い制服を着た少年が帳面に近付けていた顔を上げてわざとらしく眉を潜めた。
    「おい伊助。そんなことを言ってないで、仕事をしろよ」
    「掃除は終わりましたよ」
    「自分の仕事が終わったからって先輩の邪魔をするなってことだよ」
    「三郎次先輩の仕事は邪魔してないじゃないですか」
    「僕じゃなくて久々知先輩の仕事を邪魔してるだろう」
    「久々知先輩は邪魔なんて言ってません」
     彼よりも歳若い少年たちが言い争いを始める。ほんの数年の差でしかなくとも、少年たちの一年が学びや成長に満ちたものであることを思えば、その差は数字よりも遥かに大きな意味を持つ。時は決して等しいものではなく、人間もまた、時に従って生きているのではない。
     ぼんやりと巡る思考を片隅においたまま、彼は眼前の少年たちに笑いかけた。二人の顔は彼の顔よりも幾らか低い位置にあったが、それもいつか変化するのだろう。
    「二人とも」
     少年たちが口喧嘩を止めて彼を見る。同時にすみません、と頭を下げた。角度までぴったりと揃っている。
    「三郎次、仕事中に喋っちゃいけない決まりは火薬委員にはないよ」
    「はい」
    「伊助、誰かに話しかける時は相手が何をしているのかを見て、話しかけても大丈夫か考えてからにしよう」
    「はい」
     二人はそれぞれに頷き、それから横を向いて少しの間睨みあった。怒られたのはお互いのせいだと考えたのか。それでも口喧嘩を繰り返さないことは少年たちの利発さの証だ。尤も、数刻後に繰り返される喧嘩は活発さの証である。
     帳面を閉じながら、彼はそれで、と言った。
    「伊助は何が聞きたかったんだ?」
    「久々知先輩は、愛って何か分かりますか?」
    「他人を親しく思い、干渉を望む感情。またはその概念の名称」
    「…………?」
     水色の頭巾に覆われた頭が傾く。隣で同じように青の頭巾が、反対側へ傾いた。
    「……伊助はどうしてそれを知りたいんだ?」彼は苦笑いを隠さず、筆を掌で一回転させた。彼の得意とする武器を回す仕草と同じように。
    「今日、乱太郎ときり丸としんべえが、くノ一教室の子たちに会ったんです。くノ一の教室の子たち、いつもと違った柄の着物を着ていて、それを自慢されたけど……えっと、乱太郎たちにはなんで自慢されるのか分からなくて。そしたらくノ一たちが馬鹿にしてきて、乱太郎たちも言い返して……あとはもう、いつもの言い合いです」伊助が時折唸り声を混ぜながら説明を進める。状況を整然と説明することは、一年生でなくとも、意識がなければ難しい。「えーっと、その時に、アンタたちは恋と愛の違いもわからないお子様だからって笑われたって聞いたんです。それで、は組みんなで考えてみたんですけど……結局分からなくて」
    「お前たちそんなことも分からないのかよ」青い頭巾の下で勝ち誇った笑みが言った。
    「じゃあ三郎次先輩は分かるんですか?」
    「そんなことも分からない時点で、お前には未だ早いってことだよ」
    「屁理屈じゃないですか。やっぱり分かってないんだ」
     再び睨み合い始めた二人を軽く諌めながら、彼は僅かに眉を顰めた。少年たちが数時も待たずに喧嘩を始めたためではない。
     彼らの問いかけは、そのきっかけを解けば、単なる定義を問うものではない。すなわち、未知なる感情への疑問。苦笑の影が口の端に浮かび、彼は悟られないようにと頬の裏を噛んだ。後輩と比較して三つか四つ長く生きているだけの彼は、後輩にしてみれば、あらゆることを知っている存在に見えているらしい。細やかな疑問を素直に口へ出せる程度には。
    「俺に聞かれてもなぁ……」彼は呟く。二人から視線を逸らし、それから不意に棚の反対側へ首を覗かせた。「タカ丸さん、」
    「うん? なぁに?」
     手にしていた壺を元の位置に戻した後で、ゆっくりと金色の頭が動き、顔が上げられる。
    「今の話、聞こえてました?」
    「ああ、うん。聞こえてたよぉ」間延びした口調で少年は言った。「面白いこと話してるなって」
