来る夏を控えて2
「……シュ?アッシュ!
ネェ、アッシュってばー!!!」
楽譜を手に別の思考に囚われていた自分をスマイルの声が引き戻す。
「え!?
あ…ハイ、すんません…!」
「お前が上の空とは珍しいな。」
ティーカップを手にこちらを見遣る城主がそう呟いた。
面目ねぇっスと返しながら気合いを入れ直す。
しかし片隅に引っかかる
彼女が時折見せる物憂げな表情と…
昨日カフェからの帰り際にリュウタから耳打ちされた言葉。
『…あのさぁ…なんかもえ、ちょい様子が変だから気をつけといた方が良いかも。』
彼女の姿を捕らえたその鋭い眼差しは、自分やスマイルのそれとよく似ていた。
彼は彼女との付き合いも長い。
そして実際目にしたあの様子だ。
忠告はしっかり心に留めて置くが吉だろう。
「…今年ももうすぐ6月か…。」
不意に聴こえてきた小さな一言は誰かに向けての言葉では無い様子だったが思わず顔を上げて声の主を見てしまう。
「え…」
「いや、6月になるのだな…とな。
……いよいよ夏が来るな…」
彼が言いたいのはその先のことなのだろう。
「そ…そうか…ッ!!!!」
しかしそのひと言で彼女の…あの様子の答えが急激に鮮明になった気がして。
「な、ナニ???」
「もうすぐ…夏が来るんスよ!」
「…ダカラ、ユーリがそー言ってんジャン…」
「そうじゃなくて…ッ!!!」
「「???」」
「………来ちまうんスよ…。また。」
気づいてしまえば途端に憂鬱になる。
それはきっと…本人が誰よりも。
「…あ…」
「…そうか、そうだな…」
そしてそれは二人にも伝わった様子だった。
恐らく彼女はまだ無自覚なのだろう。
どちらかと言うと敢えて蓋をしているのかもしれない。
しかし既に自分にもあの様な兆候が見えている事を考えるとこの先かなり無理を重ねることが増えてくるのではないだろうか。
キッチンに立ったままぼんやりとそんな事を考えていると、パタパタと足音が聞こえてきた。
「ごめんなさい…!
うたた寝してて遅くなっちゃいました…!!」
慌てた様子でポールハンガーからエプロンを取り、慣れた手つき身に付ける。
「今夜のお夕飯は何にしますか?」
変わらずパタパタと可愛らしい足音を立ててシンクで手を洗い始めた。
「今日も日中は暖かかったですけど
夜になって急に冷えましたから…
何か温かいお料理もいいですよね。
………あれ…?」
返事が無い事を不思議に思ったのか、彼女はすぐ目の前までやってきて顔を見上げる。
「……アッシュ…お兄ちゃん…??」
どこか不安そうな表情をそのまま映したような声色。
自分の事なんか何一つ大切にしないのに…周囲の事にはこうして息をするように気遣う。
「……姫…」
思わず腕に抱き込んだ。
相も変わらず小さくて華奢なその身体は
少し力を入れたら壊れてしまいそうで。
「どっ、どうしたんですか!?
どこか具合でも…」
「………。」
「…アッシュお兄ちゃん…??」
また今年も夏が来て…そして彼女は苦しむのだろうか…。
この笑顔が曇ってしまうのだろうか。
見ているこちらが張り裂けそうな程に…。
「…姫……辛くはないですか?」
「え??辛い??
いえいえ!元気ですよ???
え、なんで?
どうしてそんな…」
彼女はまだ『知らない』
時折漏れ出ている自分の傷の片鱗に。
『気付いていない』のだ。
「いえ。
辛くないなら、いーんです。
でも姫は直ぐに無茶をして…結果倒れたりするから。
せめて倒れる前にセーブして教えてください。」
「…き、気をつけてはいるんですけど…
加減がよく分からなくって。
まだ大丈夫って思っちゃうんですもん…」
「それがダメなんですよ。
良いですか?
まだ大丈夫…のタイミングで一言教えてください。」
「だ、だって…それだと止められちゃうし…」
「当たり前でしょう。」
「うっ……う〜〜〜…」
「………姫が倒れて苦しんでるのを見るの…
オレ、辛いんスよ。」
「そ、それはその……ごめんなさい…」
「姫の大丈夫は
ガチ大丈夫じゃないんで
しっかり自覚してくれませんか?」
「…と、唐突にお説教ですか?
このタイミングで??」
「………。」
「……もぉ〜〜……
心配性ですね、お兄ちゃんっ。」
「姫が自分自身に対して楽観的過ぎるんです。」
「そんな事ないですよ。」
「あります。」
「お兄ちゃん達が甘いだけです。」
「姫が厳しいだけです。」
「「………。」」
ふと押し黙った腕の中の彼女を覗けば
彼女はふふふっと幼い表情で笑っていた。
「…お兄ちゃん。
心配してくれてありがとう。
…大好きですよっ♡」
「………ッ」
結局のところ、彼女のこの笑顔にはいつも敵わないのだ。
それは自分だけでなくスマイルも、ユーリも同じ。
だからこそ、この笑顔を曇らせたくないと
強く…強く思う。
この夏が穏やかに過ぎればいいと
願わずには居られない。