Fractions#72_本を託す「本っていいですね。」
リオウが出し抜けに言い出したことに対する驚きで茶器を持ち上げる手が止まった。ようやく、読書の愉しいことと有益なことが彼にも分かる時が来たのだ。テラ・マクドールはしばし感銘に浸った。時に太陽暦四六七年、窓の外に目を遣れば、寒々とした風に色の濃く沈んだ枯れ葉が吹き散らされる晩秋であった。
デュナン国某所にある国王の私邸の一つである。もともと自治を行っていた諸都市の集合体だっただけに、統一され広大となった国土のどこも、デュナン国の「中心」でも「辺境」でもない、といえた。ゆえにしばしば隣国との国境近くの都市で催される会同のため、国王リオウ・カン・デュナン(カン以下は称号)の居住するための邸宅が各地に用意されている。一年のうちに数日も滞在しない家ながら、家具調度類は第一級の品々が集められ、壁に何も無いところを残すことで退屈や倦怠が忍び込むのを嫌うように、絵画や花が飾られ、または棚を造り付けて、美しい装丁の本が詰め込まれた。布と紙とインクでできた、意味しか持たない彼らが、孤独な王のために言葉を話して生身の友の代わりになるというように。
「このお屋敷、ほんとは何にもないけど。本がいっぱいあるとなんかあるっぽく見えます。」
「読め。」
「やです……。」
リオウの口ぶりから、集められて螺旋階段の壁を埋め尽くすほどの本に、彼が触れてもいないことを読み取ったテラは、少々の憤りが声音に乗るのを抑えられなかった。テラは書画骨董よりも書物を重んじるので、リオウの多忙を理解はするが、美術品と本を同じように扱うのは奢侈(しゃし:あまりなぜいたく)であろう、と、思った。幼年に、テラの方では書物をまさに友人として過ごしたので、彼の価値観もまた偏っている。
「ここが本の置き場所なら、一つもらってくれないか。」
テラは一度貸し与えられた部屋に引っ込んで、簡素な装丁のさほど厚くない本を持ち出してきた。
「……書いたんですか?」
「何故そうなる。君の国が回収すると聞いて、急いで三冊確保したんだ。一冊ここに置いていきたい。君の家ならデュナンが戦争をしたって燃えるのは最後だろう。」
「不穏なこというのやめてもらっていいですか?」
珍しい請願があって、その著者の本を回収して出回らないようにすると決済したのはリオウなので、珍しいことだが書影を見て何の本か分かった。
それは、現トラン共和国の解放運動のことを赤月帝国側の著者の視点から多大に悪意的に説いたもので、サウスウィンドゥやティントでトラン共和国脅威論が長く言われる原因になった本の一つだ。解放軍の事を“残虐無道の反社会勢力”、テラのことを“父親殺しの暴力革命主義者”などと書いているとか、いないとか。もちろん、読んではいない。
「なんでそんな本をよりによってテラさんが……、」
人を従えるようになってからはしないように気をつけているのだが、目の前の相手への気安さのせいで、心に思ったことが、ほとんどそのままの形ですぐ口から出てしまう。しかし、テラの面白がるような恐ろしげな笑顔にぶつかって、彼がいつ終わるか読めない説明をしだす前にリオウは自分の疑問を撤回した。
「やっぱいいです。最近のぼくは、テラさんのそういうとこ分かってるんで。」
その本を回収してほしいと願い出てきたのは、著者の遺族だった。一家は解放戦争の頃、赤月帝国から亡命して、グランマイヤーの治めるサウスウィンドゥ市に身を寄せた。都市同盟が長く戦争をしている怨敵の出身だと知られたら、一家に危険が及ぶところであったが、財産があったこともあり、身分を偽り生活することができた。家長が反解放思想を本に著し始めたのは、テオ・マクドールの討死が国境を越えて伝わった頃らしい。彼は赤月帝国が滅んでからは、トラン共和国を解放軍残党による寡頭政治と言って指弾し、脅威論を張り続けた。そうした激しく分かりやすい論調は、支持を集めたし、最終的にサウスウィンドゥ市で公職の地位を得て、穏やかに余生を送れればよかったのだが、ハイランド王国の侵攻を受けるに及び、首こそ晒されなかったものの、グランマイヤーと共に殺されることとなった。
