オオカミのひろひば 都内の四ツ谷駅前には、児童書出版社の直営書店がある。大学生で児童文学を専攻する八重子は、その書店に閉店間際まで居座っていた。八重子の地元の図書館より、百倍は規模の大きい絵本コーナー。そこで、何でも気になった品を手に取っては、表紙や奥付けを眺めて、何ページかめくって、棚に戻すのだ。お金の無い学生なりの、贅の限りである。いつか大学のレポート課題で、ここに見つけた本を買いに来ることもあるだろう。専門店の冷やかしは、大学生にとって真面目な遊びである。都内という立地上、書店員もそういう若者に慣れている。むしろ飽きている。万引き狙いではないことをアピール出来たならば、店員の目は冷たくない。八重子は人の様子に敏感な文系大学生の気質がある。温かくも無関心に受け入れられているのは、嬉しかった。
そういう訳で、その日、八重子の帰宅は遅かった。
先程見つけた、興味深い絵本と、その値段を思い浮かべて、最寄り駅より二駅前で地下鉄を降りた。歩けばそれだけ交通費が浮く。都内暮らしの金策である。地元ではこうはいかない。地元の島と内地を繋ぐ船に、途中下車の概念は無い。
地下鉄の出入り口付近は人通りも多く、同じ方角へ向かう者同士が、夜の街に一つの流れを作っていた。だから八重子は気付かなかった。妙な足音が、自分の背後に付き纏っていることを。
交差点を一つ渡り、路地を二つ数え、角を三つ曲がる内に、都内の人混みは解けて、それぞれの目的地に散っていく。いつしか八重子は住宅街に独りきりだった。
だのに足音が着いてくる。
ひた、たた、た。ひた、たた、た。
八重子は交差点の赤信号で、そっと背後を伺ってみる。人の姿は見えない。路地を通り過ぎるとき、カーブミラーに目を向ける。人の姿は見えない。角に差し掛かれば、通り過ぎると見せかけて、ふいに曲がってみる。足音は、着いてくる。
ひた、たた、た。ひた、たた、た。
八重子は漠然と恐怖を感じた。
足音との距離は、一メートルも無いように感じられる。なのに、正体が掴めない。まるで幽霊のような、不気味さ。
八重子は幽霊が見える。上京してから、ちょっとした出会いが切っ掛けで霊視に目覚めた。先人曰く「視えるは気付く」。何気ない影に注意を払って初めて、霊が視える。
目の端や鏡越しで見るだけでは、見逃してしまうものもあるだろう。気付かなければ、何も始まらない。
八重子は、意を決して、力強く、振り向いた。大きな瞳を更に見開いて、存在がバレていないつもりの幽霊に、キッパリと断ってやるのだ。幽霊の方にだって、気付かせてやるのだ。
「キモい! 付いてこないで!」
八重子の怒声は、閑静な住宅街に吸い込まれていった。目の前には誰も居ない。幽霊すら。暗い夜道に、所々街灯の明かりがあるきりだ。
ひた、たた、た。ひた、たた、た。
足音が、まだ、聞こえる。
八重子のすぐ側で、うろうろと左右に逸れながら、少しずつ距離を詰めてくるようだ。
その正体は未だ視えない。夜の闇の中に、完全に身を隠している。ストーカー気質の厄介な幽霊か、それともストーキングに長けた厄介な生者か?
