第一話 サイカイ・パニカ
――書類よし、ネクタイよし、寝癖よし。
ぼく、イヴァン・ブラギンスキは、まだ慣れない玄関の鍵を閉めて、もう昇りきった太陽を見上げた。
いろいろあってというには端折りすぎている気もするけど、とにかくいろいろあって二年ほど仕事をせずにだらだらしていたぼくは、見つけた求人の中に気になるものがあって、ついに重い腰を上げた。久しぶりに書いた履歴書は拙かったけどぼくなりに頑張ったし、それを見て先方もぜひ面接したいと連絡をくれた。
前職との業務内容がほぼ同じで、条件も割りといい。何より、二年間のブランクがあるようなぼくでも、書類で拒まずに面接に呼んでくれた。電話で応対してくれた人の印象もよかったような気がするし、すべてに肯定的になれるのも珍しいぼくは、それだけで自分がこの会社を気に入っていることに気づく。実は少し、この面接が楽しみだったりする。
今回この求人を見つけて、飛び出すようにここへ引っ越してきたぼくだ。ずうっと昔に生活していたこの街は、しばらく見ない間に随分と姿を変えた。それを興味深く見回しながら駅までの道を歩き……おっと、この先は、止めておこう。当時通い慣れていた道をわざと避けて通ると、体感する歩道の硬さまで新鮮に思えた。新しく建った住宅も少なくない。
電車に乗り、近いけれども馴染みのない駅に到着、降りてからは初めての景色を呼吸するように道なりを進む。面接地までの道順は事前に調べていたからか、それをちらちらと展望と見比べることさえ、なんだか足取りを軽くする。
もうお昼すぎだから、プライマリースクールの帰りと思われる子どもたちとすれ違い、元気よく挨拶してくれたことで、もっとやる気が漲る。どうして今まであんなに鬱々としていたのだろうと思えるほど、今日というこの日は清々しかった。面接もうまくいく予感でいっぱい……例えうまくいかなくとも、今日というこの日を過ごせただけでラッキーだったと思える。
そんなぼくの目の前に、目的の建物がようやく姿を現した。注意書きの通り、なんの変哲もない建物だけど、隣の中華屋さんからはとてもいい匂いがしている。ここで働くようになったら、きっと御用達になる……というか、ここの社員さんはきっとメニューを暗記しているほど通っているはずだ。天井の高い工場からは、金属を加工しているとき特有の音が漏れ出している。
自社ビル……というのだろうか、こんなにも広い自社施設を持っているこの会社の玄関前に立ち、改めて自分の身なりを確認してから、指示があった通り、インターホンを素通りしてそのまま中へ入った。音を聞きつけて出てくれた女性の事務員さんに自分の素性を明かすと、にこりと笑って「お待ちしておりましたよ。こちらへどうぞ」と応接室に通してくれた。
どうやら、面接はぼく一人らしい。
応募こそはしなかったものの、それとなく求人情報はよく見ていたぼくだ。今回の募集はかなり人気の求人だと思っていたこともあり、面接が自分ひとりであることに拍子抜けした。
お茶を出され、「すぐに社長が参りますので」とまた柔らかく笑って、事務員さんは静かに扉を閉める。……い、いきなり社長さんが面接するの、と、ようやく緊張感が固唾となって喉を下る。
見回せば〝こういう業種〟にありがちなプレハブのような質感の壁……これは向こうの事務所と板で区切ってるだけだなとすぐに分かるものだけども、それもなんとなく懐かしい気さえしてくる。
がちゃり、と、すぐに扉は開いた。
油断していたらしいぼくは、不意に肩が大きくビクついてしまったけど、何故かにこにこと笑っている中年の男性と、少し気難しそうな初老の男性が入ってきた。ぼくは慌てて立ち上がり、それぞれが握手のために手を上げたのを察して、ぼくも慌てて手を差し出した。一人ずつ、しっかりと目を見て挨拶をして、簡単に名刺をもらう。気難しそうな初老の男性はどうやらこの会社の総務部の部長さんらしく、にこにこと笑っているほうが社長さんだった。意外だったのですぐに覚えた。
