イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

  • 1 / 1
    しおり
    1 / 1
    しおり
    同じ景色に吹く風よ その少年が北風の中で立ち尽くしている姿を見つけた時、彼は複数の言葉を同時に呟こうとし、その全てを溜息に変えた。
     学園の裏山、そのさらに裏山から街道と反対方向に広がる森の奥。谷川の支流から続く小川の畔。背の低い木々の隙間から注ぐ光が水面で無秩序反射し、俄かな明るさを湛えた場所。鍛錬のために訪れるには近く、あたりに手頃な川や岩場もない空間には、少年以外の姿はない。他に存在するものは穏やかな静謐のみ。少年はおそらくそれを見越して訪れたのだろう、と彼は頭の隅で推測した。
     こぼれ落ちた吐息の代わりに新しい空気を取り込もうと口を開く。
     瞬間。黒髪が振り向いた。
     大きな双眸が現れ、視線が重ねられる。一瞬、呼吸が止まるのを感じた。
    「何か用?」少年が丁寧な発声で言った。黙ったまま背後に佇んでいた彼の姿に対して、驚いた様子は見られない。「三郎」
    「兵助……」鉢屋は曖昧に口を開閉させながら一度目を伏せた。「念のため言っておくけど、跡をつけたわけじゃない」
    「知っている。だけど、どうしてここを?」久々知が首を傾げた。曲げられた拍子に癖のある黒髪が輪郭から頬へと落ちた。ちょうど半分ほど顔を覆う。絶えず流れ続ける微風が毛先を揺らし、表情を徒に点滅させた。彼は滑らかな手つきで前髪を払うと、首を正面に戻した。「いつから?」
    「兵助こそ、最近いつもここに来てる」
    「跡をつけてるわけじゃないのに、詳しいな」
    「先生に変装して、出門表を見せてもらった」
     鉢屋の答えに久々知は口の端を吊り上げた。自分の行動を暴かれたことに対する怒りは見られない。
    「あとは消去法だ」
    「さすが三郎」笑みはそのままに、眉だけが僅かに寄せながら久々知が言った。一度言葉を切りゆっくりと口を開き直す。「……少し考えたいことがあるんだ」
    「珍しいな」
    「珍しいって、何が?」
    「兵助は考え事をする時、手を動かしていたい性質だと思っていた」
    「それは三郎じゃないか」
    「うん、だから」鉢屋が頷いた。
    「……まあ、そうなんだけど」久々知は一度目を閉じ、同じ速度で目を開けた。「ここが一番、よく見えるから」
     ほとんど独り言に近い声音で呟き、彼は再び頭上を仰いだ。背の低い木々であっても少年たちの背丈では手を伸ばしても頂には触れられないだけの高さがある。久々知の視線を辿るように、鉢屋も宙を見やった。より空に近いせいか、或いは分裂し、細くなっているせいか、微風に反して大きく揺れる枝が目に入った。その規則的な曲線につられることなく、大きな黒目は静止したまま。宙を凝視している。
     否、宙ではない。
     揺れる枝の隙間。
     陽の光を分け合うように組み合わされた網目。
     その中を埋めるもの。絶えず流れ込み、存在する透明。
     すなわち。
    「風」
     鉢屋は呟いた。彼の言葉は間合の外に立つ久々知の耳にも容易に届いたのだろう。頷いた拍子に、癖のある黒髪が肩を掠めた。
    「ここなら人も来ないと思ったんだけど」
    「……兵助がこの場所を気に入っていることくらい知っている」
    「だから様子を見に?」
    「別に兵助が何をしてようと咎める気はない。近くに用があった、その帰りだ」鉢屋がわざとらしく肩を竦めた。「だけど、何刻もいるならもう少し厚着をしろ」
     久々知は顔を鉢屋の方へ向け、二度、瞬きを落とした。厚着、と投げられた言葉を繰り返す。
    「今は冬だ。風邪をひく。期末試験の前に体調を崩して準備も出来なかったなんて、優等生の名が廃るぞ」