「……っ」
八重子は息を飲んで、踵を返し、早足で住宅街を突っ切った。
ひた、たた、た。ひた、たた、た。
足音はまだ着いてくる。八重子は、自宅に帰るには曲がるべき角を直進して、闇雲に足を進めた。
八重子の心の、漠然とした恐怖は、もはや命の危機にレベルアップしていた。
独りでいては、いけない。
「真木君、助けて」
八重子は友人の名を呟いた。同じゼミに所属し、お人好しで、よくツルんでは下らない話をする仲で、八重子と同じ切っ掛けで霊視に目覚めていて、雰囲気がレッサーパンダに似ていて、レッサーパンダのマギー君の霊が憑いている。足音の正体が人間だろうと幽霊だろうと、彼は八重子と一緒に対峙してくれるだろう。
今ここに彼が居てくれたら、どんなに心強いだろう。
しかし真木は今日、バイトがあると言っていたような気がする。今はバイト先の締め作業中だろうか、それとも帰宅途中だろうか。寄り道して夕飯を買っているところかもしれない。
八重子が、これから真木のバイト先に向かったとして。到着した頃には無人だったら? そのとき、背後の足音はどんな反応を示すだろうか。八重子はそれが恐ろしい。
スマホは背負ったリュックの中。連絡を取るには、歩調を緩めて取り出さなければならない。いま、足音に対して、隙を見せるだなんて、とてもできない。
「あっ、そうだ、モグラさんなら」
八重子は閃いた。働いていない人なら家に居る、かもしれない。モグラと名乗るその人物は、ボロボロの着物を羽織った妖しい男で、八重子と真木が霊視に目覚めた原因で、仙人を自称していて、話好き。昭和の時代に取り残されたかのような不思議な『抽斗通り』の中、銭湯『もぐら湯』の番台で暇をしているか、同じ敷地の自宅で暇をしているか。いずれにしろ、きっと居る。
「どうにもならない困ったことが起こったらおいで」
モグラが初対面の八重子達に言った言葉である。今まさにそんな事態だ。
真木が時々もぐら湯へ差し入れに行って、『モグラはたいてい居る』という感想を持ち帰っているのだ。真木の言う事を信用したい。何なら、あの異界じみた抽斗通りに入るだけで、足音の正体が分かるのではないかとも思う。
抽斗通りを通って、もぐら湯に寄って、帰ろう。
八重子は迷いかけていた足取りに、力を取り戻す。
一度大通りに抜けて、抽斗通りのある辺りへの道順を検討付ける。上京して一年余り、都内の歩き方にも慣れてきた。起伏の激しい島で育った十八年、予想外に長くなった帰路もへこたれずに歩ける。愛らしくて大好きなレッサーパンダ。手作りグッズもオフィシャルグッズも、今日も八重子のリュックサックにぶら下がっている。気味悪い足音がずっと傍に聞こえていて、八重子は恐怖に襲われているが、それに負けないためのものは、それよりずっと前から八重子の傍にある。
生活感溢れるゴミ収集日の看板を横目に、抽斗通りに足を踏み入れた。人がすれ違うのもやっとな程の狭い小路。そこを更に侵食する、ゴミ箱やビール箱、植木鉢にトタンの切れ端。暮らしの気配で、はち切れているのに、誰も居ない。抽斗通りが不気味なのは元からだ。
足音は今も着いてきている。付かず離れず。
もぐら湯の灯りは落ちていたが、八重子は構わず引き戸に手を掛けた。
「モグラさんっ」
開かない。鍵が架かっている。ここは都内の下町であって、八重子の地元の島とは違うのだ。家に鍵を架けるのだ。
足音が聞こえる。
ひた、たた、た。ひた、たた、た。
八重子はもう一度呼んだ。
「モグラさん!」
「はぁーい」
もぐら湯の奥から、応えが届いた。建物の壁の薄いのを良いことに、中から大声で在宅を示す。それは地元と同じやり方だった。
「モグラさんモグラさんモグラさんモグラさんモグラさんモグラさんモグラさんモグラさんモグラさん」
「なになになに怖い怖い怖い、八重ちゃん? 今開けるから! 引き戸を揺するのをやめろ!」