    「タカ丸さんはどう思います?」
    「久々知君が答えないの?」
    「タカ丸さんなら人並みな意見を持っていそうなので、その、客商売で色々な人を見ているでしょうから。俺より上手く説明できるかなと……」
    「そういうこと」両手を打ち合わせながら、少年が小さく笑みを浮かべた。「確かにさっきの久々知君の答えは、何と言うか、一般論というより言葉の意味って感じだもんね」嫌味な雰囲気を醸し出すことなく続ける。「忍者としては後輩だけど、久々知君よりも年上だから、そういうことなら頼ってもらえると思うよ」
     少年が頷きながら三人のいる通路側へと歩き寄る。紫色の制服は彼らの側で足を止めると、棚の一つに背を凭せ掛け、その後で慌てたように背筋を伸ばした。
    「それで、伊助君が聞きたいのは恋がどんな気持ちかってことだよね」誤魔化すように、水色の頭巾に覆われた頭へ視線を合わせる。「恋と愛。二人ははどういう時にこの言葉を聞く?」
    「女の人と男の人が互いに好きになる話を恋物語っていいますよね」青い頭巾から得意げな声が言う。
    「そうだね。尤も、男女に限られたことではないけど」僅かに眉を潜めながら少年は続ける。「それなら、愛は?」
    「お父さんやお母さんの愛情がどうの……って言われたことがあります」
    「うんうん。そうだね」紫の頭巾が頷きを繰り返す。「ほら、もう違いが見えてきた」
    「恋は他人同士、愛は家族同士、ということですか?」青い制服に通された腕が組まれる。
    「一般的には、恋とは誰かのことが好きで仕方がなくなる気持ち、愛とは誰かを思いやる気持ちとして区別されるかな。だから、三郎次君が家族のことを思いやっているのなら、それは三郎次君の愛情だね」
    「好きで仕方なくなる? というのは?」
    「相手のことをもっと知りたくなったり、仲良くなりたいって思う気持ち、かな。もしくは助けてあげたい、力になりたいって思うような」
    「だけど、僕は家族と仲良しですし、は組の皆や、それ以外の友達とも仲良くしていたいって思います。だけど、それを恋とは呼ばないですよね」
    「そうだねぇ……直感的で主観的なものだから、別に恋と呼んだっていいんだけど、あんまり言わないっていうのは伊助君の言う通りだね」
    「それじゃあ結局何が違うんですか?」
    「えーっと……久々知君、これ、どこまで説明するべきだと思う?」
    「……俺に振らないでくださいよ」帳面に引いた線が微かに歪む。「それに、タカ丸さんが悩んでいる部分については何となく察しがつきますが、それはまた別の問題だと思います」
    「そうかなぁ。一緒に考えている人が多いと思うけれど」
     少年二人が首を傾げる。彼はそれに気付かない振りをしながら、帳面の頁を捲った。
    「個人的なことを共有できるほどの信頼や好感があるかであって、必ずしも結びついた事象ではないと思いますよ。そうでなければ……色を使った術は成立しません」
    「忍者を目指しているからそう思うの?」
    「忍者に限った話ではないと思います」彼は眉を顰めたまま呟いた。「ただ、一般的にはそうですね。そう理解する人が多い。その理解を元に共有できない感情を共有していると仮定するので、その理解が当然のものとして流布されるという側面はあります。同じものを見ている、知っている、と思い込むことは人間関係を円滑にしますから。だけどそれは一説に過ぎず、決して真実ではありえません……だから、」
    「うーん……えっと、ちょっと待って。つまり?」後頭部で結ばれた金色の束が傾げられる。言葉でなくとも明瞭な意図を持った仕草だった。
    「知らないことは子供ではないってことです」
    「そんなに難しい言い方をしなくてもいい気がするなぁ」
     語尾を伸ばしながら、一歳年嵩の少年が笑う。苦言のような言い回しに、しかし、悪意は滲まない。柔和な雰囲気だけを伝えることに長けた人だと、彼は思考の隅で嘆息を漏らした。長年の商売感覚が成せる技か、或いは、少年自身の才覚か。
    「ともあれ、」穏やかな語調のまま少年は続ける。「久々知君でも分からないってことだよね」