    「大丈夫だよ。それに、試験前に慌てて勉強しても本当に身に付いたと言えないだろう」
    「八左ヱ門が聞いたら泣きそうな台詞だな」
    「八左ヱ門は言葉で説明できなくても感覚で身に付けてるから、むしろ、教科を覚える時間が無駄だと思うけど……」
    「試験なんだ、仕方がない」鉢屋が溜息をついた。「そうは言っても、兵助だって全く準備をしないわけじゃないだろう」
    「まあね。だけど今は勘右衛門が下準備してるから」
    「勘右衛門が準備をしてどうする」
    「今年も、い組は全員で満点を取るのが目標だからね」久々知が悪戯っぽさを露にしながら微笑んだ。「三郎も、ろ組の皆を手伝ってやれば良いのに」
    「うちは担任にならって放任主義なんだ。各々好きなようにやるのが組としても良い結果に繋がる……というか、お前たちこそ」呆れを滲ませて鉢屋が言う。「毎度、よく飽きないな」
    「勘右衛門が張り切っていると、皆つられるみたい」
    「あいつは期末試験を祭りか何かと勘違いしてないか」
    「同じようなものだよ」
    「……教師が聞いたら、土井先生でなくても胃を痛めそうだ」
    「年に数回しかなくて、開催される時期が決まっていて、それに向けて空気が浮つく。ほら、お祭りだ」
    「お祭りの意味を調べ直してこい、優等生」
     久々知が声を立てて笑う。
     同時に、一際強く風が鳴った。悲鳴にも似た高い声の後で、木々の枝が摩擦音を響かせた。
     吹き付けた風の鋭さに、思わず瞼を下ろす。反射的な行動。氷のような温度が皮膚を包み、肌を粟立たせる。気紛れな突風だったのか、正しく瞬きに等しい時間で過ぎ去ったと気付き、ゆっくりと目を開いた。眼前では変わらず久々知が宙を仰いでいる。全く同一な角度のまま。髪だけが無差別に乱れている。彼は目を閉じなかったのか、と鉢屋は考えた。
     眼前の少年が、やがて、小さなくしゃみを落とした。
    「寒いな」
    「……だから言ったろうに」
     鉢屋は前に足を進めた。平だと思っていた地面に、微かな傾斜があることを知る。少しばかり高い位置にいたためだろう、予測よりも二歩、久々知との距離は短かった。手が届く間合いに立ち、目を細める。
     背後に流れる小川から跳ね返る光が、久々知の黒髪にまとわりついていた。光を含んだ艶が浮き上がり眩さを増す。微かに目眩。足元を確かめるように、つま先で土を踏み躙る。乾いた地面が僅かに抉られ、濡れた土の匂いが鼻孔を掠めた。
    「わかったよ」久々知が目を伏せ、小さく首を振った。
    「明日も来る気か?」鉢屋が尋ねた。
    「うん」
     目を開き、鉢屋の顔を真っ直ぐに見る。
     大きな双眸。その奥の、黒。
     一点に輝く光は太陽の反射、或いは、彼本来の理知か。
    「私もまた、来ても良いか」
    「一緒に?」久々知が微笑んだ。瞳の奥の光が柔らかく形を変える。「どうして?」
    「……上着を持ってきてやる」
     三日月を面に浮かべながら、鉢屋が答えた。久々知は微笑みをいっそう深く刻み、それから控えめな仕草で笑い声を上げた。肩が揺れ、黒髪もまた連動する。
     風はいつの間にか止んでいた。


     川の向こうで村が焼けていた。
     一帯を治める城から離れた、山の麓にある小さな村だった。道を挟んで広がる畑。等間隔に並ぶ茅葺き屋根の黒い輪郭。川から農作業のために水を引いているのだろう、道の端には人の手で作られたであろう窪みが続いている。水が流れ行くはずのそこには、しかし、湿気の欠片さえも無いと推測ができた。一間ほど上流に備えられた水門は固く閉ざされている。湿潤の代わりに乾燥してひび割れた土が剥き出しになっている姿を想像し、それから、絞っていた焦点を緩めた。村のあちらこちらで上がる炎からの揺めきと、その手前で悠然と畝る流れが目に入った。