席に座るように促され、さあ、いよいよだと気合を入れ直したところで、社長さんが時計を覗く動作が目に留まった。どこのブランドの時計とか、ぼくは詳しくはないんだけど、とにかく高そうな時計だ。
「もう一人来るんですよ、すぐって言ってたので……すみませんが待ちましょうかね」
言い終えたところで溌剌とした笑みがぐいっとぼくのほうへ向けられた。め、面接官が三人も……、その言葉は飲み込む。
「君が採用になった場合の、直属の上司になる人なんだけどね。この人がまた几帳面で、はは、」
「は、はい……」
笑顔は崩れることなく、社長さんは楽しそうに続ける。
「ところでイヴァン・ブラギンスキくん。ここまでは車で?」
唐突な雑談だけど、もちろん気は抜けないと戒め、適度な緊張感を胸の中にだけ持たせて、ぼくは社長さんに笑ってみせた。
「いえ、電車を乗り継いで」
「ほう、車は持ってないの?」
「はい、姉のところに置いてきたもので」
社長さんが相槌で「お姉さん想いなんだね」と言い切るくらいのタイミングで、コンコン、と硬いプラスチックをノックした音が響いた。みんなでそちらに注目すれば、曇りガラスの向こうに人影が立っている。
「はあい。……ほら、君の鬼上司のお出ましだ」
『鬼』というワードに引っ掛かりを覚えつつ、噂の〝ぼくの上司〟になる人だと身構えている内に扉は開き、
「――すみません、遅くなりました」
なんとも、あっさりとしていた。
目が合った瞬間、向かい合った顔も硬直した。さっと蒼白になったけど、きっとぼくも酷い顔をしている。その反応ですぐにわかる、それが他人の空似を疑いようもなく――、
「お待たせして悪かったね。彼が営業部法人班の班長を務める、ギルベルト・バイルシュミットくんだ。年齢は君より二つ上だよ」
頭が真っ白になる。いな、この状況で平静を保てというほうがどうかしている。ぼくは目前の光景に絶句してしまい、いろんな想いが溢れかえって、喉につっかえて、社長さんが首を傾げてくれるまで、身動き一つ取れなかった。
「イヴァンくん?」
その声を合図にガタガタと立ち上がる。
「え、あ、はい、あの、ぼ、ぼく、い、い、い、イヴァン・ブラギン……スキ……っ」
「あはは、いくら鬼って言ったって、そんなに緊張することないよ? さて、では面接を始めさせてもらうね。ギルベルトはまだ履歴書に目を通してなかったね、はい、これが彼の履歴書」
「ど、どもっす……」
握手をするタイミングを完全に失い、ぎこちなく席に座り直したぼく同様、突如現れた『ギルベルト・バイルシュミット』なる人物も、ぎこちなく席について、それから呆然とぼくのことを見ていた。手渡された書類には一向に目を落とす気配はなく、互いに『本当にこれはあの〝イヴァン〟か?』『〝ギルベルトくん〟なの?』と、言ってしまえば否定する要素を探していた。彼と再会する日が来たとしても、こんなにあっさりしているだろうとは、予想だにしていなかった。
……ぼくは、そうだ、少し前にギルベルトくんに手紙を出したんだ。未練たらたらで。けれど、彼から手紙が返ってくることは……なくて。この地へ飛び出して来たのも、もしかしてどこかで彼に会えるんじゃないかと、淡く期待を孕ませていたからで……そんな彼が、まさか、まさかで、目の前に座っている。着崩したスーツがやけに見慣れずに映って、余計に息が詰まった。吐き気によく似た嗚咽の気配に変わりそうで、思わず瞳を伏せてしまうほどに。
「えっと……二人は知り合いか何か?」
初めてだと思うけど、部長さんがとても渋い声で問いかけた。そうだ、これは、ぼくの面接だ……しっかりしなきゃ。きっとここでギルベルトくんと再会できたのも、きっときっと、何かの縁だから。
「それが……高校の元後輩っつうか……」
ぼくがもたもたしている間にてきぱきと返事をしたギルベルトくんに続き、
「ギルベルトさんとは、幼稚園から小中高とずっと一緒でした……だから、ごめんなさい、びっくりしてしまって」
