棘ささる日 白い陶器の碗を手に取った。
顔の高さにもちあげ、目をすがめて検分する。中央のくぼんだ部分をのぞきこむと、すべらかな表面に自らの顔が歪んで映った。
間を横切った小さな塵を、ふ、と息を吹いて飛ばす。白い表は一瞬曇り、すぐに晴れて艶やかな鏡に戻った。
器を持つ手を替え、眺めまわす。ふちに指を滑らせてみた。するりと円をたどる途中、1箇所だけ、わずかなざらつきを感じた場所があった。ルヴァイドは片眉をあげる。
「……」
右手の人差し指と親指を擦りあわせながら、じっと器を見下ろす。左手で器を裏返し、また表にもどす。
ルヴァイドは顔をあげ、店の奥に声をかけた。
「主人。これをもらう」
本を読んでいた老店主がちらりと目をあげ、ルヴァイドの姿を認めると、白い髭のはえた顔を軽く縦に動かした。ルヴァイドはこの店の常連だった。
立ち並ぶ商店のなか、若い店舗と店舗に挟まれて小さくなっている、古びた骨董品屋。そこにルヴァイドは休日のたびに通っていた。自由騎士団随一の猛将と恐れられている男の、知られざる一面である。
店を出たあと、軽い昼食をとって街を後にした。愛馬をゆっくりと走らせる。
なだらかな土の道には時折木影がおちかかり、交差する枝の影の合間から涼しげな木漏れ日が揺れていた。
光のかけらを頬に感じながら、ルヴァイドは鞍のうえで背筋をのばし、息を深く吸った。
ふと顔を上げると、空では枝の刺さった真円の太陽が輝いていた。
砦についたのは、夕焼けの光が西の空に消えかかる頃だった。
門をくぐり、駆け寄ってきた兵に馬を預けると、ルヴァイドは包みを脇にかかえて自室へと戻った。
部屋の奥の、ひとつの木の棚のまえに立ち、紙の包みから陶器を取りだす。
ふたたび目の前に掲げ、光に反射する表面をよく点検すると、ルヴァイドは棚の空いているところにその陶器をそっと置いた。
並びの具合を確かめると、数歩さがったところに置いてある椅子に腰をかけた。肘掛けに頬杖をつき、あらためて木枠にはまった物たちを眺める。
棚には様々な小物が置いてあった。置物、箱、本、時計―――。
そしてよく見るとどれも、ほんの少しずつ完璧ではなかった。
端が欠けていたり、歪んでいたり、小さく破れていたり、ひびが入っていたり。
物の数々をおさめるこの棚さえも、まっすぐではなく、わずかに傾斜がついていた。小さなガラス玉を置けばコロコロと転がるだろう。
これがルヴァイドの密かな自慢。満点に、1点足りない物ばかりのコレクション。
味がある。
とルヴァイド自身は信じている。
縁が少し欠けた白い陶器も加わって、いよいよこの棚も賑わってきたと思う。
ルヴァイドはしばしの間、頬杖をつきながら、次はどんな物を加えようかと考えをめぐらせた。こうやって過ごす時間が、ルヴァイドはこの上なく好きだった。
*
人にはそれぞれ安らぐ場所というものがあるようで、騎士団長にとってのそれは階段塔の天辺であるようだった。
手すりのついた大きな窓があり、辺りを展望できるようになっているそこに、案の定シャムロックはいた。
「おや、ルヴァイド。お帰りなさい。休暇は楽しめましたか」
近づいて声をかける前に、彼はルヴァイドに気づいて振り向いた。彼はいつでも、今日が特別な日であるかのように微笑む。
「ああ。まあな」
「それはよかった。それで、今日はどちらに?」
隣の街の骨董品屋だなどと、本当のことを言うつもりはなかった。
「馬をはしらせた。最近は書類仕事が続いて退屈だったからな。馬も俺も」
シャムロックは歯を見せて笑い、夜の空へと視線をうつした。彼の横顔は、月の光に縁どられている。
「人も物も仕事も増えましたからね。そのぶん、書類も増えるというものですよ」