    「……そうですね。一口に説明するのは難しいですし、それを話したところで伊助にとっての答えとは限らない」
    「俺にもこれ以上はちょっと難しいかなぁ……まあきっと、伊助君たちもその内なんとなぁく、感覚として分かるよ」
    「でもそれなら、くノ一教室の子たちはどうしてそんなことを言ったんでしょうか」箒を持ち替えながら少年が言った。「先輩方でも分からないことを、彼女たちが分かっているなんて思えません」
    「他人を侮ってはいけない。忍者の三病だよ」彼は反射的に言い、遅れて笑みを作った。「誰にもよく知ることと、よく知らないことがある。そして、それらが全部正しいとは限らず、正しいと言う概念が存在するものかどうかも分からない」
    「先輩の口ぶりを聞いていると、先輩ってい組なんだなぁって思いますね……」水色の頭巾の下で、小さな双眸が瞬きを繰り返す。
    「ちょっと待てよ、伊助。僕だってい組だぞ」
    「三郎次先輩の言ってることは久々知先輩ほど難しくも、賢くも無いので、よぉく分かります」
    「おい! 失礼だぞ!」
     額を突き合わせた年少の二人の頭を紫の袖が撫でる。もしくは、これ以上の衝突が起きないように、物理的に抑えるつもりかもしれない。髪を結うこと、平均的とは言い難い形に作り替える腕を持った相手の手が頭上にあるためか、二人は一瞬の睨み合いの後、同時に顔を背けて見せた。
    「最初の質問には上手く答えられなかったけど、今のは、答えられるよ」
    「本当ですか?」高い声が疑問符を投げる。
    「うん。くノ一の子たちが乱太郎君、きり丸君、しんべえ君にそう言ったのは、きっと、少し背伸びをしてみたかったんだよ。伊助君が三郎次君に対してしっかりしてるとこを見せたいのと、三郎次君が伊助君に対して先輩らしく振る舞いたいのと一緒」
    「ええ……」
    「別に僕、こいつに対して先輩振ろうなんて思ってません。先輩なのはただの事実ですし……」
     二人は再び同じように顔を向け合うと、小さく息を吐いた。慣れたように二人の頭を撫でながら、少年は鼻先で笑みを零す。喧嘩というには険悪さのない空間。二人は数秒の間沈黙し、それから紫の袖から逃れるように頭を揺らした。
    「なんか、よく分からなかったですね」
    「よく分からなかったな」
    「でも、分からなくてもいいなら、それでいいや」
    「乱太郎たちにはなんていうんだ?」
    「先輩、僕らは一年は組ですよ? 明日になったら忘れてます」
    「お前たちなぁ……」
     少年たちが顔を見合わせて笑い出す。帳面を片手に棚を回っていた彼はその声に振り返り、僅かに肩を竦めた。
    「二人とも。今日の仕事が終わっているなら、先に戻っていいぞ。今の季節は日が落ちるのも早いから」
    「久々知先輩は未だ残られるんですか?」
    「最後の確認をしたら土井先生のところへ行かなきゃいけないし、どのみち未だ時間がかかる」
    「分かりました」箒を手にした少年が足を揃えて頭を下げる。隣で青い頭巾が同じ動きを繰り返した。
    「お先に失礼します」
     硝煙蔵の厚い扉が両手で押し開かれる。薄暗い室内に射し込んだ光は淡く、間もなく陽が落ちることを伝えている。或いは、既に沈んだ後の、名残であるかもしれない。暗闇になれた目を守るように彼は目を細め、蔵の奥へと顔を向けた。
     視界が、影の中に浮き上がる金色を捉える。
    「タカ丸さんも、あとは俺の仕事ですから、点検が終わっていれば帰って大丈夫ですよ」
    「うん。それはそうなんだけど、」左右の掌を顎の前で合わせる。考え事があることを示す仕草か。
    「何か用事が?」
    「えっとねぇ、さっきの話の続きなんだけど、」人差し指を二度叩く。「久々知君は?」
    「はい?」彼は素直に首を傾ける。
    「愛と恋の違いが、分かる?」
    「……説明ができればタカ丸さんに二人の相手をお願いしませんでしたよ」
    「説明ができるかどうかじゃなくて、感覚として知っているかどうかだよ。俺が聞いたのは」
