パステルエナメル ―――どこで見たのだったろう。
寝ころがってから何度目かの浅い眠りから覚め、ぼんやりした頭のまま、ヤードは考えていた。
目の先にあるのは汚れた壁。前髪がつくほどに近い。長い時間の垢がついてくすんでいる壁はただ一箇所、先程自分が手でぬぐった跡だけが浮き上がって白かった。
白―――いや、むしろごく薄い灰色。黄味がかって、ぬくもりを感じさせる色合いだ。
自分がいま肌に感じている空気は、こんなにも冷たいというのに。
ヤードは小さく身を震わせて、自分の肩をだきよせた。背を丸め、布に巻かれた長い棒のようなものを胸に抱えなおす。たったそれだけの動作でも、疲れきった体は痛んだ。
町の賑わいから取り残されたかのような、細い路地。
建物と建物の隙間にたまった澱のような暗がりの奥に、ヤードはひとり横たわっていた。
道端に落ちていた木の板を枕にして小さく丸まっている姿は、どこからどう見ても旅に疲れた行き倒れである。
事実、彼はその通りの人間だった。長い逃亡の旅の果てに力尽き、この路地裏で崩れ落ちたのだった。
彼の元へは、通りから伸びる光の帯も賑やかな喧騒も届かない。
誰もヤードに気づくことはなかったし、たとえ気づいたとしても、関わるのを厭って足をとめることはなかっただろう。―――彼を追う、一部の者をのぞいては。
ヤードは重たげに視線をずらした。
遠い光のなかに、ちらちらと人の足が見える。明るい表の通りを歩く人々の足だ。
こじんまりとしてはいても港町、繁華街ともなれば自然と人が集まるのだろう。
きっと派閥の追っ手も、やってくるに違いない。派閥をぬけた自分と、自分が持ち出した宝剣を探して。
ヤードは包みをかかえる腕に、少しだけ力をこめた。
(私が姿を消して、きっとあの人は怒ったでしょうね)
頭に浮かぶのは、かつて師とあおいだ男の姿だ。冷たい目をして、無言でヤードを見下ろしている。
(すくなくとも、忌々しげに顔をしかめるぐらいはした筈。派閥にとって価値のある道具まで持ちだして……これであの人の、記憶に残る。一矢を報いることが……できた筈です)
それがあまりにささやかな復讐劇だったとしても。
たとえ、こんなところで幕を下ろしたとしても。
顔をしかめる。
裏路地のすえた匂いがみじめな気持ちをますます煽る。想像のなかの師があざけるような笑みを浮かべ、ヤードは力の入らない奥歯をかんだ。
(やめよう)
目をきつくつむって、幻をかき消す。
(最期ぐらい、あたたかな夢を見よう)
呪ってあの男が苦しむのならば、いくらでも呪いもしよう。
だが、そんなことに何の効果もないのだということは分かりきっている。
死に際の恨みというものが誰かの命を削るというのならば、あの男が未だに生きている訳がないのだ。
力尽きた今となってはもう何もすることができないのだから、どうせなら心が安らかになることでも思い浮かべよう、とヤードは決めた。
たとえば、自分の頭のすぐ上に続く壁のこと。
倒れこむように地面に横たわってしばらく、見るともなしに見ていた薄汚れた壁を何となしに手でぬぐってみた。
出てきたのは淡い色彩。
ありきたりな、建物の壁としては無難な色だ。だがヤードは、この色を見ながら何か特別なものを感じた。
甘い、あたたかい。そんな空気が、色のなかから染み出てくる。
きっとむかし、この色にまつわる良いことでもあったのだろう。
その思い出がくすんだ記憶の中で、汚れをぬぐった跡のように優しく浮かびあがっているのにちがいない。
―――どこで見たのだったろう。
過去の幸せな記憶をあてどなく探す作業は、今の気分を紛らすのにはとても合っている。ヤードは目をつむったまま、さて、と考えはじめた。
聖王国からとりよせた珍しいお茶。をそそいだ器。数千種類の茶葉を扱う店の扉……看板? ―――お茶から離れた方が良いかもしれない。
何かの牙。喚ばれてすぐに屠られたドラゴンの牙か。子供時代を過ごした施設のかべ。書庫の奥で偶然見つけた、古い記録書の頁……。
―――なんです、どれもろくな思い出ではないではないですか。
意識の片隅で、ヤードは文句を言った。
特に最後に思い出したものなどは最悪だ。
派閥の自分に対する裏切りを知った時の記憶。自分をかこむ世界がぐるりと一転し、吐き気を覚えた。あんな気持ちはもう、二度と掘りかえしたくはない。
そうこうしているうちに、気づけばふたたび真っ暗な眠りが忍びより、ヤードを飲みこもうとしていた。
何度目かの、まずしい睡眠。しかし今度眠れば、先がないような気がする。
ヤードはまぶたを下ろそうとする見えない指から逃れようと抗ってみたが、やがてあきらめた。つくづく自分の人生はろくなものではなかったなあ、と思いながら、意識をするすると手放していく。腕の力が抜けて、かかえていた長い包みが傾いた。
「誰かそこにいるの?」
がたん、と木の枕を鳴らしてヤードは起きた。
頭を浮かせて声の方に視線をはしらせると、通りの光に背を向けた人間が自分の方を見つめている。
追っ手か。ヤードは口の端をぬぐうと、無意識のうちにじりじりと後ずさった。建物の影と同化しようとするかのように、息をひそめる。