―――騎士団が順調に成長している。
全身全霊の力こめて少しずつまわしていた重い歯車が、何かのきっかけでくるりと回るようになり、それからはあれだけ苦労していた人材と信頼が、自動的に集まってくるようになった。
一言でいうと、軌道にのってきたのだ。騎士団長がにこにこしている気持ちもわかる。
といっても、なんの問題もない訳ではない。
よく回っているように見える歯車も、時に石が挟まって動きが悪くなることもあった。
だが今のところ、取り除けないほどのものはない。少なくない労力を費やしはするが、最後には努力と根性と団結力で乗り越えられた。結果的には、よい方向にすすんでいる。
―――むしろ、こういう発展途上の集団は、何事も起こらずただ大きくなっていくより、多少の障害を抱えていた方が刺激になっていいのかもしれない、とルヴァイドは思っている。
そういう意味も含めて、騎士団の成長はまさに「順調」であった。
「たくさんの優秀な人材が、騎士団に加わってくれました。剣が強い者はもちろん、交渉の上手な者、緻密な策をたてることに秀でた者、人格が優れている者。尊敬できる人生の先達たち、将来が楽しみな少年たち―――」
ルヴァイドは手すりに背を預け、腕を組んで男の声に耳をかたむけていた。
いつのまにか始まっていた仲間自慢。シャムロックは、他人の長所をたたえるのが大好きなのだ。
そういえば、この男が偉人伝の類を好んで読んでいることを思いだして、あまりのらしさにルヴァイドは忍び笑いをした。
お前とて、将来その愛読の伝記に名を連ねるかもしれないのだぞ。そう告げてやれば、彼はきっと面白いほどに驚いてみせてくれることだろう。
「みな、性格も剣の技も、それまで歩んでいた人生も違うけれど、ひとつの志を共通の紋章にして、この旗のもとに集まってくれた。
ルヴァイド、いま私は、騎士団を立ち上げて本当によかったと思っているよ。自由騎士の旗をかかげて、本当によかった……」
階段塔の天辺は、夕方になると涼しくなって、とても気持ちの良い風が吹く。
ルヴァイドは手すりに寄りかかってうつむき、流れてくる声を聞きながら、いま自分は人生のなかで、もっとも幸せな時間を過ごしているのかもしれないと、何となく思った。
それからまたしばらく、ルヴァイドは兵の調練や退屈な書類仕事に精をだす日々をおくった。
騎士団長はあいかわらず例の人の良い笑みを周りにふりまき、完璧な騎士像というものを団員たちに示していた。
*
ふたたび休日がまわってきた。
休みはいつも1日半とる。1日半で行って帰ってこれる場所に、骨董品の街はあった。
ルヴァイドはその朝はやく砦を経ち、夕方、骨董品屋の店先に立っていた。
この店はいつ来ても客がいなかったが、毎度朝はやくから月が夜空に高くのぼる頃までひらいていて、これまで店が閉じられていてがっかりしたことなどは一度もなかった。
街は平穏無事な1日を過ごしたらしく、おだやかな夕べをむかえていた。どこからか主婦たちの笑い声が聞こえてくる。
ルヴァイドは大きな木彫りの魚の飾り物を両手で持ち上げ、検分しているところだった。店の外に置かれた「投げ売りワゴン」の底で泳いでいたヌシ。こういう所にこそ真の掘り出し物がある、こともあるのだとルヴァイドは信じる。
店の扉はひらいており、奥の椅子では、いつものように老店主が店番をしていた。
ルヴァイドは夕焼けの光が差しこむなか、真剣な顔で、魚の丸い目をのぞきこんでいる。
子供の笑い声が、通りの向こうから聞こえてきた。
すぐにバタバタとした足音とともに、毬のように跳ねる少年少女たちが現れ、向かいのパン屋の前に集まった。子供たちは皆、手に手に空のバスケットを持っている。