     暗闇を見通す双眸が微笑を一つ捉え、すぐに離脱した。敵意がないものを見逃す、敵意に値しないものを見過ごす鳥のような鈍さを、しかし、気にする者はいない。
    「どうでしょう」彼は一度目を閉じ、それから息を吐いた。「それを知っているから、どうということでもない、と思っています」
    「正直者だねぇ」
    「生きていく上でそれよりも大切なことは山ほどあります」
    「だけど、皆多かれ少なかれ、大切な人はいるでしょう。もちろん、久々知君にも」
    「学園の皆とか」
    「この人のことを知りたい、と思うこととか、ないの?」
    「どうして聞くんですか?」
    「うーん、気になっちゃって。髪結いのお客さんとの話でも、まあ話題としてはよくあるんだけどね。恋や愛や、そういうの。普段ならお客さんの意見を聞くだけなんだけど、久々知君の話しはあんまり見かけないものだったから。聞いておけば今後何かの参考になるかなって」
    「勉強熱心なのはいいんですけどね……」
    「髪結いとしては勿論、忍者としての考え方を知ることにもなるかなぁって」わざとらしく肩を竦めながら少年が言った。
    「残念ながら、参考にはならないと思いますよ。タカ丸さんと俺は考え方の筋道が違いすぎます。共感はできても、理解はできない。理解はできても、共感はできない」
    「聞いてみないと分からないよ」
     金色の髪を一瞥し、彼は二度瞬きを落とした。鼻先で息を零し、同時に唇が笑みの形を浮かべる。
    「答えは否です」
    「そういう相手はいないってこと?」
    「私は彼のことを知っています」彼は微笑んだまま、手の中で筆を回す。「そして、何も知らない」
     掌の上で影が滑り、
     物と物がぶつかる乾いた音。
     石の床には筆が一つ。



     水平線に広がる銀色の光に向かい、海鳥が飛んで行く。白銀の輝きは水面に翻り、拡散し、青に変わる。宙は焼けつくような朱。その狭間には淡い紫の虚空が広がり、海鳥の翼を飲む。
    「四匹」鉢屋は波に映る影を数えた。
    「五匹いたよ」隣を歩く声が言う。
    「よく見えるな」
    「目は三郎より良いらしい」
    「なるほど。次に兵助に化ける時は参考にしよう」
     夜気を十分に浸み込ませた砂を踏む。湿度に濡れた粒子が擦れ合い、奇妙な音を立てる。柔らかく、しかし、一定の深度以上には沈み込むことのない地面の上を歩く。次の一歩を踏み出しても無事に立っていられるという根拠はない。過信。妄信。右足が砂を踏む。一歩半。そのすぐ後ろで、ヤドカリが貝の隙間から巨人を見上げていた。
    「見えているものまでは変えられないだろう?」彼は音を立てずに歩いている。「三郎も俺も、別の人間だから」
    「身体機能の差を埋めることはできない?」鉢屋は波に向かい砂を蹴った。「しかし、私を私たらしめるのは、思案、思索、思考。身体があったところで、そこに宿ったものが私であることは偶然」
    「思考は外部の影響を受けて変化し、外部へ影響を与える。その中継をするのは身体だ」
    「思考は身体に影響される?」
    「どちらが優位であるかを決めることに価値はない、ということ」
    「どちらも不可分だからか」
     彼は唇の端を均等に吊り上げた。潮風によって額に張り付いた前髪を指先で払う。黒髪の隙間から覗く額は作り物のような白皙を一瞬拡散させ、すぐに消えた。
     波の繰り返しに紛れ、生き物の声が彼方から聞こえた。鳥か、或いは、魚であるかもしれない。ただ砂を往く二人にはそのどちらであるのか、生物の区分に意味はなかった。人の声であったとしても。
     歩調は時を忘れるほどに緩慢だった。海岸線は長く、しかし、一晩をかけて歩くには短すぎる。彼らはもう二度、波のように砂の上を折り返していた。
    「三郎はなぜ、」
     砂浜の中央に差し掛かった時、彼は不意に口を開いた。鉢屋は足を止め、振り向いた。
    「あの日、俺の振りをした?」
    「いつもの悪戯だよ」
    「いつものことなら、委員会の仕事を代わったりはしない」
