結局カー先生って誰だったの? おれがまだ自分がハーフだということを自覚する前、ドッズ先生……もとい、エリニュスが数学の先生として教えていた。
メトロポリタン美術館で襲いかかられ、ケイロンから受け取ったアナクルーズモスのおかげで何とか生き延びることが出来たおれは、帰りのバスで見たことも聞いたこともない、カーという女性の先生が同伴の先生だと教えられた。
みんな彼女が数学の先生だと主張していたけど、行きはドッズ先生だったのに、どこからやってきたんだ?
あの時ケイロンはおれがハーフだと自覚させないために頭がおかしくなったと思い込ませようとしてたから聞けなかったけど、今なら分かるんじゃないか?
冬休みにローマ訓練所へ行く前に立ち寄った訓練所でおれはなんとなくそんな過去のことを思い出していた。
ケイロンを探しにポセイドンコテージを出て、居そうなところを見てまわる。
ちょうどアーチェリーの訓練が終わったらしい。
ケイロンは訓練生たちと別れ、本部の方へ向かう所だった。
「ケイロン」
「ああ、パーシー! どうかしたのかい」
「少しだけ話がしたくて。今大丈夫ですか?」
「もちろん、中でゆっくり話そう。おいで」
ケイロンは頭を下げてドアの枠にぶつからないように避けて本部の中へ入っていく。
追うように本部にはいるとシーモアが暖炉の上の方からこちらを見つめて大きくあくびをした。
胴体があれば今頃伸びをしていただろう。
「やあ、シーモア。久しぶり」
少しの間目をしばたたかせると、また寝直すことに決めたらしい。
勝手にどうぞと言わんばかりに目を閉じプピー、と気の抜ける鼻息を鳴らしている。
ケイロンは後ろ足を電動車椅子に収納し、偽装用のスラックスを履いた脚のついたカバーで前を閉じた。
「しまった、先にお茶を準備しておくんだった」
「おれが作ってきますよ」
勝手知ったる人の家、と言うように既に慣れてしまった動きで紅茶を用意しケイロンの座っているテーブルの前に紅茶と常備してあるお菓子を持っていく。
「ありがとうパーシー。それで、話とは?」
ケイロンは紅茶を一口飲み、おれの方を見た。
わざわざこんな改まった状況で聞くほどのことでもないからなんか逆に恥ずかしくなってきた。
「えっと、実はだいぶ前のことなんですけど……おれがヤンシー学園にいた時のこと、覚えてます?」
「懐かしいな、もちろん覚えているとも」
「あの時、美術館でドッズ先生――エリニュスを倒した後、カー先生っていう女性の先生が帰りのバスに一緒に乗ってきたじゃないですか。それ以降も、数学の先生としていましたよね?」
「確かにそんなこともあったな」
ケイロンはしみじみと頷いている。
何となくおれが聞きたいことを察したのだろうが、そのまま話を続けるように促してきた。
「あの、カー先生って何者だったんですか? いきなり数学の先生が準備できる訳じゃないですよね?」
しばらくおれを見つめたあとケイロンはあご髭を撫でながら言った。
「彼女の本名はカーではない」
「と、言うと?」
「私とおなじで不死の命を持つものだ。それに、おそらく君は何度かすでに彼女に会っているはずだ」
不死の命を持つもので、何度かすでに会っている?
冷や汗が背筋を伝った。
何となくあの視線に覚えがある人物に心当たりがあったからだ。
普段は明るく元気がいい先生だったけれど怒ると怖い先生だった記憶がある。
鋭く全てを見通しているかのようなあの目、まるで宿敵の息子を見るようなあの目は……。
「女神アテナ?」
「よく分かったな、パーシー」
ケイロンは目を見開いて本当に驚いていたようだった。
正体が分かると何となくあのおれに対する当たりの強さが理解できてしまった。
ドッズ先生ほど露骨にナンシーをひいきしていたわけじゃないけど、おれが授業の内容を理解できていないと嫌味が毎回一つ二つ飛んできた。
そして……ドッズ先生と違って、ちゃんとおれが分かるまで噛み砕いた教え方をしてくれていた。
何かちょっとした問題を起こしても罰として消しゴムかけを長時間させることもなかった。
そう考えると問題児に対してはずいぶん優しい対応だったかもしれない。
「その、あの時アテナはおれがポセイドンの息子だって知ってたんですか?」
「いや、それは無いはず……と言いたいところだが、彼女は君も知ってのとおり知恵の女神だ。少なくとも私は君が訓練所に来てからポセイドンの子である印を見てはじめて知ったが、彼女がもし気付いていたとしたら……それは君が父親から譲り受けた特徴がそっくりだったからかもしれない」
この黒い髪と海のような緑色の目と反抗的で問題を起こしそうな顔つき?