「なんと、それはすごい偶然だね!」
底抜けの明るさで持って、社長さんが賞賛の声を上げて、なぜか拍手までしてくれた。ぼくは言わずもがな、ギルベルトくんとしても、賞賛に値するできごとなのかと考えあぐねてしまうだろう。
「じゃ、イヴァンくんの素性も、信頼できるというわけだ」
「あ、いえ、ぼくは高校のときに引っ越したので、最近まで国外にいました」
「あら、そうなの? じゃあ、久しぶりの再会なんだ」
「はい」
返事とともに、また昔のことを思い出してしまった。……眩しすぎる日差しと、紺青色のブレザースラックス、透き通る肌、弾けるようなみずみずしい頬……それから、今となっては、目を逸らしたくなるような、無邪気な笑顔。……ぼくとギルベルトくんは、高校のときに〝恋人〟だった。まだママゴトのようだったけれど、それでも、必死に、二人、向かい合って――
ぎり、と胸が軋んだ。だめだ、顔に出したらだめだ。そう自分に言い聞かせて、なんとか笑顔を保つ。ぼくも笑顔には覚えがあるから、大丈夫だ。
「そんなところ悪いけどね、じゃあ、面接だけちゃちゃっとやっちゃおうか。そのあと、ギルベルトにアポがなければお昼ご飯でも一緒に食べてきたらいいよ。あとでアポ表見てみようね」
笑顔で提案してくれる社長さんは大変ありがたいのだけど、
「あ、いえ、お気遣いなく……」
正直なところ、ぼくはまだ心の準備ができていなかった。その証拠に、さっきからばくばくと破裂しそうなほどに心臓が暴れている。
「さーて、イヴァンくん、でいいかな?」
社長さんが間を持ち直してくれたところで、ぼくもなんとか気持ちを切り替えるように努めた。
つらつらと面接は続いていく。意識したわけじゃないのに、なんとなくギルベルトくんの目を見ることができなくて、ずっと社長さんか部長さんを見ていた。
――ぼくとギルベルトくんはお付き合いをしていた。近所だったこともあり、幼稚園のころから一緒で、ぼくが中学で進路を決めるときに、ギルベルトくんが好きだから同じ高校に入りたいって話をして……それから、一年足らずだったけど、子どもなりに精一杯の〝恋人〟をやっていたんだ。
ぼくはずっと彼に夢中だったからその短い期間はとてもしあわせだった。だけど、ギルベルトくんはずぶずぶと不器用に溺れていったのを覚えている。この関係は果たして正常なのか。そんな疑問が過るようになった矢先、ぼくは引っ越すことを余儀なくされて、呆気なく互いに別れを告げた。ギルベルトくんが進学する大学が決まってすぐのことだった。
こうなることがぼくたちの運命だったと、もっと簡単に割り切れると思っていた。けれど、この胸中でもわかるように、ぼくの人生の深くに絡み込んだギルベルトくんを追い出すことなんかできず、ずるずると彼の面影を引きずった。なにもかもがうまく行かなくて、ひどく気持ちが病んで……そんなときにギルベルトくんに手紙を送ったんだ。忘れようもない住所宛に、そのときのどん底からすくい上げたような醜い気持ちを託して。そのあと、返事が来なかった現実に打ちのめされて、そしてとうとう、なにも手につかなくなった。『仕事をしていなかった二年間』とは、このことだ。引っ越したかもしれないとか、年齢的にはもう結婚しているかもしれないとか、返事が来ない理由なんていくらでもあったのに。
「それじゃあ、イヴァンくん。ありがとうね。採否の結果は社内で話をまとめてから、遅くても週明け辺りに電話で連絡するからね」
「はい、ありがとうございました。よろしくお願いします」
気づけば面接は終わっていて、ついにぼくとギルベルトくんはこの面接の間も、一言も直接交わすことはなかった。
ぼくの顔を見て、彼はどんなことを思い出しただろうか。どんな感情を抱いただろう。ぼくみたいに、ぎりぎりと締めつけるような思いだろうか。いや、もしかすると、実はぼくよりも上手にぼくのことを吹っ切っていたかもしれない。……かつて手に取るようにわかっていた彼の感情が、今となっては、まったく読み取れないのが歯がゆく思う。
