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    第二話 ジョーチョー・トブレンツ


     ――ああ、やってしまった。……これで……よかった、よな……?
     会社の玄関を後ろ手に閉めて、業務時間中につき静まり返ったそこでしばらく惚けていた。
     俺様、ギルベルト・バイルシュミットは、しがない町の製作所で営業をやっている。様々な場面で使われるライン作業用ロボットを主に作成している会社で、俺様は法人担当の班長だ。法人担当の中では一番上の立場になる。
     業績も上々、そろそろ人手不足を感じ始めて総務に相談したところ、新人を一人入れるかという話になった。単純に、人手が一人増えるんだからそれはありがたい。その一人分の給料が増えても回るくらいには、売上はいいのだろう。『なるべく手間がかからないよう、同業種経験者の中途採用がいい』そんな希望くらいは出した気がする。
     書類選考はすべて営業部の部長までで話はまとめられていた。どんなやつが来るんだろうなと班で話していたくらいだ。その矢先に昨日、初めて、新人の候補として考えている人が面接に来るからと聞かされ、おまけに、『面談予定だった部長が急用で出席できなくなったから、代わりに出て』と付け加えられた。随分急な話だとは思ったが、直属の部下になる人材だ。断る理由もなく、俺様はそれを了承した。――……誰が予想した? あいつが来るなんて。誰も考えねえだろ、そんなこと。一瞬だけ俺様を追って応募してきたのかと思ったが、それはあいつの反応を見て違うことはわかった。あいつも青い顔をしていたから、嘘偽りなく偶然だったんだろう。事前に履歴書を見せてもらえればよかったが、あいにく時間を空けるために急ぎの仕事をしていたので、そこまで気が回らなかった。
    「あれ、ギルベルト帰ってたの。おかえりおかえり」
    「社長」
    頭を抱えそうになったところで我に戻される。
     いつも底抜けに明るい社長が廊下の向こうから歩いてきて、それに促されて渋々と靴を上履きに履き替えた。
    「イヴァンくん、彼いいね。うちの営業にああいうほわわんとしたタイプの人いないし、是非来てもらおうかと話してたんだけど、」
    俺様の動作に関係なく話していた社長だが、靴の履き替えが終わり背筋を伸ばすと、表情を伺うように覗いていた。
    「正直なところ、君としては彼の人間性をどう見てる?」
    ぴたりと目が合い、その瞬間には悟っていた。この目は知っている。この社長、どうやら相当あいつのことを気に入ったらしい。
     わざとファミレスでのことを思い出しながら、
    「そうっすね、まともに会ってたの、もう十年以上も前ですし……俺に人間性どうのとは言えないっすね」
    「そっかあ。それもそうだね」
    差し障りのないことを言った。俺様の一言であいつのことをどうこうしてしまうのは不公平だと思ったし、事実、俺様は今のあいつを何も知らない。何があっても責任は取れない。
     だが、変わってないなあと思った部分もないと言えばうそになる。今のたった一時間程度の時間だったが、柔らかい喋り方とか、困ったときにとりあえず作る笑顔がわざとらしくないとか、職業病だろうか、営業には向いている部分もあるとは思った。――昔のことを思い出さないよう、いちいち意識をしながらあいつを観察していたんだ、きっと大逸れてもいないだろう。
    「まあ、友だちやってたときも、いっつもマイペースでにこにこしてましたよ。はまる客先はあるかも」
    ……強いて言うなら、たまに気分屋で、マイペースすぎるきらいはある。それを付け加えようとしたところで、
    「そう……だよね! うんうん!」
    社長に先を越されてしまった。ひょい、と足取り軽く身体の方向を変えて、総務部の一角へ進んでいくようだった。
    「いいねえ。経験もオッケー、素質もありそう。それなら彼の席をもう準備しちゃおうかなあ〜! 彼今のところ、他の会社は受けてないって言ってたものね〜!」
    少し変わっているこの社長はくるくると回り、俺様と正面を何度も何度も確認しながら遠ざかっていく。もう今から何を言っても、たぶんあれは気を変えないだろう。……いや、俺様は特に社長の決断を後押ししたわけでも、足を引っ張ったわけでもない。あれは社長判断だ、どうにかできるところじゃない。少し心許なく感じながらその背中を見送るのがせいぜいだ。
     いつの間にか足が止まっていたことに気づいて、ゆっくりと片足を持ち上げる。
     思考を深くに落とし込まないよう、自分になんでもないことのように言い聞かせて、そのまま営業部のフロアの法人班の一角へ向かう。
     我ら営業、日中はほとんどデスクに人はおらず、俺様は一人でこの島を守るように席に座った。そう言えば今週の見込み進捗率の報告がまだだったか。……思い出したものの、残念ながら班員の報告メールを開くまでには気力が至らなかった。
     パソコンの画面を眺めて、思い出すのはスーツ姿のあいつのこと。……久しぶりに着たんだろう、おろしたてだとよく分かるスーツは、ちっともあいつに馴染んでいなかった。高校のときのブレザーのほうがよほど似合いで……そう言えば、まだ首の周りが弱いのか、面接が終わった途端にマフラーを巻いていたなあと思い返す。
    『――ぼくたちっ、こ、恋人に、』
    「……あ、」
    フラッシュバックした。……今日の中で一番堪えた、あいつの言葉を。今度こそ頭を抱える。
     ……今さら、どうして恋人に戻れるなんていうんだ。……俺様のこと、あっさり投げ出しやがったくせに。あいつを見ていると、懐かしくて苦しくなった。こんなにまだ掻き立てるなんて思ってもみなかった。あいつのことは、あのときにもう、上手に封印したつもりでいたから。……だが対面したとき、今までどうやって息を吸っていたかも思い出せないほどに、動揺してしまったんだ。この俺様が。……なのに、今さら、どうやってあのころみたいに笑い合えって……
    「……俺様はばかか」
    わざと声に出した。俺様はばかだ、正真正銘の。光の中から笑いかけるだらしのない顔を、意識から拭い去る。〝恋人だった〟俺様たちはもう、どこにもいないんだ。自分に言い聞かせてしまうほど、未だ重症なんだと気が落ちる。
     ……だが、そうだ。だからこそ、とっさのことながら、あの判断は正しかったと思っている。
    「どうしたー? ギルベルト。なにかやっちまったのか」
    区画は別れているが、背後に席がある購買部の社員が話しかけてきた。気を紛らわせるにはちょうどいい。ありがたく椅子をくるりと回して、はあ、と大きなため息を吐いてみせた。
    「いや、たぶん、判断としては間違ってねえ……はずだ」
    「……お前がそう思うなら、そうなんだろ。まあ、あんまり抱え込むなよ。ただでさえお前は慰めてくれる恋人いねえんだからよ! ぶはは」
    「うるせえ! そんなもん必要ねえからいいんだよ!」
    「はいはい、失礼しました〜」
    くそ。どいつもこいつも浮足立ちやがって。
    『俺様にもさ、よろしくやってるやつが、いるからよ』
    ――本当は、俺様には、恋人なんかいねえ。
     そう……俺様はあいつにうそを吐いたんだ。とっさの判断だったが……だが、あいつとやり直すなんて絶対にごめんだ、これでよかったはずなんだ。今さらまたあのときみたいな思いを、ずるずるとくり返したくない。もう俺様の中であいつとの時間は終わった。俺様に恋人がいることにしておけば、さすがのあいつでも諦めてくれるだろう。
     すっかりと向けられてしまった背中から視線を放し、改めて自分のパソコンの画面と向かい合った。班員からのメールを開こうとマウスを握ったところで、この差出人欄にあいつの名前を見る日が来るのだろうかと想像した。
     ……いや、撤回する。社長の決定がどうであれ、あいつの性格がもし変わっていなければ、きっと今回の採用は断るだろう。このアドレス帳にも、あいつの名前が登録される日なんて来やしない。きっと。