「おじちゃん、お使い終わったよう」
「ご褒美ちょうだい」
大きな声をだす子供たちの前で扉がひらき、髭のパン屋が現れた。
「おお、ごくろうさん。きちんとお客さんのところにパンを配達してくれたかい?」
もちろんさ、と答える少年の頭を撫で、パン屋は、
「よし、ご褒美だ」
片手にもった大きな籠の中から焼き菓子を子供らに渡しはじめた。甲高い歓声がひろがる。
(うまいことを考えるな……)
魚片手に振り向きながら、ルヴァイドは感心していた。
あの店は、クッキー数枚をあげる代わりに、パンの配達を街の子供らに頼んでいるらしい。
騎士団でも応用ができないだろうかと考えてみる。ファナンの子供らに、お菓子をあげるから良い仕事をとってきてくれと頼む……やめておいた方がいいな。
賑やかな子供らの輪の中心で、みんなに配るからちゃんと並ぶんだ、と店主が声を張りあげている。
その光景を眺めていると、すぐ側から、なあ、と低い声がした。
振り向いたが人影はない。
もう一度なあ、と声がしたので視線をさげると、そこには猫の丸い目がルヴァイドを見上げていた。猫は尻尾と耳を、ピンと立てている。
「なあ」
おかしな声で鳴く猫だ。
真っ黒の毛並み。しかし、左前足の先だけが白い。
ルヴァイドは思わず口元をゆるめた。声だけではなく、姿もおかしい。なかなか、「味がある」。
猫はルヴァイドの顔を、身動きせずに凝視している。
ルヴァイドは真顔にもどって、この猫が自分の何を見ているのかを考えた。
まさか、これが原因か? ルヴァイドは手に持った木彫りの魚をじっと見つめると、尾の部分をつかんで猫に少し近づけてみた。猫はきょとんとしている。違ったらしい。
首をふり、魚を引っ込める。そのときルヴァイドの目がふと、魚の尾びれの部分から何かが飛びだしているのをとらえた。
トゲだ。
尾の端のほう、何かにぶつけたのか少しだけ欠けていて、傷口がトゲトゲと毛羽立っている。この魚が「投げ売りワゴン」送りになった理由だろう。
ただでさえ、この店にはこのような傷物アンティークが多い。その分値段も安い。傷がつけば普通は価値が下がるのだ。
だがそういう価値の下がったものを好み、傷を発見して微笑む自分は、世間的にはちょっとおかしいのだろう。一応、自覚している。
だが、どうしても好きでたまらないのだ。
完璧の1歩手前でつまづいている、無様さというものが。
心に刺さって仕方がない。胸をついて仕方がないのだ。
一面を埋め尽くす黒鎧の群れに落ちる、白の切片の美しいこと。
指揮官の号令で直線に並ぼうとする子供らの列、そのわずかに乱れて飛びだす足の、なんと愛らしいことよ。
(まあ、あそこまで豪快に乱れられると、拳骨を一発くれてやりたくなるかもしれんが)
向かいのパン屋では、髭の店主が高く持ちあげた籠から、子供らが飛び跳ねながらクッキーを毟り取り、大騒ぎになっている。
なあ、と鳴いて見上げてくる猫と、ルヴァイドは顔を見合わせた。
*
翌日、砦に帰ったルヴァイドは、木彫りの魚をどうやって棚に飾ろうか迷っていた。
(尾に紐をくくりつけて、棚の横に吊り下げるか……)
尾を撫でながら考えていると、
「―――っ」
小さな痛みが指にはしった。
目の高さに右手の人さし指をもちあげ、窓の光に透かした。すると、先のほうにトゲが刺さっているのが見えた。魚の「傷口」をさわってしまったらしい。
(こんなトゲごときに、俺の手の皮が負けるとは)
軽く敗北感を感じながら、ルヴァイドはもう片方の手でトゲをつまんだ。
とれない。
*
夜。半日の仕事を終え、ルヴァイドは団長室のソファの定位置でくつろいでいた。紅茶を片手に、シャムロックの「他人自慢話」に相槌をうちながら、ゆったりとした時間をすごす。