確かにおれと父さんに共通している。
知恵の女神アテナならきっと気付いていたに違いない。
それでもおれのことを父さんが認めるまで知らないフリをしていたのは予言に関わる子どもである可能性があったから?
理由は分からないけれど、当初の疑問であったカー先生が誰なのかと言う点においては解決したので、これ以上ケイロンに聞いても分かることはないだろう。
「ありがとうございます」
ソファから立ち上がるとケイロンが口を開いた。
「あの時はすまなかった。ちゃんと教えることが出来たらよかったんだが……もう君も知っているように、神々は開示できる情報を制限している。君が神の血を引いているからここよりもいい場所に案内できると正直に言えたら君を傷つけることもなかっただろうが、私は言葉を間違えてしまった」
まだブラナー先生だった頃の言葉が蘇る。
『つまり、その……ここは君がいるべき所じゃない』
『いや、いや、そうじゃないんだ。私が言いたかったのは……君はふつうの生徒じゃない。だからといってーー』
ケイロンが謝ることはひとつもない。
あの時、ケイロンはちゃんと伝えようとしてくれていた。
それをおれがひねくれていたからちゃんと受け止められなかっただけだ。
大好きな先生に自分の存在を否定されたみたいに思えて悲しくて、自分がみじめでいたたまれなかったから最後まで聞かず足早に離れてしまった。
もうちょっと言葉を変えてくれてもいいじゃないかとか、時と場所を考えてくれたっていいじゃないかとか思ったこともあるけど、きっとケイロンはあのタイミングでないといけないと思ったから言ったんだろう。
昔の自分の気持ちを思い出して口の中に苦い味が広がった。
「おれの方こそすみません。もっとちゃんとあなたの言葉を最後まで聞いてたら、あの時グローバーや母さんを危険な目に合わせなかったかも」
「それは違う。君が自分を責めるべきことではない。それにもし私の言葉を最後まで聞いたとしても、あの時の君には分からなかったはずだ。生まれてからずっと人間として暮らしてきた者が、急に君は特別な力を持った存在だと言われてすぐに信じられるわけが無いのだから」
ケイロンはおれを気づかってそういってくれてるのだろう。
「過去のことを蒸し返してしまってすみません。教えてくれてありがとうございました」
「いや、ずっと謝りたかったが何度もタイミングを逃してしまっていたんだ。君と話しが出来てよかった」
「おれも聞けてよかったです」
ケイロンは前よりも柔らかい笑みを浮かべ頷いた。
その後は少しだけ雑談をして、紅茶を飲み干しお菓子もいくつか貰い本部から出た。
ポセイドンコテージに戻ると、見覚えがある、だけど普段だったら絶対にここにいないはずの人物が部屋の真ん中に立っていた。
「……アテナ様?」
おれの呼びかけに振り向いたアテナは以前会った時と同じように鋭い眼差しでおれを見据えた。
「こんにちはペルセウス・ジャクソン。あなた方の話を聞きました」
「ですよね」
じゃなきゃこのタイミングでこんな所にアテナが来るはずがない。
「あの、ケイロンからの頼みでヤンシー学園にいらっしゃってたと思うんですけど、あなたはあの時、おれが父さんの息子だって気づいてたんですか?」
「一目見たときにポセイドンとそっくりだと思いはしましたが確信はしていませんでした。しかしあなたをからかっていたあの女の子――私がひいきしていると思わせなければいけなかった――ナンシー・ボボフィットが水に掴まれ引きずり込まれた、という話を聞いた時に、あなたがポセイドンの息子だと確信しました」
驚いた。
アテナはナンシーを本気でひいきしていたわけではないらしい。
ドッズ先生がひいきしていたからつじつまを合わせるために演じていたのか?