        *

     それからしばらく日にちは経っていた。
     俺様がデスクで書類の最終確認をしたり、班員との戦略談義をしていた横で、会社の玄関のほうから度々イレギュラーな話し声が聞こえている。それとなく聞き耳を立ててしまうのは、今日はついに、俺様的Xエックスデーを迎えていたからだ。
    「ギルベルトー!」
    「へーい」
    廊下のほうから名前を呼ばれて、あからさまに身構えた。……内容を聞かなくても、なんで呼ばれたのかはわかっている。会話をしていた班員に目配せをして、三日かけて準備した書類の束を手につかむと、ほぼ同時に、
    「彼、イヴァンくん来てるよ」
    社長が入り口のほうから顔を覗かせた。
    「応接室で総務的な話は済ませてもらったから、あとはよろしく!」
    「……へい」
    なんとなく……というのは白々しい。こんなにも気が重く感じる業務は初めてだ。俺様的Xデーとは、今日からついにあいつが俺様の班の班員として、この会社の一員になる日のことだった。
     一週間くらい前まで話は遡るが、あいつがここに入社するはずがないと確信を持っていた俺様は、ただ日常をくり返しているつもりでいた。いつものように、班員のノルマ消化率を出したり、ちょっとクレームになりかけている客先の対応を考えていたり……まあ、要は雑用だ。
     そのときはいつになく突拍子もない弾丸のように社長が営業部のフロアに駆け込んできて、それを見つけたときにはすでに口を大きく開いていた。
    「じゃギルベルト、イヴァンくんと連絡ついたからね! 来週から来てもらうね!」
    「え……」
    その言葉は意外だった。その前から考えていた通り、てっきり、あいつは採用を断るものとばかり思っていたからだ。どうやらこの十数年の間に、あいつは変わったらしい。目眩がしそうだったがそこはなんとか気を強く持ち直して、目線をパソコンの画面の中に移した。なんでもないことのように演出したかったんだと思う。片手間を装いたかった。
    「……そっすか。はい。教育担当だれにしましょうかね」
    「君」
    「は!?」
    さらりとその言葉をそこに置くので、思わず力いっぱい顔を上げてしまった。
    「当たり前だよ。班長なんだから」
    言われて初めてハッとした。確かに班員はいつも外に出ているし、かと言って法人担当以外が教育したところで効率は悪い。……そうだった、そんなことも見落としていた。これは動揺のせいだ、完全に教育のことを考えていなかった。というより、もはや放棄していたに近いかもしれない。
    「まずはうちの商品システムから教え込まないとねえ。ちゃんとマニュアル化してるんだっけ?」
    他の会社じゃおそらく社長というものはこんなことに首を突っ込まないんだろうが、うちの会社の社長は違う。容赦の欠片もなくそう指摘され、俺様はため息をぐっとこらえて飲み込んだ。
    「いえ、まだっす……最近導入したものもあるんで」
    素直な意見としては、そんなことは今、心底どうでもよかった。……あ、あいつに仕事の教育をするのか……しかも二人きりで……? 俺様渾身のうそは……なんだったんだ……。
    「よし、じゃ、君じゃないと対応できない客先以外は実務から外れていいから、この際マニュアル化しちゃおうね」
    うんうん、と楽しげに笑う。人の気も知らないで……と思ったところで、知る術がないので諦めるしかなかった。別れた元恋人なんです、なんて伝えるつもりがあるわけがない。力んでいた手のひらが諦めにより脱力したことで、不本意的にではあったが、多少は楽になる。
     ……だ、大丈夫だ。深く考えなければ、きっとすぐにあいつがいる環境にも慣れる。……そう、俺様はこの会社の法人班の班長というだけなんだから……単に身構えすぎている。なんとかそう思い込もうとした。
     社長が去り、この一角から人影がいなくなったことを確認した俺様は、ひとまず深呼吸をしてみた。すっと、残っていた強張りも解ける。……大丈夫だ。俺様はできる男だ。自分を奮い立たせるため、ぱん! と一回頬を叩いて引き締めた。二人きりになる時間をなるべく短縮するため、マニュアルやテキストを使った教育は一日に詰め込めるような資料を作ることを目標に、めんどくさいワープロソフトと向き合う日々を始めたのだった。
     そして、ついに今日という日が訪れた。何度も自分の中でシミュレーションをして、耐性もつけたつもりだ。先ほど身構えた分は、未だに少し引っかかりのようなもやを胸の辺りに留めている……が、大丈夫だ。顔を合わせてみれば、たぶん、大丈夫なはずだ。相手はただの、年下の新入り。
     コンコン、とプラスチック製のドアをノックして、なんとかここまで誤魔化してきた気概をなくさないよう、急いで扉を開く。
     応接室に一歩踏み込んだところで、
    「あ、ぎ、ギルベルトくん!」
    全身の活動が停止した。目の前で慌てて立ち上がったあいつが、嬉しそうな、けれどそれに戸惑うような、そんな笑い方をして俺様を歓迎したから……『大丈夫』という言葉で括りつけていた蟠りが一気に押し戻してきた。……それでもまだ唱え続ける、『大丈夫だ、大丈夫』。
    「よお、今回は短い別れだったな」
    なるべく自然な動作で扉を閉めて、果たしてこれは自然か、などと気を取られてしまった。自分で思っている以上に動揺しているらしいが、それすら気づかぬふりを通す。
    「はは、そうだね。君がぼくの教育担当って聞いて」
    「ほんとな」
    こいつの向かいの席にどさりと資料を置いた。俺様が丹精込めて作り上げた教育の資料を印刷してやったやつだ。
    「お前どんな呪い使った」
    社長にも言われた通り、立場上自然な流れだったのはわかっているが、嬉しそうな様子を見ていたら、そう言わずにはいられなかった。俺様が椅子に座ろうとしていることを察して、本人も椅子を引く。
    「やだな。なんのこと? ぼくはてっきり君が口を利いてくれたのかと思ってたよ」
    その様子だと勘違いかな、と続けて、それからおどけるように「じゃあ、日頃の行いじゃない?」と笑った。印刷しておいた書類の表紙に視線を落として、
    「お前の日頃の行いなんてロクでもなさそうだけどな」
    「わ、ひどい」
    心地が悪すぎる動悸をも、なんともないことのように押しとどめようとする。
     そうだ、こんな、昔みたいな会話の仕方がいけないんだ、きっと。心臓に悪い。ここはちゃんと分別をつけてもらわないと困る。一言釘を刺しておこうと顔を上げた。まっすぐに、気後れなど少しも悟らせぬように見据えて、「いいか、」と口を開いた。
    「先に言っておくが、ここでは俺様とお前は上司と部下だ。お前に至っちゃ、新入りの新入りだ。なあなあにしたくねえからな。そこんとこよろしく」
    そうやって距離を保たせなければと必死だった。けれど、相対する瞳もまた、切実だったことが伝わる。
    「う……うん。わかってるよ」
    わざとじゃないのも理解しているのに、あのときと変わらずまっすぐ見つめ返す光が、どうしようもなく揺れて、綺麗で。俺様の中のなにかが騒ぎ立てて止まない。耐えられずにまた視線を資料に落とし、それらを取り分ける仕草をしても……ひりひりとした液体が喉を下っていくような不快感が止まらない。涼しげで切ないそれは、身体の隅まで浸透していくようだった。枯渇して風化した想いが、また潤いを取り戻そうとしているような……――不意に息が止まった。そんなの、嫌だ。冗談じゃねえ。
    「で、早速だが、」
    素っ気なさを意識した手つきで、さっと資料をこいつの前に置いた。
    「お前、前職は似たような界隈にいたんだろ?」
    強引に応接室の中の空気を入れ替えさせ、息が詰まりそうなあいつの目をちゃんと見てやった。俺様も営業の端くれだ、相手の目を見て話すくらいはできる。
     イヴァンもそれくらいの心得はあるようで、しっかりと俺様のことを見返す。そう、これは営業のノウハウの一つだ。俺様だからじっと見られているわけじゃねえし、反対に、それができないようじゃ、今からでもここから叩き出すところだ。
    「うん、ちょっと請け負ってた機械の種類が違うけど」
    「技術的なところはわかってんのか?」
    「うん、わかってると思うよ」
    「じゃ、まあ業界共通のこと、あと技術的なところは端折るぜ。うちの中で使ってる規格とか、うちの強みとか、独自商品の話しかするつもりねえからな。営業のノウハウも、社内で共通化してるところだけ。こういうオベンキョウは、今日中に終わるように叩き込んでやるから覚悟しとけよ」
    淡々と会話を進め、最後にとんとんと資料の上を叩いて注目させた。一度はそれを一瞥したが、すぐにその顔はまた俺様のほうへ向けられ、大真面目な顔で頭を小さく下げる仕草を見せた。
    「よろしくお願いします。バイルシュミット班長」
    寒気のようにぶわっと広がったのは、違和感か。
    「……ギルベルト」
    「え?」
    「うちで俺様のファミリーネーム呼ぶやついねえよ。お前だけバイルシュミットじゃ逆に気持ち悪りぃから、新入りでもそっちで呼ぶな」
    「あ、うん……じゃ、ギルベルトくんって、呼ぶね」
    少しためらうような間があったが、敢えて知らぬふりをした。その葛藤は少しわかる気がするので、言及はしないでおいてやった。
     それから資料とは別の紙切れを一枚だけ渡す。俺様の分は印刷する必要のない資料なので、そのペラ一枚を受け取り、こいつはその表をまじまじと目で追った。
    「まず、それがうちの中の社員構成表な。主な部署が書いてあるから、それざっと目を通して疑問があれば聞いてくれ」
    「ありがと」
    上席から氏名と役職名を書き連ねているだけの構成表に、丁寧に目を走らせている。その様子を見ていたら、ぼんやりと記憶の中の光景と重なっていく。……そういえば、こうして勉強を教えてやっていたこともあったなあと気が緩んでいたことに気づかなかった。……こいつ、顔はあんま変わってねえなあ、でもベビーフェイスなりに少し老けた気もする……そう思いながら、輪郭を目で走る。そりゃそうか、もう三十手前だ。気が緩んだついでにぼんやりとその真剣な眼差しを眺めてしまって、
    「……ん」
    唐突に顔を上げられて、思わず「んだよ」とぶっきらぼうな声を出してしまった。
    「うんう、なに笑ってるの」
    そうやってぽつりと様子を窺うように笑んで、目を覗き込まれた。先ほど気を取られた夜明けの訪れのような瞳が、きらきらと瞬いて、それでいて俺様に警告を叩き込んでくる。
    「あ、いや、悪い」
    説明をするために乗り出していた身体を引いて、慌てて表情を固くする。
     何を懐かしんでる。そんな場合でも状況でもないだろう。自分を叱咤している間にも、目前にある表情はまた少し揺れて、
    「ううん。……あ、ねえ班長、質問」
    熱心な生徒然とした顔つきに変わった。視線が書類に向けて伏せられ、それと一緒に当時も十分量の多かったまつ毛が、ゆったりと下った。
    「なんだ」
    「この構成表を見ると自社商品のほかに、お客さんのカスタム商品が取り扱えるってこと?」
    再び視線が上がる。
    「ああ、そうだ。うちには開発部があって、加工部があって、検査部がある。んで、俺様たちのいる営業部がある。むしろカスタム商品が主戦力、仕事は幾分か取りやすいと思うぜ」
    「……うん、前の会社では開発まではやってなかったから、やりやすいかも」
    薄っすらと唇に笑みを浮かべて、期待を抱くような眼差しをしていた。
    「まあ、そうは言っても、加工技術にも限界があるから、何でも屋じゃねえことは忘れるな」
    「はーい」
    元気よく返事をされて、それから俺様の長い教育業務が幕を開けた。
     一番懸念していた昼飯の時間も、実は先手を打っていたお陰で二人きりになることは避けられた。他の班員も一緒に連れて、みんなで歓迎会と題した一時間程度の小さな昼食会を行ったのだ。営業する人間の集まりなわけで、互いに会話のペースや内容に気を使い合ってくれるので、俺様にとっては業務中よりもよほど気楽な空間だった。……だが、一つだけ腑に落ちないこともあった。……他の班員と楽しげに会話するあいつを見て、そこは少し変わったかもなあと思ったときに、なぜかきゅ、と胃の辺りが不快になった。……あのころは俺様しか眼中にないのが態度からだだ漏れだったのに、こういうところは大人になるというのだろうか、ちゃんと『他』へも興味を向けるようになったんだなあと感心していたはずのところ。なのに、認識とは裏腹に不快感が襲い、それをうまく処理することができなかった。
     オベンキョウの進み具合もまずまずだった。やはり一日にすべてを詰め込むには少し情報量が多すぎたらしい。初日からいきなり残業させるわけにもいかず、定時に帰らせたあとに一人で反省とも後悔ともつかぬため息を吐いた。俺様だって普段は残業なんか御免だが、今日明日は仕方のないことだろうと割り切るしかない。
    「ギルベルトさん、」
    「あー、おう」
    新入りの教育とは他に通常の業務もあるわけで、仕方なくパソコンのスクリーンセーバーを解除したところに声がかかる。班員の一人が俺様のデスクの隣に立ったので、あえなくマウスから手を放し、顔を上げるに至る。立っていたのは、新入りくんの座学を始める前に戦略談義をしていた班員で、二年前から仲間としてやっているミュラーという若い男だ。加えて言うなら、ここしばらく取り組んでいる『クレーム処理』案件の爆弾を抱えている班員でもある。
    「例のクレームの案件なんですが、先方と連絡取れました」
    早速その話題のようで、カチ、とスイッチでも押すように気を張って背筋を伸ばした。
    「ああ、それで、話はできたのか」
    「はい、明日の昼なら会ってくれるとのことで」
    なんとか苦戦していたアポ取りはできたようで、「ほう、それで」とまだ何か言いたそうな口ぶりに注目してやった。ミュラーはとんでもなく苦い顔をして、
    「……その、やっぱり向こうは部長さんが出てきて……私の顔は見たくないと言われちゃいました……」
    控えめに声を揺らした。
     今回のクレームになっている一件については、正直な話、どちらもどちらな内容だ。両社の担当者にそれぞれ落ち度がある。それがここまでの大事になっているのは、先方の担当者の上席――部長――がその人であるというタイミングの悪さだ。むしろあの部長はそういうめんどくさいことを言いそうなやつだなと話を聞きながらずっと思っていた。……つまり驚く要素もなく「ああ、まあ、そうなるだろうな」とミュラーから視界を移し、スケジュール掲示板として使っているホワイトボードの『明日の予定 - 教育』と書かれた欄を眺めた。
    「すみません……代わってもらえます?」
    「おう、今のところ他に手の空いてるやついねえんだろ。たぶん新入りのほうは午前中には終わる」
    「……よかった。ほんと今回はすみません」
    安堵したのかミュラーは自分のデスクに戻りながら零し、それでも同じ島なので互いに視線を交わしたままで会話を続けた。すでに他の班員は退社したあとなので、声を落とすこともない。
    「気にすんな。あちらさんとは付き合い長いし、あの部長は偏屈っぽいからな。そんなことは社内中が知ってるぜ、ケセセ」
    ここに至るまでに十分今回の原因についての小言は言ってあったので、それは今はぐっと飲み込んでやることにした。
     もちろん明日の俺様の一番の予定はそのクレーム処理に決まったわけだが、あいつと二人きりで座学をする時間は午前中までと確定したことには少しほっとしてしまった。新入りの教育よりもクレーム処理のほうが気が楽とは呆れた話だが、あいつの顔を間近で見ているのはかなり堪えることがわかったので仕方がない。
     話を聞き逃すまいとしていただけなんだろうが、じっと俺様を見返す瞳が特別に思えて鮮明に思い返してしまう。そういえば昔もあの目の色が好きでよく互いに覗き合っていたなと、脳裏に過ぎった瞬間に、また胸の辺りが抉れるように痛んだ。ギリリと軋んで、胸を押さえ込みたい衝動を我慢しなければと思うほどだった。
     そうだ、明日のクレーム処理のための資料を作ろう。ミュラーと先方とのやり取りのメールは印刷したいし、現実的な対応案を提示できるようにしておこう。
     慌ててまたマウスを握り直して、いつの間にか営業部フロアには俺様一人になっていたことに気づいてからも、構わずそのまま没頭した。

