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    小雪 風に舞い上がる黒髪が翼のように影を広げていた。背を覆うほどの長さのある髪は頭長で束ねられ、結び目を起点に円周上に揺れる。風が通り過ぎた一瞬の後に、髪はゆっくりと沈み、やがて翼は失われた。
     見慣れた少年の姿が現れる。
     鉢屋は梁のように淀みなく伸ばされた背を見つめた。その輪郭を確かめ、それから少年を認識した。
    「兵助」
     二人を隔てる空間に小波が起こる。水面へ投じた小石が思いがけず遠くまで波紋を広げるように、少年の耳は正確に振動を拾い上げ、黒目だけで背後を振り返った。
    「三郎?」語尾を僅かに跳ね上げながら久々知は言った。
     微動だにしない視線は猛禽類を思わせる鋭さで鉢屋を捉えている。地面に足が縫い付けられたかのような錯覚。鉢屋は両手を顔の前に開きながら、唇の端を器用に片方だけ持ち上げた。降参、或いは何かを誤魔化すための仕草だった。何を。頭の片隅でその答えを探ろうとし、すぐに彼は思考を手放した。
    「そんなところで何してる?」鉢屋は尋ねた。
     投げられた問いかけに答えることなく、久々知は視線を正面に戻した。顔が背けられるその一瞬前に、唇で弧を描きながら。微かな笑みにつられ、鉢屋はゆっくりと足を踏み出した。
     少年は崖の先端に立っている。山を支える岩が風雨に削られたためか。崖は宙へ突き出され、周囲には曇り空の他には何もない。三歩も後退りをすれば崖下へ落ちてしまうであろう場所に立ちながら、しかし、久々知は落ち着いた笑みで鉢屋を待っていた。
    「追い詰められたらひとたまりもない場所だな」崖の縁で足を止め、鉢屋は言った。言葉に反し、恐怖の色の滲まない声音だった。
    「どうして?」久々知が尋ねる。
    「落ちて助かる高さじゃない」
     久々知は一瞬足元へ視線を向け、それから、今気が付いたと言わんばかりに「本当だ」と呟いた。
    「三郎は下を見るんだね」
     鉢屋は視線を足元へ向けたまま、瞬きを二度繰り返した。崖は宙へ迫り出しているものの安定し、自然に崩れることはないだろうと考える。風も吹いてはいるが、生き物を吹き飛ばすには生優しい。自らの意思で飛び降りるか、他者から突き飛ばされない限りは落下しないという状況は殆ど安全と言える。崖の縁に立った瞬間、無意識にそれらを確かめていたことを彼は認識した。
    「……上には何もない」鉢屋は少し考えた後で短く答えた。
    「空には危険がない?」
    「星でも落ちてくるっていうのか。それとも、太陽が?」
    「夢のように素敵な発想」目尻に微笑が浮かぶ。
    「現実に起こり得ないという意味か」
    「危険ってそういうものじゃないかな。実際に身に降りかかることは避けたいのに、想像してしまう。想像を楽しむことさえできる。その余白が、危険」
    「現実になった時にはもう、危険とは評すことができないということか」
    「現実に起きた事象には、危険、なんて曖昧さは消えているから」
    「危険を想像するのは、つまり、危険を回避するため?」
    「三郎にとって危険なことは崖から落ちること?」
     風に削られた小石が一つ、岩肌に沿って崖を下る。石のぶつかり合う小気味よい拍子が高く響く。やがて、地面にたどり着いたのか、或いはその前により小さく削られてしまったのか、余韻もなく石は沈黙した。
    「落ちたらひとたまりもない」鉢屋は繰り返した。当然のことを口に出すことは無意味に感じられる。それでも同じことを口にするのは、隣に立っている少年にはそうではないと知っていたからだ。「それだけの高さがあること自体が危険」
    「落ちてみたい?」久々知が尋ねた。微笑の端が僅かに持ち上げられ、悪戯気な表情へと変わる。