モグラのサンダルがカタカタと近付いてくる。鍵の回る音、引き戸の桟が軋む音、あの足音が近付いてくる音。
引き戸が開ききれば、いつものくたびれた風体のモグラが居た。
ひた、たた、た。ひた、たた、た。
「モグラさん。私の後ろに、何か居ますか?」
モグラは何も問い返さず、すぐさま、敷居の外へ首を突き出して、銭湯の外を見回した。彼が目頭に力をぎゅっと入れると、かえって垂れ目が際立った。
左から右へ、右から左へ。一往復分の注視を、八重子は固唾を飲んで待つ。
「ま、一旦、上がんなよ」
「あ、はい、お邪魔します」
モグラは、いつも通りの気の抜けた調子で、とりあえず八重子を招き入れる。
ひた…………。
八重子がもぐら湯の敷居を跨いだとき、足音が、はた、と立ち止まる気配がする。
八重子は、ふうっと、詰めていた息を吐いた。
モグラが淹れてくれたお茶を啜りながら、八重子は、あの正体の視えない足音のことを話した。
「それは怖かったなぁ。ここまで無事に来られて良かったよ。今も足音は聞こえるのか?」
「もぐら湯に入ってから、聞こえなくなりました」
「そうか」
モグラは、自分の分の湯呑を、シンクの縁に置いた。
「とりあえず。相手がストーキングの上手いやべー輩だとしたら、俺がちょっと見たくらいじゃ尻尾出さねえよ。いまケータイ使えるか? 真木を呼んで様子を見させようぜ。マギー君の反応を確かめよう」
「真木君には申し訳ないけど、正直助けて欲しい~。一応頼んでみますけど、今日、アルバイトだって言ってたから、来れるかどうか」
「バイト上がりにでも絶対来るだろ、真木なら。時間が掛かるならその方が都合が良いや、足音の正体が根性無しなら、くたびれて帰ってくれるかも知れん」
「ですかね。モグラさんにも迷惑かけて申し訳ない……手ぶらで来ちゃったし。おやつのチョコならありますけど食べます?」
「いいっていいって。でもいただきます!」
八重子がスマホから真木へのメッセージを打つ間、モグラは手近な段ボールの切れ端に、ペンで何か書きつける。
「相手がガチのストーカーだとしたら、厄介なんだよなあ。俺がさっき見た限りでは、八重ちゃんの後ろの様子は、こう」
人影をスケッチしたものを示す。彼の視界は、八重子の霊感よりも鮮明で賑やかだ。
「足音がしそうなのは、走っているおっさんの霊。ただ、この人は最近毎日ここを通るから、今、八重ちゃんをツケてきたとは考えにくい。壁に向かってじっと立ってる兄ちゃんの霊。この人も毎日ずっとこうで、動かない。空を飛んでる婆さんの霊、足音はしない。しいて言うなら『翼をください』を熱唱してた。あとは犬と猫とドブネズミとトカゲも居たな」
平和そうな顔ぶれに、八重子は強張っていた頬が緩んだ。
「誰も居ないと思ってたけど……、けっこう居ますね」
「通りすがりだから、『気付きにくい』んだろうな。とりあえず真木が来るまでは待とうぜ。そうだ、良いもんあるぞ。八重ちゃんだけの時に、楽しみに、とっといたもんが」
にたり。安普請の照明が、男の笑みを不気味に照らす。
ごくり。と八重子は生唾を飲む。
モグラが腕を伸ばして、本棚の隅に指を掛けた。
「同人誌書いてみるかって話したろ? でも同人誌って中々落ちてなくってさあ。これだけ拾えたんだけど。週刊少年のキャラクターが、男同士でナニしてて、絵柄は微妙に少女漫画のタッチで、これ女性向けのヤツじゃないかと思うんだけど、合ってる?」
「淑女の中でも好きな人はとことん好きなやつー。落とし主は痛恨の極みですねえ。モグラさんの家は、シュレッダーは無いよね……、燃やしてあげてください」
「燃やす?! 本を?!」
「二次創作の同人誌に限っては、それが武士の情けなので」
「嫌だよ、なんか。もったいねえし。これを手本にしようと思って拾ったんだ」