        *

     翌朝にことは進む。今日の午前中さえ乗り切れば、晴れて新入りの教育から解放されるとの期待を胸に、俺様たちはまた応接室に二人でこもっていた。午後からのこいつのお守りは、もっと簡単そうな案件にいく他の班員に任せて、俺様は久々に俺様の仕事というわけだ。本当はデスクに貼りついているのは性に合わないので、総務にも何度も営業に戻してくれと言ってはいるのだが、認めてもらえずずっと『班長』をやっている。だから、なんであれ外に出られるのは嬉しい限りだ。
    「あれ、ギルベルト、」
    午前中の教育も終わり、新入りの任せ先も落ち着いたところで、俺様はせっせと午後の予定の準備をしていた。ミュラーの代わりに行くので、俺様の代わりのお守りをミュラーに頼むことになり、あいつは先輩の隣であーだこーだと指示を受けている。俺様はもう既に我関せずで、印刷した書類をわかりやすくファイリングしたり、なかなか使う機会のない名刺の補充をしたりしていた。その内、久々に出番をもらった営業鞄をデスクに上げている様子を見つけて、通りすがりの社長が足を止めた。
    「これから出るの?」
    「はい、例のクレームの件で」
    「ああ、そうか、今もめてるところ?」
    「そっす。ミュラーの代わりに」
    手を止めずにテキパキと受け答えをしていたら、同じ島で新入りにあれこれ教えていたミュラーから「活き活きしてますね」と笑われた。
    「ったりめえだろ。俺様はデスクにかじりつくのは性に合わねんだよ」
    笑って返したところ、ミュラーの隣で指導を受けていたあいつと目が合ってしまう。何を考えているのやら、少しだけ頬を綻ばせているもんで、また胸中が少し居心地を悪くする。
    「クレームねえ……それもまた勉強だね!」
    とん、と、何の前触れもなく、社長の手が肩に乗った。……とんでもなくでかい嫌な予感とともに思わず「はあ?」と声を上げると、社長はニッと大きく笑って追い討ちをかける。
    「イヴァンくん。勉強のために連れてってあげるんでしょ」
    「……え?」
    いやいやいや、ちょっと待とうぜ。
    「初めての現場がクレーム処理……すか?」
    「いいじゃんいいじゃん。一発目にガツンときついの行っとけば、あとが楽に感じるでしょう」
    そう言って未だに笑顔全開の社長は俺様の同意の言葉を待っていた。……もちろん、それには激しく同意し兼ねるので、ひとっつも言葉を返せなかった。
    「じゃあ、いってらっしゃい〜」
    他人事だと思って手をはたはたさせながら社長は廊下へ出ていき、その様子をミュラー始め他の班員も首を傾げながら見ていた。あいつもその中の一人で、社長の姿が見えなくなると、思いっきり俺様のほうに振り向き、さらに首を傾げた。……何かあったの、と問いたげな眼差しなのはよくわかった。……つまり、社長の話は聞こえていなかったか聞いていなかったで、あいつにとっても残念ながら、午後もともに過ごす羽目になったことを知らないらしい。
     小さく咳払いをした。
     せっかくあいつから解放されたと思ったのに……などと思ってはいけない。あいつはただの会社の新入りだし、避けていたらまるで私情があるみたいじゃないか。いや、残念ながらあるんだが、それをあからさまにする必要はどこにもない。むしろないように振る舞わなければならない。鞄のジッパーを閉めながら、俺様は声を出すために意識的に吸気した。
    「ブラギンスキくん」
    「え、あ、なあに?」
    「これから営業行くぜ、お・れ・さ・ま・と」
    鞄を持ち上げて、そいつが色々教わるために立っていた、ミュラーのデスクの側に立ち寄る。その様子をしっかりと捉えていた紫の瞳は、とうとう会話するくらいの至近距離になり、
    「え、午後はギルベルトくん、別の仕事って……」
    間抜けに呆けたような問い方をした。座ったままミュラーが俺様たちを見ているのもわかっている。
    「ああ。俺様のクレーム対応に同行しろとの、社長命令だ」
    「あれ……そうなんだ……クレーム?」
    「おう。ミュラーの担当企業なんだがな」
    未だに見上げて話を聞いていたミュラーを一瞥して、
    「担当が気に食わないんで、代わりを寄越せってさ。俺様が対応する手はずだったんだが、まあ、社長曰く勉強だとよ」
    そう言い切ると、ミュラーは小声で「すみません」とぼやいてから、バツが悪そうに本人のパソコンに向き直った。二人してその様子を見下ろしていたが、また顔を上げるのも同時だった。はた、と不意に視線が合う。少し戸惑っているようなので、ひとまず安心させてやるかと肩を叩いた。
    「……頼むぜ、イヴァンちゃん?」
    ――言った途端に、ギリ、とまた胸の辺りが痛んだ。……これまで意識しないように避けていた名前を口にしただけで、どこからともなく溢れ出る気持ちに苦しくなる。もやもやと言うにはあまりにも痛烈で、ぐつぐつと煮える痛みを必死に腹の底に隠そうとした。情けないが、これは、もうしばらくこいつの名前を呼べそうにないなと、自分に落胆する。
     そんなこととは露ほども知らないのだろう、こいつはめんどくさそうに俺様を見返して、
    「え、うん。ぼく聞いてるだけでいいんだよね?」
    めんどくささを隠すこともなくそう言い放った。まったく新入りのくせにいい度胸してやがると思いつつも、
    「余計なことするなって意味の『頼むぜ』だぜ、まったく」
    ため息混じりにぼやきながら、出る準備をしろとの指示を仕草だけで出してやった。新入りということもあり、誕生日席の俺様の斜め前がデスクの配置になっているこいつは、並んだデスクを回り込んで本人の鞄を引っ掴んでいた。
    「あーよかった。ふふ、班長のお仕事拝見しまーす」
    やたらと楽しそうなのはきっとわざとなのだろう。にこにこと笑っているから……いや、こいつなりの茶々か。いくらこの会社では新入りとは言え、前職では同業だったこともあり、お手並み拝見と言われている気がして、フロアを出ながら「あーうぜえ」と落としてしまっていた。背後にあいつの気配をぴったりと感じて、見送る班員たちの隠すような笑い声に〝隠せてねえぞ〟と心の中だけで食いついてやる。
    「――ちなみに、どんなクレームなの?」
    社用車に乗り込み、エンジンをかけたところで問われる。そう言えば同行するからには内容を把握させておく必要があるなと、ハンドルを切りながら通い慣れた景色を見ていた。昼飯は適当にどこかのコンビニに寄って車で摂ろうと思っていたので、それも合わせて目を光らせていく。
    「あー、なんかうちで作った機械の性能が納品時から下がっているとかで」
    「どんな性能?」
    製品ワークを次の機械に搬送する機構なんだが、その搬送速度が遅くなったんだとよ」
    こいつも窓の外やら俺様の横顔やらと忙しなく視線を行き来させていたが、
    「原因はわかってるの?」
    最終的には俺様の横顔で止まった。
    「スペースなさすぎて、トルクがギリギリのモータ使ってる。仕様上は一応条件をクリアしてんだが、ギリギリはやっぱり不安だしな、客先にスペースの拡大を要請したんだが、それは無理だからそのモータで続けてくれって返答があって、それで作った機械だ。俺様から言わせれば、ミュラーは無理って押し通すべきだったし、どっちが悪いの押し問答になってる。……正直めんどくせえ」
    路面から目を放さないように口だけでの会話だったが、こいつの視線はずっと俺様のほうに向いていた。
    「ふーん……設計図ある?」
    声色が変わったことが気に留まる。何はともあれ、もううちの会社の一員なのだから、こういった案件だったとしても興味を持って関わろうしてくれるのは嬉しいことだ。
    「なんだ、やる気満々だな。お前がこのクレーム処理するか?」
    からかいながらこいつの足元に置いていた営業鞄に右手を突っ込む。
    「いやいや、それは班長様の腕の見せどころでしょう」
    左手はハンドルを握ったままで、視線もフロントガラスの向こうだが、手探りで先ほどファイリングした書類を探し出そうとする。バランスを崩して太ももに肘があたってしまい、少し気まずくなった気がしたが、きっとこんなことを意識してるのは自分だけだと必死で動揺を隠した。
    「これ、設計図」
    焦りの滲む手つきでようやく見つけたファイルを差し出し、あいつも慌ててそれを受け取った。どうやら遠慮がちに手を引っ込めていたことには、あとから気づいたという間抜けさだ。なんとも救えないほどの苦虫を噛み潰した心地のまま、ハンドルを握り直した。ここまで来るとおそらくこの気まずさはこいつも気づいてはいるのだろうが、あくまで鈍感なように振る舞い、ただ静かにぱらぱらと書類をめくっていく。設計図関係の書類は数枚入ってはいるが、たぶん同業だったなら、見ればどれが該当の設計図かはすぐにわかるだろう。
    「ふうん……ああ、このモータだね」
    案の定、すぐに明快になった声が車の中に響いた。
    「わ、たしかにギリギリだ……あ、でも、このくらいだと、もっと性能いいモータなかった?」
    赤信号でひとまず止まる。問われたので思わず顔を見返せば、いつものだらしない顔はどこへやら、いつの間にか芯を持った顔つきに変わっている。これがこいつの仕事のときの顔なのか。
    「ああ、俺様も当時一緒に調べたけど、やっぱりその外形がその性能では最小だったぜ」
    あんまり見ているのは気が引けて、また外を見渡しながら返してやった。少し向こうのほうでコンビニの看板が見えて、昼飯はあそこで調達するかとわざと意識をあちこちにばらまく。
    「ええ……仕様は? これくらいの規模ならトルクそんなに必要かな?」
    「仕様は型式で調べたら出てくんだろ。運ぶワークの重量がけっこうあんだよ」
    言い分を聞きながら、既に営業用のタブレット端末で検索を始めているようだった。俺様のほうは信号が青に変わったこともあり、気を取り直してゆっくりとアクセルに力を入れる。身体を伝う振動が少しずつ大きくなっていく。
    「そっか。あ、でもやっぱりだ。この仕様なら、外形同じくらいでももっと性能いいのあるよ」
    えらく声の張りが自信満々に聞こえる。そこまで言うなら「まじか?」と目を見て問い返したいが、それをぐっと堪えて、コンビニの看板を目がけて一直線に車を走らせる。
    「こっちじゃ知られてないのかな。前職のときに取り扱ってたモータが他より五ミリくらい小さいのがあって」
    「まじで」
    「うん。たぶんまだ作ってると思うし、取り寄せできるんじゃないかな」
    前を見ているのでこいつの表情はわからないが、「どうかな」と付け加えられた声は意識するには十分な穏やかさで、懐かしさを胸中に埋めていく。今じゃねえだろと自分を諌めて、改めるように静かに考えを定めようとする。……これまで使っていたものよりも小さい外形のものがあるとなると、値段にもよるが、これからの受注にもかなりの幅を持たせられるんじゃないか。今回の件だけに留まらない、いろんなことに対する可能性を感じて、身を乗り出したいくらいの情報だ。
    「……前職ってこたあロシア製か……まあ、背に腹は代えらんねえな。そいつの性能は信頼できるんだろ?」
    何度か顔を見て確認してやろうと思ったが、いかんせん車は走り続けていくので、うまく表情は確認できなかった。だが、声色だけは未だに機嫌よく、「うん、もちろんだよ」と楽しそうに肯定していた。きっとこんな風に笑っているんだろうと安易に浮かび、あ、とまた何かに躓いたような心地の悪さを味わう。それが知れないよう、ただちに営業用の携帯電話端末を胸ポケットから取り出し、
    「よし、電話は任せた」
    まともに見ずに、適当にこいつの膝の上にそれを放り投げてやった。
    「お前在庫確認して予算と最短納期聞いて」
    「え、ぼく?」
    「俺様運転中。お前、手ぶら。よろしく」
    「あ〜、はいはい」
    間近まで迫っていたコンビニの看板には、よく見たら『あと一キロ』と書いてあった。都心部を離れるとすぐこれだから嫌になる。
     助手席に座るあいつは、思ったよりも素直に電話のダイアルを押していた。