     穏やかな川面だ。時折水中で魚が跳ねるほかに鏡面を乱すものはない。微かな風さえも吹いていないのだと言える。この穏やかな空間では、炎が風に煽られて焼け野原を広げることもないだろう。
     正に、対岸の火事。
     足を止めた久々知は唾液を絞るように飲み込んだ。風のない中では対岸まで熱風が吹き付けることはない。冬晴れの乾いた空気のせいだろう。
     隣を歩いていた尾浜が、一歩分前に飛び出した後で静止し、久々知を振り返った。大きな籠を背負い、右手には農具を下げている。どこからか野菜を売りに来た農家の少年を想像させる姿。尤もそれは、同じく籠を背負った久々知にも言えることだった。
    「どうかした?」尾浜が炎を見ずに言った。
    「……火事だなあ、って」久々知が答える。
    「そうだねぇ、まあ、冬だから」
     空気の渇いた冬場は、ほんの些細なことで炎が燃え広がる。村一つを飲み込む事件は珍しいとは言えず、目撃したからと言って何ができるわけでもない。逃げ延びたであろう村人の集団が見られないことや、雨でもないのに閉ざされた水門の存在に気付いたとしても。まして、一介の農民がそのような不自然に気付くはずもない。彼らの目に映るのは不運にも火災に遭った村であり、つまり、ただそれだけであるべきだった。
    「まあ風がないから、山火事にまではならないだろうさ」尾浜が肩を竦めた。「ほら、日が暮れる前に帰らないと」
    「そうだね」久々知は頷き、尾浜の隣に並び立った。
     先程までと同じ速度で歩き始める。川に沿って暫く進めば、やがて曲がり道に出た。左手には森、右手には対岸へ渡るため橋が一つ。視線で川向こうを辿れば、橋の半ばが崩れ落ちていることが分かる。久々知と尾浜は顔を一瞬見合わせ、それから周辺を軽く見渡した。慣れない道を来た人間が正しい道を探していたとしても、それは不自然なことではない。橋から目を離し、森の方へ視線を向ける。
     同時に、二人の身体に隠れた着物の裾が軽く引かれた。農具を握り直す素振りに紛れ込ませた、尾浜からの合図だった。
     森の中から一人の人間が現れた。体型からして、おそらく男。腰を曲げて歩いているようで、片手には杖をついている。老爺然とした男は道の最中に立ち止まった二人を目に留めると、無警戒な笑みを浮かべた。
    「こんにちは」
    「ああ……えっと、こんにちは」尾浜が微笑みを返しながら言った。
    「どうかされましたか」
    「道を確かめていたんです」
    「街へ行くなら反対方向ですよ」
    「あはは、帰り道なんです。村で取れた野菜を売りに行った帰りでして」
    「それはご苦労様なこった……この辺りでは見ない顔ですが、遠方から?」
    「ええ。山向こうから」尾浜が森の奥に見える山を指で示した。「あちらには小さな町ばかりで、売れ行きも悪い。お城さんの下なら買い手も多いのではと思いまして」
    「おやおや……今は街の景気もいい。よく売れたでしょう」
    「ええ、はい。山を越えた甲斐がありました」
     老爺は笑顔のまま頷いた。そのまま、よかったよかったと呟き、二つの影とすれ違う。背後に消えた老爺を、久々知は首だけで振り返った。老爺もまた振り返り、真っ直ぐに久々知の方へ顔を向けた。久々知は手にした農具を無意識に握り直し、小さく口を開いた。
    「対岸で火事が起きていました」
    「ああ、行き掛けに見ましたよ」事もなく老爺が頷いた。「まだ燃えていましたか」
     久々知は眉を顰めながら遠くへ視線をやり、それから老爺の顔を真っ直ぐに見据え直した。「はい、ですので、お気を付けて」
    「ご心配を有難う。しかし、大丈夫ですよ」
    「……何故?」首を傾げる。
    「あの村は焼かれなければならなかった。それだけのことです」
