喪失 俯いて歩いていると、目の前の地面に小石が飛んできて、シャムロックは顔をあげた。
辺りの家々はしんと静まり、窓から漏れる光も途絶えている。月だけが頼りの夜の道だ。
ふたたび小石が飛んできて、地面に跳ねた。
シャムロックは片足をひいて剣の柄に手をかけ、周囲に目をこらした。敵か、とは思わなかったが、正式に位をたまわって1年の、騎士としての習性だった。
「誰です」
「俺だよ」
誰何の声に、答えがかえってきた。
シャムロックはすぐに正体に思い至り、慌てて柄から手をはなした。かすれた声で問いかける。
「フォルテさま?」
闇のなかから身をかがめて出てきた彼は、飄々とした笑みを口元に浮かべていた。大股で、歩み寄ってくる。
目の前に立った彼は、最後に会ったときより身長が伸びていた。すっかりたくましく、精悍になっている。こう暗くては分からないが、きっと肌も健康な色に焼けているのだろう。
「よう、シャムロック」
声を聞くだけで、たちまちシャムロックは胸に波が押し寄せるのを感じた。苦労して、口をひらく。
「フォルテさま……どうして」
「ダチに会いにきちゃ悪いのかよ」
フォルテは肩に抱えていた汚い荷物を下ろし、中からごつごつした妙なものを取りだした。
「これ、土産」と言って差しだされたそれは、どうやら木彫りの置物らしい。
シャムロックは土産を受け取ることもせず、すがるように距離をつめた。
「いったい今まで、どこにいらっしゃったんですか」
「うーん、そうだな。北とか、南とか。とにかく色々行ったよ」
手に持った置物を弄びながら、フォルテは笑った。
「まあ、詳しい話はあとでだ。聞かせたい土産話が、たんとたまってんだ。今晩、お前んち泊めてくれねえか。いきなり訪ねたら悪いかと思って、待ち伏せてたんだよ」
「何も、ご存じないんですか」
泣きだしそうな、苦しげなシャムロックの様子に、ようやく何かを感じとったらしい。
フォルテは浮かれた笑みを消すと、土産を荷袋に戻し、シャムロックの顔をのぞきこんだ。
「どうした。何か、あったのかよ」
シャムロックは口を結んだまま中々ひらかず、二度目におい、と促されて、ようやく呟いた。
「先月、ゼラムで国葬が執り行われました」
フォルテは、すぐにはその言葉の意味が分からなかったようだった。
「国葬? 誰の」
彼の頭のなかには、名前も覚えていない老将軍や遠戚の顔が次々と浮かんでいるのだろう。
だが唇をかんで俯くシャムロックの様子を見つめるうちに、彼の思考はあるひとりに及んだようだ。ふいに目を見開いたかと思うと、シャムロックの腕を痛いほどつかんできた。彼の背負う空気が、一瞬で燃えあがったようだった。
「まさか、ディミニエ」
「違います」
言葉を遮って叫んだ声は、辺りに響いた。
「貴方のです、フォルテさま」
「え?」
「フォルディエンド・エル・アフィニティスさま。貴方は先月、長く患っていた奇病にてご他界―――ご他界なされました」
言葉を絞りだすとともにふたたび俯き、唇をかむシャムロックの前で、フォルテは悪い冗談を聞いたかのように眉をしかめて、わずかに首をかしげていた。
「なんだよそれ」
しばらくの間、沈黙がつづいた。
シャムロックの視界に映るフォルテのつま先が、じゃり、と音をたてた。
「なんだよ、それ。ざけんな……!」
「フォルテさま」
シャムロックは、身を翻して走りだそうとするフォルテの服をつかんだ。
「はなせ、シャムロック」
「どこに行かれるおつもりですか」
「決まってるだろ。あのクソ親父のところだよ」
「行ってどうするおつもりですか」
「……」
フォルテはしばし逡巡していたが、やがて溜息をついて、
「人を、勝手に死人にしやがって……」
手のひらで顔を撫ぜ、その手で固く拳をつくった。
シャムロックはなだめるように、フォルテの背中に手をのせた。伏せている彼の頭に、自分の頭をくっつけるように近づけて、静かに語りかける。
「落ち着いてください。よく、考えましょう。これからどうしたらいいのか。考えもなしに、死んだはずの貴方が今出て行ったりしたら」
「どうなるんだよ」
「……分かりません。ですから、それを考えましょう。とても大きなことだから、私もすぐには答えが探せないんです」
シャムロックは繰り返し背を撫でながら、目の前の大切な青年が深い深い井戸のなかに落ちていくような錯覚を味わっていた。
先月、知らせを聞いたときに感じた激しい衝撃とはまた違う、悲しみと喪失感に満ちていく。
シャムロックは子供のときより、自分を友と呼んでくれるこの尊い人がいつか玉座にのぼった時のことを夢見ていた。
