番外編:森の奥木陰に涼やかな風が吹き抜けた。
一面に立ち並んだ木々の葉が擦れ、心地よい音を立てる。
新緑が揺らめき、木漏れ日がきらきらと踊った。
森の中でも一際樹齢を重ねた大樹の根元に白い狼が座っていた。
体格は筋骨隆々で大きく、2mを超す。
身を包む衣装は、黒い布に白で複雑な紋様を刺繍した民族伝統の物。
季節柄、毛足は短い夏毛になってはいるものの、すこし熱さを感じるのか胸元を大きく開き、かなりくつろいだ格好だった。
白狼が遠くに目をやれば、木々の隙間から覗く大きな山。
日の光を浴びて青々と生命の輝きを放つそれを見ながら、何をするでもなく、ただ季節の移り変わりを感じていた。
「……また、こんな所に一人で……」
なんの気配も音もなく、背後から声をかけられ、白狼はびくりと大きな肩を震わせた。
恐る恐る背にしていた樹の裏を覗きこめば、地味ではあるが上品な洋裁に身を包んだハスキー犬の女性がまるで初めからそこにいたかの様に立っていた。
薄いグレーの入った雪雲の様な毛色と落ち着いた色彩の衣服が調和して、緑と茶色の森の中で存在感を放っている。
柔和な笑顔は可憐な花のように美しく、何度見ても、いつ見ても胸が高鳴ってしまう。
「ふふっ」
女性が声を上げて笑えば、まるで絵画のようだと思えてしまう。
そんな白狼の顔を見て、女性はゆっくりと歩み寄る。
静かな物腰と華奢な身体であるが、その実、まったく足音をさせず体幹もぶれないその歩き方は一流の武芸者のものだった。
「……我が王は、仕事もせずに、こんな所で何をしているのですか?」
「そ、その言い方は止めてくれと、言っているだろう……」
慌てて白狼が立ち上がるとその背丈の差は50cm以上になるだろう。
けれど堂々とした女性と背を丸めて、ばつの悪そうにした白狼ではそれほど変わらないように見えてしまう。
「では、愛おしき夫様、とでも呼びますか?」
「う……」
白狼はその白い毛が真っ赤になるほど頬に血が集まるのを自覚した。
伏し目がちに見ながら、手持無沙汰気味に太い指を擦り合わせる。
あまりの恥ずかしさに目を地面に落とすと、その手にそっと女性の手が重なった。
思わず耳と尻尾を硬直させ、全身がかっと熱くなるのを感じた。
「まったく……夫婦になってから何年経つと思っているんです?」
「お、俺は……僕は、元々こういう性格なんだ……」
常のように振舞っていた尊大な態度は消え失せ、臆病な少年のように尻尾を落ち着きなく振りながら、白狼はぽつりと零した。
真っ赤になった頬にそっと女性の手が添えられ、白狼はさらに頭に血が上っていく。
「はい、知っています。あなたのそういう所を知っているのは私を含めた妻達だけですから」
白狼には妻が四人いるが、始めに娶った三人の妻にこんなことを言えば、情けねえと言いながら尻を蹴飛ばされるだろう。
それはそれでありがたい時もあるが、この四人目の妻、森の外の世界からやってきた彼女はただ、そっと寄り添ってくれるため、時々こうして甘えてしまう。
白狼は、自身でも情けないと思いながらも、彼女の柔らかい手の感触に安堵を覚える。
そして目を閉じて無意識に頬を擦りつける。
「……それで、どうしてこちらに?」
「ん……あっ、ああ……今日は特に急ぎの仕事もなかったから、一人で考え事を、少ししていた」
あまりにべたべたしすぎてしまった、と白狼は慌てて離れて咳払いをしつつ真っ赤になった顔を隠しながら答える。
要は、仕事をさぼっていたということなのだが、嘘はついていない。
『白狼族』の族長として常に重圧と重責を担っている白狼は、普段は本来の性格を隠し、尊大で無骨な男を演じている。
しかし、その演技に疲れた時、生まれ育ったこの森で一番の大樹の元にやってきては突っ張った緊張の糸を解していた。
「そうですか」
「……怒らないのか?」
ふわりと笑顔を浮かべ、それだけを言って黙ってしまう女性を見て、白狼はおずおずと問いかける。
「姉様方でしたら、『もっと男らしくしろ』とお叱りをするでしょうけどね」
ふわりと風に揺れた髪を片手で押さえ、首筋が見える。