「ああ、よかったねえイヴァンくん、」
会社の玄関先まで見送りに来てくれた社長さんが、奥にあるらしい何かの掲示物を眺めながらぼくを呼び止めた。
「ギルベルト、今日はもうアポ入ってないよ。積もる話もあるだろうし、二人でご飯行って来たらどうだい」
「えっ、あの、」
「ギルベルトー! イヴァンくん待ってるから早くー!」
ぼくの意向はさて置かれて、ついには見かねた部長さんがその掲示物があるらしい部屋に入っていった。たぶん、営業部のフロアだ。
待つほどの時間はなく、奥からギルベルトくんが姿を見せ、心臓がどくりと跳ねる。彼がそこから出てくるのだとわかっていたにも関わらず、彼の姿にまたしても、ばくばくと脈拍を上げる。何も言えずにただ黙ったまま、よく磨かれた革靴に履き替える彼を見ているしかなかった。部長さんや社長さんが相手でも、随分と仲良さげにやりとりをして、玄関の手すりに手をかけていた。
そうして、あれよあれよと会社の前の通りに二人で放り出される。ぼくはてっきり隣の中華屋さんにでも入るのかと思っていたら、「あー、じゃあ、行くか」と歩き出したギルベルトくんは、逆の方向へ足が向いていた。慌てて歩幅を合わせて隣につく。
当時はぼくのほうが彼より少しだけ小さかった背丈も、今は逆のほうに差が開いていることを知る。高校三年生でほぼ伸びきっていた彼と、まだ高校一年生で、これから伸びる予定だったぼくだから……ほんの少しだけども、昔よりも上からのアングルで見えるギルベルトくんに、釘づけになってしまう。彼のトレードマークだった絹のような銀髪は衰えるところを知らず、今でもきらきらと輝いて彼の周りに光を集めている。
……ごくりと、意味もなく唾を飲み込んでしまった。自分が立ててしまった不本意な音で我に戻り、何か会話をしなくてはと気持ちが押し上げてきた。何か話題を見つけなくちゃ、いつもぼんやりしていた頭を稼働させるも、その間にギルベルトくんは脇道に入り口があったお店に入る。どうやらファミリーレストランのようだ。簡単に二本の指を立てて人数をウェイターに告げると、勝手知ったように端のボックス席に座った。禁煙席の奥のほうだ。
向かい合って座るのは、少々荷が重い気がしたんだけど、そんなことは杞憂だった。ギルベルトくんはすぐにメニュー表を持ち上げて、素っ気なく注文を検討している。ぼくもそれに習い、目の前に置かれていた大きめのメニューを拾い上げた。ファミリーレストランと銘打っているだけあって、子どもから老人、女性から男性まで、数多の人が楽しめるようなメニュー展開になっている。頭がよくはたらいていないので、とりあえず目に留まったパスタでいいかと、ぞんざいな考えに落ち着いた。
ギルベルトくんに「決めたか?」と小声で問われ、「うん、決めたよ」といつもの癖で笑って返す。そのまま張りを失った声色で「そうか」と返され、気づけばもうウェイターが注文を取りに来ている。
「メニューを伺います」
「――パスタで」
はっと息を捕まえて、互いに見合わせてしまった。二人の声がきれいに重なっていたからだ。ウェイターさんもその光景が面白かったのか、くすりと笑みを漏らして、それから「パスタお二つですね」と復唱した。ぼう、と身体の中に火が灯ったように、性急にぽかぽかとしてくる。とても恥ずかしい。
「ドリンクはいかがいたしましょうか」
今度はギルベルトくんに〝言うぞ〟と確認の目配せをもらい、
「コーヒーで」
「紅茶で」
重ならないようにしっかりと言い分けた。それでもウェイターさんは楽しそうに復唱して、「かしこまりました」と厨房に消えて行った。
小さなため息を吐いて、息が詰まっていたのだと気づく。合わせて心臓がまたどくどくと踊り狂っていることにも気づいた。……ぴたりと目が合って、これはまずいとどこからともなく焦燥がぶり返した。
「はは、すごくびっくりしちゃったね」
当たり障りなく話しかけると、
「ああ、そうだな」
