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    椎の実のコーヒーのお話椎の実のランチの時間が落ち着いたころ、下膳の手伝いに食器を運んだところで、百音はキッチンの里乃の動作にふと見惚れてしまった。サーバの上に置かれたドリッパーの中でふんわり膨らんだコーヒー豆に、細い口のポットで滴々と湯を落としていて、ドリップされたコーヒーは馥郁たる香りを放っていている。何やら手元のスケールで測りながら、おいしい飲み物を生み出す様子に、今まで何気なく飲んでいたコーヒーがどうやって作られているのか、よく分かっていなかったことに気づく。

    スケールとにらめっこでコーヒーを落としていた里乃が、何らかのタイミングでドリッパーをサーバから下したところで、百音が見ていたことに気づいてにこりと笑った。ロゴがあしらわれたマグにたっぷり注がれた米麻ブレンドが注文客に供され、里乃が戻ったところで百音に声をかけた。

    「モネちゃん、コーヒーの淹れ方覚えてみる?」
    「いいんですか?」
    「もちろん。時々、淹れ方講座もここでやってるのよ」

    夕方にここで勉強するときに自分でコーヒー淹れられるといいでしょ、という里乃に、百音はキッチンを使わせてもらうことに恐縮もしつつ、せっかくなら、と淹れ方講座をお願いすることに相成ったのだった。おりしも、菅波不在の週で、退勤後に決まった予定はない。里乃もちょうど都合がよいということで、早速その日の夕方に淹れ方講座が開催されることになったのだった。

    森林組合事務所を施錠した百音が椎の実に向かうと、テーブルには道具一式が二揃い、用意されていた。コーヒーサーバにドリッパー、ペーパーフィルタ、ドリップポット、攪拌スプーン、試飲用と思しき小さなカップ、それに2種類のコーヒー豆。なんだか本格的な様子に、百音の眼が輝く。そんな百音の様子に里乃は楽しそうに、さあ、はじめましょう、と、揃えられた道具の前に百音をいざなった。

    「ここに、挽きたての米麻ブレンドがあるから、まず2つの方法で淹れてみます。それを飲み比べしてみてほしいの」

    百音がこくりとうなずくと、里乃はペーパーフィルタをドリッパーにセットし、ポットに沸かした湯をドリップポットに取ると、まずペーパーフィルタをまんべんなく濡らした。その後、ドリップポットの蓋を開けて温度計を差し込むと、ペーパーフィルタを濡らしてコーヒーサーバに落ちたお湯を小さなバケツに捨てて、ドリッパーに豆をセットする。温度計が85度を示したところで、ドリップポットの蓋を閉めると、ドリッパーに湯を注ぎはじめ、そのまま1杯分が抽出されるまで一気に湯を注ぎ切った。

    昼にみた里乃の淹れ方と違うな、と百音が思いながら見ていると、その怪訝な様子に里乃も気づく。ドリッパーを外したサーバを差し出され、百音が試飲用のカップでそれを受ける。飲んでみて、と言われて口をつけると、普段飲んでいる里乃のコーヒーよりもなんだか苦く、のど元にざらつきを感じるような気がする。どう?と言われて、思ったことを伝えると、うん、と里乃はうなずいて、これを覚えておいてね、と、もう一つのサーバとドリッパーを同じセッティング、同じ湯の手順で抽出を始める。先ほどとの違いは、最初に少量のお湯で蒸らしをしていることと、お湯を入れるのを複数回に分けていることだけである。

    また、差し出されたサーバのコーヒーを試飲用のカップで受けて飲んだ百音は、わぁ、と声を上げた。

    「さっきのと全然違います!これ、いつもの里乃さんの味!」

    同じ豆なのに、こんなに違いがあるんですね、と百音が言うので、里乃は重々しく、そうなの、とうなずいた。

    「最初の淹れ方は、おうちでついやりがちな淹れ方なんだけど、それだと雑味がでちゃうのね」

    これ見て、と里乃が指し示すのは、二つのドリッパーの抽出後のコーヒー豆の様子である。最初に入れたほうのドリッパーは、湿った豆の粉がのっぺりと均一にフィルタの中に残っている一方で、もう片方のドリッパーは、フィルタの周囲にコーヒー豆の粉の層ができていて、その層には細かな泡がまとわりついて輪っかのようになっている。

    「全然違いますね」
    「でしょう。この細かい泡がいわゆるアクなのね。これが、単に一気にお湯を入れちゃうと、全部流れてしまうの。そうすると雑味があるコーヒーになっちゃう」
    「お湯を分けて入れたら、これが残るんですか?」
    「そう。少し沈んだところにお湯を足すと、豆の粉が上下するでしょう。それで、粒の大きい粉が外に回って、そこで落ち着いて、また次にお湯を足したら、中ぐらいの粉がその内側について、っていう風に、フィルタの中でコーヒー豆の粉の層ができるのね。その層がこのアクを捕まえるの」