     それから、先方との約束の時間きっちりに、その会社の玄関に立っていた。本当は十分前に到着すようにはしていたが、入所にあたっての審査があることをすっかり忘れていた。こういった大手の会社は施設に入る前に身分証の確認と、携帯電話端末などのカメラを撮影できなくする保護シールを貼らされ、施設内での注意事項を聞かされる。それらが終わって初めて、敷地に入ることを許される。技術の流出を防ぐためのものなので、うちでも外部からの来客があるときは、そういう対応もするときもある。
     そうして立っていた玄関だ。客先の、付け加えるならクレームになっている客先の玄関なので、数分待たされてもあいつとの会話は一つも持たない。ただ隣に並んだ気配で、こいつの背が当時よりよほど伸びていることを知って、思わず足元から頭の上まで横目で視線を這わせてしまった。社内の座学では文字通り座りっぱなしだったし、何より俺様自身にまったく余裕がなかった。図体がよくなったことには気づいていたが、ここまでがっちりとした体格になっていたのは、ここへ来てようやく頭に入ってきたようなもの。元々ロシア人家系で、この十数年余りをロシアで過ごしていたのだから、寒さに耐えられるようにと成長した体格なのだろう。腕っ節もなかなか立ちそうだし、肩も強そう……と、思ったところで、あいつは真意を窺うようにこりと笑った。――ああ、しまった。思わずじろじろと見てしまい、またバツの悪さに変な汗をかいてしまう。口パクだけで『なんでもねえよ』と呟いて、向こうのほうから響いた扉の開閉音に注目してやった。
     ああ、くそ。と思ったのは、心臓がまた大暴れしていたからだ。不貞腐れるような幼稚な感情が湧いて、思わず視線を足元に落としてしまった。そこには、客先企業名の入った上履きがある。その縁取りを目で追って、またぶれぶれの心を一つに集中させる。
     ……ったく、なんなんだよ。ずっと気になってはいたが、入社一日目はともかく、二日目にして俺様の前でケロッとしてやがるのが無性に腹が立つ。なんで俺様が一人でいろんなことに気まずくなんねえといけねえんだよ。当時からこいつはいつも何を考えているのかよくわからないような笑顔で俺様を見ることがあった。それらには、よく不安にさせられたもんだ。……ぐつぐつと悪態が山ほど湧いて出て、
     ――トントン、と静かに背中を叩かれた。なんだ、と思ったときには既に遅く、
    「お待たせしましたね」
    聞き慣れない声が降り、慌てて顔を上げた。しまった、出だしの印象をしくじってしまったかもしれない。いつもよりもしっかりとした笑顔を意識して、急いで握手のために手を差し出した。
    「初めまして、ミュラーの代わりに参りました、営業部法人担当班班長のギルベルト・バイルシュミットです。この度はお時間をいただきありがとうございます。こちらは法人担当班のイヴァン・ブラギンスキ、ご意見などどんどんお聞かせください」
    「よろしくお願いします」
    しっかりと背後に寄り添っていたこいつを紹介すると、そちらも丁寧に握手を交わして、
    「まあ、それはいいけどね。早速くだんの話をさせてもらうとね」
    「はい」
    すぐ脇に置いてあった向かい合わせのソファに誘導された。こんな手頃なところでの話になるとは思っていなかったが、いそいそと促されるままにそこに腰を下ろす。よほど頭に血が昇っているのか、名乗りすら忘れていた相手の胸の名札を見れば、やはり噂の部長さんで間違いなさそうだ。
    「納品してもらった機械だけど、一ヶ月で壊れたんだって。ワークの入れ替え部の速度が下がったの、動画見た? あれじゃ製品の出荷にも支障が出るんだけど」
    話に聞いたままの少し偏屈そうな、嫌味っぽい顔つきから問いが飛び出したせいで、ぐ、と不穏な心動を自らの内に察知する。だが、ここは冷静に対応しなければとしゃんと心まで構え直した。
    「はい、拝見しました。で、担当の者にも確認を取ったのですが、ご発注いただいた仕様では荷重に耐えられない可能性がある旨はお伝えしていたと聞いています」
    丁寧すぎるくらい丁寧に返したところで、対面に座っている中年の男性は深い嘆息を見せるだけだった。
    「だからね、そんな話、こちらは知らないって言ってるの。そもそもそちらの開発の問題じゃないの? 荷重に耐えられないなら耐えられる構造に変えてよ。なんでお宅の担当者はそれでいいと思ったの」
    どこをどう切り取ってもクレーマーの態度そのものだ。客観的に見ても双方に落ち度がある今回の一件で、あたかもミュラーだけが悪いような言い分にはまた少し腹の内が滾った。ここは自社の……というよりも、部下の名誉を守ってやりたくなり、思わず姿勢もそのように前のめりになる。
    「いただいていた機械の外形や予算内で、ご希望に見合ったものを開発するのは難しい旨もお伝えしています。こちらがその際のメールを印刷したものです」
    今朝ファイリングしたばかりの書類の中から、該当の印刷物を見えるように開いてやった。
    「ほら、そちらのご担当者様から、そのまま続けてくれとの回答がここに」
    まさにその箇所を示しながら差し出すと、「え? ……わ、担当だれ? ちょっと見せて」と訝しみながら手を伸ばした。何度か視線を上下させ、担当者同士のやり取りの文面を確認するためにしばらく沈黙していた。別に対応そのものにかかる費用をこちらで負担するのは構わないが、せめて部下の汚名は拭ってやりたい。そんな気持ちで相手方の反応を伺っていた。
     ようやく顔を上げたかと思うと、そのままそのファイルを突き返され、
    「……ああ、たしかに続けてと書いてあるねえ。でも受注したとおりに動くようにするのがお宅の仕事でしょ?」
    わざわざ鼻につく言い方で返された。とっさに冷静さを失い、はっと強めに息を吸い込んで、強い動作でファイルを閉じる。
    「お言葉ですが、この件についてはミュラーも大変に懸念していたところだと私も記憶していてっ、」
    「――あの、」
    向かいに座る目つきがだんだんと鋭くなっていく中、すすと隣から手が伸びた。俺様のことを押さえるようにそのファイルを受け取り……というよりは、取り上げて、勢いを削ぎ落としたのは、危うくそこに座っていることを忘れそうだったうちの新入りだ。お陰ですぐに我に戻ったのもあり、冷静さを持ち直して隣に視線をやる。
    「……なんだ、ブラギンスキ」
    何を思ったのか、非常に険しい顔つきになっていた部長に向けて、にこ、とまたとりあえずの笑顔を浮かべ、
    「お二人とも、一回深呼吸しませんか」
    ふわふわしたこいつ独特の声で俺様たちの怒気を堰き止めた。
    「ここはどうしてこうなったかという過程よりも、この先どうするかが大事ですよね。うちの班長のほうが代替案を持ってきてますので、そのお話を聞いていただけませんか」
    もともとの提案者はこいつなのだが、わざわざ俺様の名前を出したのは、こいつなりに俺様を立てるためだろう。どうしてだろうか、うれしいやありがたいよりも、落胆に近いものが込み上げて、その場で頭が真っ白になってしまった。
    「……ほ、ほう。方法があるなら始めからそう言えばいいじゃないか」
    「すみません。では班長、資料を見せてもいいですか」
    未だににこにこと笑いながら穏やかに時を流すこいつは、やっぱり見ていて少し腑に落ちない気持ちにさせた。
    「あ、おう、頼む」
    会話の流れを成立させるためにさしあたっての返事をしてやると、こいつはファイルに挟んでいた資料を取り出す。先ほど在庫確認をしてもらった際に、合わせてそのモータの仕様書をコンビニで印刷してきたものだ。それを使い、失速してしまった俺様の代わりに今後の対応についての話を手際よく始めてくれた。

