330円の攻防百音が登米の菅波の許に遊びに来る時、二人の暗黙の取り決めになっていることがある。それは、百音が東京に帰る時、菅波の家から新幹線駅まではできるだけ直行しないで、別のお出かけを組み合わせ、その流れで新幹線駅に行くようにする、というものである。『帰る』というアクションだけを切り出すと家から出る時から寂しくなってしまうので、いつしかそうするのが定番になった。
その日も、朝食を済ませた百音と菅波が、菅波の家を出て向かったのは登米が誇る湖沼域の淡水魚を主に展示するサンクチュアリセンターだった。2階建てで吹き抜けになった中央ホールには大型水槽が置かれ、タナゴやテツギョ、モツゴやフナが泳いでいる。『カニさん6匹見つけられるかな?』 というポップに目をとめた百音が水槽の中でカニを探すがなかなか見つからない。菅波も腰をかがめて水槽の底の方を覗き込むものの、結局2匹しか見つけられず、ほんとに6匹もいるのかな、と菅波が眉を寄せ、疑うのはよくないです、と百音が笑う。
壁沿いに展示された小さな水槽列では、ギバチやニコイといった魚のほかに、ニホンドジョウも展示されている。ドジョウの水槽の横にだけ『ドジョウのクイズ』が掲示されていて、菅波がそれを読み上げた。
「『ドジョウのヒゲは砂底の食べ物を探すときに使います。何本あるでしょう』、か」
問題の横には『こたえ』という紙が貼ってあり、めくった下に答えが書いてある仕様である。早速菅波がめくろうとしたところ、百音がその手を制した。
「先生、ここはひとつ、ここにいるドジョウを観察して答えを出すべきです」
せっかくここにドジョウさんがいるんですから、という百音の言葉に、それもそうだ、と二人で水槽を覗き込む。水槽の中のドジョウは、体の半分を壺の中にいれ、顔は外に出ているものの、水草の間際でどうも顔が良く見えない。うーん、もうちょっとこっち向いてくれないかなぁ、と百音が首を左右に振り、菅波は、少なくともヒゲは顔で左右対称でしょうから、見えるヒゲだけとりあえず数えれば…とぶつぶつ言う。目の下のアレはヒゲ?影?などと二人で侃侃諤諤の結果、8本、という結論にたどり着き、では、と満を持して『こたえ』のフリップを開けると、『10本』という答えが目に入る。
えぇ、10本?!と菅波が水槽を覗き込むが、そのタイミングでドジョウはふいっと水槽の奥へ散歩に泳ぎだしていて顔が見えない。10本か、そうか…と納得せざるを得ないが、という顔をしている菅波の様子が面白く、百音は後で図鑑で確認しておきます、と菅波の不服を収めるように言うのだった。その後はぶらぶらと他の水槽を見て回り、池と沼と湖の違いの解説や昔の漁具の展示を見て感想を言い交して時間が過ぎる。混雑を避けるべく、少し早めのランチを近隣の農場レストランで済ませた二人は新幹線駅へと向かった。
新幹線駅の隣の特徴的な展望台が見えてきた頃合いで、菅波が腕時計をちらりと見て、百音も自分の腕時計に視線を向ける。
「ちょっと新幹線の時間まで余裕ありますね?」
「そうですね。1時間ぐらいかな。行楽シーズンで余裕もったほうがいいかなと思ったけど、あのあたりでもモタつかなかったし」
「だったら、本屋さん覗きたいです。科学雑誌でお天気特集なので」
「了解です」
百音の希望にもちろん菅波は異論はなく、本屋エリアを備えた新幹線駅前のショッピングセンターへと進路を向けた。ショッピングセンターは広大な平屋で入り口も多い。自身も何度も使っている場所だけに、菅波も店内のレイアウトを把握していて、本屋に一番近い入り口に近い場所に車を停める。やっとここに最短でたどり着けるルートを覚えましたよ、と菅波が言うので、百音は最初、遭難しかけてましたもんね、と思い出し笑いをするのであった。
目当ての科学雑誌の先々月号のオンデンザメ小特集が面白かった、というような話をしながら、手をつないだ百音と菅波が店内に足を踏み入れた時、二人して何かの違和感を覚え、その違和感の正体はすぐに判明した。本屋があったエリアが、青いネットに囲まれていて、本棚が見当たらない。もしかして、と思いながらネットに提げられた紙の前に立てば、本屋が閉店した旨の告知があった。
「閉店しちゃってたんですね」
「…ですね…」
残念です、と百音がしょんぼりした顔になり、菅波も立ち寄り先が一つ減りました、と同じく残念な顔。雑誌は東京で買います、という百音に、そうしてください、と菅波が応じた。さて、じゃあ、その辺でコーヒーでも飲みますか、と菅波がその場を離れようとしたところで、百音はその場を動かず、つないでいた手が菅波の足を止めた。百音の顔は、張り巡らされた青いネットの中に向いている。