ギルベルトくんの相槌は少し明るい声色に聞こえた。動悸は治まるどころか、どんどん激しくなる。自分の思考がかき消されそうなくらいに。
……ああ、ぼくを見返す真っ赤な瞳に、息を奪われる。ぼくは、やっぱり、こんなにもギルベルトくんが好きだった。わかっていた現実を突きつけられて、たちまちギルベルトくんのことがすべて知りたくなった。
君は今、何を考えているの。……ぼくは、どうしようもなく嬉しいんだ。嬉しくて、舞い上がって、緊張して、どきどきしている。君は、どうなんだろう。――どうして、手紙を返してくれなかったんだろう。
「こ、この間送った手紙、読んでくれた……かな……?」
もうどきどきを止める術がわからない。気づいたら既にそう口から出ていて、
「手紙……?」
訝しむような彼の反応に不思議と安堵していた。
「あれ……届いてない?」
「おう、知らねえな」
あっさりとそんな言葉が返ってくる。
「……あ、はは」
一気に拍子抜けした。身体中から強張りの一切が消えて、自分の血の流れがわかりそうなくらいだった。
「そっか……。それは……よかった……」
ついつい、情けない嘆声を上げてしまう。でも、本当によかったんだもの、それが知れただけでも。彼がぼくの手紙を〝無視〟していたんじゃなくて、よかった。……あの失意の底から染め出したような言葉を、彼が読んでなくて、本当によかった……。
「あれ、もう三年くらい前になる……のかな……」
「なんだ? 読まれて困ることでも書いてあったのか? そりゃ読めなくて残念だったぜ」
彼が戯けてみせるものだから、ぼくも軽く「あはは」と乗っておいた。
でも、そうしたら、ぼくの中に次から次へと高ぶる感情があった。……手紙を無視したんじゃなかったとしたら、もしかして、彼もまだぼくのことを想ってくれているかも……しれない。ぼくは、十年経った今でも、彼がこんなに大好きで……だから、ぼくは、できれば彼と……、
「で、どうしたんだよお前」
ふ、と意識が定まる。何度顔を上げてもちゃんと向かいに座っているギルベルトくんは、スーツの袖口を緩める仕草をしながら尋ねていた。あのころよく知っていた張りのある手は、面影だけを残して、成人男性のしっかりと骨ばった線に変わっていた。そしてその手に指輪がないことに気づいてから、ぼくは発作的に気が気でなくなる。ギルベルトくんは結婚をしていない、婚約もしていない。この高鳴る感情はなんだろうと考えたのは一瞬で、それが期待なのはすぐにわかった。あんまりにも醜くて嫌になる。
「履歴書見たら昔と同じ住所じゃねえか」
「まあ、いろいろあって、まだ所有したままになっていた昔の家に、ぼく一人で引っ越して来たんだ」
「はーん、なるほど。そういえば、お前ン家、いろいろ大変そうだったもんなあ」
昔を思い出すようにどこかを眺める。その表情も昔と違い、ところどころに疲れを滲ませている。若さでは到底及ぶことのない色香が、そこから滲み出ているようだった。そんな表情で、彼はぼくとの思い出を巡っているのだろうか。
当時、ぼくが引っ越しを余儀なくされたのは、父親の蒸発が原因だった。母方の実家に家族で頼ることになったのだ。……けれど、そんなことを差し置いても、
「……君のところほどじゃないよ」
ふと過ぎった懐かしさが、また口をついて出ていた。
ギルベルトくんは幼いころから多忙のお父さんと二人暮らしで、中学に入るころにはほとんどの家庭での時間を一人で過ごしていた。それを思い出して、ほんとうに深い意味はなく、言葉が走ってしまっていた。そんなこと、あのころのぼくたちにとってはとても〝都合のいい当たり前〟だったから。
案の定、測り間違えた距離感のせいで、嫌な沈黙が割って入る。今の発言を咎めているのか、意志で固めたような双眼が、まじまじとぼくを見ていた。この眼差しは、あのときのままだと胸が窮屈に膨らむ。
「あ、いや、ごめん、そういう意味ではなくっ、……て、」
「いや、別にいいぜ。波乱万丈さには欠けるが、実際に俺んところは歪んでんだし。今も変わってねえ。今どこで何やってんのか、お互い把握してねえよ」