その割には結構冷たい視線をぶつけられてたけど。
「えっと、なんでケイロンに話していなかったんです?」
「もし先にあなたがポセイドンの息子だということをケイロンに知らせていたらどうなったと思いますか? 当時のゼウスは雷撃を盗まれ常にピリピリしていました。ポセイドンの息子という言葉が耳に入るや否や、すぐさまあなたを殺すために誰かを送り込んだでしょう。もしゼウスに気づかれなかったとしても、新しく来たハーフが初めからポセイドンの子どもだと分かっていたら、彼らは一線を引いて接していたでしょう。あなたは訓練所に馴染むこともなく孤独に過ごしていたはずです」
その言葉にドキリとした。
おれがポセイドンの子どもだとわかった途端、それまで親切にしてくれていた訓練生たちがみんな腫れ物を触るように扱うか、避けるようになったのを思い出して口の中がカラカラになる。
「たしかに……。でも、あなたにはただのハーフの一人が……それも、ポセイドンの子どもがどんな目に遭っても問題ないはずですよね?」
おれを見るアテナの目元が少しだけ和らいだ気がした。
「まだ誤解されているかもしれませんが、私は基本的には無実の子どもを危険に晒したり、無駄に傷つけて楽しんだりなどしないのです」
アレスやヘルメスなど愚かな男たちはそういったいたずらを楽しんでますが、とぼやくアテナに困惑が隠せなかった。
「じゃあ……なんでおれに対してそんなに当たりが強いんです?」
まるで好意的に扱って欲しいと言っているようで自分の言葉が恥ずかしくなってきた。
アテナは小さく首を横に振り、ため息をついて話を続ける。
「あなたがポセイドンの息子でありながら私の娘と仲良くしているのはまだ許していませんが、それ以上にあなたを警戒していたのは大予言のことがあったからです」
クロノスが率いる軍と戦ったあの日……ビッグスリーの子どもが十六歳を迎えると起こるとされていた予言のことか。
あの予言からもう四年も経っているなんてびっくりだ。
「ビッグスリーの子どもがオリンポスの未来を左右すると言われていたのですから、危険因子を排除しておけば予言は先延ばしになるはず、という可能性を捨てきれなかったのです。しかし……あなたは敢えて予言の子どもになることを選びましたね」
「ええ、まあ……」
「あなたはタレイアのようにハンター隊に入ることは出来ずとも、ハデスの子どもたちがいたロータスカジノホテルなどに身を隠すなり、戦争を避けるためや父のそばにいたいからなど様々な理由をつけて父親に頼んで神にしてもらうなどの手段もあったはずです」
そんなこと考えたこともなかった。
それに、あんなに迷惑をかけておいて、神にしてもらえるなんてありえるわけが無いと思っていたし。
「なぜ予言のいう子どもになることを選んだのですか? 私はそれがずっと気になっていました。今が質問するのに最適なタイミングだと思います」
「なぜって……あの時タレイアがアルテミスのおかげでハンター隊に入れて、予言から外れて安全に過ごせることが素直に嬉しかったから」
アテナはそれだけの理由で? と言いたそうに片方の眉を吊り上げた。
「それに、おれがもしあの時逃げたり死んだりしたら、その後に予言の餌食になるのはハデスの息子であるニコになってたかもしれないからです。あの時ニコは姉のビアンカが死んでしまったことで辛かっただろうし、おれは約束を守れなかったのに予言なんていう重荷をこれ以上ニコに押し付けたくなかったからああするしかないと思ったんです」
理解できたのかよく分からない表情でアテナはおれをしばらく見つめ、またため息をついた。
「結局は誰かのため、ということですね」
「いいえ……あれは自分のためのような気もします」
「どういうことです?」
少し言葉につまる。
こういったことを言う時、だいたい今までの経験上理解できないと言われてきたから言ったところで、と思ってしまう。
アテナは辛抱強くおれが話し始めるのを待っている。
「その、自分の免罪符にしていたのかも知れません。ビアンカを守れなかったから、自分自身にお前は悪くないんだと言い訳するためにニコを守ろうとしてたのかも」
相手には良いように言って、実際は自分のために行動していたなんて、なんてひどいやつなんだろう。
過去の自分に嫌悪感が募る。
「あなたにも自分のために行動する理由があったのですね」
「そりゃ、まあ。ていうか、おれの行動なんてどれも自分のためのものみたいなものですよ。家族や友人が苦しんだり傷ついたりしている姿をおれが見たくないから、そのためにしてるだけです」
本当に自分勝手だ。
「……もしかしたらあなたは自分のことを利己的だと思っているかも知れませんが、誰かを思って自分を犠牲にする行動は充分に利他的です。それをできる者はなかなかいません。そしてそれは優しさとして相手に伝わっているはずです」
……ん? もしかしておれ、励まされてるのか?