男にしては細身のその人影は、返事のないヤードの様子をうかがうようにしばらく動かなかったが、なにかぶつぶつと呟いたかと思うと歩み寄ってきた。
ヤードは地面にひじを立てて起き上がり、手にした包みを目の前にさしだした。
「近寄らないでください。こちらには剣があるんですよ」
そう言い放ったつもりだったが、喉からでたのは掠れた空気の音だけだった。人影は段々と近づいてくる。ヤードはあわてた。
包みを持っていない方の手で喉を押さえ、必死に声を出そうするが、長い間使っていなかった声帯は言うことを聞かない。
そうしているうちに、掲げていた手から包みがずるりと抜けた。音をたてて地面に落ちた布の中からは、剣ではなくただの木の棒が2本、姿をのぞかせる。
ヤードはそれを見て、舌打ちしたい気分になった。握力を失った自分の手を忌々しげに握る。
(最悪だ)
ヤードが持ち出した宝剣は、じつは既に彼の元にはなかった。
逃亡の旅のさなか、ふとしたことがきっかけで派閥とは全くの別口に持っていかれてしまっていたのだ。
追っ手は恐らくこのことは知らない。ならば、まだ自分が剣を持っているように見せかけて、牽制できればと思ったのだが……。
肝心の時にこれでは、まったくの台無しである。
地面の上でひとりじたばたとしている男を不審に思ったのか、相手はますます足を速め、ヤードの前に片膝をつくと「ちょっとアンタ、」と女にしては低い声で話しかけてきた。
「剣は渡しませんよ」
ヤードは目を覆うように顔の前に腕を置いて唸る。が、それもまた声にはならなかったようだ。
相手は「何?」と、体を傾けて耳を近づけてきた。ヤードは腕をはずし、相手を睨みつけようとした。
(……あ)
目に飛び込んできた顔に、ヤードは言おうとした言葉を忘れた。代わりにもやもやとした何かが、胸のなかを覆っていく。
―――どこかで、どこかで見たことがある気がする。
男……の顔だ。片目は黒紫の長い前髪に隠されている。化粧を施しているらしい肌のなかで、紫のルージュが際だって見えた。
派手な顔である。一度見たら記憶に焼きついて忘れられないだろう、普通は。
だがヤードの中に沸いた既視感は、そんな鮮烈なものではなく、幾重にも重なった地層の奥底にくすぶっている暖かな泥のようだった。
ちょうど無性に懐かしい、あの色の記憶のように。
「しっかりしなさいな。立てる? ていうかアタシの声聞こえてる?」
自分の顔に焦点をあてたままじっと動かない行き倒れを気遣ってか、相手はヤードの額に手のひらをあてて声をかけてきた。隠されていない方の、深い色の瞳が近づく。額に触れた服の袖口からは、甘い香りが漂ってきた。
―――もしかして、追っ手ではないのか?
ヤードはその時初めて思いついた。
派閥の暗殺者がこんなにいい匂いをさせているだろうか。こんなにも懐かしい声音で呼びかけ、こんなに優しい手で、触ってくれるのだろうか。
ヤードはふいに、目のふちに涙が滲むのを感じた。乾いた唇から、言葉をだそうとする。
そのとき、頭の中にぱっと柔らかいクリーム色が広がった。ヤードは開いた口から思わずあ、と小さな声をあげる。
先程までずっと考えていたあの色だ。
(もしかしてこれは……答え合わせなのでしょうか)
よりによってどうして今、とヤードは思う。
事態はそれどころではないというのに、現実を押しのけて意識を奪っていく色に困惑した。
だがそんなヤードの思いを無視して、映像はカタカタと進んでいく。
視界一面に広がる薄いクリーム色。
その真ん中に白い皿が置かれ、ケーキがのせられる。瑞々しいフルーツがのったショートケーキだ。甘い匂いが鼻をかすめ、ヤードは思わず目を細める。
皿の両脇にはミルクの入ったコップとフォークが置かれ……そこまできて、ヤードはこの色の正体に気づいた。
―――なんだ、これはテーブルクロスだ。
よく見るとコップの横に、ソースの薄い染みがある。ヤードはもう一度なんだ、と心の中で呟きながら、あたたかい生活感にどこかほっとした。
(こぼしちゃだめだよ、ヤード)
幼い声をかけられて、視線を動かす。すると、目の前に黒っぽい髪を短く刈った少年が、にこにこしながら座っていた。
―――思い出した。
胸が熱くなっていく。
―――この子は私の友人だ。これはあの村での……私の故郷での景色だ……。
「アタシの肩に手まわして。力、入らないの?」
(ケーキ、食べないの?)
回想の中で、にこにことしたまま友人が問いかけてくる。
きっとここは目の前の彼の家である。自分のうちでは、テーブルクロスなんてものは使っていなかった。
ヤードは彼の名前を思い出そうとした。
「…………ちょっと、アンタ。顔見せてくれない。ねえ、アンタもしかしてさ、アンタの名前って、」
名前。名前、名前。なんだっただろう。
たしか、仲が良かった。家は近く。彼は話すのが大好きで面倒見も良くて、いつも年下の子を連れて回っていた。母親がおいしいケーキを焼くたびに、ヤードを家に呼んでくれた―――。
「スカー、レル……?」
つぶやくと同時にヤードの意識はがくりと落ちた。
随分遠くから、自分を呼ぶ声が何度も聞こえたけれど、ヤードの耳はもうその言葉をとらえることはできなかった。