思わずその色香に白狼はごくりと生唾を飲み込み、びくりと一物に芯が通りそうになって慌てて目線を逸らした。
性格は極めて大人しい白狼ではあるが、四人の妻を相手にできるほど性に対する欲は強い。
しかしその奥手な性格が故に溜めこむことが多く、覚えたての青年のように初な反応をしてしまうことがあるのも、白狼の悩みの一つだった。
幸い、女性には気付かれなかったようで、内心で胸を撫で下ろした。
「私は、あなたのその優しさに助けられてばかりですから」
「そう、だったか……?」
あまり心当たりのない白狼は首を捻った。
こうして二人きりの場でない限り、白狼は族長として尊大に振る舞い、第四の妻である女性に対してはかなりぞんざいな扱いをしているはずだ。
しきたりとして族長は妻に対し、名前も呼ばないし、第二第三以降の妻に対しては、それこそただ子供を産ませる価値しかないというのが通例だった。
そのため、時代によっては妻同士の仲は非常に険悪になりかねないものなのだが、白狼の場合にあってはこの性格である。
妻と婚姻を結んだ夜には本来の性格は直ぐにバレてしまう。
そして、若干馬鹿にされつつも、妻達は誰一人として白狼の性格を他の者にバラそうとはせず、その気持ちを尊重してくれていた。
二人きり以外の時は、白狼を族長として扱い、控えめな妻を演じているが、二人きりや妻同士では白狼の事を散々に言いながらも、しっかりと支えてくれていた。
しかし、彼女は少し事情が違う。
彼女は隣国の政変によって家と家族を失い、唯一の従者が白狼族の血を引いていたため、この森に逃れてきた。
森の外、隣国の貴族であった彼女は、本来なら族長である白狼と婚姻を結ぶことは不可能だった。
けれど居場所を失った彼女が隣国の追手から生き残るためには、辺境部族である『白狼族』と婚姻を結び、貴族の身分を自ら捨てたと証明するしかなかった。
だから彼女は、反対する者をことごとくその優れた剣術と武術で叩きのめし、強い子を産むと言う誓約の元、族長の妾として特例を勝ち取った。
本当の所は、白狼の一目惚れだったのだが。
それを彼女と婚姻した夜に、先の妻と彼女に話した時は、三人の妻には大爆笑され、彼女にはその時しか見たことのない呆然とした表情をさせてしまった。
三人の妻は常々威張り散らしていた長老集をぼこぼこにして赤っ恥を掻かせた彼女の事を気に入っており、四人はすぐに意気投合した。
そして、その晩は四人で白狼を責め立て、精も根も尽き果てるまで絞り取られた。
あまりに激しい夜だったため、白狼は翌日、下腹部と下半身の痛みに悩まされたのは、今では笑いの種になっている。
その上、同時に四人とも妊娠したことが後日分かって大変な騒ぎと共に、白狼は性豪として名を馳せてしまったのだが。
その時の事を思い出して、思わず股間を熱くしてしまい、白狼はもじもじと居住まいを正した。
「……居場所を失った私に、家と家族を与えてくれました。夫と新しい姉と……息子まで」
「そ、それは……まあ、夫婦だから、な……」
先の妻三人との間に出来た子供達もみな元気に育っていたが、その7人の息子はどうにも白狼に性格が似てしまい、多少違いはあって年相応さはあるものの、大人しい少年ばかりだった。
そして、最後に生まれたのが彼女との間に出来たヒョウカだ。
他の息子は白狼に似て大柄であるが、性格が大人しいのに対し、ヒョウカは非常に小柄だった。
そして、その性格は、
「あいつは……本当に、やんちゃだったなあ……」
生まれて数年後、十歳にも満たない歳で勝手に狩りについてきたり、一人で魔物の生息地に行ったりと周りの大人を驚かせ心配させ続けていた。
それに感化されたのか他の息子達も少し活発になったのはいいことかと白狼は考えていたが、ヒョウカの天真爛漫っぷりにはよく頭を痛めていたのを思い出す。
「……あいつは、今頃どこで何をしているのか……」
白狼が一番幼い息子の顔を思い浮かべ、遠くの空を見遣った。
快晴の青い空には小さな雲が流れているだけで、何の答も返ってこない。
「不安ですか?」