    里乃の説明に、百音はふむふむとうなずき、持ってきたメモ帳にメモを取る。

    「あとは、最初にやっていた、蒸らしね。大体、コーヒー豆の粉の倍ぐらいの重さのお湯、コーヒーが10gなら、お湯が20ccぐらいね。それで最初に蒸らして、焙煎した時に残っているガスを追い出して、お湯とコーヒーがなじみやすいようにする準備。これがとっても大事」

    10ぐらむに20しーしー、とつぶやきながらメモを取り終わる百音を待って、里乃が続ける。

    「お湯の量は大体、140ccぐらいね。それを3回に分けて入れる」

    このサーバを載せてるのがコーヒースケールって言って、時間と重さを同時に測れるの。これで、お湯を注いだ量と時間をチェックすると、大きな失敗なしにコーヒーが淹れられるわよ、と使い方を説明してくれるので、それも百音はふむふむとメモを取る。

    「コーヒーを抽出するときには、酸味、甘味、苦味、雑味の順番に出てくるって言われていて、大体抽出開始から3分を過ぎると、雑味が出るって言われてるから、3分を切るぐらいのタイミングで淹れきるのが一つポイントね」

    ナルホド、それでタイマー、と百音がうなずく。

    「で、お湯の落とし方なんだけど、豆の煎り方によって変えるの」
    と、里乃がコーヒーの抽出効率は煎り方で決まる、という話をすると、しばらくその話を聞いていた百音が、ぽん、と手をたたいた。

    「つまり、煎ってる時間が長いほど、すでに熱が通ってるから、コーヒーが出やすいってことですか?」
    「そう。だから、深煎りの豆のときは、お湯の温度は83度ぐらいで、最後にお湯を入れる時は注ぎ口を回さずに中心にそっとお湯を入れてコーヒーの層を揺らさないようにして、お湯が多少ドリッパーに残っていても2分30秒を過ぎたら外す。反対に、中煎りの時は、お湯の温度は87度で、最後まで注ぎ口を回しながらお湯を注いで、最後まで落とし切っちゃってもいいの」

    そこまで説明した里乃は、あとは百聞は一見に如かずでやってみましょう、と百音を促した。百音の前のドリップポットに湯を入れた里乃は、ドリッパーとペーパーをリンスしてね、と言いおいて、深煎りの豆をミルにかけに行く。百音は、先ほどの里乃の手つきを思い出しながら、ドリッパーとペーパーに湯をかけ、ドリップポットに温度計をさした。中挽きになった豆を持った里乃が戻ってきたところでお湯の温度が83度になったので、豆の粉をペーパーの中に入れる。

    サーバを載せたスケールのタイマーをONにすると同時に、20gのお湯をゆっくりと巡らせると、ふわりとコーヒーの香りが立って、豆の粉がふつふつと膨らむ。こんもりとなったところに、30秒おきに80g、40g、20gとお湯を入れていき、先ほどの里乃の話の通りに、最後のお湯は真ん中にそっと落として2分30秒頃にドリッパーを外す。

    うん、上手、じょうず、と里乃の言葉に、百音は、できた、と満足気。飲んでみてごらん、と里乃に促されて味見をすると、さっき里乃が淹れたより、少し酸味が勝っているような味で、しかし普段自分がドリップパックで淹れたときの雑味はない。

    「おいしいです、里乃さん!」
    「私も味見させて」

    里乃が自分のカップに百音が淹れたコーヒーを取り分けてひとすすり。

    「うん、おいしく淹れられてる」

    じゃあ、今度は、中煎りでやってみよっか、と、先ほど里乃の話を聞いたとおりに、蒸らしまでは同じ工程で、しかしお湯の温度と注ぎ方を変えて淹れてみる。抽出したコーヒーは、雑味がないのは同じながら、1回目の深煎りよりも軽やかに華やかな味わいである。

    「あんまり意識したことなかったけど、豆の煎り方と淹れ方でこんなに違うんですね」
    「面白いでしょう」
    「面白いです」

    ちょっとしたお湯の注ぎ方とか蒸らし時間の違いでも味わいが変わってくるから、いろいろ好みを探してみてね、という里乃の言葉に、百音はこくこくとうなずいた。これは使っていいから、とコーヒー道具一式と、電動ミルの使いかたも教わって、百音はよし、と腕まくりである。じゃあ、米麻ブレンド、一袋ください、と百音が財布を取り出し、里乃が、はぁい、とレジを開ける。