投げやるような手振りをつけて、ギルベルトくんはただ呆れ笑いをしていた。残念なことに、そこも当時のままだったと知る。
「そっかあ」
ギルベルトくんの危うさのようなものが、容赦なくぼくの脳裏に蘇ってくる。
パスタが来ても、紅茶が来ても、ぼくの頭の中はギルベルトくんでいっぱいだった。理屈で言い表わせる感覚ではなく、本当にただ衝動のようにギルベルトくんの手に触れたくて仕方がなかった。あのときみたいに、抱きしめて、笑い合って、じっと互いの瞳の中を眺めて。だから、会えてよかった、また昔みたいにぼくたち、恋人に――……そう冗談めかして言えるような間を探していた。けれどその一方で、今さら何を言ってるんだ、と馬鹿にするようなぼくも内に秘めている。なかなか言葉が決まらなかったのは、それが原因だった。
昼食の間、結局お互いの過去にはほとんど触れず、当たり障りのない会話に終始した。姉ちゃんは元気か、確か妹がいたよな、そう言って笑うギルベルトくんは、ぼくを取り巻くものをよく覚えていた。一つ一つの会話の往来を噛み締めながら、ぼくの質問はどれも口からは出ていかない。ぼくの後に誰かとお付き合いした? ぼくのこと、すぐに忘れられた? 実はどう思ってる? やり直せる余地は……あるかな。――こんな質問、とてもじゃないけれど、口からは出ていかなかった。
ギルベルトくんが伝票を握る。そろそろ、と立ち上がったのを見て、慌ててその伝票を握りとろうとしたら、軽くひょい、と避けられてしまった。あまりの軽やかさに思わず顔を見てしまい、そこに懐かしくニヨリと笑った彼を捉える。胸の中にずっと居座っていた面影と重なって、また目眩がしそうなほどの動悸が起こった。
「お前、今無職だろ。今日くらい気にすんな。高級ステーキじゃなくて悪かったな」
「えっ、そんなっ、別に大丈夫だよ!」
既にレジに向かい始めたギルベルトくんを焦って追いかけるけど、上着を持ったり鞄を拾ったりともたついて、追いつくころには素知らぬ顔で会計を済ませていた。……ああ、ぼく、かっこ悪い……。そうか、ぼくはギルベルトくんには二年間無職をやっていただらしないやつ、って思われているかもしれないんだ。……ゾッとしながら、今日ほどこの無駄に食いつぶした二年間を悔やんだことはない。
「――じゃ、駅はあっちだろ。採否、楽しみにしとけよ」
店を出ると、ひらりと踵を返したギルベルトくんが、ぼくが来た方向とは反対側の小さな道を示して言った。当然、ぼくは首を傾げて、
「え? ぼく、そっちから来たと思うんだけど」
ギルベルトくんの後ろの大きな道を指し示してやった。呆れ声で「はあ?」とその先を目で追った彼は、もう一度ぼくのほうへ向きかえると、
「お前もしかして、車用のルートを検索してたんじゃねえの? 徒歩だったら、そっちの道をまっすぐ行けば、駅まで歩道が続いている。所要時間半分くらいで済むぜ?」
呆れ顔はいつしか心配するような表情に代わり、
「ええ、そうなの!?」
思わず聞き返してしまったら、彼の表情はまた変わった。
「ケセセ、お前、相変わらずだな」
久しぶりに聞いた彼のその笑い声が、心臓を貫いた。君はまだ、その変に笑う癖、治ってないんだ。にっと、歯を見せて笑う姿も、呆れの割に優しく紡ぐ声も、未だに、あのころのままで……。噛みしめるように、勝手に奥歯の辺りに力が集まった。
彼はそのあとすぐ、なぜか「……ああ、悪り、」と口元を隠したそうに視線を逸らした。まるでバツが悪そうだ。
その様子から、ぼくはひどく焦燥した。ここで、お別れなんて嫌だ。もし、この面接に受かっていなかったら、ぼくは金輪際彼と会えなくなる。そんなのは、嫌だ。今度こそ、手放したくないんだ。
「あの……ぼく、ほんとはずっと君が忘れられなくて……また、」
こんなにも未練がましいぼくを、彼は許してくれるだろうか。
「……ん、なんだ?」
控えめにぼくを捉えたその瞳を放さないよう、しっかりと見返して、彼の意識を引き止めた。