「私はあなたの致命的欠点が大切な者への忠誠心だと以前話したことがありますが、あなたはその欠点ゆえに大勢の仲間たちを惹きつけ、団結させる力があります。それは私たち神々には無いものといってもいいかもしれません」
神様がそんなことを言うなんてはじめてきいた。
少なくともおれの知ってる神々は、例え自分に非があったとしても認めずに自分の意見を押し通すような神様がほとんど。
一部例外もいるけれど、まさかアテナがこんなことを言うなんて。
思わずアテナをじっと見つめれば、居心地が悪そうに腕を組んだ。
「信じられないかもしれませんが、これは本心です。神々……特に私たちオリンポスの神々は力が強く、人間たちを消えてしまっても『代えがきくもの』と思っている節があります。そしてそれぞれが自分の力が誰よりも強いと思っている、もしくは相手を上手く操作できると思っている。とても団結には程遠いのです」
確かに常に何かしらの権利を巡って言い争っている神々が、仲良く肩を抱いて一緒に歌ったりありがとうやすまないなどの感謝や謝罪の言葉を言い合っている姿など想像もつかない。
むしろそんな姿を見たらおれはショック死する可能性がある。
本当はそうであって欲しいとも思うけれど、無理だろうと諦めているからかもしれない。
「その、アポロンは……人間として一年を過ごす間に変わることが出来ました。そしておそらく色んな視点から物事を見ることが出来るあなたがそれをできないわけが無いとおれは思います。全員が変わることは無理でも、誰か一人が『こうなれたらいい』と気づけたなら、少しずつ変わっていったらいいんじゃないでしょうか? あなた達には人間たちと違って時間がありますし」
クロノス達との戦争が終わったあとのヘルメスとの会話を思い出す。
ヘルメスはどう思ったんだろうか?
おれはヘルメスにもアテナにも、神々も変われると思うと言ったけれど、何千年と生きてきた彼らがそんなすぐに変われるとは思ってはいない。
いつかおれたちが死んだもっと後にもしかしたら変われるかもしれない。
その時におれのいった言葉の意味を分かってくれると良いよな。
すでに変わるためのきっかけはあるんだから、あとはそれに気づけるかどうかだけだろう。
水面に広がる波紋のように、アポロンの変化にほかの神々が気づいてつられて変わって行くのが理想だけど、ゼウスは変わりそうにないような気もする。
アテナは何も言わず、いろいろと思案しているようだ。
知恵の女神らしく何か啓蒙みたいなことを言われるかもしれない。
「そうですね。まだ先になるとは思いますが、今は様子見と行きましょう。変わることによって不利なことが出てこないとも言えませんので」
うーん、前向きに検討しますって感じ。
アテナはそれ以上聞きたいことも無いのかすっきりした顔をしていた。
お悩み解決に協力できたのなら何よりだ。
「あ、今さらですけど、数学を教えてくださってありがとうございました」
「素直に感謝できる姿勢は良いですね。それに、あの時はケイロンから急ぎの要請でしたし、学ぼうとする者に教えるのは嫌いじゃないもの」
アテナが笑って答える。
初めて普通に笑っているアテナを見た気がするけど、こうしてみるとアナベスそっくりだ。
「用も済んだので私は帰ります。これからも大学の勉学に励んであなたの父よりも優れていると私に証明して見せてください。場合によっては……娘との結婚も許します」
「けっ、結婚?」
確かにいずれはそうできたらと思っているけどその話題は早過ぎないか?
思わず声が裏返ったおれをからかうような表情でアテナは笑った。
本心かおちゃめなのかは分からないけれど、おれから見たアテナの印象は昔より全然良く思えた。
「それではペルセウス・ジャクソン、ごきげんよう」
「ど、どうも」
まだドギマギしているおれをよそに別れの言葉を告げ、少しのそよ風を残してアテナは姿を消した。
おれもごきげんようって言った方がよかったか?
……アテナの言葉が嘘でないなら、母親公認でアナベスと結婚出来る可能性も無いことはないらしい。
おれの頭を悩ませる予言も今はないし、観念して今は勉強に励んで認めてもらえるように頑張るしかなさそうだ。