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    師/弟弟 灰より出ずる師/弟弟 灰より出ずる



     そうして座ることに子供にしかわからない面白みがあるらしく、上背の高いシュウを挟んで左右にリオウとテラが席についた。分別くさい顔をしているもののシュウがこの機会を楽しんでいないことはリオウには明白だった。正軍師とお茶がしたいことは、テラのたっての希望であったが、リオウが同席すべきことは、シュウが出した条件で、リオウにはなぜだか分からなかった。お茶くらい二人ですれば良かろうと思った。が、そこには同盟軍での立場からくる微妙な配慮というものがあり、隣国の英雄と正軍師が二人で私的な会話を交わすと、ありもしない策謀のにおいが、誰かの鼻に嗅ぎつけられるらしい。リオウが太平楽としている代わりに、幹部たちがしわを作った眉間を寄せ合って協議しているのは、いつものことのようだが、是非を論じているのがお茶会だけに、リオウはなんだか滑稽に感じた。
     晴れて今日のお茶会となったことは、良かったことだ。
    「面倒をかけたようだ。お詫び申し上げる。」
     円形のテーブルへ身を乗り出して、シュウごしにテラが頭を下げた。
    「いえいえ~。でもどうしたんですか? 改まって。」
     リオウも同じように前に体を傾けて、シュウの陰から通信した。テラは眼差しを一度リオウに置いてから、リオウではなくシュウに向かって応えた。
    「近ごろ家でぼんやりしてばかりいるから、昔のことなんかよく思い出すのです。シュウ殿はかつて、比類ない我が軍師であり師でもある、マッシュに教えを受けたとか。」
     マナーの教科書そのものの仕草で紅茶のカップを持ち上げて一口含んだ。とっくに終わった戦争の、死んでしまった軍師に対して、テラが「わが軍師」と今でも言うのは、どういう感情であろうかとリオウは訝った。
     シュウはふっと鼻から息をついて、し飽きた話を繰り返すように言った。
    「俺はとうの昔に破門された身だ。」
     リオウはちょっと面食らった。シュウはテラに対して自分を俺、というし、敬語も使わないつもりらしい。そのシュウに敬語を使われているリオウはテラにちょっと畏怖している。じゃんけんみたいだなと思った。
     テラはなんとも答えなかったが、少なくとも驚いてはいない。たぶん、分かっていたことを確認したぐらいのことなのだろう。
    「マッシュを解放軍に迎えた時、砦に移る前にセイカの塾を片付ける必要があったのですが、その時に彼は自分で書いたものをほとんどすべて燃やしてしまったのです。僕は少し手伝ったのですが、弟子の名簿というべき帳面に、あなたの名前を見たように記憶しています。」
    「テラさん、めちゃじっくり読んでますよねそれ。片付けの手伝いしてないですよ。」
     テラはリオウの言葉を聞かなかった風に、シュウから外した視線を茶碗の面に注いでいた。
     シルバーバーグ一族のマッシュという人について、リオウはほとんど何も知らない。故人で、シュウとアップルを教えていた先生で、シュウを破門にした、程度の知識しかない。シュウには面白くない話題だろう、とリオウは思った。テラとさしで話したがらなかったのも、昔の先生の話題になると分かっていたからだろうか?
    「……さぞ、不出来と書かれていたことだろうな。」
     シュウは感情を押し隠すかぶり物を一層厚くしたような雰囲気があった。
    「いいえ。」
     紅茶を置いて、テラはシュウに対してまっすぐになるように向きを正した。
    「いいえ。」
     きれいに、まっすぐに否定する。テラは何かを伝えるつもりなのだ、とリオウは予感した。



