水底と光「……夢?」
起きぬけに呟いた声は思っていた以上に弱々しく、頬を流れた一筋の涙を慌てて拭った。
「母ちゃんと父ちゃんの夢なんて、久しぶりに見たなあ……」
胸が郷愁でいっぱいになり、また目がうるんできた。
ぶんぶんと頭を振って、むりやり思考を切り替えて、俺はベッドから起き上がる。
そして、隣のベッドからこちらを見ていた黒い狼の視線に気付く。
「よっ、おはようさん」
「……見てた?」
「いんや? ちとうなされて、起きたら涙目になってた白い狼くらいしか、見てねえなあ」
「それ、見てたって言うんだぜ」
「そっか」
ひょいと何も言わずにユースは俺のベッドに上がりぐりぐりと頭を撫でまわす。
乱暴な撫で方に俺は痛いと抗議するが、止める様子はない。
「子供扱いすんな!」
「へいへい」
「俺はあんたの部屋のベッドが空いてるって聞いたから借りてるだけで、別の宿が見つかったらすぐに出てってやるからな!」
「わーったわーった」
どうにも真面目さに欠ける返事だが、八つ当たりしている自覚もあった俺は自分に対する呆れで溜息をついた。
ここで更に怒るのは本当に子供のすることだ、と自分に言い聞かせ、部屋の端のテーブルに乗っていたブラシに手を伸ばす。
全身の毛についた寝癖を解きほぐし、毛並みを整えてから上着とズボンを着込んだ。
「今日は予定があるのか?」
「……昨日試合に勝ったし、今日は闘わないつもり。だから街にでも行こうかな」
同じ様に俺から手渡されたブラシで黒い毛を整えるユースの質問に、俺は端的に答えた。
ユースは相槌を打ちながら、ふいに指をぱちりと鳴らした。
呪文詠唱も、魔術式構築もない独特の精霊魔法。
僅かな動作だけで精霊に意思を伝え、対価のわずかな魔力を渡すだけで、ユースの意思通りに一陣の風が生まれ、部屋の隅で霧散した。
霧散する瞬間、俺は奇妙な気配を感じて思わず闘気を飛ばす。
「……まーた逃げられた」
やれやれと肩をすくめるユースを見て、俺も闘気を収める。
「ユース兄ぃ、今のって」
「んー、まあいわゆる『遠見の術』だろうなあ……」
すこし口を曲げ、不満気な様子でユースの魔力が膨れ上がる。
足元に浮いた魔法陣が拡大して部屋の床を埋め尽くす。
一瞬の後、何事もなかったかのように静寂が戻ってきた。
「厄介事か?」
「んー、あー……お前にまで迷惑かけたくねえけど、たぶんそうだな」
ユースは笑いながら、どこか苛立たしげに尻尾を揺らす。
顔はポーカーフェイスなのだがかなり感情が尻尾や耳に出るタイプだと、俺は短い付き合いで理解し始めた。
なぜなら、自分の父がそのタイプだったからだ。
……めちゃくちゃ厳しいこと言いながら、めちゃくちゃ申し訳なさそうな目で見る人だもんなあ、父ちゃん
遠い地でおそらくずっと心配して、母にぼこぼこにされているであろう父の顔を思い出して、少し郷愁に浸る。
「まあ、兄ちゃん面倒事に首突っ込みそうなタイプだもんなー」
「面倒事を起こしそうなお前に言われると普通に傷つくわ」
「いやあ、照れるぜ」
「褒めてねえよ! 否定する所だよ!」
「あはははー」
立て続けにツッコミ、肩をいからせるユースに、俺は気の抜けた笑い声で答える。
ユースも服を着替え、バラけていた髪を編み終わり、姿見で格好をチェックした。
「……ま、お前ならなんかあっても平気だろ?」
「おう。自分の身位、守れる。じゃなきゃここまで来れてねえし」
「ん。じゃあ、細けえことは言わねえよ」
すっと俺の頭を撫でようとしたユースの手に俺は先んじて自分の掌を合わせた。
ぱんと軽快な音がなり、ハイタッチする結果になる。
ユースは予想外だったのか一瞬、呆気にとられ、俺はしてやったりと笑って、先に部屋から抜け出した。
コロシアムの朝は早い。
ジークリアの観光名所でもあり、国民の一大娯楽でもあるコロシアムは特に理由がなければ毎日開催され、多くの人で賑わう場所だ。
そんな人が集まる場所は、朝早くから多くの職員が働いて管理することで成り立っている。