     老爺はそれだけを零すと会釈を一つ落とし、道に沿って歩き去った。久々知はその背を二秒見つめ、顔を正面に戻す。笑みを浮かべたままの尾浜の肩を叩き、森へ足を向けた。
     冬の装いを纏った森はひどく寂れ、正面から射し込む斜陽が木々を赤く染めていた。炎の中を歩いているかのような錯覚。しかし熱はなく、むしろよく冷えた空気で満ちている。形のない光線に目を細めることもなく、久々知は真っ直ぐに額を上げた。
     久々知と尾浜に課せられた忍務は、とある城の情勢を調査することだった。忍術学園の裏々裏山から、さらに山を二つ越えた先にある城。目立ったところはなく、これまでも大きな動きを見せたことのない城の膝元で、何やら人の出入りが増えているという噂があった。人の流れは突然大きくは変わらない。一気に変わるためには何某かのきっかけが存在する。噂を聞き及んだ教師たちによって、件の城には学園と敵対する城のような悪名はないが、調べておくに越したことはないと評価された。普遍的な調査活動の枠からははみ出さず、直接の危険も想定されず、つまり、五年生の実習にちょうどいい難易度であったことも理由の一つだろう。思惑がどうであれ、実技担当の教師から指示書を渡されたのが三日前。準備を整え街へたどり着くまでに一日、調査に二日をかけた計算だった。
     結果、答えは単純なこと。予測された内で、最も普遍的と言える答えだった。すなわち、戦である。戦で必要なものは道具と戦力であり、それらはどちらも人によって媒介される。不自然な人の動きに気付いた時誰もが、それが忍でなくとも、戦という言葉を思い浮かべるだろう。
     尤も、忍にとっての問題はどの城との戦であるか、という点だ。こちらもまた学園とは無関係な、或いは介入したところで無益な城が相手であると判明するまでに時間はかからなかった。どちらの城にも忍者隊は組織されているらしかったが、この度は武士同士、正々堂々とやり合うつもりらしい。世の覇権を競うというよりは、隣り合った城同士の小競り合いに近い。町人の話に寄れば、次の戦で既に三回目にあたるらしかった。決着のつかない戦では城に益はなく、一方で、戦支度と称した武器や食料の売買で町には金が流れる。戦に参加しない町の人間からすれば数年に一度の祭のようなものだと、彼らは言った。
     戦を歓迎しながら。病よりは余程いい、と。
    「対岸の火事、か」久々知が呟いた。
     道のりは既に二つ目の山の峠に差し掛かかっていた。幾らも前に落ちた日に代わった星影が、山道に転がる石の表面に反射している。
    「どうした、突然」尾浜は黒目だけを久々知へ向けた。
    「ほら、さっき見ただろう?」
    「……そうだなぁ、よく燃えていた」
     尾浜が小さく頷いた。城の領地からはとうに離れている。安全とは言い難いが、会話をするだけの余力は十分にあった。
    「お前は火事が嫌いだもんなあ、兵吉」笑いながら、尾浜が予め定めてあった偽名を呼ぶ。それから、周りを見渡した後軽く息を吐いた。「もう平気だな」
    「惨いことは、誰だって嫌だろう」久々知は笑わなかった。「あの村は……」
    「感染る病って言ってたね。大凡村の人たちがたちまち倒れていったんだろう。町に運ばれる前に、と判断するのも無理はない」
    「町に運ばれれば戦どころじゃないからな……つまり、裏を返せば、戦がなければ村を丸ごと燃やすなんてしなかったかもしれない」久々知が声音を変えずにいった。「嫌な世の中だ」
    「しょうがないことじゃない? 少数より多数。人命より利益。市中の人より城の人ってね。世の中ってのは、別に、個人を尊んじゃない」
    「全く、嫌になる」
    「珍しいな。そんなことを言うなんて」尾浜が首を傾げた。「いや、まあ、兵助も理想家っぽいところはあるけど」
    「俺も?」
    「比較の問題だよ」