     昼日中に不意に焚かれた大きな焚き火に、セイカ村の子供たちは面白がって集まろうとしていた。ビクトールや他のものたちに人払いをさせて、子供も近づかせないようにしているが、ときどき彼方から、甲高い喜色の悲鳴が聞こえてくる。追いかけっこが始まったのだろう。
     武装した帝国兵が、マッシュの私塾を襲って子供たちを脅したのは、ほんの数日前だった。子供たちは、マッシュを帝国軍に従わせるために、人質にされたのが昨日の今日だというのに、そんな出来事はなかったように、遊び騒いでいる。
     かたや、恐ろしい暴力と不正が行われるのを目の当たりにして、生き方を捻じ曲げられてしまった別の子供が、マッシュの傍らにいた。庵から運び出した、マッシュのこれまでに手記したもの……日記、出納記録、生徒たちの名簿、教材、大昔に起草して、書きかけのまま捨てることもできずにいた兵法書の草案……などの雑多な山から、どれを着服するか品定めしている。
    「読んでばかりいないで、少しは手伝いらしいことをしてください。」
     少年は、手元に広げた綴じ本に目を落としたまま、しばらく返事もしなかった。
    「すまない。しかし、本当に全て燃やしてしまうのですか? もったいない。」
     彼は、テラ・マクドールと名乗り、その名前は、彼が五大将軍のテオ・マクドールの嫡子であることをマッシュに想到させたが、そのような人物が数奇な経緯で、マッシュの元に、帝国への抵抗運動に身を投じて消息を絶った妹の、死に際の遺言を齎したのだった。
     テラとその随身たちは、オデッサの形見の耳飾りをマッシュに渡すことを妹の遺言だと捉えているが、マッシュの考えでは、受け取ったものは耳飾りではない。
     オデッサが託したのは、解放運動そのものだった。
    「今の兵力では、トラン湖の砦とセイカの両方を防御することは不可能です。」
     帝国に従わなかったことで、マッシュ自身追われる身ともなったが、マッシュ一人がこの難局を逃れるのは、知恵もあれば伝手もあり、造作もない。しかし、マッシュと過去に関わりのあった人々をも、帝国は追求するかもしれない。かつての門弟には、今は家族のある者もいる。彼らを守らねばならない。
    「砦に運んでは? ──ここであなたの足跡を灰にしてしまうのは、後世の人に恨まれそうな気がします。」
     テラは、生徒の名簿を繰りながら言った。彼のこの時の言葉は当たっていて、マッシュ・シルバーバーグは、彼自身の著したものを残さなかったために、研究が難しく、時代を下るほどに、その伝説性が増していくのである。
    「これで良いのです。……もう必要のないものです。」
     マッシュ自身については、己に繋がる類縁の証拠を火に投じたこの日が、軍師としての修羅道の始まりであった。



    「マッシュはそうすることで、自身についての手がかりを消し、帝国が庵を捜索しても得るものが無いように、また、かつての教え子たちが戦さに巻き込まれないように図ったのです。これまでに教えたことのあるすべての大人と子供の名前が、帳面に記されていました。名前の下にそれぞれの消息が付されていて、帝国に仕官したり、遊学に出たり、結婚した、引っ越した、などですが、シュウ殿、あなたの名前の下には何も書かれていなかった。そして名前の下が空白なのは、あなた一人でした。」
     シュウはほんのわずか、時間をかけて、視線を下げただけだった。
    「どこで何を成したとの便りを、ちょうど待っているところの弟子もいるのか、と、その時は思いましたが。」
     シュウの吐息の音が聞こえない。石膏像のようにささめきも見せない外貌は、この対座が始まった時よりも堅く、リオウはシュウの様子が異に感じ、気がかりだった。