「それから彼は―――あれ、ルヴァイド」
話の途中でシャムロックが何かに気づいたような声をだした。ルヴァイドは居住まいをただす。話をほとんど聞き流していたのがバレたのだろうか。
「なんだ」
「怪我をしましたか」
意外なことを言われて驚く。
「怪我?」
「右手の人差し指。先ほどから、気にしていたでしょう」
言われてはじめて、自分が親指と人差し指を擦りあわせていたことに気づいた。視線から隠すように手を下ろす。
「なんでもない。刺がささっただけだ」
おや、とシャムロックが眉をあげた。
「抜いた方がいいですよ」
「たかが刺だぞ」
「たかが刺でも、です」
シャムロックは真面目な顔で言った。大げさな男だ、とルヴァイドは肩をすくめる。
「後で抜くさ。抜けたらな」
「私が抜いてあげましょうか」
「お前が?」
「こういうのは得意なんです」
言って、シャムロックは手をさしだした。思わず訝しみの視線をかえしてしまう。ほらほら、と手のひらが動いて促された。
ルヴァイドは渋々、指を預けた。お互い、トゲがどうのというより仕事が終わって暇だったのかもしれない。
(―――どこが得意なんだろうか)
ルヴァイドは壁にかかっている時計を見やり、それから目の前で難しい顔をしている団長に視線をうつした。
「シャムロック」
「待ってください、もう少し。―――ちょっと見づらいな」
寄った目の真ん中に、指がかかげられる。勢いつけて眉間を突けそうだ。
「ほとんど中に入りこんでしまってるんですよね。ちょっと皮膚を切っていいですか」
トゲとはそこまでして抜かねばならぬものなのか。
「駄目だ。というより、もういい」
「何て短気な人なんだ」
「このようなトゲ、放っておいて何の支障がある」
長い間あれこれいじられているせいで、手が汗ばんできた。シャムロックは相変わらず手を離そうとせず、人さし指と親指でトゲをつまもうとしては失敗している。
「分かりませんよ。心臓に届くかもしれませんし」
「……」
ルヴァイドは無言で、シャムロックの手のなかから自らの指を奪還した。シャムロックは、はっしと腕にすがりつく。
「もう一度チャンスをください!」
茶色の頭が動いている。
その下に垣間見えるのは、人の指をもち、角度をかえたり裏返したりして、一本のトゲを抜くべく格闘している男の、真剣なまなざし。ああでもない、こうでもないと呟いている。
ルヴァイドは、肘掛けに頬杖をついて、それを眺めていた。
ふっ、と口元に、思わず笑みが浮かぶ。
それに気づいたのか、シャムロックが情けない顔をして見上げてきた。いい加減、トゲ抜き名人の自信もしおれてきたのかもしれない。
ルヴァイドは、そんな男を観察しながらしみじみと思った。
(間抜けな顔をしている)
惜しいなと思う。いつものように背筋を伸ばして微笑んでいれば、あるいは騎士道を熱く語っていれば、童話に出てくる夢の騎士そのものなのに。こういう間抜けさが、彼を生身の人間にする。
完璧であれそうなのに、そうはなりきれない。艶やかな白い表に刻まれている、失笑をさそう小さな傷。
だが、彼が真円の太陽でなくて良かったと、ルヴァイドは思うのだ。
笑み浮かぶ口元に手のひらをあて、ルヴァイドは目をつむる。
トゲが抜けたと彼が大喜びしている頃には、自分は眠っているかもしれない。そうなればきっと彼は面白いほど落ちこんでくれるのだろう。
ルヴァイドはそんな男の姿を思い浮かべながら、ぼんやりと考えた。
(届くかもしれんな)
指先から心臓まで。
この胸のうちにある愛しいものたちの陳列棚、その緩やかな傾斜が、小さなトゲを運ぶのだろう。