請願を出した遺族の言葉では、著書の回収は“故人の名誉のため”ということだったが、トランとデュナンがこれまでの歴史にないほどの友好関係を深める中──国王の私邸で寛いでいる、隣国の英雄は本の頁をぱらぱら捲っては不意に笑みを零す──残りの家族の生きやすさのためというのが本音だろうと思う。であればこそ、出版差し止め、回収などという面倒なことをやることにしたのだ。
「受け取ってくれるかい。」
「んん…。」
リオウは渋い顔を作った。
「なんかその本、ぼくが個人的に持ってると、意味深になっちゃいません?」
つまり、リオウがその本に込められた排外思想に寄っているように、誰かに思われたら困るのだ。そういう事に気を回せるリオウをテラは心のなかで称賛した。
王たるものの資質とは、こういうことをいう。
「そうかもしれないな。すまない。」
テラは本を引っ込めかけたが、リオウは手を伸ばしてそれを制しようとする。
「あ、でも。くれたのがテラさんだって他の人にも分かれば、違ってくると思いますけど。」
親切に、リオウは、自宅を絶版の本の保管場所に提供してくれる心づもりは譲らない。
そこで、テラは携行品の中から細い毛筆を出して、墨の乾きついた筆先を一度舐め、裏表紙から捲って最後のページの空白に
読則将彼来
──と書いて、きょうの日付と、テラ・マクドール贈、とを加えた。ぱたんと良い音を立てて閉じた本を差し出されたリオウは、目の前で起こった一連のことに目を丸く見開いて固まっていて、テラが「どうぞ。」というと大急ぎで、しかしその本が中空のガラスでできているように恭しく受け取った。
「さ、サイン本!」
「君、読書しないのにそういうことは気にするんだな。」
リオウはテラの筆になる短い辞をしげしげと眺めた。
「よめば、すなわち、かれをもって、きたらしむ……。」
読めば則ち彼をもって来たら将む。
不慣れと迷いを口舌に表しつつも、リオウはそれを読み下してみせた。数年顔を見ない間に色んなことを学んで、学識をつけている。男子、三日会わざれば刮目してみよ、である。テラはいたく感心して目を細める。
「本読めばテラさんが来るって事ですか?」
「違う。」
しかしその瞼は一種の残念さのために落ちた。惜しむらくは、知識は未だリオウの中にまで沁みてはいないようで、思索は依然として素朴であった。
「たしかに、本はあるだけでも良いものだ。」
リオウの元を去る段になって、荷物をすべて背負って今しも発とうとしながら振り返る、嗜めるような眼差しは悪戯っ気に歪んだ。
「でも、よく燃えるから気をつけろよ。」
「だから、不吉なこと言わないでくださいって。」
そして、テラはまた旅に出た。それから、数年会わない。
読書
袁枚
我道古人文
宜読不宜倣
読則将彼来
倣乃以我行
面異斯為人
心異斯為文
横空一赤幟
始足張吾軍
赤幟(せきし)……赤いのぼり、旗。劉邦の将、韓信が前漢王朝のシンボルカラーである赤色の旗を用いたことから、後にお手本、リーダーを指す言葉となる
私が思うに、古人の文章は
読むものであって、その通り倣うものではない
読むことは、彼を自分の中に取り入れるが
倣うのは、自分が彼の方へ行くようなものだ
面の違いが他人を区別し
心の違いが文章を個別にする
空に一すじ赤幟を立て流し
そうして始めて自らの軍を張ることができる