    「マッシュ先生! どうかぼくにも、手伝わせてください!」
     屈強な男たちに羽交い締めにされて、上層へ続く階段に投げ込むように叫ばれた声は、果たしてマッシュの元まで届いたものか。
    「だから、軍師さまはウト・リェンなんて男は知らんとよ。あんちゃん、本当の目的は何なんだい。」
     トラン湖畔の岩塞の一階広間には、悪相の男どもがやおらわいて出て、雰囲気も危なげになってきた。正軍師との面会を求めて砦に飛び込んできた、「ウト・リェン」と名乗る人物が、強硬な手段に出た時の備えである。
     自分を取り囲む面々の物々しさに、ウトは彼らに掴まれた腕や肩を振り払って、居住まいを正し、突き合わせた袖の中に手を隠した。
     若い男である。小さな丸レンズの眼鏡を鼻の上にちょんと乗せている。
    「本当の目的なんてない。ぼくはかつて、マッシュ・シルバーバーグさまに教えを受けたものです。ファレナの女王国で国軍参謀の一部局に勤めておりましたが、マッシュ先生が帝国を敵として軍を興したと聞き、微力ながら事業をお助けしたいと志し、一路、やって参りました。」
     こうした自己紹介は、砦に足を踏み入れてすぐ、マッシュに取次ぎを求めてすでに一度したものだった。近くのものが走っていって、マッシュに伝えたはずだが、帰ってきた答えはさっきのとおり。
     マッシュはウトを知らないと言う。
    「是が非でも先生にお目通り願えるまで、ここを動かないつもりです。」
     強弁はするものの、自分を「知らない」と言われたウトの内心は穏やかでなかった。記憶の中の師は、課題は厳しいものの、人を自らの懐へ暖かく招き入れる、心の開けた人物であった。よし、名前を忘れていたとしても、自分を訪ねてきた人物の顔を見ようともせず、砦の高層に引きこもっているこのような冷たさは、覚えた姿とは似つかない。
     解放軍のものたちは困惑顔を見合わせている。マッシュ自身が知らないと言っている以上、通すことはできないから--縛って抱えて、舟に乗せて、対岸まで運んではどうか、と囁語が交わされた。その時。
    「今日の騒ぎはどんなことかな。」
     と、幼いがよく通る声が一堂に問いかけた。せっかちなものはその姿を認めるや猛烈に駆け寄って、早くも注進を入れ始める。ウトの背後から現れた人物は、ウトが振り向いた時にはもう人に囲まれていた。話を聞き聞き、垣のようにぐるりを取り囲む大柄な男たちの中から抜け出てきたのは、年の頃十五、六ばかりの少年であった。赤い戦袍、緑の頭巾に黒い棍、情報を扱う仕事をしているウトは、かれが誰か見当がつき、一条の希望が差すのを予感した。
     自分から足早に近づいて、ウトは礼の仕草をとった。
    「解放軍のリーダー、テラ・マクドール殿とお見受けします。ぼくはウト・リェンという者です。どうか、ぼくの話を聞いてください。」
     ウトはここ一番の弁舌を口の奥に構えた。少年は、手にある棍をそばの金髪の男に渡して、ウトに丁重な礼を返した。
    「テラ・マクドールです。まずは砦のものたちの非礼をお詫びします。ウト・リェン殿、マッシュのかつての教え子と、お名前を存じております。」
    「えっ。」
     驚いたのはウトだけではなく、周りを取り囲んだ山野くさい男たちもどよめいた。
    「だが、リーダー! マッシュ様はそんなやつ知らないって言ってたぜ。」
     テラは金髪の従者から棍を受け取って、ほの愉しげに笑った。
    「顔を見れば思い出すだろう。リェン殿、どうぞ、僕について来てください。」
     つま先の向いた方の群衆を無言の圧力で掻き分けながら、ウトを横開きの扉の前に導いていく。えれべーたなる最新設備は、マッシュのいる地上四階までウトをものの数秒で運んだ。
     その間に、ウトを先導する形で背を向けたテラは、顔を半分だけ振り向いて、ウトの突き合わされた袖に目を落とした。
    「話していると、マッシュもよく手を隠します。」
     前に向き直り、表情は見えなかったが、テラは笑ったようである。
    「師弟ですね。」
     階下では、閉じた扉に向かって、ビクトールがぼやいた。
    「頭のできた軍師さまが、弟子を忘れてるもんかね。会いたくないってことなんじゃねえのか? そりゃ……。」



     シュウは兄弟子にウト・リェンという人物がいたことを思い出し、組んだ腕の中で拳をかすかに握った。解放戦争でマッシュが解放軍側に加わったと聞いた時、シュウは迷った。すでに破門された以上、自らも師のことを顧みはするまい、というそれまでどおりの決意と、戦争で将兵を操る、「軍師」の姿の師を一目見たい、という渇望があった。シュウは結局師のもとに参ずることをしなかった。だがウト・リェンは何のわだかりもなく、「軍師マッシュ」からかつてと同じく、学びを授かろうとしたのだろう。
    「シュウさんは、」
     リオウが尋ねようとしたのも、まさにそのことで、師を訪ねようと思ったことがあるのか、解放戦争の間、どんなことを考えていたのか、気になったのである。これほど自らの才を恃む男が、戦争という機を得たなら、師の元で自らを証明したいと願わなかっただろうか。師が命を落としたと知って、もしも自分が近くにいればこうはならなかったと、悩まなかっただろうか。
     しかし、シュウから返されるゴルゴーンのような視線に、リオウはさっと顔を背けて「なんでもないです」と言葉を引っ込めないわけにはいかなかった。