     その後、すぐに内心を持ち直した俺様が最終的な話をまとめて、何とか穏便に解決するに至った。その部長はひどくこいつのことを気に入ったらしく、
    「バイルシュミットさんと言ったかな。これからこのブラギンスキくんをうちの担当として寄越してくれ。他の人らはどうにも合わん」
    帰り際にはっきりとそう注文をつけた。せっかく取り戻した機嫌を再び損なうようなヘマをするわけがなく、快く笑ってやったつもりだ。
    「はい、ではこれから御社の担当はブラギンスキで」
    「よろしく頼むよ」
    「いえ、光栄です。よろしくお願いします」
    二人が握手を交わしているのを、静かに見下ろした。
     それが終わると早々に玄関を後にする。退所手続きも終えて、車の扉を締めたところでようやく緊張の糸を切れさせることを許される。あーっと大きくため息を吐いて、ハンドルにもたれかかった。なんだろうか、何か腹の中の気持ちが悪い。助手席に座るあいつは鞄を置く場所を整えたり、シートベルトを締めたりと、忙しなく動いていた。一呼吸置けたのでとりあえずまた体勢を整えて、エンジンをかける。
    「……じゃ、これからこの企業を頼むぜ」
    ゆっくりと踏んだアクセルに従い、車は緩やかに発進した。
    「あの部長、気難しくて実は今まで手を焼いていたんだよな。お前のこと気に入ってくれて助かった」
    惜しげもなくその企業を背景に置いた俺様たちは、そのまままっすぐに来た道に乗る。すっかり夕方になっていて、これは会社に着くころには定時を過ぎてしまうかと、意識を拡散させる一端として考えていた。
    「やだなあ。ぼくは不毛な話し合いがめんどくさかっただけだよ。あの人、ギルベルトくんのお話を聞く気が爪の先ほどもなかったみたいだし。だから、過度に期待されても困るよ」
    おや意外、と思ったのも、こいつの口ぶりが少し不服そうだったからだ。
    「まあまあ、やってみりゃいいだろ。お前の初めてのお得意さまになるかも知んねえぜ?」
    それとも、厄介な企業をお得意さま第一号として押しつけられたと思って不満なのか。だが無事に収束できたのも、おそらくはこいつがいてくれたからだ。俺様一人で来ていたら、もしかしたら納得してもらうどころか、取引先としての信頼関係を続けていけなかったかもしれない。
     俺様だって、ミュラーの名誉を守ってやれれば、そのあとはちゃんと代替案を提示する予定ではあったのだが……そのために大急ぎで資料を作って準備をしていたのだし。
     目の前の信号が黄色から赤に代わり、思い切りブレーキを踏んだ。考えに気を取られていたので反応が遅くなってしまい、飛び出しそうになる身体を二人して踏ん張った。完全に停止してから「わり」と声をかけると、隣からは「ううん」と小さく零す声が聞こえる。それからじっと見られていることにようやく気づいた。
    「……怒ってる?」
    問われてハッとした。
    「んで、だよ」
    「だって、なんか、空気がツンツンしてる」
    指摘して満足したのか、ようやくそっぽを向く。
     この気持ち悪さを表現するのに、怒っているという表現は適切ではない。どちらかというと自分の不甲斐なさに落胆しているというのが正しい。もっと上手くやれたはずなのに、と悔やみきれない気持ちが湧いていて、だが事実として、今日はしくじってしまった。しかも、自分でも今の今までこんな風に空気を濁していたのだと気づけなかったことも相まって、さらに気分が沈んでいく。もう半分やけくそで、
    「ケセセ。さすが期待のブラギンスキくんは違うな」
    この場を誤魔化してしまいたかった。
     青信号に変わりアクセルをまた踏み出したのとほぼ同時、助手席に座っていた気配がぷう、とその口の中に不満を溜め込んだのがわかる。
    「もう、君はいつもそうやって、」
    不自然に言葉が止まり、一段と嫌な空気が広がる。続く言葉を見失ったらしく、そのまま車内には沈黙の気配が充満していく。
    「……お前には関係ねえよ」
    苛々は治まるどころか少し増して、思わず突き放した言い方をしてしまった。未だにこれ以上関わることを躊躇っているのが自分でもわかる。わけもなく、昨日から言葉にならない心持ちが身体の中でぐるぐるして、本当に居心地が悪い。こいつを前にしただけでこれほどまでに不安定になってしまう自分にも、それをうまく抑制できない自分にも、もうすべてにうんざりして、帰り道はそれ以上の言葉は一つも交わさなかった。
     会社に到着したころには、やはり三十分ほど定時を過ぎていた。残業をしているやつなんてほとんどいない時間だ。お互いに気まずいまま車から降りたが、あいつはご丁寧に俺様の鞄も一緒に持って降りていた。鍵を締めている俺様に近寄って「はい」と小声で差し出すので、「どうも」と小声で返した。客先でのお互いがまるで嘘かのような活気のなさだ。
     そんな状態のまま、会社の玄関に二人して入る。珍しくまだ何人か残っているらしく、フロアのほうも廊下のほうも電気が点灯していた。そそくさと上履きに履き替えていると、
    「おお、おかえりおかえり〜! 待ってたよ!」
    一段と弾んだ声を発する人が奥から駆け寄ってきた。その独特の張りですぐに誰かはわかってしまう。その人は社長なのだから普段はそれなりに忙しいはずなんだが、今はもう定時を過ぎているので、業務は放り出して社内徘徊をしていたに違いない。
     ただ、『待ってたよ』の言葉には思わず何のことだ、と疑問に思ってしまい、デスクに向かいながらはてなを浮かべていた。
    「社長。ただいま戻りました」
    問い返す代わりに挨拶をしていたところ、どうやら血色がとてもいいことに気がつく。いつでも明るい顔つきだが、一段と楽しそうに俺様とあいつの肩をどんどんと叩いて笑った。
    「ちょっと、どんな魔法使ったの」
    「え?」
    「これ、さっき君たちが行った取引先でしょう」
    胸ポケットに不自然に刺さっていた書類を取り出して言った。広げるとA4の大きさの書類で、寄せられるがままにあいつと一緒に覗き込む。
     そこにはそうそう滅多にお目にかかることのできない金額がいくつか記載されていて、思わず「げ、なんすかこれ」と間抜けな声を上げてしまった。よくよく見れば、たしかに先ほど訪ねた客先の会社名が入っている。見下ろした先、上履きに入っていたものと同じロゴだ。改めてその書類をよく確認するために受け取り、それで手が空いた社長はわかりやすく胸を張って続けた。
    「開発依頼書だよ。つい先程問い合わせがあってね」
    「え、でもこれ、なにかの間違いじゃ」
    何せそこには、クレームを受けていなくたって普段はあり得ない量の発注数がある。これだけあれば小さな会社なら一つ、丸々新しく作ることができるのではと思えるほどだ。
     二人して口を開いた社長に注目した。
    「私も事務からあり得ないFAXが届いたって聞いてから、先方に電話して確認してみたんだよ。そしたら、実は子会社立ち上げるから、その工場にも同じものがほしいって、きっちり五十台、追加注文」
    ニッと、得意の溌剌とした笑顔を浮かべた。
    「よくやったぞ、二人とも! 明日、改めて受注の正式書類をもらいに行くアポも取っておいたぞ!」
    また俺様と隣に並ぶあいつの肩を同時にばしばしと叩いて、景気のいい笑い声を上げていた。フロアの天井まで届いたであろうその笑い声に包まれていたが、引っかかりを覚えた俺様は、その依頼書をゆっくりと机の上に置く。これについては、俺様まで褒められるのは違う。正しくは、この手柄はすべて、俺様の隣に立って差し支えなく笑っている、この男のものだ。
    「いや、社長、そこの部長はこいつを気に入ったんです。褒めるなら俺じゃねえっすよ」
    「あ、やっぱり?」
    「え?」
    ひょうきんな響きは失っていないものの、社長の表情は少し落ち着きを取り戻していた。
    「実は先方もイヴァンくんのことを褒めててねえ。よくわからないけど、君の空気感が気に入ったらしいよ。明日も、できればイヴァンくんだけで来てほしいそうだ」
    「はあ」
    なんとも素っ気なく返していた。この受注量が確定すればどれだけすごいことか、おそらく実感できていないのだろう。……当たり前だ。まだ入社して二日目、この会社としては初めての案件での大手柄なのだから。
    「なんだいなんだい! うまくいけばこれだけで前期の売上げと並ぶぞ! いきなりのお手柄じゃないか!」
    俺様とは関係がなくなってきたので、そろそろとはしゃぐ社長とはしゃがれるあいつから視線を外した。営業鞄から資料やらファイルやらを取り出しながら、「お力になれて光栄です」とまたしても素っ気なく返す声を聞いていた。……この鞄もまたしばらくの間、活躍をお預けだ。
    「……よし、今日は三人で飲みに行こうね! 無論、私のおごりだ!」
    目前にあったデスクでわざとだん、と音を立てて、社長は声を張る。思いついたように飲み会を提案するのはわりとよくあることで、俺様は「またか」と思った程度だったが、馴染みのないあいつは「え? 飲み?」と問い返していた。
     それにはさらに声を踊らせて、
    「そう、イヴァンくん歓迎と初受注祝い!」
    「あ、ありがとうございます?」
    「そうと決まれば早速準備して! もうとっくに定時すぎてるよ!」
    社長は自分の退勤の準備をするためなのか、営業部のフロアから颯爽と走り去っていき、その場に残された俺様たちの間には、またしても気まずい空気が湧いて出ていた。まるで帰りの車の中で味わったような気まずさで、それぞれ鞄やデスクの整理を始める。
    「……ふふ、」
    と、思っていたら……抑えきれなかったような、忍ぶような笑みが漏れたのが耳にとまった。静かに顔を上げると、肩をすくめるように小さく笑うあいつがいた。仕草なんてそうそう変わるもんじゃない、昔のままだった。観念したような、それでいて少しくすぐられるような、複雑な心持ちに口の端が変に歪んだ。
     ……おそらくあの走り去って行った背中が面白かったんだろう。あの社長のテンションは、たまに見ていて綻んでしまうときがある。そのお陰で、一気にそこを埋め尽くす空気も柔らかく作り変わったように感じた。俺様だけじゃないはずだ。
    「あの社長のことだから、いい店だぜ。期待できる」
    「そうなんだ。ちょっと楽しみ……かも」
    いつの間にか自然に言葉を交わしていて、社長が間もなく建物のセキュリティキーを持って現れるまで、今日応対した企業の話を少しだけした。それから社長と三人で、一緒に退勤を果たした。