「また、昔みたいに……ぼくたちっ、こ、恋人に、」
なんの捻りもなくそう告げて、ぎゅっと拳を握り込んでいたことに気づく。けれどそれを開くことはまだできない。最後までちゃんと言い切ろうとして、改めてギルベルトくんに集中したところで、薄っすらと口を開きかけていることを察した。自然とそこでぼくの言葉は止まり、身構えるように彼の声を待つ。……ゆっくりと口が開かれる。口角が少し上がっている。……笑って、『俺も、』なんて言ってくれたら――
「ケセセ、お生憎さまだったな、ブラギンスキくん」
けれど、そのまま眉尻は下がり、申し訳なさそうに笑った彼は、ただそれだけでぼくの目の前を真っ黒に塗りつぶした。
「俺様にもさ、よろしくやってるやつが、いるからよ」
感嘆は声にさえならないまま、言葉を失った。彼の言う〝よろしくやってるやつ〟というのが、おそらく〝恋人〟のことを指しているのは、会話の流れから察せないわけがない。
彼だって告げることが耐えられなかったのか、そわそわしていた。何度も足元へ視線を落としては、ぼくの表情を確認している。もう子どもじゃないんだ、ぼくは、あのころとは違う、もう大人だ。なんとか自分に言い聞かせて、この場を繕おうとした。
「え……あ、そうだよね……」
……だって、一人で勝手に突っ走ったのはぼくだから……。
「ギルベルトくんみたいな素敵な子が、フリーなわけない、よね……へ、変なこと言ってごめん」
遅かった。これはぼくが悪い。そもそも、あのとき彼と別れたのが、ぼくたちの縁の終わりだったのかもしれない。
「――じゃ、またどこかで会おうぜ、ブラギンスキくん。採否の連絡は来週だろ?」
「う、うん。そうだよ」
「まあ、健闘祈っといてやるぜ。気をつけて帰れよ」
彼は背中を向けて、手のひらを見せるだけの挨拶をした。無様にも立ち尽くしていたぼくは、またしても一言も言葉を返せなかった。これで本当に終わりかもしれないのに、彼の思い出の中のぼくに、気の利いた最後の言葉を言わせられないままだ。
……結局彼はその場に取り残されたぼくを一度もふり返ることなく、そして、あのときと同じように、なんともあっさりと、ぼくの前から姿を消した。
*
「もしもし――、」
それから三日後のことだった。
ぼくは面接のあと……正確には、ギルベルトくんと再会して遅めのお昼ごはんを食べたあと。帰ってから、玄関で倒れ込んで動けなくなってしまった。期待ばかりを胸にこの地へ舞い戻ってきた自分が、浅はかで愚かしくて、情けなかった。どこかで彼と再会できたら……と思っていたのだから、早々に目標を達成できたことにはなる。けれど、彼に現在恋人がいるという現実を叩きつけられて、この先どう身動きを取ったらいいのかわからない。
ぼくはそれからの三日間、乗り越えたはずだった二年間の真ん中に投げ戻されたような心地で、埃だらけの家の中に転がっていた。記憶の中にある『口にしたもの』と言えば、ウォトカくらいだった。
こんな心地で採用になったところで、きっとぼくは使い物にはならない。彼が視界に入り込む世界で、それでも彼に触れられないなんて、きっと耐えられない。……だから、応募を辞退しようと思い、携帯電話を握りしめた。いっそ人生を辞めてしまおうかと思ったくらいだ。別に登録はしてなかったけど、履歴に残っていた番号をリダイアルして、だらしなく寝っ転がったまま、応答を待った。
『お電話ありがとうございます、ディン製作所です』
「もしもし、先日、中途採用で面接をしていただいたイヴァン・ブラギンスキですが、」
『はい、少々お待ちください』
ようやく繋がったと思った通話は、なんとスムーズに保留音に変わった。その保留音すら、そう長く聴くことはなく、すぐに機械音に取って代わる。
『イヴァンくん! お疲れさま! 今ちょうど電話するところだったんだ!』