    「どうやって?」鉢屋も唇を三日月型に歪める。
     視線が一瞬の間交錯し、それから二人はそれぞれ視線を流した。
     宙と地へ。
     乾いた風が髪を揺らした。翼のように舞い上がる黒髪の横で、偽物の髪は低く毛先で円を描く。後頭部が僅かに傾いでいるせいか。首筋を這う髪を片手で払い除けながら、崖の下を見据える横顔の輪郭を視界の片隅で捉える。頬に射しこんだ薄い影が無秩序に舞い、肌に淡く反射する。
     不意に肌寒さを覚え、鉢屋は腕を組んだ。幾度も野山や川や風に晒され、繊維の屑が微かに逆立っている制服の布地の下で、皮膚の粟立つ感触があった。微細な隆起は腕全体を覆い、乾いた皮膚の上に引き攣った感覚を押し広げた。無理矢理に引き延ばされた布地のように、自分ではない誰かの力が干渉し、弛むことを許さない。鉢屋は唇で呼吸を二度繰り返し、宙を浮遊する淡い光から目を逸らした。
     沈黙。
     久々知の鼻先を、正面に回り込んだ黒髪の先端が掠めた。彼は眼前に揺れる毛先も気にすることなく、佇んでいる。瞳の奥で収縮と膨張を繰り返す黒目だけが忙しない。
     無意識に落とされる瞬きの、言葉通り、一瞬の間だけ、彼の双眸は動きを止めた。
     七回の瞬きを数えた後で鉢屋は口を開いた。
    「崖から落ちた経験は?」
     久々知は崖の下を見下ろしたまま、半歩前へ足を踏み出した。つま先に触れた小石が二回地面を弾み、崖の先から滑り落ちた。
    「ない」久々知はゆっくりと首を振った。「今は、未だ」
    「落ちる予定があるような言い方」
    「今、落ちてしまうかもしれないからね」
    「この崖は崩れそうにないけれど」
    「急に強い風が吹いて、倒れてしまうかも」
    「その場合は私も落ちてしまうなぁ」
    「一緒に?」喉の奥で笑い声を立てる。「助かる可能性は上がるかな」
    「何人で落ちようと、崖から落ちたという事実が増えるだけだな。それとも確率の話をしている?」
    「二人だけでは微差だね」
     久々知が首だけで鉢屋を振り返る。目先に広がる空間を視界から外し、危険などないかのように笑みを浮かべて見せる。鉢屋は焦燥とも安堵ともつかない曖昧な色を額に映し、一文字に結ばれたくちびるを薄く開いた。
    「崖から落ちたことがある」
    「三郎が?」
    「私でなければ、誰が?」
    「それもそうだ」久々知は唇の先で続けて、と言った。
    「九つか八つか、それくらいの頃。この崖よりもう少し高さがあった気がするけれど、当時の私は小さかったから同じくらいかもしれない。谷に沿った細い崖路を歩いていて、何かの拍子に足を滑らせた……崖の下に川が流れていたから、子供の身丈と比べても素晴らしい深さの川に落ちたので、助かった」
    「流されたのか」
    「水が緩衝材になったとはいえ、全身を打ち付けたからな。流される以外できなかった」
    「それならどうやって助かった?」
    「偶然、近くに住んでいる人間に会った」
    「運がよかった」
    「……崖から落ちた結果起きたことを運がいいと評すのは正当だろうか」
    「崖に落ちたことと命を救われたことは別の事象だと思うけれど」
    「因果はある」
    「因果があるから尚更。崖から落ちたという事象は動かせないけれどその先に、結末は複数に分岐していたはず。その状況で、つまり、最も幸運な事象に当たったということ」
    「命を救われるのが最上?」鉢屋の首が傾げられる。
    「少なくとも俺にとっては」久々知が真面目な口調で言う。「お陰で三郎と出会う機を逃さずに済んだ」
     鉢屋は微動だにせず、しかし、半歩分の隙間をじっと見つめた。その先に佇む少年ではなく、空白を睨む。何かを思い出そうとする右の黒目を抑えるように。瞬きは自制され、乾いた空気に曝された粘膜の上に水面が広げられる。溢れ出すにはささやかな水分が彼の双眸に射し込む光の角度を変え、奇妙な輝きを瞳に散らした。