     まずは社長が自慢の美食レパートリーの中から一押しと選んでくれた個人経営のファストフード店に赴き、簡単に腹を膨らませた。その後に満を持してクナイプに入店する。平日だと言うのに、所狭しと客がビールを呷っていて、声を張らなければ互いに会話もできないような賑やかさだったが、これはこの地では珍しくもない光景だ。もしかすると例の依頼書を見た時点で計画していたのだろうか、立ち飲みをしている客もいる中で、俺様たちはすんなりと個室に通された。
     社長は着席するや否やアルコールを頼んでいたし、俺様たちにもジョッキの空きを許さなかった。当たり前だが、学生以来会っていなかった俺様たちは、互いのいる席でアルコールを入れるのは初めてのことだ。仕事も終わったと言うのに、いつまでもにこにこしているこいつが、果たしてどんな飲み方をするのか想像もつかないし、それなりに緊張感は保っていたつもりだ。
    「いやあ、でもほんと、イヴァンくんみたいな人がうちに来てくれてありがたいよ。これからよろしくね。できれば末永く、なんてね! だはは!」
    「あはは」
    だが、社長は颯爽と酔っ払ってしまうし、俺様もその内にいい具合に酔いが回ってくる。ビールを何杯追加で頼まれただろうか。それに対して、あいつの顔色は一つも変わっていないことは気づいていたが、酒強えんだなと思うに留まった。
    「ギルベルトも育成の素質あるんじゃないか? 私の目利きの通りだ」
    先ほどから俺様たちをべた褒めする社長に、少しのくすぐったさと、少しのもやついた心地を抱える。こうやって褒めてくれるのは嬉しいが、正直なところ、こいつに至っては社内のルールを教えただけで、『育成』とはまったく呼べないものだった。それに、どうしたって俺様はデスクに齧りついているのは性に合わない。だからアルコールと勢いに任せて、
    「いやいや、俺様は教育より外に出てえっすよ!」
    主張せずにはいられなかった。
    「またまたあ」
    「肩書よりは人としゃべってるほうが好きなんで」
    隙あらば総務にも訴えていることだが、どうやらこの反応はまだ真に受けられていないようだ。その証拠に、「あ、それより、」と社長はまたビールを大きく呷ってから続けた。
    「君たちの昔話を聞かせてよ〜! それが今日は楽しみで楽しみで!」
    話題を簡単に変えられてしまった。もう慣れっこだからいいのだが、勢いを殺しきれずに「社長、ブラギンスキ歓迎は口実ですね!」と笑ってやったら、「ばれたか」とさらに笑い声で返される。
    「で、どうなんだね、君たちの学生時代!」
    俺様と隣に座って静かに笑っていたこいつを、交互に指で指し示した。どう答えようかと隣から少しそわ、とした雰囲気を感じ取ったが、
    「正直言うとこいつとは二つも学年離れてるし、お互い帰宅部だしで全然関わってねえっす」
    とっさに口をついて出たのは事実無根のでっち上げた思い出だ。だが、こいつに恋人がいると言ったときと同様、嘘も方便というか、そんなことをバカ正直に言ってやる必要はない。それに対するあいつの反応は、身を乗り出していたのでよくわからなかったが、ただ、うんともいいえとも言ってはいなかった。
    「ええ、ほんとに? 確か以前、友だちのときがどうとかって」
    「え? 言ってねっす。つまんなくてすみません」
    余計なことをあいつに言われたくない気持ちもあったし、早く完結させたくて、無理やり話を締めようとする。社長はまたぐいっとビールを呷っていたが、俺様の手は止まっていた。思っていた以上にこの質問に身構えていたことをあとから実感する。
    「いや、謝ることじゃないけど。じゃあこれからだね! こんなところで再会するなんて何かの縁だし、絶対意味があっての再会だよ〜。君たち、無二の友になるぞ〜」
    「あはは、どうっすかね」
    上機嫌は止まらない。適当に流して、次の話題を探そうと慌てて脳みそを回す。
    「ほら、ギルベルトばっかりしゃべってちゃだめだろ、彼にも口を開かせてあげないと」
    「えへへ、お気遣いなく」
    「だめだめ。ほら、実はギルベルトは憧れの先輩だったとかないの? この子要領いいし悪目立ちするでしょう、あはは」
    「社長ひでえっす。俺様のことそんな風に見てたんすね」
    だが、上手く話題は降って来ない。合わせるだけで精一杯になっていた。余計なことを掘り返される前に何とかしなければと気を揉んでいたが、
    「あはは。イヴァンくん、飲んでるー? あ、君ロシア人か。ウォッカ。ウォッカを頼もう」
    脳天気な社長は相変わらず、だははと他の部屋から聞こえてくる笑い声にまで乗っかっている。顔つきからして酔っぱらいそのものになっていて、ろれつもろくに回らなくなっている。そうか、お開きか。お開きの流れにすればいいのか。明日も仕事がある。時計を覗き込めば21時を回っていたから、社長もいい加減満足しただろう。
     さも名案を閃いたように、少し声を張った。
    「そろそろお開きにしますかね! 社長もそろそろ止めたほうがいいっすよ!」
    「大丈夫、だいじょーぶ」
    気の抜けた合いの手が入った。そのまま社長は見せつけるようにジョッキを持ち上げたが、それは上手く口元には向かわず、ふらふらと空中を彷徨う。
    「わあ、社長、ほんと止めたほうが」
    とっさにあいつがそのジョッキに手を伸ばして、間一髪でひっくり返さずに済んだが……いや、これは余計な話題云々ではなく、本当にこの人限界なんじゃ、と心配が勝る。おそらく隣のやつも似たような心境だ。なのに社長は往生際悪く、ジョッキを握り直すと、
    「もうこの際なんでもいいや、イヴァンくん、君、恋人は?」
    と話題を振った。
     あ、これはまずい。一気に肝が冷える。この話題は危険だとわかってしまい、「と、唐突ですね」と苦笑する横顔を注視してしまった。流れが止まることなく社長がまた口を開き、今度はその口元を追った。
    「そりゃそうだよ!」
    頼むから余計なことを言わないでくれと懇願する気持ちが止まらず、口を挟むタイミングを探していた。探していたのに、
    「我が社きってのイケメン、ギルベルトにすらいつまで経っても色恋の『い』の字も見えてこないし!」
    「……え?」
    ――ああ、これは、
    「そんなのつまんないだろう⁉︎ 忘れられない人がどうとかって、もう! うちの社内でパートナーがいる人、半分にも満たないんだよ、このワーカホリックども!」
    まずい。俺様が恋人がいるって言ったのが嘘だとばれてしまう。やばい、やばい。
    「ねえギルベルト⁉︎ 『生涯独身』⁉︎ どんな大失恋したらそうなるんっ」
    「いっ、言ってねえっす! そんなことひとっっことも言ってねえっすよ!」
    なりふり構っていられなくなり、慌てて社長の手からビールを奪い取っていた。いや、本当に『生涯独身』なんてことは言ったことはない。これは本当だ。
    「しゃ、社長、そろそろ奥さん呼びましょう!」
    「ああ、もうそんな時間かね?」
    「はい、携帯借りますよ!」
    取り上げたジョッキを隣に押しつけて、今度はその胸ポケットから携帯電話を取り出す。これはいつもの流れだ。社長はだいたい社内でも一番めか二番めに酔っ払ってしまうので、いつも他の社員が勝手に本人の携帯電話を使って家族を呼んでいた。
    「任せた。ほら、これ財布」
    今日はそれに加えて、会計まで勝手にしろと、胸の内ポケットから革製の財布を手渡してきた。これはそうとう酔っ払っている。別にそのまま盗むつもりは毛頭もないし、社員を信用しきっているのはありがたいことだが、こんなにガバガバで大丈夫なのだろうか。
    「あーもう、あなたは!」
    その財布を勢いよく受け取り、本当に同じ空間にいたのか、と聞きたくなるほど普段と代わり映えのないあいつに向かって「会計済ませてくるから、お前出る準備しとけ」と指示を出して、俺様は店員を呼び止めるために個室を飛び出した。