    「……私だってたまには働くさ」
    「火薬委員会の仕事は学園の授業に直結する。地味だけれど、重要な仕事。だから無責任になるようなことはしないだろう?」
    「買いかぶり過ぎだ。私がかけた迷惑を忘れた?」
    「思い出すことはできるよ」彼は真面目な口調で言った。
    「……迷惑になったか?」
    「いいや。三郎の点検してくれたところに問題はなかった。これからも時々手伝ってほしいくらい」
     彼は笑いながら手を広げた。大歓迎、という意味だろうかと考える。自分が彼に変装したとして、同じ仕草はしないだろう、とも。
    「もしかして、何かを聞いた?」
    「あの日話していたことを?」
    「蔵に行ったら俺ではない俺がいたからね。外で様子を窺っていたんだ。硝煙蔵の外壁は厚いけれど、明り取りの窓から声はよく聞こえる」
     彼の視線が真っ直ぐに鉢屋を射す。大きな瞳の余白が、生まれ直そうとしている光を反射し、白く輝きを放つ。五匹目の鳥のように。鉢屋は向けられた視線を静かに見返した。沈黙。波が押し寄せ、不意にはじけ飛んだ潮水の一片が徒に頬を濡らした。
    「たまたま、一年は組の良い子たちの会話を耳にしたんだ。愛と恋の違いについて先輩たちに聞いてみよう、とね。言っていたのは、兵助のところの後輩だった」
    「それで、俺の代わりに?」
    「答えたかった?」
    「いいや」首を横に振り、それから眉を僅かに歪めた。「答えられなかったよ。三郎と同じで」
    「答える意味がない、と?」
    「相手を知りたい、仲良くなりたい、だっけ」
    「知っていることを伝えたい、認められたい、という感情に思えるけどな」
    「視点がどこにあるかの違いであって、その程度の差異は問題にはならない」
    「兵助との会話は楽だな」鉢屋が肩を竦ませた。「これも視点の問題?」
    「視座かな」砂に空いた穴をつま先で避ける。「曲線も、ずっと高いところから見れば直線に見える」
    「知りたい、知っている、知らない。その全てを同一の直線に乗せることができる。少なくとも私は……兵助も?」
    「相手を知りながら知らず、自己を開示しながら隠す。その全てを同時に内包することは可能か、という意味? できるよ。そして、その全てに意味がないことも三郎と同じ」
    「交わらないことが全てか」
    「それぞれに別の人間だと分かっていなくちゃね」
     鳥の翼が白光を遮った。水平線に触れていたはずの太陽はすでに浮上し、宙の両端に僅かな焼け跡が名残のように焦げ付いている。
    「それならば、私たちはどうすれば良い?」鉢屋は意味も無く両手を開いて見せた。隣を歩く人は自分の動きに何を見出すのだろうか、と思考する。「愛も恋もない、私たちは」
    「それ、何のつもり?」彼は鼻先で吹き出した。二秒、薄青い血管の透けた皮膚を見つめ、再び小さく笑みを零す。
    広げられた掌に、微笑んだまま、彼は己の両手を重ね合わせた。
    「示し合うしかない。お互いの差異を」
    「埋めるために?」
    「或いは、広げるために」
     彼の指が鉢屋の指の間を滑る。関節に浮き出した骨の形を視線でなぞりながら、鉢屋はゆっくりと手を握り返した。
    「星が消失と出現を繰り返すのと同じか」
    「夜が長ければ、その分星も長く見える」
     冬の夜であれど、やがて夜は遠ざかる。宙の終点に残された朱は間もなくその名残さえも散逸するだろう。鉢屋は朱の影を見つめ、手を重ねたまま人差し指を宙へ向けた。
    「それでも、消えてなくなるわけじゃない」
     彼が同じ方角を見る。
     彼らは、同じ星を見る。
    417_Utou Link Message Mute
    2022/12/30 16:43:35

    冬至

    #鉢くく
    大遅刻!(書き納めも兼ねたのでセーフということにしたい)
    一年で一番長い夜に海を散歩する鉢くくです

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