    「川から落ちて三日ほどは助けてくれた人の家にいた。背中が痛んで起き上がれなかったせいで」
    「ご家族は心配されたろうね」決められた台詞を吐くような、平坦な言葉だった。
     心の籠らない口調に鉢屋は小さく吹き出した。一瞬の緩和。
    「どうだかな」
     瞳に緊張が取り戻される。脈拍を三つ数えるよりも素早く行われた変化を見つめながら、久々知は頷いた。「そうだね」
    「兵助は?」
    「俺?」
    「私が三日戻らなければ、心配になる?」
    「学園の人間が訳もなく三日も帰らなければ、心配しない人はいないよ」
    「兵助個人がどうか、という問いなのだが」
    「素直な問い」額に笑みを浮かべる。「それを聞いて、三郎は何かを得られる?」
    「愚問ということ?」
    「まさか。問うことはいつだって、何にだって必要だ。自分では分からないことを尋ねるのは把握できないはずの世界を知ろうとすることだから。知りたいと思うこと、それは即ち、」
    「即ち?」
     久々知の唇から吐息が零れ落ちる。言葉の代わりか。平静な黒目に潜む眼光で鉢屋の双眸を覗き込み、すぐに離脱した。安全を確かめるように宙へ視線を巡らせ、再び鉢屋へ向かう。鮮鋭はすでに霧散していた。
     静寂が風を呼ぶ。
     空間を埋める光が弱々しく二人へ降り積る。日が傾いたためではない。絹に似た雲が薄青を遮り、空を薄灰色に覆う。その間から滲む光の網目に導かれるかのように、鉢屋は不意に顔を上げた。瞳の奥に潜む波が一斉に蠢き、光を飲み下す。
     瞬きを忘れ、
     涙。
    「三郎」
     よく知った、或いは触れたことのない温度が双眸へ。
     視界が遮られ、
     暗闇。
     赤とも橙ともつかない暖かな色が湧き上がる。
    「崖から落ちた時、何を見たの?」暖かな色が問いかけた。
     光。
     鉢屋は答えた。言葉が音として放たれているかどうか、彼には分からない。空気を求める魚のように口を開き、もう一度、今度は唇の動きを確かめながら言葉を繰り返した。
    「光」音を立てて息を吸う。「光が、降り積もる様を見た」
    「雪のように?」
    「雪よりももっと細かい。指に掴むこともできない粒子がゆっくりと宙へ昇って行った。落ちているはずなのに、あまりにも緩慢に輝いていた。美しく、それから、」
     双眸を覆う肌の、硬くざらついた突起が瞼の上を掠める。手の内に隠した鉄のためにできた蛸。筆や刀とは異なる、それは、紛れもなく少年の手だと伝える跡だった。皮膚の下に通う無数の血管は微小に震え、騒めいた。閉ざされた視界で、鉢屋は水流に似た響きを見る。
    「それから、恐ろしかった」
     浮遊した記憶。
     内腑が攪拌される錯覚。
     息を吐き。
     吸い込む。
     乾いた風。
     肺の底は石の如く冷え、
     瞼を覆う熱だけが明瞭。
    「どうして?」
    「あまりにも無力だったから」鉢屋は唇の端を歪めた。笑みのようにも、怒りのようにも見える角度で。
    「落下には誰も耐えられない。人間は足場がないと立てない生き物だから」
    「すべての生き物がそうだ」
    「鳥は空を飛べる」
    「飛び続けることはできない。羽根を休める場所がなければ、やがて力尽き、落下する」
    「それでも一時は抗うことができるよ」久々知が丁寧に言った。子供を慰めるように、落ち着いた声音。そうすることで相手に作用することができると知っているのだろう。
    「抗うことはできるけれど、二度と空へは上がれない」
    「つまり、落ちることそのものへの恐れ?」
    「落ちた後に生命が絶えるかどうかじゃない」
    「だから三郎は下を見るんだね」