モグラは、本棚から取り出したものを、同じ場所にそっと隠す。良心とクリエイター気質と借り暮らし根性がないまぜになって、現代っ子の八重子からすると、とんでもないような、事故を起こしている。
「二次創作の同人誌ではお金儲けしちゃダメなんですよ。レッサーパンダのイラスト集だったら私が買いますから、ね」
「ヤミでやる時は八重ちゃんには内緒にするかぁ。つうか、江戸時代の男同士の春本は、陰間物って言って、男向けのヤツだったりしたんだけどな。この同人誌はどうも女性向けだよなあ?! 一定のファンが居るんだな」
「陰間とか……小姓のお仕事とか……聞いたことはあります。モグラさんは陰間が一般的だった時代も生きてるんですね」
「今もわりと一般的じゃねえの? 弥二さん喜多さんって未だに見かけるぜ」
「弥二さん喜多さん。旅の人ってイメージだけで、私は詳しく知らないかも」
「そうなの? あれは元陰間と元客の二人旅だよ。あ、ていうか、この話題セクハラか? 八重ちゃんは嫌だった? こういう話題って、匙加減が難しいんだよなあ。おっさんは時代についていけなくてよ」
「アウト、かな。まあ、モグラさんに同人誌を勧めたのも私なので、拾った物についてはある程度は話聞いてあげますよ」
「情けを掛けてくれてありがとう?!」
「だから燃やしましょ」
「うう」
「ちなみに児童文学専攻としては、児童労働・児童買春・児童搾取を糾弾する立場です」
「そりゃそうだ! 俺が始めといて何だけど、この話は無し! 無かったことにさせてください!!」
などと話に花を咲かせている内に時は過ぎ。八重子のスマホがメッセージの受信を知らせる。
「真木君、来てくれるそうです」
「さすが真木、律儀な奴だよ、あいつは。律儀と言えばさあ……」
中略。
バイト上がりに駆け付けた真木は、肩の上に憑いた動物霊、レッサーパンダのマギー君を指した。その真木に似た目元は、まったりと細められて、仕草も落ち着いている。
垢抜けない服装に、癖っ毛そのままの髪。そこに顎を乗せたレッサーパンダが、宿主の仕事上がりの疲れを感じ取ってうとうとしている様は、八重子にとって拝みたいほどの安寧の権化だ。
「俺の見た限り、誰も隠れてないけど……。ゴメン、俺が見逃してる可能性はだいぶあるけど、とりあえずマギー君の様子は、こう」
真木は、八重子から感謝の印としてチョコレートを一粒受け取った。真木にとって、特別な滋養のある一粒である。
一方モグラは、顎に手を当てて思案顔だ。
「マギー君が反応しないなら、相手は特定の人間に着くタイプか。第三者の視界からは消える。周囲の視線を気にしてるのは、人間の幽霊っぽくはないな。俺から見ても特に何もない……。八重ちゃん。一瞬だけもぐら湯から出て、足音がするかどうか確認して、中に戻って来るってのはどうだ?」
「やってみます」
三人はもぐら湯の店表へ移動した。試しに真木とマギー君が外に出てみる。
「……うん。何も聞こえないし、誰も居ない、ように見える」
「じゃ、次は八重ちゃん」
外からは真木、中からはモグラが見守る中、八重子は銭湯の敷居を跨いだ。
ひた、たた、た。ひた、たた、た。
「聞こえます。足音」
「近くに?」
「はい。ずっと近くに居ます」
「ゆ、幽霊なのか?」
八重子と真木は、周囲を見回した。いつも通りの無人の、抽斗通り、……ではないのかもしれない。
モグラが、ゆらりと二人を招いた。
「おいで。足音の正体が分かったぞ」
ヤカンのお湯が沸かし直された。
先程、モグラの視界をスケッチした段ボールの切れ端が引っ張り出される。
「山に出る妖怪だって話なんだけど、四ツ谷も起伏が激しいからなあ。出たのかねえ。あそこらは、ちょっと前までは田舎でね。山っちゃまあ、山かな? ああ、何の話かって? 『送り狼』さ。聞いたことあるかい? 山道を行く旅人を、後ろから追ってくる何かがいる。姿は見えない。気配だけがある。そいつが『送り狼』だ。旅人が目的地に着くまで見守っている、という説もあるし、襲って食っちまうって説もある。どっちが本当なのかって? さあねえ、動物の考えることは分からんよ。狼にも『好き嫌い』があるかもな。本題だが、さっきの絵で言うと、足音の正体はこいつだ」