     テラの帰着の報せは、何よりも早くマッシュに伝えられるので、それほど間をおかずに顔を合わす予測はついていた。しかし、テラが後ろに伴ってくる人物に、マッシュはいったんは虚を突かれ、峻厳さの剥がれた、本来の温和な眉目がつかの間覗いた。それも、先ほど訪問者の面会の願い出を断ったことと考え合わせて、経緯に見当がつくまでのほんの僅かな間のことで、テラとお互いの話し声が届く頃には、マッシュは不愉快げに眉をしかめていた。
    「マッシュ、お弟子さんが訪ねてみえた。」
     テラは横に一歩退いて、恐縮しきっているウト・リェンを挙げた掌で示した。
    「……案内ごくろうさまです。そのようなこと、せずともよかったのですよ。」
     マッシュは、ウト・リェンとは会うつもりがなかったので、余計なことをしてくれた、という怨みを遠回しに伝えた。
    「僕でなければ、別の誰かにとおせんぼされてしまうだろうと思って。」
     しかしテラは、客の案内など、リーダーがすることではなかった、とマッシュが言ったかのように、わざと曲解して流した。テラが言うのは、あながち間違いでもなかった。マッシュは軍にとっての重要性から当然に、部屋までの間に何人も歩哨を立てている。ウトを連れてくるのがこの軍で序列筆頭のテラでなければ、軍師を訪ねる用向きを誰かが質したはずであった。
     そうなるであろうことが分かってそれを防いだということは、テラはマッシュがウトに会うつもりがないのを知っていて、なのに連れて来たということでもある。
    「……あなたは私に秘密を持たないと誓ってくださいました。」
    「ああ。誓った。」
    「リェンはたしかに私の教え子です。しかし、今は、ファレナの女王国において、国外に放つ間諜を統括する身にある。そのような男を、解放軍に引き入れるというのですか。」
     テラは苦笑いした。
    「それだけ覚えていたら確かに名簿は必要なかったな。君の元で学んでいながらにファレナで官位を享けたのなら彼は神童だ。」
     マッシュは生徒であったウトのことを覚えていたばかりか、近頃の消息をも気にかけていたということだ。おそらく、他の弟子たちにもそうなのだろう。
    「あ、私がファレナに渡ったのは先生の教授を終わってからで……。」
    「わかっていますよ。」
     ウトが訂正を入れるのをテラは目を細めて笑いながら遮った。ウトはテラの目にぞくりとした。マッシュと面会が叶って初めてテラの人物を鑑る余裕が出てきたが、洞穴のような輝きのない目は作り物めいていてどこか恐ろしい。
    「マッシュ、遠くファレナから訪ねてくださったのに、会ってもやらないのは人情に欠けるよ。」
     マッシュはウトの処遇について、テラの心意がどちらを向いているのか計りかねた。
    「……あなたは私がウト君と会おうとしなかった理由をご存知のはずです。」
    「師匠が反乱軍についたからといって赤月帝国の役人がファレナまで彼を捕まえに? 行くわけがない。」
    「私の弟子の全員が国外にいるわけではありません。」
    「確かに、君の弟子たちに直接訪ねてこられては、君が彼らとの関係を隠滅した甲斐がないな。同じことが起きたら次はどうするか、後で考えようじゃないか。」
    「……ファレナでの地位も官位も捨ててきました。ぼくはマッシュ先生にお仕えしたい。その許しをいただきたいのです。」
     しかしウトは食い下がる。マッシュは最初から拒んでいるのに、テラがウトの目にまだ希望があるように見せかけているからだ。