    「側面の問題じゃなくて?」
    「軸の話だ。面ほど簡単に変えられない部分の話なんだから」
     久々知は脈を三つ数え、そして目を伏せた。納得したことを示すために両手を顔の前に掲げて見せる。尾浜は喉奥で笑いながら、それで、と久々知の顔を覗き込んだ。
    「何を気にしているのかな、兵助は」
    「……三郎が言っただろう」
    「何を?」
    「良い風が吹いているって」
     尾浜が二度、瞬きを落とした。いつの話かを思い出そうとする仕草。それから茫洋と正面を見つめ、首の裏で腕を組んだ。
    「俺には兵助の言いたいことが分からん」悪気なく言い放つ。
    「俺だって勘右衛門の考えてること、大抵分かんないけどね」久々知が吹き出しながら言った。
    「見えてる景色が違うから仕方ない。それに、分からなくとも問題ないだろう? 大体三郎が原因なら、三郎と話せば良い。兵助の知りたいことに答えられるのは、奴くらいなものなんだから」
     尾浜が路傍の石を蹴り飛ばした。宙に打ち出されたそれは小さな弧を描き、そのまま呆気なく地面に落ちた。木々の隙間から差し込む星影が静止した石の上を照らし、俄かに輝きを反射させる。久々知は眉を顰め、しかし、言葉は返さなかった。一足分前に進んでいる級友を追いかけるように大きく足を踏み出し、動きを止める。小さな輝きを直視する。太陽のような残像もない。密やかな光。久々知は音を立てず、その光を踏み越えた。

    *
    「暖かい格好をしろと言わなかったか?」
     大きくもない声音で呼び掛ければ、久々知は短い動きで鉢屋の方へ顔を向けた。枯れ枝を見上げていた双眸が真っ直ぐに面を穿ち、静止する。三つを数えてようやく瞬きを落とし、彼ら右手を軽く上げた。
    「上着を持ってきてやるって言ったの、三郎だったと思うけど」
     鉢屋は僅かに傾斜した地面を危なげなく下りると、背後に回していた左腕を突き出した。手には綿の入った半纏が握られている。
    「本当に?」久々知が双眸を丸くしながら言った。「三郎って案外面倒みがいいよね」
    「……兵助は存外無頓着だ」
    「だって、三郎が持ってきてくれるって言ったから」
    「寒かったのか」
    「いいや、別に」久々知は首を振った。「それに、ちゃんと上着を着てたら三郎が来てくれないかもって思ったから」半纏を受け取り、制服の上に纏う。「でも、ありがとう」
    「礼なら勘右衛門に言え。私が部屋を訪れたら問答無用で差し出してきた」
    「勘右衛門、部屋にいたんだ」
    「お前は一体いつからここに立ってたんだ……」鉢屋が額を押さえる。「冗談抜きで風邪を引くぞ」
    「仕方ないだろう」久々知が肩をすくめる。「三郎を、待っていたんだ」
     ゆっくりと零された言葉に、鉢屋は顔を上げる。久々知の顔を見やれば、既に彼は枝を見上げ、視界には横顔しか映らない。髪の隙間から覗く耳の縁が赤く染まっているのが見えた。緊張ではなく、冷えのためだろう。
    「私を?」鉢屋が尋ねた。「いつから……」
    「何日も前からって言ったら、三郎は驚く?」
    「驚かない。なぜ前に会った時、そう言わなかったのかと疑問には思うが」
     久々知は揺れる枝の影に合わせて黒目を泳がせながら、小さく息を吐いた。緩やかに吹き続ける風を吸い込むように、唇を開く。二度、三度、呼吸を繰り返す。生命が無意識に行う自然な行動とは違う。意図的な仕草。厚い綿の下に隠された肺が微かに上下して見えた。
    「兵助、」葉を全て落とした木の枝を見上げながら名前を呼ぶ。「どうして私を?」
    「……三郎が前に言っただろう。良い風が吹いているから、来年はもっと良い年になる、と」
    「ああ、言ったな」
    「今もそう思う?」
    「あの話を始めたのは勘右衛門だったと記憶しているが」