「当たり前だ……せめて15になるまでは手元に置いておきたかったのが、本音だ」
まるで心配のない笑顔の女性に、白狼は少し不満そうに鼻を鳴らした。
正直、妻達は放任主義過ぎると白狼は思わずにはいられなかった。
逆に白狼自身は過保護すぎるきらいがあるのだが、本人に自覚はない。
女性はまた花が揺れる様な仕草で笑い、そっと肩を白狼に寄せる。
白狼はどきりと心臓を跳ねさせるも、ゆっくりと腕を女性の肩に回した。
見た目は細いその肩に触れれば、しっかりとした筋肉と骨格が掌に返ってくる。
それだけで、白狼の胸は安心感で満たされた。
「……あの子は大丈夫ですよ。私達が出した試練を乗り越えて見せたじゃありませんか」
ヒョウカは森から外へ行くと決心した後、白狼は族長として、彼に試練を与えた。
大の大人でも苦労するような試練の数々をヒョウカは、努力と勇気と知恵を以て乗り切った。
その証として、白狼は霊剣ウパシトゥムチュプを、彼女は家宝の一つであった虎杖丸を、それぞれ旅の供として与えたのだ。
「……僕は、心配しすぎ、だろうか……」
「あなたは、それで良いのです」
彼女はそう断言すると、ふっといつの間にか白狼の腕から離れ、正面に向き直って凛と立つ。
「あなたは『白狼の王』。一族を導くために選び続けなければならぬお方。過去を悔み、悩み、迷いながらも、選択し続ける。それが王です」
すい、と膝を折り、彼女は白狼の前に跪く。
その居住まいを見て、白狼も全気力を込めて背筋を伸ばした。
「……ならば、その妻はどうするのだ?」
「王を支えるのが務めです。……そして、私はもう一つ誓った役割がございます」
彼女の言葉に、白狼は初めて夫婦の契りを交わした時の事を思い出す。
彼女は、二人きりになった時、白狼に剣の柄を差し出し、騎士の礼を行った。
彼女は女として白狼の妻になり、そして騎士として白狼に仕えると誓ったのだ。
「私の目が見えるうち、手が剣を握れるうち、足が間合いを取れるうちは、この森にて諍いは私が全て収めましょう」
その言葉は誇張でもなく、理想でもない。
彼女の実力と信念であれば、成し遂げられると白狼は知っていた。
だから、と彼女は言葉を続ける。
「……どうか、悩んでください。迷ってください。悔んでください。そして、民を背負ってください。その悩み、迷い、悔み、苦しみ、そして重みは……あなた様にしか背負えない物ですから」
それ以外の事は、私達妻に、全てお任せください。
彼女はまた雰囲気を一変させ、ふわりと笑った。
それでようやく白狼も肩から力を抜くことが出来た。
「……そんなこと言われたら、余計悩むんだが……」
「ええ、そのために発破をかけましたので」
「……君は、意地悪だ……」
白狼は口をへの字に曲げ、少し勇気を出して彼女を抱き寄せた。
花のようだと思っていたが、腕の中に囲って初めて、本当に彼女の香りはどこか甘いと白狼は思った。
「あ、そうだ。そんなに悩むんでしたら、また新しい子を作りますか?」
「な……ななななな! 何を言い出すんだ!!」
「息子が心配なら、もっと増やせば安心されるのでは?」
「……もっと悩みの種が増える気がするのだが……」
くすりと笑う顔が、白狼にはまるで天使にも悪魔にも見えた。
どちらにしても、白狼は逃げられそうにない。
それに、白狼も手を放す気はなかった。
とはいえ、恥ずかしいのは本当で、白狼の顔はまた朱に染まっていく。
「姉様方は二度以上出産してますでしょう? なら私も、あなたの子供をまた産みたいです」
「そ、そそれは……その……う、嬉しいのだがな……ま、まだひ、昼間だし……」
「では、今宵は寝屋に伺ってもよろしいのですか?」
「あ、や、え……うー……う、うむ……」
しどろもどろの白狼を腕の中から見上げ、彼女は嬉しそうに笑った。
今までの微笑みとは違い、咲き誇るような笑顔に、白狼はくらりと思考を失う。
「……夜まで、楽しみにしていますよ?」
そっと布地を押し上げる白狼の股間をさすり、くすりと笑う彼女に、白狼はどうやって抜かずに収めて里に戻ろうか、また頭を悩ませ始めるのだった。