    「ご家族は?」
    「妻子は群島諸国のある島に移しました。戦争が終わるまではそこで……。」
    「お子さんがある? 戦争ですから、悪くするとあなたは死ぬのですが。」
    「財産を遺してきました。群島の知古には、もし私が死んだ時は妻を誰かと縁付けてくれるように頼んでいます。」
    「覚悟がおありだ。この砦には、三食と屋根があるというだけの理由でいる者もごろごろしていますよ。」
     マッシュは忍びやかに吐息した。ファレナからの遠路を征して、師と行く道を共にしたいという弟子がかわいくないはずがなく、直に言葉を交わせば、情を動かされずにはいられないだろうと分かっていた。
     しかし、教え子たちに己を律することの重きを訓えるために万言を尽くしてきたマッシュ自身が、その弟子の前で弛んだところを見せるなどとあっては、情けない、では足りない。これまでの人生を自分で否定するのと同じである。
     後世に自らが残すものとしては、この弟子たちだけで十分、とマッシュは決めていた。
     だからこそ、教え諭してきた通りに、感情を殺し、個を排して、理によってのみ語る。
    「テラどの。戯言は、それまでに。ウト君を本当に解放軍に加えるおつもりではありますまい。」
    「考え中だよ。君を補佐する人がいたって困らないんじゃないかな。」
     なお、この頃、テラはセイカ村の塾でアップルとまだ出会っていない。
    「必要ありません。解放軍の擁する武力をいかに運用するか、その方策は私が考え、あなたに示します。」
    「こんなに熱意を持って君を支えようとしてくれているのに?」
    「熱意ではなんの助けにもなりません。」
     テラは、マッシュがウトに対して温情を一切見せないと腹を決めているらしきことを悟って、やや呆れた。
    「まあ、リェンどのは最初から君を訪ねてきたのだから、君が受け入れないなら僕から否とは言わないけども。」
    「……待ってください、僕はっ……。」
     地位や屋敷を捨ててきている。というウトの訴えは、マッシュに肌を刺す寒風のように感ぜられた。だがそれを決して表に出さない。仕えるあるじの目前であれば尚更、軍師として、私情は徹底的に殺す。いつか、今日のマッシュの姿が、ウトに何かを学ばせることを願う。
    「妻子のもとに帰りなさい。ここはあなたのいるべき場所ではない。」
     ウトは最後の希望を託してテラを見るが、返ってくるのは長い溜息を混ぜた丁寧な断りだった。
    「あなたが元の平穏な暮らしに戻るために、なんの手助けもできないのは本当に心苦しいことです。」
     ウトは膝の上で手を握って、両拳の間のなにもない場所を見つめた。
    「……ぼくに、シュウ君ほどの軍才がないからですか。」
     その瞬間のマッシュは、凍りついた、というのとは少し違って、一気に死体のように冷えて、肉が弾力を失って、手足が拘縮したような気配だった。
    「……テラ殿。申し訳ありませんが、ウト君と二人にしていただけますか。」
     是非もない、という仕草でテラは両手を挙げた。
    「もちろん。解放軍とリェン殿の話は終わった。ゆっくり旧縁を暖めてくれ。」
     ウトの両手は、拳を作って膝の上で細かくふるえていた。テラがマッシュの部屋の戸を潜った時、マッシュの手はようやく懐嚢から取り出されて、ウトの肩へと置かれた。