    「勘右衛門の言葉は、願掛けに近い、謂わば、楽観」
    「楽観だって悪いことじゃない。兵助も知っていると思ったが」
    「知ってはいる。だけど、三郎が、それに乗っただろう」
    「それが気になること?」
    「三郎は楽観的な見方をしても、口に出さない。状況を見て、足元を確かめて、口に出すことは決めている」久々知は腕を組んだ。「良い風が吹いている、なんて理由。何かを誤魔化しているようにしか思えない」
    「一度は誤魔化されてくれたじゃないか」
    「やっぱり気になったんだよ」
    「兵助の予想は? ついているんだろう?」
     久々知は素直に頷いた。「つまるところ、良い年になるよう努力する、って意味だ」
    「随分と断定的な言い方をする」
    「勘右衛門も八左ヱ門も、皆、前を向いている。前を向いて努力していれば、少なくとも今より悪くなることはない。それが、良い風の正体だ」
     どうだろうか、と久々知が視線だけで鉢屋を眼差した。授業の中で正答を言い当てた時と同じ、自信に満ちた声。鉢屋三郎という人間の思考回路を理解しているのだと疑っていないように。或いは、彼には鉢屋を理解しているという意識自体がないのかもしれない。同じ場所に立っている者達に見える景色が、当然に同じであることと同様に。
     違うのは、その認識。
    「兵助の言う通りだよ」鉢屋は目を伏せた。「反対に、兵助はどうして私に同意した?」
     同じ点に着地したところで、その過程は全くの異質。他人である以上、同一ではあり得ない。そも、同一であることに価値はない。
    「三郎が言ったから……それじゃあ駄目なのか」
    「嬉しいが、兵助も私の言葉一つで確信を口にはしないだろ……ああ、いや、そうか。兵助、お前、」言葉を途切れさせながら、鉢屋が目を見開いた。「そんなことは一言も」
    「うん。俺が同意したのは八左ヱ門の言葉だよ」久々知が微笑んだ。「意図を理解できたから、否定はしなかったけれど」
    「それなら尚の事。何故、今更になって?」
     鉢屋が疑問符を再び投げかける。久々知は木の枝の、その向こうに流れる風を見据え、僅かに目を細めた。
    「火事を見たんだ」
    「火事」鉢屋が繰り返す。
    「この前の実習帰りにね。小さな村が全部、燃えていた」
    「冬場は空気が乾く。火も起こりやすい」
    「農閑期とはいえ水門が閉じられ、唯一の橋も落とされていた。誰一人逃げられないように。近くには老人に変装した忍が一人」久々知が事実を羅列する。
    「それは、また……作為的だな」
    「病に襲われた村があると町の人々は言っていた。もうすぐ戦が始まって、武器も食料もよく売れるはずなのに困った事だとも。早く収まってくれないかと口を揃えて言っていたよ。要するに……城は治すのではなく、根絶を選んだわけだ。よく晴れた風のない日を選んで。村人が逃げ出さないように退路を絶って。火をつければ町の人々は一安心。戦は予告通り始められ、そのために物資と金が往来を賑わせる」
    「仕方がない」鉢屋が平坦な口調で言った。「人間では風を操れない」
     面の下から覗く視線が細められる。目に見えない、見たことのない火事の風景を宙に思い浮かべたのだろう。久々知はその視線を真っ直ぐに受け止めるように、身体を鉢屋の方へ向けた。「問題はそこだ」
    「風は操れない?」
    「来年がいい年になったとして……だけど結局、世は戦を中心に周り、争いが正義の顔をし続ける。どんなに願っても、それは変わらない」落ち着いた声音で言葉を続ける。「風はただ流れるだけ、対岸の火事もまた対岸のまま。世は変わらない」
    「だから、良い年になる、とは言わない?」
    「つまり、風に良いも悪いもないんだ」
     真面目な表情のまま答えると、久々知は空中に手を伸ばした。風の流れを読む時のように、人差し指一本だけを真っ直ぐに伸ばす。