     あとになって思えば、あのシーンであそこまで狼狽えてしまったことは、逆効果だったと反省した。
     奥さんが運転する車の後部座席に酔っ払った社長を寝かせたあと、その車をあいつと二人で並んで見送っていたときに、そうふり返った。……よく考えたら、もし何か聞かれたとしても「単なる社長にそこまで話すわけねえだろ」とか言って誤魔化せばよかっただけだった。アルコールさえ入っていなければ、きっとそれくらいの考えには至っていたはずだと……まあ、既にあとの祭りだ。
    「社長さん、面白い人だね」
    社長の奥さんの車が見えなくなって、回りの店のネオンが鬱陶しいことに初めて気が留まった。営業の性か、声がしたほうへ顔を向けると、そのネオンの中心に立っていたそいつは、少し楽しそうに綻んでいた。
    「ああ、最近代わったんだ」
    それに釣られて緊張感がふわりと抜け、代わりにどきどきと波打つ鼓動がよく聞こえた。これはおそらく先ほどの焦りの延長線上の動悸だとわかっているのに、どうしてか目前の光景と重ねてしまいそうで、思わずとりわけ派手に瞬くネオンに視線を乗せた。
    「前の社長は生真面目で、まさしく職人気質の人間だったんだがな。今の社長は若いし、前の社長と違って技術も知識も半端だが、陽気で社員を一人ひとりちゃんと見てる感じで俺様は嫌いじゃねえな」
    「ふふ、君もきっと楽しく仕事してるんだろうなあ」
    穏やかに紡がれる声が優しく聞こえる。
    「役職柄、尻拭いと雑用が多いけどな。営業部の便利屋とは俺様のことだ」
    なんだ、唐突に全身にひりひりとした血が巡るような感覚を味わう。アルコールのせいだ。頭が重くて、こいつの目の位置まで持ち上がらない。相手の目を見て話すこともできないなんて、俺様も少し羽目を外しすぎていた。
    「――でも、本当は営業に出たいんだ?」
    さらに耳障りの良い声が紡いだ。社長や総務には一向に伝わらないが、こいつにはちゃんと伝わったらしい。……と言っても、残念ながらこいつに伝わったところで何の足しにもならないが、こんなことで安堵するのはどうしてだろうか。
    「……ま、まあな。できる男は辛いぜ」
    「ふふ、もう、君ったら。でも当たってるね。上司に頼り甲斐がないとのびのび仕事はできないし、きっと君は尻拭いも任せられるいい上司なんだよ」
    「ものは言いようだな」
    軽口を叩いてやると、そこでぐっとあいつは口を瞑った。その沈黙の中に何百と言葉が詰まっているように感じて、どこかもどかしかった。何か言おうとして、それで躊躇っているのがわかる。少し待ってやろうと静観していたこのおかしな心境を、ほかの何かと見誤ってしまいそうだ。そうなる前に打破したほうがいいのかもしれないと、次には野暮を承知であいつの目を見上げた。
    「なんだ」
    昨日ぶりに、あいつのきらびやかな瞳が揺れた。ゆるりと、儚げに。
    「……ううん、ごめん、なんでもないよ」
    言葉はそのまま飲み込まれていく。何を言おうとしたのだろうか。気になりはしたが、そうだ、俺様はこいつと距離を保ちたかったんだと、今さら思い出した。こんな大事なことをなんで忘れていたんだと焦燥に駆られたが、まだ遅くない。
     大きく伸び上がり、
    「さて、じゃあ、俺様たちも帰るか」
    わざとらしく大あくびをしてやった。
    「……うん、そうだね」
    あからさまに名残惜しそうな声を出すものだから、少し笑ってしまいたくなった。
     だが俺様のほうにも、こいつを笑えないものがふつふつと湧き出していたことに、気づいていないわけじゃない。これ以上こいつと関わりたくないという気持ちの中に、ほんの一握りだけ、もっと知りたいという関心を混ぜていた。あれから十数年経った今、こいつはどう変わったんだろう、こいつの見てきた世界はどんなものだったんだろう……いや、俺様を置き去りにした世界は、その眼にどう映っていたんだろう。――初めて合点がいった。これは、もしかして……未練、というやつなのか……。
    「お前ここからどうやって帰んの? バス?」
    あくまで平静を装ってはいたが、急に身体中が熱くなる。今さらアルコールが回ったなんておかしな話だが、ぽかぽかと身体の芯から温まるような熱が、頭にも昇っていく。
    「うーん、たぶんもうバスないからな〜。歩いて帰るかなあ。久しぶりだよ、この町並み」
    「……こ、ここから歩くのか?」
    問い返してしまったのは、ここからあいつの現在の住所まで、徒歩だと一時間とは言わずかかりそうだからだ。そういえば、あの辺りは最寄り駅も『最寄り』と言うには少し距離があったか。明日も仕事があるというのに、それは少々不憫に思えた。
     だがこいつは特に気にする様子もなく、「うん。まあ、普通だよ。向こうではよく歩いてたし」なんてこぼして、それから控えめに笑って見せた。
    「……まあ、なんだ。昔のよしみだ。今日くらいなら、うちに泊まってもいいぜ」
    「……えっ、」
    言ったあとだった。……俺様は何を言っているんだ、と自分の胸ぐらを掴みあげたくなったのは。あ、あんなにこいつと関わることを拒んでおきながら、何を口走ってんだと自らを責める。アルコールのせいか、アルコールのせいなのか……! 自分でも予想していなかった発言は、何とも恥ずかしいことに自身の心臓を締め上げるように苦しくする。なんだ、このちぐはぐな胸中は……突沸したように頭の中が空っぽになって、焦燥感のまま口だけが勝手に言葉を垂れ流していく。
    「た、ただし、変な気は起こすなよ! 屋根を貸してやる以外に他意はねえし、そういうこと考えてんなら今のはなかったことにするぜ⁉︎」
    口走った言葉に、また自分で「は?」と問い返しそうになった。だが、目の前のこいつの表情からは笑顔は消えていて、何とも真摯な顔つきで静かに零された。
    「……〝そういうこと〟?」
    そんなまっすぐな目で見ないでくれ、と言う代わりに、なす術なく視線を泳がせてしまった。俺様はいったいどこまでアルコールのせいにできると思ってんだ。これは……救いようがないところまで行っていないか……?
    「……うるせえよ」
    他に何と返せばいいのかまったく浮かばず、仕方なく足元にそう落とした。そうしたら、少しだけ間があってから「ふふ」と予想していなかった静かな息遣いが聞こえる。
    「……大丈夫だよ。だって、君、よろしくしている人がいるんでしょう?」
    その表情を盗み見ると、息を奪うには十分な柔らかさを湛えていて、
    「……まあな」
    そう素っ気なく返事した俺様は、これはもううそであると勘づかれてるなあと観念する他なかった。項垂れたい気持ちになりかけて、いや、それは一旦置いておこうと、気持ちを持ち直すよう尽力した。……明日も仕事だから、健気な同僚を他意なく泊めてやるだけだ。ここから一時間以上かけて歩いて帰るなんて聞かされたら、きっとミュラーが言ったって同じことをやっている。むしろここでこいつだからと見過ごすのは、それこそこいつを意識しているということになって、
    「――ここから近いの?」
    は、と我に戻る。しどろもどろになりながら、他でもない自分に言い訳していることに気づいた。あまりの滑稽さにまたいっそう顔が熱くなる。
    「おう、お前ん家よりはな。会社の近くに部屋借りてんだよ」
    「ああ、なるほどね。……じゃあ、お邪魔します」
    「へいへい、こっちだよ」
    なんとかそう付け加えて、方向を指し示しながら俺様は……俺様たちは、帰路に乗る。

     家に着くまでの道中、実は何を話したのかよくは覚えていない。あいつの前職の話が主だった気がする。お国柄か突飛な注文をつけてくる客も多かったらしく、なんとなくそんな話をしていたと思う。俺様がその横で考えていたことと言えば、そういえば洗濯物片づけてたかなとか、朝ごはん二人分足りるかな、とか、そんなことばかりだ。普段が一人暮らしなので、家に入れば拭えない独身臭でさらに独り身を確信されるだろうかとか、まあ、しょうもないことばっかりだった。
     八階建てのマンションのエレベータに乗り、五階で降りる。狭い踊り場を抜けてまっすぐに我が家の玄関の前に向かい、ためらう間を作らないように鍵を取り出した。誰も待っていない、真っ暗な部屋の玄関を開ける。……自慢じゃないが、厳選されたものしか置かれていない室内は、誰がいつ来ても恥ずかしくない出来栄えだ。電気のスイッチを入れる前からそれは薄っすらと見えていて、灯りがつくともっと細かい置物までが帰りを歓迎してくれる。
     一人暮らしのための小さなマンション。寝室とダイニングキッチン、リビング、あとは風呂場や手洗い諸々。それだけの小さな住まいにある狭い玄関では、やはりここは二人の人間が過ごすには少し窮屈だと思われているだろうと過る。
     とりあえず靴を脱いで家に上がると、あいつも「お邪魔しまーす」と小声で挨拶をしながら、あとを追ってきた。そんな身構えなくても俺様以外誰もいねえよ、と嫌味を言ってやりたくなったが、その気持ちは押し留めてリビングの電気をつける。
    「お前、ソファでいいだろ」
    「うん、平気。ありがとう」
    そう言ってソファの近くに鞄を下ろす様子を目の端に映す。続けてマフラーに手をかけていた。
     そういえばお互いスーツ姿だ。俺様はここが自宅なので寝間着に着替えて楽に休めるが、こいつは着替えを持っていない。……しまった、そうか、もしかしてシャワーも浴びたいだろうか。余計なことを考えていると、あいつは遠慮もなしにジャケットを脱ぎ、ネクタイを解き、それからシャツのボタンにまで手をかけ始めた。止めるのも変な話で、何故かまた居心地の悪さを感じて「俺様も着替えてくる」と自分の寝室に向かった。
     なんでこんなことでテンパってるのか、まともに頭が回っていないのはやはりアルコールのせいか。
     とりあえず適当なTシャツを出してやろうとクローゼットに立ち寄ったはいいが、俺様よりも図体良く育ってしまったあいつに貸せるボトムスは何もない。ゴム止めのトレーニング用ハーフパンツならあったかと、しばらく着ていなかったやつを引き出しの底のほうから引っ張り出す。
     それから自分のベッドの上に敷いていた厚手の毛布を一枚だけ引き剥して、一緒にリビングに運び込む。まだ温まり切らない部屋の中、見ればあいつは肌着のタンクトップ姿で、立ったまま携帯電話端末を触っていた。真っ白だが華奢とはほど遠い腕が真っ先に意識に留まり、慌てて目を逸らす。
    「あ、ごめん、ありがとう」
    「おう。悪いが予備がなくて、この毛布とエアコンでどうにか暖を取ってくれ」
    端末をソファの肘かけに置き、毛布なども受け取りざまにソファに置いた。用意してやったTシャツなどなどにも気づいたようだが、拾い上げることなく俺様のことを見ているばかりだった。
    「じゃ、明日も仕事だし、もう寝ちまうけど他に必要なもんねえか?」
    身体を寝室のほうへ傾けて、最後にふり返りながら尋ねると、あいつはもう一度身の回りを見回した。
    「うーん、うん。大丈夫……かな。キッチン借りてよかったら、ぼくがコーヒー入れようか?」
    何故かそこでゆったりと笑った。
    「……い、今からか?」
    頭の中は疑問符でいっぱいになり、問い返さずにはいられなかった。だって、今から寝ると言っているのに何故コーヒーを勧められているのか、まったくもって脈略が読めなかったからで、もしかして当時俺様がコーヒーが好きだったことを覚えているのだろうかとか、いろんなことを勘ぐった。
     だが目前の笑顔は途端に強張り、
    「え、あ、そっか。あー、ごめん……今の、忘れて」
    そんな勘ぐりはすべて不正解だと肌で感じ取る。
     あいつの姉ちゃんは紅茶をいつも出してくれていたのは覚えている。まして、俺様の家にも茶葉を持参するくらい、コーヒーが苦手だったこいつが……寝る前にコーヒーを飲む習慣があるわけがない。加えて、この気まずそうな声色だ。……思い当たる節が、一つだけあった。
    「……あ、おう」
    返事と見せかけて、本当はぎゅっと痛んだ心臓に酸素を送り込もうとした。息苦しく感じて、それで、どうにかしようと不自然に吸気した。
     ……だって、これはあれだろう。寝る前にコーヒーを飲むのが習慣なんじゃなくて、寝る前にコーヒーを飲むのが好きな誰かに『コーヒーを入れようか?』と尋ねるのが習慣になっているんだろう。見たこともない、どこの誰かもわからない影があいつの背後にちらついて、言葉をぜんぶ飲み込んだ。
    「……じゃ、お休み」
    「うん、お休みなさい、」
    憶測に過ぎないことに振り回されて、わだかまりが溢れたような言葉の噴出で苦しくなる。静かに寝室に入り、後ろ手に扉を締めて、そこでしばらく動くことを忘れていた。
     だって、納得がいかない。何でこんなに落胆してんだ。自分の情緒の変化があんまりにも予想外のものばかりで、そんなことに苛立つ。だって、あいつと別れて十数年、誰とも付き合わなかったのは俺様の勝手だし……逆に、誰かと時間をともに過ごしたって、それはあいつの勝手だ。ここまで落胆する自分の重さに押しつぶされそうで苦しい。
    「あー……」
    頭の中の言葉を吹き去るように声を吐いて、おぼつかない足つきでベッドに落ちる。俺様が恋人がいるとうそを吐いたときのあいつも、こんな心境だったのだろうか……? 腑に落ちないほどの消沈具合だ。
     ――今日は大変な一日だった。この胸中が不安定なシーソーのように上がったり下がったりと、とんでもなく気力を消費した。ぜんぶ、あいつのせいだ。……明日の朝起きたら、全部忘れてたらいいのに。そんな叶うはずもない夢を見て、ゆっくりと瞼を下ろした。あとはアルコールの力お陰だろう、何とかまどろみの中に逃げ込んでいった。