    「へえ〜っ。シュウさんはお弟子さんの間でもできるって有名だったんだね!」
     リオウは誇らしげである。
    「でもテラさん、そこからが大事なのに。シュウさんのことを先生がなんて言ってたのか聞いててくれなきゃ、困っちゃいますよ。」
     テラはおかしそうに笑った。
    「そうだね。今度過去に戻ることがあったら気をつけるよ。」
     リオウは、テラが過去に行ったことがあるのを知らないので、つまらない冗談ではぐらかされたと感じて、つまらんぞ、という顔をした。
    「そんな風に言われてたなんてシュウさんも照れるね。」
    「照れてなどいない。」
    「リェン殿は砦を去るまでずっと悔しそうにしていたから、戦争が終わったらまた訪ねて欲しいと伝えたんだ。それが何であれ、かつて解放軍だったものを。今はトランで外交の仕事をされている。」
    「それはよかったですね!」
    「マッシュが亡くなってしまったこともあってか……。解放軍にいなかったにしては、熱心な仕事ぶりだとレパントが言っていたよ。」
    「そっか。レパントさんのとこにいるのは、元解放軍の人だけじゃないんですね。ひょっとして僕も会ってるのかな?」
    「シュウ殿もいかがですか。」
    「え!?!?!?」
     リオウは心底驚いた。勘違いでなければ、兄弟弟子もそうしているからといって、シュウがテラに引き抜かれそうになっている。リオウはテーブルに腕をついて立ち上がり、シュウ越しにテラに猛然抗議した。
    「そんなのダメです! シュウさんはうちの軍師だし、マッシュ先生とは破門されたからもう関係ないですから!」
     それからシュウの肩を両方掴んで自分の方に向かせた。
    「シュウさん、ダメだからね。シュウさんがいなかったら僕ら一戦も勝てないからね。そりゃあ、トランの方が今は平和だし、シュウさんはのんびり商売やってる方が好きかもしれないけど、今のシュウさんは僕の軍師だからね。シュウさんが抜けるなら僕も抜けるからね! やってられるか! こんなとこまで引っ張っておいて、自分だけ降りますなんてナシだからね!!」
     段々語気が強くなり、最後にはシュウの肩をがくがくと揺さぶっていた。シュウがされるがままで何も言わないのは、口を開けば舌を噛みそうだからだ。
    「テラさんも、シュウさんを誘惑しないで!」
    「君も、リーダーがいやになったらトランにおいでよ。」
    「えっ! ありがとうございます……って違あう!」
    「なにも、今や少々未来のことではなくてだね。デュナンでやりたいことがなくなったら、行き先の候補に思い出して欲しいのさ。」
    「……胸に留めておきましょう。」
     と言った、シュウの声がいかにも社交辞令っぽかったので、リオウはひとまず安心した。
    「今となってはあなた方弟子たちに継がれた『教え』のほかに、マッシュの形見と言えるものは残っていないのです。そればかりか、マッシュは生前にもしも戦争で命を落とすことがあれば、亡骸は水葬にして欲しいと望んでいました。妹御のオデッサと同じように……何も残さず。公にも、マッシュの亡骸はトラン湖に葬られた、と伝えられたと思います。」
     それが、シュウが師の訃報に接してトランを訪れなかった理由だった。師の亡骸を飲み込んだ湖面を眺めたとて、胸中の寂寥は癒えないと分かっていたからだ。
    「しかし、僕はマッシュの生の記録を焼いた張本人でもあるので、それは忍び難く思われました。ですので側近たちには、マッシュが死んだら火葬にすべきことを、本人に知られないように命じていました。」
    「……あなたは、マッシュ先生に秘密を持たない誓いを立てたのではなかったか。」
    「ご指摘の通り、誓いを破り、これだけは秘密にしました。……遺灰は、半分は本人の望み通り、オデッサの元へ。半分はクロン寺という寺に密かに納め、マッシュの弟子であった人たちを訪ねて、僕はそのことを伝えています。」
     それが、テラの本当の目的だったのだと、リオウは理解した。弟子たちの名簿が、テラの頭の中にあるから、彼にしかできないのだ。
    「じゃあ……お弟子さんたちはお墓参りができるんですね。」
     リオウはキャロの家の裏にある、ゲンカクの墓の姿を思い出した。
     自分の記録を全て燃やしてしまい、亡骸さえも魚の餌にして消えてしまおうとした人。その人を慕っていたら、遣る瀬無い気持ちになるしかなかっただろう。シュウもそうだったのかもしれない。リオウは安らかな気持ちになった。シュウの横顔も、どこか穏やかだ。「--今日は特別に許しを得て、」
     テラは両手をテーブルの下に引っ込めた。