清掃に補修にと専門の職員たちが早朝から歩きまわり、早起きの闘士や朝一番の試合に臨む闘士達の朝食や湯浴みの管理を行う職員の姿も見られる。
受付には気の早い観光客や、一等席目当ての観客が既に集まり始め、受付案内担当の職員も仕事を始めていた。
朝焼けに染まる空が青みがかった時間。
街が動き始める気配。
そんな中、唯一の影がコロシアムの入り口から離れた外壁にもたれていた。
居住区からコロシアムに向かう通りとは反対、ほとんど人通りがない朝の静寂に包まれたそこで、ただ朝日から隠れるように壁に張り付いている。
「……ふむ……新しい玩具、ですか」
鮮やかな朝の光景に、染みついた一滴の黒い絵の具の様な人影。
質素な黒い色のローブを深くまで被り、顔色どころか種族すら判別できない。
いや、フードを突き上げる突起から角のある種族であることは予想できるが、認識阻害の魔術を纏っていてそれに気付ける者は極少ない。
風が、ふわりとフードを揺らした。
僅かに覗いた口元の長い髭を揺らし、堪え切れなかった笑い声が漏れる。
くつくつと押し殺した笑い声を上げながら、ローブの人物はゆっくりとさらに影に踏みこみ、姿を消した。
その場に残るのは僅かな葉の焦げる匂い、煙草の残り香だけだった。
俺は目の前の麦パンにタレで照りを光らせた肉を挟んだ料理を、大口で頬張ろうとしてぴたりと動きを止めた。
そして、そのままがぶりと食らいついて鋭い牙で噛み切る。
うまそうに咀嚼しながら、さりげなく周りの気配を探った。
……朝と同じ気配、かな?
目を閉じて音と匂い、気配に感覚を伸ばしていく。
朝市が始まって数時間、多くの人で賑わい、様々な食べ物の匂いで充満している中、俺は狼の鋭い嗅覚を以て異臭を探る。
脳裏に広がる周囲の風景。
音と嗅覚で投影した人の気配の中で、一際異質な物が俺の背後に一つあった。
「……どーっすかなあ」
姿勢を変えず、そのまままた手元のサンドイッチの残りを口に放り込む。
距離があって、こちらが気付いたと向こうに知られれば容易に逃げられてしまうだろう。
俺は少し悩んで、相手の動向をうかがうことにした。
気付いていないフリをしながら、ゆっくりと歩き始め、そっと気配を確認する。
「……俺を舐めてるのか、自信があるのか……それとも、本当に気付いてない?」
つかず離れずの距離を保つ気配に、俺はそれならば、と急に走り出した。
広場の人混みを縫うように走り、人と人の隙間をすり抜ける。
狭い森の中を全力疾走するのに慣れた俺には造作もないが、気配の主にはそういう技能はないらしい。
少し焦ったような意思が俺にも伝わってくる。
俺は路地裏に駆け込み、角で待ち伏せた。
十数秒の遅れの後、軽い足音が追いかけてくる。
近づくにつれて、りぃんと鈴の音が聞こえた。
俺はタイミングを合わせて飛び出し、鉢合わせになった人物を確認した。
「……わっ!?」
「おっと」
俺はぶつかりそうになった小さな影を胸元で受け止めた。
俺の身長よりも頭一つ小さいその身体。
特に殺気も害意も感じられなかったから、なんの気なしに接触したが、流石に子供は予想外だった。
「大丈夫か?」
「う、うん……ごめんなさい」
素直に謝るジャッカルの少年は、バツが悪そうに耳を倒し、尻尾を萎れさせる。
首に付けたチョーカーには鈴がついていて、迷子防止用の物だと、思い至る。
俺は自分がわざとぶつかったことに少し罪悪感を覚えて困ったように視線を斜め上に投げてから、思い出したように少年の頭を撫でた。
朝のユースのように。
「俺も急に飛び出したからな、悪かったよ」
何度か撫でると、少年は照れたように笑った。
俺もそれに微笑んだ瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
りぃん、という、鈴の音だけが、耳に響き続けていた。
「……っ……そういう、ことかよ」
俺は悪態を吐きながら、ゆっくりと意識を失った。