    第三話「ヤブレ・シュトーロン」 へつづく
    (次ページにあとがき)

    あとがき

    みなさま、いかがでしたでしょうか(*'▽'*)
    今回はギルベルトくん視点で、お話がだいぶ進みました……!
    キャプションにも書いたのですが、次の更新まで少し期間が空くかもしれませんが、
    気長にお待ちいただけると幸いです。

    第1話でイヴァンちゃん未練たらたらだな〜って思われてた方……
    ギルくんもなかなかに重症でしたね……。
    余談ですが、好きすぎてこじらせてる系が私は大好きです( ˘ω˘ )

    さあ、3話ではもっとお話が転回しますよ〜。
    適度にお楽しみにしていただけると幸いです( ´ ▽ ` )笑


    飴広 Link Message Mute
    2023/07/21 23:05:41

    第二話 ジョーチョー・トブレンツ

    【イヴァギル】

    こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の第二話です。

    more...
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    • マイ・オンリー・ユー【web再録】【ジャンミカ】【R15】

      2023.06.24に完売いたしました拙作の小説本「ふたりの歯車」より、
      書き下ろし部分のweb再録になります。
      お求めいただきました方々はありがとうございました!

      ※34巻未読の方はご注意ください
      飴広
    • こんなに近くにいた君は【ホロリゼ】

      酒の過ちでワンナイトしちゃう二人のお話です。

      こちらはムフフな部分をカットした全年齢向けバージョンです。
      あと、もう一話だけ続きます。

      最終話のふんばりヶ丘集合の晩ということで。
      リゼルグの倫理観ちょっとズレてるのでご注意。
      (セフレ発言とかある)
      (あと過去のこととして葉くんに片想いしていたことを連想させる内容あり)

      スーパースター未読なので何か矛盾あったらすみません。
      飴広
    • 何も知らないボクと君【ホロリゼホロ】

      ホロリゼの日おめでとうございます!!
      こちらはホロホロくんとリゼルグくんのお話です。(左右は決めておりませんので、お好きなほうでご覧くださいませ〜✨)

      お誘いいただいたアンソロさんに寄稿させていただくべく執筆いたしましたが、文字数やテーマがあんまりアンソロ向きではないと判断しましたので、ことらで掲載させていただきましたー!

      ホロリゼの日の賑やかしに少しでもなりますように(*'▽'*)
      飴広
    • ブライダルベール【葉←リゼ】

      初めてのマンキン小説です。
      お手柔らかに……。
      飴広
    • 3. 水面を追う③【アルアニ】

      こちらは連載していたアルアニ現パロ小説「海にさらわれて」の第三話です。
      飴広
    • 3. 水面を追う②【アルアニ】

      こちらはアルアニ現パロ小説「海にさらわれて」の第三話です。
      飴広
    • 最高な男【ルロヒチ】

      『現パロ付き合ってるルロヒチちゃん』です。
      仲良くしてくださる相互さんのお誕生日のお祝いで書かせていただきました♡

      よろしくお願いします!
      飴広
    • 3. 水面を追う①【アルアニ】 

      こちらはアルアニ現パロ小説「海にさらわれて」の第三話です。
      飴広
    • 星の瞬き【アルアニ】

      トロスト区奪還作戦直後のアルアニちゃんです。
      友だち以上恋人未満な自覚があるふたり。

      お楽しみいただけますと幸いです。
      飴広
    • すくい【兵伝】

      転生パロです。

      ■割と最初から最後まで、伝七が大好きな兵太夫と、兵太夫が大好きな伝七のお話です。笑。にょた転生パロの誘惑に打ち勝ち、ボーイズラブにしました。ふふ。
      ■【成長(高校二年)転生パロ】なので、二人とも性格も成長してます、たぶん。あと現代に順応してたり。
      ■【ねつ造、妄想、モブ(人間・場所)】等々がふんだんに盛り込まれていますのでご了承ください。そして過去話として【死ネタ】含みますのでご注意ください。
      ■あとにょた喜三太がチラリと出てきます。(本当にチラリです、喋りもしません/今後の予告?も含めて……笑)
      ■ページ最上部のタイトルのところにある名前は視点を表しています。

      Pixivへの掲載:2013年7月31日 11:59
      飴広
    • 恩返し【土井+きり】


      ★成長きり丸が、土井先生の幼少期に迷い込むお話です。成長パロ注意。
      ★土井先生ときり丸の過去とか色んなものを捏造しています!
      ★全編通してきり丸視点です。
      ★このお話は『腐』ではありません。あくまで『家族愛』として書いてます!笑
      ★あと、戦闘シーンというか、要は取っ組み合いの暴力シーンとも言えるものが含まれています。ご注意ください。
      ★モブ満載
      ★きりちゃんってこれくらい口調が荒かった気がしてるんですが、富松先輩みたいになっちゃたよ……何故……
      ★戦闘シーンを書くのが楽しすぎて長くなってしまいました……すみません……!

      Pixivへの掲載:2013年11月28日 22:12
      飴広
    • 落乱読切集【落乱/兵伝/土井+きり】飴広
    • 狐の合戦場【成長忍務パロ/一年は組】飴広
    • ぶつかる草原【成長忍務パロ/一年ろ組】飴広
    • 今彦一座【成長忍務パロ/一年い組】飴広
    • 一年生成長忍務パロ【落乱】

      2015年に発行した同人誌のweb再録のもくじです。
      飴広
    • 火垂るの吐息【露普】

      ろぷの日をお祝いして、今年はこちらを再録します♪

      こちらは2017年に発行されたヘタリア露普アンソロ「Smoke Shading The Light」に寄稿させていただきました小説の再録です。
      素敵なアンソロ企画をありがとうございました!

      お楽しみいただけますと幸いです(*´▽`*)

      Pixivへの掲載:2022年12月2日 21:08
      飴広
    • スイッチ【イヴァギル】

      ※学生パラレルです

      ろぷちゃんが少女漫画バリのキラキラした青春を送っている短編です。笑。
      お花畑極めてますので、苦手な方はご注意ください。

      Pixivへの掲載:2016年6月20日 22:01
      飴広
    • 退紅のなかの春【露普】

      ※発行本『白い末路と夢の家』 ※R-18 の単発番外編
      ※通販こちら→https://www.b2-online.jp/folio/15033100001/001/
       ※ R-18作品の表示設定しないと表示されません。
       ※通販休止中の場合は繋がりません。

      Pixivへの掲載:2019年1月22日 22:26
      飴広
    • 白銀のなかの春【蘇東】

      ※『赤い髑髏と夢の家』[https://galleria.emotionflow.com/134318/676206.html] ※R-18 の単発番外編(本編未読でもお読みいただけますが、すっきりしないエンドですのでご注意ください)

      Pixivへの掲載:2018年1月24日 23:06
      飴広
    • うれしいひと【露普】

      みなさんこんにちは。
      そして、ぷろいせんくんお誕生日おめでとうーー!!!!

      ……ということで、先日の俺誕で無料配布したものにはなりますが、
      この日のために書きました小説をアップいたします。
      二人とも末永くお幸せに♡

      Pixivへの掲載:2017年1月18日 00:01
      飴広
    • 物騒サンタ【露普】

      メリークリスマスみなさま。
      今年は本当に今日のためになにかしようとは思っていなかったのですが、
      某ワンドロさんがコルケセちゃんをぶち込んでくださったので、
      (ありがとうございます/五体投地)
      便乗しようと思って、結局考えてしまったお話です。

      だけど、12/24の22時に書き始めたのに完成したのが翌3時だったので、
      関係ないことにしてしまおう……という魂胆です、すみません。

      当然ながら腐向けですが、ぷろいせんくんほぼ登場しません。
      ブログにあげようと思って書いたので人名ですが、国設定です。

      それではよい露普のクリスマスを〜。
      私の代わりにろぷちゃんがリア充してくれるからハッピー!!笑

      Pixivへの掲載:2016年12月25日 11:10
      飴広
    • 赤い一人と一羽【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズの続編です。
      飴広
    • ケーニヒスベルク二十六時 / プロイセン【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズのプロイセン視点です。
      飴広
    • ケーニヒスベルク二十六時 / ロシア【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズのロシア視点です。
      飴広
    • ケーニヒスベルク二十六時 / リトアニア【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズのリトアニア視点です。
      飴広
    • 「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズ もくじ【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズのもくじです。
      飴広
    • 最終話 ココロ・ツフェーダン【全年齢】【イヴァギル】

      こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の最終話【全年齢版】です。
      飴広
    • 第七話 オモイ・フィーラー【イヴァギル】

      こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の第七話です。
      飴広
    • 第六話 テンカイ・サブズィエ【イヴァギル】

      こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の第六話です。
      飴広
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