    「マッシュを連れて来ました。」

     ことり、とそれは置かれた。
     足つきの、円筒形の磁器の容れ物だった。側面に装飾は一切ないが、底部と蓋の上部に樹を模した彫金が継がれており、樹は智慧の象徴であろう。
     マッシュを連れて来た、とは。話の脈絡から、この容器にマッシュ・シルバーバーグの遺灰が納められているということが、察せられた。
    「……シュウさん?」
     リオウはシュウが息を飲んで固まったのが聞こえて、それきりになったので、不審に思って隣を見上げた。シュウは、顔がひきつる途中の様子で止まってしまっていた。
    「シュウさん!」
     リオウはシュウの肩を両手で掴んで揺さぶった。長身の体躯がぐらぐらと揺れて、目の焦点は定まらなくなった。慌てながらリオウは、いつもある頭の片隅の冷えたところで、自分の軍師は本当に虚を突かれるとこうなるのか、と思った。
     リオウがシュウの頰をびたびた張ったり熱を測ったりしている間、テラは冷めた茶を飲んで待っていた。やがて、シュウは衝撃から戻ってきた。
    「今まで……床に……?」
     マッシュの遺灰のことである。
    「いえ、僕の膝に。」
    「俺にどうしろと……?」
    「さて、赤月帝国の流儀なら、一晩起きて同じ部屋で過ごします。ですので一晩お預けしましょう。ですがそれ以上はだめです。長く持ち出されると、マッシュが耳かきひと匙ぶんばかり減って戻ってくると、フッケン和尚に釘を刺されております。」
     テラは、残った茶を飲み干すと、懇ろに、だが一方的に礼を言い、シュウの意思を全く聞かないうちに席を辞した。宿はクスクスに取ったらしい。テラが夕飯までに家に戻る、という決め事は、いつのまにか、同盟軍の本拠地で夜を明かさない、というふうに変質していた。

     その晩、シュウがマッシュの遺灰と共にどんな夜を過ごしたのか、リオウは知らない。次の日には、いつもの凪いだ顔のシュウが普段通りに執務を始めていて、リオウがやきもきし飽かして遺灰をどうしたのかとようやく尋ねたら、引き取りに来たテラに渡した後で、当然、テラも帰っていた。
    「……あのときテラさんが、シュウのお師匠様のご遺灰なんて持ってこなければ、シュウは程々のところで満足して引退して、のんびり老後を過ごしてくれたんじゃないかって、……ちょっとだけ、恨んでますよ。」
     昔日に、同じように一つのテーブルを囲んで、シュウとテラと会談を持った日のことを思い返し、涙声のリオウはくしゃくしゃと卓の上に崩れた。
     デュナン国の初代宰相として、死の三日前まで辣腕をふるい続けたシュウの国葬から百日が過ぎていた。時間の流れの遅くなった身には、自らの片翼と呼んで差し支えないほどの近臣が死んだことを理解するのも、受け入れるのも、遅々としていて、いまだに悪い夢にすぎないように戸惑われた。年を経て髪はきれいに総白髪となり、眉間から始まった顔の皺が壮年のシュウに厳しさを、老年に厳かさを加えていったのをすべて見てきたのに、思い出す姿が若々しいままなのは、リオウ自身の姿が少年のままだからなのだろうか?
    「けっきょく、火葬にしちゃったし……先生と、会えてると、いいなあ。」
     リオウの言葉尻は涙で滲んでいた。
    「彼岸でシュウ殿の顔は誇りで輝かんばかりだろう。偉大な人だった。」
     リオウのかなり直截な当てこすりに、テラはまるで気づいていないようだった。もちろん、テラは、国家の重鎮となってからのシュウが、自らに課す役割や責任について、「しなければならない、必要だからする」から、だんだんと、「できる限りのことをする」に移り変わっていった変化など、見ていない。
     しかしリオウには、シュウが、あのマッシュの教え子の名簿の、名前の後ろの空白――弟子たちがどこで何者になったかが記される場所に、書かれることを増やそうとしているのではないかと、思われるときがないではなかった。
     戦争の終わりを見られずに世を去った師匠なんか、シュウはとっくに越えている、と何度言いそうになったか。
     しかし、言えなかった。
     リオウは黙って、テーブルの上に黒漆の小さな匣を置いた。シュウの遺品であり、リオウにもほとんど出入りさせなかった私邸の寝室に、高棚を造り付けて飾られていたものであった。テラは一見して、それが何であるか分かったらしく、かすかに苦笑いして、丁重な仕草でその箱を自分の前に寄せると、静かに開いた。

     中には、耳かきひと匙ぶんばかりの、白い灰が休んでいた。
    goban_a Link Message Mute
    2021/09/05 13:55:41

    師/弟弟 灰より出ずる

    軍主軍師と軍師軍師
    【※ご注意】シュウさんの「人生の終わりまで」書きますので、死をネタにはしていませんが死ネタです。
    【※ご注意】オリキャラ1名
    ぼ…テラ・マクドール
    にす…リオウ

    今のところの自分の解釈であり、人から受けた影響もあり、過去や未来の書き物と矛盾するかも知れませんが、今のところのものとして。

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