    豆はね、粉に挽いちゃうと16倍速く酸化しちゃうから、できるだけ直前に挽いてね、という里乃の言葉に、分かりました、とうなずいた百音は、これ、ここで飲むから、デスクの引き出しに入れてきます、と事務所のほうにパタパタとかけていく。かわいいねぇ、と里乃はその後姿を見送りながら片づけに取り掛かる。じきに戻ってきた百音が、一緒に片づけます、と申し出て、あっという間に道具の拭き上げまで終わらせた二人は、百音がありがとうございました、と里乃に礼を述べて、淹れ方講座を終了させた。

    翌日から、百音は椎の実で菅波から出た課題に取り組みつつ、休憩時間には里乃から教わったコーヒーの練習にもいそしんで過ごした。そして、翌週の月曜、退勤後の菅波が椎の実に姿を見せ、いつもの勉強会が始まる。

    今週は気圧と気流を中心にやりましょう、と、菅波がホワイトボードに日本地図とその周辺海域と大陸を描き、「シベリア高気圧」「オホーツク海高気圧」「移動性高気圧」「太平洋高気圧」と、ペンの色を変えて大きな丸を4箇所に描いた。季節によってこれらの高気圧がどう振る舞うのか、一つずつ確認しましょう、とテキストのページを指定されれば、百音はすぐにそれを開いて、菅波と解説の読み解きを始める。

    ひとつひとつの高気圧の性質を確認し、つまり、冷たいか暖かいかと、乾燥してるか湿ってるか、で高気圧の影響が違って、それで季節の変化ができるってわけなんですね、と百音の理解がたどり着くのにおよそ1時間。スムーズにイメージができるようになってきましたね、と菅波がうなずき、百音も理解できたことをうれしくうなずく。

    じゃあ、偏西風と温帯低気圧の話に移る前に、少し休憩にしますか、と菅波が区切る。はい、と百音が伸びをして、菅波が自席に戻ったところで、あ、と声を上げた。

    「準備室に忘れ物をしたようです。ちょっと見てきます」

    あれ、どこにしまったかな…と菅波が独り言を言いながら椎の実を出ていくのを見送った百音は、よし、じゃあコーヒーを入れてみよう、と腕まくりをする。ケトルを火にかけて、コーヒー豆をきっちり計量してミルにかける。沸いたお湯をドリップポットに移して、ドリッパーとペーパーをリンスして、お湯の温度を測って。スケールも使いながらきっちりと教わったことに忠実に、しかしドリッパーの中の豆の様子も見ながら、滴々とコーヒーを抽出し終われば、攪拌スプーンでひと混ぜして均一したところで、2つのマグにきっちり半分こに注いだ。

    椎の実のロゴが焼き印されたコースターを出して、菅波の席と自分の席に置く。コースターの上にマグを置いたところで、紙の束を抱えた菅波が準備室から戻ってきた。室内に漂う芳香に、菅波がテーブルの上を見れば、ほかほかと湯気の立ったコーヒーがある。

    「永浦さん、これは?」
    「休憩時間なので、コーヒーがあるといいかなと思って」
    「僕の分までいいのに」
    「そんなわけにはいきませんよ」

    暖かいうちにどうぞ、とふうふうとマグに口をつける百音を見て、菅波も、ありがとうございます、と頭を下げてマグを手に取った。秋も深まってきたころ合いに、準備室から数歩の距離とはいえ外から戻りたてにはその温かさが心地よい。一口飲んだ菅波が、顔を上げる。

    「これは、菊池さんが淹れておいてくれたんですか?」

    菅波の言葉に、百音はぶんぶんと首を振る。

    「私が淹れました。里乃さんに教わったんです」
    「そうだったんですね。いつもいただいている味だなと思って」

    猫舌なのか、ふうふうと表面を吹きながら用心しいしい飲む菅波に、百音はじわじわとうれしさを隠しきれなくなる。

    「里乃さんの味と間違えられるぐらいに淹れられたってことでしょうか」

    嬉しそうな百音の様子に、菅波は、豆が同じなら味も同じですかね、とひねくれたことを言う。その言葉に、百音は唇を尖らせ、おなじ豆でも淹れ方が違ったら、全然違う味になるんですよ!と里乃から教わったことを力説し、あぁ、そういうものなんですね、と菅波も関心顔。

    登米のこちらでいただくコーヒー以外、東京では医局の煮詰まったコーヒーぐらいしか飲まないものですから、という菅波に、これからは私が休憩時間に淹れますね!と百音が張り切ってみせ、菅波は、同じぐらい気象の勉強を頑張ってください、とさらにひねくれ口をたたくのであった。



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    2024/07/31 1:08:35

    椎の実のコーヒーのお話

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