弾けるような、底抜けの明るい声を張り上げるのは、忘れもしない、この会社の社長さんだ。気を利かせてくれて、ぼくとギルベルトくんに二人の時間をくれた人。この人を相手に辞退を告げるのは少し気が引けるなと思ったのも束の間、
『ぜひ我が社に君を迎えたい! 予定通り、ギルベルトの班に入ってもらおうと思う!』
受話器の向こう側ではみんな耳を塞いでいるんじゃないかと思うほどの溌剌さでそう言い放った。危機感が押し寄せて、ぼくはその場に上体を起こし、携帯電話を強く握り直した。
「あの、すみません、ぼく辞退しようと思って、」
『え、もしかして他に決まってしまったのかい?』
「いえ、それはありませんが、ちょっと」
残念そうな声を聞いて、とっさにぼくは返事をしていた。そうなんです、と答えていたらもっと簡単に諦めてもらえていたかもしれないけれど、
『ええ! 頼むよ! すでに君のデスクの手配もしてしまったんだ!』
社長さんの言葉に簡単に揺らいでしまう。二年間も仕事をせずにぐだぐだしていたぼくでも、迎えたいと言ってくれるのは、とてもありがたい。きっと今回の採用を逃したら最後、ぼくは次にいつ立ち直れるかわからない。……あのとき逃げることで得たのは、空白と虚無の二年だけだった。
『うちはいい職場だよ! 君には顔見知りもいるし、やりやすいと思うよ!』
言われた途端、また気力が萎む。ぼくにとっては、その〝顔見知り〟がいることが一番の問題なんだよ……と素直に伝えることもできず。
『ね、なんなら試用期間三ヶ月で。やってみて嫌なら三ヶ月で辞めてもいいから』
切実そうだ。こんな風に言われて悪い気はしないし、あわよくばギルベルトくんの側で……なんて、救いようもない往生際の悪い感情がなかったと言えばうそになる。きっと、恋人がいるギルベルトくんの側にいることは、思っているよりも辛いだろう……けど、けど。そうして側にいれば、また違った道が見えてくるんじゃないのか。本当にこれがぼくたちの縁の尽きだったのか、確かめてみてもいいんじゃないか。
ぼくは、口を開くために、少しだけ気力を溜めた。しっかりと、徐に、口を開いた。
「……はい……そこまで言うなら……ぜひ、お願いします」
『おお! よかった! では一日からでいいね? 詳しくはまた手紙送るからそれを見てね!』
「はい。……よ、よろしくお願いします」
『こちらこそね!』
最後に飛び切り元気のいい挨拶が届き、ぼくは思わず笑っていた。……ほんと元気だな、この社長さん。自分のその自然な反応に少しむず痒くなったけど、あえて気づかぬふりでぼくは通話を切った。
――改めて見ると、その切る手は震えていた。本当にこれでよかったのだろうか。頭がぼうっとして、しばらく放り投げた携帯電話の端末を眺めていた。
きっとぼくの採否にはギルベルトくんも関わっているはずだ。ならばもしかして、ギルベルトくんはぼくを過去の思い出として割り切って、今度は仲間として、迎え入れてくれようとしているのだろうか。もしもギルベルトくんが口を利いてくれていたのだとしたら、人生を投げ出すにはまだ、早いのかもしれない――
第二話「ジョーチョー・トブレンツ」へ つづく
(次のページにあとがき)
あとがき
みなさん、こういう形ではお久しぶりです!
いかがでしたでしょうか(*^^*)
もともとweb向きの人間なのに、去年は本ばっかりでwebがあんまり更新できなかったので、
今年はたくさんこういう形でアップしていけたらいいなあと思っています!
(あくまで予定)
どうぞよろしくお願いします(*^^*)
さて、さて。
ツイッターで『連載されるならどんなイヴァギルちゃんが見たいか』アンケートをさせていただいたところ、
社会人パロと高校生の学パロが優勢だったので、ずっと書きたかったお話を練り練りしてみました。
今後この二人がどうなっていくのか、楽しみにしていてくださいね!
感想なんかもいただけるとたぶん執筆スピード上がると思うので(現金、笑)、
なにかあればよろしくお願いします♡笑
それでは今回はこの辺で失礼します〜!
次話もお楽しみに〜!