走っているおっさん、空を飛んでる婆さん、立っている兄ちゃん、犬、猫、ドブネズミ、トカゲ。モグラは犬を指す。
「さっき犬だって……」
「悪い。立派な犬だと思っていたが、しょぼくれた狼だった」
「しょぼくれた狼」
「しょぼくれた狼……。狼が立派、犬は下位互換、みたいな印象って、どうなんだろうな。生物学的に違う種なんだから、上とか下とかって見方は、当てはまらないはずなんだけど」
真木がふと尋ねる。動物好きの八重子は深く頷いた。
「そうだねー、イヌはオオカミの一亜種だ、って見方もあるけど、犬と狼は生態が違い過ぎて、同じ枠の中で比べるのは無理があるよね。見た目の派手さなら、犬の方が華やかで立派かも」
「そこはすまん! 俺は、狼と山犬の区別がついた試しがねえんだよ」
「山犬って野良犬のこと?」
「違う。町や村の中で彷徨くのが野良犬で、山犬は山の中から出てこない」
「じゃ逆に山犬と狼の区別って?」
「狼は大抵、群れだから、もし襲われると鉄砲じゃどうにもならない。その恐ろしさにあやかって、獣避けのご利益がある『大神様』って、奉ったりもしてたんだぜ」
閑話休題。
「で、八重子ちゃんに憑いてきた送り狼のことは、どうする?」
八重子と真木は、狼の姿を頭に思い描く。猫の憑き物ならば見知っている。あんな風に大きくて、超常的な姿をしているのだろうか。居るだけで圧倒されるような、見るだけで身が竦むような、野生の美しさを纏った、怪異。
モグラは人差し指を立てて、注意を惹いた。
「送り狼の対処法は簡単だ。目的地に着いたら、履物を片方、投げてやる。そうすると、大人しく去る」
八重子と真木の頭の中で、筋骨隆々な狼の姿が、靴を齧って遊ぶワンコにすり替わった。
「犬じゃん」
「犬だよ」
「俺は区別がつかねえ」
あんなに怖ろしかった足音が、ワンコ。人の使い古しの靴が欲しいだけの、ワンコ! 八重子はすっかり力が抜けてしまった。
「帰ろっかな………。その前にモグラさん、銭湯のお手洗い、貸して下さい」
「どうぞ。電気のスイッチ分かるか?」
「だいじょぶです……」
八重子はふらふらと立ち上がった。その背中を見送る真木に、モグラは、ぬっと耳打ちした。
「八重ちゃんのこと、送ってけよ」
モグラの下世話なことには通常営業である。真木は片手で追い払った。
「いや普通に送るよ。もう時間も遅いし、女の子一人で帰せないよ」
「うんうん真木はそういう男だよ。でもな? 送り狼と言えば別の意味がさ? おっとこれ以上は野暮だな」
「お前まじでそれセクハラだからな。俺にもセクハラだし、八重子ちゃんにも非道いからな」
真木は、怒りを込めて隣のおっさんを睨んだ。憑き物のマギー君が、異変を感じて唸る程の怒りだ。
モグラは慌てて謝るが、髪を掻きむしりながら、尚ものたまった。
「悪かった。本当にすまん。だが一部誤解があるんだ。おっさんは他の言い方を知らねえんだよ……。はっきり訂正させてくれ。俺ァ真木贔屓であると同時に、八重ちゃんの味方だよ。八重ちゃんにとって悪い虫と思うなら、こんな時に呼び出させたりしねえよ。真木は八重ちゃんに非道い事はしねえ。大前提その確信があってこそ、仲の良い二人が勢い付く夜もあったら良いと思っちまうんだよ。俺は古臭い奴だからさあ、相性良い年頃の男女を見れば、立てば漫才、座れば雛、歩く姿はオシドリ夫婦に見えるのよ。真木としてもそういう意味の好き、だろ?」
「そりゃ……でも、相手の気持ちだってあるし」