    「宙には何もない。私たちはもう、落ちてしまった後だから」
    「問題なのは、これから落ちるかどうか」
     鉢屋は小さく鼻を鳴らした。獣のような仕草だった。
    「兵助は飛べるのかもしれない、と」
    「夢みたいな話だね」久々知は語尾に笑みを含ませる。「素敵、とは言い難いけれど」
    「髪が、」
    「髪?」
    「風で広がった髪が翼に見えた。だから、飛んでしまうのかと思った」
    「景色が良いから眺めていただけだよ」
    「ただの崖に見えた。少なくとも、私には」
    「崖だよ。何もない。だからこそ空のよく見える崖」
    「どうして、空を?」
    「なぜ知りたいの?」久々知が疑問符を返す。
     視界を隠す掌に、己の手を重ねる。熱を伝える手の内に反し、骨ばった手の甲は音もなく冷え切っている。
    「知りたいから」一音一音を零さないように、慎重に舌を動かした。「兵助のことを」
    「三郎は俺のことをよく分かっていると思うけれど」
    「理解することと知ることは違う。筋道が違っていても、同じ場所にたどり着くのが理解」
    「知ることは、辿った道にある?」
    「私と兵助は似ているけれど、同じ道を通ることはない」
    「それでは不満?」
    「理解することも、知ることも不要かもしれない」
    「三郎と雷蔵のように」久々知が言う。授業において正しい答えを述べる時と同じ抑揚だった。
    「凡その関係はそうだろう」
    「俺たちはそうじゃない?」
    「兵助のことは、」重ねた指の爪に、微かに白が滲む。「理解できてしまうから仕方がない」
    「知りたいと思うのも?」
    「兵助は私を知っている?」
    「知らないよ」
     作り物の肌を久々知の指がそっと撫ぜた。指の隙間から滲む光が掌の動きに合わせて静かに揺れた。
     今すぐにでも面を奪うことのできる指だ。一瞬思考に浮かび上がった思考は、しかし、すぐに溶けて消えた。それが信頼のためなのか彼には分からなかった。
    「だから、三郎の見たものを聞いたんだ」
    「なぜ?」
    「せっかくなら、知っておきたいじゃないか」久々知が唇を尖らせる。「三郎は?」
    「私も同じだな」
    「真似をするのが得意だね、三郎は」
    「残念ながら兵助の真似は難しいんだ」鉢屋は笑いながら言う。「凡その関係の外にいるせいで、どうやら見えているものが違うらしい」
    「その割には俺の顔も使うことがあるように思うけれど」
    「変装名人を自称しておいて、不得手から逃げていてはいけないだろう」
    「そんな理由だったのか……」呆れを隠さずに眉を押し下げる。
     笑みを頬に湛えたまま、鉢屋は重ねた手を静かに握りしめた。ゆっくりと胸の前へ下ろし、それから手の甲に重ねられていた指を手の中へと組みなおす。
    「眩しいな」
     目を眇めながら空を仰いだ。長く閉ざされていた瞳に降り注ぐ光は淡く、茫洋と漂っている。
    「冬の光だ」手を繋いだ先で久々知が同じように宙を仰いでいる姿が見える。
    「三郎の見た光は見えないね」
    「残念?」
     久々知は頷いた。
    「落ちれば、見えると思う?」
    「同じ光を見ることは多分できない。それに、」
     指を強く握り、鉢屋は小さく息を吸う。空いている方の手を宙に翳した。
    「今見える光が、綺麗だ」
    417_Utou Link Message Mute
    2022/11/27 15:38:21

    小雪

    #鉢くく
    大遅刻!
    相手について知りたがる鉢屋と久々知が喋ってるだけの話です。

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