「百音さん?」
菅波が声をかけると、百音はつないでいないほうの手でネットの中を指さす。
菅波は、その指さす方向から顔をそらしたまま。
「せんせ?」
呼びかけに呼びかけで返した百音が菅波を見上げるが、菅波はやはり目を合わそうとしない。
ついっと菅波の顔の向きに百音が上体をかしげると、菅波はさりげなく体の向きを変えた。
更にぐいっと百音が菅波の目線をとらえようとして、菅波はしぶしぶというテイで百音と目を合わせた。
「…やりませんよ」
「まだ何も言ってませんけど?」
「『目は口程に物を言う』ということわざがあります」
口を尖らせた菅波の言葉に、百音がてへ、という顔になる。
本屋がなくなったエリアをとりあえず埋めるかのように、青いネットの中に置かれているのは数台の卓球台であった。ネットの中にはでかでかとプレー料金も掲示されていて、30分330円・1時間550円と極めてリーズナブルであるし、30分からプレー可能なので、時間つぶしにもピッタリである。…動くボールに対処することができる人であれば。
「せっかくだし、やってみませんか?」
百音の改めての言葉に、菅波が眉根を寄せる。
「僕ができると思いますか?」
「…あんまり…」
ド正直な百音の言葉に、菅波はチベスナの極地というような顔になる。
「それでもやってみないか、と」
「百音さんは卓球の心得が?」
「特にないです」
「僕もです」
言い募りながら、つないでいた手を離した菅波は百音に正面に向き合う。
「百音さんは、ビリヤードはやったことがありますか?」
「あの、棒で球を衝くやつですよね。ないです」
何の話だろう、と思いつつ、何やら真剣かつ必死にどうやってか自分を説得しようとしている様子が何よりも菅波らしく、そのらしさに百音は唇をむにむにと差せながら話に付き合う。
「僕はあります。友人と出先でビリヤード台があって、誘いに応じました」
「はい」
「僕が初めてで見様見真似だったところに、友人も数回の経験しかない状態でプレーをしたところ、どうなったと思いますか?」
「先生がボロ負けした」
確信をもって答えないでください、と菅波がつぶやきつつ話を続ける。
「勝負にもならず、二人してグダグダにあらぬ方向に球を衝き続けて、1ゲームを終わらせることもできないままタイムアップを迎えました」
「なるほど」
負けなかったって言いたいのかな?と首をかしげている百音に、菅波が、つまり何が言いたいかというと、と口を開く。
「初心者二人でやみくもにプレーしようとしても、碌なことにならない、ということです」
ドヤッと言い切る菅波に、百音はうーんと唇を尖らせる。
「でも、卓球台って温泉とかにも置いてあるぐらい、初心者もちょこっと遊べるものなんじゃないでしょうか」
こればっかりは百音の希望も聞きづらい…という菅波の顔に、百音がぽん、と手を打った。
「じゃあ、私はスリッパでやりますから!」
「は?」
脈絡なく出てきた室内履きを意味する英単語に菅波がクエスチョンマークを頭に浮かべると、百音が料金表の下をさししめす。そこには、お楽しみゲーム用にラケット代わりのスリッパ貸出可、の文字が。
「先生はラケット使ってくれていいので」
百音の申し出に、菅波がまたチベスナ顔になる。
「百音さんも初心者なんですよね?」
「はい」
「だけど、ラケットを使わない?」
「なんとかなるかな、って」
「僕はなんとかならない、と」
「…なります?」
百音の言葉に、分かりました、と菅波がやけっぱち半分でうなずく。
「新幹線の時間もありますから、30分めいっぱいかどうかはさておき、やりましょう」
「やった!」
百音が楽しそうに胸の前でぱちぱちと小さく手をたたくのはかわいらしく、しかしそれはこれから卓球(めいたこと)をするからである、という二律背反が菅波を襲う。受付に向かう百音の後ろを足取り重く追いかけた菅波は、それでも卓球プレー料金330円を自分の財布からカウンターになんとかねじこんだのだった。
念のため、と新幹線駅に向かうべき時間をスマホのタイマーにセットして、指定された卓球台にたどり着いた二人はさて、ラケットとボールを台の上に置いて、さて、と顔を見合わせた。
「サーブ、じゃんけんで決めます?」
「百音さんからでいいですよ」
「…それは、結局じゃんけんで負けるから、ですか?」