「ここで相手の気持ちを確かめるために、勢い付く夜ってのがあるんだよ! 送り狼は言葉の綾で。真木と八重らしく、手も繋がない、みたいな結末だとしても、なんか……ちょっと……いつもよりちょっと押せよ! ぶつかっていけ、若者!」
「言いたいことは分かったけど、高い確立で気まずい空気になるだろうが。おっさんのロマンのために俺達を消費すんな」
「青春の内に気まずい思いの一回や二回しておくのも、最高の人生の一ページだろ。いいなあ! 俺そういうの無かったタイプだからさ。羨ましいよ。大丈夫、お前と八重ちゃんなら、辛い結末にはならねえから。ホントホント。二人とも、喧嘩しても仲直りできる人間だから。平和に喧嘩出来るってすげー事だぞ。俺なんか、ヤンデレが勝手に噴火して強制終了だよ。そこいくと、真木と八重ちゃんなら、包丁が出てくる始末にはならないだろうさ。もはや、くそ! こいつら喧嘩しろ! という気持ちですらある」
「拗らせの多弁が、野次り出すと始末に負えないな……。相性が良いと思うなら、本人のペースに任せろよ。妙な野次で圧力掛けんな。モグラは勝手に拗らせ続けてろ」
「真木! もし万が一、何も始まらないままおっさんになっちまったら、今度はお前が青春コンプレックスおじさんになるんだぞ。俺のように」
真木はきっぱりと断った。淹れてくれたお茶の熱さは、湯呑越しに心地良く手を温める。モグラと喋る時間も心地良いと思う。けれど、それとこれとは話が別だ。
「ならねえよ。俺とお前は別の人間だから。俺だって、弟みたいな遊び人を見ると、色々思うところはあるけどさ、でも、俺が拗らせても、『お前と同じ』にはならないから」
モグラは目を瞬かせ、口を半端に開けたり閉じたりしたが、遂には、「そうか」とだけ返した。
物陰から、そっと八重子が顔を覗かせる。
「なんか……盛り上がってたね? 入って大丈夫そう?」
「なっ?! んでも? 大丈夫! とっとと帰ろう、もう遅いし」
真木は、お茶の残りをぐっと呷った。入って来かけた八重子のリュックサックを押して、銭湯玄関に向かう。押された八重子は、概ね何の話題だったか勘付いていて、口の端で笑みを噛み殺している。モグラは、玄関の戸締まりのために、その後ろに着いていく。
ひた、たた、た。ひた、たた、た。
八重子の傍に、再び足音が戻ってきた。言われてみれば、四つ足で歩いているようなリズムである。八重子はもう、恐ろしさは感じない。
「部屋に帰ったら、今履いてる靴を、片方投げれば良いんですよね」
「そう。忘れるなよ」
「送り狼、喜ぶのかな。ちょっと楽しみですらある」
「だね! 真木君、動画撮ってみてよ」
八重子と、真木と、送り狼が、抽斗通りから出て行く。ごちゃついた抽斗通りでは、モグラが見送る背中は、すぐに見えなくなる。
狼が、古くから恐ろしい存在だと語り継がれていたことは、間違いない。人間は、心底恐れて、恐れ続けて、果てにはニホンオオカミを絶滅させた。今となっては存在自体が御伽噺。この二人の大学生ときたら、送り狼と一緒に遊びたがっている。モグラにとっては感慨深いことだ。
送り狼は、旅人が目的地に着くまで追ってくる化け物だ。その『目的地』は、何も自宅に限定されるものではない。宿場、友人宅、観光地、旅人が目的地と定めたならそこがゴールだ。だから八重子がもぐら湯を目的地に定め、この場で履物を投げて、送り狼を帰してしまっても良かった。
けれど、送り狼の獣避けの効果は本物で。現代にも『悪い狼』が居るわけで。モグラは、送り狼が八重子と真木の帰路を守ることを、期待している。
山が街になっても未だ現れる『大神』が、二人の若者を送っていくのを、モグラは銭湯の戸にもたれて、長閑に見送るのだ。
送り狼に、自らの姿を重ねていることを、モグラは気付いていない。
「どっちだろうな?」
モグラがモグラ自身を、しょぼくれた狼と見ているのか、立派な犬と見ているのか。それは本人にも分からない。