    「流れている風は俺たちのことなんか知らない。俺たちがその風を良い方向に利用できるかどうか。ただそれだけなんじゃないかって」久々知が微笑む。
     鉢屋は空へ向かい伸ばされた指ごと、翳された手を包んだ。
     冷えた体温が神経を伝う。首筋が粟肌に変わるのを感じた。
    「つまり、私の意見への同意か」鉢屋が尋ねた。
    「そうだよ」微笑んだままで久々知が頷く。「俺たちが正心を忘れず走り続ける限り、吹いている風は良い風になる。例えどんな風でも、より良い明日へ向かうのは風じゃなくて俺たちだ」
     願うだけでは足りない。
     より高く飛ぶための。
     全ては必要な助走。
     願うのは、その先に辿り着いた後のこと。
    「それを確認したくてここに来ていたのか」
    「考えをまとめる必要があったから」
    「兵助が私のことを知りたがるとはな」
    「三郎のことは分かるけど、分からないこともある」久々知が眉を顰めた。「俺たちは辿り着く場所が同じでも、辿る過程が違いすぎる」
    「確かに、考える方向は違うのに、最後に同じ景色に至るのはいつも兵助だ」
     鉢屋は唇に三日月を湛えながら、両手で久々知の右手を包み込んだ。乾いた皮膚が触れ合い、摩擦が起こる。冷え切った肌の上に微かな熱が灯される。
    「偶然かもしれない」
    「偶然であったとしても。兵助が私を知っていることに変わりはないよ」
    「知ろうとしているだけだ……それに三郎も、俺のことをよく知っている」
    「知ろうとしているからな」
    「どうして?」久々知が微笑みを浮かべ直す。空いたままの左手を鉢屋の両手の上に重ねた。
    「私にとって、」鉢屋の目が眇められる。「良い風の一つだから」
     拙い熱が肌の合間に広がり、指先へ伝う。その淡い温度の輪郭を示すように勢いよく、北風が吹き付ける。
    「俺にとっても、きっと、良い風だ」
     黒髪が舞い上がり、二人の視界を閉ざす。一瞬の暗闇の中で、双眸に閃く光だけが鮮烈に互いを捉える。
     次の瞬間に風は過ぎ去り、戻らない。
     木の影は静止し、静寂が流れ込む。
    「寒いな」久々知が小声で言った。
    「学園まで走るか」鉢屋が指を離した。
     声を掛け合うこともなく、同時に足を踏み出す。軽やかに砂を蹴り、地を駆ける。空気を切り裂き、頬が冷えていく感触。反して、筋肉は収縮し、全身に熱が巡る。
    「私たちはどこへ向かっていると思う?」
    「どこだろうと、辿り着く場所は同じだ」
    「そうだな……だが、たまには同じ道を走るのも悪くない」鉢屋が前を向いたまま尋ねた。「兵助もそう思うだろう?」
    「……ああ」久々知も正面を見つめながら、答えを返す。「三郎がそう言うのなら」
     二つの影は止まることなく駆けていく。
     そこに、風があった。
    417_Utou Link Message Mute
    2022/09/10 23:48:28

    同じ景色に吹く風よ

    #鉢くく
    別サイトからの移転です。
    初出:2021年12月29日

    more...
    作者が共有を許可していません Love ステキと思ったらハートを送ろう!ログイン不要です。ログインするとハートをカスタマイズできます。
    200 reply
    転載
    NG
    クレジット非表示
    NG
    商用利用
    NG
    改変
    NG
    ライセンス改変
    NG
    保存閲覧
    NG
    URLの共有
    NG
    模写・トレース
    NG
  • CONNECT この作品とコネクトしている作品