「…僕はじゃんけんで負ける、と?」
「…勝ちます…?」
「…負け…ますね…」
二人の脳裏に浮かぶのは、せんだって小高い場所の神社にお参りに行った時のことである。参道の長い階段に菅波がげんなりしたところ、百音がいわゆる『グリコ』で遊びながら登ろう、と提案した。百音が楽しそうに言うこともあり、それに菅波も乗っかったところ、10回に9回はじゃんけんに負け、かろうじて勝った時にはグーだったので3段しか登れず、というのを繰り返したところ、お互いが豆粒に見えるぐらい離れてしまい。。百音がじゃんけんに勝って最上段までたどり着いた後、へろへろと登り切った菅波は、自分がじゃんけん弱いの忘れてました、とこぼしたものだった。
「あぁ、でも、ほら、今回は勝つかもしれないじゃないですか、マグレで」
重ねて菅波がチベスナ顔になりかけたところで、百音は、あぁ、もう、時間なくなっちゃいますから、はい!と最初はグーと掛け声をかけ、そうすると反射的に菅波もじゃんけんに応じる。最初はグー、じゃんけんぽん、で百音がグーで菅波がパー。マグレで勝ちましたね、とやけっぱちな憎まれ口をたたきながら、ラケットとボールを手にした菅波が台の端に行くので、百音もラケットを持って反対側へ行く。
じゃあ、いきます、と菅波が言って、掌に載せたボールを打とうとして、ラケットを空振りする。台の真ん中の方にテンテンと転がっていくボールをあぁあ、と追いかけて捕まえ、再度サーブを打つ。と、今度はボールをラケットにあてることができたものの、ネットに引っ掛かったボールは菅波の手元に戻ってきた。自分の目の前のボールを指先でつまみ上げ、しげしげと見つめる菅波を、百音はラケットで口元を隠しつつ、何かをフル回転で思考している様子を楽しく見つめるのだった。
しばしの思考の後、菅波がボールを指でつまんで構えるので、百音もラケットを構える。菅波が、指でつまんだボールを垂直に落とした瞬間にラケットをボールの真後ろから前に振り出すと、今度はボールは無事にネットを超えてワンバウンドで百音のもとに届いた。百音が、カコンとラケットでボールを返し、菅波がラケットを振ると、一拍遅れてボールは菅波の横を抜けて背後の床に転がる。
あぁあ、と言いながらボールを拾って卓球台に戻った菅波が、百音にボールを差し出す。
「百音さんのサーブの番です」
「はい」
それから、百音がボールを受け取り、サーブを打って、菅波が空振りして、ボールを百音に届ける、というやり取りが連続で3回。3回目に、菅波が百音の掌にボールを置こうとしたところで、ふと動きが止まるので百音が菅波を見上げると、なんだか…と菅波が口を開く。
「なんだか、こう、ボールを『取ってこい』している犬の気分になってきました」
しょぼくれた大型犬のような菅波がそんなことを言うもので、百音は吹き出すのを何とか堪えて口元をむにむにと、ソンナコトナイデスヨ、と棒読みで返事をするのだった。
「じゃあ、次は、先生、そこ、そこに立って、ラケットを、こう、面をこっちに向けて、そうしててください。その辺狙います」
ボールを持った百音が台の反対側から言うので、菅波はおとなしくその指示に従う。えいっと百音が打ったボールは、ワンバウンドで菅波のラケットにあたり、百音の方に戻る。百音がそっと打ち返した威力の弱いボールに、菅波がラケットを当てに行くと、かろうじてボールはネットを超えて、百音のラケットの許に戻る。もう一度百音が打ち返したところで、ネットを超えたあたりに落ちたボールは、カツンと床に落ちた。
それを菅波が拾って顔を上げると、百音がそばまで来ていて、ハイタッチをしようと両手を小さく肩のあたりまで上げていた。?とくクエスチョンマークを頭に浮かべながら菅波がそっとハイタッチに指先で応えると、百音が破顔する。
「ラリー、続きましたよ!」
「あぁ、確かに。少なくともボールが往復しました」
「卓球、成立です!」
ずいぶんと定義の緩い卓球だが、と思いつつ、百音がそうして嬉しそうなことは菅波にとっては何より大切なことなので、まぁ、良しとするか、と頷く。
「もう一回!もう一回やってみましょう!」
せっかく卓球が成立したんですから!と勢いこむ百音に、あと5分です、もう、あと一回だけですよ、と菅波は時間を気にするそぶりを見せつつ応じざるを得ず。こんなに本屋の閉店を恨んだことはない…とニュースで読んだ出版業界の構造問題に思いを馳せつつ、菅波は百音が投げてくるボールを何とかラケットで受け止める時間を過ごすしたのだった。