想像の中の彼は、民から愛される賢王だ。この国はきっと、彼のもとで幸せになる。
騎士となった自分は、王冠を戴く彼にひざまずくだろう。そして誇らしげに顔をあげ、呼びかけるのだ。「我が王よ」、と。
幸福な夢は、いつか現実となるべきものだった。だのにその夢は唐突に、有無を言わさず摘みとられてしまった。
シャムロックは目に見えない理不尽な力、そのむごさに嘆いた。
「城には帰れねえんだな」
表情を消してうつむく彼が、ぽつりと呟く。
「まだ分かりません。諦めてはだめです」
「あいつにも、会えないんだな。二度と」
「……」
シャムロックは黙った。
今も灰色の城の奥でひとり佇んでいるのだろう、美しく儚い少女の姿を、シャムロックもまたはっきりと思い浮かべていた。
フォルテの顔が苦しげに歪む。
「これも俺が選んだ道……か」
「選びなおすことはできます。まだ、可能性はあります」
「シャムロック」
フォルテは、必死に言い募るシャムロックの腕を優しくたたいた。
「いいんだ」
あげた顔は、既に穏やかなものになっていた。諦めと疲れの色を浮かべて、彼は小さく頷いた。
夜の暗さのなかで、緑がかった金の瞳が小さく微笑んでいる。シャムロックは、続く言葉をなくした。
体は冷え切っていた。ふたりを包む空気は、緑の匂いを溶かしながら、さえざえと澄みわたっている。
夜の底、ふたりの間にさしこむ月の光は銀色だ。
シャムロックはその光のなかで、彼がにこりと微笑むのを見た。
腕のなかの体が出ていこうとするのを感じて、咄嗟に強く力をこめる。
「私は、貴方の味方です。何があっても、貴方を信じています」
何も考えず口走ってから、自分の言葉にハッとしたように、シャムロックは瞑目した。手のなかの衣服を握りしめる。
「たとえ貴方を王と呼ぶことができなくても、私は……」
「シャムロック……」
シャムロックは暗い道の向こうを振り返った。何も映らない闇をじっと見つめてから、フォルテに向き直る。顔をのぞきこんで視線をあわせると、確かな口調で言った。
「フォルテさま。トライドラを出ましょう」
「シャムロック?」
「今はゼラムやトライドラで兵の目に触れるのは良くない。この先どのような道を選ぶにしても、ひとまず姿を隠した方がいいでしょう」
「お前、」
「旅をなさりたいなら、そのように。どこかに落ち着きたいというなら、そのようにしましょう。すべては、貴方のなさりたいように。私は貴方の選ぶ道についていきますから」
それまでしっかりとしていた声をふいに揺らして、シャムロックは言った。
「お側においてください」
答えは、返ってこなかった。
ただ、腕のなかの体が、小さく震えているのを感じた。
「お前……」
「はい」
「お前さあ」
「はい」
額に手をあてて顔を隠していたフォルテは、シャムロックが見守るなか息を整えていたが、ふいに顔をあげると、からりとした声で言った。
「ばっか、お前勘違いしてるよ」
「え?」
視線の先のフォルテは、平素の飄々とした笑みを浮かべている。
「ちょっと驚いただけさ。俺はせいせいしてるんだぜ? これで心置きなく、世界中旅して回れるからな」
「フォルテさま」
「ちょうど行きたいとこあったんだよ。北の方の街でな、今度新しい領主がついたんだが、そいつを祝ってでかい催しがひらかれるんだとよ。人生の転機をむかえた記念に行くにゃ、ぴったりだよな」
「フォルテさま!」
耐えきれず叫んだ。
「なんだよ」
「私は……私は、」
「お前なんて連れてかねえよ」
「フォルテさま……」
フォルテは体をひいて、シャムロックの腕のなかから離れた。彼の衣服にひっかかった人さし指も、はずれて落ちた。
「今まで通り、気楽なひとり旅よ。風と孤独を道連れに、ってな」
フォルテは、そのまま後ずさった。彼の背中から吹いてくる風が、ぼろぼろになったマントを揺らした。
「じゃあなシャムロック。もしあいつに会うことがあったら―――」
思いなおして、照れたように笑う。
「―――いいや。何も言わなくて」
フォルテはそう言って、背を向けた。
思わず、シャムロックも足を踏みだそうとする。
「ついてくんなよ!」
背中から、厳しい声が飛んだ。シャムロックは体を竦めて立ちどまる。
フォルテは駆けだした。砂利を蹴る足音とともに、その姿は闇のなかに溶け込んでいく。
「いいか! ぜったいだぞ!」
遥か遠くから、ふたたび声が響いた。
シャムロックは足音が完全に聞こえなくなっても、動くことができなかった。ただひたすら、彼が消えてしまった暗闇に、目をこらし続けた。